2006年02月02日

終章

手に金属のひんやりとした感触が感じられる。俺は姉ちあゃんの胸が呼吸に合わせて上下しているのを見つめた。
 「ひああああ」
 聞こえていたはずの音が急に消失し、頭の中にざわざわとノイズが響き始めた。姉ちゃんはまた魔子と話を始めたようだが、俺には姉ちゃんの口が動いてるのが見えるだけで、何を言っているのか聞こえない。
 「ごめん姉ちゃんごめん姉ちゃんごめん姉ちゃん」
 俺は言葉を繰り返すが、頭の中のノイズでかき消され、くぐもった、おえんねえやんおえんねえやんという音だけが聞こえた。まるで水の中にいるようだった。俺は姉ちゃんの足から伸びている、生命維持装置と繋がっているチューブを手に取った。姉ちゃんは俺がこうすることを許してくれるよね?姉ちゃんが自分の進む道を見つけたように、俺も自分の進む道を見つけるよ。だから姉ちゃんは俺の心の中で、生きて。でも姉ちゃん安心して。唯では終わらせないから。代償として、俺は兄ちゃんを殺すから。鋏を開き、チューブに当てた。鋏を持った手に力を込める。
 不意に音がクリアになった。
 「魔子ー、これから――」
 姉ちゃんの声。何?何これから?心電図が表示されている機器がピーと音を立てる。チューブからは液が溢れ出た。姉ちゃんの体ががくんがくんと揺れ始め、ガガガガとものすごい音がなった。
 「あああああっ!」
 姉ちゃんが絶叫を上げた。姉ちゃんは手をヘッドギアに当て必死に外そうとしている。ぐちゅるるる。嫌な音が姉ちゃんの頭からした。
 「ああああああ!」
 俺は血が凍りついた。は、早くヘッドギアを外さないと。しかし、体が永久磁石で固定されたようにまったく動かなかった。姉ちゃんがヘッドギアに当てた両手に光が集まっていく。集まっていったが、それは強い光になることなく薄い光を保ったままで、やがて消失した。つぅ――と姉ちゃんの鼻から血が一筋の線となって流れ落ちていくのが見える。そして、姉ちゃんの動きが止まった。

 俺は鋏を手に持ったまま硬直していた。え?うそ?そ、そんな…。
 「そんなことってぇ!」
 ま、まさかドリルが作動するなん――。
 「うわあああああっ!」
 俺はそのまま部屋を飛び出そうとした。しかし姉ちゃんが繋がれた機械から伸びる無数のコードに足を取られる。その抵抗で俺は転がり、コードが千切れるぷちぷちという音がした。転がった先には兄ちゃんの机の足があって、俺はそこにぶつかり、ぶつかった衝撃で机の上の良く分からないものがバラバラと落ちてくる。そしてパニック状態のまま兄ちゃんの部屋のドアまでたどり着き、わき目も振らず開けて飛び出そうとすると、何かにぶつかり俺は弾き飛ばされ尻餅をついた。顔を上げると、そこには俺の見知った顔がある。
 白衣を着た兄ちゃんが顎鬚を撫でながら、憮然と俺を見下していた。俺はとっさに口が出た。
 「に、兄ちゃん!」
 兄ちゃんは憮然としたまま俺を見ている。そして、俺が慌てているのにはまったく意に介さず、しばし間をとった後にひどくゆっくりとした口調で言った。
 「どうした?ザジ?」
 兄ちゃんのゆっくりさは俺の焦りをさらに加速させた。
 「ね、姉ちゃんが姉ちゃんが…」
 俺は後ろ手に部屋を指差す。
 「んー?ウァルツが、どうかしたって?」
 兄ちゃんはどこか、心ここに在らずといった様子で言った。
 「と、とにかく、き、来て」
 俺は兄ちゃんの白衣の袖を掴み引っ張った。兄ちゃんの体がほとんど抵抗なく引かれ、兄ちゃんの頭ががくんとなる。
 「兄ちゃん?」
 俺は兄ちゃんの様子がいつもと違うのを感じた。
 「大丈夫?」
 「ん?あ、あー。大丈夫だ。それより、ウァルツがどうしたんだっけ?」
 俺は答える代わりに、兄ちゃんをぐいぐいと引っ張り、例の部屋まで連れて行った。そして俺は再びその状況を見ることとなる。
 むき出しのコンクリート、無数のコード、部屋の中心にはゲーム世界へと誘う装置、そして装置の椅子の上には、四肢をだらりとさせ、重力に任せて頭が横に流れている、姉ちゃん。俺は顔を伏せた。
 「こりゃあまた…」
 兄ちゃんが目を見開いたまま言葉を失っていた。それからちょっとして、兄ちゃんはずかずかと姉ちゃんに近づき、おもむろに姉ちゃんの首筋に手を当てた。
 「死んでるな」
 低い声で兄ちゃんが呟いた。そして俺のほうを振り返った。さっきまでの兄ちゃんの少し気が抜けた様子は消え、真剣な顔がそこにあった。
 
 「ザジ。お前がやったのか?え?」

 頭の先からつま先に一気に電流が走る。一瞬の間にフラッシュバックが起きた。ゲーム世界に最初に入ったときのこと、姉ちゃんとゲーム内で出会ったこと、敵と戦ったこと、魔子に出会ったこと、ばあちゃんとであったこと、姉ちゃんがゲーム内に残る決意をしたときのこと、エンディングの王室のこと、そしてその時々の俺の感情が怒涛のように頭に流れ込んできた。それから、なんてことだ、俺はついさっきの事をパニックで忘れてしまっていた。俺がこの手でさっきしてしまったこと、ほんの数分前のことなのに――。
 「う、あ」
 俺は後ず去った。じりじりじりと。そして背中に壁が当たる。俺が後ず去るのにあわせて、兄ちゃんがゆっくりと近づいてきた。
 「お前、ウァルツの生命維持装置切ったな?」
 俺はしゃがみ込み、兄ちゃんの影が上からぬっと襲ってきた。違う違う違う違う、いや、俺が俺が俺が、いや違う、俺がやった俺がやったんだ、いやちが。元はと言えば元はと言えば。
 「元はと言えば!」
 頭の中で反芻されていた言葉が口から出た。
 「あ?」
 兄ちゃんに凄まれて次の句が告げなくなった。駄目だ駄目だこんなんじゃ。俺は兄ちゃんを殺さなきゃ。あんなに、憎かったのに。実際に兄ちゃんを前にして俺は腰が抜けてしまっている。兄ちゃんは、ふぅと溜息をついた後、身を引いて適当な装置の一つに寄りかかった。 
 「なぁザジ」
 兄ちゃんが言葉を発した。
 「俺はがっかりだ」
 「…え?」
 俺は兄ちゃんの言葉に耳を傾ける。何を言い出すんだ。兄ちゃんは頭の後ろで腕を組んだ。
 「お前さぁ。俺を殺すつもりじゃなかったのか?」
 俺は目を見開いた。
 「その手に持ってる鋏でずぶーっと」
 「そんなこと」
 「ばーか。だってよー。お前がさっき言おうとしたことって『元はと言えば、兄ちゃんがこんなゲーム作らなきゃよかったんだ!』だろ?」
 俺は手に持ったままでその存在を忘れていた鋏を見た。ずっと握っていたせいか、鋏の取っ手の部分は体温と変わらなくなっている。俺は顔を上げることができず、俯いたままだった。兄ちゃんの顔をまともに見ていられない。俺の思っていたことは、すべて兄ちゃんのお見通しだった。兄ちゃんへの殺意が徐々に薄らいでいくのを感じる。全てを見通された上で行動を起こすこと徒労に思われた。
 「確かにゲームを作ったのは俺だがよー。実際ウァルツに手を下したのはお前だぜ」
 兄ちゃんの言葉は鉄球が空から降ってくるようなものだった。俺は完膚なきまでに潰される。
 「しっかりしろよザジ。これじゃあ頭にドリルで穴を上げられたウァルツが――」
 「兄ちゃん!」
 思わず声が出た。兄ちゃんはいったん言葉を止めた。俺は何か言わなければならないのに続く言葉が出てこなかった。しかし、ここで何か言わなければ。言わなければ、俺はもう兄ちゃんに歯向かう最後のチャンスが失ってしまうように思われた。息を吸い込み、俺自身に望みを懸けた。
 「兄ちゃん。兄ちゃんに罪はないよ」
 兄ちゃんは小さく「ほう」といい、俺のこれから続く言葉に期待している様子だった。
 「兄ちゃんはただゲームを作っただけ。例えそれが命を懸けなきゃならないものだとしても。罪があるとすればやっぱり…俺だよ」
 「それで?」
 兄ちゃんが先を促した。
 「じゃあ逆に聞くよ。俺はどうしたらよかった?」
 言葉として発してみることで、俺の心の中で再び黒い感情が胎動を始めた。兄ちゃんが目を細める。
 「ゲーム内に姉ちゃんがとどまることを決めて、こんな機械に繋がれたままの状態で、姉ちゃんがずっといることを見過ごせっていうの?兄ちゃんはそれでいいの?」
 「ふむ…」
 兄ちゃんが少し考え込んだ。
 「それでも兄弟なの?それでも家族?」
 俺は一気にまくし立てた。
 「ちょっと待った」
 兄ちゃんが口を挟んだ。
 「少し言葉が多いぞザジ。『それでも兄弟?それでも家族?』は余計だ。兄弟だったら、ウァルツが戻ってくるのを待つんじゃないのか?」
 「でも、姉ちゃんは残るってはっきりと言ったんだ」
 「その場の雰囲気ってのもあるだろう。そのときウァルツは正常な判断ができていたのか?」
 そう言われると言葉に詰まる。あの時――俺と婆ちゃんが姉ちゃんの下に駆けつけたとき、果たして姉ちゃんの精神は正常だっただろうか?確信を持って肯定することができない。
 「人の言葉なんて立場や周りの環境で簡単に変わるもんだぞ。本当にお前がウァルツのことを兄弟として、家族として信じているならば、その時のウァルツの言葉を鵜呑みにするんじゃなく、ウァルツの気が変わるのを根強く待つはずだ。つまりお前は兄弟だの家族だの一見うまいことを言っているようだが、実際のところ、ゲームクリアの時点でウァルツがお前じゃなく魔子を――」
 「やめてくれっ!」
 俺は悲痛の叫びを上げた。
 「いや、やめないぞ。つまりお前はウァルツがお前じゃなく魔子を選んだことにたいする嫉妬から、ウァルツを殺したんだ。ホント口ばっかり達者なヤツだ。このガキがっ」
 先ほど生まれた黒い感情が、兄ちゃんの言葉によって沸騰した。
 「うわああああ!」
 俺は鋏を握り締めたまま兄ちゃんに向かって突進していった。軽々と弾き飛ばされるのは覚悟の上だった。だが兄ちゃんは片肘を装置の上に預け、もう片方の手で顎鬚を弄っていた。兄ちゃん、兄ちゃんよけないと。なぜか心の中で兄ちゃんを案じる感情がほんの僅かだが湧き上がった。ねえ、兄ちゃん?兄ちゃんてば、なんで突っ立てるんだよ。もうあと3歩で。このままだと。あと2歩。
 「兄ちゃんあああん!」
 俺の体はそのまま兄ちゃんの体にぶち当たった。顔を上げる。兄ちゃんの顔が歪んでいた。手が暖かい。手を動かしてみた。
 「がはっ」
 兄ちゃんの口から苦痛の声が上がった。恐る恐る自分の手を見た。手?ある筈の俺の手がなかった.。そしてそれもそのはずだった。俺の手首から先は鋏とともに兄ちゃんの腹のなかにあったのだから。兄ちゃんが苦痛の声を上げたのは、俺が鋏を握ったままの手を開いたことによって、開かれた俺の手や鋏の先が兄ちゃんの内臓を掻き回したからだった。
 俺は苦痛に顔を歪める兄ちゃんを見て怖くなり、手を兄ちゃんの腹から抜こうとした。しかし、兄ちゃんの強い力で腕を捕まれ、止められた。
 「抜くな、ザジ。抜くと血が噴出す…それに下手に動かされると、いてぇ」
 俺は体を硬直させた。
 「なんで…なんで兄ちゃん。避けないの?兄ちゃんだったら簡単に避けられたはずなのに」
 「ふ、ふはは。お前はホントためだなぁ。兄の優しさに気づかぬとは」
 「何言ってるの兄ちゃん?」
 兄ちゃんは何か言おうとして口を空けると、ごばっと血の塊が吐き出され、俺の顔にかかった。顔が一瞬ぬるくなる。それから兄ちゃんはまた話を始めた。
 「おっと、悪ィ。…なぁ気づけよ。自分の口から言うのは恥ずかしいんだよ」
兄ちゃんは荒い息を吐き出している。気づく?何を?兄ちゃんが避けなかったこと?
 「はっ。もしかして兄ちゃん…」
 そんなことって。俺がなかなか実行に移さないから。兄ちゃんが俺に姉ちゃんへの復讐を達成させるために、俺を焚きつけた。だから、だから攻撃を避けなかったなんて。俺は悲痛な面持ちで、苦痛に喘いでいる兄ちゃんを見た。兄ちゃんは口の端を少し吊り上げ、僅かに顎を引いた。
 「そんなバカなっ!なんでだよ!何考えてんだよ兄ちゃん!」
 俺は興奮する。
 「いててて、馬鹿。手ぇ動かすなって言ってんだろ。まぁそういうこった。あ、いかんいかん意識が…。おいザジ。ちょっといいか?」
 いきなり兄ちゃんが掴んでいた俺の腕、兄ちゃんの腹の中に入っている腕を引き寄せた。腹の中で俺の手と一体になった鋏がずももももと、内臓を突き破りながらさらに奥へと入っていった。「がっ」と兄ちゃんの口から再び血が吐き出される。
 「…まだ意識をなくすには早すぎる。ザジ、全ての人間の行動には理由がある。俺がこれから言うことを良く聞け。信じられんかもしれんが、事実だ」
 俺は尋常ではない兄ちゃんの様子に圧倒されて、ゴクリと唾を呑んだ。
  
Posted by mrunchein at 23:06Comments(0)TrackBack(0)

