何故死んでしまったの 祥一郎の生きた証

私、けいは2015年12月28日、最愛のパートナーである祥一郎を突然喪いました。 このブログは、彼の「生きた証を残したい。」という生前の希望を綴ったものです。 そして、ゲイの死別という経験を可能な限り見つめて行きます。 #ゲイ  #死別  #孤独

2016年12月

穏やかだった一周忌

BlogPaint


祥一郎・・・・・・・

一周忌は無事に済ませることができたよ。

いつもいらっしゃってくれる、女性の在家の僧、Oさんに来てもらってお経をあげてもらった。

今回は厄除けの御札までもらったよ。

Oさんがね、お前の仏壇に供えているコップの水に小さい泡がたくさんついているのを見て、

「祥一郎さんが自分は此処に居るよと仰ってますね。これも合図のひとつですよ。」

と言っていたよ。おっちゃんも薄々そうじゃないかと思っていたんだけど、やっぱりそうみたいだね。

その内ボコボコッと水が沸騰するように合図を送れるようになるかもしれないね。

それとね、祥一郎は今グループソウル(類魂霊)の元で勉強している話をしたら、仏教の世界でもそうらしくて、やはりあちらではこの世の血縁よりももっと強い絆で結ばれた魂の世界があるようだね。

お前がそこで穏やかに、楽しく勉強している姿を想像すると、おっちゃんも頑張らなきゃと思うよ。


他に来てくれた人はね、

去年のあの日、茫然自失して頭が真っ白になった私を、歩くのもやっとのような状態の私を、お前が旅立った日から荼毘に付した日まで一緒に居て支えてくれて、部屋の掃除や遺品整理まで手伝ってくれたPさん。

そして遠くに居たのに病院まで駆け付けてくれて、その後悲しみと喪失感で自分も死ぬことばかりを考えていた私に何かと声をかけてくれ、酒を飲み交わし、しょっちゅう家にも招待してくれるKさん。

LINEでなにかと励ましてくれて、私が仕事に行き詰っている時に別の仕事を紹介しようとしてくれた
Hさん。

皆生きている時のお前の事は殆ど知らない人達だけれど、まるでそう感じさせないような雰囲気でお前の為に集まってくれたよ。

もう遅いけど、本当にもっとおっちゃんの大事な友人達にお前を見せておけばよかったと思った。

お前の好きだった牡蠣フライ、韓国風海苔巻き、おでん等をつつきながら、全体的には楽しい雰囲気で
一周忌を過ごすことが出来た。

それとね、今回初めて来てくれたYさん。
おっちゃんが何かに縋りつきたくて探し出した、ゲイの死別者の団体の「ドント・ウォーリー」の人だよ。
このYさんが今、おっちゃんのブログを通じて知り合った同じゲイの死別者の方の為に東奔西走してくれている人だよ。
わざわざご自分の会社の忘年会を調整してまで来てくれたんだ。有り難いね。

面白かったのは、最後まで居てくれたPさんとKさんと、そのYさんが会話していたんだけど、YさんはPさんとKさんのことをまるっきりゲイだと思っていたんだって。
これにはおっちゃん大笑いしてしまったよ。

PさんもKさんもゲイに対して偏見など微塵も無くて、ごく普通に会話していたものだからYさん、「普通にゲイだと思ってました。」と言っていたよ。

いやあPさんもKさんももうおっちゃんとの付き合いもそれなりに長いので、偏見がまったく無いどころか、ゲイの人にもゲイに見えるほど自然体だったんだろうね。

人と人との付き合いって面白い物だと思った。虚心に何の蟠りも無く付き合っていると、初めて紹介した人にもそれが伝染するんだね。

何かね、今後また新たな人間関係ができるとしたら、その付き合い方のヒントを貰ったような気がしたよ。人間関係ってやっぱり身構えると駄目なんだね。ごく自然体にならないとね。

