何故死んでしまったの 祥一郎の生きた証

私、けいは2015年12月28日、最愛のパートナーである祥一郎を突然喪いました。 このブログは、彼の「生きた証を残したい。」という生前の希望を綴ったものです。 そして、ゲイの死別という経験を可能な限り見つめて行きます。 #ゲイ  #死別  #孤独

2017年01月

ふたり分の足跡(再掲)




足跡が・・・・・

足跡が二人分、まったく違う方向から段々と近づいてくる。

そして、ある日同じ場所に二人分の足跡が向かい合っている。

その二人分の足跡は、行ったり来たりしながら、ときおり少し離れながらも、やがて同じ方向を向き、寄り添うようになっていく。

真っ直ぐの道を二人の足跡は続いて行く。

でも、ときおり曲がり路、坂道、砂利道、ぬかるんだ道などがあるが、それでもそのふたり分の足跡は寄り添いながら続いて行く。


やがて、一人分の足跡が遅れ始める。段々と足取りが重くなっていく。

もう一人分の足跡が、その周りをぐるぐる回り、あちこちの方向に少し行っては、また元の場所に戻ってくる。

そしてとうとう、一人分の足跡はもうまったく新しい足跡をつけなくなった。

もう一人の足跡は、やはりその場を小さくぐるぐる回り、動いてはいるようだが、先には進まない。

もう新しく増えなくなった足跡の周囲を、いつまでもよろけながらもう一人の足跡が同じ場所に増えて行くだけ。

まだ動いている足跡は、少し先に進もうとするが、半歩行っては増えなくなった足跡の元へまた戻ってくる。

足跡の周囲には、濡れたような跡も頻繁に見える。

うずくまっているような跡もある。

引き摺って歩いたような跡もある。

道はまだ続いている。

でも辛うじてまだ動いている足跡は、増えなくなった一人分の足跡の周囲から離れることはない。

いつまでもいつまでもほぼ同じ場所で、そこで立ちすくんでいるような、地団太を踏んでいるような跡が増えていくだけ。


祥一郎と私のつけてきた人生の足跡は、空から見たらこう見えるのかもしれない。

祥一郎・・・

そこからはお前と私の人生の足跡は、どう見えるんだい?

おっちゃんは、これからどの方向に、どの道に足跡をつけていったらいいんだろう・・・・・・・。


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信じる心と不安

クリスマスローズ

クリスマスローズ  花言葉:不安を取り除いて


祥一郎・・・・・。

寒いよ。

一年で一番寒い時期だ。

そちらはどうだい?そちらはいつも春のような陽気で、季節が無いとも聞くけど、お前はそこで楽しく暮らしているのかな?

勉強は進んでいるのかい?

そうだよ、この世に居るおっちゃんにお前の存在を知らしめる方法の勉強だよ。

お前は段々輝いてきているから、勉強は進んでいると聞いたけれど、それならおっちゃんも頑張らなきゃね。

月一回は必ずお世話になっているミディアムさん主宰のワークショップへ通って、霊界のシステムの勉強や、瞑想とか他の人の大事な人からのメッセージを受け取る練習とかをしているよ。

おっちゃん、エネルギーが良くも悪くも強いらしくて、ペアを組んだ人が手をかざすと熱いんだって。

そのエネルギーが良い方向に働くと良いんだけどね。それこそお前を感じることに効果があれば、勉強している甲斐があるもの。

お前がこの世から旅立ったことは悲しくて寂しくて気が狂いそうになる時もあるけど、そのままではおっちゃんは生きていけないからね。

お前がいつも傍に居る事を知れば、何とか生きていける、そう思って始めた勉強はこれからも続けるつもりだよ。

そう、死生観を変えるんだ。
お前は旅立ったけれど、居なくなってなんかいない。いつもおっちゃんの傍に居て、色々と働きかけてくれている。
それが確信に変った時、おっちゃんは知ることになるんだ。死と生はすぐ隣に有って、お前はちょっと離れたところに住んでいるだけだって。

