私の妄想・私の聖域


真実のひかりと共に


カウンター(2004年04月26日より)

2003年12月

目次

12/30 (火) 大学時代
12/29 (月) 今年もあとわずか
12/28 (日) 年賀状
12/27 (土) 想像力
12/26 (金) 幻想
12/25 (木) 「今」という時間
12/24 (水) 今日の雑感
12/23 (火) 期待と痛み
12/22 (月) 今日の雑感
12/21 (日) 怒りを手放すこと
12/20 (土) 「ゆるしのレッスン」を読んで
12/19 (金) 注目
12/18 (木) 人に頼ること
12/17 (水) 期待 そして狂気へ
12/16 (火) 今日の雑感
12/15 (月) 客観的に正しいこと
12/14 (日) 人生の意味
12/13 (土) 精神病
12/12 (金) 疑似体験
12/11 (木) ゆるし
12/10 (水) 「ゆるすということ」を読んで
12/09 (火) 睡眠は回復の兆し
12/08 (月) 電気ショック
12/07 (日) 自由
12/06 (土) 水中毒
12/05 (金) オートノミー
12/04 (木) 死と狂気
12/03 (水) 幻聴は本当に幻か?
12/02 (火) 野村進『救急精神病棟』を読んで
12/01 (月) 成長

大学時代

私は一応大学を卒業している。
大学時代は病気の前兆期・急性期・消耗期だったので
あまり明るい思い出はない。

大学へ入った当初は授業も半分くらいは出て
サークルにも入って仲間と飲みに行ったりカラオケに行ったりした。

大学生活はそれなりに期待していた。
高校の時、国語や倫理政経が好きだったので先生に質問すると
「それは高校のレベルでは問われない。
大学へ行って研究する課題だ。」とよく言われた。
大学へ行けば面白い勉強が出来る。
そう思って大学へ行った。

大学の授業はつまらなかった。
先生の自己満足でしかない授業のような気がした。
サークルもつまらなかった。
しだいに授業にも出ず一人になる時間が多くなっていた。

自分で勉強しようと思った。
疑問に思ったことを本で読んでみる。
自分でその後考えてみる。
それだけのことが楽しく感じた。
自分がとても秀でた存在のような感覚があった。
それは病気のせいでもあるだろう。
自分と議論できるレベルの人はこの大学にはいない。
そんな思い上がりがあった。
成績はそんなによくなかった。
授業に出ずノートも見せて貰わず
自分の独創的な理屈を書いていたのに及第点を取れていたのは
後で考えてみると不思議だと思う。

大学時代の私は嫌なやつだったと思う。
自分以外の存在をどこか馬鹿にしていた。
孤独がそうさせていたのだと思う。
病的な妄想もそれを手伝っていた。

どこかで魂の救いを求めていた。
道無き道を言葉も見つからずただ走っていた。
振り返ってみるとそんな時代だった。

今年もあとわずか

今年もあとわずかですね。

新年から気持ちを一新するのも良いでしょう。

けれども今日はあなたの残りの人生の最初の日なのです。

そんな記念日から何かをはじめてみてはどうですか?

年賀状

今日は年賀状を出してきた。

この病気になる過程で一時期は多かった友達と
連絡を取らなくなっていった。
人を巻き込んではいけないと思い
自然消滅させていった。
それらの人の一部は幻聴となって
たまに会話をしている。

情けない話しだが自分が病気だと公言するのは怖い。
信頼の置ける人にしか話していない。
病気だと話すとしたら私のことを知らない人はまだいい。
ちょっと知っている人に話して失望されたら…。
それどころか同情されたらと思うと話せないのだ。

今年は連絡を取らなくなって久しい友達の一部にも
年賀状を送った。
私のことを覚えているだろうか?
ちゃんと届くことを祈ってます。

想像力

今年は「バカの壁」がはやった。
相手がどれほど有力な証拠をみせようと
はなから聞く耳を持たない人は
説得されないというものだった。

自分は正しいとどこかで思いたがっている人は多いだろう。
どんな悪人と呼ばれる人にもそれなりの論理がある。
自分が正しいということを揺るがす話には
拒否反応を示し「バカの壁」が働く。
自分が必ずしも正しくないことは
ちょっと想像力を豊かにすれば感じることができる。
自分が完璧ではないことはちょっと考えれば気付くだろう。

もう少し想像力を働かせれば
自分は誰かを傷付けることなく
生きていくのは無理だということに気付くだろう。
想像力豊かな人ならば自分が生きているだけで
他の存在に対してとても酷いことをしていると感じるかも知れない。

それを認めたくない人は「バカの壁」が働く。

しかし更にもう少し想像力を働かせてみれば
そんな自分もゆるされていることに気付くはずだ。
そして更にいうならばあなたは深く愛されていることに
感謝するようになるだろう。
当たり前とされていることがどんなに奇跡的なことか
偶然ではない、みえない叡智が全ての存在の奥底に働いていることが。