そうそう、お前と何年もメールでやりとりしていた京都のYKさんにLINEでメールを送ったんだ。「きょうは祥一郎の命日です。どうか手を合わせてやってください。」ってね。
そしたらその直後にYKさんから郵便が届いたんだ。ちゃんと覚えていてくれたんだね。開けてみると、ボンタン飴の箱に入った線香だったよ。ウィットに富んだ面白い物を送ってくれたよ。
ひょうきんなお前にぴったりだよね。
YKさん、「今でも祥さんは、けいさんの傍に居ますよ。」って言ってくれたよ。


こうして一周忌は概ね穏やかな雰囲気で終ったよ。

きっと今頃お前は、来てくれた人のところへ行ってお礼参りしてるかな。

Yさんはね、私と初めて会った時からお前の気配を感じていたんだって。ちょっと羨ましかった。


一周忌は生きている人間が自分達の為にすることだっていうけど、でもまあこれで一区切りがついたらいいなと思ってる。

お前への愛はまったく変らないし、悲しみや孤独はこれからも襲ってくるだろうけど、少しずつ前向きにお前と一緒に生きていけたらいいなと思うよ。

さあ祥一郎、一緒に勉強してもっとお互いが感じられるようになろうね。


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いつか青空を一緒に見上げる為に

青空



あの日、一年前のきょう、祥一郎は焼かれて煙になって空に昇って行った。

冬の抜けるような青空。

真っ暗闇な帳が降りた私の心を嘲笑うかのような、済みきった青空だった。

一緒に寄り添ってくれた友人には「これで、灰色の空で冷たい雨でも降っていたら、私はもっと沈んでいたかもしれない。」

と言いつつも、実は一方ではこの青い空を憎々しげに見上げていたものだ。

(なぜこんなに空が美しいの?祥一郎の死をまるで祝福しているようじゃないか。今の私には相応しくない・・・・。)
と思いながら。

あの日から私は青空が嫌いになった。

(お前のパートナーが死のうがどうしようが、自然は気ままに、有るべき姿で移ろっていくんだよ。)

そう言っているような青空が嫌いになった。

祥一郎を荼毘に伏している煙は、ゆらゆらとまっすぐ天に昇っていった。それは青空の中、あまりにもはっきりと私の目に焼き付いた。

涙にくれている私を置き去りにして。

私はあの時、もう祥一郎の存在は何もかも遠いものになってしまったのだと思っていた。

肉体も、心も、もう私の手の届かないところへいってしまったのだと。


しかしあれから一年経った今、あの日あの時の想いを抱いていた私は変った。

あの登って行く煙は、単に祥一郎が肉体を脱ぎ捨てた合図だったのだと思うようになった。

祥一郎は魂となってまだ私の傍に居る。

あちらの世界で魂の勉強をしながら、私の想いに呼応してすぐに飛んできてくれる。

そして私を見守り、励まし、私が窮地に陥れば手を差し伸べて助けてくれる。

そう信じるようになった。

現段階ではメッセージは何度か受け取ったけれど、まだ自分だけで祥一郎の存在を感じることはできていない。

しかしいつかそういう日が訪れると信じている。

私は信じる事を選んだのだ。

そしてその選択は間違っていないという祥一郎からの想念をミディアムさんを通じて知ることになった。
同時に「おっちゃん、うちを信じていて。きっと感じられるようになるから。」とメッセージを添えられていた。

きっといつか私は青空を、笑みを浮かべて見上げることができるようになるだろう。

傍で寄り添う祥一郎を感じながら、ふたりで澄んだ空を清々しい気持ちで見上げる時がくるだろう。



祥一郎・・・・・・・

一周忌は無事に済ませたよ。

おまえはずっと傍で友人達と語らうおっちゃんの姿を見ていたんだろう?