お前は今おっちゃんが住んでいる部屋から向かいのアパートへ移ったけど、いつでも逢える距離に居るようなものだって。

そう確信できる日をおっちゃんはただひたすら待っているんだ。


でも・・・・でもね、ひとこと言わせてほしい。いや、ひとことじゃ済まないかもしれないけど。

死生観を変えて死は生の延長でしかないと信じる事を選んだのは確かだけれど、ある一面では強がっているんだよ。

だってお前の姿、体温、息づかい、気配、それがもう見えない、感じられないことはやっぱりとても悲しいし寂しいんだ。

お前は肉体を脱ぎ捨てた。でもおっちゃんはまだ肉体を纏っている。

この世に居る限りその違いは大きい。

心が肉体に影響することもあるし、その逆もあるからね。

本来は魂の存在である人間が纏っている肉体は、ただの器だという境地にはまだ達していないんだよ。

だからこの手でこの身体でお前のことを感じられないのは、絶えずおっちゃんの涙を誘う。

お前との絆や、今まで勉強してきたことを信じないわけじゃない。

でもそれなりのレベルまでまだ達していないおっちゃんはときどき無性に不安になる。

きっとそんな風に、心が揺れ動く時期がしばらく続くんだろうな。

そしてきょうも酒を煽って、祥一郎!!って何度も叫びながら悲しみと孤独を思い切り吐き出すおっちゃんが居る。

叶うのなら・・・・目をつぶればいつも今のお前の姿が見え、耳を澄ませばお前の声が聞こえ、夢を見ればいつもお前と過ごした時間を覚えて帰れる・・・いつかそんなレベルまで行きたいものだよ。

信じなきゃ・・・・信じることを、確信を得ることを選んだんだから・・・・・・・・。

それまでまだウロウロするおっちゃんをどうか見守り、力を貸しておくれ、祥一郎よ・・・・。


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祥一郎への愛と父への憎しみ

カリブラコア

カリブラコア   花言葉:穏やかな心


このところ、もう10年以上も前に亡くなった父のことをよく思い出す。

このブログにも度々書いている、あの暴虐でどうしようもない人間だった父をだ。

何故だろうと考えてみた。

そしてひとつ自分なりに出した答えが、私にとって最も愛した人である祥一郎、そして最も憎んだであろう実の父親、ふたりとももうこの世の人では無くなった、その対比として思い出してしまうのかもしれないということだ。

できれば父のことなど思い出したくも無いのだが、最も愛した人である祥一郎が、いつまでも憎しみに捉われている私を望むだろうかと考えてみることがある。

私がなぜそれほど父を憎むのか、それはこのブログで随所に書いてきたので今更言うまい。

しかし、あの父の顔を思い出す度、まだ心がざわついてしまう自分が居る。

憎しみという拘りをまだ捨ててはいない自分が居るのだ。

憎しみに捉われていれば、人は容易に闇に陥ることは理解しているつもりだ。

闇に落ちてしまえば、魂の存在となった祥一郎がどんどん浄化し愛そのものの存在になっていくことに、私は着いていけない、見失ってしまうかもしれない。

それは何としても避けたい、私があちらの世界へ行って祥一郎を見失ってしまい、一緒に過ごせないのならば、死ぬことさえ喜びでは無くなってしまう。

それ故に父のことを思い出し、どうしたら私の心に許しが生まれるのかを考えているのだ。


スピリチュアルな面から考察すると、父と私は過去生の人生において敵同士だった可能性があるとのこと。
別々の国に分かれ、闘った経緯があるのだとも言われた。

そんな父と私が何故現世において、あろうことか最も近い血縁関係になったのか。

それはそういう関係にあることで、私の魂がどう憎しみを乗り越えて行くか、それがカリキュラムとして組み込まれていたという。

故に憎しみの対象である父と私は、親子という関係に落としこまれたという。

残念ながら私は、父がまだ存命中にそのカリキュラムを達成したとは言えない。

亡くなった今でもそのカリキュラムは終ってはいない。

私のガイドによると、故人となった父であっても現世に生きる私が彼を思い出す時、心が平静でいられる、そんな日が訪れた時初めてこのカリキュラムを達成したことになるのだそうだ。

