社会は情報化の夢を見る---[新世紀版]ノイマンの夢・近代の欲望 (河出文庫)著者:佐藤 俊樹
販売元:河出書房新社
(2010-09-03)
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「新しい情報技術が世界を変える」という言説には、どことなく「そうなんだろうな」と思わせる説得力がある。それはきっと、産業革命以来、技術の進展と世界の発展が同時に進行してきたことを体験しているからだろう。
一方で、「ブログが世界を変える」「ツイッターが世界を変える」「フェイスブックが世界を変える」と立て続けに言われると、いやちょっと待て、とも言いたくなる。そこには、ノストラダムスやマヤの予言、もしくは性能を喧伝する通信販売のような胡散臭さが漂っている。
社会学者という立場から何十年もそうした扇動を見てきた著者の舌鋒は鋭い。
「先端」にしか興味をもたない。みんなが使いだした時点で、とりあげる価値がなくなる。だから、一時的な効果と持続的な効果を区別するという発想もないし、利害もない。(p24)
「情報化社会」というのはこの産業が生産し販売している商品でもある。その商品戦略は、自動車に代表される20世紀の大量生産・大量販売方式そのままである。「情報化社会」は近代産業社会の、文字通り「産物」なのだ。(p31)
「ネットサーフィン」にたとえていえば、情報社会論自体が流行という波の上でサーフィンをやっている。新技術の大波がやって来るたびに、未来社会イメージが入れかわるたびに、次々に乗り移っていく。その時その時の流行にあわせてモデルチェンジをくり返しながら、「この新技術で社会はこうなる!」と売り込んできた。(p236)
自分自身もマーケティング領域でそうした売り込みの一端を担ってきた者として、少々耳が痛い。
本書では、情報技術が社会を変えるという論旨を「電脳社会論」(社会の頭脳をコンピュータシステムで置き換える)と「メディア社会論」(神経=コミュニケーションの流れをコンピュータシステムで置き換える)に大別して論破していく。
著者に言わせれば、情報技術が社会を変えるのではない。<個人>を規定するのが社会であるように、どのような技術がどういう方向に発展するかを決めるのは社会である。
それも何となく分かる。以前のエントリーでも書いたが、新しい情報技術を活用した取組を振り返ると、「時代の要請だった」と感じることが多い。
それでもなお、情報技術によって実現されるかもしれない未来予想図は我々の心を魅了する。特に、技術と脳の融合による人間の情報処理の拡大=「知の拡大(オーグメンテーション)」という主題には、個人的に惹かれる部分が多い。例えばヴァニヴァー・ブッシュによって1945年に提示されたmemexという架空の装置は、
人間がそのすべての蔵書、記録、通信を収納しておく装置で、すばやく柔軟に参照できるように機械化されている。これは、いわば所有者の個人的な記憶の詳細かつ大がかりな補遺のようなものと言える。とあり、まさにこのブログのタイトルとも符合する。
その他にも、人間の拡張から地球の単一意識化にまで想いを馳せたマーシャル・マクルーハン、脳とコンピュータの結合による飛躍的なデータを処理能力を予見したJ.C.R.リックリダー、メディアを介した感覚器の世界的拡張や増殖を謳ったD.ド・ケルクホヴなど、この本で紹介されている歴史上の巨人たちの「実現されなかった予言」を読んでいるだけでワクワクする。
なぜ人々は「情報化」にこれほど心魅かれるのだろうか。
筆者の答えはこうだ。
−それは、「情報化社会」が私たち自身の夢だからである。「情報化社会」というのは、私たちが生きているこの社会、近代産業社会が夢見ている夢なのだ。(p31)
「情報化社会」とは何か―結局のところ、それは、技術予測の名を借りた未来社会への願望に他ならない。情報化社会論は50年間、そうした願望を語ってきたのだ。(中略)自分に都合のよい結果が見つかるまで、いろんな雑誌の占いのページをめくるようなものだ。気持ちとしてはよくわかる。(p84)
実際、著者によれば、もともと1996年に上梓されたこの本を13年後に全面改訂するのにわずか数日しか要しなかったと言う。それだけ情報技術信奉が根深いということだろう。
分かっていても、信じてしまう。それは信じたいという願いが我々の心にあるからである。
それは、どこか宗教に似ている気がした。
あるいは、恋か。
以下、いつか使うかもフレーズ集。
ある人間を<個人>たらしめているのは、その人間の情報処理機能がどこにあるかという物理的事実ではない。「どんな物体にどういう形でメタ自己を認めるか」に関する社会的な取り決め、つまり社会制度なのである。(p131)
700万年前から後は、人類はつねに孤独であった。神や自然といった表象も、近代社会では自分たちの社会の内部イメージにすぎなくなる。コンピュータは、そうした孤独を生きる近代人がつくりだした、新たな「他者」なのだ。(p274)
ウェブ2.0の「あちら側」とは、本当は多数の「こちら側」の連結である。だとしたら、それはまさに、「社会」にほかならない。(p333)