おっちゃん自分自身の為にやったことだけれど、これで一区切りつけなきゃね。

そして来年からはもっと二人の絆が強まるように、色々やっていくからね。

あの青い空が大好きになれるように・・・・・・・・・・・。


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再渇   祥一郎 突然の死

祥一郎 縮小版


本日は祥一郎の一周忌でした。
あの日を忘れない為に、一年前のあの日の日記を再渇します。

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読者の皆様、はじめまして。

私けいはこの度、20数年苦楽を共にした相棒を突然、あまりに突然悲惨な形で亡くしてしまいました。彼の名は祥一郎と言います。

12月中ごろから下血が始まり、本人はイボ痔だと言っていて、以前にもあったからその内治ると言っていました。痔の薬を塗布し、やり過ごしていました。

しかし20日頃から今度は腹部の張りが見られ、高熱が出るようになりました。

それでも本人は大丈夫、今に治るからと言っていました。

下血は止まらず、パンツが汚れるのでオムツを買い、熱さましも買い、痔でも座れるクッションも買い、痛み止めも買い、なんとかやり過ごそうとしましたが、それでも症状が治まりません。ときおり酷い寒気や震えも見られるようになりました。

これはやはおかしいと思い、私はなんとか無料か定額で受診できる算段を模索しました。何分にもふたり食べていくのがやっとで、私にも彼の診療費を出す余裕が無く、保険証は会社のものなのでそれを貸すわけにもいかず。

27日に病院のソーシャルワーカーにも相談し、とにかく生活保護の医療扶助を受けるように動いて、病院としては来た患者を断るわけにはいかないので受診して、お金のことはその後相談しましょうとのことでした。

私は更に、住んでいる地区の共産党の議員に生活保護の医療扶助受給に協力してほしいと相談をもちかけ、その場で28日の午前中に福祉課に一緒に行きましょうとの言質を頂きました。

思えばその二日くらい前、珍しく祥一郎が「おっちゃん、手を握って。」と言ってきました。

なにを今更と思い、「さすがに弱気になったの?大丈夫、おっちゃんがなんとかするから。病院行けるようにするから。」といって軽く彼の手を握ってやりました。彼は少し涙ぐんでいました。

祥一郎は28日前夜から変なしゃっくりが止まらず、寝室でも少量嘔吐していました。本人は「昨日食べたチョコレートを吐いちゃった。」といい自分で処理してました。

そして当日です。

私も殆ど心配で寝られず、午前中に議員と福祉課に行って、その後祥一郎を近所の病院に連れて行く算段でした。

しかし早朝7時前ごろ、祥一郎は起き出してきましたが、台所でドスンという大きな音、そして悲鳴のような叫び声のような声が聞こえ、駆け付けると仰向けに倒れた祥一郎が目に入り、抱き起そうとしましたが、突然の大量吐血。

私の膝の上で大量吐血しました。とにかく血を吐き出さそうとして私は祥一郎を横向けにし、背中をタッピングしました。しかし目の焦点は合っていず、呼吸もしていません。私はあわてて介護職の現場で習った心臓マッサージを行いました。マウスtoマウスも行いましたが、意識は戻らず、119番しました。その後もマッサージを行いましたが、祥一郎は戻って来ません。

救急隊員が到着、処置を施しましたが、それでも意識は戻りません。

そして祥一郎と私は救急車の車上の人となり、病院に到着、引き続き救急処置をおこなっていましたが、無情にも医師から、「残念ながら、心臓の鼓動は戻りませんでした。」との死刑宣告を受けました。

皮肉にも、生活保護受給に関して必要になる、千葉在住の彼の実父、弟の連絡先を前夜に詳しく聞いていたメモが手元にあり、迅速に連絡をとることが出来ました。

その時点で私は何が起こったのか、これは現実なのか、動物園の熊のように冷たい病院の廊下を行き来し、ミクシイで知り合った友人に事の顛末を連絡しました。彼は遠い横浜からかけつけてくれ、もうひとり都内の友人も駆け付けてくれました。どちらも祥一郎のことは殆ど知りません。