終章ぁ粉扱襦

「俺らの家族、磯野家のことだ。お、お前は磯野家のことをどこまで知ってる?」
 「どこまでって…そんなこと考えたこともないよ。親父は親父だし、母さんは母さんだし――」
 「ま、まぁそうだろうな。じゃあ例えばその親父だが。何人人を殺したかとかは知らないだろうな。俺が調べた限りでは19人だ。この数は全て、親父が立会い人を立てて行った果し合いや決闘によるもので、俺らの考える殺人とはちょっと異なる。そ、それに、立会人不在の果し合いや、親父に仇討ちに来て逆に、返り討ちにされて死亡してしまった奴らも含めればこの倍以上、4,50人は殺しているだろう」
 「それって…」
 「本当だ。俺、ウァルツ、ザジを除いて全員の事を言おう。まずはじいちゃん。残念ながら、じいちゃんについては俺はほとんどなにも知らない。俺はオプを一人雇って、そいつに爺ちゃんを監視してもらったんだが、しばらくは何の報告もなかった。お前も知ってるようにじいちゃんはいつも部屋で茶を啜ってるだけだからな。だが、明くる日、俺らの家にじいちゃん以外誰もいなくなったのを見計らって、車が一台やってきた。黒いスーツをまとった男が二人いたらしい。オプは職業上の勘からキナ臭さを感じてすぐに二人の男とじいちゃんがのった車を尾行して行った。だがそれ以降オプからの連絡は途絶えてしまった。瞬時に俺はやばさを感じた。幸いなことに俺は架空の名義を使い、仲介業者を通じて探偵を雇ったから、雇い主が俺だとばれることはなかったがな。それだけで俺はじいちゃんに関して調べることをやめたよ。俺も自分の身が可愛いからな。次は婆ちゃんだ。婆ちゃんはすげぇぞ。いってみりゃあ婆ちゃんは俺と同業者なんだが、研究内容は全て俺の10歩先を行っている。今は退官しちまったが、昔いた海外の理工系大学ではいまだに婆ちゃんのやっていた研究テーマが継続されてる。だがそれだけじゃない、婆ちゃんは軍にも居たんだ。衛星ビームの主任研究者としてな。その衛星ビームはな、今は戦争が起こるたびに使われてるよ、ミサイルよりも精度がいいんだこれが。婆ちゃんはもう軍にはノータッチだが、婆ちゃんの開発した技術で何百人と人が殺されているのは事実だ。まぁ前にお前が言った様に、開発者全ての責任を押し付けることは出来いがな。なんにせよ俺は研究者としてばあちゃんを尊敬してるよ。今はばあちゃんは何も研究はしてないが、今だって尊敬の念は変わらない。それから――」
 一気にしゃべって体力を著しく消費した兄ちゃんは言葉を止めた。ぜいぜいと荒々しく息をしている。兄ちゃんの顔は土気色になっていた。
 「はあはあ、親父に関してはさっき言った通りだ。次に母さんだが」
 兄ちゃんの言葉がまた止まった。今度は息が苦しくて止まったのではなく、兄ちゃんが言うのをためらっている様に思われた。
 「良くみろザジ」
 兄ちゃんが白衣を脱ぎTシャツの肩の部分を引きちぎった。兄ちゃんの胸から上が露になり、俺は息を飲んだ。数え切れないくらいのどす黒い痣が兄ちゃんの上半身を埋め尽くしていた。
 「ど、どうしたのこれ?」
 兄ちゃんの苦痛に歪んだ顔に悲しみの色が浮かんだ。
 「これは、母さんにやられたんだ」
 「え?」 
 「母さんは月に一度狂うんだ。その日が来ると、母さんは暴力に狂う。正直言うと磯野家の中で一番ヤバイのは間違いなく母さんだ。親父が毎月、命がけで狂った母さんが外へ出て行くのを止めなければ、毎月この近辺で大量殺人が起きることになる。ニュースとかじゃあ、10人くらいでも大量殺人なんていったりするが、母さんのは桁が違う。母さんの殺る数はおよそ200人だ。夜十時くらいから深夜2時くらいまでおよそ4時間、母さんは一分たりとも休むことなく、人を見つけては殺すんだ。しかも誰にも見られないように必ず相手が一人の時に。母さんは特定の武器は持たない、その場にあるもの、その時持っているものしか使わない。たまたま母さんが料理中におかしくなってその時包丁を使っていれば包丁を持って行くし、何もしてないときにおかしくなれば、素手だ。素手で出て行っても、路上に手ごろな石があれば石を使うし、先のとがった木の枝が落ちていればそれを使うこともある。過去3回、親父が夜家にいなかった時それは起きている。まだ俺がお前くらいの時の話だ。今は、親父が夜家を空けることは100パーセントない。母さんがいつおかしくなるか分からないからだ。だけど、必ず母さんは月に一度おかしくなることは断言できる。過去3回、殺しを終えた母さんは家に帰ると泥のように眠り、朝には自分が何をやったのか忘れていた。だけどその3回以外は全部親父が母さんを止めている。どうやって止めていると思う?ほとんど母さんを人間扱いしていない。親父は母さんを半殺しにするんだ。もちろん親父も半死半生になる。それでようやく母さんの暴力衝動が影を潜めるんだ。でもまだ終わりじゃない。今度は暴力衝動が影を潜めた代わりに快楽衝動が現れるんだ。どういうことか分かるか?お前にはまだ具体的なイメージはわかないだろうが、母さんは半死半生のまま、半死半生の親父と朝までセックスをするんだ。そんなことが信じられるか?そして5年前、俺が高校生の頃だ。母さんの暴力衝動と快楽衝動が混在し始めた。今までは暴力衝動のあとに快楽衝動が出て来たがそれが変わったんだ。なぜなら、母さんは俺に目をつけ始めたからだ。それからというものは、月に一度母さんは俺の元にやってきて、俺をまず殴り始める。初めは何が何だか分からなかった。俺も親父から多少は武道の手ほどきを受けてたから、なんとか凌ごうとしたが、無理だったよ。単純なパワーだけで母さんは化け物じみていやがった。俺の方が腕が太いのにも関わらずな。脳のリミッターが外れてるって言うやつだ。下手な技術は全部力でねじ伏せられた。殴りながら母さんは俺の服を引き裂き始め、それから自分の服も破きだした。俺は母さんが何をしようとしてるのか分かったが、殴られすぎて体が動かなくて、逃げることも出来なかった。母さんは俺のちんぽが勃起していないのを見て奇声を発した。いきなり母さんに裸にされて勃起なんかするわけねぇだろうが。するとな、母さんは手で俺のちんぽをしごき始めやがった…」
 いつの間にか兄ちゃんは泣いていた。
 「それでもよぉ、起つわけねぇんだよ。そしたら今度は母さんに咥えられたよ。それからは俺も未だになぜそうなったか判らないんだけどよぉ。母さんの熱い口内で,母さんの這うような舌使いによってどんどん俺のちんぽが硬くなってったんだ。母さんは喜悦の声を上げて、さらにむしゃぶりついて来て、俺のちんぽはこれ異常ないくらい硬くなっちまった。高校生の頃で、一番元気がいい時だ。一度起ったら、萎える気配がまったく感じられなくなっちまった。それから母さんと共に何度も昇天したよ。母さんはある程度満足すると、破れた服をまた身にまとってそのまま出て行きやがった。俺をゴミのように放置したままな。多分その後、親父の所に行ったんだろう。俺はあの時ほど絶望を感じたことはなかったよ。今まで俺はなんだってそつなくこなしてきた。だがあの時ばかりは俺は何も出来ない虫以下の存在だったんだ。それ以来は月に一度、毎回俺はただの肉の塊にされることを余儀なくされるようななったんだ。そして今日がその日だった…」
 兄ちゃんの体から徐々に生気が失せていくのを感じた。次々と兄ちゃんの口から発せられる、俺の知らない家族の顔。圧倒されるというのを通り越してもはやギャグとしてしか俺は受け取ることが出来なかった。特に母ちゃんに関する兄ちゃんの話は、出来の悪い物語をさらに100倍酷くしたようなものだった。もう聞きたくない。耳が腐ってしまいそうだ。
 「あとはリンだな・・・」
 「もうやめてくれよ兄ちゃん。反吐がでそうだ」
 「へへ・・・馬鹿野郎。反吐がでてんのは俺だろうが」
 「こんなときに何言ってんだ!」
 「まぁすぐ終わるから黙って聞け。リンは人間じゃねぇ」
 「え?」
 「あいつは爺さんと婆さんがどっかから拾ってきたアンドロイドだ」
 「何だって!」
 「判っただろザジ。磯野家は俺らを除いてまともなやつは一人もいねぇんだ」
 「待ってよ!姉ちゃんがいるだろ」
 「『いる』じゃなくて『いた』だろ。ウァルツが死んでしまった後でお前にこんなことは言いたくはないが、あいつだってまともとは言いがたいぞ」
 「なんでだよ。そ、そりゃあ、武道一辺倒って所は――」
 「違う。そんなんじゃねぇ。ウァルツはな、毎晩親父と戦って勝つことを想像してオナニーしてたんだ」
 「嘘だっ!姉ちゃんがそんなことするはずない!」
 「死んだものに対してそんな嘘を付くほど俺は捻じ曲がっちゃいない」
 嘘だ。そんなこと信じられるもんか。
 「まあいい。俺の時間がない…。いちいちお前の反応に付き合っていられん。だが俺の言っていることは全て事実だ。時間とともにいずれお前は受け入れざるを得なくなる。どうせ俺が死んだら、母さんは今度はお前にターゲットを絞るだろうからな、覚悟しろよ」
 俺はびくっと身を震わせた。
 「たぶんまだ先の話だ。安心しとけ。それにこっからの話は重要だぞ、さらに良く聞けよ。マジで時間がねぇ。俺はお前に普段からいろんなトラップを仕掛けてきたな?あと、ウァルツに聞いたかもしれんが、ウァルツにも俺はトラップを仕掛けてきた。それらは別に唯、俺の悪戯心を満たすためのもんじゃない。あれは全部訓練だ。何の?お前らがこの異常な家族からいざという時に身を守れるようにするためだ。ザジ、お前にとって一番の危機である母さんが、お前に目をつけるまではまだ時間がある。だからほんのお遊び程度のトラップに留めておいたんだ。だが、俺の精神がそろそろ限界に近づて来てるみたいなんでな。ここは一気にお前をレベルアップさせないとまずいと思ったんだ。俺が壊れたら、もうお前は終わりだ。母さんに喰われる。お前とウァルツがやったゲームは一気にレベルアップさせる第一段階だ。本当は俺も二人一緒にクリアして欲しかったんだがな。だが、今のような結果になってしまった以上はしょうがない。逆説的になってしまうが、兄弟を殺すくらいの強い精神がなけりゃ、いずれやつらに殺されるんだ」
 「ちょっと待ってよ!」
 「なんだ?時間がないといっただろう」
 「兄ちゃんの言ってることがおかしくなって来たよ。兄ちゃんは俺と姉ちゃんを鍛えて、身を守れるような力を身につけさせるためだって言ったけど。さっきから聞いてると、レベルアップだとか、兄弟を殺す精神だとか、なんかそれは、俺と姉ちゃんの為っていうより、むしろ兄ちゃんの為に鍛えてるって言うように聞こえるんだけど」
 「あ、ああそうだな。俺も言い方を間違えたかも知れんな。だが、どちらにせよお前の役に立つことになることは間違いない」
 「『ああそうだな』って簡単に認めないでよ。だ、大丈夫兄ちゃん?言ってることに整合性がだんだんなくなってきたよ」
 「お前は今の俺が大丈夫に見えるのか?頭に行く酸素がなくなってきてるんだ、多少は目を瞑れ。そうだ、俺は俺自身のためにお前らを鍛えていたんだ。そう、俺の望みは――」
 「望みは?」
 「磯野家の浄化だ」
 「浄化?」
 「そうだ。俺には果たせなかった。母さんから与えられたトラウマから抜け出すことができん。幸いまだお前はトラウマを味わっていない。それにどうやらお前は俺の想像以上の精神力の持ち主みたいだしな」
 兄ちゃんの言葉の最後が気になった。
 「ふふ、お前はまったくたいしたヤツだよ、見直したぞザジ。俺をその鋏で刺すまでにあんなにもたついていたのに、今はどうだ?お前の頭は?冷静そのものじゃないか。素晴らしい。素晴らしい成長速度だ。これならいけるかもしれん」
 「何?何言ってるの?やっぱりもう兄ちゃんやばいんじゃない?」
 「やばい?はははは、やばいのはお前だ。化け物かお前?俺はやばいに決まってるだろ、なんでそんな冷静な突込みが出来るんだ?」
 俺がやばい?兄ちゃんじゃなく俺が?
 「俺はとんでもない怪物を生み出せたのかも知れんな。いい、いいぞザジ、イイ。その調子だ」
 あれ?あれれれ?ちょっと待って。今兄ちゃんの腹ん中には俺の手と鋏が入っていて血がどくどく流れて兄ちゃんの顔は土気色でさっき泣いてたときの涙の後が残っていて血を吐き出して俺は兄ちゃんの血を被って血だらけで兄ちゃんは時間がなくて俺は冷静で兄ちゃんは今にも死にそうで…やばいのは兄ちゃんなはずのに、やばいのは俺?
 「よし、俺も安心して逝けそうだ。ああ頭にエンドルフィンがどんどん流れてくるのを感じるぞ。痛くない痛くない。フォー。後な後な、お前が俺を刺した鋏、今俺の中に入ってるやつな。もう俺の内臓ぐちゃぐちゃだよコノヤロウ。ははっ、寒いか?まあいいや、その鋏なんだがそれは実は磯野家にずっと昔からあるみたいでな。ああ、何でかっつーと、俺の大学のダチで遺跡で発掘されたものの年代測定をやってるやつがいてな、そいつにこの鋏を調べてもらったんだ。したらどうやらこいつは1000年くらい前の代物だってことが判ったんだ。それだけじゃない、もっとすごいことが判った。鋏が黒ずんでいたのはお前も見ただろ?アレを俺は唯の錆だ思っていた。だがな、錆だけじゃなかったんだ。何だか察しがつくだろう?血だよ、血。酸化して黒ずんだ。しかも、血は一人のものじゃねぇ、正確には測定できなかったようだが、およそ50人くらいの血が含まれてるって話だ。でな、今度は医学部のダチに鋏に付着した血のDNA鑑定をしてもらったんだ。そしたらな、似たようなパターンの配列がごろごろと出てきたってよ。これが何を意味するか。50人くらいの似たようなパターンの塩基配列を持つ血、ここから導かれる結論はこうだ――磯野家はずぅーっと昔から代々この鋏を使って肉親を殺している。ただし磯野家が途絶えてないって事は、肉親というよりは兄弟を殺している可能性が一番高いな。そう、この鋏はまさにお前が使ったように使われてきたんだ。実は、さっき言った俺の望みなんだが、もう一つあってな、この鋏と磯野家の関連を解明して欲しいんだ。言ってみれば磯野家は家族内殺しのシステムが内包されている。もしかすると、磯野家の隠れた異常性は全てこの鋏が原因となっているかもしれん。なぁザジ、俺らはとんでもない家に生まれちまったなぁおい。俺はもうすぐ死ぬ、後は頼んだぞザジ」
兄ちゃんは俺のことをどんと突き飛ばした。ぐちゅるという音がして、俺の手が鋏とともに兄ちゃんの腹から抜け、勢いに負けて俺は床に尻を付いた。
 「俺が導き出した『家族』ってやつの答えを最後にお前に言おう!」
 兄ちゃんが残された最後の力を使うかのように大声で言った。
 「お前は『サザエさん』って知ってるか?」 
 俺はぶんぶんと頭を振った。
 「それはなぁ。家族をネタにしたアニメだ。偶然にもその家族の苗字は俺らと同じ『磯野』だ。毎回ほのぼのとした話で、見てる奴らに家族の団欒ってヤツを見せ付ける。磯野家に何が起ころうと、最後は家族内の団欒で内内に処理され、それで1話が完結する。そしてまた別の話が始まるんだ。俺らの家族も表面上は『サザエさん』と同じようなもんだな。例えばお前が学校であった話をみんなで飯を食っているときにする、テストで0点を取ったとか。そしたら母さんはお前を叱り、親父はその母さんをなだめ、じいちゃんが、テストで0点をとったっていうのは一重にお前の怠慢のせいだ、次からは努力しろ、なんて定型的な訓示を述べる。実は、サザエさんもまったく同じだ。カツオというお前と同じくらいの年のヤツがいるんだが、こいつは実際によくテストで悪い点をとる。するとサザエさん、実際は母親ではなく姉なんだが、まあいい、サザエさんはカツオを叱りつけ、サザエさんのダンナのマスオさんがサザエさんをなだめる。そして家長の波平がカツオの努力不足を持ち出して、使い古された論でカツオを諭す。 それでそのことはリセットされまた別の話になり家族の団欒が始まる。そういうことの繰り返しだ。俺はそれが気持ち悪くってなぁ。だってよぉ、こういう想像をしてみろ。もし仮に、さっき言ったカツオが誰かに殺されたとするよな。あくまで想像の話だぞ、実際の『サザエさん』にそれはありえねぇ。それで家族内の誰かがカツオが殺されたことをいう。サザエさんが悲鳴を上げる。これはまぁ普通の反応だわな。そして次からが重要だ。あくまで『サザエさん』というフォーマット上での話だぞ。言ってなかったが30分番組の中に3話もあるんだ。つまり一話10分くらいで治めなきゃならんわけだ。一般家庭ならすぐ警察に連絡し、それから病院っていう風にこの後もしばらく続く、そして家族が死んだことはずっとその家庭に傷を残すだろう。それでサザエさんが悲鳴を上げたあとどうするか、次にマスオさんがカツオが殺されて今後の行動をどうするか考えるよりも、サザエさんをなだめる事を優先するんだ。そして次だ、今度は波平がその事実を受け止め、サザエさんに、お前がカツオに家で勉強させずに、外へ遊びに行くのを許したからだぞ、なんて事を言う。そしてサザエさんが『トホホ』といってそれがオチとなって終わる。間の端々に細かい演出を入れれば10分で終わらせることができる。ここでカツオが死んだ設定のみが『サザエさん』に反映されたとして、次からはカツオがいなくなる。そしてそれからは、カツオがいないだけで磯野家はまったく今までと同じように団欒が続いていくんだ。極論だがな。俺らの家族はまさにこれだ。家族一人一人がまともじゃねぇのに、さもまともな様に団欒を行っている。俺が家族の団欒に加わらないのは、それが表面上のものだって知ってるからだ。胸クソが悪くなる。だが奴らは、俺がただひきこもりだからしょうがない、それで片付けてしまう。つまり家族っていうのは一つの閉鎖されたシステムなんだ。たとえ問題が起きようとも、、家族内で問題を転がした後に、それは簡単に処理されてしまう。家族というシステムの調和を保つ為だ。ウァルツが死んだことも、そして俺が死んだことも、多少は奴らの間で問題になるだろうが、所詮多少だ。奴らは今後も家庭というもの、飯はなるべく全員で一緒に食う、親父は朝働きに出る、母さんは家事をこなす、じいちゃんばあちゃんは家でゆっくりと過ごす、ということを最優先する。もしかすると親父はウァルツが死んだことで、かなり傷つくかもしれない。なぜなら、自分が手ほどきして武道を叩き込んだんだからな。そのウァルツが死んだんじゃあ、ショックはでかいだろう。しかし親父も磯野家の人間だ。一家の稼ぎ頭として働かなくちゃならんし、率先して飯の時には主導権を握らなけりゃならない。そういう家族の中での親父の役割というものをこなさなけりゃならないんだ。家族というシステムの恒常性を保つために。家族一人一人は、もしかするとつらい気持ちを抑えてやってるのかもしれん…。母さんも内に眠る暴力衝動を何とか月一回に収め、普段は家事に専念しているのかもしれん。俺は母さんが俺にしたことを許せねぇけどな。どっちにしたって、こんな家族はなくなっちまったほうがいいんだ。だが、前に言ったように、鋏と磯野家の関係ははっきりさせる必要がある。こんな家族になっている原因の根本かもしれんしな。研究者としちゃあやっぱり、謎があるのは気にいらねぇ。俺は、お前に殺されるという結果を以って、自分自身のやれることの最後は達成される。あとのことはお前に任せた。俺は99パーセントは自分のしたいことだけをしてきたが、残り1パーセントは兄弟の為に何か出来ることをやったつもりだ。最後に一つ言う、家族に取り込まれるな。あ、ああやった全部言えた…あ、あー」

