2005年11月30日

ブログの凄さ(その4)3

小学生絵日記としてのブログ

一連の記事を”ブログの凄さ”として展開させて頂いておりますが、なぜブログは凄いのか…ということの”本質”をほんとうに暴いている”ブログ”は現在ではまだありません。それにはいくつか理由があるかとは思いますが、第一に、ブログの参加者たちの平均的な”知的レベル”の問題がありましょうし、また、仮にそのような問題がクリアされていたとしても、もろもろの”立場”というものがあり、そのままで”意見”とか”主張”というものをストレートに表現できない場合もありましょう。

が、いずれにしても、はっきり言えることは、ブログの”主催者”すなわち”ブログ主”、”ブログ管理者”といった”範疇”に属する者は”必然的に”その人の人間的なもろもろの”素養”について、完全に他の平均的あるいは一般的なひとびとによって”かなり正確に”、つまり、間違いなく”洞察”されてしまう…というこのことなのです。名前はここでは出しませんが、かなり著明な人物がブログを主催したことにより、実は非常に内容の”薄い”人間である…といったことが完全に露呈してしまう程、この、ブログという”概念”はある意味で非常に”公平”というか”非人間的”というか、”ゾンビ的”というか、とにかく、ブログの主催者のレベルというものがそのまま”ブログ世界”に公開されてしまっているこの事実、これはまさしく”ブログの凄さ”であり、かつ、”ブログの怖さ”でもあります。

わたくしも、お蔭様でブログに着手してからほぼ半年になりますが、非常に多くのことを学ばせていただきました。ここに、ブログを発信しておられるすべての方々に対してお礼を申し上げておきます。

さて、巷では”枝”が折れんばかりに豊かに”コメント”と”トラックバック”の”実(み)”をつけているブログを見かけますが、そのような”ブログ”を鑑みるにつけ、”小学生の絵日記風”のブログとはこういうブログなのか…というような感慨を新たにするのです。

言いたいことはわかりますか? ”発信者”がリリースする”コア(=芽)メッセージ”とそれに群る一般大衆とのレベルの”調整(=チューニング、=同調、=調歩、=歩調)”がとれたとき、そのときこそ、たわわなコメントが発生し、非常に多くのひとびとがその”コア記事”の一部あるいは全部を利用し、場合によっては自分なりに”アレンジ”して、さらに”拡大再生産”といったような様相を呈する…という、まさしくこのことが一般的な”小学生風絵日記ブログ”の共通している基本的な現象パターンであるということがわかったということを申しあげたかったのです。

別に”小学生風絵日記ブログ”が悪いわけではありません! ただ、そのような”ブログ”は”旬”のときだけは”一見”賑わいを見せることができましょうが、3年、5年、10年といったタイム・スパンで”息の長い”本格的なブログ活動を展開するには、あまりにもその思考的あるいは思想的“基盤”が脆弱ではないだろうか…というのが、このブログでの主張であり、ブログの”凄さ”でもあるのです。


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2005年11月09日

ブログの凄さ(その3)

純粋マスタベーションとしてのノーベル賞!

 今から約20年前、わたしは故丸山圭三郎先生の一連の著作に出会いました。その中で、『ソシュールの思想』、『文化のフェティシズム』、『言語と無意識』などは非常に印象に残る書物になりましたが、同時に、記号の”記号性(=関係性)”、関係の”非実体性”というものを非常に深く考えさせてくれました。この故丸山先生経由で”ソシュール”の思想に出会う前も、ニーチェ、キルケゴール、八木誠一、滝沢克巳、田川建三、ドストエフスキー、カフカ、オーウェル、開高健、大江健三郎、丸山健二といった一連のひとびとの著作および作品群に出会い、諸々の影響を受けていたのではありますが、この”ソシュールの思想”との出会いによって、自分の”思想”におけるかなり決定的な”変化”というか”厚み”というか、そのようなものを齎してくれました。

 そのような背景があったため、当時すでに諸々の全ての”賞”というものが純粋に”虚像”[”非在”、”関係価値”、”ネガティブな価値(=実体的には何もない価値)”]である…という洞察は当然なものとして受け入れることができました。特に、キルケゴールおよびニーチェそれに田川建三氏からの影響などが大きかったかと思われます。

 したがって、そのような”虚像”、すなわち、”マスタベーション”の最も象徴的なシンボルである”ノーベル賞”というものについて”考察”してみたところ、まさしくそのものすばり、虚像以外の何ものでもない…ということが決定的になったのです。

/////////(以下引用↓)/////

ノーベル賞学者:暴走、8人死傷事故で実刑判決 米加州
 【ロサンゼルス國枝すみれ】米カリフォルニア州サンタマリアの州地裁は7日、交通事故で8人を死傷させたフロリダ州立大教授でノーベル物理学賞受賞者のジョン・ロバート・シュリーファー被告(74)に過失致死罪で禁固2年の実刑判決を言い渡した。

 判決によると、同被告は今年7月、スポーツカーで160キロを超える猛スピードを出して暴走。衝突事故を起こし、1人を死亡、7人を負傷させた。事故以前に9度スピード違反で捕まっており、免許停止処分中だった。同被告は1972年、超電導に関する研究でノーベル物理学賞を受賞した。

毎日新聞 2005年11月8日 19時07分

/////////(引用おわり)/////

 上の記事など全く引用する値打ちもありませんが、実際にこのような現実を鑑みるにつけ、あの有名なアインシュタインのことをどうしても思い出してしまうのです。要するに、純粋なバカとしてのアインシュタインは永遠にその”不名誉”の刻印から逃れることができない…というこの凄まじいばかりの”真実”、これこそあの”ダンテ”が地獄編の第xxx話で見事なまでに描写している、あの地獄模様そのものではありませんか。

 このことが”洞察”されると、現在、日本の巷で喧しく展開されている諸々の言葉、つまり、”富裕層”、”勝ち組み”、”成功哲学”、”億万長者”、”幸福”、”価値”…といった”キーワード”が実は純粋に”無”あるいは”虚無”、”非在”、”非存在”、”幻想”、”嘘”、”たぶらかし”というものであることが理解できるのではないでしょうか。

