July 03, 2006

女って何?

■女って何?・・・究極のお題のように思いますネ!
るいネットでは、「女は充足存在」「女は性的存在」「女は太陽!」いろんな言い方がされていますが・・・。
参考投稿です。↓

「女が太陽なのは・・・・」
>女は太陽・・・女は充足存在で充足エンジン(充足回路)を持っているから。その充足の中心は性の悦びにある。
そのことを認めるとすごく楽チンになって、幸せ〜な気分になりました。

今まで女は私権を獲得し、維持するために性を武器にしてきた。そのためセックスにおいても男の性期待に対して女は私権期待で対応し、その結果自らの性充足期待は奥に秘められ、ひたすら男の性期待に応えることがいいことという性規範が形成されてきた。
そのせいで「女の役割」を捉え違いしていた。ってことに気づきました。

だから、まずは女たちが自らの最大の役割であり、力の源でもある性充足期待に、全身を収束させることが重要ではないでしょうか。
そうすれば自然と性充足期待の女共認が形成され、それ(女を充たすこと)が男の役割規範となる。

女が性充足に収束することで、男に新たな役割規範ができ、お互いが充たし充たしあう新しい性が再生されてゆくのではないでしょうか。

●「女は太陽!」って?
「女性の社会進出」
>『元始、女性は実に太陽であった。』
平塚雷鳥により、1911年に婦人文芸誌「青鞜」創刊の辞に記された有名な文言である。
この一文は、そして平塚雷鳥は近代の女性運動の象徴としてしばしば取り上げられる。

しかし、この初期の女性運動は、男女同権を求めるものでも、女性の権利を主張するものでもなかった。
私権時代に抑圧されてきた女としての役割を、社会においてまっとうに果たしたいという思いが根底にあった。
それは、同じ創刊の辞の後半部に見ることができる。

『 〜前略〜 女子が男子と同等の教育の機会を与えられていない現状は残念ではあるが、致命的ではない。知識は真の智への手段の一つに過ぎない。学者であって真を見ること困難な盲者は、男性にも多い。無暗に男性を羨み、男性に真似て、彼等の歩んだ同じ道を少し遅れて歩もうとする女性を、私は見たくない。 〜中略〜 然らば私の希う真の自由とは解放とは何だろう。潜める天才を、偉大なる潜在能力を十二分に発揮させる事に外ならぬ。 〜後略〜 』

この素直な女の社会的役割欠乏が権利要求運動へと歪曲されていったのは、欧米近代思想(個人主義、女権論〜男女同権論etc.)の流入によるところが大きい。
〜後略

●性的存在って?
「「性的」って・・?」
>はじめて【性的存在】って聞いてピンとこない人は、若い人なら結構多いのではないでしょうか。それは、「性(的)」が何を意味するかわからないからでは?

改めて【性的存在】って何か聞いてみました。
「性的」とは、性に関する事柄全てを包摂した意味合いだそうです。
セックス・生殖だけでなく、子育てなども。
さらには、性充足を得ることを基準にした行動全ても含まれます。
そう考えると、男の人に「かわいいね」って言われたいからするお化粧やおしゃれやしゃべり方や、仕草の一つだって、私たち女が【性的存在】であることを示しているのです。

この説明を聞いて、実感と繋がりやすくてわかりやすいかも〜と思いました。

★女の充足基盤である「性」が閉塞してしまって、女が女としてまっとうに生きられない時代!
 「女って何?」は本当に究極のお題だと思う。

mrithrs0416 at 21:31|この記事のURLComments(1)TrackBack(0)

June 26, 2006

なんで屋の料金って何?

■なんで屋露店のお題料(答え代)やカード代、悩み相談料金やカンパは何の為?何に使うの?って聞かれた時、いつもはなんで屋の活動の為、グッズ制作費や交通費などの必要経費に使う!って答えてました・・・やっぱりなんか違う^_^;^_^;^_^;!
るいネットに良い答えありました!

「お代は答えの製作費に使ってます!」
>なんで屋露店では、カンパや応援料として、お金をもらっています。
たまに、「そのお金は何に使うの?」と聞かれることがあって、今までは、「カードの製作費とかに使ってます。。」みたいなあまりイケてない返答をしていましたが、今日、ネットサロンでお手伝いさんたちと考えていて、すごい事実を見落としていたことに気付きました(@o@)

>それは、『るいネットの投稿料!』

>なんで屋の商品は、答え(カードの言葉も含めて)。
その答えの源泉は、るいネット。

>みんなが評価した答えに支払ったお金が、みんなの役に立つ答えの製作費に支払われるというのは、実はすごい仕組み!!
それは、新しいお金の使い方の実践例、活力再生事業or社会活動事業の雛型でもある。

★さらに雛型の具体例もあります。
「新市場の雛型」
〜略〜
>例えば、支援金の財源を新たな国家紙幣の発行「『GDP信仰』に代る新しい可能性」に依るとして、お金の循環活用案としては以下のような方法が考えられる。

〇抉膓發糧省をクーポン券として流通させ、残り半分は付加価値へ
⊂暖饉圓魯ーポン券を活動の対価(評価)として新事業者へ渡す
新事業者は実績に応じた交換レート(100〜200%)で換金する

>この場合、みんなの役に立つ活動をすれば最大で2倍の報酬が得られる。お金の流れを全てオープンにすればクーポン券の数が評価指標として機能する。新たな商品を開発し、評価を獲得し続けるには中身(事実認識)の追求へ向かうしかないので、実質的には「認識形成の場」への参加が駆動源(エンジン)になる。

★新しい可能性、活力再生事業に向けてのお金の流通の仕方、使い方、ホントに参考になると思います。
mrithrs0416 at 21:39|この記事のURLComments(0)TrackBack(0)

June 19, 2006

近代思想って何?

●H18年6月19日のニュースで以下のようなものが流れていた。

>阪急ホールディングス(HD)が行っている阪神電気鉄道株の公開買い付け(TOB)が19日、終了した。阪神の筆頭株主の村上ファンドは保有する全株(発行済み株式の約47%)の応募手続きを同日完了し、TOBは成立した。
〜中略〜
>一方、村上ファンドは、1株当たりの取得資金が700円弱とされており、約470億円の差益を手にした計算だ。

巨大な資本をバックに経営乗っ取りの脅しをかけ、巨額の利益=約470億!を手にする、言い方を変えれば、ゆすり・たかりと同じではないか?と思う。
 ”自由”な市場競争を推し進めた結果、こんな企業が大手を振り、マスコミに登場し”自由”な市場競争で利益を得るのは当然である・・・と公言して憚らない。確かに現行の法律では何も問題は無いのだと思う。

しかし、誰もが違和感を感じる・・・法律で言うなら憲法の勤労の義務はどうなっているのか?何も生産しないで利益を得ていいのか?脅しやたかり、ゆすりって許されるのか?・・・等々。
もっと、恐ろしい事には若い人や子供達が、働かないで巨額の富を得られる方法がある!と考えてしまう、馬鹿らしくて働く意欲、まじめにやる意欲さえ無くしてしまう、のではないだろうか?
そして、法律や制度がある限り誰もまっとうに反論できない。

★確かに、近代思想は現実世界を強制し、人々の意識を支配する!
「念仏」よりやっかい・・・人類を滅亡に導く観念だと断罪してよいと思う。

「近代思想は「念仏」よりやっかい」
>古代宗教があの世に救いを求め、「あるべき世界」を非現実の世界に措定したのに比べると、近代思想の場合は数段やっかいである。単に「念仏」を唱えている限りは、現実世界は不動であり、たいした実害もない。ところが、近代思想は、現実世界に半ば開かれており、福祉にしろ嫌煙権などの権利要求にしろ、現実の人々の意識を支配し、様々な法律や制度となって現実世界を強制する。

>今や現実世界を閉塞させている(古代宗教から近代思想を貫く)あらゆる価値観念を塗り替えるという観点が肝要である。

「近代思想という「念仏」」
>特に近代思想は、「理想とはかけ離れた個人」=「性的自我や抜け駆け性闘争や私権闘争という醜い現実を生きる個人」に対して、絶えず「言い訳」と「誤魔化し」を提供してきたのだと思います。例えば、醜い現実を自覚している人に「神」や「人間」や「自由・平等・博愛」という念仏を唱えさせて、「あの世では地獄に落ちない様に」=「皆の共認から外れないように」言い訳を与えつづけてきたのだと思います。  

>そんなことでは、「あるべき世界」をいくら語ったところで、変わるはずもなく、今やそうした理想が例えば福祉の様に現実を圧迫しだしているのだと思います。

>ですから、我々が共認する観念とは、現実から組み上がった事実認識に基づく、構造認識でなければならないと思います。そして、そのためには、現実をありのままに受け入れることが必要で、近代思想の「念仏」との決別が必要だと思います。

「宗教の認識論と近代思想」
>宗教及び近代思想の一つの特徴はその「あるべき世界」を理念として掲げることにあります。哲学用語的に言えば「当為」=「○○たるべき」という認識手法です。
さて何故「当為」の世界が必要になったか?は中々難しい問題ですが、おそらく歴史的には現実世界の可能性の閉塞から来ている認識論なのではないか?と思います。

>つまり現実の世界を動かす可能性が封じ込められているので、非現実の当為の観念に立脚したということなのでは無いでしょうか?