壁があるせいで世界の素晴らしさを感じることが出来ないことは
とても損をしている。
みんなどこか不完全な存在で
それだからこそお互い許し合うことが必要だ。
自分を正当化してお互いを傷付け合うよりよっぽど賢い。

私は自分が正しいと思う善人より
自分の罪を感じている悪人の方が想像力豊かだと思う。
だからこそ更に想像力を働かせて自分をゆるして欲しい。

そんなに苦しむことはないんだよ。

幻想

人は何かを信じなければ生きていけない。
「これが現実だ」
そう思わなければ精神が狂ってしまう。
たとえどこかがおかしいと感じていても
自分を守るために「これが現実だから仕方がない」
そういってそれ以上の想像力を働かせるのをやめてしまう。
「疑うことは罪である」そういった人がいる。
幻想を幻想だと気付かずに信じ込んでいる人。
ある意味幸せな人だろう。

私は疑ってしまった。
本当に信じられるものを探すために。
この世に生きる意味なんてあるのか。
深い闇の中を歩いている気分だった。
見つけては壊していった。
昔信じていたものの墓標を懐かしむときがあった。
けれど殺したのは自分だった。
人を殺せば殺人だ。
人が信じているものを殺すのは
時には殺人より罪が重いのではないか?

私は感覚まで信じられなくなり
それは幻覚を呼び起こした。
人が信じているものを信じない私は
他人から見れば妄想を抱いている人にみえたことだろう。

信じるものを「強い」ものを精神の限界に至るまで
探そうという意志だけがあった。
いやもう一つ道標があった。
言葉で名付けてはいけない自分の聖域への唯一の手がかりが
心の奥底にあった。
ただなんとなく感じるしかできない。
酷く不確かなようで結局はそれがあったから
探求を続けることが出来た確かなものだった。
それに近づく道は自分だけの道。
自分の進んだあとにだけ道が出来る。
近づくと憂鬱な気分が安らぎへと変化していった。
周りの人から見れば辛そうにみえたという。

そのことは人は妄想と呼ぶだろうが
この世界の種明かしが待っていた。
いつかそのことを詳しく書けたらと思う。

今言えることはそこで私は安らぎのかけらを見つけたということだ。
そして引き返してきた私がいる。
自分が信じられる幻想を見つけただけとも言えるが…。
それはそれで良しとしよう。

「今」という時間

私たちが見ている今は実は過去だということを聞いたことがあります。
何かが起こって目に届くまでほんの少しですが時間が経ちます。
距離が遠いほど昔のことが起こっているのです。

星の光は数百万光年の彼方から届いているといいます。
地球上で見るその星の光は数百万年昔のものです。
でも実際は今はその星は無くなっているかも知れません。

過去なのに今起こっているように見える。
場所によって過去の見え方がちがうということです。
つまり全ての過去が同時に存在していることにならないでしょうか?

それでは「今」というのはどんな瞬間なのでしょうか?
私は全ての物事は全て「今」起こっているのだと聞いたことがあります。
人間の感覚は過去から未来へと一方的に流れるように
感じるように出来ています。
けれども実際は「今」しかないのです。
「今」という瞬間に全てが創られるのです。

未来を創れるのは納得できるかも知れません。
それだけではなく過去も創れるのです。
「今」という瞬間にそのことを選択したのなら。
そんなことを出来るのは神ぐらいしかいないと思われるでしょう。
でも実際にあなたはこの世界を創っています。
あなたが心の奥底で思った通りの世界になっているのです。
ただ上手くいかないと感じるのは心に矛盾を抱えていて
その矛盾の通りに現実になり世界を複雑怪奇なものにしているのです。

あなたはこの世界の創造者なのです。
思い出してください。

私の妄想であり私の聖域の話しでした。

今日の雑感

今日は遊んできて疲れたので短めに。

日記を書いていてとても嬉しいのはメールを貰うことだ。
いつも読んでいますといわれると
たとえ社交辞令であっても日記を書いていて良かったと思う。
ほんの一言でもエネルギーを注入された感じになって
日記を書いていこうと思える。

もちろん見て下さっているだけでも
とてもとてもありがたいと思う。
どうぞこれからもよろしくお願いします。

期待と痛み

「何かが起こって落ち込んだら
痛みの原因はその起こったことではなく
それにかけていた期待である。
そしてこの期待は
いつでも自分で取り消せる」

私は昔から人に期待することは少なかった。
裏切られるのが怖いからという理由もあるが
その人に自分が与えられる最高のものは
自由だと考えているからというのが主な理由だ。
もちろん自分も自由でいたいと思っている。