 つまり、”東大”、”読売巨人”、”NHK”、”大蔵省”、”財務省”、”一部上場企業”…といった一連の”記号”が実は何の価値もない、”幻想”としての”ブランド”、”イメージ”というものに過ぎないことがほんとうの意味で洞察されるのではないでしょうか。

 現在、既存のほとんどすべての”価値”がその根底から”揺らいで”います。当然のことでありますが、その健著な一例として、”米国の凋落”、”ヨーロッパ諸国の偽善・欺瞞・差別の発覚”、”中国における”インチキ商法”の横行”、”日本における《ミニソ連》の連鎖的崩壊(”自民”、”朝日”、”産経”、”読売”、”毎日”、”NHK”などなど)現象”、”韓国における一連の《自己欺瞞》の発覚”、”アフリカにおける《おぞましき現実の凄まじさ(=病気、餓え、内戦、死など)》”といった一連のことがらです。

 ブログの凄さというのは、上で示されたすべての”動向”は、”ブログ”という新しい”ジャーナリズム”によって世界のすべてのひとびとにそのことを知らしめたことです。そのような意味で、ブログの”凄さ”は今後益々その本領を発揮することでしょうが、同時に、その”悪用”あるいは”濫用”は、”凄さ”以上に”恐ろしさ”をもたらすことでしょう。

 そのような意味で、”人類”そのものが”ほんものの英知”が要求されている、そのようなフェーズに入ったことを示しているのではないでしょうか。

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関連記事:
『Ωの輝き』 《解説(その2)》
『Ωの輝き』 《解説(その1)』
『モツニ哲学者、自らを語る(その1)』
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関連作品:
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■ 『拝啓 小学生の皆さんへ』
■ 『拝啓 頭のおかしいおじさんへ』
■ 『インターネットで見た光景』
■ 『信のたわむれ』 
--------------
■ 『知のたわむれ』
■ 『覚のたわむれ』
■ 『現代のたわむれ』
--------------
■ 『異常なる感性』
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関連ブログ:
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■ ライブドア・ブログ
(世相、時事、哲学、宗教、政治、経済、その他)
■ エキサイト・ブログ
(AI、意味処理、知識処理;脳科学、神経科学;機械翻訳、その他)
■ ウェブリブログ
(文学、小説、哲学、論文、作品、ファンタジー、その他)
■ gooブログ 
(心理学、精神医学;脳科学、神経科学;教育、思想、哲学、その他)
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2005年11月07日

ブログの凄さ(その2)4

 これまで、ブログの怖さということで一連の記事を書いてきましたが、前回につづいてブログの怖さと凄さという両義的な面を強調しながら、ブログの持つ潜在的な可能性について述べてみます。

 私自身ブログを始めて約3ヶ月ほどですが、それでもいくつかの感触は掴めました。つまり、人間と人間との出会いがブログでもその本質である…ということがひとつあります。一見”煌びやか”に賑わっているような”お祭り騒ぎ”のブログ・サイトがある一方、地味ではあるがそれなりの”人生”を積んできた人間の重みを感じるような、そんなブログもあるということ。

 クリック数にのみこだわり、つまらない記事、客受けするような媚びた記事ばかりを強調するサイト、滅び行く99.9%のバカのみを相手にしているサイト、自分自身何の思想もないのに、ゴミのような情報あるいは資料を掻き集めるだけ掻き集めるようにもがいているサイト、実にそのようなサイトが一瞬のうちに露呈してしまっているそのことに”本人”がまったく気づいていない、それがブログの怖さと凄さのひとつではないでしょうか。

 今、巷では”新聞界”、”出版界”、”放送界”、”IT界”といったところが”ホット”な動きを盛んに展開していますが、その根底に流れる共通の本質まで洞察できている新聞社、出版社、テレビ局などは皆無のようなそんな気がしないでもありません。

 要は、『ゲーデル・エッシャ・バッハ』のあの書物の”プリント・ギャラリー”のあの絵の図式が実際の”産経新聞”、”朝日新聞”、”NHK”といったところの不祥事を見事に描写している、その図式でもあります。つまり、”自己言及”そのものの姿を露呈させている…というこのことなのです。

 でも、何故ここへきて急にこのような現象が顕著になったのでしょうか? ひとつには”ブログ”という非常に強烈な新しい”パワー”が出現してしまった…ということなのです。ぶっちゃけ、ブログには2種類しかありません! ”小学生絵日記風ブログ”と普通の”ブログ”、この2種類だけです。

 それで、普通のブログを展開できる”主催者”というものはその年齢が若くてもそうでなくても、少なくとも、5歳か6歳ぐらいから自分でものを考えることを”訓練”してきた人間だけができる…というこのことなのです。

 つまり、”人間”について、”人生”について、”世界”について、”こころ”について、”ことば”について、ほんとうの”価値”について、”死”について、”善”と”悪”について、”自由”の本質について、政治、経済、社会問題の背後にどのような本質的な問題が横たわっているか…、そのようなことを洞察できる人間が普通”ブログ”を展開しているのです。それ以外は全部、”小学生絵日記”しか発信できていないのです。

 ここでは具体的に名前は敢えてだしませんが、相当有名な作家、科学者、知識人といったところが、実はどうしようもないバカだったということがブログを介在して明らかにされてしまうのです。これはブログの怖さでありかつブログの凄さでもあるのですが、今回の一連の不祥事は”ブログ”が持つ潜在的力、すなわち、”あぶり出し”機能のことですが、根底から腐っている”新聞社”、”出版社”、”放送局”といったいわゆる広義の”役所”あるいは”公務員”といったものが、自己崩壊を連鎖的に引起こしている、そういったことを見事にあぶり出しているからなのです。