 兄ちゃんの口がだらしなく開き、舌が垂れ出て、目の焦点が合わなくなったとき、バタンッと音がしてドアが開いた。
 「ザッちゃぁぁぁん!探したわよぅ。こんなとこにいたのね?」
 入ってきたのは婆ちゃんだった。信じられないことに、婆ちゃんはゲーム内で見た若さのままだった。
 「あら?驚いた?なんかやっぱりこっちのほうが気に入っちゃって、ナノテクで全身を構築しなおしたの。だって、ザッちゃんもこっちの方がいいでしょぉ?うに〜」
 「お、おばあちゃん」
 兄ちゃんが口を開いた。兄ちゃんの目は既にさっきまでの意識を保っていたときのものではなくなっていた。まともさが消失している。
 「おばあちゃん…素敵だよ、素敵すぎ。本に載っていた、昔の写真のままだよ」
 「なんだい、あんた。腹に穴あけて、腸がはみ出てるじゃないか」
 「あ、ああこれ。うん、なんでもないよ。ちょっと怪我しちゃってさー。それよりさ、聞いてよ。僕の新しい解析理論を、それでさぁ、また昔みたいに頭をなでなでしてくんないかな?ねぇ?」
 兄ちゃんは腹を抑えて、よろよろと婆ちゃんに近づいていった。しかし途中で自分の血ですべって倒れた。
 「やだよ、何言ってんだい。来るんじゃないよ、汚らしい」
 「お、ばあちゃ…」
 「なにが、なでなでだ。あたしゃもう研究には興味はないね。ザッちゃんと遊ぶのが老後のたのしみだよ。ねーザッちゃん?さぁ、おばあちゃんの部屋においで。ザッちゃんの好きなずんだ餅がいーっぱいあるよ」
 「お、ばあちゃ…。なでなでしてくれよ」
 「ああ、うるさいねぇあんたは!」
 ばあちゃんが血で着物を汚さないように、裾を持ち上げたまま兄ちゃんに近づいた。
 「判ったよ、代わりにこれでがまんしな!」
 ばあちゃんは兄ちゃんの頭に思いっきりサッカーボールキックを叩き込んだ。兄ちゃんの首がばいんとありえない方向へ曲がったあと、lふたたび床に落ちた。兄ちゃんの目は見開かれたままで、光は失われていた。
 「痛ーっ。膝にきちゃったわよう。まだなれないことするもんじゃないね。あ、ゴンズ死んだ?あー足袋にちょっと血が付いちゃったよもぅ。さっザッちゃん、ばあちゃんの部屋に行こう」
 ばあちゃんが満面の笑顔で俺に言った。俺はもうそれが偽りのものに見えてならなかった。
 「く、くるな」
 「ザッちゃんどうしたの?」
 ばあちゃんが俺に手を伸ばした。
 「来るなー!」
 俺はばあちゃんの手を弾いて駆け出した。
 「ちょ、ちょとザッちゃん」
 「うわあああああ」
 俺はそのまま部屋を飛び出した。廊下に出て、階段を駆け下り、靴を履いて家を飛び出した。外は真夜中で、辺りはしんと静まり返っていた。その中を俺はとにかく走った。一秒たりとも家に居たくなかった。こわい。ばあちゃんが信じられない。兄ちゃんの話を聞いたからに違いない。だが、ばあちゃんが兄ちゃんにした行動の後見せた笑顔。兄ちゃんのことをなんとも思っっちゃいないことが証明された。兄ちゃんの言ったとおりだ、みんな表面上家族を演じてるだけなんだ。じいちゃん、ばあちゃん、親父、母さん、リン。全員がもう信じられなくなった。こわいこわい。兄ちゃんが最後に行っていた言葉が頭をよぎる。「家族に取り込まれるな」この言葉の意味が判った。俺も何も知らなかったらきっと、家族を演じられる様になっちゃうってことなんだ。なにが起ころうと家族システムを優先させる為に。俺の家族内での役割は、多分ちょっとやんちゃな子供というものだろう。俺は学校であった出来事を無邪気に家族に話したり、悪戯をして母さんや親父に怒られたり、じいちゃんやばあちゃんに甘えたりすることを無意識のうちにするようになってしまうんだ。それが「家族に取り込まれる」ってことだ。息が切れてきて、俺の走るペースが落ちていく。ちょうど俺は、たまに遊びに来る小高い山がある所まで来ていた。良くわからないまま俺は、山に登ろうと思い、草を掻き分けて中に入って行った。空に出ている月が仄かに木々の間を照らしていた。この雑木林を抜けたところに、小さい山がある。汗でTシャツがへばり付き、羽虫が顔にくっついてて不快だったが構わず俺は突き進んだ。やがて山のふもとまでたどり着き、俺は傾斜を上り始めた。頭上には月が輝いている。いつの間にか俺は涙を流していた。意思に躓いて転び、枯葉の積もった土の中に顔がうずまった。
 「うおおお」
 俺は土に顔を伏せたまま号泣した。
 「俺は姉ちゃんを殺した。そして兄ちゃんをこの手で刺した」
 そこで俺は初めて鋏をまだ持っていたことに気づいた。
 「これが、全てのかもしれないって?こんな小汚い鋏が」
 このまま山に捨てようかと思った。だが、姉ちゃんを殺し兄ちゃんを刺してしまったことによってこの鋏が重みをもってしまい、簡単には捨てられない。それに兄ちゃんが言ったことが頭に響く。「この鋏と家族の関係を解明してくれ」兄ちゃんは、この鋏が磯野家に1000年前からあって、何人もの血を吸ってきたと言った。俺は何故かその鋏を使って土を掘っていた。俺はこの鋏を埋めようと思った。1000年前だか2000年前だが知らないけど、そんなこと俺には関係ない。問題は、この鋏を使って俺は、姉ちゃんと兄ちゃんを結果的に死に追いやったってことだけだ。家族との関連なんてないさ。涙を流しながら穴を掘り、30センチくらいの深さの穴が出来た。
 「この鋏はここに埋めよう」
 俺は呟いた。ここを姉ちゃんと兄ちゃんの墓にしよう。姉ちゃんと兄ちゃんの体はないが、この鋏には姉ちゃんと兄ちゃんを死に至らしめた記憶が宿っているはずだ。兄ちゃんに関しては兄ちゃんの血が含まれている。俺は鋏をそっと穴に納めると土を被せ、適当な平らな石を3つ拾って、積み重ねた。そして手を合わせた。
 「さよなら…」
 もっとほかに言うべきことがあるはずなのに、そんな言葉しか出てこなかった。俺は手で涙をぬぐうと、再び山を登り始めた。そして俺は一回振り返り、姉ちゃんと兄ちゃんの墓の場所を頭に刻み込んだ。それからどんどん俺は斜面を登り、しばらくして周囲から木がなくなり、頂上の開けた場所に着いたことが分かった。俺の住んでいる地帯がが一望できる。深夜なのでほとんどの家は電気が点いていなかった。唯一個だけほんのりと光がついている家、それは俺の家だった。こういうふうに全体から見渡すと、ほかの家にまぎれて、何の変哲もない家に見える。ウチだって、この辺にある何十という家族の一つなんだよな。俺は他の家族がどんなのか知らない。もしかすると、他の家族だってウチみたいなとこがあるかもしれない。下に広がる町を見渡していると、そんな気持ちになった。夜風が俺の体を撫でていく。
 「家族のシステムだか何だか知れないけど」
 俺は眼下に広がる家々の内の一つ、俺の家に向かって呟いた。
 「システムなんて、それをぶっこわすシステムがあればいいんだ。俺の家が今のシステムに支配されてるなら、俺がそれを壊すシステムを作ってやる」
 ただし、不安も残る。今の俺は兄ちゃんと姉ちゃんを死に追いやったという負い目が残っている。それを家族の前で吐露してしまえば、家族は俺を労わり、俺を取り込むだろう。そして一度取り込まれてしまえば、多分罪悪感は消えてしまい、偽りの団欒のスタートになる。そういうシステムだ。俺は俺であるためにはずっとこの負い目を抱えていかなければならない。ただし、システムを壊そうとすると、兄ちゃんのような酷い結末を迎えてしまうかもしれない。ばあちゃんも俺が家族というシステムの一員だと思ってるから、無邪気な孫だと思ってるから、俺をあんなに溺愛するのだろう。もし俺がシステムを壊そうとしていると知ったら、殺されはしないまでもどんな冷たい扱いになるか分からない。あの兄ちゃんですら出来なかったことが俺に出来るだろうか?兄ちゃんは死ぬ前の告白で俺のことを化け物かといった。あれはどういう意味だったのだろう。それに、俺が期待以上だとも言った。あれは俺なら家族のシステムを壊すことが出来るって言う意味なのだろうか?本当のところはどうなのか分からない。後、兄ちゃんは俺に後は任せたと言った。それは、兄ちゃんがもう匙を投げたという意味で使ったのか、兄ちゃんの意思をついで目的を達成してくれという意味で使ったのか、それもどっちなのか分からない。結局は俺が自分で考え、行動しなくちゃならないんだ。俺が家族に取り込まれてしまうか、否かは、全部俺に懸っている。俺は兄ちゃんの意思を継いで、家族を殺そうとは思わない。今のシステムを壊して、新しいシステムを作り、磯野家を再生させる。兄ちゃんの言っていた「サザエさん」のような、閉鎖系での問題処理システムだからだめなんだ。だからといって、閉鎖系から開放系にする、つまり家族のことを外に知らしめればいいかというと、それは違うような気がする。俺はある一つの唯一無二な結論に達した。それは、さっきも言ったように別のシステムを作るということだ。俺は少なくともあと、10年は磯野家で耐えなければならない。その間に家族に取り込まれたら、システムを壊すことはもう出来ず、磯野家の再生はあり得ない。その間にできるだけ多くの経験をし、考えうる限りの、自分を鍛えてくれるものに触れ、吸収する。兄ちゃんが言っていたように、いずれなされるであろう母さんの行為にも耐えなければならない。そして俺は、ともに戦ってくれるような伴侶を必ず見つけ出し結婚する。俺自身が家庭というシステムを磯野家の中に作る。磯野家のシステムは俺の作った、いってみれば「ザジ家」のシステムで壊し、今度は「ザジ家」のシステムに全面的に作り変える。気の遠くなる目標だが、これしか手段がないようにに今は思う。具体的な「ザジ家」というものがどういうものになるかは分からない、分からないが、家族に表と裏がないようにしたい。不自然な笑顔などはさせたくない。
 「やってやる、やってやるぞ!」
 東の空がぼんやりと白みはじめた。今日から俺の新しい物語が始まる。太陽が昇る頃には俺は家に着くだろう。飛ぶようなスピードで山の斜面を駆け下りた。

(了)

  
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2006年01月31日

終章

 俺は唯立ちつくし涙の流れるに任せた。ゲーム内で過ごした姉ちゃんとの一日が一年分にも感じられる。そのくらい密度が濃い一日だった。普段はお互い話たりすることがあまりなかった。しかしゲーム内で一緒に敵と戦ったり、逃げたり、寝たり、怪我したり、命懸けだったりして姉ちゃんと共有してリアルに姉と弟という関係を味わった。もしこのまま普段の生活に戻れば、前よりずっといい関係になっていたに違いない。「姉ちゃーん」「なーに、ザジ?」そんな他愛ない会話のやり取りが頭に描かれる。そして、俺が「姉ちゃーん」と言ってから姉ちゃんが「なーに、ザジ?」と答えるまでの時間にして数秒の間の中に、ゲーム内で過ごした濃密な時間が含まれていることを俺は感じ取ることができる。そして俺と姉ちゃんを包む空気はきっと、ほんのり暖かいだろう。
 俺がもう味わうことのできないやり取りを思い描けば描くほど、それは涙となって零れ落ちて行く。そして零れれば零れるほど、機械に繋がれた姉ちゃんの姿が残酷なほどリアルに目に映り出される。
「姉ちゃん」
 俺は返事が返ってくるはずがないのは分かりつつも言葉を発した。
「やっぱり俺、姉ちゃんがこんな姿のまま生きているのに耐えられないよ」
 俺は自分の中で一つの結論を出した。
「多分。いやきっと、こうするしかないと思う」
 そう言い、唇を噛み締める力をさらに増した。歯がめり込み、ぶちっという音がした。
 俺はゲーム世界での姉ちゃんを思う。魔子と暮らし、魔子に対して愛情を注ぎ、姉ちゃんは今までの武道一辺倒の自己を捨て、新しい自分に生まれ変わろうとしている。それが姉ちゃんの下した結論で、実際この兄ちゃんの装置がある限りは可能だ。無理に装置を外そうとすれば、使用者はドリルで穴を開けられ結果的に死ぬ。誰も干渉することはできないアンタッチャブルなものだ。使用者の姉ちゃんが外に出ようとしない限り――。そして、果たしてそれはありうるのだろうか。今のところ、姉ちゃんの決意の固さが揺らぐことはないように思う。姉ちゃんと話した最後の時に雰囲気的に感じた。姉ちゃんのようなタイプは俺と違って、そうころころ意思を変えることはないだろう。だが、理屈としては分かっていても、その事実を受け入れることができない。当たり前だろう、俺の姉ちゃんのことなんだから。いや、姉ちゃんじゃなくたって、自分の知っている人が今の姉ちゃんと同じ状態になったら、すんなりそれを受け入れるなんてできないだろう。
 じゃあ姉ちゃんが出てくるという低い可能性に賭けてひたすら待つか。そして、それを待つのが現時点では最良の選択だろう。でも俺は――。
 俺は、言ってみれば姉ちゃんに捨てられたんだ。結局姉ちゃんは俺よりも魔子を選んだんだ。だってそうだろう?俺より魔子を選んだから姉ちゃんはゲーム内に残ったんじゃないか。姉ちゃんの自己変革云々はともかく、事実としてはそういうことになる。もし、姉ちゃんが今後戻ってきたとしても、あの時点で魔子のほうをとった姉ちゃんに対して俺は素直に接することができるだろうか…。
 
 このままじゃどっちにしたって俺は救われない。

 腰を屈めて先ほど落とした鋏をすっと拾い上げた  
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2006年01月29日

終章


 王室での宴が終焉に近づきつつあった、踊りが終わり、音楽もメロウな感じになった。再びカイゼル髭が現れ「今宵の会は如何でしたかな?」という問いかけから始まるどうでもいい締めの言葉を言い始めた。

「これで我々の国にも再び平和がもたらされます。それと、コホン」

 カイゼル髭が咳払いを一つして言った。

「あなたの勇猛果敢な戦いぶりを聞いて、我が娘が是非ザジ殿の妻になりたいと申しておりまして・・・」

 特に何も感慨は起きなかった。カイゼル髭が手を軽く上げると、ドアの横に立っていた衛兵がドアを開けた。しかし中から現れた人物には驚いた。ばあちゃんだった。ばあちゃんは若いままの姿だったが、格好が着物から、アラビア風女性が着てるような衣装に変わっていた。顔の下半分が布で隠れているがサングラスをしているので一発で分かった。

「ザッちゃ〜ん。会いたかったわぁん」

 ばあちゃんが俺の元に駆け寄ってきて、俺を抱きしめすりすりと頬擦りを始めた。

「寂しかったよ〜。うにうに〜」

 ばあちゃんには悪いが、今の俺はばあちゃんに構う心の余裕がない。俺が無言を貫いていると、ばあちゃんは顔を俺から離し、サングラスをちょっと上に持ち上げて、上目遣いに俺を見た。

「どうしたのぉ、ザッちゃん? やっぱりウァルツのことが頭から離れない?」

 俺がまた返事をしなかったので、ばあちゃんは腕を組んでむすぅと頬を膨らませた。そして、ため息をついた後言った。

「それで、ゴンズを殺そうってわけね、ザッちゃん」

 いつもいつもばあちゃんの言葉には驚かされるが、今回は今までの比ではなかった。なぜかって、普段俺が考えてることをトレースされるのとは訳が違う。明確な、兄ちゃんへの殺意をトレースされたのだ。そして、俺が驚いたのはそのことだけではない。ばあちゃんは、俺の兄ちゃんへの明確な殺意を察知したのにもかかわらず、まるで普通のことのようにさらりと言ったのだ。俺は目を大きく見開いてばあちゃんを見ると、ばあちゃんはキシシと笑った。

「うふ。ザッちゃんの考えること、ばあちゃんは何でも分かるんだよ」

 そういったばあちゃんの顔が何だか、年相応の皺だらけの顔に見え、妖怪めいた光を帯びた気がした。そのままばあちゃんがゆっくりと顔を近づけてきた。俺はばあちゃんが恐ろしくなり歯がガチガチと鳴った。ばあちゃんは俺の目の前でサングラスを外し、俺の目を覗き込んだ。俺は黒目がちなばあちゃんの目の中に吸い込まれる錯覚を味わった。ばあちゃんが口を覆っている布を外してにたあと笑った。俺は恐怖で、息が出来ず「あ、あ」と声に鳴らない声を漏らすだけだった。ばあちゃんの大きく開けた口はブラックホールのような漆黒だった。

「ザッちゃんは誰の味方なのかなぁ、ふふ」

 そう言うとばあちゃんは再び口の周りを覆う布とサングラスを付けた。そして「じゃあ一足先に現実にいってるわぁ。チャオ」と言って、そのままふっと部屋からばあちゃんの体が消失した。俺はまだ少し体が震えていて、ほんの少しだが失禁してしまった。

 それからのことはほとんど覚えていなくて、気づくと俺は現実の兄ちゃんの部屋にいた。


 無骨なヘッドギアが外れ、俺の目に見えているものと実際の視界が一致する。電源がつけっぱになっているパソコン群のファンモータの音、蛇のようにのたくっている無数のコード類、壁一面に張られた俺の名前の知らないプロレスラーのポスター、ゴミ箱いっぱいになった飲むヨーグルトの残骸。紛れもなく兄ちゃんの部屋だと認知した。ようやく戻って来れた。しかし、戻ってきた感慨はほとんどなかった。
 姉ちゃんがゲーム内に残るという選択をし、現実世界ではもう姉ちゃんに会うことはできない。全ての元凶は兄ちゃん。自分でも驚くくらい自然に生まれた殺意を実行に移してやる。それが現実に戻ってきて頭に浮かんだことだ。まずは武器を探さないといけない。

 雑然とした部屋をもう一度見渡すと、パソコンデスクの上に置いてあるあるものに目が行った。

 何だあれ?