>この認識論はもともと近代思想の発明ではありません。西欧の宗教以来の認識論です。
つまり現実世界は身分制度や絶対権力によって、一切の可能性を封印されていた。しかし人間は精神的存在です。本来の人間の可能性やあり様を「神の世界」に置きそれで意識を統合しようとした。宗教の基盤と意義はそのあたりにあったのではないかと思います。

>近代思想はいわばその神の世界の位置に「人間」をとって代えた。代えた理由はおそらく身分制度の桎梏から解き放たれ、市場での経済的利益の追求の「自由」が生まれ、少なくとも現実の可能性が半分開けたからではないかと思います(ただし利益競争や出世競争を担う「個人」として)。
しかも宗教が持っていた生活規範(超越規範)としての側面も剥奪し文字どおり私的欲望の主体としてのみ個人を解放したのです。

>ただしついこの間までは、資本の「力の論理」によって相変わらず半分は現実の可能性は封印されていました。だからこそ現実の「力」に対して「当為」を持出すしかなかったというのが一つの解釈だと思います。

>しかしこの観点で見れば、これは対抗手段としての見果てぬ夢です。
それだけではなく既にこの倒錯の一人歩きによる弊害の方が強まってきました。
このような理念=スローガンに代わる「事実の認識」への転換が要求されている時代が既に到来しているのでは無いかと思います。

★知らず知らずのうちに染まっている”旧観念=近代思想”という魔物!
 「事実の認識」への転換が絶対不可欠な時代になったのだと思う。
mrithrs0416 at 21:30|この記事のURLComments(0)TrackBack(0)

June 12, 2006

仲間第一ってみんなどうなん?

●今の20代前半の若い人たちは本当に仲間同士仲がいいと思う。
仲が良い、と言う事は良いけれど、なにか失敗したり上司に叱られたりしたら、飲み会をやる、慰める・・・旧い実現不可能視を前提としたやり方が未だにと言うか、逆に盛んになっているようです。
しかし、本当の課題や闘争=仕事の場面では同情や迎合は役に立たないばかりか、結局、活力を削ぎ、自我(=エゴ)に収束して当人達の能力上昇を妨げる結果にしかならない。

「同一視の土壌が期待・応合を育む。」
>同一視するということと同情することを履き違えている人がいます。同情だけでは先に進めません。同一視というのはそういった表面的なことではなく、「相手と同じになる=自分が無くなる」ことで対象の背後にある全てのことを肯定的に受け入れることではないのでしょうか。それは活力や深い追求力にも繋がっていくもので、その中で期待と応合の関係も育まれていくのだと思います。

「同一視あっての期待と応合」
>喜んでくれたらうれしいと感じているなら、あと足りないのは同一視するという意識ではないか。共認回路と同時に自我回路が一旦形成された以上、相手も自分も同じなんだと同一視することができなければ、不全も課題も共有されない。

> それで相手の期待(らしいもの?)に応えても自分の充足にはつながらずに、「私はやってるのに」「なんで私だけ」という否定や要求の意識になってしまう。そうなってしまうと、相手の期待に応えることも単なるやっつけ仕事に終わってしまう。「みんなの期待に応える」という話は露店でもよくしているが、その前にまず同一視ありきなんだということを、今回改めて感じた。

★るいネットには、「仲間第一って、みんなどうなん?」っていうお題があります。
 ぜひぜひ、見てください。m(__)m

mrithrs0416 at 21:53|この記事のURLComments(0)TrackBack(0)

June 05, 2006

主体って何?

■主体って何でしょう?

主体的に生きよう!とか主体的な行動、など”主体”って言う言葉をよく使いますが”主体”って何なんでしょうね?

「「現実=自分自身」は事実認識(構造論)の核心部」

>つまり主体の全ては(全肉体機能や神経回路、勿論本能回路も共認機能も)、外圧(外的世界)に対して適応すべく形成されたものであり、全神経回路がそうである以上、これが主体の全てな訳ですから、文字通り、「外圧=内圧」「対象=主体(自分自身)」である事を意味します。

主体的に判断する為には対象をしっかり認識しなくてはならないし、現実を直視するしかない。
だとすれば、そこには対象以外の”自分”が入り込む余地はまったく無い!

主体とは対象である・・・現実とは自分自身である!・・・すごくすっきりした答えだと思った。

mrithrs0416 at 22:05|この記事のURLComments(0)TrackBack(0)

May 31, 2006

肉体破壊って?

環境問題=環境破壊と同じように肉体の破壊・・・環境ホルモンや大気汚染など、化学物質によって人間の体が犯される・・・体だけじゃなくて脳まで危ない!
アレルギーやガン、花粉症、生殖器系の異常、ひょっとしたらうつや引きこもりの増加、自殺者の増加にも関係しているかもしれない?
これも人類滅亡に直結する問題だと思う。

じゃあ、原因は?・・・どうしたら良い?

「自分からみんなへ、社会そのものを変えないと問題は解決しないと思う。」
> ”肉体破壊”という言葉を聞くとまず、「自分の肉体破壊」「自分の子供の肉体破壊」はいやだ!!といった自分発の発想になるように思う。
また、将来の子供達への影響といった論点も出てくるが、本当に「子供達」或いは「みんな」をどうする?という発想ができる社会にするのはどうしたらよいのか?という視点にはなかなか至らない。
同時に農薬は化学物質だから全面禁止、というような事態になったら(極論だが)日本の農業は壊滅的=担い手がいなくなる、という事態に陥ると思う。
市場社会はダメ、化学物質はダメ・・・といった価値論では何も解決しない。
「じぶんからみんなへ」という発想のパラダイム転換とその実現態としての共認社会(=事実を元にした現実直視の共認原理の社会)をどうやって作っていくか?を考えない限り何も解決しないと思う。

「生体は単純じゃないですね。」
>生物の体の中で起こっていることは、細かく分析すればするほど化学作用として還元されていきます。人工の栄養素や医薬品もその化学作用に働きかけようと作られたものです。でも、生体の機能というのは、すべて化学作用に還元されるほど単純なものではないはずです。そのことを忘れてしまえば、きっと思わぬしっぺ返しがあるでしょう。


「「不妊治療」の根幹にあるものは?」
>卵子バンク」が「出産年齢のコントロール」以外の役割として掲げているのが、不妊に悩む人への卵子提供です。

不妊の原因には、造精機能障害、排卵障害、不妊症関連疾患(子宮筋腫や子宮内膜症)などがあります。このうち造精機能障害、つまり精子の減少については、環境ホルモンの影響がほぼ確実視されていますし、子宮筋腫や子宮内膜症についても若い女性の発症率が増加していることから、人工物質が関与している疑いが濃厚です。

一方で肉体破壊の元凶物を「科学」の名の下に作り出し、もう一方でその対症療法(尻拭い)を同じ「科学」の名で行なう。個人を立脚点とした市場社会が変わらなければ、そうした犯罪的なマッチポンプからは脱却できません。

科学者を含めた皆が、そうした事実を真摯に見つめなければならない時期に来ているのは間違いありません。でなければ、女性は何時までたっても市場社会(豊かさ幻想)の奴隷で居続けなければならず、生殖存在としての本分を全うできません。(

★目先の悪玉を祭り上げて廃止すれば済むと言うものではなさそうです。
 現象事実の発掘とその原因追求、そして問題そのものの構造化が絶対不可欠だと思う。

mrithrs0416 at 20:46|この記事のURLComments(0)TrackBack(0)

May 22, 2006

無表情な若者が増えてる?