 戦後60年、政治、経済、社会、教育、その他すべてのフェーズで見事なまでのマスタベーションを展開してきた我が国、その我が国のマスタベータのすべてを”ブログ”は容赦なくあばきつづけているからです。



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関連作品:
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■ 『拝啓 小学生の皆さんへ』
■ 『拝啓 頭のおかしいおじさんへ』
■ 『インターネットで見た光景』
■ 『信のたわむれ』 
■ 『Ωの輝き』
■ 『知のたわむれ』
■ 『覚のたわむれ』
■ 『現代のたわむれ』
■ 『異常なる感性』

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関連記事:
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『Ωの輝き』 《解説(その2)》
『Ωの輝き』 《解説(その1)』
『モツニ哲学者、自らを語る(その1)』
「産経新聞はアホや」について
「産経新聞はアホや」(つづき)
『一即一切』について
『色即是空』について
『信のたわむれ』 
「価値なき神」の哲学日記 癸横娃垢砲弔い

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参考文献:

『ヘラクレイトス』        ハイデッガー全集 55巻
『仏教とキリスト教』       滝沢克巳;法蔵館
『続 仏教とキリスト教》     滝沢克巳;法蔵館
『仏教とキリスト教の接点』    八木誠一;法蔵館
『久松真一著作集』        久松真一;法蔵館
『滝沢克巳著作集』        滝沢克巳;法蔵館
『人生の帰趣』          山崎弁榮;光明会編

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『マルコ福音書 上巻』      田川建三;新教出版社
『イエスという男』        田川建三;三一書房
『立ちつくす思想』        田川建三;勁草書房
『歴史的類比の思想』       田川建三;勁草書房
『批判的主体の形成』       田川建三;三一書房
『宗教とは何か』         田川建三;大和書房

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『言葉と物』           M・フーコー;新潮社 
『ソシュールの思想』       丸山圭三郎;岩波書店
『ソシュールを読む』       丸山圭三郎;岩波セミナーブックス
『文化のフェティシズム』     丸山圭三郎;勁草書房
『欲望のウロボロス』       丸山圭三郎;勁草書房
『言葉のエロティシズム』     丸山圭三郎;紀伊国屋書店 
『沈黙するソシュール』      前田英樹; 
『偶然と必然』          J・モノー;みずず書房
『善悪の彼岸』          ニーチェ;岩波文庫
『道徳の系譜』          ニーチェ;岩波文庫

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『精神分裂病 上下』       ビンスワンガー;みすず書房
『精神分裂病』          ミンコフスキー;みすず書房
『生きられる時間 上下』     ミンコフスキー;みすず書房
『現象学的人間学』        ビンスワンガー;みすず書房
『内的時間の現象学』       フッサール;みすず書房
『自己・あいだ・時間』      木村敏;弘文堂

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『ゲーデル・エッシャ・バッハ』  ダグラス・ホフスタッター;白楊社
『意識する心』          デビッド・チャーマーズ;白楊社
『解明された意識』        ダニエル・デネット;青土社
『ダーウィンの危険な思想』    ダニエル・デネット;青土社
『皇帝のあたらしい心』      ロジャー・ペンローズ;みすず書房 
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『集合と位相機戞   」襲幣撒函彌永健一;岩波講座 基礎数学
『集合と位相供戞   」襲幣撒函彌永健一;岩波講座 基礎数学
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『フロイド選集 (全17巻)』  フロイト;日本教文社;
特に 「自我論」、「文化論」、「芸術論」、「幻想の未来」
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2005年10月22日

ブログの凄さ(その1)

ブログの凄さ(その1)

 ブログの怖さというタイトルで一連の記事を投稿してまいりましたが、今度はブログの凄さということで、別の角度から考察してみたいと思います。これまで、出版界、ジャーナリズム、報道関係、マスメディアといった既成のシステムはそれぞれおのれの領域をそれなりに囲い込みながら、結構うまく自己防衛を果たしてきましたが、この”ブログ”という新しい”動き”にどう対処していいかまったくわからない様相を呈してきた感があるからです。

現在、私、ウェブリブで一連のシリーズ、『拝啓 小学生の皆さんへ』、『拝啓 頭のおかしいおじさんへ』、『インターネットで見た光景』および『信のたわむれ』の一部を公開しています。これらすべての作品群はおよそ20年まえごろ(平成3年ぐらい)、一度にどっと生まれました。つまり、二度目の強烈なうつ病の回復期に”カタルシス”として自分の人生に”一気に”涌き出たものです。

 本来の作品は『異常なる感性』という純文学の作品なんですが、その作品を生み出す合間というか、頭の切り替えというか、どうしても文学作品でないようなものも随伴現象として発生してしまうのです。そのような小品もやはり存在意義はあるわけで、そのようなものから、どうしても皆様に公開した方がいいのではないか…というものを選んで、ウェブリブに載せているという訳なのです。

 で、わたしが”凄い”と思ったことは、従来の出版環境を”ブログ”という現象は全く無視して"自由に”自分が書いた作品を世の中に流すことができる…というこのことなのです。つまり、xxx先生とか、xxx出版社とか、xxx編集者といったこれまで”権威”でも何でもないようなブタのような人間たち、名前は言いませんがバカでなければ”誰を指しているか”すぐわかってしまうような無数の有名人たちが、実は”権威”として長い間君臨してきたその現事実そのものが、透かしを当てられ、完全にその馬脚を露呈して、アメリカの凋落よろしく、音を立てて崩壊しつつある、その凄さなのです。

 尤も、普通のひとびとには”私”が感じているように感じるのに2、30年ぐらいのタイム・ラグがありますが、私に限らず察しのいい方は必ずわたしが感じていたのと同様のことを感じているに違いない…ということが、ブログですとある程度確認できることなのです。それで、『インターネットで見た光景』というブログ作品は実はキルケゴールの『反復』という作品の完全なとまではゆかなくても、ある程度のパクリなのですが、それをキルケゴールがやったと同じようにできることなのです! わかりますか?