何かを期待することはその人を縛ることになるし
しばしば争いになるのは期待を裏切られたという
思いからだろう。

自分が何か相手にするときは見返りを求めない。
何かをすること自体が喜びでなければしない。
それで完結している。

それでもたまに人に期待をしてしまうときがある。
心が乱れて怒ってしまうことがある。
その時は期待を取り消してその人への見方を変える。

どちらかといえば人との距離は長めに取っている。
ちょっと冷めた関係とも言えるが
私と感覚が似ている人とはお互いが楽にいられる関係だと思う。
感情を激しくぶつけ合う関係。
そんな関係に憧れはあるが
お互いがそばにいておだやかで心地よい関係が私は好きだ。
傷付けあう関係にはなりたくない。
傷付け合うなら距離を取る。

期待しないことを期待しているのかも知れない。
今思い返してそう思った。
痛みを避けること。それが自分の生き方のような気がする。

上手くまとめられないが
人との関係はこれが正解というものがないから
面白いなと思いました。

今日の雑感

今日はベートーヴェンの第九を聴いてきた。

オーケストラは完成度が高かった。
合唱は市民から参加者を募った素人集団だった。

どちらに感動したかといえば
素人集団の合唱だった。
上手くはないのだが伝わってくるものがあるのだ。
なにか一生懸命さや気迫のようなものだ。

普段の自分が忘れがちなものを
沢山貰ったような気がする。

演奏が終わったあと
「よかったぞ〜!」
と大声で叫んだ人がいた。

私もその人に賛成だ。
よかったと本当に言える日々を送りたいと思った。

ありがとう。

怒りを手放すこと

「怒りにしがみついているのは誰かに投げるために真っ赤に燃えている石炭を
つかむようなもの……………火傷するのは自分自身だ。」

上記のような名言があります。

私は怒るのが駄目だとは思いません。
ただ怒りにしがみつくのは自分の損だということをいいたいのです。

怒りを押さえつけるのは不自然なストレスがかかることがあります。
その時は怒るのも良いでしょう。
賢く自分の好きなことをして忘れたり眠ったりするのも良いでしょう。
自分なりに怒りを表現したあとは
それを手放すのが自分が、けがをしない秘訣です。

怒りにしがみつけばその視点で物事が見え
怒りに近いものが自分に集まってくるように感じます。
それを相手のせいにすれば抜け出せなくなります。
あくまでも自分の視点を変えるのが重要になります。

火傷するのが嫌ならばゆるすことが一番簡単ではないでしょうか?

「ゆるしのレッスン」を読んで

ジェラルド・G・ジャンポルスキー著
「ゆるしのレッスン」を読んだ。
「ゆるすということ」に続いて二冊目だ。
感じたことを書いてみようと思う。

二冊読んで感じたのは読みやすい本だということだ。
理屈ではなく感覚でつかむといい本だと思う。

「ゆるしのレッスン」では神という言葉が頻繁に使われている。
ゆるすということと神はどのようにつながるのだろうか?

神は誰の心の中にでもいる安らぎの源のようなものだ。
信じる信じないではなく誰もが知っている光なのだ。
知らないという人は忘れているだけだ。

肉体が死ねば無になるのだろうか?
私という存在は肉体に仮住まいしているスピリチュアルな存在だ。
つまり本質は愛。しかも滅びることのない愛だ。

愛は誰も裁かない。
つまりゆるすということが神への一番の近道なのだ。

その神との一体感こそが喜びの源であり
人生で体験するべきものである。

上記のようなことを著者はいっていたと思う。
そのための具体的な方法がこの本には書かれていた。

現代社会は悪いことをすれば罰しなければならないと信じる。
しかしそれでは不安を価値の中心においた社会である。
傷つけたものを更に傷つける。
どこまでいけば終わるのだろうか。

傷つけたものをゆるしてあげる。
そして癒してあげて癒されたものが更に別のものを癒す。
終わる必要のない連鎖である。

愛を価値の中心に置けばあなた自身が喜びを感じる。
あなたは不安の連鎖の出発にもなれるし
愛の連鎖の出発にもなれる。
どちらを選びますか?

注目

病気になって常にある感覚は
自分が注目されているというものです。

最近は薄れてきたものの
自分はあっちの世界では有名人ではないか
という思いがあります。

あっちの世界とは私の造語ですが
正常な世界がこっちの世界なら
異常な世界があっちの世界です。

たいていの人はあっちの世界のことは分かりませんが
あっちの世界からはこっちの世界のことが全部分かってしまいます。
大まかにいえばこっちの世界は意識の世界。
あっちの世界は無意識の世界。
あっちの世界の方が広大です。

私の幻聴はあっちの世界からの通信です。
もちろんこれは私の妄想です。

病気の酷いときには髪をかき上げる仕草が
私への合図だと思っていました。
そうやって意識に気が付かれないように
無意識が私に合図を送っているのだと。

あっちの世界からこっちの世界で上に立ってくれと言われていました。
あっちの世界では私はいつの間にか有名になっていたみたいです。
暗号のような情報が幻聴となって聞こえてきました。
どうとでも解釈できる言葉の断片でした。
その時はなにかの啓示ではないかと思っていました。