無表情な若者?感情を出さない若者?でも素直でまじめ・・・!そんな若い人が多くなってるような感じがします。るいネットで、2〜3年前に関連したお題がたくさん出てて、露店で会う若者達からもそんな印象を受けました。

で、なんで無表情に!なんで期待しない!なんて事になるのでしょうか?
「期待封鎖ゆえの実感(→共認)無き応望」
>私は、若い人が転職を繰り返すのは、新たなパラダイムの可能性探索であると見る一方で、「期待封鎖ゆえの実感無き応望」→「実感をもとにした“共認”が欠如しているが故の状況探索の貧弱」→「結局、可能性を感じていない旧観念・旧規範への極端なプラス価値収束」→「実感とのズレ」という閉塞したループ、これも大きな要因ではないかと感じだしています。

「周りの期待を感じとれない若者」
>無表情な若者の増加は、「期待しない人が増えている」=「充足経験が少なくなっているから」ではないでしょうか。
つまり、母親の囲い込みによって親和充足を十分に得られなかったり、囲い込みであるが故に自我や欲望をとことん封鎖され、さらには期待までをも封鎖しているのが無表情な若者のように思います。

>この期待の封鎖は、「期待すること」=「期待を感じること」が貧弱であること、つまり共認回路が貧弱であることを示しているように思います。

「「共認」という事実観念が、期待封鎖の呪縛を解く」

>期待することを封鎖してきたのは、私権観念や「良い子」観念などの旧観念である。旧観念でもって「期待してはいけない」と自らを呪縛にかけてきた。旧観念が、期待すること⇒共認充足の可能性を不可能視させてきたと言ってもよい。共認機能という事実観念がその呪縛を解き、「期待してもよいのだ(それをみんなが求めているのだ)」という認識転換を促すのではないだろうか。「共認(機能)」こそ、最も根底的な答え、露店で第一に発するべき答えなのではないだろうか。

★期待しないで応望だけ!では片手落ちだし、第一、なんか、卑怯な感じがする!!
 期待することは相手に共認圧力をかけるのと同時に自らへも期待圧力がかかってくる!
 よりたくさんの人と期待し合う!応望し合う!本物の共認関係を作っていく事が必要
 なんだと思う。

mrithrs0416 at 21:14|この記事のURLComments(1)TrackBack(0)

May 15, 2006

いい男って何?闘える男になるには?

■5月13日のなんで屋劇場は「いい男って何?」「闘える男になるには?」でした。

・なんで屋露店では、いい男って何?のカードが中高生を中心に最近よく売れている、女
 の子に聞くと逃げない、あきらめない、ごまかさない、のいい男3条件が響く。
 今の若い男達(=中高生でも)は、闘えない→闘いたい!に向かっている!?或いは、
 このまま”闘わない、では済まない!”いう意識が顕在化しているように思う。

・でも、現実場面ではなかなか闘えていない!!
 闘うって、仕事も学業も生活も・・あらゆる場面で成果を出す事!
 ⇒しかし、目先の成果では何も解決していない・・・という不全感!!
 結局、「闘争」って外圧に適応する事、実現する事!!だと思う。
 現在の外圧はまったく新しい圧力=生存圧力ではなく同類圧力、社会全体の期待圧力!
・男の役割=闘いという事はわかっているが、何に向かって闘っていけばいいかわからな
 い。
・今の社会はガタガタ!だから、どうしていいかわからない。何とかしてほしい、がみん
 なの期待=答えを出す事が闘う事では!?
・その為には、闘いの強い意思・概念認識による追求・共認形成の場が不可欠!!

●これからの本物の闘争って何?
・一番重要な認識は”場は転換した”という認識!
⇒共認仲間を作る、増やす、共認域を広げる事!!
・”いつでもどこでも共認闘争!!”
⇒自ら圧力を作っていく、仕掛けていく、場に参加する=発信する事!が絶対!!!

★答えがすごく鮮明になりました!それ以上に女の期待圧力の高まりは本物!!
 闘える男になるのは、個人課題ではなくみんなの課題!!だと思う。

るいネットの参考投稿↓
「可能性に向かい実現してゆく過程に「闘争」がある」

>では、身に迫る自然圧が克服され、私権圧力も無効化してしまった現在、男はどのような可能性に向かって闘うのか? 向かう先がわからず、どうにもならない現実を前にして愚痴をこぼしたり、「人それぞれ」といって自らの無能をごまかしている男はまだまだ多いかもしれません。

>しかしどんな時代でも男は「闘争存在」であって、その時代を貫く闘争圧力を真っ向から受け止め、とことん可能性に向かってゆくことが男の存在理由です。闘いに身をおかないままの男は、早晩男として認知されなくなるのが理でしょう。

>社会の閉塞と滅亡の危機、何とかせねばというみんなの期待に気づいた人たちはすでに「おかれた環境を貫く圧力」(同類圧力)の中で「社会を変える」「認識形成」に向かい始めています。まさにこの「共認闘争」がこれからの男の闘いなのだと思います。

mrithrs0416 at 21:58|この記事のURLComments(0)TrackBack(0)

May 08, 2006

年金って何?

■今日は年金の話です。
今、日本の年金の赤字は、過去と将来の分を合わせたら約530兆円ある!って知ってました!!!!
その大半が過去分、要するに年金払ってないのにもらってる人が多い!
年金って何?・・・しっかり考えたいと思います。

●では、まず実態から!・・・ホントにどうなってるの?
「年金「払い過ぎ」の実態 厚生・国民・共済・農林合わせて700兆円の債務超過」
>現在、サラリーマン世帯夫婦二人のモデルでは、年額280万円強の厚生年金を受け取っている。その1/3にあたる95万円は、保険料・税金など財源の裏付けがない。
> 旧厚生省「年金白書」(1999年)のデータによれば、70才の夫婦で、1300万円の保険料負担で、6800万円の年金を受け取っている。給付額は負担の5倍以上になる。
 その孫の世代の10才の子は将来、7500万円の保険料負担で、4900万円しか受け取れない。
>2000年の当時の厚生労働省編の資料によると、既に納付された保険料に対して支払いが約束されている給付債務は720兆円。
 そのうち、財源的裏付け(積立金+国庫負担金)は、270兆円だから、差額分の450兆円の債務超過状態にある。
 しかも、将来分でも、80兆円の債務超過額がある。過去と将来を合わせれば、530兆円になる。
> 問題は、厚生年金だけではないらしい。国民年金でも、過去拠出対応分で39兆円、将来拠出対応分で23兆円、それぞれ債務超過が試算されている。同様の問題は、共済や農林年金も抱えていて、この二つでおよそ100兆円の債務超過になっている。
 共済、農林、厚生年金と国民年金をあわせれば、債務は700兆円を越える計算になる。

●じゃあ、年金って結局何?・・・騙されてる?誤魔化されてる?ような・・・!
「年金制度は国家ぐるみのねずみ講では?」
>年金の債務超過は、国債残高と同様に重く国民にのしかかる問題です。
その原因が「なし崩し」では、誰も納得しないはずです。
素人が考えても、払った分より多くの給付が貰えるというのはねずみ講そのものだと思う。
見えてくるのは、いい面は誇張し、マイナス面はごまかし、人々を騙し続けるという詐欺の構造。
ウソは大きければ判らないとでも思っているのだろうか。

>しかし、既に破綻しているという単純な事実さえ見えなくしているのは何故だろう?
よく考えてみれば、年金制度の元にあるのは人権→福祉という旧観念。
だとすれば、この人権→福祉という旧観念そのものが、詐欺の構造をもっているということに他ならないと思う。

>旧観念群は人々を思考停止に追いやるだけではない。
現実に、国家ぐるみのねずみ講を先導する、詐欺という犯罪を犯しているのだと思う。

●そもそも年金ができたのは何で?・・・本当に必要なのか?
「「個人の自由」の哀れな末路」

>かつて共同体が機能していた時代は、たとえ年老い体が動けなくとも、蓄積した経験と智恵によってみんなの役に立つこと=仕事をすることが可能だった。その仕事の中身は、集団や地域の課題を担う統合の仕事、いわば「統業」である。普通の人々が統業を担うことを期待されていた、ということでもあった。

> しかし、市場社会化が進行し、「個人の自由」が絶対化されるようになる。すると、「個人」に対する妨害物として共同体は破壊される。あらゆる人々は生産基盤を持たない、自分の労働力を切り売りするしか生きることができない労働者、サラリーマンになった。

> さて、個人の自由を叫び続けて辿り着いたのはどんな世界だったか?
  