 ニーチェもキルケゴールもそしてマルクスもそれなりに外部からの経済的な支援があったからこそ、あのようなごく少数の人間に向けて出版する、特殊な出版が可能であった…ということなのです。で、現在、出版界の主流はゴミの生産以外ほとんど全く何も行っていません! ここで、私が”生産”というのは、文学であれば”ジョイス”、”プルースト”、”ドストエフスキー”…といったひとたちのレベルのことを差します。また、思想あるいは哲学で言えば、ソシュール、ニーチェ、キルケゴール、ハイデッガー、…といったレベル。数学、人工知能、神経科学の分野でいえば、ゲーデル、ノイマン、あるいは、ダーウィン、ダヴィンチなどのレベル(ドーキンス、デネット、チャーマーズ等のレベルでは駄目!)

 要するに、1000年にひとり、10億人にひとりのレベルでしか発生しないようなそのような天才が出現したとしたら、ブログを利用することによって、その正体を開示することが可能である…というこの驚くべき内在性なのです! しかし、そのような天才は例えばあの超バカであるアインシュタインのようなあのような驚くべき失策は決してしないであろうことは、”ダンテ”、”パスカル”、”ニーチェ”、”ソシュール”、”キルケゴール”、”ジェームス・ジョイス”、”ダーウィン”といった人間たちの慎重さを吟味すれば頷けるのではないでしょうか!

 現代の超バカ連中は、金メダル、ノーベル賞といった超バカなゴミをあたかもご馳走のように”おいしい”、”おいしい”といって貪りついている構図、2/3の議席を獲得した…といってはじゃいでいる超ノーテンキな純粋バカ連中(国民の側も先生の側も等しく)、名前こそばかばかしくて出さないが、何か”こと”があるとすぐにひょこひょこテレビ画面に顔を出したがる、ほんとうにどうしようもない超高純度の純粋バカ連中たち。このような連中が”誰”なのか、白日のもとに赤裸々に曝けだすことが可能になってしまった…ということなのです。

 金メダル、ノーベル賞がゴミなのだから、あとは推して知るべし。日本シリーズもワールド・シリーズも、ワールド・カップも、マスターズも全米オープンも全英オープンも、スーパーポールも、その他そういったものはすべて”ぶっちゃけ”たはなし”ゴミ”以外の何物でもないこと、芥川賞も直木賞も、その他すべてそういったマスタベーション賞はゴミ以外のなにものでもないこと、そういったことを今のところ、”チョムスキー”ではないが、”発信”することができること、これは途轍もなく凄いことではあります。

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関連記事: 
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『Ωの輝き』 《解説(その1)』
「産経新聞はアホや」について
「産経新聞はアホや」(つづき)
「モツニ自らを語る(その1)」

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参考作品:
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■ 『インターネットで見た光景』
■ 『信のたわむれ』
■ 『知のたわむれ』
■ 『覚のたわむれ』
■ 『現代のたわむれ』

■ 『Ωの輝き』
■ 『拝啓 小学生の皆さんへ』
■ 『拝啓 頭のおかしいおじさんへ』

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2005年10月11日

ブログの怖さ(その4)

ブログの醍醐味 VS ブログの自己言及

 皮肉というべきか、当然というべきか、ブログという”概念”そのものがほんとうの意味で市民権を得たのはつい最近ではないでしょうか。つまり、ここ一、二年のことではないでしょうか。もちろん、実際にはブログあるいはブログ的なことは相当前から行われてきたのですが、それが”ブログ的行為”という認識に至ったのはつい最近ではないでしょうか。

 例えば、週刊新潮でも週刊文春でも人気のコラムがあります。それらは週一回ではありますが、毎回毎回独自のブログを発信しているではありませんか。同様に、新聞にもそれぞれの日替わりのコラムがあります。これらを”ブログ”あるいは”ブログ的なもの”と呼ばないで、何と呼べばいいのでしょうか。

 尤も、実際のインターネットの環境ではあまりにも無数のブログがちょうど東京駅とか新宿駅の人ごみの雑踏のように犇めいているわけですが、現象としては新聞や週刊誌とインターネットという環境的な違いがあるだけで、その本質は同じではありませんか。

 つまり、新聞や週刊誌でのブログの発信者は極めて限定された人間であるのに対して、インターネットのブログの発信者は事実上無限のひとびとに開放されています。つまり、ひとりひとりが作家であり、評論家であり、専門家であり、解説者であり、ジャーナリストであり、専門家であると言うことを意味しています。要するに情報の送り手としての”主体”であるということ、このことが好む好まざるに拘わらず余儀なくされる…ということなのです。

 どういうことかと言うと、たとえどのような軽い気持ちで記事を書いたとしても、その記事を書いたことそのものに対しては、あたかも犯罪者が調書を書かされるのと同じような意味で、一言一句が”ログ”として言質にとられているというこのことなのです。

 改竄については反復して述べていますので、ここでの議論は仮に改竄が一切ないという前提で考察した場合について述べますが、自分がブログで述べたことはそれが真実であれ、まったくの思い違いであれ、あるいは正反対の陳述であれ、それがそのまま第三者に伝播している…というこの”剥き出しの”事実なのです。

 要するに、そのことを理解しているかいないかは別としても、わたしたちが実際にブロガーとして何某かの”意見”や”コメント”を発信するにしても、あるいは、ゲストさんからのコメントやトラックバックへの応答にせよ、すなわち、発信者の側に立つ場合も返答者の側に立つ場合も、そのいずれの場合にも、無数のジャッジの前で赤裸々な姿を曝け出している…という自己認識、自己言及的な認識が暗黙に前提されている…というそういうことなのです。

 鋭い第三者、洞察力のより深い読者、より根源的な認識を持つ読者…というような第三者たちの前で、わたしたちは例外なくその裸身を曝け出さざるを得ないのです。別の言い方をすれば、公の場で陳述を垂れているようなそんな感じであるかとおもいます。