あっちの世界とは今もつながっています。
そして今も注目されている感覚はあります。
急性期を過ぎた頃には慣れてしまって不快ではありません。
心の奥底の望みなのかは分かりません。
ただ人とのつながりが取り戻せてきている今は
それが薄まってきたような気がします。

人とのつながり。
それが私のこれからのキーワードだと思います。

人に頼ること

幼い頃から人に頼ることが苦手だった。
分からないことも人に尋ねるのがなかなか出来なかったし
何かして貰いたくて頼むことがなかなか言い出せなかった。

仲のよい友達になら多少は頼ったが
自分の問題を全面的に人任せにすることは決してしなかった。
悩み事を相談することは親でも友達でもほとんどなかった。

小学校低学年まではまだ親に甘えることをしたが
姉が不登校になった小学校中学年頃からは
家の中でもあまり親と会話をしなくなっていた。

人を頼らない分、人のせいにすることもなかった。
どちらかというと自分が悪いんだと思い込む内罰的な性格だった。
いつもどこかで罪悪感を感じていた。
自分を成長させるにはその性格も悪い面ばかりではなかったと
今ではそう思える。

まずは自分でやってみる。
その習慣があるのはいいと思う。
どちらかといえばそういう自立した友達が多かった。
頼られることはあっても全面的に私任せにすることはなく
その期待に応えられなくても私のせいにすることはなかった。

私の苦手な人は支配して貰いたがる人だった。
自分で考えることを放棄して人に頼るのを当たり前に考えている人。
第一選択肢が人に頼ることで
それが出来ない事が分かるとやっと自分でする。
結局は自分が嫌いで自信が持てないのだろう。
自分の弱さを盾に取り人のせいにばかりする。
今ではそんな人の気持ちも分かるようになったが
十代の頃はそういう人が近づいてくるとぞっとした。

今は病気を経験して心の弱さを見つめることが出来るようになった。
結局十代の頃の私は自分の心の弱さに直面するのを避けていたのだろう。
今は人に頼る勇気を持てるようになった。
自分の弱さをゆるせるようになった。
自分の弱さを人にみせることが出来るようになった。
病気を経験してよかったことの一つだと思う。

強さとは弱さを心の奥に押し込めることではなく
自分の弱さをゆるしてあげることだと今はそう思っています。

期待 そして狂気へ

中学生の頃だろうか?
周りから期待されているという感覚を持ち始めた。
それはとても嬉しい感覚だった。
期待に応えようとがんばった。
自分が成長していく手応えがあった。
自分の人生でも輝かしいと思える時だった。
しかしとても疲れた。
よく眠ることで補っていた。

高校二年生の後半だろうか?
期待されるのがとても苦痛になってきていた。
精神的にも疲れてきていた。
自分の成長に自信が持てなくなってきていた。
自分の限界を感じてきていた。

そしてある種の疑問が生じてきた。
それまでの自分は周りの期待に応えるよう演じていた。
つまりは道化に過ぎなかったのではないか。
周りもそんな道化に合わせて演じている。
そんな感覚が浮かんできた。

もう休みたいという想いと
本物になりたいという想いが私を襲った。
それは周りが期待する私ではない。

高校三年生になって、演じることをやめた。
自分の向かうべき場所が狂気と呼ばれる場所にあるような直感があった。
人との付き合いも段々と減っていった。
演じることをやめた私は孤独だった。
遠巻きに人が並んで私を観察しているようだった。
近づくことが出来ない人の嘆きが幻聴となって聞こえてきた。
私は異常に気が付いたがどうしても私を誘う狂気の誘惑には克てなかった。
世界が私を中心に歪みはじめた。
誰のせいでもない自分の意志で。

今日の雑感

最近ちょっと忙しかった。
といっても楽しいことが多かったので良いのだが。

昔は自分から楽しみを求めることが
何か悪いことのように感じていた。
好きな人には幸せになって欲しい。
そう思っていた。
しかし私のことを好きだという人がいると
少し戸惑った。
私は幸せになって良いのだろうか?
そんなことが頭をよぎってしまう。

姉が精神的な病気で苦しんでいるのを毎日みていたのもあるだろう。
姉が私のことを酷く羨ましがっているのを知ってその思いが強くなった。

魂の救いを得るためには苦しまなくてはならない。
そういう思い込みがあった。

でも実は苦しむ事じゃなく
自分をゆるしてあげることこそ必要だった。
苦しみを通り抜けてそう思えるようになった。

最近楽しいことが多い。
それを良しとする自分を誉めてあげたいと思う。
私を愛してくれる人のためにも幸せでありたい。
そう思った。

客観的に正しいこと

客観とは存在するのだろうか?
例えば愛という言葉がある。
愛といわれて思い浮かぶことは人それぞれにずれがある。
これが愛だと決めることは出来るだろうか。
また決まった愛を見つけだしたとしてもどうやってそれを証明するのだろうか?
客観とは誰が見てもそう感じることだとしたらある人がちがうことを感じたとき
その人が間違っているのか、客観であるとしていることが間違っているかは
結局判断できない。

