私の妄想・私の聖域


真実のひかりと共に


カウンター(2004年04月26日より)

2005年11月

祈りとは行動である

祈りとは行動である。

神に祈るとき貴方は何を望んでいるだろう。
望むものはなくただ感謝しているのであれば素晴らしい。
しかし多くの人は現状の変化を
望むのではないだろうか。

苦しいときの神頼みもいいだろう。
しかしそれに行動が伴わなければどうだろう。

人はこのままでいたい自分と
変化したい自分と両方あって
そのせめぎ合いがあるという。

あなたが神だとして
口では変化したいといいながら
行動では何も変わらない人がいたら
どちらを本心だと思うだろうか?
あいつは口だけだと私なら思う。
そうであればこのままでいさせてやろうと思う。

口だけの人の本当の望みはこうだ。
自分はそのままで世界全体を自分に合わせて変えて欲しい。
実に横柄な頼みである。
しかし自分が変わらなければ
どんな環境にあっても不満が出る。

ある人が住人に「この街はいい街か」と聞く。
「あなたがいた街はどうでしたか?」
「悪い街でした。」
「ではこの街もそうでしょう」

不満があって環境を変えたとしても
自分が変わらなければ上手くいかない。
今までと同じような問題が
後々ついて回ることになる。
環境を変えたのをきっかけに
自分を変えて上手くいくことはあるだろうが。

変わりたい自分になるために
行動するのが本当の祈りである。
行動の結果は失敗するか成功するかは分からない。
しかしその行動のエネルギーを
神は与えてくれるだろう。

また、神は望みの本質を理解し
必要な体験をさせてくれる。
口だけの人には行動を促す。
つまり苦しみを与えることもあるだろう。
苦しくてせっぱ詰まれば人間行動に移る。
行動しないで神にすがればすがるほど
苦しくなるということもあるだろう。
神は現世利益をかなえる存在だと
本気で思っている人には
納得いかない結果に終わる。
神は現世利益より大切なものを教えてくれる。

今までの不満だらけの人生の継続。
行動して失敗するかも知れない未来。
どちらを選びますか?
面倒だから今のままでいたいというなら
不満だらけの人生のままだ。
自分で選んだのだから仕方がない。
でも、選んだことを忘れている人が多いのはなぜだろう?

未来を選ぶというならば
先の見えない不安をものともしない
その推進力こそは神のエネルギーだ。

行動こそが神への祈り。
行動こそが神に近づく方法なのだ。
神はいつでもあなたと併走してるのだ。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

蛇足だが心境の変化も行動といえるだろう。
思考という行動である。
身体の行動より難しい場合が多々ある。

因果応報

「因果応報」
多分仏教の言葉である。
自分のまいた種が実となって返ってくるそうだ。
実際にそうだろうか?

確かにそういう傾向はあることは感じる。
人に冷たい人は冷たくされるし
人を大事にしない人は自分も大事にされなくなる。

でもそれだけではないような気がする。
いいことをしてても悪い目にあうし
悪いことをしててもいい目にあう。
いいことがあってもどの種が
実になったのか分からないときがある。
因果だけではない何かを感じる。

生まれてきてから色々な体験があるのは
メニューを見せられているのだと感じる。
色々な体験を通してどういう傾向があるのか
選択させられているのだ。
だから因果ではないことも起こる。
それがメニューだ。
その中で特定の選択を続けていると
その結果が起こる傾向が強まる。
つまり年を重ねるごとに
自分自身を体験する。

穏やかな人は穏やかな生活に。
刺激を求める人は刺激的な生活に。
段々となっていく。

メニューが決まっていては面白くないから
次々と新しいメニューが出される。
メニューは因果とは違って意外なことが起こる。

メニューとは別に
因果は時間はかかるが自分に返ってくる。

人を傷つけたら自分もいつか傷つけられる。
傷つけられたらその人に直接仕返ししなくても
回りまわってその人に返ってくる。
メニューによって一時的に得をしたように見えても
時間が経てば経つほど因果が強くなっていく。

そんなに多くの例を知っているわけではないが
悪口の幻聴が聞こえる人は
家族に当たっていたりメニューから仕返しを選んだり
している人が多いような気がする。

メニューのおこる頻度はまちまちだが
因果が返ってくるのは確実だと感じる。
時間的にいつ返ってくるかは不特定だが
同じ選択をしていれば因果が起こる蓋然性も高くなる。

メニューが出されたからといって
嫌いなメニューは選ばないことだ。
後は自分が何をやっているのかを見つめること。
いい種を蒔かないでいいメニューがくるのを
待っているだけの人がいる。
悪い種を蒔いて運のせいにしてばかりいる人がいる。
もっといい種をたくさん蒔けば
いい実を刈り取れるのになあ。

自分が何をやっているかを
分かっていない人は案外多いような気がする。
私も自分のことはなかなか分からないが…。
返ってきた実で実感する事が多い。
その意味では有難い。

いい種を蒔いていますか?