 ブログの時代でなかった今までは、そのようなことは、法廷の関係者つまり裁判官、検事、判事、弁護士、弁理士、税理士、公認会計士、医師、作家、批評家、随筆家、評論家、ジャーナリスト…といった一連のひとびとにだけ要求されてきたある意味で”特権”でもあったのです。つまり、公の場で言質をとられるようなことは一般のひとびとには”特権”として与えられていなかったということなのです。

 言い換えれば、そのことを意識するしないは別として、わたしたちがブロガーになることは実は、ある意味で”裁判官”、”弁護士”、”作家”、”批評家”といった者に必然的にならざるを得ないことを意味しているのです。

 さて、いよいよこの記事の本題に入ります。ブロガーの醍醐味はもちろん自分で記事を執筆したり、作品や商品や諸々の出品内容を展示したり紹介したりすることにもありますが、それ以上に他の無数のブログサイトを覗くことができる…というこのことなのです。ウェブサイトのサーフィンなんかあれはぶっちゃけ無数のゴミ箱捜し以外の何物でもありませんでしたが、ブログの場合、もちろん、無数のゴミ箱が散らばっていることに変りはありませんが、少なくとも、ウェブサイトと違って内容のあるブログも相当数あるので、そのブログを覗くことによって、主催者の雰囲気、ゲストの面々の質、それに主催者とゲストとの無限に多様な対話、説教、説得、議論、質問、質疑応答、励まし、連絡、確認、お遊び、喧嘩…といったことを”オンライン・リアルタイム”で閲覧することができるというこの醍醐味なのです! 痺れるのは! で、敢えてブログ名は申しあげませんが、自分で自分に酔ってしまっているかなりの数のブログを拝見させていただくにつれて、その恐ろしさ、その怖さ…というものをつくづく感じるのです。

 なぜなら、繰返し申しあげますが、聡明な読者、鋭い観察者、洞察の深い読者は宮本武蔵ではありませんが、一瞬のうちに相手の力量を把握してしまうではありませんか!… 

 けれども、そのような怖さがあるにも拘わらずブログを止められないのは、批判されてもいいからどうしても発信したい…というこの人間がもっている本能的な衝動なのでしょうね。

 最後に、ブログの醍醐味を味わうということは、常に自分というものを自分が第三者になったつもりで自己言及的に反省、観察、洞察しつつ、”逆説”、”両義性”、”多義性”、”曖昧性”、”自己矛盾”、”自己関係”、”自己呑み込み”といった一連の『ゲーデル・エッシャ・バッハ』的なプリント・ギャラリーの世界に組み込まれることなのでしょうね、ハハハ。 ■ 

※ 参照項目:

『ゲーデル・エッシャ・バッハ』:ダグラス ホフスタッター
『意識するこころ』:デビッド・チャーマーズ
『解明された意識』:ダニエル・デネット
『カウフマン宇宙と生命を語る』:スチュアート・カウフマン
『悪魔に仕える牧師』:リチャード・ドーキンス
『皇帝の新しいこころ』:ロジャー・ペンローズ 

⇒ 自己言及、自己関係、自己呑み込み、
⇒ 両義性、あいまい性、多義性、多重性、多様性、
⇒ 記号処理、意味処理、知識処理、
⇒ 認識モデル、学習モデル、記憶モデル
⇒ 発見モデル、生成モデル、世界認識モデル



msaicc at 22:51|PermalinkComments(2)TrackBack(3)意味処理 | 人工知能

2005年10月09日

ブログの怖さ(その3)3

ブログ VS 国家権力

インターネットが本格的に一般社会に普及し、いろいろ有余曲折を経て現在に至っていることはご承知でしょうが、多くの方は”ブログ”のほんとうの凄さ、恐ろしさというものはまだ実感としてお持ちではないかと思います。

当初、インターネットが普及しはじめたころ、および現在でもそうですが、インターネットを脅かす一連の害悪は”コンピュータ・ウィルス”とか”ネット犯罪”といったことばに代表されるもろもろの
犯罪を指していますが、今後予想される大きな動きのひとつとして”思想統制”、”思想妨害”、”洗脳教育”、”プロパガンダ”、”悪意のある諸行為”…といったこれまでのどちらかというと”金銭目的”の犯罪から”思想・哲学”に絡んだ諸問題がクローズアップされてくることは間違いありません。

私自身、まだ自分のブログをはじめたばかりなので(2005年8月)、実際問題として、悪意のあるコメントとか営業目的のトラックバックといったものに本格的に遭遇しているわけではありませんが、当然予想されることとして、CMTにしてもTRBにしても、より巧妙にそれらを悪用して、場合によっては”金銭目的”、”商業的目的”、といったことがらから、本格的な”思想統制”、”洗脳”、”マインド・コントロール”といったことがらと非常に巧妙かつ複雑に絡んだ”問題”、”事件”、そして最後に”国際間関係”の問題にまで発展する可能性が高い…というこのことなのです。

皆さんもう”お忘れに”なっているようですが、かつての北京の天安門事件、あの事件のほんとうの意味を悟っている方がどのぐらいいらっしゃるのでしょうか。もちろん、わたしたち日本人、あるいは一般にいう民主主義諸国家の視点では、北京政府が民衆を暴力で”圧殺した”と如実に報道されました。
で、実際そうだったわけです。このことに関して別に報道そのものにバイアスとか国家圧力とか、その他のもろもろの”途轍もない”圧力が掛かったといったことは聞かれませんでした。

問題は”北京政府云々”という単純な事実ではないのです。実は、米国、あるいは欧米諸国、あるいは先進工業国すべて、あるいはその他のほとんどすべての諸国において、例外なく北京政府がやってきたとまったく同じ様なことが白昼堂々とおこなわれてきたにも関らず、われわれには一切報道されていないというこの”驚くべき”事実なのです。

要するに、中国の平均的なひとびとが”天安門事件”に対してまったく知らされていないように、わたしたち”民主主義国家”のひとびとは”民主主義”の名前で呼ばれている”天安門事件”のような驚くべき”事実”をほとんど知らされないまま、ずうっと今日まで過ごしてきた…というこの事実なのです。