私は客観は信じない。あくまで客観「的」に物事を見ることが出来るだけである。

このことは正しい事なんて分からないということにつながる。
不安に思う人もいると思うが全ての問題に当てはまる処方箋はないのだ。
この世に起こることは一つ一つが
今までに起こったことのない新しい出来事なのだ。
一つ一つ解決策を考えて行かなくてはならない。

自分は客観的にみて正しいという人には気をつけた方がいい。
正しいと思い込んでいることで修正するのが難しいのだ。

例えば障害を持つ人に同情するということ。
「かわいそうですね」といわれて傷つく人もいるのだ。
同情するのが当たり前だと思っている人はそれに気が付かない。
不便だけど不幸ではない。
自分を対等にみて欲しい。
こうした思いはある人もいるだろう。
だからといって同情するのが悪くない場合もある。
同情されるのが好きな人もいるからだ。

場面場面によって正しいことはちがってくるのだ。
柔軟性が必要である。
自分が間違っている場合がある。
そのことはいつも念頭に置いておく必要があるのだ。

終わりに
「私のこのような考察も間違っているかも知れない。」
ということを付け加えておきます。

人生の意味

人生の意味を考えていた。

意味なんて無い。

それが結論だった。

その時はショックだった。

しかしだからこそ自由があるんだ。

そう思い返した。

自分で意味を作るのも良いだろう。

ただ生きている。

それでもいいんだ。

そう思ったら心が楽になった。

美しい人生のキャンパスに自分の好きな絵を描いていこう。

これほどの贅沢はないと思う。

ありがとう。

この言葉が心からあふれてきた。

ありがとう。

ありがとう。

精神病

精神病という言葉に疑問を感じる。
精神が病むってどういうことだろう。

反対に精神がいいとはどういう状態かを考えてみる。
悟りを開いたような少数の人しか思い浮かばない。

みんなどこかで精神を病んでいる部分があるのではないか?
それでいて精神病といわれるのを恐れている。
精神病といわれた人を蔑視するのは
自分が精神病ではないことを確認して安心するためではないだろうか。

病んでいるのならそれでもいい。
良い悪いという価値をつけるのが間違っているのではないか。
ありのままに物事を見てありのままに生きていく。
完璧な人なんていない。
完璧でなくても良い。
それが当たり前なんだ。

自分が完璧じゃないことをゆるそう。
他人が完璧じゃないことをゆるそう。
そうしたら世界がちがってみえませんか?

疑似体験

テレビで分裂病の疑似体験をする機械が紹介されていた。
目に映像が見える眼鏡をかけヘッドホンを耳にし
幻視と幻聴の体験をするように出来ていた。
テレビで見る分には幻覚の再現度は低かった。
また『ビューティフルマインド』という映画での
主人公の幻覚は鮮明すぎて違和感があった。

何が足りないのかと考えてみたら
おどろおどろしいまでの不安感や意味不明な奇妙感が
健康な人が作る疑似体験装置では表現し切れてないのだ。

多分幻覚の感じ方は病者の数だけ在ると思う。
しかし圧倒的な不安感・筋が通らない奇妙感抜きでは
病者の体験しているものに迫ることは出来ないだろう。
どこかで筋を通そうとする手法では駄目だ。

私が分裂病の初期症状に近いものを再現できたと思う作品は
芥川龍之介の小説『歯車』だ。
芥川はこの作品を書いたあと死んでいる。
私の幻覚の感じ方とちがうが根底にある不安感が表現できている。
筋のない描写を重んじる手法が功を奏したのであろう。

なにも病者の世界を正確に知る必要はない。
知らないからこそ手をひくことも出来るだろう。
ただ辛いのだろうという一定の理解をして貰えばありがたい。
それは病者でなくとも嬉しいだろう。

関心を持ってもらえる人がいる。
それが孤独になりがちな病者には一番大事なのかも知れない。

ゆるし

ゆるすのは誰でも出来る。
ただ憎しみを手放せばいいのだ。
とても簡単だ。

しかしとても難しいという人もいる。
ゆるせばまた自分が傷つくと考える。
ゆるさないことはその人の防御壁なのだ。
しかしその防御壁は自分の不安の出口まで閉じてしまう。
ゆるさないことは不安を信じるということだ。
不安が出ていかないから更に不安になる。
不安だから防御壁を頑丈にする。
悪循環だ。

不安は不安を与えた人を傷つけても治らない。
それどころか不安の思考を持つ人が多くなるだけだ。
それなのにもっと傷つけなければ救われないと思ってしまう。
それは錯誤だ。

防御壁を無くせばいいのだ。
不安を与えた人を癒せばいいのだ。
それがゆるしだ。

これから何度も不安に捕まることがあるだろう。
そのたびにゆるそう。
ゆるしの連鎖のはじまりとなろう。
不安の連鎖があるのならゆるしの連鎖もあるはずだ。
ゆるせば自分の心の奥には安らぎがいつもあったことに気付くだろう。
宇宙の根源には愛があるのだから。

愛と不安どちらを信じますか?