> 誰もが必ず老いる。すると、家庭からも企業からも役立たず扱い、邪魔者扱いされる。
 ついには、福祉施設、老人ホームに押し込まれ、社会的関係からも、あらゆる生産的活動からも遮断される。これは強制収容所と同じである。

> 老人となった労働者は生産手段がないのだから、自分の仕事がなくなれば、食べていくことができない。だから、年金にすがりつくしかなくなる。しかし、働いていない=返す人間はだれもいないのだから、年金は永遠に赤字のままである。若者からは年金をもらうことで、やはり目の上のたんこぶ、重荷だとしか思われない。

> こうして、役割のない人々を養うためのお金としての年金の赤字は積もり積もって400兆円になったのだ。
 個人の自由を追求した結果待っていたのは、最終的には誰からも疎ましく思われ、誰からも期待されず、社会の足枷だとしか思われなくなる、そういう社会だったのだ。

●じゃあ、どうすればいい!?
=同上「「個人の自由」の哀れな末路」
>この社会を変えるには、やるべきことが2つある。
 一つは、共同体を復活させることである。
 もう一つは、人々が誰もが担っていた「統業」を、万人の手に取り戻すことである。真っ当な生産活動として、誰もが担うことである。それ以外に、地獄のような世界を変える方法はないのだ。

★年金をどうする!というより、年金なんかいらない社会を作るのにはどうしたらいい!を考えるのが大事なんだろうなぁ、と思います。

誰もが課題や役割を担い、これを全うして天寿を迎える!!
こんなあたりまえの社会を取り戻したいと思う!!

mrithrs0416 at 22:09|この記事のURLComments(0)TrackBack(0)

May 01, 2006

日本人って何?

■日本をはじめとする東洋人の考え方とヨーロッパ・アメリカの西洋人の考え方はいろんな面で大きく違ってるなぁ・・・と思います。
●日本で個人主義!と言われても、やっぱり仲間や集団が大事!って言う感覚がある。
例えば、病気で休んだも、会社のみんなに悪い、部活やサークルの仲間に申し訳ない・・・という感覚が誰にでもある。でもヨーロッパでは平気で1ヶ月や2ヶ月のバカンスを取ったり、逆に休んで損をするのは自分!!という感覚の方が強い!!
もっと端的な例としては、口では人権が大事、平等、平和が大事・・・と言いながら(フランス革命の時から言ってる!)アジア、アフリカを植民地支配し、戦争をふっかけ武器を売って儲ける・・・今でも中近東やアフリカでの戦争は全て欧米諸国が裏で操っている!!・・・日本が太平洋戦争に突入したのは、このままでは日本はもちろん、アジア諸国全部が欧米の植民地になってしまう!!という危機感からだと思う。また、東洋人はどこかを植民地にして資源を住民から収奪し尽くた!というような事例は本当に少ない!

★西洋と東洋は根本的に認識方法が違う!!と思う。
「自分が何より大事!」「廻りは全て敵!」「まず、自分!」というのは西洋的認識方法、「自分より仲間そしてみんな」「まず、共認!」が東洋的・・・という違いがあるように思います。

●実現論に詳細な記述があります。是非固定観念を捨てて読んでみて下さいm(__)m。
「ロ.私権文明を問い直す(東洋と西洋)」
支配の違いから思想や宗教の違いへ、そして、現代においても認識方法の違いに繋がっている。やっぱり、この違いは大きい、決定的だと思う。

●それと、階層意識の違い!!=るいネットの投稿↓
「西欧と日本の階層意識の違い」

>欧米人の思想の根底にある人間中心主義とは 、けっして、人類一般を対象としたものではありません。あらゆる中心になるものは、もともとはキリスト教徒たるヨーロッパ人に限られます。

>人間と動物を断絶する論理は、同様にキリスト教徒とそうでないもの、ヨーロッパ人とそうでないものなどを断絶し、ヨーロッパ社会の内部においてはユダヤ人に対する迫害であるとか、非常に根強い階層意識などを形成してきました。また、ヨーロッパ社会の外部に向けては度重なる略奪・殺戮行為であるとか、人種差別などとして発現してきました。
〜以下省略〜

★上記の実現論の後段にある、
> 本源集団を破壊した私権文明が滅亡の危機を迎えた今日、東洋人の心の底に残る本源集団性・本源共認性は、人類再生の基盤を成すものとして極めて重要になる。中でも、島国ゆえに一七〇〇年前まで掠奪闘争に巻き込まれることなく原始文明を発展させてきた日本人の心の底に残る本源的な共認体質は、極めて貴重である。もし、人類に絶滅を免れ得る資質が残されているとしたら、それは東洋人、とりわけ日本人の心の底に残された、類い稀なる縄文人的精神基盤なのではないだろうか。

★★いま、閉塞した社会を本当に変えられるのは我々しかいない!本当にそう思う!

mrithrs0416 at 22:50|この記事のURLComments(0)TrackBack(0)

April 24, 2006

解脱って何?

昔から、緊張があったら弛緩が必要!なんて言われ方をしてきました。
なんで屋では、この弛緩を”解脱”という言葉で表しています。でも、単に”緊張”の対極にあるのが”弛緩”ではなくて、本当は不全を乗り越える為の頭の切替のようなものではないかと思います。切替と言っても、緊張=闘争つまり、仕事等を忘れ去り、のんびりするとか関係の無い事をする・・・という事ではなさそうです・・・・。

「真猿の同類闘争と共認機能」
>親和(スキンシップ)は皮膚感覚を発達させ、より不全感を解消する効果が高いプラス(快=ドーパミン)感覚回路を親和回路の周囲に形成してゆきました。このプラス回路(ドーパミン)は、全ゆる不全感覚を捨象する(マヒさせる)事が出来ます。従って、不全感を捨象すべく揚棄収束したサルたちは、生存課題であれその他の何であれ、そこに障害=不全がある限り、それを揚棄すべくこのプラス回路に収束する様になります。これが、共感統合に次ぐ、サル・人類の意識の、第二統合様式たるプラス統合です。(注:第一の共感統合は静的なエンドルフィン系の回路であるのに対して、第二のプラス統合は動的なドーパミン系の回路で、両者は情報伝達物質も、形成時期も異なっています。)

★不全を乗り越える!適応する!実現する!闘う!・・・その為の解脱回路!!
メチャクチャ、スッキリしました。
今までは、闘争を離れて遊ぶ事?親和する事?が解脱!って感じがしてましたが、大きな間違い!
そう言えば、みんなと話していて、なんかうまく行きそう!!とか、うまく行った!!と言う時の充足は何物にも変えられない!!本当の共認充足だと思う。

もう一つ、るいネットの投稿を紹介します。全面的に類的生活に切り替えていく時代が来たんだと思います!!
「『私的生活』から『類的生活』へ」

〜前半省略〜
>できるタイプの共通項は、私的不全発から社会不全発の課題意識に軸足が転換していること、だから観念(≒新理論)の必要性や可能性を実感していることなどが107354などで既に明らかにされていますが、意外に重要なのが、対面場面は私的共認や劣化判断のオンパレードになることを深く自覚し、どんな場面でも事実の追求と発信を厭わない、さらに、自分の専門や実績や肩書きに縛られることなく、とりわけ仕事以外の場(ex私生活や家庭or勝手な観念世界)に都合のいい逃げ道を用意していないことも挙げられると思います。

 要するに、所属するカタワ集団やタコツボ集団ごとに時間や活動を線引きしたがる序列時代固有の旧い意識から脱却して、社会変革でも仕事でも(場合によっては私的時間でも)すべての活動が繋がっているという新しい感覚を掴んでいる人ほど、発注者・受託者という立場を超えて、仕事ができる(=周りの期待に応えることができる)ということが鮮明になってきました。時代は間違いなく『社会』という‘24時間365日’の時空間(=類的生活)を顕現させ始めています。この事態は、仕事成果とほぼ比例して、私的生活派(=目先派or守旧派)と類的生活派(=根底派or実現派)という二極化が急速に進行中であることを意味しているようです。あるいは、私的生活とは、本源的な類的生活や活動をカタワ集団ごとに分断させただけの劣化の産物と総括できるかもしれません。

mrithrs0416 at 22:48|この記事のURLComments(0)TrackBack(0)

April 17, 2006

認識って何?