要は、中国も米国もまったく同じことをしてきたのであり、ようく注意して訊いてほしいのですが、(私の立場は”中国”の立場を擁護する側でもありませんし、同様に”米国”の立場を擁護する側でもありません)中国も米国も、そしてこれからの日本も、同様に必要であればいつでも簡単に、”真実を圧殺する…”というこの可能性、これを否定できないというこのことなのです。

わたしは、子供のころから人間というものの本質を見ぬいてきました! そして、中学生の頃はすでに、もしかして再び軍国主義、全体主義の道を歩むかもしれない…ということを直感として感じていました。そして、その直感はどうやら正しいような気がしてきました。(⇒はばたき参照)

そして、いよいよ、たぶんそれ程遠くない将来、日米安全保障条約は破綻するでしょう!(諸々の必然的な原因によって:⇒詳細はXXXを参照)、そのとき、ブログは既に個々の国家の管理に統括されるように必然的になるでしょう。まさしく、オーウェルの世界ですね。で、そんなこと、デネット、ドーキンス、カウフマン、ゲルマンといった人間たちだけでなく、普通の人間だってそのうちわかってきます。

わたしがここに書いていることは何年先かわかりませんが、”常識”となっていることは確信をもって言えるかと思うのです。

いつの間にか、時代はインターネットの時代になってしまい、さらに、インターネットの時代というよりも”ブログ”の時代に急速に変化しつつあります。ウェブサイトは看板だけになってしまいました。別にウェブサイトが消滅することはありませんが、ウェブサイトの必要性は最小限度に圧縮されてしまいました。

これからは、どのような優れたウェブサイトも”ほんもののブロガー”の”脳みそ”には絶対に勝てないようなそんな時代になってしまいました。ここでいうほんもののブロガーとは、ニーチェ、キルケゴール、ヘラクレイトス、ハイデッガー、ドストエフスキー、カフカ、エンデ、ソシュール、あるいは、田川建三、故丸山圭三郎…といった一連のひとびとの思考と同レベルの思考を展開できるそのようなひとびとのことをいうのですが…。

で、そのようなレベルのひとでなければ、悪意のCMTやTRBを撃退できないばかりか、昨今多く遭遇する”いくじなし”、”マスタベータ”、”似非学者”、”ペテン師”といった無数のブロガー相手にやってられませんよね!

ブログの恐ろしさ、それは、かつての”悪魔”と対決した、ニーチェ、キルケゴール、ヘラクレイトス、その他卓越したひとびとと同じように、これからの”悪魔”そのものと対決するわたしたちひとりひとりが必然的に遭遇する、”運命”ではないでしょうか。

ここで、”悪魔”とは、これまでの私の言明で繰返し述べて参りましたのでここで敢えて明言するのは避けます。


関連項目:

⇒ ニーチェ
⇒ キルケゴール
⇒ ヘラクレイトス

関連記事:

⇒ ブログの怖さ
⇒ ブログの怖さ(その2)
⇒ 哲学ブログの怖さ
⇒ はばたき

参考文献:

⇒ 田川建三
⇒ 丸山圭三郎


関連ブログ:

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(AI、脳科学、神経科学、機械翻訳、その他)
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msaicc at 11:08|PermalinkComments(0)TrackBack(1)世相 | 思想

2005年10月05日

ブログの怖さ(その2)3

 ぶっちゃけ、ブログを始めてたった2ヶ月ほど経っただけです。でも、自分の人生で何かが決定的に変化してしまいました。それは何んだと思いますか。 よくてもわるくても、”自分”というものの正体が世間に曝される…ということこのことなのです。犯人が犯罪調書を書かされている、あの調書と同じようなことを実際は遣っているような、そんな風に現在は感じています。

 まあ、”考え過ぎだよ…”って皆さんおっしゃるかもしれませんが、胡麻化しが利かない…というのが、このブログの世界なのかも知れません。尤も、例のオーウェル流改竄という意味ではインターネットの世界そのものが”完全にコントロールされた”世界でもある訳で、その意味では”改竄”から逃れるということそのことが有り得ないのかもしれません。

 ここで言う”胡麻化しが利かない”という意味は、その時点その時点でその人間が持っている”トータル的な”知識、知恵、洞察、理解、解釈、判断、傾向、能力、経験、ユーモア、アイロニー、センス、バイアス、偏見、視野、射程、感覚、感性、許容度、柔軟性、臨機応変性、変幻自在性、独断性、主観性、内面性、特異性、偶然性、現実性、可能性…といったものは”隠し徹せない…”ということを意味しているのです。

 もっと言ってしまえば、人間というのは”瞬時”にして自分と相手が”手合い違い”か否かをある程度洞察してしまうということなのです。別にこのことは昔から伝えられてきたことではありましたが、ここ、ブログでのひととひととの出会いにおいて、そのことが如実に反映されているということです。

 というのも、実際、自分もいろいろな方のブログへ案内されて、いろいろな風景を覗かせていただいていますが、”ヘラクレイトス”、”ニーチェ”、”キルケゴール”、”ソシュール”、”フッサール”、”ハイデッガー”、”ダンテ”、”ドストエフスキー”、”ジョイス”、カフカ”、あるいは、”ミンコフスキー”、”ビンスワンガー”、”田川建三”、”丸山圭三郎”といった人間たちが展開してくれた”風景”と比べると、やはり、その違いは歴然としていることなのです。

 要は、何がいいたいかと言えば、ブログのデザイン、レイアウト、写真、その他諸々の一切を超越して、そのブログの発信者がそもそも何を洞察し、どのようなメッセージを世界に向って発信しようとしているか…というこのことにすべて帰着するということなのです。

 ですから、50才、60才、70才になってもいつまでも”幼稚園の園児”のままの精神状態にあるひともいれば、10才台でも非常に鋭い洞察力、癇性、哲学といったものをもっているひとたちもいるのです。