単的に言うと、父はわざわざ憎まれ役を引き受け、私の魂の修行のために家族になったわけだ。

しかしながら現世にまだ生きている私がそんなカラクリを聞いたところで、「はい、そうですか。ならば父を憎むのは止めます。」と簡単になれるのなら苦労はしない。

お互いが魂の頃に決めた、もう記憶に無いことを知らされても、未熟な私がおいそれと課題を達成できるわけがない。

そこに祥一郎の存在が絡んでくる。

愚かなことかもしれないが、旅立ってからこんなにも彼を愛していたのかと気付かされた私。

真実の愛が確かに私には有った、今でも有るのだと気付いた。

そしてその愛は彼が死んでからもますます深くなり、絆は太くなっていくことを私は信じているし、感じようとしている。

祥一郎は旅立ってからまだ間もないのに、一生懸命この世の私に愛を送ってきている。

それに応える為には、私は父への憎しみという愛に生きる為の障害を取り除かなければならないのだ。

なにやら非常に観念的で、理想主義的な話になってしまったが、少なくとも祥一郎の肉体が失われたこの世で、憎しみを抱いて行きていくのははっきり言ってお荷物ではある。

できればそんなものは捨て去りたいものだ。

この世で生きる限り、煩悩や負の感情と無縁ではいられないことは確かだが、少しでも減じることは出来るのだろう。

自分にとって最も大事な宝物である祥一郎への愛、それによって父への憎しみが帳消しになれば、私は愛を前面に出して生きていけるのかもしれない。
そして、憎しみの消し方を覚えた私は、他の憎しみをも小さくできるかもしれない。