時間が経過し、やっと実父と弟が到着。

初めて会う得体のしれない私を見て、困惑しているようでしたが、そうも言っておられrず、私は経過を説明しました。

その前に刑事に、事件性の有無の調査でふたりが同性愛の繋がりで有ったことは説明したので、それは二人とも知っていたのでしょう。

二人とも嘆き悲しむどころか、淡々としていました。

私にはあずかり知らぬ肉親の関係性があったのでしょう。しかしその後の言葉に耳を疑いました。


「葬式はせず、明日火葬します。」

なんと、厳粛なお別れをしないというのです。

しかし肉親の言う事、私には猛然と反発することも出来ず、諦めるしか有りませんでした。


その後実父と弟と連絡先を交換し、翌日の火葬場には私も行くことになりました。

祥一郎の死に顔を見ても未だ信じられぬ私は、後ろ髪を引かれる想いで、病院を後にしました。その間ずっと横浜の友人は付き添ってくれました。その後二日間一緒に居てくれました。血だらけになった部屋の片づけも、遺品整理も手伝ってくれました。

翌日の火葬の場。

実父と弟から聞いた話では、祥一郎の死の原因は上部消化管出血によるショック死との事でした。

なぜ出血したのかは、消化管のどこかに潰瘍かガンがあったのではないか、詳しくは解剖しないとわからないとのこと。肉親に希望によって解剖は行わないことになっていました。私の意志など関係ありません。

そして火葬終了後、なんとか分骨をさせてもらえました。

弟さん曰く、「ひょっとしたら兄はその辺で野垂れ死にしたかもしれないのに、私たち肉親よりもずっと長く過ごしたけいさんに看取られて、兄もよかったと思います。」

弟さんも何か感じるところが有ったのでしょう。その言葉で少し救われた気がしました。

火葬前にも、実父が泣きじゃくっている私の背中をさすってくれていました。


その後横浜の友人と4人で、私と祥一郎の過ごした部屋へ戻り、遺品を肉親に手渡しました。

ゆっくり話す間もなく、実父と弟は帰って行きました。

遺品整理しても祥一郎の写真がほとんど見つからず、唯一最近の写真で免許証の写真を引き伸ばして、私にも送ってくれるとのことでした。

あまりのもあっけなく終わった、祥一郎とのお別れの儀式。

その後、私はがらんとした部屋で、まだまだ残った祥一郎の痕跡に囲まれながら、悲しみと苦しみと慟哭に苛まれています。

かたっぱしから友人知人に連絡し、私をひとりにしないでほしいと喚き散らしました。

それに呼応した優しい友人たちは、遠くは栃木からを始め都内からも何人も私の部屋を訪ねてくれました。電話やメールも頂いています。

それに縋って私はまだ辛うじて、心身を保っています。

思えば私は年末の21日から29日まで、1月にある介護福祉士の勉強のため長期休暇をとっていました。

それに合わせるかのように祥一郎は状態を悪化させ、まさに受診の当日の早朝に逝ってしまったわけです。

そしてあんなに嫌がっていた、肉親に知られることになる生活保護受給の件もやっと観念し、連絡先を私に教えて、その後逝ってしまったのです。

これは何かの筋書きなのかと思われてなりません。死神の意志に沿った筋書き。

もっと早くに私が動いていれば、もっと早くにあの子の状態を把握していれば、何ヶ月か前に血圧が高いと言って目眩がすると言っていた時点で動いていれば………悔やんでも悔やみきれるものではありません。

どうしても私の見通しが甘かったと思えてなりません。また、祥一郎本人も今まで体調が悪くなっても医者にはかからず、なんとかやり過ごしてきたという過去があったのかもしれません。

