2007年07月28日

 展覧会の感想を思いつつままに。ただし、内覧会で思ったこととその後ギャラリートークを聞き、図録を見て思ったことも書き加えているので、ちょっと錯綜気味。「近いうち」が一ヶ月経ってしまった。

展覧会タイトルの「幻のやきもの」について

 おそらく「知る人ぞ知る」という意味で使っていると思う。もっともκ疹討幻ならば、幻でないのは兵庫県では「丹波焼」と「出石焼」くらいだろうというのが正直なところで、素朴な感想。
 そういえば、うちの地元にもκ疹討汎瑛裕焼の技術を導入した「東山焼」というのもあり、ギャラリートークの導入部でも触れられいたのだが、地元の人が知らないという点ではおそらくκ疹討汎営度かそれ以上かもしれない。また、工芸史や骨董市場ではあまり話題にのぼらない近世に成立した窯場がいくつもあるが、それは陶芸美術館の守備範囲というより、市町史やガテン系のテーマかも知れない。

 κ疹討詫靄修文世なをすると「本歌取り」の焼物なので、本歌である中国陶磁や技術の元となった京焼も含めて展示されてあったのが良かった。
 ただ、何故ここまで中国風のものを作らなければならないかという根本の部分がなかなか実感できない。異国趣味や文人趣味(そういった面があるのを否定するわけではない)と簡単に片づけて良いものかと思う(※)。
 最近、江戸後期の知識人の評伝を読み、江戸時代に関するイメージがかなり変わってきた。少なくとも賀集κ燭糴κ疹討鮖藩僂靴審層にとっては「漢詩文」が乱暴な言い方をすれば必須の教養だっと思われ、教科書では触れられないが19世紀は「漢詩文で飯が食えて(学問で身分が超越でき)、漢詩文の出版点数もそれまで以上に増えた」時代だったようである。とすれば食器を選ぶのも趣味の問題というよりも「このデザインしかあり得ない」というところだったのかも知れない。
(※:最近、国文学の世界では従来の「仮名文」・「漢字仮名混じり文」に加えて、「日本人による漢文」も含め「古典日本語」として考え直す方向にあるらしい。明治時代の国文学者たちが「文学史という枠組み」あるいは「近代国民国家」の要請で『源氏物語』を自らも疑問に思いつつ「日本文学史上の最高傑作」に推戴するエピソードは笑える。)

κ疹討棒茶器が少ないというのも、面白いと思った点。
 18世紀半ばから売茶翁の活動に伴って、京・大坂の文人・墨客に煎茶が流行する。その中で、上田秋成・村瀬栲亭は茶器の図を描いて、初代清水六兵衛に茶器を作らせ、それが大いに流布した。後年、秋成が六兵衛から茶器を求めた際、六兵衛は秋成のお陰で大儲けができたと茶器の代金を受けとらなかった。このエピソードにあるように、京焼と煎茶器の結びつきは強く、κ審窯前後に活躍した京焼の名工達の作品にも煎茶器は多い。
 そのような中で、京焼の影響が極めて強いκ疹討棒茶器が少ないというのは「技術」の問題ではなく、「経済」の問題なのかもしれない。また、18世紀前半に長崎から伝えられた卓袱料理(大鉢に盛り、小皿・小鉢に取り分ける)が江戸では話題にならなかったものの、関西では好評のうちに18世紀を通じて供されていたようだから、その流れは19世紀も続き、エキゾチックな料理にはエキゾチックな器が用いられたのかもというのが素人の無責任な想像である。
と書いたあとで、展覧会図録を眺めているとこんな事は既に指摘されていた。
 博物館で同様の展示が行われた場合、「用途」に関する情報も会場に掲示されるのだろうが、美術館ではなかなかそうもいかないのだろう。

下絵帳
 色絵花鳥図盃洗(作品番号:52)と色絵花鳥図台鉢(作品番号:53)の解説で、花鳥のデザインがほぼ同じで「下絵帳」を用いて絵付けが行われたとあった。でも、色絵の作品というのはこの2作品に限らず、「下絵帳」に基づいて絵付けが行われているのではないのかというのが素朴な感想である。少し時代は新しく一般的な事例とは言えないかも知れないが、三田焼では結構単純な赤絵系のものも含め、下絵がある。

 下絵に関して、面白いと思ったのは色絵秋草文皿5客組(作品番号:13)である。下端中央に描かれた岩は彩色に若干の違いはあるものの、ほぼ同形同大に思えた(※)。また、秋草の種類や並び順は一緒なのだが、個々の秋草については形状にかなりの違いがある。ただ、その中でも形状の似通ったものもあるようなので、複数の下絵があるのか、コアとなる下絵を元にして、その場その場で複数の絵付け職人がアレンジを施したと考えるのかで、工房の規模も変わってくる。κ疹討砲浪竺帳や製作に関わる文書類は残っていないのだろうか?(※:ただし、改めて図録で確認すると会場で裏返して展示されていたものは岩の形が少し異なっていた。)

 個人的な興味としては、陶器の色絵と絵画の間に何らかの相関関係があるのかどうかが気になる。かって岡氏が仁清の色絵について狩野派絵師の介在を想定していたり、荒川氏が乾山の作品に中国の画譜からデザインを学んだ事を指摘されている。それを前提に置いた上で、色絵のデザインにおいて「狩野派」的な表現から「南蘋派」的なものに変化することがあるのだろうか。最近、肥前の方ではCOE研究で絵画と色絵の関係について研究がされているようなので、興味深い分野である。 

 あと、κ疹討亮容については、κ疹討κ疹討箸靴銅け入れられたのか、それとも京焼の一部として認識されていたのかなどなかなか証明しがたい疑問も生じてくるが、今後は京都からの技術導入を図った他の窯との比較も含めて、徐々に解明されていくことを期待したい。

展覧会内容とは関係のない独り言
 『月刊あいだ』に掲載されたAASアジア研究学会のレビューを読んでいると、タイモン・スクリーチが17・18世紀の東インド会社の目録では交易品の3割以上が京都に出自(Miyacoencis)を持つという発言をしており、文脈から見るとここでいう交易品は陶磁器類の事を指しているようだ。東インド会社の交易品と言えば、どうしても肥前を思い浮かべてしまうのだが、実際のところはどうなるのだろう。なお、スクリーチがコメントした研究発表の一つは陶磁器に表されたオランダと中国における図像や文字情報の融通無碍な流通についてのもの。面白そうなことをやっているなぁ。


(01:16)

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