美輪明宏コンサート

美輪さんのコンサートに行ってきた。

トークと歌が半々ぐらいだった。
トークはウイットに富んでいて楽しかった。
圧巻だったのは歌。
まさに魂を揺さぶる歌だった。

特に最後の二曲
「愛の讃歌」
「花 」(すべての人の心に花を)
は背筋に電気が走った。

最近、美輪さんと江原啓之さんの出演している
「オーラの泉」を欠かさず見ている。
その番組で美輪さんのコンサートに来ていた江原さんが
美輪さんの歌で浄化された霊が上昇する煙みたいに見えたと言っていた。
私には見えなかったがそんなことがあってもおかしくないと思った。

この頃は江原さんと美輪さんの本をよく読んでいる。
結構、影響を受けている。

美輪さんがいうにはこの世界は正と負が混ざり合っている。
陰と陽ともいえる。
何かいいことがあれば悪いこともやってくる。
その逆もしかり。
いいことだけだったらこの世界にいることは出来ず天界へ上昇し
悪いことだけだったら魔界へ落ちる。

だから次のことがいえると思う。
悪いことが続いて光が見えなくなったとき。
それは夜明け前だ。
夜明け前が一番暗い。
でも後もう少し待てばいいのだ。
そうするとひかりがさしてくる。
後は明るくなるだけ。
常に後もうちょっとだと思って前進する。
するといつの間にかずいぶん進んでいる。
悪いことが続いた分いいことが続くだろう。

読みやすい本が多いのでお薦めです。


当たり前

唐突だが当たり前だと感じることに
レベルの差があると思う。

家にいて三度のご飯があたる。
いつものことなので当たり前だと感じる人もいるだろう。

しかしご飯一つ取っても
米を作るのには何ヶ月もかかる。
米を作る田んぼや道具も長年の進歩があってこそだ。
米を流通させるのにもその仕組みは一朝一夕ではできない。
米を炊く炊飯器も米を作り始めてから数千年後に出来た。
米を買う金を稼ぐにも苦労があっただろう。
米を食べられない人が世界には何万といる。

一寸考えれば当たり前とは感じられないはずだ。
ご飯を食べられることはものすごく恵まれている。
自分を不幸だと思っている人は
それを認めることを拒む。
自分だけが苦しんでいると思い
大きな恩恵には感謝しない。

病気になって当たり前のことが
当たり前でないことに気が付いた。
そのことに今はすごく感謝している。
私は大きな愛に包まれている。
生きているということはそういうことだと思うようになった。

例えば地球があって太陽がある。
水があって空気がある。
これだけのことでも奇跡的なことなのだ。
地球が出来て人が住む環境になるのに
数十億年かかっている。
科学者で研究しているうちに
無神論者が神の存在を信じるようになることは少なくない。

自分が生きているのだって奇跡的な確率である。
人一人生きるのにどれだけ自然が犠牲になっているか。
どれだけ自然界の世話になっているか。
それを感じると感謝が自然と湧いてくる。

苦しみを感じているから神を信じない。
神の世話になったことがない。
自分が一番苦しんでいる。
だから家族に怒鳴り散らす。
余計に苦しくなった。
だから神なんていない。
感謝なんて出来るはずがない。
私の知っている人だ。
ものすごく傲慢なことをいっていることに気づいていない。
神がいるかどうかは分からないかも知れない。
しかし自分が生きていられるのは
多くの愛を受けていられるからで奇跡的なことなのだ。
その人にそういっても「当たり前にしか感じられない」と言う。
自ら神に背を向け、神なんていないと言う。
自分が自分で苦しみを招いていることに気付いていない。
愛を感じれば心は楽になる。
「当たり前」
その傲慢さが愛をも否定する。
可哀想になる。
同情は嫌いだがもどかしい。
愛を否定すれば苦しくなる。
これこそ「当たり前」だ。

神を信じるというと
「すがるものがあっていいね」と言う。
私はすがったことはないと言ってもその人は理解できない。
私はただ感謝するだけだ。
既に多くのものを受け取っている。
すがる必要などないのだ。
感謝こそが本当の祈りなのだ。
大きな愛を感じるということ。
それさえ感じていれば生きていける。

強く愛を感じることが出来る人こそ強い人だと思う。
皆が愛を感じられたなら争いもなくなるだろう。
暴力は弱い人がするもの。
何も生み出さない。
愛こそは存在の全てである。
私はそう思う。

波長の法則

ネガティブな思いを抱いていたり
行動をしていると
ネガティブなものがよってくる。

ポジティブな思いを抱いていたり
行動をしていると
ポジティブなものがよってくる。

このことを波長の法則という。

自分次第でこの世は天国にも地獄にもなる。

天国だから良いとか
地獄だから悪いとかいうことはない。

あるからには意味がある。
存在意義がある。
無駄なものなんてない。

ただ自分の波長で招くものが違うだけ。
それによって自分が今どんな存在か分かる。

好きなら今の状態でいいし
イヤなら変えればいい。

変えられるということを忘れなければ
この世も結構面白く感じるだろう。
どんな体験も宝物になるはずだ。

  • ライブドアブログ