様々なことが遅すぎ、そしてあと一歩遅かった.。

祥一郎はもう居ません。



20数年の私たちの紛れも無い家族の歴史は、一瞬で閉ざされました。

お互いがお互いしか居ませんでした。

どんな時も、私がどんな境遇に陥っても祥一郎はいつも傍らに居ました。

祥一郎は逝ってしまいました。

残された私は、未曾有の悲しみと苦しみと慙愧の念と共に生きて行かねばなりません。

時間は過ぎて行きます。

いつか祥一郎の死が記憶になるまでどれほどかかるのか。それを考えながら私は茫然としています。


巨大な悲しみのために、あまり涙を流すことも出来ないでいます。

いっそ狂ってしまえばいいとも思っています。彼の記憶が無くなるように。

私は、私は、もう祥一郎無しでは生きていけないかもしれません。

運命や神という概念が本当にあるのなら、私はそれを呪います。

ひっそりと都会の片隅で肩を寄り添い、貧しくつつましく助け合って生きてきた祥一郎と私に、何の咎があったのでしょう。

誰か教えてください。誰か………


祥一郎、祥一郎、祥一郎、祥一郎、祥一郎、祥一郎、祥一郎、祥一郎…………

どこに行ったの?早く帰っておいで。

はやく病院に行かなきゃ。後のことはおっちゃんにまかしとき。

そしてはやく治って、またいつもの暮らしに戻ろう。

二人はいつも一緒だよ……いつも一緒だよ………


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最後の一日

ムギワラギク

ムギワラギク   花言葉:永遠の記憶


一年前のきょう、祥一郎はまだ生きていた。

私が手を伸ばせば触れられる、温もりを感じられる距離に居た。

この一年間がまるで幻のようにふっと消え去り、つい昨日のように感じられるあの日。

私はかなり悪化した祥一郎の状態を見かねて、やっと重い腰を上げて生活保護の医療扶助だけでもなんとか受けられないか相談する為に、地域の議員に相談に行ったのだった。

そして翌日の午前中に区役所に一緒に行く約束を取り付け、その足で近くの総合病院のソーシャルワーカーに相談に行った。

ワーカーは最初、「いくら病院と言えど、お金は要りませんからどうぞとは言えないのです。」と言った杓子定規な説明しかしなかったが、私はそれでも食いさがり、

「今から言う事は、病院のソーシャルワーカーという私の立場の言葉とは思わずに聞いてください。
医師は、たとえお金が無くとも目の前の怪我や病気で苦しんでいる人の治療を放棄することはできないのです。正当な理由が無い限り、患者を断ることはできないのです。」

という言質をもらったのだった。

「医療費、治療費が払えずにそのままになって取りっぱぐれることはままある話で、お金の無い人から無理矢理とることは実際問題として不可能なケースがあります。後は生活保護でなんとかするという方法を取るとかのケースもありますね。」という話までいった。

私はこれで、たとえ生活保護が受けられなくとも、取り合えず治療は受けられると安堵し、それを早く祥一郎に伝えようと部屋に急いで戻ったのだった。

祥一郎は相変らず体調悪く、一向に快方の気配が見えずにいた。

起き出していつものようにパソコンをいじくるものの長続きせず、熱も続き、寝室で横になっている時間が多くなっていた。

私は議員とソーシャルワーカーの話を伝え、生活保護受給にあたって必要になる、あんなに渋っていた父親と弟の連絡先をやっと祥一郎から手に入れたのだった。

「よし、これでなんとかなる。」と思った私は、これ以上祥一郎の苦しみは大きくなることは無いと信じこみ、入院することになっても近所の病院だからいつでも様子を見に行けるくらいにしか思っていなかった。

しかしこの日の午後あたりから祥一郎は変なしゃっくりが止まらなくなり、食事もお椀半分のお粥さえ全部食べられなくなっていた。

私は翌日の議員と区役所に行く約束に備えて早目に床についたが、隣で寝ている祥一郎のしゃっくりが気になって、ネットで調べたしゃっくりを止める方法なぞをあいつに試すように言った。

