12月25日(火) 曇り

 今日は雨こそ降らなかったものの、どんよりと雲が広がり、すっきりしない一日だった。風も、午前中は穏やかだったが、午後からは強く吹いた。
 明日も曇りの予報。

 さて、ここしばらく、県内最古の名刹と称される丈六寺を目指して徳島市の渋野を散策していたことをお伝えしてきましたが、それも今回で最後、いよいよ、丈六寺に到着です。
 丈六寺山門。
 こちらは、丈六寺の山門です。“山門”って、本に載っていたのでそのまま使いましたが、よく考えるとここは平地、山の門て言うのはおかしいのかもしれません。…と、思って調べてみると、山門は寺院の正門または寺院を指し、寺院がもともと山にあったことに由来することが分かりました。ほんの数秒で分かりましたよ。ホント、気になったら、基本ググれ、ですね(笑
 …と、こちらの丈六寺の山門、見ると「曹洞宗」と書かれていますよ。「曹洞宗」と言えば、鎌倉仏教の道元ですよ。…それ以上のことはよく分かりませんよ(汗
 
 ところで、この丈六寺、県内最古のお寺らしいのですが、一体いつ位に建てられたものなのでしょうか。徳島県には、平安時代初期に活躍した空海が開いた、四国八十八ヶ所のお寺も数多くありますから、それより昔になるはずです。
 …と、境内にある案内板を見ると、白鳳元年(672)に建てられたお寺だということが分かりました。なるほど、これは古いです。最古というのもうなずけます。
 丈六寺の紅葉。
 山門をくぐると、カエデですね。カエデが色付き…、いや、もう少し色あせている位でしょうか。…ということは、紅葉の時期に来れば、色鮮やかな赤色が楽しめるということですね。




 丈六寺本堂。
 中は結構広く、建物が幾つかありましたが、とりあえず、本堂だけお参りすることにしました。先程の、山門もそうですが、こちらの本堂は国の重要文化財に指定されているそうです。




 丈六寺の血天井。
 それから、ここ丈六寺の本堂の通路には“血天井”と呼ばれる、天井に戦国時代の武士の血が残った部分があります。それが、この画像です。ボクにはちょっと分かりにくかったので、本を見て、見当を付けて撮りました。
 ちょっとうろ覚えなのですが、説明板により、この血天井の由来を、紹介します。

 戦国時代、四国平定を目指して阿波に攻め入った、土佐の長宗我部元親は、阿波の富岡城の武将の抵抗にあい、なかなか攻め落とせなかった。そこで、長宗我部元親は和談を申し出る。四国を平定した際は、その阿波の武将に勝浦郡の支配権と富岡城を保障する、と。そして、和談の成立を祝って、長宗我部は阿波の武将を接待した。場所はここ、丈六寺。宴もたけなわ、酔い醒ましに縁側に出ていた、阿波の武将を、潜んでいた土佐側の武士達が切りつけて殺してしまった。その時の、血がその恨みと共に縁側の板に染み込み、決して消えることはなかった。後に、その板が天井板に使われ、現在の“血天井”になった。

 …ということです。さぞかし無念だったことでしょう。供養になるかどうか分かりませんが、手を合わせてその場を後にしました。
 しかし、丈六寺、その歴史の重さが感じられるような、何かそんな雰囲気が漂うお寺でした。

 ランキングに参加しています。よろしければ、クリック、お願いします!→クリック!
にほんブログ村 日記ブログへ