 錆で黒ずみ、年季を感じさせるそれは無骨な植木鋏の様なものだった。

 汚ねぇ。まずそう思った。しかし、鈍く輝くそれに俺は魅せられた。手に持ってみると、ずしりと重みを感じる。瞬間、これがいいと思った。よく見るととって部分の劣化に対して、刃の部分は多少手入れがなされたいたようでちゃんと鋭さを保っている。十分突き刺したりすることはできそうだ。一応他に何か使えそうなものがないか探そうと思ったが、機械類ばかりの兄ちゃんの部屋には特に何もないだろう。この鋏が見つかっただけでもラッキーだ。なぜ兄ちゃんの部屋のパソコンデスクに植木鋏が置いてあるのか疑問に思ったが、特に理由を思いつかなかったので考えるのをやめた。

 それにしても兄ちゃんが部屋にいないということはどういうことだろう。ひきこもりの兄ちゃんが部屋にいないなんて珍しい。しかし、俺はふと思った。もし、現実界に戻って今の俺がいきなり兄ちゃんの姿を見たらどうだったろうか?たぶん、怒りで我を失い兄ちゃんに踊りかかったかもしれない。兄ちゃんは俺よりもでかいし、引きこもりといえども俺より年上なだけ力もあるだろう。そんな兄ちゃんにいきなり俺が踊りかかったって返り討ちにされるのが落ちだ。だったら兄ちゃんのいないこの状況は好都合だ。なによりも武器も見つけられたのが良かった。この鋏ならTシャツの下とかに隠して、兄ちゃんを油断させて攻撃することができる。そう考えてみてもバットなどの大きいものより、このぐらいの大きさの鋏でやっぱり良かったと思う。
 俺は鋏を後ろのズボンと背中の間に差し、上からTシャツを被せて見えないようにした。これでよし。夜も遅いし兄ちゃんは外には出ていないだろう。家のどこかにいるはずだ。そう思った時、笑い声が聞こえた。
 瞬間俺は頭が真っ白になった。

 今の声、姉ちゃんじゃないか?

 何が何だか分からず、声のした方向を見たがそっちはただの壁だ。隣に部屋はない。するとまた笑い声が聞こえた。間違いない、姉ちゃんの声だ。俺は壁に駆け寄り、耳を澄まそうと壁に体を預けた時、突然本来感じるはずの壁の抵抗を感じることなしに、体が壁を突き抜け俺はバランスを崩して転がった。いててて、頭を抑えて顔を上げると、そこには俺と同じように機械に繋がれた姉ちゃんがいた。頭はヘッドギアで覆われているので顔の上半分は見えないが、見えている姉ちゃんの口元は笑顔だった。

「あははは」
 
 姉ちゃんは楽しそうに笑っている。俺はあわてて駆け寄り、姉ちゃんの頭についているヘッドギアに手をかけた。そうだ、姉ちゃんの本体はここにあるんだ、これを外しちまえばいいんだ。なんだそうだよ!バカじゃん俺。やっぱりしょせんゲームなんだ。ゲームだったら強制終了しちまえばいい。手に力を加えようとしたとき、部屋が赤くなり警告音のような音が鳴り、デジタルな声が響いた。

「注意、注意。装置に一定以上の力が加わりますと圧力感知装置が反応し、ドリルが作動。使用者の頭蓋に挿入されます。繰り返します――」

 は?何だって?俺は手に力を込めるのをやめた。力を加えるとドリルが作動して、頭蓋に挿入されるだって?つまり、無理にこいつを外そうとすると、姉ちゃんの頭にドリルで穴が開くってこと?クリアしない限りヘッドギアははずせない。あああ、兄ちゃんの野郎!ふざけやがって!俺は床に膝を着き、力任せに床を殴った。沸騰した怒りのせいで痛みは感じなかった。やがて無力感が襲ってきた。一瞬の望みはあっけなく絶たれてしまった。ゲームの中身は空っぽなのに、周辺の整備はしっかりとしてある、改めて兄ちゃんの強大さを認識した。俺は背中の鋏を強く握り締め、決意をゆるぎないものにしようとした。
 ふと姉ちゃんの足元に目が行った。それは片方は姉ちゃんの足についている機械に繋がれ、もう片方は大きな箱型の機械に繋がれていた。箱型の機械の上からは三十センチほどガラスの太い筒が突き出ていて、その中は透明な液体で満たされていた。そしてその液体はどうやらチューブを通って姉ちゃんの足についている機械に送られているようだった。箱型の機械には液晶画面が付いており、何かを示す数字がたくさん示され、また画面の中心には心電図のようなものがあり、山が左から右に流れていた。それを見てピンと来た。この機械、筒の中に入っている液体、姉ちゃんの体へと伸びるチューブ。これは生命維持装置に他ならない。自分が使っていた機械にもこれはあったはずだ。他の事に気をとられて気が付かなかった。つーことは俺の場合はちゃんと機械が俺のクリアを認識したってわけか。なるほど。
 改めて姉ちゃんを見上げる。あいかわらず微笑を湛えたままだ。その人間的な笑みと機械の無骨なヘッドギアを見て俺は思う。こんなのは異常だ。見れば分かる。姉ちゃんは頭の中ではしっかりと自分が存在していて、いろんなものをリアルに感じているだろう。もちろん俺もそうだった。しかし現実を見れば、そのリアルさなど所詮作りモノだったということが一発で分かる。この無慈悲なまでの現実を目の当たりにしてしまった俺はどうすればよいのだろう。
 「姉ちゃん。姉ちゃんはバカだよ」
 俺は諦念を両肩に背負って呟いた。こんな状態になってまでゲーム内に残らなけりゃならなかったのかよ。姉ちゃんは贖罪の為だと言った。愚直なまでに武道の教えを守り、周りが見えず、いろいろな人たちに迷惑をかけていたとも言った。だからゲーム内で、もはやラスボスとして機能しなくなった魔子の家族として残り、今まで周囲に向けて振り撒けなかったやさしさを魔子に全て注ぐ、姉ちゃんはそう決断した。そしてその姉ちゃんなりの理由に基づいた決意を、俺は納得した――はずだった。無骨なヘッドギアを頭に嵌め、生命維持装置に繋がれ、不用意に誰かがヘッドギアを外そうとすると、ドリルで頭に穴を開けられる。そんな中で、下半分だけ見える顔からは、俺が今まで見たこともない姉ちゃんの笑顔が覗いている。不自然を通り越して異様だった。きっと姉ちゃんは眠りから覚めた摩子と遊んで楽しんでいるのだろう。今まで、姉ちゃんと楽しく遊んだ記憶のない俺は、魔子に対してこういうとき激しい嫉妬を感じるのだろうが、違った。今の俺の心を支配しているものは兄ちゃんへの憎しみ、そして今の姉ちゃんの姿を見たことで新しく加わった絶望だった。
「お お お お」
 言葉にならない音が俺の口から漏れる。嗚咽ですらない。
「お お お お」
 ふとさっき見つけた鋏のことを思い出した。それを使って死ねば楽になれる。自分の腹にでも突き刺すか。さすがに小5に耐えられる精神状態ではない。とっくにメータを振り切って、針自体が吹っ飛んでしまっている。兄ちゃんへの憎しみで何とか地に足を着けられていたが、もう冷静な思考すらできそうもない。
「おおお」
 俺は幽鬼のように立ち上がり背中とズボンの間に挟んである鋏を取り出した。鋏の先端は腹の肉を貫くには十分に尖っている。あははは、死のう。全部なかったことにしよう。俺は鋏の先を自分の方に向けて腕を思いっきり伸ばした。何の躊躇もなく鋏を腹に突き刺そうとした時に、姉ちゃんの笑い声が急jに止まった。俺は腕は伸ばしたままだが、顔だけ姉ちゃんの方を向いた。
「あー、ザジは今頃何してるのかしらねー」
 姉ちゃんが喋った。
「ん?いや弟のことよ」
 魔子と喋っているのか。魔子の声は当然聞こえない。
「んまぁ、気になるっちゃ気になるかな」
 俺は伸ばした腕を元に戻し、姉ちゃんの言葉に聞き入った。
「大丈夫よ、魔子は魔子、ザジはザジよ」
 たぶん魔子が、何か不満を漏らしたのだろう。姉ちゃんが俺のことが気になって自分を置いてやっぱり現実へ戻ってしまうんじゃないか、とか。
「ちゃんとここにいるから安心して」
 そう聞くとやはりまた、打ちのめされた。
「でもねー。あたしもザジとこういう風に遊んであげたかったなーと少しは思うかな。でもあの子はゲームとか好きだから、あたしと遊ぶよりやっぱり兄さん――あ、あたしには兄さんもいるんだけど。そうそう。やっぱりザジはあたしと遊んでもあまり面白くないかもねー」
 そんなことはないよ。それは違うよ姉ちゃん。俺は姉ちゃんとも遊びたかったよ。そう心の中で姉ちゃんに返した。届くことはないが。
「まあ遊んだとしてもしても、遊びじゃなくて修行になっちゃうかもね。まずは基礎鍛錬。腕立て、腹筋、スクワットでしょ。魔子もやってみる?ふふふ。それから型を覚えて行って、ある程度まで行ったら――っていってもここまででも十分大変なんだけどね。ようやく気の基本に入れるわけよ。あたしは手を抜くとかあんまりできないからビシビシ鍛えちゃうわね。アハハ、やっぱりこれじゃあ駄目だね。ザジが音を上げちゃって、兄さんの方にゲームしにすぐ行っちゃうねー」
 鋏が手から滑り落ちた。チン――という音がコンクリートむき出しの床に当たって響く。不意に両目から涙がとめどなく溢れた。一瞬にして視界が不鮮明になる。止めようとしても無理だった。意思とは関係なしに溢れてくる。涙は俺の頬を通り、顎のところで二つの支流が一つになり、首、胸、そして腹、下へ向かってどんどん流れて行く。
「そんなことはないよ」
 先ほど心の中で思ったことを俺は口に出した。
「修行だって何だって、やって見せるよ。腕立てだって100回でも1000回だってやる。気も直ぐに覚えて姉ちゃんをびっくりさせてやるよ。だけどもう…」 
 ぐっと下唇を噛んだ。
「遅いんだ」
 最後の言葉は蚊の鳴くほどの大きさにしかならなかった。
  
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2005年12月28日

ザジ .瓮螢リウスとプルート

 俺は極彩色の光に包まれた空間をものすごい速度で飛んでいた。飛んでいたといっても自分の意思ではなくて、いって見れば吸い込まれていったという感じだった。そしていつの間にかばあちゃんの姿は消えていた。遥か先のほうに白い点が見え、空間はそこに向かって収束しているように見えた。俺が近づくにつれて白い点もだんだん大きくなり、やがてそれが俺の体の何倍もあるものだと分かり、俺はそのまま中に吸い込まれた。その後急に周囲が真っ暗になり自由落下する感覚を受け、ジェットコースターで下降するときの気持ちよさを味わい、どこまで落ちていくのだろうと思っていたら、ふいに何かトランポリンのようなもので体がバウンドさせられ、何回かバウンドして勢いを殺された後、周囲が明るくなり最終的に俺はぼすっとソファーのようなものに落ちた。トランポリンのようなもののお陰で最後に落ちたときの衝撃はそれほどなく、ケツがちょっと痺れてるくらいで大事なくすんだ。周りを見渡せば、そこはロープレで見慣れたよくある王室のようなところであり、どうやら俺は玉座に着地したらしい。横には侍女らしき女の人達がいて、でっかい葉っぱのうちわで俺のことを扇ぎだした。

 俺は急速な場面転換に思考が思考がついて来ず、せわしなく辺りを見回していると「良くぞ来てくれました!」と言う張りのある大人の声とともに、正面の豪華な扉が開きぞろぞろと人が沢山王室に入ってきた。先頭にカイゼルヒゲを蓄えた分厚い服を着たおっさん(声の主はコイツだ)、それと衛兵が数人、よく分からないのぼりをもった人が2人、さらに露出度の高い服を着たダンサーっぽい女の人達が十数人、さまざまな弦楽器や打楽器を持った人たちが五、六人入ってきて俺の前にずらーっと並んだ。並び終えるとカイゼルヒゲが言葉を発した。

「良くぞ見事魔王を打ち倒してくれました!ザジ殿!」

 大臣ぽい風体のカイゼルヒゲが言った後に、音楽隊が楽器を演奏し始めた。

「今宵はあなた様のために祝賀会を開かせていただきます。ごゆるりと唄に踊りを堪能くださいませ!」
 
 そう言うとカイゼルヒゲは踵を返してドアの向こうに消えていき、それが合図のようにダンサー達が踊り始めた。

 あ〜なんだ、エンディングか。別に俺、魔王を倒してないし。そう思い、姉ちゃんのことが頭に浮かんだ。これが終わったあと、俺は現実にもどるんだな。祝賀会のアップテンポの音楽とは反対に、俺の心は沈んでいた。とってつけたようなエンディングに、俺は心ここに在らずといった感じで、うつろな目のままダンサー達の舞を見ていた。

 最後の姉ちゃんの笑顔が頭から離れない。こういう結末以外にはならなかったのだろうか。本来なら今ここで俺と姉ちゃんは「あ〜大変だったね」とか言いながら、この祝賀会をまるでいい映画を見終わった後のエンディングクレジットを見て余韻を楽しむような心境で見れていたかもしれないのに。あは、あはは、あはははは。あ〜あ、姉ちゃんいなくなっちゃった。それもこれも全部――。

 こんな感情は初めてだ。悲しみの中に一滴の怒りがぽたりと垂れ、みるみるうちに悲しみを黒く染め上げ、それが激しい憎悪へと変化する。

「殺すか・・・兄ちゃん」

 音楽隊の演奏が鳴り響く中、俺はぼそりと呟いた。心は黒い炎が燃え上がっていたが、不思議と頭の芯は冷えていた。そう、俺は理解したのだ。これが真の憎悪というやつであると。
現実に戻ったとき、俺は兄ちゃんを殺すと固く胸に刻んだ。



 磯野家のダイニングにはプルートとメリクリウスだけがいた。夜も遅くなり、プルートと一緒に酒を飲んでいたナナンジャは一足先に自分の部屋り、プルートは残った酒をちびちびと飲んでいた。

「年寄りに夜更かしはやっぱきついよなぁ」

 プルートは食器を洗っているメリクリウスの背中に呼びかけるように言った。しかし返事はなく蛇口から流れる水がステンレスにぶつかる音だけが響いていた。メリクリウスはプルートがナナンジャと酒を飲んでいる間、しばらくダイニングの椅子に座ったまま、どこを見るわけでもなく虚ろな目で宙を見つめていた。プルートとナナンジャはそれを特に気にするわけでもなく、酒を飲み、話をした。しばらく呆けていたメリクリウスはいつの間にか立ち上がると、皆の食器を片しはじめ、洗い出した。

 プルートは「まいったなぁ」と言いながら頭をぽりぽりと掻いた。

「やっぱり今日は月に一度のアノ日か」
 
 プルートはメリクリウスの後姿から手に持っているお猪口に視線を移し呟いた。僅かにプルートのお猪口を持つ手が震えていた。突然メリクリウスが言葉を発した。

「ゴンズの所へ行ってくるわ」

 プルートがはっと顔を上げてメリクリウスを見た。メリクリウスの頬は上気していて、目は潤み、唇は半開きで濡れており。僅かに乱れた髪が顔の半分を隠すように垂れ、左手は自分の乳房、右手はエプロンの上から秘部を押さえていた。息遣いも多少荒くなっており、メリクリウスの濡れた口からは甘い吐息が漏れている。プルートは現実離れした色気をメリクリウスから感じた。普段のメリクリウスからは想像できない姿。メリクリウスはふらふらと歩き出しプルートのことを見ることなくダイニングから出て行った。

 パタンとドアが閉まる音をプルートは背後で聞くと、大きな息を漏らした。

「酒が入っちまったのは失敗だったか、今夜は長くなりそうだなぁ」

 プルートはぐっと指に力を込めると、お猪口が粉々に砕け散った。

  
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2005年12月03日

日曜日−8

ばあちゃんのお陰で俺の歩いた足跡が光って見えるようになり、俺はそれをたどって全速力で姉ちゃんの下へ急いでいた。はぁはぁ姉ちゃん、無事でいてくれ。俺が走っているのに対して、ばあちゃんは俺のすぐ横を涼しい顔をして飛んでいた。ばあちゃんに出会って、ばあちゃんが超強力な助っ人だということが分かり、俺とばあちゃんは姉ちゃんの急いで走り出したが、老齢のばあちゃん(見た目は20代だが)は直ぐに息を切らして、立ち止まってしまった。ぜいぜい言っているばあちゃんの横で俺は無理に、急いでばあちゃんと言ったが、ばあちゃんは「ちょっとザッちゃん・・・心臓止まりそう」とか言い出し、そしてすぐ後に「あっそうだ。ゼーゼー・・・別にあたし、走る必要、なかったわ」と言い。再び着物からリモコンを取り出して、何かを入力すると、ばあちゃんの体が20センチくらい浮かび上がった。それからは俺が全速力を出しても追いつけないぐらいのスピードでばあちゃんが空中を移動し始めたので、今度は立場が逆転し、俺の速度にばあちゃんの移動速度を合わせてもらった。それで今の状況になっている。


 もうずいぶん走った、つーか疲れてきたが、一向に姉ちゃんのところにたどり着けない。俺、一体どんだけ遠くまで言ってたんだろう?俺はばあちゃんに尋ねた。

「ザッちゃんはあたしを求めてそんなに遠くまで来てくれたのね☆キャー、うに〜」

 ばあちゃんが飛んでる状態なのにも関わらず俺に頬擦りをしてこようとしたので、俺はばあちゃんと距離をとった。ばあちゃんは「んもぅ」とか言ってたが、気にしなかった。こんな緊急事態になんで、そんなに素なんだろうこの人は。それほどまでにばあちゃんは自分に絶対的な自信を持っているのだろうか?ちらっと横を見ると、ばあちゃんがにぱーっと笑う、本当に大丈夫かな。

 両側の壁面に変化があった。今までは茶色だったのに突然真っ黒になった。これはもしかして、魔子の炎によるものではないか?完全に黒焦げの岩肌を見ると、いかに魔子の炎が強大だったかが伺える。早く行かないと。焦燥感が増した。ばあちゃんを見ると、さすがにさっきまでのリラックスした表情が消え、神妙な顔つきになっていた。

「ザッちゃん、どうやらもうすぐみたいね」

 前はここら辺一帯、炎に覆われていたのに、今はその気配すらなく、むしろ洞窟本来の若干ひんやりした状態に戻っていた。岩肌だけが炎の存在を物語っている。炎が消えたってことは、もう決着がついたのか?あっ、姉ちゃんが勝ったんだ!そうに違いない!