「ゆるすということ」を読んで

ジェラルド・G・ジャンポルスキー著
「ゆるすということ」を読んだ。
感じたことを書いてみようと思う。

いつも被害者のように振る舞い他人を許せない人がいる。
そして自分が上手くいかないことを周りや状況のせいにしている人がいる。
本当は怖いのだと思う。
幸せになれないのは自分の価値観のせいだと認めることが。
恐怖が恐怖をよぶ。誰か自分以外の敵を作っておかないと不安なのだ。
恐怖の悪循環を立つ方法がある。
それが「ゆるすということ」だ。

他人をゆるせない理由は自分の過去の傷によるところが大きい。
過去の傷が現在のものの見方や自分の信念に投影されている。
つまり過去がつらかったから未来もつらいはずだと信じるているのだ。
でも過去が安らぎになったなら未来も安らぎになりはしないか?
過去の痛みから自由になるためには過去をゆるすことだ。
それは現在で出来る。
自分を苦しめているのは現在の自分の考えなのだ。
ゆるさないことを選べばいつまでも不安を抱えていることになる。
他人をゆるすことは自分の過去をゆるすことにつながる。
結局は過去の自分を許せないから他人のせいにしていたのだ。

ゆるすことはこの世界が不安ではなく愛で出来ていることを信じることだ。
信じていることは心の中では現実になる。
つまり愛を信じることで愛が心の中では現実になるのだ。
例えば分裂病者の幻聴が病者の心の中では現実のように。
その反対のことも起こりうるのだ。
愛を信じれば価値観が逆転する。
心の中に安らぎのかけらが見つかる。

他人をゆるせないのならせめて自分をゆるそう。
憎む自分をゆるそう。
そうすることで憎しみもゆるせるようになる。
そのあとで他人をゆるそう。
あなたの心には安らぎが残るはずだ。

あなたは幸せになってもいいんですよ。

睡眠は回復の兆し

「救急精神病棟」にでてくる病院の看護の特色は睡眠表をつけることだ。
入院患者の具合を見、睡眠表を作るため
通常は一時間毎に、病状次第では三十分毎に病棟を巡回する。
たいがいの精神病は睡眠の乱れに始まり、睡眠の復調で快方へ向かう。
だから院長検診で最初に行うことは睡眠表をチェックすることだ。
それほど睡眠が大事なのだ。

私が一番病気が酷いときは眠れなかった。
眠らなくても平気のような気がしていた。
そうしていると病気はどんどん酷くなっていった。

二回目の急性期のあと薬を大量に飲まされた。
一日二十時間ぐらい眠る日が一週間以上続いた。
そうするとこっちの世界に戻って来られた。
私の感覚では病気の世界はあっちの世界
現実の世界はこっちの世界という感覚がある。
これが逆転したことはない
ただ自分があっちの世界にいるという自覚がなくなりそうなことはあった。

病気の酷いときは気にならないのだが
病気が治って来るにつれ、寝てばかりいる自分に
罪悪感を感じる病者がいる。
その時に焦ると再発ということがある。
「急がば回れ」・「果報は寝て待て」
という言葉は本当である。
治りがけはジャンプの前にかがむのと同じで
エネルギーを貯めるときでその時に焦ると失敗する。
実際治りがけの時の方が急性期より自殺する人が多い。

睡眠は怠けではなくこっちの世界とあっちの世界をつなぐ架け橋である。
病者にとっての睡眠は働いているのと同じ意味を持つ。
そう思って自分を許すことが大事だと思う。

電気ショック

電気ショックというとどんなイメージですか?
「カッコーの巣の上で」や「ビューティフルマインド」
で見た電気ショックはとてもショッキングなものだった。
精神病院の密室性とおぞましさのシンボルといえるだろう。

ところが通電療法に対する見方が八十年代に大きく変わっている。
薬物療法ではどうにもならない病者の多くに
通電療法が効くというデータがある。
それに現在は麻酔医も立ち合い無痛で安全である。
実際は様々な検査をしたあと設備の整った部屋で
血圧・体温・心電図・脳波計などを測定しながら行う。
安全性の面からいえば高齢者や妊婦には
通電療法の方がまさるというデータさえある。
死亡事故は五万件に一度とされ
全身麻酔の死亡率に等しく出産の危険性より少ない。

一定の要件のもとでやるのなら私は反対ではない。
懲罰として麻酔もかけずにやるのは問題外だ。
しかし病者の同意を得て麻酔医のもと治療として行うのなら
良い場合も少なからずあるのではないかと思う。

通電療法でよく効くのは自殺衝動が強い場合や
激しい興奮や錯乱を示す分裂病の病者などだ。
何故効くのかはまだ分かっていない部分が多いらしい。
薬が効かない場合なら医者に相談してみるのも良いと思う。
実際にしているのを見れたら一番いいのだが…。
マスコミがもっと精神医療界の認知のされ方と
世間の通念との隔絶の橋渡しをして欲しいと感じる。
マスコミの精神医療の取り上げ方は
偏ったものが多いと感じるのは私だけであろうか?