このブログでも、そして、るいネットでも”認識”という言葉がいっぱい出てきます。
では、認識ってなんなんでしょう???

●認識機能を持っている=生物(生命体)という区分も可能ではないかと思う。
 どんな原始生物も、そして単細胞生物も状況=外圧を認識する機能が無ければ生存できないし、適応の可能性は無い。全ての生物が適応の為に認識機能を持っている、と言えるんじゃないかと思う。
 外圧=内圧、対象=自分という普遍的な概念は生命原理だと思う。
 状況認識そのものが狂っている現代人は今のままでは、生存の可能性はない!
 ・・・自然の摂理からは当然の帰結だと思う。

★で、認識って何?の答えはるいネットにありました。
 認識には、外識機能、内識機能の二つがある。現代で言う”主観”客観”認識の分化方法は現実的ではない。下の答え、じっくり読んで見て下さいm(__)m。

「思考次元1 潜在思念の実践思考」

>生命体の認識機能には、食欲や性欲etcの欠乏を感じる内識機能と、それを充たす為の視聴覚をはじめとする外識機能がある。答えとは、課題の実現経路であり、実現経路とはこの内部意識と外部認識がイコールで結ばれた回路である。
答えを発見すると同時に全主体(=感応回路)はそこ(=実現経路)に可能性収束するが、それはある開かれた(=答えを見出した)欠乏意識とある開かれた対象認識がイコールで結ばれて共に強化される過程=その実現経路が強化される過程=その様な主体(実現回路)が強化・形成される過程である。
従って、欠乏意識(内的認識機能)と状況認識(外的認識機能)を結ぶ実現回路こそ主体の中核(先端主体)であり、この実現回路こそ思考の先端中枢である。

>注:人類の場合、当然、観念回路も使われているが、健全な実践思考では、主に状況認識を整序する為に観念が使われている。つまり、潜在思念(その先端の実現回路)によって整序された実践的な構造観念である。
逆に感応観念は、(次の2で明らかにするが)欠乏意識・課題意識をも状況認識をも共に歪曲し、極めて不健全な思考回路を形成する。

>注:近代思想が言う所の主観・客観という概念は、内部意識と外部認識を未分化に混合させた概念であり(主観も外識を使うし、客観も内識を含む)、全く意味を成していない。

mrithrs0416 at 22:22|この記事のURLComments(1)TrackBack(0)

April 10, 2006

科学って何?

「科学的!」とか「科学で証明された!」とかって聞くと「こりゃ間違いない!」「絶対だ!」って思っちゃいますよね!?でも、これで良いのでしょうか?

だいたい「科学」と言葉や概念、分野はいつ頃どうやってできたのでしょうか?

「近代科学について」

>まず、今日の自然科学的知識に相当するものはギリシャ時代から存在し、その確実性や根拠の究明は哲学の重要な任務の一つでした。つまり、哲学は科学哲学的問題意識を含んで成立していたと言うことになります。このことは、哲学が人間や社会を対象としているため、大きくは哲学に包含される当時の科学的認識も人間や社会を対象にしていた、と言うことだと思います。

>次に、『科学者』という言葉は1840年代にw.ヒューエルよって造語されましたが、科学が今日見られるような『個別諸科学』に専門分化し、さらに科学研究が専門的職業として成立するするのは、19世紀半ばの『科学の制度化』以降です。この頃、科学と哲学は明確に分離されることになり、科学研究活動を対象とする哲学的考察という新しいジャンルの『科学哲学』が誕生しました。これは、近代科学はそれ単独で社会を対象化することが出来ず、哲学の力をかりて社会に中での位置を確認するしかなかったという風にも考えられそうです。

>それから、本格的な科学の制度化は20世紀になってからです。技術革新が市場経済の制覇力の大きな柱になるにつれて、国家は科学を国家的事業として取り込むようになります。このとき科学はほぼ全面的に体制化され(=科学者は国家から身分保障を受けるようになり)、近代科学の制度的基盤が確立しました。

★元々は、科学と言うカテゴリー分けは無くて哲学と言うくくりで自然や社会、人間を対象化していたんでしょうね!でも近代科学は哲学や人間、社会とは別に「自然」や「モノ」「現象」だけを対象として考えようとしている!なんかおかしい!!

「自然観と科学の役割」

>ギリシャにおいては、貴族・平民・奴隷という身分制度が確立している。制覇力は武力であるが、武力権力の共認とともに、その権力を正当化するための無数の表層観念とその共認によって社会は統合されている。

>古代のギリシャ哲学の自然観は、コスモスに意味されるように、人間をその中に含む秩序を持った全体としている。規則性を欠くカオス的な変化も、永遠に変化しない秩序の中にとどまる。そして、この世界の永遠の秩序こそ、神によってもたらされたものである。

>現実対象から変化と秩序を考察することを誤りだとは断定できない。問題は「不変」の秩序と思考するところに想定した、神聖にして侵すべかざる真理の世界という観念世界である。これは宗教的な魂の不死性への願望の反映でしかないが、近代科学の枠組みを決定付けている。

>近代科学の言う真理の探求とは、常のこのようなベクトル上にある。極論すれば、現代の科学が、科学という名においてそれだけで正当性を持つというのは、宗教的な願望でしかない。

>一方、古代イスラエル民族は、弱小で迫害の歴史ゆえに現実社会に対して確信をもてる論理を構築できないがゆえに、現実世界を越えたところに絶対的な根拠を求めていく。ギリシャの自然観では、人間存在の位置がコスモスの中に位置づけられているのに対して、キリスト教は、唯一絶対神を想定することで世界の存在根拠を対象世界の外にもとめ、人間存在を世界の外に位置づけた。

>世界の外から世界を眺めるという構図が、近代の自我の性格を決定づけていると同時に、科学者の態度を決定づけている。近代思想の理性や近代科学の客観性とは、現実世界から遊離した地平に自らを置いているというだけかもしれない。

>十字軍以来、東方貿易を通じて、都市が発達し、商人たちが富を蓄積していく。性市場の拡大と商品市場の拡大は、自我や性闘争を美化し共認するための幻想観念を必要とする。性的自我や抜け駆け性闘争(性市場)を美化していたのが人間主義であり、私権闘争(商品市場)という現実に立脚し、支配し利用するものとして自然を対象化したのが近代科学である。

>近代の科学的態度とはもっとも自我から遠いところに位置しているように見えながら、その成立過程や果たした役割からは、自我と表裏一体のように思えるのだが。

★科学は客観的である!価値観とは相容れない!という見方が実は決定的に誤りなのでしょう!最初から自然は支配し利用するものである!という価値観やあるべき姿=真理を探求するという絶対視、が入っている・・・。そして、科学技術は市場拡大の為、市場期待に応える為に存在し、発達してきた。

みんなの期待に応える科学!=共認の為の科学、が一番必要なんだろうと思う。

mrithrs0416 at 22:29|この記事のURLComments(0)TrackBack(0)

April 03, 2006

勉強って何?