「ばあちゃんっ! 炎が消えてるってことはさっ、姉ちゃんが勝ったんじゃね? ねぇっ!」

 ばあちゃんは同意してくれると思ったが、反応は違った。

「ん〜、どうかしらね〜。まだ分かんないな、なはは」

 最後のなはは、はどことなく作り笑い作り笑いっぽい感じがした。なんだよ、だって炎がないってことは魔子が死んだからじゃないのかよ。俺が姉ちゃんが勝って欲しいと思ってたから『炎が消えた→魔子を倒した』っていう因果関係を生み出したってのかよ。

「ばあちゃんは、姉ちゃんに勝って欲しくないのかよ」

 少し語気が荒くなった。ばあちゃんは困った顔をして言った。

「そんなことないわよぉ、だから怒らないでザッちゃん」

「じゃあなんで無条件に、姉ちゃんが勝ったっていうことを受け入れてくれないんだよっ」

「だから怒らないでよー、そんな怖い顔で見られるとあたし悲しいわ。あたしはね、ただ炎が消えてるってだけじゃウァルツが勝ったかどうか判断できないって思ってるだけよ」

「なんで?」

「だって、ウァルツが炎を消したかもしれないし、魔子が自分の意思で炎を消したかもしれないし、岩は燃えないんだから、戦いの途中で自然に鎮火したのかもしれないし、もうすぐウァルツのとこへ着くんだから、勝ったかどうかは着いてからわかるじゃない。でしょ?」

 言われてみればそのとおりだった、気持ちがはやるあまりに早計な判断を下してしまった。もうすこし、もうすこしだ。

 視界が開けた。思い出した、確かここだっ!

「ね〜ちゃぁぁぁ〜ん!!!」

 俺は叫んだ。辺りはシンと静まり返っている。俺の声が岩に反響する。俺は再び「ねーちゃーん!」と叫びながら、周囲を見渡した。若干薄暗いので、よく目を凝らさなければならなかったが、俺は地面に座っている人影を見つけた。

「姉ちゃんっ!?」

 俺はその人影に向かって走り寄った、寄った、よった、よっ・・・。

「え?」

 な、なんだこれ?

「ね、姉ちゃん。何してる、の?そいつは?え、何そのぶよぶよしたやつ。も、も、もしかして・・・」

 俺は何がなんだか分からず、しどろもどろになった。あれ?え?なんで、姉ちゃんは魔子と戦ってたんじゃないの?なのに、なんで――魔子を抱いているんだ!?

「姉ちゃんっ!!」

 俺は叫んだ。しかし反応はなかった。

「姉ちゃんっ!!」

「静かにしてっ!」

 姉ちゃんが叫んだ。俺は一瞬ひるんだが、今の状況を姉ちゃんに説明してもらわないと、頭が狂ってしまいそうで、姉ちゃんに食って掛かった。

「姉ちゃん何してんだよっ! どうなってるんだよっ!」

 姉ちゃんは沈黙していた。魔子らしきやつも沈黙していた。生きてるのかどうかすら分からない。いろいろな思いが奔流となって頭の中を駆け巡り、俺は言葉が溢れんばかりに出そうになったが、歯を食いしばって姉ちゃんが言葉を発するのを待った。姉ちゃんは言葉を発する代わりにある方向を指差した。俺は姉ちゃんの指差す方向を見た。空間にぽっかりと穴が開いていて、僅かな光が漏れている。

「あれは?」

 俺は姉ちゃんに尋ねた。

「出口よ」

 え?でくち?デグチ?出口っ!!そうかっ!出口かっ!

「じゃあやったんだね姉ちゃん! 倒したんだね、魔子を」

 そう喜びの声を上げたが、なんで姉ちゃんは魔子の体を抱いているんだろう。

「姉ちゃん・・・。なんで、魔子をその、抱いている、の?」

 姉ちゃんはまた黙りこくった。しばらく痛い沈黙が流れた後、姉ちゃんはゆっくりと優しい口調で言った。

「魔子は死んでないわ・・・。寝ているだけよ」

 俺は姉ちゃんの言った言葉の意味がすぐに分からなかった。寝てる?俺は恐る恐る、姉ちゃんの腕に抱かれている魔子に顔を近づけた。そして、魔子の顔を間近で見て悲鳴を上げた。

「ひっ、こっ、こいつ、顔がない――」

 魔子は黒いマスクをしてたはずだけど、その下に顔がなかったなんて・・・。もう俺の思考レヴェルじゃ今の状況を認識できない。一体どうなってるんだ、だめだ、気ぃ失いそ。俺が後ろに倒れそうになるのを支えたのはばあちゃんだった。ばあちゃんは片手でしっかりと俺の肩を抱いた。ばあちゃんは俺が思った以上に強い力で俺を抱き寄せ、俺はばあちゃんの着物に押し付けられていた。線香の匂いを感じる。見上げると、真剣な顔つきのばあちゃんの顔があった。普段の緩んだ顔とのギャップに俺は驚き、正直少し怖かった。ばあちゃんは魔子を抱いたまましゃがみこんでいる姉ちゃんを見下ろしている。姉ちゃんは俯いたままだった。やがて、ばあちゃんがはっきりとした声で「ウァルツ」と言った。姉ちゃんの肩がぴくりと反応した。

「あんたはそれでいいのかい?」

 さっきから俺の知らないところでばかり話が進んでいく。いい加減にしてくれよ。俺はこの状況をどうやら理解しているらしいばあちゃんに説明を聞くために、二人の会話に割り込んだ。

「ばあちゃんっ。教えてよっ。今、どうなってるのかっ!」

 ばあちゃんは真剣な顔のまま俺を見据えた。俺もばあちゃんを見つめていたが、やがて耐えられなくなって、目をそらした。

「ザッちゃん、目ぇそらすんじゃないよ。あたしの目をちゃあんと見て」

 そう言われて再び俺はばあちゃんの目を見返した。

「ザッちゃん、いいかい?あたしがこれから言うことをちゃあんと受け止めるんだよ、いい?」

「う、うん・・・」

「うん、じゃない。はい、だ。真剣に聞いて」

 ばあちゃんの只ならぬ雰囲気に押され「はい」と言った。ばあちゃんは軽く息を吸った後言った。それは俺の心を折るのには十分過ぎるものだった。

「――ウァルツはね、このゲーム内に留まる気だよ」

 視界が20度ほど斜めに傾いた気がした。ばあちゃんの言った言葉が音声として俺の脳を通り、やがてその意味をはっきりと認識したときさらに視界が90度傾き、足から力が力が抜けばあちゃんの腕の間から俺は滑り落ちた。

「あ?あうあ・・・あああ」

 俺は魔子の素顔をさっき知ってショックを受けたが、そんなのがかわいく思えるくらい次元の違うショックを受けて、まともな言葉が出てこなかった。これは俺の精神にはた、耐えられない・・・狂いそうだ、狂ってしまえばら、楽になれる。寸でのところで、ばあちゃんが俺の肩をがしっと掴んでくれて、俺はとりあえず踏み留まった。

「やっぱり、そうなっちゃうよねぇ。ザッちゃん」

 俺の反応をある程度予想した上でばあちゃんは言った。そしてその言葉には、普段のばあちゃんの若さは感じられなくて、年齢を感じさせるものだった。

「ウァルツ。見てごらん、ザッちゃんがこんな風になっちゃったよ。あんたそれでもここに留まるつもりなのかい?」

 姉ちゃんの反応はなかった。俺は姉ちゃんに見捨てられたのか?実の弟より、ゲームのキャラのほうをとるって言うのかよ・・・・。ありえない、そんなことあっていいわけがない。よく考えてみろ俺、今俺が正気を失ってどうする?姉ちゃんはちょっと今一時的におかしくなってるんだ。だから俺が姉ちゃんの目を覚まさせなければならない。俺は再び正気を取り戻し顔を上げた。

「姉ちゃん!」

 俺はここ一番の声を出した。姉ちゃんの肩がまたぴくりと動く。

「姉ちゃん、帰ろう!もう終わったんだよ、あそこにある光ってる穴――あれ出口なんだろ?あそこから現実に帰れるんだろ?じゃあ帰ろうよっ!いろいろ大変なこともたくさんあったけど、俺らはなんとかクリアしたんだよ。帰ってさ――たぶんもう夜中だと思うから、部屋に戻ってあったかい布団で泥のように寝よう!そうすれば起きたときは今日のことはもういい思い出つーことになってるんじゃないかな。だからさ・・・」

 自分で言ってる途中に涙が溢れてきた。

「だから・・・帰ろぉーよぉ。姉ちゃぁぁぁーん。そんなやつほっといてさぁぁぁあ」

 姉ちゃんの肩が小刻みに震えだした。そして魔子を抱きしめたあと、ようやく顔を上げ、俺を見た。その瞳は潤んでいたが、怒りの光を含んでいた。

「ザジッ!」

 姉ちゃんが強い口調で言った。

「あんたはいいわよ、それで。家に帰って眠って、母さんの作ったご飯を食べて、学校へ行って、友達と話して、そうやって今日のことはどんどん忘れてく。でも、この子はどうすればいいの?あんたが友達としゃべってるときもこんなくらい洞窟で一人ぼっち、あんたがおいしいご飯を食べてるときも一人ぼっち。私たちには家族や友達がいるけど、この子は誰もそういう人達はいないのよッ!」

「おかしいっ、おかしいっ!ずれてるよっ、すべてずれてるっ!どうしちゃったの姉ちゃん!そいつは、魔子はゲームのキャラなんだよ?存在しないやつなんだよ?兄ちゃんが気まぐれに作ったキャラなんだって、だからそもそも家族だとか友達だとか、考えること自体おかしいんだよ、頼むから目を覚ましてよ、姉ちゃん!」

「分かってるわよッッ!!」

 姉ちゃんが激昂した。声が壁に反響する。俺は黙り、姉ちゃんが言葉を続けた。

「そんなことはわかってる!!」

「じゃあなんで・・・?」

 その後の姉ちゃんの告白は、すべてにおいて俺の知らない姉ちゃんの心の中の思いだった。

「・・・私なりに結果を出せたのよ」

「・・・え?」

 姉ちゃんの言っている意味が分からなかった。「何の?」俺は言った。

「修行」

 姉ちゃんは短く言葉を発した。なんで・・・なんでここで修行がでてくるんだ?

「あんたも知ってると思うけど、あたしって武道の修行ばっかやってるでしょ?友達と遊びもしないで一人でもくもくと」

 俺はとりあえず頷いた。

「それってなんのためだか分かる?」

 俺はぶんぶんと頭をふった。いやな予感がした。

「ことものあんたにはちょっと言うのもなんだけどね、あたし・・・」

 俺は耳を塞ぎたかった。

「父さんを愛してるの、殺したいくらいに。だから修行して、強くなって強くなって、父さんに認められたいの、そして倒したいの!」

 そう言った後姉ちゃんは「でもね」と続けた。

「技が上達すればするほど、自分はそれに対して精神が未熟だって気づくようになったのよ。でもあたしはどうしても聖人君子みたいに振舞えなかった・・・」

 そんな・・・聖人君子みたいに振舞うだなんて・・・無理だよ。

「そりゃあ聖人君子のように振舞うなんて並大抵のことではないわ、正直それは無理かもしれないと思う。でも、それにしたってあたしは未熟過ぎた。小さなことで不機嫌になったり、人付き合いが苦手だったり・・・一番は人にやさしく接してあげられないってこと。いくら技が優れていても、心が未熟であれば、絶対に両方満たしている父さんには勝てない。でも今、この魔子によってようやく、自分に足りなかったものが、人に優しく接することが、できた。それで、自分に足りないものが見つかってしまったら、なんだか父さんに勝つだとか、正直どうでもよくなってきちゃった・・・」

「俺、姉ちゃんの言っていることがわからないよ。それと帰らないってことがどう結びつくの?」

 姉ちゃんはふふっと笑い「よーするに」と言った。

「この子がほっとけないってこと」

「ふざけるなっ!」

 俺は初めて姉ちゃんに対してキレた。姉ちゃんがびくっと震えた。

「この際だから俺も姉ちゃんに言うよ!まず、まず・・・俺はウァルツ姉ちゃんを愛してるっ!そしてっ!謝らなきゃいけないこともある!俺は、姉ちゃんに対して、不埒な思いを描いていたよっ!純粋に愛してるんじゃなく!そのコスチュームだって姉ちゃんは着たくなかったのに、俺が着て欲しかったから買ったんだ!あとこれは言っていいか分からないけど言うよ、夜のおかずにだってしたことも何度もあるよ!」

 姉ちゃんの目が大きく見開かれていた。俺の突然の告白に衝撃を受けている。

「でも!俺が言いたいのはそんなことじゃないんだっ!!親父を愛してる?親父に勝ちたい?だから修行する?それを知って俺もどう受け止めていいか分からないよ・・・。でもそれは、姉ちゃんがそう思ってるなら仕方ないかもしれない・・・。だけど、それをひっくるめたって、姉ちゃんは俺にとっての唯一人の姉ちゃんなんだよォォッ!!家族なんだよォォッッ!それは変えようがないじゃないかっ!姉ちゃんが何を思ってようが、俺が何を思ってようが、関係ないよッ!俺は姉ちゃんを愛してるけど、姉ちゃんは親父を愛してる・・・。いいんだっ!それでもっ!姉ちゃんは俺の姉ちゃんであってくれればいいんだよぉ!姉ちゃんがここに残ったら姉と弟という関係まで消えちまうだろぉ!それだけは消さないでくれよぉッ!!」

 目一杯叫んだ、魂の叫びだった。姉ちゃんは力なく「ハハ」と笑った。

「情けないわねあたし、弟にそこまで言わせちゃうなんて・・・。姉失格よね」

「そんなことないって!俺は姉ちゃんが俺の姉ちゃんであってくれさえすればいいんだよ!だから、さ。帰ろう」

 姉ちゃんは、首をゆっくり左右に振った。そして今までなんとか均衡が保たれていた姉ちゃんの表情が、徐々に崩れ、両目に涙が溜まっていき、涙の受け皿がいっぱいになるといくつもの筋が頬を伝った。

「やっぱりできない。この子をここに置いていくなんて、ゲームのキャラクターって言っても、他のキャラクターとは違う。自分の意思を持ってるもの・・・。この子の苦しみを知ってしまった以上ほっておけないわ・・・」

「俺の苦しみはいいのかよ!」

 姉ちゃんが苦しそうな表情をする、俺は泣いている姉ちゃんをこれ以上苦しめたくはなかったがどうしても言ってしまいたかった。そして俺も再び泣く。

「お、俺はく、苦しんでもい、いいのかよぉぉ!ね、ねえちゃぁぁん!」

 姉ちゃんは下唇を噛み締めてぐっと堪えている。そして俺は自分から本当は言いたくはないことだが、身を切られる思いで姉ちゃんを連れ戻すためにさらに言葉をつなげた。

「姉ちゃんは、えっぐ、親父を愛していて、それで、その親父を倒したいんじゃないのかよぉ!そのためにずっとつらい修行をしてきたんだろぉ!こんなところでその思いを潰えさせていいのかよぉ!」

「それは・・・」

 俺は顔もくしゃくしゃになり、悲しみで感情が飽和点に達していたが、俺の頭の中のほんの豆粒ほどの冷えた部分が、ここで現れてくれた。来てくれたよ、今しかないぞ俺、つーか今使えなくてなんだ、力を発揮してくれ、俺の口八丁よ。ちょっとでいいんだ、たとえ口先だけでもこの場を乗り切ればいいんだ。ちょっとだけ姉ちゃんの心を現実の方に向けさせれば。俺はごしごしと涙と鼻水を袖でふき取って、少しだけ気持ちを落ち着かせて言った。

「姉ちゃん、姉ちゃんの心配はたぶん解決されるよ」

「え?」

「だって魔子がゲームのキャラなら、兄ちゃんが何とかしてくれるよ。魔子が家族がいなくて寂しい思いをするなら、兄ちゃんに魔子の家族を作ってもらえばいいんだよ。そうすれば姉ちゃんがわざわざこの世界に残ることはなくなるさ」

 口から出任せだったが、この際いいんだ。姉ちゃんが不安に思っていることを少しでもやわらげる効果のあるものならなんだって。そして俺の言ったことはあながち無理ではない、というより十分現実的な解決方法だと思った。しかし、それは否定されてしまった。今まで俺らのやり取りをだまって聞いていたばあちゃんによって。

「ザッちゃん、それは残念ながら無理」

 ばあちゃんが沈んだ声で言った。

「魔子が生まれた時点で、プログラムは自立的にどんどん変化していて、もう外部からはほとんど干渉できない。というか干渉したとしても、それがそのままこの世界に繁栄されるのは100パーセント不可能なの」

「なんでだよっ!兄ちゃんがこのゲームを作ったんでしょ?だったらちょっと作り変えるくらいできるはずじゃないか!」

 ばあちゃんは俺の視線を正面から受け止めず、視線を外して言った。

「もうこの中は魔子の存在によって、アルゴリズムが成り立たなくなった、って分からなよいね・・・うんと、殆ど現実と変わらなくなっちゃったのよ。つまり、次にこの中で何が起こるかもう分からないの。ザコモンスターのプログラミングはそのまま保存されるから前と変わらないけど、新しくキャラクターを入れたらそのキャラクターが思い通りに動いてくれるかなんてもう期待できないの。水の中にインクを垂らしてそれを、常にある形に保ち続けさせるなんてできないでしょ?わ、わかるよね?ザッちゃん・・・」

 ばあちゃんは俺に気を遣って遠慮がちに言ったが、俺はばあちゃんにも裏切られた気持ちになった。

「それにね、もし、もし仮にこちらの思い通りのキャラクターができても、それを魔子が家族と認識すると思う?魔子は自我にもう目覚めちゃったんだよ。ザッちゃんだっていきなり違う父親や母親が出てきて、『今から私たちが家族だよ』って言われてそれをすんなり受け入れられる?もう、無理なの・・・。できることといったら魔子自体を消去して、魔子の家族を作って、再び一からゲームを作り直すことくらいしかないわ。でもそんなことしたって、今のウァルツにとっては無意味だって分かるでしょう・・・?」