図らずも祥一郎の死によって、愛と憎しみという究極の相反する概念を考えることになったのは、これもいずれ私が通る道だったからなのだろうか。


祥一郎よ・・・・・・

お前への愛によって、いつか父を思い出しても心がささくれ立たないようになるまで協力しておくれ。

おっちゃんはお前の存在が憎しみに捉われた心によって遠くなるのは嫌だ。

だからおっちゃんは頑張ってみようと思うんだ。

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漂う人生、握りしめた手

アングレカム

アングレカム   花言葉:いつまでも貴方と一緒

数週間前に、ベランダに青々とした雑草のような葉が生えているのをみつけた。

タンポポのような葉の形をしていたその雑草を私はそのままにしておいた。

この部屋で育ってくれる生命がどこか愛おしくて、そのままにしておいた。

いずれ小さな可愛い花でも咲かせてくれたらいいなと思い、少し楽しみにしていた。

ところがきょうベランダを掃除してみたら、その雑草はたまたまそこに降り積もった埃やゴミから芽を出しただけらしく、根はもうそれ以上育ってはいなかった。

ゴミと共に簡単にアスファルトのベランダから剥がれ落ち、一時の生命を終えたその雑草。

私はやはり心底ナーバスになっているのだろうか、その雑草と自分の人生を重ね合わせていた。

幼い頃から自分の身の置き所が定まらず、成人してからも転々としてきた私の半生。

漠然と自分が根を張れる場所はいったい何処なのだろうと、探し続けてきたような気がする。


祥一郎と出逢ってからはどうだっただろう。

やっと傍に居てくれる、何があっても傍にいてくれる人を見つけたのに、それでもふたり揃って根を張れる場所はとうとう探し出すことはできなかった。

冷たい強風に晒されながら、フラフラと雑草のようなふたりは、握りしめたお互いの手が離れそうになりながらも、それでもまた握り直してふわりふわりとこの世を漂っていた。


このまま漂っていたら、いつかふたりが根を張れる場所に偶然でも舞い降りることができたかもしれない。

そしてその場所を終の棲家として、支え合いながら一緒に枯れていくこともできたかもしれない。

いや、もしそれが叶わぬことであっても、ふたりなら、ふたり一緒なら風に流され続けるような人生でも心細くなかったし寂しくもなかった。

このままタンポポの種のように漂い続ける人生でも、根を張り花を咲かせることができなくとも、ふたり一緒なら枯れていくこともそれほど怖くはなかった。


その絡み合ったように握りしめていたふたりの手は、とうとう離れてしまった。

祥一郎という雑草の種は、何処か見知らぬ世界へ、私の手の届かない世界へ旅立って行った。

遺された私という種は、相変らずフラフラとこの世を彷徨い続けている。

以前と違っているのは、風が吹く度に更に不安定さを増し、右往左往させられているような私の姿だ。

離れてしまった片方の手をもう一度手繰り寄せようとするように、私は腕を伸ばし、手を開き続けている。

この世での生々流転の私の人生に散々付き合ってくれた祥一郎は、どこか安住の地をみつけたのだろうか。

そしてキョロキョロしながらずっと彼を探し続けて彷徨っている私を、どこかで見ているだろうか。

「おっちゃん、ここだよ。僕はここに居るから。いつかまた手を握り合えるから。」と声をかけ、手を伸ばしてくれているだろうか。


私はそんな祥一郎の姿を声を、目を凝らし、耳を澄ませながら探し続けている。

ただひとつ願うのは、どの世界でもいい、再び祥一郎の手を握り締めることだけだ。

それが叶うのなら、風に流されようが根を張れずにいようが構わない。

あいつと一緒ならそれ以外何も望まない。

それだけでいいんだ、それだけで・・・・・・・・。

今度こそ握りしめたあいつの手を絶対離すものかと、誓う・・・・・。


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見て見ぬふりをしてきたツケ

カンパニュラ

カンパニュラ    花言葉:後悔


「身長と体重が良いバランスになってきましたね。何かやったのですか?」

きょう職場で行われた健康診断の際、医師から言われた言葉だ。

その医師からの質問に私は、

「いえ、別に何も・・・。ただ痩せた原因は自分で分かっていますから。」とだけ答えた。

それ以上その医師は何も質問すること無く、「はい、いいですよ。」とおざなりに次の人を呼んだ。

たかが職場の健康診断の、一職員の深い事情まで忖度する必要など無いとばかりに。


健康診断を受けながら私は思っていた。

(・・・祥一郎に一度でもいい、まともな健康診断くらい受けさせてやりたかったな・・・。)と。


あいつはときおり呟いていた。

「うちの人生、どうせこんなもんや。」「うち、まともな仕事もしてへんし、お金もあらへんし、この先どうなるんやろな・・・・。」と。

そんな呟きは、あいつが肝炎で入院、そしてHIV陽性の発覚から以降増えていたような気もする。

普段はそんな素振りは見せず、能天気で無邪気な性格そのままのあいつで居たけれど。


私は自分で分かってはいたのだ。

祥一郎はいつ深刻な体調悪化に見舞われてもおかしくない、いつ厄介な病魔に侵されてもおかしくない、いわば爆弾を抱えているようなものだと。

しかし普段の生活、日々の暮らしにかまけてそんな重要なことを頭の隅に追いやり、見た目は健康そうに見える祥一郎と過ごしながら私は、(なんとかなる。いずれなんとかなる。)と思い込んでいた、いや思いこもうとしていた。


あいつは自分の境遇を省みて、どこか無意識的に私に助けを求めていたのかもしれない。

それがたまに呟くあの悲観的な言葉になって口から出たのかもしれない。

いずれ何とかなると思い込んでいた私は、そんな祥一郎の救いを求める声をまともに聞いてやれなかった。

あいつが意識していようが無意識でいようが助けを求めていることに気付いていれば、私は万難を排してあいつの健康維持にもう少し力を注げたのかもしれない。


あまりに身近に居た、あまりに当然のように傍に居た祥一郎。

そんな環境に甘えて、私は一番大事なことを後回しにしてしまった。

自分を癒してくれる、甘えさせてくれる、孤独から守ってくれる祥一郎の助けを求める声を気付いていながら、それを後回しにしてきた。


結果論・・・・と人は言うかもしれない。

しかし例え食うものに困ったとしても、私は祥一郎の健康維持を第一に考えなければならなかった。

あちらの世界に行ってしまった祥一郎は言う。

「おっちゃんは本当に色々してくれた。うちの為に力を注いでくれた。」と。

しかし祥一郎の死を考える時、いっそのこと「おっちゃん、うちはもっと丈夫な身体でいたかった・・・・・。」と言ってくれた方が、私はこの自分の不甲斐なさを思い知り、あいつに襟を正して謝ることができただろうに。

あまりに身近に居てくれたから、重要なことに見て見ぬふりをしてしまった長い年月を思う時、私は歯が全部折れるほど食いしばるような思いがするのだ。

悔しい・・・・・・。

結末はどうあろうと、やれることをやってやれなかったことが口惜しい。


祥一郎、ごめんね。

おっちゃんのこの後悔は、まだまだ消えやしない。

魂となったお前が優しければ優しいほど、おっちゃんの後悔は大きくなっていくんだ。

自分で自分をぶん殴ってやりたくなるんだ。


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