私も最近になって通電療法の偏見がなくなってきた。
偏見というものは新たな知識によってなくなるのだと思った。

自由

自分をしばっているもの

それは自分の価値観

それは自分の意志の弱さ

人からの期待に応えようとするのも結局は自分次第

自分とは本来何者でもない自由な存在

在るがままの存在

しばっているのは誰でもなく自分自身なのだ

さあ解き放とう

なんて事は言わない

もうとっくに自由を手に入れている

なぜなら自由に気付いたから

そのままでいいんだ

ただ生きている

生きているんだ

それでいいんだ

水中毒

水中毒という言葉を聞いたことはありますか?
水を急激にたくさん飲むことによって血液の濃度が薄まって
意識障害やけいれんを起こしたり
まれには急性腎不全で死亡することさえあります。
どれくらい飲めばという目安は個人差・環境差があり一概にいえませんが
一日10リットル以上飲めば、たいていの人は危険性があるでしょう。

精神病院では水中毒で悩んでいるところが多いらしいです。
水の飲み過ぎで一日に体重が5キロ以上も増える人がいるので
体重測定を毎日する病院もあるそうです。

原因は今のところ特定されていません。
薬の副作用で、のどの渇きがありますが
それを潤すにしても飲む量が半端ではありません。
あまりいわれていないことですが
水を多く飲むことで薬の苦しい作用や副作用を
弱めようとしているのではないかと私は考えています。

同じ水分を取るにしてもスポーツ飲料だと体にいいそうです。
もちろん飲み過ぎは良くありませんが…。
また、水を飲んでも尿として出るのなら
出ないよりは身体に負担をかけないとされています。
それから水を飲みすぎて、むくんできている人は要注意です。

思い当たる節がある人はくれぐれも水分の取りすぎに気をつけましょう。

オートノミー

救急精神病棟を読んで重要だと思った言葉に「オートノミー」がある。
自律性と訳されている。
定義としては「自分自身について考える能力であり
人生の自分自身による計画を設計し、修正し、追求する能力」である。

オートノミーの尊重は生命倫理の大原則である。
精神医療というのに生命倫理が入りにくい理由になっているのが
オートノミーが障害されていることがある。

例えば自殺したいといっている病者がいるとしよう。
その願いは精神の異常がおさまればなくなるかも知れない。
また自傷他害の恐れがある病者が入院を拒んでいるとしよう。
強制入院は病者の本意ではないが
病気が治れば入院したことについて後から感謝するかも知れない。
これらの場合はオートノミーの障害といえるのではないか?

ではオートノミーをいっさい除外した医療は許されるだろうか?

まず問題点としてオートノミーはオール・オア・ナッシングではない。
徐々に快復するものだ。
だから病者の状態を考慮して判断の代行を
徐々に無くしていかなくてはならない。。
また、ある程度病者に判断力があるのなら
どういう目的でどういう治療を行うか医療側に説明責任がある。
その上で治療をなすべきであろう。
そして医療側が行う判断の代行の基準は今の患者のオートノミーではなく
未来の病気が治ったなら望むであろう事を基準に
行うのは悪くないのではないかと思う。

しかし個別具体的に決めるしかなく
画一的な取り扱いは難しいのが現状だろう。
まだまだ考えていかなければならない課題は多い。

ただ私の中に一つの疑念がある。
病気を治すことが本当に病者のためになる事ばかりだろうか?
病気もその人のありのままの姿かも知れない…。
どこかでそんな風に感じてしまう。

あなたはどう思いますか?

死と狂気

野村進の『救急精神病棟』を読んでいて気になった箇所がある。

ホスピスといってガンなどの末期患者が死に至るまでの日々を過ごす
医療施設で働いていた医者が言ったことである。
「最後には死を自然に受け入れた人に比べると
救急精神病棟に来る患者さんの方がずっと傷ついていると思う。
いや傷つけられていると言うかな。
その意味では分裂病の患者さんの方がつらいと思うんだよね。
死は誰にでも訪れる当たり前のことだけど、分裂病はちがうからね。」