 ばあちゃんの言っていることはなんとなく理解できた。もう進んでしまった時間を戻すことはできないのだ。でも・・・やりきれない思いでいっぱいだった。

「でも、ばあちゃん!ひどいよっ!ばあちゃんだって姉ちゃんに現実に戻って欲しいでしょ?なんで、なんでそんなこと言って邪魔するんだよ!馬鹿!」

 いつものばあちゃんなら、俺が強く言えば「あう」と言って涙目になるのだが、今のばあちゃんは俺に言われても引かなかった。

「ザッちゃん、あたしを責めて問題が解決するならいくらでも責めていいよ。でも、今はウァルツの気持ちをちゃんと理解してあげることの方が・・・」

「なに寝ぼけたこと言ってんだよばあちゃん。ばあちゃんは姉ちゃんに現実に戻って欲しくないってこと?ああ、そうなんだ。分かったよもういいよ!」

「ザッちゃん・・・」

 さすがにばあちゃんは堪えたらしく、サングラスを外して、着物で顔を覆いしくしくと泣き出した。なんで、俺ばっかり悪者みたいになるんだよ?やめてくれよ!なんか俺間違ったこといってるか?誰か教えてくれよぅ、誰か・・・。

「もうやめてよっ!」

 姉ちゃんが叫んだ。俺も姉ちゃんもばあちゃんも、みんな涙を流し、みんな限界だった。

「あたしだって、みんなの気持ちは痛いほど分かるよっ!ザジッ!確かにあたしの目標は父さんを倒すことよ。だからほんとはここに留まるべきではないのかもしれない」

「『べき』じゃないよ、留まっちゃいけないんだよ!」

「違うの!これは今までのあたしの贖罪なのよ・・・」

「なんだよそれ!」

「今まであたしは、修行修行でいろんな人の行為を踏みにじってきた。あんたにもそっけなく接したりして・・・」

「いいって言ってるだろ!そんなことは!まだそんなこと気にしてるのかよ!」

 どうしてここまで頑なになれるんだよ。俺は姉ちゃんが分からない、どうして俺が恥を掻き捨てて裸でぶつかっているのに、それに答えてくれないんだ。

「気にするわよっ!だってそう・・・今まで振り返ってみて、いろんな人に迷惑をかけたことが次々に思い浮かんでくるのよ。遊びの誘いを断ったりとか・・・」

「許す許す許す!何度でも言ってやるよ!俺が許すよ!許す!それでだめだってんなら俺がそいつら全員のとこ行って、土下座でも何でもして姉ちゃんのことを許すようにしてやるよ!」

「ザジ・・・」

「もう目が覚めただろ姉ちゃん!姉ちゃんは今ちょっと、センチな気分になってるだけなんだよ。そんなの時間が経てば気にならなくなるって!」

 俺は姉ちゃんが壊れてしまいそうな不安を感じた。俺がこれ以上何か言うと姉ちゃんにとって精神的ダメージを与えるだけになってしまうかもしれない。

「あたしが、普通の女の子だったらよかったのに・・・」

 ポツリと姉ちゃんが言った。

「え?」

「あたしが普通の17歳の女の子だったら。普通にあんたの姉さんとして、弟の言うことに素直に従ってたかもしれない」

「どういう、こと?」

「あたしは物心ついたときから、父さんに武道の精神論やらなにやら叩き込まれた。そしてあたしはそれに特に疑問は抱かなかった。それでそのまま今まで来ちゃった・・・。もう頭の先から、つま先まで武道の教えが身についちゃってるのよ。考え方もね、弱いものは守れ、常に平常心を持て、何から何までがんじがらめ。だからあたし自身の考えなんて、最初から必要なかったのよ。全部教えを実践していただけ。だから今もこの魔子を放っておくことはできないの。目の前の苦しんでいるものを見過ごすなんてできないのよ」

「俺は困ってるものを助けるなって言いたいんじゃないんだよ!」

「分かってるわよ!分かってる!・・・分かってる」

「分かってない!姉ちゃんは全部武道のせいにしてしようとしてるんだ!」

 俺は言ってはいけなかった言葉を言ってしまった。姉ちゃんは「違う!」と叫んだが、その言葉は尻切れトンボとなり虚空に消えて行き、再び姉ちゃんは「違う・・・」とうわ言のように呟いた。どうしてこうなってしまうんだろう?姉ちゃんも馬鹿だが、俺も馬鹿だった。もう売り言葉に買い言葉だ。俺は姉ちゃんの気持ちを考えていなかった、生憎俺は親父から武道の手ほどきは受けていなかったが、姉ちゃんにとってはそれがすべて姉ちゃんのアイデンティティなんだ。食いたいときに食い寝たいときに寝る俺に対して、小さいときから常に自分を律し、ひたすら己を鍛えてきた姉ちゃん。自分の欲望も武道の教えに掻き消され、同年代の女の子が興じる遊びもできない。いや遊ぼうと思えばできたはずだ。別に姉ちゃんは強要されていたわけではない。しかし今までずっと教え通りにしてきたために、逆にその教えから逸脱することが怖くなってしまったんじゃないだろうか。だから、さらに深く教えを守ろうという思い、気持ちが外にそれないようにする。悪循環だ。でも、姉ちゃんは今、自分が武道に拘りすぎていたことに気づいた。だから、今までの自分を振り返って、姉ちゃんなりに自分の間違いを正そうとしているんだ。それが姉ちゃんの贖罪っていうことなんだ。姉ちゃんが今までの、自分の思いを殺してきた自分をリセットするために――それが魔子のためにこの世界に留まるって言うことなんだ。
 姉ちゃんはここに留まらなきゃならないほど悪いことをしたのか?っていうのは俺らの論理で、姉ちゃんにとってはこういう方法で贖罪するしか、新しい自分に生まれ変わる術はないと結論を出したんだ。そして贖罪をしたとしても結局、この世界に留まってしまう以上新しい自分に生まれ変わることなんてできない。不毛だ不毛すぎる。なんて不憫なんだ姉ちゃんは。悲しすぎる。ようやく俺は姉ちゃんの葛藤を理解した。そして先ほど言った言葉を謝らねばと思った。

「姉ちゃん」

 姉ちゃんはうつむいて黙りこくっていた。

「俺、姉ちゃんの苦しみが分かったよ、勝手なことばかり言ってた・・・。酷いこと言ってゴメン。俺は姉ちゃんに今まで、何もできなかった・・・そんなに苦しい思いをしていたのに・・・。俺、オレ」

 そして俺は地面に崩れ落ち、突っ伏した。大声を上げて泣きたかったが、俺はそれを自分に許さなかった。嗚咽を必死で堪えようと地面に額を強く擦り付けた。涙は土に吸い込まれ染みを作った。

「うっ、うぅ・・・」

 「ザジ」と姉ちゃんに呼ばれた、姉ちゃんの声が落ち着きを取り戻していた。そしてなんだか憑物が落ちたような声のトーンだった。オレは涙と鼻水と泥でぐしゃぐしゃになっているだろう顔を上げた。

「こっちへ来て」

 姉ちゃんは寝ている魔子が膝にいるので、俺を呼んだ。俺は犬みたいに四足でゆっくりと姉ちゃんの隣へ行った。姉ちゃんの顔も、涙でぐしゃぐしゃになっていたが、とても清らかで美しく見えた。姉ちゃんは「ひどい顔ね」と言って、俺の鼻の頭についた泥をすっすと取った。

「姉ちゃんこそ」

 姉ちゃんは「そうね」と言いふふっと笑った後。ぽんっ、俺の頭に手をの乗せ、髪をやさしくなでた。俺は恥ずかしくて顔が火照った。

「何、すんだよ」

 思わず、憎まれ口を叩いてしまう。

「あーあ、なんでこんな簡単なことが、簡単なこと・・・できな・・・かったのかな」

 途中で姉ちゃんが「うっ」と言葉を詰まらせた。

「あたし・・・ホント馬鹿みたい・・・修行修行って拘っちゃって・・・こんな簡単なこと、できなかったなんて」

 猶も姉ちゃんは俺の髪をやさしくなで続けた。

「あたしってなんて不器用なんだろ・・・」

「もう、もういいよ・・・姉ちゃん、自分を責めないでくれ・・・」

「・・・なんでもっと自分のしたいよう、やりたいようにやってこなかったんだろ?そうすればザジにこんなつらい思いをさせなくて・・・済んだのに。あぁ」

 姉ちゃんの感情が噴出し、遂に「ワアアァァーッッ!!」っと泣き出した。姉ちゃんがここまで自分の感情を出したのを初めて見た。

「ザジッ、ごめんねっ。ウッ、ウッ、ぜ、ぜんぜん姉さんらしいことしてあげれない、駄目な、ホント駄目な姉ちゃんで・・・アアァーーッ!」

 いいんだっ、いんだよぅ。もう充分だよ、姉ちゃんはやっぱり俺の姉ちゃんだよ。不意にふぁさと俺らは何かに包まれた。それはばあちゃんの着物であり、俺らはばあちゃんに抱きしめられた。

「泣きなさいな、好きなだけ泣きな。特にウァルツあんたは今までずっと我慢してきたんだろ。さぁ、ばあちゃんの胸ん中で力いっぱい泣きなさい」

 姉ちゃんは「おばあちゃぁぁぁん!」と言って、ばあちゃんの胸に顔を埋め、俺も一緒になって号泣した。ばあちゃんの前では、俺はもちろん、姉ちゃんもまだまだ小さな子供だった。

「よしよし、よしよし、あんたたち二人ともあたしのかわい〜い孫だよ。うに〜」

 二人してばあちゃんの中で体中の水分がなくなるくらい泣き続けた。そしてしばらくしてようやく泣き疲れて、俺らは泣きやんだ。姉ちゃんも溜まっていた澱を全て流し少し落ち着いたようだった。

「さて」

 切り出したのはばあちゃんだった。遂に来てしまった。しかし、もう後戻りはできない。

「ウァルツ、覚悟っていうのもなんだけど、いいんだね?」

 姉ちゃんは相変わらずすやすやと寝息を立てている魔子をチラッと見た後「ええ」と強く頷いた。

「ザッちゃんも、いいね?」

 俺は姉ちゃんを見た。姉ちゃんは一瞬泣き笑いのような顔を浮かべた。俺はこれ以上姉ちゃん自身が選んだ判断を思いとどまらせるのはやめようと思い下を向いて「はい」と頷いた。姉ちゃんの視線を感じていたが耐えた。

「やっぱり、笑ってじゃあねって言うわけにはいかないか。そうよねぇ。でも二人ともちゃあんと納得したわね?自分の判断に後悔はないね?」

 ばあちゃんが言った。後悔も何も、こうする他ないんだ・・・。ばあちゃんの物言いに釈然としなかったが俺は頷き、姉ちゃんは「はい」と返事をした。

「よし!じゃああれが出口だっけ?行こうかザッちゃん」

 俺はばあちゃんに手を引かれ、立たされた。多少抵抗して見たが、強く引っ張られ俺は引きずられる形になった。膝に魔子を乗せて座っている姉ちゃんと徐々に距離が離れていく。

「ザジッ」

 姉ちゃんが俺を呼んだ。

「あんたが言った『ただ俺の姉ちゃんでいてくれればいい』っていう台詞、とってもうれしかったわ。あたしはいつでもあんたの姉ちゃんだからね。元気でやんなさいよ!」

 いつもの姉ちゃんがそこにいた。ああ、もうこれで、最後なんだ。最後くらい、やっぱり笑顔じゃなきゃ。

「分かった!元気にやるよ!姉ちゃんくらい強くなって見せるよ。だから姉ちゃんも・・・」

 元気で、とは言えなかった。もうばあちゃんの体は出口の穴に半分入っていた。俺は手を上げて姉ちゃんに手をふる。姉ちゃんも手を上げてそれに答える。

 バシュウウウウン――。

 世界が飛んだ。

  
Posted by mrunchein at 02:31Comments(0)TrackBack(0)

2005年11月29日

ゴンズぁ.競犬肇侫侫襦.Ε.襯弔繁盪勠

そして、この後のザジとウァルツの行動は前に述べた。この間ゴンズは再び手に汗握り、ザジとウァルツとフフルの行動をモニタ上で目まぐるしく追っていた。

「ばあちゃん急いでっ!ウァルツガンバれ!あっーもうっ、ザジっ!ばあちゃんはそっちじゃないぞ!」

 だが、一番気になるのはやはりウァルツと魔子の戦いだった、一度二人が攻防を見せたが、動きが早すぎてゴンズのパソコンのビットレートで処理落ちしてしまうほどだった。魔子はやはりラスボスだけあって驚異的だが、レベル38のウァルツがそれと互角に渡りっているのにもゴンズは驚愕した。

「ヒュー、やるなぁウァルツ」

 そう言ったもののすぐにゴンズはウァルツの変化に気が付いた。一度攻防しただけで、ウァルツが疲れきっているのが見て取れた。そして、ウァルツは摩子となにやら会話をしている。ゴンズのモニタは映像しか見ることが出来ないので二人が何を話しているかは分からない―――が、会話を終えた二人は雰囲気が変わり、ウァルツはノーガード戦法を取り、魔子が周囲の炎を取り込み火柱になった。

「げっ!ありゃ、魔子の必殺技の『ジャッジメント・ボルケーノ』じゃねーか、おいっ!ウァルツ!ノーガード戦法なんてやめろ、逃げろっ!もうすぐばあちゃんが来てくれるっ!」

 モニタの前で叫んでも意味はない。だが、自分が設定した魔子の必殺技の強さは自分が一番知っている(しかもいささかやり過ぎな設定ということも)ので、例え無駄であろうと思いをモニタに向けて叫ぶより他なかった。しかしウァルツは一向に逃げる気配がなく、唯ゾンビのように腕をぶらぶら振っている―――何か秘策があるのか?―――そう思ったが、魔子の製作者であるゴンズはそれをすぐに否定した。

「魔子に弱点はない・・・唯単純にレヴェルの問題なんだよな・・・」

 ウァルツの行動がどういう意図をもとになされているのかゴンズには分からず、そして現時点でウァルツが魔子に勝てる見込みは残念ながらないと分かっているゴンズは唯見守るしかなかった・・・。

「ん?」

 ゴンズはウァルツの両手に注目した。ウァルツのオーラが両手に集中している。逆に体にはほとんどオーラがない―――これは何を意味するのか?ゴンズは考えた。

「まさかっ、あいつっ!」

 乾坤一擲の攻撃を加えるとするならば、気を両手ではなく―――おそらくウァルツは右手に集中させるはずであり、しかも渾身の拳のスピートを生み出すために足の踏み出しも必要なので、足にも気を集中させる必要がある―――しかし足にもほとんど気はない。考えられるのはウァルツの必殺技の気孔砲か・・・それとも・・・・そしてウァルツはそのもう一つの方を狙っているようにゴンズには感じられた。

「馬鹿っ!魔子のマスクは俺が唯のデザインとしてつけただけなのにっ!」

 魔子は竜巻になり、ウァルツに迫った。そしてウァルツは―――ゴンズの危惧したとおり―――。

 マスクを摑んだ。

「うおおおおおいッッッ!やっぱりぃぃぃぃ―――ッッ!」


 怖い怖い怖い―――、周囲の闇、姉ちゃんを助けなければならない焦燥感、家族―兄ちゃん―への肥大していく疑念、全てがデーモンの手となって俺に覆いかぶさってくる。俺は意味不明な言葉を叫びながらひたすら走り続けていた。暗闇で一人でいることがこんなに怖かったなんて―――姉ちゃん一人いただけでどれだけ安心できたことか―――。今もいつモンスターが飛び出してくるか分からない―――嫌だっ!戦いたくないっ!怖いッ!ゲーム開始してから今ほど、心底モンスターが怖いと思ったことはなかった。何が怖いって―――周りがほとんどなんも見えないのが怖いんだっ!今も何処かで俺が来るのを息を潜めて待っているに違いない―――そして俺は『死』に以上に過敏になっている。ぽっと出てきたザコモンスタニに殺される事だってありうる。誰に殺されたか分からない明智光秀みたいに死ぬのはヤダッヤダッ、ぜーっっったいヤダッ!

 それに―――姉ちゃんが死ぬのもヤダッ!俺の姉ちゃん―――強くて、凛としていて、ツンツンしてて―――たまに見せる恥じらいが素敵な姉ちゃん!姉姉姉姉姉・・・・。失いたくない―――ッッッ。家では話しかけ辛くて、いつもちょっとはなれたところから見てるだけだった―――兄弟の中で唯一不可侵性を持っていた―――、このゲームで出会ってから姉ちゃんとあれこれ話すことが出来た、そしたら意外にもそんなに思ってたほど話しづらくなかった、しかも俺の理想の姉ちゃんのツボにジャストミートしていた―――。

 俺は姉ちゃんにこ・・恋してるんだぁぁぁぁぁ!うゎああああ!いや、愛だっ!愛してるんだっぁぁぁぁ!俺はまだ子供だからよくわかんねーけど、これは愛に違いない!違いないんだっ!兄弟だからとか、血がつながってるだとかで、だめだっていうやつらがいるけど、これはしょうがない―――ゲームでは良くあることじゃないか、実の妹とか実の姉となんとかかんとか・・・。でも俺は姉ちゃんとなんとかかんとかする気なんてないっ、いやっ、絶対にしない!唯・・・・たまに頭を良い子良い子してもらえればいいんだっ!死なせるもんか、死なせるもんかよぉ。
 教えてくれ兄ちゃん、兄ちゃんは一体何がしたいんだ?俺らをこんなひどい目に合わせて―――姉ちゃんをゲームに転送させてくれたのは感謝するよ、そうじゃなきゃここまで姉ちゃんを好きになることはなかったはずだよ―――だけど今姉ちゃんは魔子と戦って、もしかすると・・・いやっそんなはずはないっ!あの最強の姉ちゃんが死ぬもんかっ、もし―――もし姉ちゃんが―――死んでたら―――俺は兄ちゃんを絶対に許さないからな・・・一生許さない・・・・ユルサナイゾ・・・・。

「お〜い」

 突然女の声が聞こえた。え?姉ちゃん?はぁ無事だったんだね?はぁ☆ねえちゃ〜ぁぁぁん♪俺は立ち止まってキョロキョロと辺りを見回した。

「姉ちゃんどこっ?暗くて見えないよ」

「お〜い」

前方から声が聞こえる。そっちか、お〜い今行くよ〜。はぁはぁ、俺は小走りに声がした方にいった。

ね・え・ちゅ・わぁ〜あああん♪

 え?あり?誰?目の前にいたのは姉ちゃんではなく、金髪に赤い着物を着てサングラスをかけた変な女だった。

「あのぅ、どちらさんで・・・?」

「キャー、やっと会えた〜ザッちゃん!うにうにうに〜」

 突然女が抱きついてきた、あん?なんだこの人「ザッちゃん?」「着物?」「サングラス?」、俺をザッちゃんと変な風に呼ぶのは二人しかいない、じいちゃんと・・・・ばぁちゃん!!