 人類がこのように”ブログ”というひとつの”革命的”なツールに出会ったこと、このことが途方もなく素晴らしいことなのですが、それは、外面的なことがらではなく、常に、”内面性”、”主観性”、”主体性”、”内在性”、”洞察性”、”独創性”、”独自性”、”例外性”、”特異性”、”特殊性”、”普遍性”、”客観性”といったことがらと密接に関係しているという、このことではないでしょうか。

 逆に言えば、”内面性”、”主体性”、”独自性”、”独創性”といったものを欠いた人間が内容のあるメッセージをどのようにして”世界”に向けて発信することができるというのでしょうか…

 この事実を自分に当て嵌めて考えたとき、前回につづいて、今回も”ブログの怖ろしさ”というものを感じないわけにはゆかのでした。逆に言えば、”内容がない自分が問われるのは内容がない…”というような”自己言及的”、”自己関係的”、”自己参照的”な対自己との再帰的な関係構造をとり、その自己関係により、自分の愚かさ、未熟さ、未経験、といったことがらに必然的に出会ってしまうからなのです。

 まさしく、あの『ゲーデル・エッシャ・バッハ』の例の蟹くんと亀さんの”このレコードはあなたのステレオでは演奏できない…”というあの対話編に見事に暗示されているではありませんか。

関連記事:

ブログの怖さ
ブログの怖さ(その3)
哲学ブログの怖さ

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msaicc at 01:23|PermalinkComments(1)TrackBack(2)世相 | 思想

2005年10月04日

ブログの怖さ(その1)

まえにどこかのブログにブログの怖さと題して記事を載せたことを憶えていますが、今回改めてここでも同じようなことを書いてみたい。

巷には何十万、あるいは何百万というコンピュータに長けたエンジニアがいますが、その多くは日々の業務に追われ自分でブログを発信するようなことはあまりできていないのかもしれないし、もしかしたら、相当数のコンピュータエンジニアもようやく”ブログ”の凄さに目覚めだしたのかもしれませんが、少なくとも、今のところSEやプログラマが大挙して”ブロガー”になっているような様子は見うけられません。

さて、自分自身昭和47年からコンピュータのエンジニアとして長年システムと深く関係してきたにも拘らず、”ブログ”の面白さ、恐ろしさ…というものを感じたのはここ1ヶ月あるいは2ヶ月の間です。別にこれといった理由はありませんでしたが、とにかくインターネットの接続料金がやっと常識の価格の範囲内になったことがその第一の理由であることは間違いありません。また、光通信というやつも魅力的な媒体であることがはじめてわかりました。とにかく、それなりのスピードがあるということです。

実際、いくつかのブログに入り、それぞれの”発信者”とそれなりの交信を始めるようになり、そこで感じたこと、それがこの記事の内容の趣旨であるわけです。で、具体的にどういうことか…というと、オギャーと生まれてきてから現在にいたるまでのすべての経験、失敗、思い出、学習内容、知識、出会い…といったことがらがすべて間接的にこの日記という形態、ブログという形態に凝縮されている…という洞察に気付いてたことなのです。

もっとはっきり言ってしまえば、それまで学習してこなかった人間が急に学習しても、それでは追いつかない…ということなのです。わかりますか? 子供のときからの地道な積み上げ、つまり、読書、遊び、経験、体験、発見、思い出、そのようなこと一切がひとりひとりの人間の人間性を形成しているということなのです。

実際、コメントのやりとり、あるいは、文章の香り、表現のスタイル、伝達の技術、その他もろもろの雰囲気が瞬時にして世間に”公開”されてしまう…というこのことなのです。それで、つくづく感じるのですが、”バカ”も相当多いというこの事実、これは恐ろしいことを意味しています。

どういうことか…といいますと、あの”電車男”というブログがありますが、もしあのような文体のことばが世間にほんとうに氾濫しているとするなら、”ああっ、これはいったいどうしたことなのだろう! このような白痴社会に、このように見事に洗脳されてしまっているとは、われわれはこのことをどう表現していいのか…”といったような感じなのですが。

たぶん、賛否両論の反応が予想されるのですが、まあ、それはそれとして、はっきり言えることは、われわれ日本人も他の多くのひとびとと同じように間違いなく”天然ゾンビ”のそのようなレベルの人間に成り下がってしまいつつあるとという、この恐るべき事実、このことなのです。


※ ゾンビ、ジンボ等の用語の意味に関しては、デネット、ドーキンス、チャーマーズ、といったひとびとの著作を参照してみてください。

関連記事:

ライブドア:
ブログの怖さ(その2) 
ブログの怖さ(その3) 
ブログの怖さ(その4)
ブロガーによるブログ考察 
オーウェル流改竄
はばたき

エキサイト:
 デネット、ドーキンス、チャーマーズ 『意味論、意味処理、知識処理』
 デネット、ドーキンス、チャーマーズ 情報改竄 vs ブログ

gooブログ:
哲学ブログの怖さ (gooブログ)

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msaicc at 09:23|PermalinkComments(0)TrackBack(3)世相 | 思想

2005年10月02日

教育問題の現状

選挙が終り、経済も徐々に回復のきざし(萌)が現れはじめましたが、教育の現場は益々昏迷を深めているのが実情ではないでしょうか。もちろん、その原因として実にいろいろなことが考えられますが、根本原因のひとつに”日米安保条約”があります。別にアメリカだけが悪い訳ではありませんが、戦後60年、われわれは教育の根本がそもそもどのようなものでなければならないか…というような根源的な問いをずうっと避けてきました。そして、その”ツケ”がとうとう臨界状況に近づいた…ということではないでしょうか。

もちろん、教育にはいろいろなフェーズがあり、それぞれのフェーズにおいて何が問われているのか、その辺もじっくり考える必要があるのは言うまでもありませんが、それにも増して、これからの日本の将来がこの”教育”に懸かっているということは疑いの余地もありません。特に、”こころ”の問題としての教育問題がそのなかでも大きな問題としてわたしたちひとりひとりに立ちはだかっていることは論を待ちません。