今日は「勉強って何?」です。

●昔は子供の仕事は勉強する事と思いっきり遊ぶ事!なんて言われてました。
でも、今は勉強の目的がわからない???・・・これって、ひょっとすると、大人たちが、仕事って何?に応えられないからじゃないか(ーー;)と思いました!!!
昔は、大人は、私権確保のために仕事をし、子供たちは、将来自分が私権を確保するために勉強してきた!
でも、今や、私権確保は第二、第三の課題になってしまって、全然活力が沸かないのは、大人も子供も同じ。
子供たちに本物の勉強を教える為には、大人が勉強しなくっちゃいけない!!メチャクチャ単純な話ですよね!!

社会状況=状況認識を教える、充足課題=必要課題を伝える・・・そして、期待に応え、実現していく事の充足の実感を伝える!!!大人と子供の関係ではなく、仲間の関係、早く社会の当事者として一緒に社会の中で闘おう!と言う期待・・・これこそがみんなが求めているモノだと思う。

るいネット参考投稿です↓
「子供たちに『勉強の必要性』を語るのは難しい…?!」

>「なんのために勉強するの?」という子供の問いかけは、実は子供発なのではなく、むしろ、新しい子供社会と古い大人社会の矛盾のはざまに存在する、講師たち自身の発する葛藤の言葉ではないか。
そうであれば、この問いを素直に言葉として発し、「勉強の必要性=認識の必要性」を共認すべきは、旧パラダイムから早期に脱却すべき講師達ではないかと思う。そうしないと、子供たちは誰もついてこないだろうから。

mrithrs0416 at 21:47|この記事のURLComments(1)TrackBack(0)

March 27, 2006

家庭って何?⇒家とは豚小屋(=私財置場)、庭とは裁きの場!?

今日は”家庭”についてです。

結婚や家庭、家族って素晴らしい!!、結婚してこそ一人前、女の幸せは、結婚・子育てにある・・・なんて思ってないでしょうか!?
一方で、昔から、男達は「結婚は、人生の墓場!家庭は牢獄!」、女達は、「愛し合っていたはずの男達が結婚してからは冷酷で、野蛮人である事が分かって幻滅!」なんて事が当たり前の事として言われています。

ホントはどうなの?・・・家庭って何?の答えは”るいネット”にありました。

「家庭とは何か?1930年、高群逸枝はかく語る。(1)」
>家庭とは家の庭と書きます。
まず、家という字−古い書物によりますと、この家という字は、豚の上に屋根のかぶさった字、すなわち豚小屋という意味の字であると書いてあります。
〜中略〜
ある学者は「家とは私有財産のことだ」といっている。昔、シナ人の主な財産は豚であった。彼らはそれを初めは共有していたが、権力者の出現とともに、私有が始まり、したがって、めいめいが屋根囲いの厳重な小屋を建てて、それらの豚どもを入れて置くようになった。それが家の起こりだ。だから、家とは、豚とかその他すべての私有財産を入れて置く建物のことだというのです。
〜中略〜
さてまた、その「自分の所有物」なるものは、「妻子財産等という」とあるから、その場合の自分なる人間はいうまでもなく妻子財産を有する「男」である。「男」のみが、「家(カ)」として立つことができるし、「婦人や子供」は「家財」でしかない。
家というものは私有財産を入れておく建物であり、また、他面、その所有者の存在を意味するものであることがわかりました。早くいえば、一人前の男は家という私有財産をもってなければならない。それをもっていることによってのみ一人前であるかないかが決定される。
〜中略〜
妻子を私有財産として所有しているということは、男にとっての非常な誇りである。だから、男は、ともすれば、妻子を私有財産に取り扱いたがる。わが国などにもこんな男がたくさんいる。

「家庭とは何か?1930年、高群逸枝はかく語る。(2)」
>家庭の庭の字を調べてみると、「庭とは庁と同義なり」とある。庁というのは、「政治をおこなう場所」であり、「罪人を検挙し、罪状を取り調べる役所」である。
〜中略〜
「つまり、少数の罪人(物や人を財産として私有しようとしたり奴隷として虐使しようというような欲望を起こした少数の罪人)が、自己の欲望を遂げようとすると、そこには種々の叛逆がおこる。それを彼らは罪悪と称し、それらの叛逆人を罪人と見なして、そこで法律を作ったり、政治を行ったりするのである。だから、政治や法律こそ罪悪そのものであるし、それは、少数の罪人によって作られたものである」と本居宣長は言っている。
〜中略〜
家庭の庭の字は庁の字と同じ意味の字、さてまた、その庁の字は「政治を行う場所」であり、「罪人を検挙し罪状を取り調べる役所」である意味の字である。

そうとすれば、家庭の庭の字は、私有財産として取り扱われている妻や子を罪人とみなし、ゆえにそれらを取り制え取り締まるための役所である意味である。

家法とか、家憲とか、家道とかの文字は、すべて、家庭の庭、すなわち、家庭における罪人どもを取り調べ取り締まる役所から発布される法律であることを意味している。

「家庭とは何か?1930年、高群逸枝はかく語る。(3)」
みなさん。
文字からみた家庭は、たいがい、こういったもので、決して神聖な場所どころか、罪悪の巣窟であり、刑務所である。

「文字は一切の哲理だ」といい、「言葉は神なり」というが、まったく、文字に現れた家庭の真相は神のように正直で、実際的である。
〜中略〜
とにかく、多くの家庭がうまくいっていないことは事実で、徳川時代に書かれた「庭訓」とか、「女鑑」とかいう書物を読むと、「女は邪険で、陰険で、姦キツだ」と毒づいてある。古くからの家庭で、女がいかに持て余されていたかが分かる。つまり、女の「人間性」が家庭というものといかに衝突してきたか。

これまでの家庭主義者は「女よ家庭に従順であれ。そうしてこそ家庭悪はなくなるのだ」といってきたが、なくなるどころか、いつまでたっても、かえって多くなるばかり。

そこで、目覚めた婦人は「家庭をケトバス」ことが唯一最上の手段であることを知った。

家庭とは何か。元来それは豚小屋と刑務所を意味しているのではないか。


★結婚や家族、また、一夫一婦制そして、男女関係そのものを既成の価値観や固定観念に囚われずに、しっかり考える・・・そこからしか、可能性は見えてこないと思う。

他にもいいお題があります。

「結婚って、ヤバくない?」

「私有婚(一夫多妻→一夫一婦)の起源」

「密室家庭は人間をダメにする」


★是非、「るいネット」 見てください。

mrithrs0416 at 22:45|この記事のURLComments(1)TrackBack(0)

March 20, 2006

芸術って何?→今必要なのは役に立つ認識!

芸術・・・音楽とか、絵とか、デザイン?他に文芸・・・今は、歌手なんかもアーティスト!?って呼ぶらしい・・・いつから、芸術っていうモノができて、すごく価値のある物のになったのでしょうか??
そう言えば、宝石とか、ブランド物のバッグとか男の私にとっては全然興味ないし、価値があるって思えないけど、女は喜んでるし・・・高い絵なんか買う気はさらさらないけど、好きな音楽のCDは買ったりしてるなぁ・・・???

で、芸術も市場で取引されているので、市場の成立起源から
「超国家・超市場論9 私権闘争の抜け道が、交換取引の場=市場である」
>交換取引は、武力闘争(およびその帰結たる身分制度による私権拡大の封鎖)からの抜け道として登場した。それどころか、最初に交換関係が登場した動機は、額に汗して働くよりも、(相手にこの品物が大きな可能性を与えてくれると信じ込ませることさえ出来れば)交換によって得る益の方が、ずっと大きいからである。

>実際、古代市場も、女の性的商品価値を一層高めてくれそうな宝石や絹や毛皮を主要な交易品として、拡大していった。(なお、近世→近代も、呉服や毛織物やレースが起点になる。)それに対して日常の主食品(米や麦やイモなど)に対しては、その様な幻想的な可能性など描き様がない。

★市場は女の性的商品価値の幻想化を主動因として、益を得る”場”である・・・何であれ、幻想化して価格を吊り上げて流通させれば儲かるって言うのが、市場なんですね!
で、芸術って何?
「「芸術」は私権の共認が生んだ観念の一つ」

>> しかし、市場社会では、商人階級の(コンプレックスの裏返しとしての)社会的評価をたかめる手段として「文化」が用いられた。
>> だから、「芸術」は商人階級というパトロンの思惑の下で発達してきた。パトロンなしには発達できなかったと言ってもいい。

> この「芸術」という概念はいつ生まれたのでしょうか?