「みぞおちを押さえて息を止めるとか、両耳の穴に指をしばらく突っ込んでいると止まるらしいよ。」などと悠長なことを言っていた。

祥一郎は私の言った通りにしていたが、それでもしゃっくりは止まらなかった。そのせいでなかなかふたりとも寝つけずにいた。

今から思えばもう祥一郎の消化管かどこかから出血していて、それが原因でしゃっくりが止まらなかったのだろう。

普通のしゃっくりではないのだから、おまじないのような方法で止まるわけは無かったのだ。

あの祥一郎のしゃっくりの音は、翌朝にやってくる悲劇への秒読みの音だった。

その後、寝ている間に昼間に食べたチョコレートを吐いたと言って、祥一郎は汚れたシーツを自分で拭いていた。

あれもチョコレートなどではなく、大量吐血の前兆だったのだろう。

私の心はここにきてやっとざわつき始め、祥一郎に「大丈夫?大丈夫?」と声をかけたが、あいつは「・・・・・しゃっくりが出るという事は、胃とか腸が動き始めたのかな?」などと希望的なことを言っていた。
しかし内心では(自分はひょっとしてもう駄目なのかもしれない。長くないのかもしれない。)と感じていた可能性が高い。

それでも祥一郎は再度寝ようとして、「明日病院に行けると思ったら安心した。」と自分に言い聞かせるように呟いてから目を閉じたのだった。

こうして、祥一郎と私が過ごす最後の夜は過ぎて行ったのだ。

もし一日早くこの日に病院に行っていればどうなっていただろう?
ひょっとして祥一郎は助かったかもしれない。いやもしそうでなくとも、あと何日か何週間か、もしかしたら何ヶ月か祥一郎はまだ生きていたかもしれない。

或いはこの日が二人の最後の日だと知っていれば、どんな過ごし方をしただろう。
私は祥一郎を一日中抱きしめ、泣きながら「なんでこんなことに・・・・・祥一郎死なないで。」といって泣き喚いていただろうか。片時も傍を離れず、弱って行く祥一郎にお粥を食べさせてやっただろうか。風呂に入れてやり、身体を洗ってやっただろうか。

そんな「もしも」を際限なく考えてしまう。

しかしそうなるとは夢にも思わず、2015年12月27日は、20数年苦労を共にし、いつも傍らに居た最愛の人、たったひとりの家族である祥一郎と過ごした最後の一日になったのだった。


明日の朝以降は、(嗚呼、去年のこの日は祥一郎は逝ってしまってもう居なかったのだな・・。)と寂しく思う事になる。

去年の今頃はまだ祥一郎は生きていたなあ、とはもう思えなくなる。

それが私の心にどんな変化をもたらすのか、今の段階では分からない。
しかしこれだけは言える。

この最後の日の祥一郎の姿を、私と交わした言葉を、温もりを、一生胸に刻み込んで忘れはしない。

祥一郎よ・・・・・

明日は一周忌だ。

きょうはその為におっちゃん一生懸命料理を作るよ。

お前のこの世での姿はもう見ることは出来ないけれど、傍に居るのならそんなおっちゃんの姿を見ていておくれ。

一年経ってもお前への想いは何も変わらないおっちゃんの姿を。


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永遠に続く私と祥一郎の課題

チューリップ

チューリップ  花言葉:永遠の愛

私はこのブログに何度か、自分と肉親や親類縁者との関係性の薄さについて書いた。

そして血のつながりなど信じない、血は水より薄いという人生観も書いた。

現在もその考えは基本的には変っていないし、その人生観に添った生き方をしている。

実は先日、私のガイドスピリット(指導霊)に、「私の人生の課題とは何なのでしょうか。」

という質問をしてみた。

返ってきた答えは、

「この世で確かな物と言われている、肉親、血縁だから愛する、遺伝子が繋がっているから愛さねばならないといったことを盲信せず、全くの赤の他人でも愛することが出来る、何処の誰とでも愛し愛されることができるということを学ぶことが貴方の人生のカリキュラムなのです。」