今回、わたしは、ウェブリブログで『拝啓 小学生の皆さんへ』と題したブログ作品を流しました。一見、小学生への手紙風の仕立てになっていますが、そのブログの本来の目的は既に崩壊してしまった、”家庭における《こころ》の教育を”どのようにして復活させることができるのであろうか…ということがひとつありました。

また、緊急問題として扱わなければならない《自殺》との絡みにおける、自殺回避の方法および自殺防止への予防的対策、そして、そのあと対処しなければならない《いじめ》に関するもろもろの検討事項等について述べたものです。

結論的に言えば、家庭において、読書、旅行、スポーツ、野外活動、地域の共同作業といった一連の活動を通してこどもたちひとりひとりの《こころ》の育成を図ることが急務であるということ主張しているのですが、現実問題となると、受験勉強といったもろもろの差し迫った必要性もあって、本来の教育ではない二次的な教育の方に力点、重心が移ってしまうということが現実問題としてあります。

いずれにしても、この教育問題を論じるということは”受験勉強等を代表する現実問題”と”こころの教育という本来の教育の問題”とをどのようにして”折り合い”をつけることができるのか…といことがあります。

理想をいえば、”受験勉強的”なことをすべて無視することができれば、それはそれで意味があるのかもしれませんが、現実問題としてそれは無理でしょう。かといって、戦後60年にわたって、これまでずうっと展開した学歴偏重の教育がこどもたちをどれ程混乱させてきたか、ここであらためて語る必要はないかと思いますが、それにしてもどうしてこの”教育問題”は根が深いのでしょうか。

皆さんはこの”根深さ”についてほんとうに深く議論してきたのでしょうか。

当該ブログでは、哲学日記と題しているように基本的には政治、経済、社会といった人間の営みの全般について議論を展開するコーナーでありますが、その際、この教育問題は避けて通れない大きな問題としてわれわれひとりひとりに訴えかけてきているのです。

関連ブログ

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msaicc at 11:49|PermalinkComments(0)TrackBack(2)世相 | 宗教

2005年09月20日

オーウェル流改竄3

9.11再考:

 衢では民主党の再建が伝えられ、つぎつぎと新しい時代の流れに沿って動きが始まりつつあるという印象を受けているところです。”はばたき”の項でも触れましたが、私は子どものころから、決して我が国が全体主義の方向にまっしぐらに突っ走ってほしいと思ったことは一度もありませんし、できれば言論の自由も現在のレベルで推移していってほしいと思っていたのですが…、どうも子供のときの予感というものはほんとうのことになってしまうようなそんな気がして…、どうしてもこのブログにそのことを書かないと気が済まない…

 そういう思いで綴っているのが今日のこの”9.11再考”という記事なのです。

 ぶっちゃけた話、ジョージ・オーウェル、ダニエル・デネット、リチャード・ドーキンス、開高健、中上健二、丸山健二、村上龍…といったひとびとがこれまで繰返し展開してきた同じテーマなのです。

 事件当初、あれはテロリストたちの長年の怨念の積み上げがとうとうあのレベルにまで到達することができた…というのがその率直な感触でしたが、あれから4年、しかも、イラクでの現在の状況、そして再び賑やかになってきた最初の選挙疑惑すなわちブッシュvsゴアの選挙不正事件のうやむや…、そして、今回の自民党の圧勝劇、北朝鮮vs米国の交渉結果のあのような推移、小泉総理の電撃的北朝鮮訪問、以上ほんの一例を列挙してみたのですが、このような一見なんでもないようなひとつひとつのベタ記事を繋げてゆくと、何かとてつもない不気味な”闇の意図”を感じないわけにはゆかないのですが、やはりそれは上記の小説の読みすぎの結果だけなのでしょうか?

 9.11そのものが”デキレース”だとしたら! いったいどのような組織が、どのような目的で、あのような事件を仕組んだのか、しかも、米国とパキスタンとの関係からして、米国がイラクで勝利することなどできないに決まっているのに、なぜ、米国はあのような愚かな行動をとらなければならないのか、単純には理解できません。実際、イラクは間違いなく3つの共和国に分裂するでしょう! すなわち、北のクルド共和国、南のシーア派イラク共和国、そして中央の旧バース党のイラク共和国の3つの独立した国へと分裂することは小学生でもわかることではないでしょうか。

 ドイツでの選挙の結果、昏迷がつづくことが決定的になりました。ということは、はっきり申し上げて、第二のヒットラーが必ず出現すること、このことは賭けてもいいのではないでしょうか。ハイデッガーが彼の思想を展開したとき、”有”そのもの、”ピュシス”そのもの、”アレーティア”、”ロゴス”といった原初的なことがらを考察していましたが、そのハイデッガーは”有”そのもの、剥き出しの”有”、それがやがて人類の現前に出現すると予言してきましたが、どうもその予言がほんとうになりそうなそんな雰囲気が漂いはじめましたが、みなさんはお気づきになりましたか?

 あたらしい個人情報保護法、その他もろもろの法案が難なく可決されてゆくことでしょうが、このことこそ、デネットが指摘していた”オーウェル流の情報改竄”そのものではないでしょうか。リベットの理論に立脚した”時間の遡及的同時性”、この理論が人間の脳機能の基本的な時間事象に関する仕組みであるとするなら、国家をひとつの人間としてとらえれば、必然的にその頭脳における”時間の遡及的同時性”という機能は”オーウェル流の情報改竄”そのものを意味することは明らかです。

 最後に、仮に9.11がデキレースでなくても、9.11以降われわれ人類全体が選らんできた個々の選択内容を統合すれば、結果的に地球上のほとんどすべての情報国家は必然的に”オーウェル流の情報改竄”の機能を搭載したブログ管理システムを採用するしか、選択の余地がないような、そんな気がするのですが…。 



msaicc at 22:31|PermalinkComments(0)TrackBack(4)思想 | 哲学