「もしかして、おばあちゃん?」

 明らかに若いその女の人をおばあちゃんというのはどうかと思ったが、その―――俺にすりすり頬擦りしているのは間違いなくばぁちゃん―――だろう。

「そ〜よ〜、おばあちゃんでちゅよ〜。ザッちゃんかわいいかわいいね〜うにうに〜」

 あ〜間違いね〜、見た目はどういうわけかちょー若返ってるけど、この喋り方と、線香の匂い、間違いなくフフルばぁちゃんだ!

「ちょっ、ちょっとおばあちゃん」

 俺はすりついてくるばあちゃんを押しのけて、呼吸を整え、今思ったことを言ってみた。

「あの・・・強力な来訪者って、もしかしておばあちゃんのこと?」

 ばあちゃんはにっこり微笑んだ後言った。

「し〜らないっ。私は、ザッちゃんを連れ戻しにきただけよん」

 本来皺くちゃの老人が普段こんな話し方をするのを見た人はどう思うだろうか・・・今は特に違和感はそれほど?感じないけど・・・まぁでも俺はちょっとばあちゃんが苦手なんだ。なぜか知らないけど俺のことを異常に可愛がってくれる―――でも、なんか俺はそれがばあちゃんには悪いけど、ちょっと―――キモイ。俺は気を取り直して、今は一刻も早く姉ちゃんを助けなければいけないという事をばあちゃんに伝ようと思った。


「おばあちゃん、聞いてっ!今、姉ちゃんが、姉ちゃんが今、魔子に!魔子と戦って―――危ないんだ、だから・・・だから俺が魔子を倒せるかもしれない、ちょー強い助っ人を連れて来なくちゃいけないんだっ―――っておばあちゃん聞いてる?」

 ばあちゃんはぼけーッとして口が半開きになっていた。

「え?あんだって?」

 ばあちゃんは今の若返った姿では違和感アリアリの、耳に手を添えて俺の顔に近づけた。

「だからっ!」

「大丈夫。ちゃんと聞いてるよ。ウァルツが危ないんだろ。それにあんた達以外ににいるのは、私だけだよ」

 ばあちゃんは俺をなだめるときの優しい声で言った。

「じゃあ、強力な助っ人って・・・・」

「まぁ、私ってことになるのかな?」

 俺は安堵感で胸が一杯になり、涙が出そうで目がウルウルして、そのままばあちゃんの着物に飛び込んだ。よかったぁ〜。

「キャー、そんな目を潤ませながら飛びついてくるなんて、なんてかわいいのっ!ザッちゃん―――あぁ〜ん」

 俺は一瞬疑問がよぎった―――ホントにこのばあちゃんが魔子より強いのか?

「じゃあ急がないとね〜、で?どこなの?ウァルツは」

「あ、え〜と・・・分かんない・・・」

「あらあら、しょうがないわねぇ。じゃあザッちゃんが来た道をトレースしていきましょうか」

 ばあちゃんが、何やらリモコンのような小型の機械を着物の裾から取り出し、それを操作し始めた。すると地面に靴の形の蛍光色が浮かび上がった。

「これをたどって行けばわかるわよぉ」

 素直にすごいと思った。

「じゃあ行こう、おばあちゃんっ」

 俺はその靴の跡を見ながら走り出した。

「あ☆まって〜、ちょっと私にゃ、年齢的に走るのはつらいのよぉ〜」





 ゴンズがカッ―――っと目を見開き、ザジとフフルが足跡をトレースしウァルツのいる場所まで急ぐ中、当のウァルツはどうなっていたか?ゴンズの言った通り、ウァルツが決死の覚悟で取った魔子のマスクを剥ぎ取る行動は意味がなかったのだろうか?


 炎上する黒い炎の中に、最大の気で覆った手を突っ込み、ウァルツは魔子のマスクを今、剥ぎ取った―――ッッ。バァチィィィン――とマスクが取れ、魔子の素顔が露になった。

イヤァァァァ――――ッッッッ!!!!

 この悲鳴はどちらのものだろうか?魔子?ウァルツ?答えは―――魔子の方であった。

 天井を貫かんばかりの、黒い火柱は一瞬衰えた、魔子は両手で顔を覆い隠してウァルツから飛び退った。魔子の素顔を見たウァルツは息を呑み言葉を失っていた。みるみる内に魔子の炎が弱まっていき、炎がなくなった。魔子はウァルツに背を向け、ウァルツは魔子のマスクを手に持ったまま2人の間に時間が流れた。

「見たな?」

 魔子が恨めしそうな声で言った。ウァルツはゴクリと唾を飲み込んだ。

「見たのか?」

 再び魔子が問うた。ウァルツは擦れた声で「ええ・・・」といった。魔子の中で何かが膨らみ、やがて飽和点に達し―――弾けた。

「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!!!見られたっ!見られたっ!見られたぁぁぁああ!」

 魔子のマスクの下の素顔は、顔がなかった。

「・・・・・・・・・」

 魔子は蹲り、地面をばんばん叩き出した。

「ああああもう駄目だ・・・僕は・・・知られてしまった・・・」

 決死の覚悟で行ったウァルツの『マスク剥ぎ』は功を奏したのだろうか?しかし、既にこの時ウァルツは魔子の必殺の炎から両手を守るために気を使い果たしてしまっていた。もう、ウァルツに魔子を攻撃する力は残っていない。ウァルツはマスクが魔子を倒すための鍵だと本能的に感じていたが、それはマスクを剥ぐことが物理的に何らかの影響を魔子に与えるのではないかというイメージが根底にあった為である。実際はどうだろうか?特に魔子が物理的にダメージを受けた様子はない。しかしウァルツには唯息を呑んで待つことぐらいしか残された行動がなかった。

「ああ〜」

 魔子がウァルツの方を向いた。本来マスクがあった顔の部分は、ただのっぺりしたぶよぶよの肉があるだけだった。魔子は「あ〜あ〜」と呆けた声を出して、よたよたとウァルツの方に歩み寄ってきた。魔子が声を出す度に、肉塊がぶるぶると震える。

「ヴァああああ、ヴァルツぢゃぁぁぁぁん。ぼっ、僕は、お、お母さんからう、生まれた時からあった、マスクをま、前に取ってみたんだけど―――」

 千鳥足で徐々に魔子はウァルツに近づく。しかし魔子の体からはもう既に強大な炎の気配は感じられなかった。ウァルツは動く力もないのか、唯立ったまま魔子を凝視していたが、今現在の魔子の異様な光景を前にして、気持ちが引けていた。

「と、とってみたら、さ。在るはずのか、顔がな、なかったんだ、よ。お母さんにも、ざ、ザコモンスターにもあるのに、さ。なんで、ぼ、僕だけか、顔が――」

 ウァルツは魔子が何を言おうとしているのか分からなかった。猶も魔子はまるでそこに目があるかのように、ぶよぶよとした肉塊でウァルツを直視し不確かな足取りでゆっくり近づいてくる。

「こ、こないで」

 ウァルツが少し後ずさった。本当は後ろにジャンプしたいところだったが、気を全て消費してしまっている為、足に力が入らなかった。

「顔っていうのは、さ。や、やっぱりあ、アイデンティティをけ、形成するうえで、じゅ、重要なファ、ファクターだと、思うんだ――」

 すぐ目の前まで魔子が迫ってきていた。ウァルツはじりじりと後図去ったが、魔子との戦いによって生まれた、地面の凹みに足を取られて体制を崩し「あっ」と尻餅をついた。ぬっと、魔子がウァルツを上から覗き込んだ。




 時間を少しだけ前に戻す。ゴンズは自室で丁度、ウァルツが魔子のマスクを剥ぎ取り、魔子が絶叫を上げた場面を見てモニタの前で大爆笑していた。

「ぅわぁはぁあああ、ぶぶぶすぅ、ぶはぁああああっっっはは、ヒィヒィ――」

 ゴンズの周りを囲むデスクトップのファンモータの音にゴンズの笑い声が重なる。

「な〜んだ〜、そういうやり方があったのか、俺もそこまでは思いつかなかったわ。はぁはぁ心配しすぎたぜ」

 張り詰めていたものが切れて、急速な安堵感が流れ込んできたので、ゴンズは冷やしておいた好物の飲むヨーグルトを小型冷蔵庫から取り出し、一気に飲んで乾いた喉を潤した。

「ッッパァァァァハ――。なるほどなるほど、つまり俺が魔子に人工知能を取り入れたことによって、結局『自我』が生まれちまって、その『自我』を構成する上で顔がないことが葛藤を生み出し、それはマスクで隠されていたのに、ウァルツにそれを剥がされちまって、今まで隠していたものが露になった。さらにウァルツという他者にそれを知覚されちったことによって、他者を介した自己も魔子自身に突きつけられて、魔子は二重に『顔のない自分』というものの矛盾を感じて、アイデンティティクライシスに陥ったわけか。魔子は自我があるが故に、物理的に倒さなくとも精神的に倒すことができたんだな。ふむふむ。ウァルツはそれを分かってマスクを剥いだのかな?分かってたとしたら、すげぇな――いやいや、それはないよなぁ〜。だって、俺が分からなかったんだもん☆」

 ゴンズは自分の世界に入り込み、もう既にモニタを見ていなかった。再び冷蔵庫を開けて、2本目の飲むヨーグルトを取り出して飲んだ。

「ふ〜、つーことはさ。魔子に人工知能を取り入れたのも俺、マスクを被っているというキャラに設定したのも俺、だからはなっから顔のデザインなんて作ってなかったのも俺、それを忘れてモニタの前でドタバタしてたのも俺、それで魔子が戦意喪失した理由を理解してリラックス、アンド飲むヨーグルトを鯨飲してるのも俺、俺俺俺。な〜んか全部俺の自作自演〜☆って感じ?わはははは」

 ゴンズはもうゲームに関して『終わったこと』として認識し、あえて最後まで見る必要もないかな、別にこのあとは脱出ゲートが出てやったークリアだーハッピーウレピーってなるだけだしと思って、立ち上がりネトゲーをする為にモニタの切り替えスイッチを押そうと手を伸ばした。その時ゴンズはちらりと画面を視界の端に捉えた。

「ん?」

 ゴンズはモニタ見た。魔子がウァルツにふらふらしながら歩み寄っている。

「なにやってんだこいつらは」

 そう言った後ゴンズは鼻歌を歌いながら、再びモニタの切り替えスイッチに手を伸ばしたが、途中でその手を止めた。

「ん〜。これはひょっとしたら・・・。ふぅむ。すごいことになるかもしれんな」

 ゴンズはそう呟いた後に「え〜と、ハサミはどこだっけかな〜おかんにもらったあのゴチィやつ。あれじゃないと確かだめなんだっけ?あ、あったあったコレコレ」と言い、さび付いてこげ茶色に変色している大き目の鋏を、ジャンクパーツが入っている引き出しから出した。それを持ってゴンズは、一旦子部屋の隠し扉を開け機械に繋がれているザジのいる、本来のゴンズの部屋に戻った。ゴンズがモニタで見たときのように、まだフフルと一緒にウァルツのいる所へ急ごうと走っているのか、ザジは息が荒くなっていた。

「もう急いで行く必要ないけどな」

 ゴンズは部屋の中央のにある机にハサミを置き、ヘッドギアで顔の半分が覆われているザジを、目を細め慈しむように見た。しばし見つめた後、ぽんっと手を叩き「よし、今日はネトゲはやめて外に出て、夜風にでも当たってくっか」と言って自室を後にした。


 地面に尻餅を付いているウァルツのすぐ上に、魔子の肉塊があった。ウァルツの目は大きく見開かれ、その瞳には恐怖が混じっていた。

「うっ・・・」
  
 ウァルツが声を漏らす、肉塊がぶるぶると震えだした。

「あ、あああああああああああああああああああああああッッッッ!!!!!!!」

 魔子が再び絶叫を上げ、肉塊からにじみ出るように雫が溢れ、下にいるウァルツの顔にぽたぽたと垂れて来た。それは暖かかった。

「も、もしかして、泣いているの?」

 ウァルツの瞳からは恐怖が消えた。

「ヴぅあああああああッッ。うぐぅ、いっっヒック、わぁああああん!!!」

 とめどなく溢れてくる雫は、ウァルツの顔を流れ落ち、着ているレオタードに染み込んでいった。

「なんで、なんで、なんで僕には顔がないんだぁぁぁぁッッ! 僕を作ったやつは、ぼ、僕に自我を与えたのにっっ、なんで顔を作ってくれなかったんだぁぁぁ! ひどいよ、ひどすぎるよ。あんまりじゃないか。 アイデンティティが確立できないまま僕は、僕はっ、ずっとここにいなきゃならないんだっ!!! 君たちはっ、君たちの世界へ戻れるのにっっ!!!」

 魔子が一気に捲くし立てた。ウァルツは魔子が気になることを言ったので尋ねた。

「現実へもどれる?」

「そうだよっ! うわぁぁぁぁん! 僕を倒せばここを出れるんだろっ!! 僕はもう今の状態で戦うことなんてできないよっ! だからもう倒したも同然なんだよっ! あれを見ろよっ!」

 魔子がウァルツの後ろを指差した。ウァルツが振り向いて見ると、直径2メートルくらいの光が溢れている穴があった。

「あれが出口だっ! ゲームのプログラムがクリアだと判定したんだよっ!  君達の目的はこれで達成だろっ! わあああああん」

 魔子はウァルツの前に崩れ落ちた。

「・・・・・」

 ウァルツは唯黙ったまま、肩を震わせる小さな肉塊を見つめていた。

「エ、ひっく、うぐぅ、ひっく。僕は矛盾を抱えたまま、ラスボスとして侵入者と戦うなんて、もうできないよぉ。なんで初めから侵入者を殺すだけのプログラムにしてくれなかったんだよぉ。その方がどれだけ楽か。他のザコモンターみたいにっ! う、ひっく。 僕はもう、ずっとこの場所で、ひたすら自分の矛盾を感じながら泣き続けるんだっ!」

 ウァルツの顔や服は魔子の涙にまみれていたが、不思議と嫌だ、汚いなどの負の感情は湧いてこなかった。今ウァルツの目の前にいるのは唯の、小さくて、弱くて、守ってあげなくてはならない――子供だった。

 ウァルツの中で今まで破ろうとしても破れなかった殻が、割れた。

 両手が自然と持ち上がり、魔子のほうへ伸び、やがて魔子ののっぺりとした頭を包み込んだ。そしてウァルツはそのままゆっくりと引き寄せ、自分の胸にうずめた。魔子の嗚咽が止んだ。

「うっ。な、何するんだよ?」

「なんか、自然とね、こうした方がいいのかなと思って・・・」

 夜泣きでわめく子供を寝かしつけるときの母親のような、優しい声でウァルツは言った。魔子は何も言葉を返さなかった。ただウァルツの暖かい温もりと、心臓の鼓動を感じているだけだった。しばらく魔子はそうしていた後、言った。

「服を汚しちゃって、ご、ごめんなさい・・・」

「汚れは泥とか埃だけよ、これは気にしなくていいわ・・・」

 ウァルツがそういった後、魔子の体がぴくりと反応した。

「どうしたの?」

「お別れの時が来たようだよ」
 
 魔子が先ほどまでとは変わって、しっかりとした口調で言った。

「ね〜ちゃぁぁぁ〜ん!!!」

 ザジの声が聞こえた。

  
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2005年11月28日

ゴンズ

「誰だこいつはッッッ?」

 突然モニタに現れたキャラにゴンズは思考を掻き乱されていた。髪は金髪で薄い色のサングラスをかけた着物の女がモニタに映っている。

「こんなキャラは設定してないぞ!?」

 女は洞窟の中を、着物をはためかせながら優雅に歩いている。その出で立ちと、洞窟の中というミスマッチはなんともいえない光景だった。モンスターは部外者には攻撃するようプログラミングされているので、女の行く手に現れ襲い掛かろうとするが、その女に近づいただけで彼らは儚くも雲散霧消して行った。それはまるで舞台の桜吹雪の中を歩く役者のようで、幻想的な美しさにゴンズは目を奪われた。そして女の歩みには迷いが感じられない、明確な目的を持って歩いている。ゴンズにはそのように感じられた。

「はっ!?見とれている場合じゃない・・・」

 ゴンズは現在の状態をパソコンで確認した。そして、みるみると顔が青ざめ、叫んだ。

「ぬおおおおおお、いつの間にかクラッキングされとるっ!!!FUUAAAAAAAACK!!」

 頭を抱え、蹲り、現状を解釈しようと必死でゴンズは脳をフル回転させた、しかし明快な答えは出てこなかった。

「あり得ねー!マジありえないんですけどぉ!俺の鉄壁のセキュリティが―――ウォール・オブ・ジェリコが突破されるなんてー!」

 完璧主義者が最も恐れるのは不測の事態である。立て続けに起きた予想外の出来事はゴンズをノックダウンさせた―――1,2,3―――4。頭の中でテンカウントが開始される。もう一度モニタを見る。着物を着た女―――そこで電撃と供にゴンズの脳に天啓が閃いた。

