2009年06月30日
空気に関する論考
「関係の空気」 「場の空気」 (講談社現代新書)著者:冷泉 彰彦
販売元:講談社
発売日:2006-06-21
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利害関係がもっとも露骨に影響する「職場」の人間関係について、これまで意図的に本を選んで読んできた。今回の空気に関する論考もそも一環。特に村上龍氏推奨に惹かれたことも確かだが、書名に惹かれて購読したというのが本当のところか。
mozartも職場では、若手に向かって「もっと空気を読め!」ということは言うことがある。否、どちらかというということが多いかもしれない。単に流行語のKYという意味だけでなく、アンテナを高くして感度を上げて、利害関係者が何を考えて何を求めているかを察知して欲しいという意味を込めている。
本書では、このKYに通じる問題を、とかく個人の注意力や迎合する姿勢を問うような憂鬱な議論になりがちな問題を、純粋に日本語の問題に置き換え、二人称を「関係」と定義し、より多人数の環境を「場」と定義する。
日本語は関係性が増す、あるいは増す状態にあることの確認として、語彙の省略により密接な関係性を再生産する。これは真理。そしてそうした「場」における日本の現状は、「現代の日本語には、現代社会において人間が直面する、あるどうしようもない「複雑さ」とうまくやってゆく昨日が足りないのではないだろうか(P66)」と問題提起する。日本語の窒息の問題である。
まず概念そのもんぼより、この「日本語の窒息」という表現が良い。本論とは別のイメージが広がる。少し前に「報道危機」について書いたが、その著作の最大のインパクトが、朝日新聞阪神支局襲撃で若い記者が死亡した事件に対し、「物言わぬ右翼の暴力」こそ最大の言論に対するテロと認識するところから書き始めている。
同じ事象を本書では、「例えば朝日新聞のようなメディアに対する対して敵意を持っているとして、かれら(=右派)には対抗する言葉が無い」と想定し、「本当に不気味なのは右派ではなく、右派と左派の間に横たわる日本語の窒息だ(P84〜86)」とする指摘は鋭い。
基本的な理解や共感があれば言葉は少ないほうが威力を発揮する、逆にそうした共感の土壌のないところでは言葉の少なさは言語の不可能性、つまり窒息状態による耐え難い苦痛を伴った非・同時性しかない。私たちはそうした「場」の中で、日々暮らし、日々働いているのだろうか。
さて最後に、日本語の窒息を改善するための処方として5つの提案がされている、ないようはしごく常識的なもの。コメント抜きで再度に書いておきます。
提案その一、ちゃんと語ることで日本語は伝わる
提案その二、失われた対等性を取り戻すために
提案その三、教育現場では「です、ます」のコミュニケーションを教えよ
提案その四、ビジネス社会の日本語は見直すべきだ
提案その五、「美しい日本語」探しはやめよう
個人的には提案三の「です、ます」についてが大賛成。
それと、いまだにビジネスっぽく話そうとすると噛んでしまうmozartは、四も重要と思うが、しかし本当の言葉で人間関係を気づくのは、ビジネスの局面では疲れてしますのも確か、か?