>もともと「芸術」(art、ars)という言葉には、「技術」という意味しかありませんでした。
 大きく捉えても「芸事」「おけいこ事」くらいで、要するにその修練が大事だったのです。

>所有権が万物に認められるようになると、それまでは一つの技術でしかなかった「芸術」の概念が転換します。
 つまり、自分の芸術作品の源泉=オリジナリティーや、創造性の在処=「所有者」としての自分の個性ということが絶対視されるようになり、「芸術」の概念自体も何事からも束縛されない=自立した絶対的概念へと変化していったのです。

★結局、芸術は幻想価値を高め、その中心を”個人”=”自分”において、これを絶対化する行為である!と考えた方が良さそうですね。

優れた創造物は時代を超えてみんなが認めるモノ、だと思う。誰が創ったと言う事より、どれだけみんなが認めたのか?が一番重要なんだと思う。
より普遍的で、みんなが認める、モノ・・・今だったら、癒しや解脱では無く、必要な、役に立つ認識!こそ、みんなが求めているモノ、期待しているモノ、だと思う。

mrithrs0416 at 22:27|この記事のURLComments(1)TrackBack(0)

March 13, 2006

歴史の捉え方。

歴史って、結構好きなんですヨ・・・(^○^)・・・

単純にその当時の人達の意識に想いを寄せる、という事もありますが、何より、今の現実を作ってきたのは、人々の意識であり、時系列としての歴史なんだと思います。
原因と結果という関係として”今”があるし、”これから”を考える為の材料である事は間違いないと思います。
でも、僕らが学んだ”歴史”という学問の”事実”の捉え方が間違っていたら
・・・(^_^;)・・・”今”も”これから”も見通しがつきません。

で、るいネットの投稿で、弥生時代を考えたものがたくさんあります。弥生時代って何?と聞かれると、「稲作の開始」「鉄器の使用開始」「階級社会の始まり」とか文明が進んで良くなったというような価値観で見てしまいますが、事実はどうなんでしょうか?

「縄文・弥生論争への視点」

>現在弥生時代開始が500年遡るのではないか?との論争が花を賑わせている。しかし私はこの論争自体に少し違和感を感じている。

現在縄文時代と弥生時代を分かつモノサシは、稲作の開始、鉄器、土器の変化、階級社会化等に求められている様だ。しかしこれらの視点は次のように連関付けられている。

稲作の開始=農耕の開始→生産力の上昇と開墾⇒鉄器(鉄農具)の普及⇒余剰生産物の蓄積→階級分化、という図式である。(因みに土器の変化は自然信仰を反映した紋様から、機能性重視の形態への変化として連関付けられる)
つまりその背景にあるのは、マルクスの提起した、「生産様式が社会構造の根底にある」という見解である。あるいは近代経済学も含めて生産力の発達が文明の発展の根底にある、という見方である。
言葉を換えれば米を日本人の原点としてみなす見解ともいえる。

従って必然的に各指標の中でも「稲作の開始」が決定的に重要なものとされている。
しかし私はこの見解自体に異論がある。それは農耕=栽培と採取の間には連続性も存在するからだ。極端な言い方をすれば湿地にもみを撒けば稲は生えてくる。あるいは芋そのものを埋めればイモは生えてくる。それくらいの知識は採取文明にもあったはずだ。だから過去の投稿でも明らかにされているように起源を遡れば農耕の開始はかなりの年代まで遡れる。(世界史的には現在分っている範囲でも8000年から1万年前)また縄文時代においても現に三内丸山ではクリの栽培が行われている。従って農耕=栽培の開始が社会構造の転換において決定的であるという根拠が希薄である。従って農耕(稲作)の開始とそれに付帯する指標で歴史を区分することは本質を見誤る危険性を持つ、と思う。

私はこの点において注目すべきは社会統合の様式ではないかと思う。人類社会は共認によって統合されるが、私権社会は土地と女の私有権を共認し、それを巡って合い争う事で勝者敗者が生み出され、それが身分秩序のヒエラルキーを生み出し、最終的にはその力で統合される社会である。(従来の)弥生時代史を俯瞰すると、弥生前期に環濠集落登場つまり、集落間の(おそらく武力を含む)同類圧力が高まっている。そして後期には倭国大乱そして邪馬台国の登場にいたる。つまり弥生時代とは、私権圧力とそれを背景にした武力闘争の圧力をへて私権時代確立への過渡期の現象を示す時代であり、この見方の方が本質的と思われる。従ってこの弥生・縄文の時代区分論争においても中心に置かれるべきは、私権の共認と私権圧力の高まりを示す諸現象群で、これによって時代区分とその時代の位相を考察すべきではないか、と思う。

★歴史の転換点や社会様式の変化は、圧力とそれに呼応する共認内容によって社会統合様式が変化する事によって起こる!!という視点はすごく重要だと思う。
人類史を考える、日本史を考えるって、こういう事なんだ、と思う。
実際、学校で習った歴史って役に立たないばかりか、逆に思考を誤らせてしまっている・・・と思います。
事実をしっかり認識する事からしか、何も見えてこないんだなぁ、と思う。


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March 06, 2006

国家って何?⇒マスコミの犯罪性

国家て何?を考えていくと、国家を監視すると言う機能を持ち且つ、共認形成機関である、マスコミ(=今や本質的には第一権力)の問題を抜きには考えられません。

で、るいネットの投稿です。
「マスコミの‘染脳プログラム’は課題矮小化とその繰り返し」

>この2週間、TVでは‘堀江⇒武部メール’の真偽を巡る自民vs民主の攻防戦が放映され続けてきましたが、ある報道番組で「国会では他にも予算審議etc重要な議題があるのに、民主党のおかげでそれらが棚上げになってしまった」というようなキャスターの発言がありました。たまたまそれを聞いたとき、私は違和感を通り越してあきれてしまいました。

 このメール問題は、まだ若年のある代議士がたまたま質問した内容に過ぎないのに、それを大々的に取り上げて、あたかも今国会の中心問題であるかのように演出したのは他でもないマスコミ自身ではないのか?、にもかかわらず、発言した当人やその所属政党だけの責任のように語って憚らないマスコミの神経はどうなっているのだろうか?・・・、強いて言葉にすればこんな感覚です。

 政治や経済などの社会問題を前にしたとき、マスコミがこれまで繰り返してきた常套手段はゴシップネタの露出報道と徹底した傍観者ポーズですが、国民の関心や問題意識は、最早そんな次元にはないことにマスコミ人は未だに気付かずにいます。したがって、問題の設定の仕方(=その切り取り方や焦点の絞り方)を彼らに都合よく矮小化するという最も幼稚かつ狡猾な方法論で、すべての番組製作を相変わらず続けています。

 しかし、多くの人たちの社会不全はもっと急速に膨らんできています。マスコミが演出する‘サル芝居’に辟易とする層も確実に急増してきており、大衆意識に同化するつもりのないマスコミの姿勢に嫌悪感を感じる人も決して少数派とは言えないレベルになってきました。ところが『いつの間にか支配されている』というのは、TVでは矮小化された課題フレームを何回も何回も繰り返して放映するからであり、こんな低次元の手法がマスコミの‘染脳プログラム’と言っても過言ではありません。そこから解き放たれるためには、事実に立脚した問題の立て方を常に問う姿勢を私たち自身が体得しなければ、最も基底的な位相にある『課題共認』が錯誤してしまい、結局『答え』の出ない袋小路に陥ってしまうこともしばしばです。

 おそらく、マスコミによる共認支配からの脱出(=真に自由な思考)を失速させる要因があるとすれば、それは『課題共認』の重要性を私たち自身が十分に認識していないからかもしれません。そして願わくば、マスコミに象徴される目先思考や表層思考に取って代わって、根底思考を復活させる期待圧力を自力で高めていくための発信を日々心掛けたいものだと思います。