―――あ、この女もしかして。

「ばぁちゃん!?」

 しかし口に出して直ぐゴンズの頭に疑問符が浮かんだ、ババアの進入は何とか阻止したはずだ―時間的に大分前になるが、ゴンズは一度祖母と思しき人物からのクラックを受け、すんでのところでそれを阻止し、自分より遙か先いる人物に勝利したのだと思って、あまりの嬉しさに射精していた。その後実際しばらく何も起こらなかったので、ゴンズも勝利を確信していたし、それに魔子がゴンズの存在に気づいたこともあったので、そのことはゴンズにとってすでに過去の素晴らしい思い出として、心の片隅のアルバムにそっとしまわれてしまっていたはずであった。しかしそれがゴンズの大きなミスだった。ゴンズはウイルスの存在を失念していた―――クラックを阻止した後、ゴンズは念のためにウイルス検索をしておくべきだったのだ。そしてゴンズは、認めたくはない仮説を一つ導き出した。

「あのときババァは、俺のパソコンに時限式のウイルスを進入させていたんだ。ウイルスはパソコンに潜伏し、数時間立った後発動する。そして俺のパソコンのセキュリティプログラムの情報を、感知されないようにひっそりとババァのパソコンに送り続け、それを元にババァはワクチンを作成―――それで堂々と進入してきたんだ。俺はモニタに釘付けになってそれに全く気づかなかった・・・ちっくしょぉ―――ーッ!」

 一度勝ったと思っていた分、ゴンズの中で悔しさは自乗で膨れ上がった。

「最初の侵入はむしろ陽動で、ウイルスを進入させるのが真の目的だったんだ・・・ハハ」

 もしかすると、ゴンズに侵入を阻止させてつかの間の喜びを与え、その裏をかいて侵入することでゴンズに精神的大ダメージを与えたかったのかもしれない―――ゴンズはそこまで考えた。

「俺は甘かった! もしババァが本気になれば俺のセキュリティを正攻法で突破するなんて理由ないはずだもんな・・・。人が悪すぎるよ、おばあちゃん」

 そして更にゴンズに次なる疑問が浮かんだ。

「でも、ばぁちゃんは何しに来たんだ?」

 再びゴンズはモニタを見る。和服の女の周りに相変わらず桜吹雪が舞っている。おそらく祖母――フフルは侵入する祭に自分の情報をちょっと弄ったのだろう、和服の女はサングラスをしているから顔は見えないが、周囲の造りや肌の張り具合から見て、20代前半にしか見えなかった(因みにフフルの普段の格好は着物にサングラスである。ゴンズはすぐに気づいても良さそうなのだが・・・)。今ひとつフフルがゲーム内に侵入してきたことに対して、ゴンズは答えを見出せなかったが、一つ災い転じて福となるような事実に気が付いた。

「そうだっ、これでザジとウァルツのクリアの心配はなくなったじゃないか。なーんだっ」

 本当は自分たちの力だけでクリアしてほしいとゴンズは最初から思っていたのだが、フフルが介入してきてしまったら、ゴンズに思い通りに出来る余地はない。

「くそー、今回は見送るかぁ。しゃーねーなー、後の第三者として純粋にゲームを見るのを楽しむか・・・」

 そう思った矢先、ザジとウァルツが遂に魔子と遭遇してしまった。

「わっ、やば・・・ばぁちゃん早くしないとぉ!」
  
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2005年11月27日

ウァルツと魔子

 ウァルツは目の前の敵――魔子と睨み合ったまま動けずにいた。しばらくそうしていたが魔子はウァルツに時間稼ぎはさせまいとして、動き出した。魔子にとってはザジが来訪者を連れて来てしまうと自分の身が危なくなってしまう。先にウァルツを倒せばその危険は軽減される。魔子にとってはどうしてもこの場でウァルツを仕留めておく必要があった。魔子は背中の羽をコンコルドの翼のように尖らせ、ダンッと地面を蹴り、ジェット機のような速度でウァルツに突っ込んできた。ウァルツの目の前に魔子の頭をすっぽりと包み込んだ黒いマスクがものすごい勢いで迫る。
 
 ウァルツは横に飛んでそれをかわすが、衝撃波でふっとばされ、壁に叩きつけられる―――と思いきや、吹っ飛ばされたのはウァルツのミラー(分身)の方で、ウァルツの本体は、飛行している魔子の直ぐ上にあった。魔子が上を見上げると、両手に気の塊を纏ったウァルツがいた。

「破阿ぁぁぁぁぁぁぁっ!」

 魔子はとっさに頭の二本の角を平に変形させ、盾のようにして身を守った。ウァルツが気弾を魔子に叩きつける―――轟音と供に壁や天井が崩れ、周囲が木っ端微塵になった岩の煙に包まれる。ウァルツは目を閉じ神経を研ぎ澄ませ魔子の位置を探る―――しかし反応が感じられない。汗が閉じた目に入ってきた。わずかな音、空気の流れ、些細な変化を見逃すまいとウァルツは集中した。地面からわずかなクラッキングの音―――認知すると同時にウァルツは体を反らせた―――地面から角が突き出てウァルツの顎をかすめる―――右手に50パーセントの気(体に纏っている気は15パーセント)を貯めて地面を殴った。直径10メートルほどのクレーターが生まれ、その中心には埃まみれの魔子がいた。ウァルツは後ろに飛び去り距離をとった。

「ふーやるねぃ・・・物理系の格闘にはウァルツちゃんの方に一日の長があるようだね」

 魔子はパンパンと体の土埃を叩きながら言った。ウァルツの力を認めたものの、あいかわらず魔子は絶対的な余裕を持っていた。一方ウァルツは今の時間にして10秒足らずの攻防で、かなりエネルギーを消費していた。周囲の炎を無効化するために気のバリアを纏ったまま、戦うのは予想以上に消耗が激しかった。バリアを張らなければ最大で90パーセントの気を拳や足に集中させることが出来るのだが、15パーセントはバリアに使っているため、最大でも75パーセントの力しか集中させることが出来ない。

 100パーセント拳や足に集中させることが出来ないのは、気を体の部位に移動させる際のパイプとして使っているからだ。それがないと手から足、足から手への気の移動が出来なくなってしまう。拳を電球、気を生み出す体を電池とするならば、それらを繋ぐ回路がないという状態である。そういうわけでオーラの最大値の10パーセントはその回路の為に当てなければならない。

 気の戦いとは短期決戦、もしくはここぞというときの一発に使うものであり、長期戦には適していないのだ。ウァルツの心臓の鼓動が早まっていた。今くらいのやり取りなら五分が限度だろうとウァルツは計算した。しかし五分以内にザジが戻ってくるのを期待するのはかなり難しいといえる。

(とすると戦い方を換えるしかないのだろうか?)

 ウァルツの中に逃げるという選択肢が浮かんだが、ウァルツは直ぐに否定した。逃げることよりも、自分より強大な敵に自分がどこまで通用するのか試したいという思いの方が勝った。ザジがいた時は逃げることしか選択肢がなかった。なぜなら真っ先にザジが殺されるであろうから――。そうすればウァルツへの攻撃補助がなくなり魔子にとっては戦い易くなるからだ。だから弟であるザジは守らなければならない――プルートから受けた武道の教えでも弱いものは守らなければならないと教えられた。

 ウァルツにとって、精神が形成される思春期に、最も影響を受けたのが武道だったので、ウァルツの心の中はほぼ武道一色で埋め尽くされ、無条件で弱きもの――ザジを守らねばならないとウァルツは思っている。(やはり先にも述べたように、ウァルツのザジへの献身は武道の教えを忠実に守った結果であった)。

 今は魔子とウァルツとの一対一なのでザジを気にすることなく戦うことができる。

(自分はまだ死ぬつもりはない―――死ぬつもりはないが、魔子に対してどれだけ自分が戦えるのかを試してみたい)

 そんな思いがウァルツの中に生まれていた。父プルートを倒すためにはこいつを倒さねばならないとウァルツは思った。危機に瀕してウァルツの脳はどくどくと脳内麻薬を分泌し始め、徐々に死への恐怖感が高揚感に変わっていった。ウァルツは全身の力を抜き始めた。四肢をだらんとさせ、目は半眼、口を半開きにした。だらしなく開いた口の端から涎が流れ、糸状になって地面へ垂れた。ウァルツは今究極のリラックス状態になった。それを見て魔子が多少怯みを見せた。

「脱力ね・・・カウンター狙い?次の一撃で決めようって言うの?剣豪小説の決着のようにうまくいくなんて思ってるのかい?」

 ウァルツは魔子の挑発ともとれる言葉には答えなかった。ただ虚ろな目のまま・・・揺れていた。ぶら〜りぶら〜り時計の振り子のように――。

「フフ、じゃあ僕も次の一撃で決めようかしら。じゃあ本気の攻撃で行くよっ!」

 魔子は腰を落としてぐぐぐっと体に力を込めた―――バッとハイレグワンピースが破け飛び裸体が露になった。魔子の裸はエイリアンのように黒く、筋張っていて、股間にペニスは付いていなかった。急に周りの炎が魔子に吸い寄せられていった。炎が魔子の体に吸い付き、赤い炎から黒い炎に変化した。炎は魔子の全身を覆いつくし魔子は黒い炎の塊と化した。

「黒い炎の温度はおよそ6000度。太陽の表面と同じ温度だよ。触れた部位は焼けるというより―――蒸発する」

 黒い炎の塊の中から魔子の声が響いた。魔子の体を覆う黒炎から発せられる熱線ですでにウァルツの肌表面の汗が気化し始めた。白熱電球を肌に直接当てたような熱をウァルツは感じていたが、それで脱力を止めることはしなかった。気での戦いは長期戦は無理であり、魔子も長期戦にするつもりはないようだ。そして、ウァルツ自身、まだ死ぬ気はない。ならば魔子に勝つしかない。勝つにはどうすればよいはウァルツは考え、そして魔子のある点に注目した。ウァルツは魔子を初めて見たときから気になっていることが一つある。それは―――魔子の頭を全て覆い尽くしている黒いマスクのことだ。(あれは一体なんなのだろう?そしてあの下には何が隠されているのだろう?)ウァルツはなぜかそれが魔子を倒す鍵だと本能的に感じとった。狙いはあのマスク。しかしマスクを取るためには、6000度の黒炎の中に手を突っ込まなければならない。ウァルツの持てる全ての気を両手に集め、気と炎を相殺させ、魔子のマスクの際を摑み一気に剥ぎ取る。(おそらくもって0.1秒)だがしかし、それも確かではない、ウァルツの持つ気の残量が魔子の黒炎のエネルギーより極端に少なかった場合は、その作戦は無意味になり、ウァルツの両手はおろか頭、体、足の大部分は蒸発するだろう。そして、魔子のマスクを取ることが、魔子にとってなんら影響を及ぼさないのであったならば、やはりウァルツは蒸発するだろう。薄い望みに懸けるしかなかった。

「行くよ行くよ、ホントに行くよ。準備は良いかい?死ぬ準備」

 黒炎がその勢いを増す、ごうごうごうごう、ウァルツの気の量が弱い部分(現時点では両手に最も集中し、そこから離れるごとに気の量は減っている。つまり今もっとも弱いのは足)が火傷で水ぶくれになっていく。気でガードしていなければ、この時点で既に皮膚は炭化しているだろう。もしこの状況にザジがいれば、ザジは消し炭になっていたはずだ。勢いを増した黒炎の頂点は高い天井にまで達した。ウァルツは怯むことなく相変わらず揺れている。中途半端な覚悟、あれこれと躊躇すれば反応が鈍り、業火に焼かれ確実に死ぬ。全てを忘れて一瞬にかけること――忘我の境地がウァルツが本能的にとった今の行動である。

 魔子が高速で回転し出し、黒い炎の竜巻と化した―――ウァルツの周囲の炎を残らず吸い込みながら、ウァルツに向かって一直線に突っ込んでくる。ぶらーん、ぶらーん自然のリズムに任せてウァルツは魔子最大の攻撃を迎え撃つ。回転で生まれた魔子を中心とする圧力の低下で、力の抜けたウァルツが竜巻に引き込まれる。そして竜巻がウァルツの眼前に迫ってくる―――カッ。ウァルツの目が見開き、最大最強の気を両手に集めた―――火柱の直径は魔子の体の部分の太さしかないので、手を伸ばせばウァルツの体に炎が触れることはない。ウァルツが回転する魔子のマスクを摑んだ―――ー。


「ちょっ・・・・」

「ハァァァァァッッッ!!!」

 魔子が何か言いかけたが、一気にウァルツはマスクを摑んだ両手を引き上げた。

  
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ウァルツとは 

 ウァルツが幼かった頃、父親のプルートはウァルツの格闘能力の高さを見出し、親子の戯れのついでとして格闘技、いや武道を教えた。そこに精神論があれば格闘技ではなく武道になる。父が子に道徳を説くかわりとして武道を学ばせることには意義があった。プルートはゴンズにも武道を教えていたらしいが、技のほうはすぐに覚えるのに、肝心の(プルートはむしろこっちを重視したかった)精神論のほうには拒絶反応を示した。

 拒絶反応を起こさせるほどまでに精神論を説くことに疑問を感じたプルートは、ゴンズに武道を教えることをやめてしまった。ゴンズにちゃんと武道を教えられなかった分、プルートはウァルツに教えることに力を注いだ。幸いなことに、ウァルツは武道の精神もすんなりと受け入れ、もちろん技のほうも直ぐに覚えどんどん力を付けていった。常人が覚えるのに三十年はかかるであろう気の習得も、ウァルツは5年ほどで習得した。因みにプルートでも十五年かかっている。

 『気』に関しては、個人個人で扱いが異なるので、『気』を纏ったり、体の一部分に集めたりするなどの基本的なことはプルートも教えることが出来たが、『気』を飛ばすなどの応用に関しては、自分で自分の『気』の扱いを学ばなければならない。なので、ウァルツが高校生になって『気』の基本的なことをマスターしてからはプルートが教えることは事実上なくなった。 
 
 ウァルツは日頃から気を出すために精孔の開閉の訓練を怠っていなかったので今ではかなり気を使いこなせるようになっていた。スパークボールとして気を飛したり、バリアとして気を使えるのはその一例である。プルートが気を使えるようになった年数が十五年なのに対して、ウァルツは五年で使えるようになったので、才能自体はウァルツの方があったのだが、まだまだウァルツはプルートに遠く及ばないと思っている。それは戦闘経験の差もそうだが、一番は精神面だとウァルツは思っている。些細なことで頭に来たり、自分以外の人と関わるのをわずらわしく思ったりなどである。人と遊ぶ時間があるならウァルツは修行と称した気の訓練をやっていたかった。第三者から見れば修行マニアとでも言えるかもしれない。

 自分と同年代の女の子たちは、カラオケに行ったり、服を買いに行ったり、彼氏を作ったりしているがウァルツにとってそれらはあまり興味をそそられるものではなかった。無口であることも加わって、周りからはどことなく距離を置かれ、学校で友人はほとんどいなかった。

 ウァルツは家でもしゃべる事が少ないので、このゲーム内でザジと普通にしゃべっている自分に驚いていた。家でザジと会話をしたことはあまり記憶にない。実際はウァルツが自分で思っている以上にザジと会話をしていたのかもしれないが、修行のことで頭が一杯で忘れてしまったのかもしれない。ザジはウァルツに尊敬の念だけではなく、好意(嗜好的な)を抱いているが、ウァルツはザジに対して弟という以上の認識は持っていない。ウァルツの頭の中にあるのは『弟→まだ小さい→弱い→守る必要がある』ということだけである。

 姉として弟を守るということに関しては、身に付けた武術でなんとかなる。しかし弟を介抱したり、癒してあげたりすること、つまり母性が必要とされる場面になるとウァルツは恥ずかしくて何も出来ないのだった。母性は武道をする上で必要な要素ではないが、つっけんどんに弟に接してしまう自分がウァルツはなんとなく嫌だった。そういう点は自分でも治さなくてはいけないと思っているのに、それができない自分は精神が未熟だからだと思っている。今までのザジとの会話は、少しつっけんどんだったかもしれないとウァルツは反省していた。本当はザジにやさしく接したいのだ。

 これまで、ウァルツは精神ではなく、技の修行ばかり優先してしまったため、人間関係、さらには兄弟の関係まで、そんなものは修行の為にならない、単に煩わしいものでしかないと思っていた。しかし最近ウァルツがうすうす気づき始めたことがある。それは、技の修行を優先したいから人とのかかわりを持とうとしないのではなく、人と関わるのが苦手だから修行に逃げているのではないかということだった。現在のウァルツのように、ある程度『気』の扱いにはなれて、更なる高見を目指して行こうとすると、自分の精神面の未熟さが気になってくるのであった。

 更なる高見――プルート、ウァルツはプルートを越えたいと強く思っていた。ザジがウァルツに対して、尊敬+好意を持っているとすれば、ウァルツはプルートに対してザジとほぼ同じ気持ちを持っていた。ただしウァルツはザジのように変態的な嗜好性ではなく、ただ純粋にプルートの持つ真の強さ(フィジカルとメンタルの強さの融合=拳禅一如)への憧れを伴った好意であった(ここで言う好意とは、ただ気に入っているというレヴェルの好意ではなく恋愛感情レヴェルの好意であると補足しておく)。

 尊敬の念もある閾値を越えて、しばらく熟成させればそれは好意に変わる、がしかし、残念なことにザジの思いはウァルツに届くことはない。ないけれどもウァルツは、これからザジに対してメンタル面の強化(母性を発揮することへの恥ずかしさ、躊躇などをなくすこと)の為にやさしくあろうと心掛けるであろう。そしてやさしくなったウァルツに対してザジは間違いなく自分の思いが通じたに違いない――とさらに増徴することだろう。しかし、ウァルツにとってザジはただの弟、しかも酷なことを言うと、自分を高めるためのステップとして利用しようとしているに過ぎない。ウァルツが見ているもの、それはプルートである。この兄弟の間に悲劇が生まれずにはいられない・・・。
  
Posted by mrunchein at 00:36Comments(0)TrackBack(0)