というものだった。

まさに私が56年かけて培ってきた人生観とほぼ同じ内容の答えが返ってきたことに、やや驚いたことを記憶している。

指導霊はこうも伝えてきた。

「貴方は自分のカリキュラムについてご存知です。」とも。

そう、私は今まで生きてきた結果、結論としてそういう人生観に自分で辿り着いたのだ。

というか、私のような人生を幼い頃から送っていれば、自ずとそういう価値観を抱くようになるとは思うが。

それにしても、指導霊からの答えが私の人生観と一致したということは、「嗚呼私は間違っていなかった、少なくとも私自身の人生の中では。」と思わせるに充分なことだ。

そう、私は自分の力ではどうしようもないこと、例えば両親の不仲や離婚、父親からのDV、親戚の家にたらい回しにされたことや従兄弟達からの苛め、兄弟達と離れ離れにされて自然と縁遠くなったこと等々、肉親とは?血縁とは?と考えざるを得ない事を散々、嫌と言うほど、これでもかというほど経験してきた。

そして自分でものを考え、決断できる年齢になってからは自分で肉親血縁から距離を置き、連絡も殆どしなかった。

父親になどは寧ろ憎しみさえ抱いていた。(それは今も続いているのかもしれない。)

そして漠然とこれからの人生、死ぬまで独りで生きていくのだ、そうするしかないのだと結論付け、その通りの人生を送ってきた。

勿論その過程で恋愛も経験し、この人なら長く愛していけるかもしれないと思ったことも有る。

しかしそんな恋愛もすぐに終り、改めて「どうせ独りで生きて行くことに決めたんだから、もう恋愛などせずに遊びで済まそう。」と、格好よく言えば孤高の人を気取ってきた面もある。(自分の恋愛下手は今は横においておく。)

そしてやがて祥一郎が目の前に現れる。

偶然か必然か、共に暮らすようになり、最初はその内また別れることになるさと思っていたところが、いつのまにか5年、10年、15年と寄り添いながら暮らすことになった。

私にとっては初めての経験、初めてのパターンだったが、最初の頃の恋だの愛だのという時期を過ぎても、私の心は祥一郎から離れることは無かった。勿論祥一郎自身もそうだっただろう。

やがて私と祥一郎は紛れも無く家族になった。

私は祥一郎との関係性がどう変化しようとも、「こいつとずっと居たい。こいつを何とかして、少しでも良い思いをさせてやりたい。」と思うようになった。

そう、ここに至って私は祥一郎との生活の中で、まったくの赤の他人でもこれだけ愛を感じる、愛を注げるということを学んだのだ。

そして学ばせてくれた祥一郎は旅立って行った。

私の人生の課題はこれで終わったのだろうか、それともまだ同じ課題が残っていて、ひょっとしてまた誰か何処かに居る赤の他人を同じように愛することになるのだろうか(年齢的にそれはちょっと考えにくいが。)、それはわからない。

そうだ!
書いていて思った。私の課題はまだ終わってはいない。

祥一郎は形を変えて生きているのだから。私の傍にいつでも居てくれるのだから。

祥一郎もあの時言った。「これからうちとおっちゃんの絆がもっと強くなるよ。これからだよ、おっちゃん。」と言ってきた。

その言葉を信じるならば、私の課題はやはり終ってはいないのだ。

そしてそれは、私があちらの世界へ行っても終りはしない。

指導霊が教えてくれた、そして自分でもそれに辿り着いた私の人生の課題は、祥一郎への愛とともに続くのだ。

祥一郎よ・・・・

おっちゃんとお前の愛は永遠の課題であり、永遠に続くんだよ。

おっちゃんはそう思うと、とてもとても嬉しくなる。

そう思わないかい?祥一郎・・・。


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