★マスコミの共認支配?ってピンと来ないかもしれませんが、日々、私たちは、マスコミを通じて情報を得ているので、知らない間に???な事を思い込まされている、いつの間にか信じてしまっています。

「いつの間にか支配されてしまっている・・・」

>『マスコミが第一権力化したのは何でだろう?』というなんでや屋での問いに対して、「実感としては何となくマスコミに踊らされてるような感覚はあるけど、第一権力化してるってまでは思わない」そもそも「第一権力化って?」とういう反応がよく返ってきます。

僕自身も、なんでや劇場での議論を通じて、マスコミによる共認支配の恐ろしさを初めて実感しました。

そもそも「第一権力化した」ということにみんなが気付かないほど、いつの間にかマスコミの共認支配は強まっている。これは本当に恐ろしい事だと思います。
『いつの間にか支配されている』。このことがまさに『マスコミが第一権力化した』ことを物語っているのではないでしょうか。

マスコミのいい加減さに対して腹を立てる人も出てきているとは思いますが、それが政治家よりも軍隊よりも資本家よりも、権力を握っているということまではおそらく感じていないでしょう。

マスコミの共認支配が閉塞の元凶、そして真犯人である。そして今攻撃されるべきなのはまさにマスコミである、という認識を広めていく事、それがまず突破口になると思います。

それと同時に、

>普通の一般庶民がマスコミに変わって自ら共認の場を作りそこに参加し、現実の実感を拠り所に現実の役に立つ新しい観念を生み出すこと

マスコミの共認支配から脱却して、みんなの潜在思念に立脚し、実感にフィットした新理論を生み出していく。そして『みんなで』共認形成していくことが求められる。

それらを同時に成し遂げられるのが、なんで屋なんだ!と思います。

★現実を直視し、本質問題を考え、答えを出す!!なんで屋の使命だと思う。

mrithrs0416 at 21:54|この記事のURLComments(0)TrackBack(0)

February 27, 2006

国家って何?⇒危機的状況をどうする!!

この所、ホントに”国って何?””政治って何?”って考えちゃいますね〜。
メール疑惑がどうした、とか言ってる暇があるなら、ライブドアの本質問題をちゃんと考えるべきでしょう!!!
全ての問題が中途半端になおざりにされたまま、また新たに大きな問題が噴出してくる!
本当に危機的状態だと思います。

で、るいネットの参考投稿です↓

>すでに市場は縮小過程にあり、市場原理絶対の価値観は大きな矛盾を生みあらゆる生産活動に閉塞をもたらしています。答えの見えない状況で、目先の圧力にしか反応できない人が増え、“自分さえよければいい”という自分第一(私益第一)の価値観は己の都合で仕事(課題と成果)をどんどん劣化させてゆきます。
(「人が、社会がどんどん劣化している」

最近は、上記で例に出されている耐震偽装問題を始め、ライブドアやBSEの問題等が噴出し、マスコミを賑わしているが、事件を起した当事者達はもちろん、これらの問題の原因分析を行い、対処方針を出すべき、政治家やマスコミ、学者達こそが、とことん劣化していると思う。個人の問題、制度の問題、としてしか捉えられないばかりか、問題そのものの整理や制御さえできず、混迷を深めるばかりの様相である。
これらの問題は、市場で起っているのであって、私権闘争の止揚、統合という国家としての機能がもう既に完全に機能不全に陥っている!という事実を示しているのだと思う。

>もともと国家は、私権闘争を圧力源=活力源とする、力の序列原理に貫かれたその統合体として形成された。しかし、生涯固定の身分制度の下では、私権拡大の可能性は封鎖されて終う。そこで、私権闘争の抜け道としての市場が形成され、繁殖してきた。そして今、その抜け道としての市場さえ活力を失って終った。
これは、明らかに私権闘争の終焉を意味する。そして、私権闘争が終焉したということは、私権闘争の止揚・統合体である国家の命運も、遂に尽きようとしているということに他ならない。実際、バブル期以降の国家の迷走ぶりは、すでに誰の目にも明らかである。
「超国家・超市場論12 市場の拡大限界は、国家の統合限界でもある 」

バブル崩壊以降、国家の迷走は顕著になり、ここに到って、もう既に完全に統合機能崩壊の情況を呈していると思う。
統合が崩壊した社会は滅亡に一直線に進むしかない。

>人類の命運は、次の新たな活力源⇒圧力源を自らの手で作り出せるか否かにかかっている。(上記)
活力源を作り出し、統合と秩序、規範を再生する事は、社会の成員みんなの期待であり、役割である事を再認識したいと思う。


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February 20, 2006

「高齢者」という旧観念!?

20007年には団塊世代がいっせいに定年を迎え、大量の「無職の高齢者」を生み出します。
高齢化社会をどうする?という問題は目前の課題として迫っています。

私の母は80歳を過ぎて一人暮らしをしています。父が亡くなった頃はやる事が無くてしんどかったそうですが、今は元気に暮らしています。
元気の元は”やるべき事がある!”という事だと思います。
たまたま近くの親戚がビジネスホテル兼寮のようなものを経営しているので、そこの皿洗いと掃除を手伝わせてもらっています。
毎日やるべき事がある、課題と役割があり、応えるべき期待が感じられる、誰かに感謝し、感謝される・・・人として当たり前の生活があれば活力と充足が持続する。

現代の「福祉観念」が標榜する「やるべき事が無いけど、自分の好きに生きる生活」「衣食住だけは保障される生活」・・・本当は地獄のような生活なのではないでしょうか!?

るいネット↓
「「個人の自由」の哀れな末路」
>かつて共同体が機能していた時代は、たとえ年老い体が動けなくとも、蓄積した経験と智恵によってみんなの役に立つこと=仕事をすることが可能だった。その仕事の中身は、集団や地域の課題を担う統合の仕事、いわば「統業」である。普通の人々が統業を担うことを期待されていた、ということでもあった。

 しかし、市場社会化が進行し、「個人の自由」が絶対化されるようになる。すると、「個人」に対する妨害物として共同体は破壊される。あらゆる人々は生産基盤を持たない、自分の労働力を切り売りするしか生きることができない労働者、サラリーマンになった。

 さて、個人の自由を叫び続けて辿り着いたのはどんな世界だったか?
  
 誰もが必ず老いる。すると、家庭からも企業からも役立たず扱い、邪魔者扱いされる。
 ついには、福祉施設、老人ホームに押し込まれ、社会的関係からも、あらゆる生産的活動からも遮断される。これは強制収容所と同じである。

 老人となった労働者は生産手段がないのだから、自分の仕事がなくなれば、食べていくことができない。だから、年金にすがりつくしかなくなる。しかし、働いていない=返す人間はだれもいないのだから、年金は永遠に赤字のままである。若者からは年金をもらうことで、やはり目の上のたんこぶ、重荷だとしか思われない。

 こうして、役割のない人々を養うためのお金としての年金の赤字は積もり積もって400兆円になったのだ。
 個人の自由を追求した結果待っていたのは、最終的には誰からも疎ましく思われ、誰からも期待されず、社会の足枷だとしか思われなくなる、そういう社会だったのだ。

 この社会を変えるには、やるべきことが2つある。
 一つは、共同体を復活させることである。
 もう一つは、人々が誰もが担っていた「統業」を、万人の手に取り戻すことである。真っ当な生産活動として、誰もが担うことである。それ以外に、地獄のような世界を変える方法はないのだ。

★高齢者や子供、といった区分の無い社会、みんなが役割を持つ社会=共認原理の社会の実現こそが、福祉という観念がいらない、まともな社会なんだと思う。

「関係パラダイムの逆転が実感できるか?」
>自分発のプライドや序列意識は何の役にも立たない!
”なんであれ、役に立てれば嬉しい!””自分からみんなへ”という関係パラダイムの逆転が実感できている人は、いくつになっても、また、どこに行っても充足と活力が得られる!新認識への入り口でもあり、根幹でもある、この実感が一番必要なんだと思います。

mrithrs0416 at 22:48|この記事のURLComments(2)TrackBack(0)
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