自分では狂っていないつもりでも社会から狂っていると言われたら
たいていの人は傷つくのではないか?
分裂病になる前は学校では正しい知識を学ばないし
ニュースで犯罪者が精神病院に通っていたと聞くぐらいが多くの人だと思う。
偏った知識しかないところにあなたは狂っていると聞かされたとき
大きなショックを受けると思う。
社会から差別を受けて苦しむのもあるだろうけれども
自分が異常だと認められない葛藤みたいなもので苦しむのが大きいと思う。
自分自身の現実の姿を許してあげられないのだ。

死はとことんまで追いつめられたら開き直ることが出来る。
死には差別はなく誰にでも訪れる。
自分でも受け入れられたのなら悟りまではいかないが
自分を許し愛することが出来る。
そして周りの目も暖かいし一定の理解も得られる。
かといって死にたくはないが…。

悪循環から抜けるには病気でも良いんだと思うことが一番の近道だと思う。
死を受容するように病気を受容するのだ。
そうなるためには苦しみも決して悪くない。
これ以上は嫌だと本気で思えた時
つまり自分を苦しめるのはこれ以上無理だと悟った時
私は自分を許してあげられるようになった。
自分を許したとき他人も許せるようになったし
もっと大きな存在に許し愛されている感覚がするようになった。
それは幻覚であったとしても
私は何か安らぎのかけらを手に入れたと信じているし感謝している。
それから自分が信じられるようになった。

自信というのはどんな薬もかなわない魔法の薬だと思います。

幻聴は本当に幻か?

分裂病者にとって幻聴の症状がある人は多い。
聞こえない人にとってはすごく不思議らしい。

最新の脳内撮影法で幻聴を聞いている最中の脳を観察したところ
幻聴があるときには、聴覚野を始めとする脳の言語関連の領域が
実際の音を聞いている場合と同様の活性化を示していたというのです。
血流が活発になっていたのです。
このことは病者にとって幻聴は現実だということを示すことです。

幻聴を理解して貰うために以下のことをしてください。
誰かと会話している場面を思い浮かべてください。
楽しい話しだったり、ためになる話しだったりするでしょう。
すると突然会話の相手から「さっきから何独り言を言ってるの?」
といわれたらどんな気持ちがしますか?
「確かに相手としゃべっていたのに」
「何冗談を言っていているの?」
など相手のいうことの方がおかしく感じるでしょう。

分裂病者が信じている幻聴を否定することは
分裂病者にこんな気持ちを起こさせるものなのです。

私も急性期の頃は幻聴と現実?の声の区別が付かないときがありました。
今でも幻聴は聞こえますがいわゆる現実の声ではないという区別が付きます。

区別が付かない人が四六時中悪口を言われているのを想像してみてください。
たいていの人は耐えられないのではないでしょうか?

そんな時はただ幻聴を否定するのではなく
「辛い目にあっているね」と一定の理解を示してくれると嬉しいものです。
もちろん幻聴は幻聴として積極的に肯定する必要はありません。
ただ辛いだろうという気持ちを分かって欲しいのです。
そこから信頼関係が生まれればいいのですが
それは必ずしも上手くいかないのが現実です…。

私は自分を肯定的に見るようになってからは否定的な幻聴はなくなりました。
多分病者の心の状態が幻聴に反映されるのだと私は思っています。
苦しむ自分を更に自分で否定して傷つけている人を見かけます。
もう苦しまないで自分を許してあげても良いと思うのですが…。

安らぎのかけらは自分の心の奥に誰でも持っていると私は信じています。
どうぞそのかけらに気付きますよう祈っています。

野村進『救急精神病棟』を読んで

最近、野村進の『救急精神病棟』を読んでいる。
まだ読んでいる途中だがその中で気になった部分を
書いてみようと思う。

この本は単科の精神病院で精神科救急に最重点を置き
二十四時間体制で取り組んでいるただ一つの病院である
「千葉県精神科医料センター」を舞台にしている。
ここの一番の特徴は直ちに治療が必要な精神病の状態を選んで診療し
入院期間が短いということだ。

この本によれば日本の精神病床の平均在院日数は約一年である。
「沈殿患者」という言い方がある。
治癒の見込みもないまま薬漬けにされあたかも深い海で
身じろぎもしなくなった深海魚のような人々のことである。
日本の病院にはこの言葉に象徴されるように
一度入ったらなかなか出られないイメージがある。

一方欧米では十日から四十日あまりで退院させる。
この本の病院でも38.4日で退院している。

何故日本の病院は入院期間が長いのだろうか?
それは精神病院の経営的要請と地域の厄介者排除の要請との
癒着であると医師は言う。
つまりは、ていのいい収容所代わりに使われていた歴史があるのだ。
それの証拠に日本の全ての病院の入院患者は約140万人で
精神病の患者は約34万人にのぼる。
つまり4人に1人が精神病患者なのだ。

今は精神病者の開放の流れが出来つつあるが
旧態依然とした部分も未だにある。
この本の病院に学ぶことは色々あると思う。

この本を通じて何回かに分けて日本の精神病院の現実について
考えてみようと思う。

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