cabeza y cuerpo アタマとカラダ

気になったことをツレヅレに書いてます。気になるのは人の「カラダ」と「意識」の関係とその乖離。前にデータなくしたHPの復活版。

いつのまにか本日は大晦日。

考えてみれば今年は今いなくてもおかしくない体験をして。
ありがたいことが偶然重なって、いま文を書けている年。
仕事にはいきはじめたけど、まだ機能しているとはいえず。

休みで考える時間があると
その前はあれもこれも、いつも心配してたと思う。
いろいろよいこと、ありがたいこともあったけど。
全方位そういうことが原因で、限界がきたっていうか。
そもそもがんばれる範囲をカラダ的に越えてたんだろうな。
アタマ的にはできると思ったけど。

結果いろいろうまくいかなかったことも。
前だとなんとかしよう、と思ったと思うけど
いまはたぶんできない時間、っていうのがわかる。
以前同様に大丈夫になってきた気がするけど、
それって病院で言われた「過信」だったり。
そういうセンスだけはわかるようになったかも。

考える時間があると、
今の生活/仕事のメインストリームとは
自分はかなりかけ離れた人間だなあ、と。
そういう周辺とのギャップがあるから
結果「多様性」に働くんだと思う。
で、「一般的/普通は」とさして工夫もなく取り組んで
ムリが来たというか。

周辺で落ち着かないこともあるし、ペースも不安定でつかめずに
「そもそもと現状」をさぐる時間がもう少しいるかな、と思う年末。
なんかスッキリしないけど、いまはそういう時間かも。

でもいまここにいることと、それに関係するひととことがらに、
ありがとう、と思います。

今日映画館でおもったこと。
今後のチラシとかあって、面白そうなの拾うことが
多いんだけど、なんか傾向が似てるっていうか。

簡単なプロットだけだと
 ●HIVで死にそうな人が政府規制を無視して薬を入手して生き延びる
 ●環境テロを防ぐため政府から送り込まれた捜査員が正当性に迷う
 ●ナチス時代の反ナチスの人の活動
 ●大学の連綿たるロジックに反してぬれぎぬを着せられる学生
 ●ちょっとした手違いでホームレス生活になり、抜け出せない東京の人
 ●奥さんの命を助ける高額な医療費が払えない一般市民

まあ、いったところがミニシアター系のシネマカリテだったからってのもあるけど。
こんなにいろんな場所のひとがいろんなテーマで映画をとってるけど。

今日見た2本もあわせて考えると、ほとんど同じテーマのような。
「生命VS世の中のシステム化されたしくみ」っていうか。

こないだのGladwellの本ではないけど、そんな空気があるんだと思う。

んで、二本目は邦題「ゼロ•グラヴィティ」。
しらなかったけどメキシコ人のキュアロン監督の映画。
それ知らなかったら、見なかったかも。

なんか面白い映画にするための要素が
3つかさなってるなー、と。

1、ストーリーとかそのフック、紆余曲折がおもしろい
2、映像として、見たこともない、とか美しい、とかでおもしろい
3、その作品を考える背景とその結果全体、がおもしろい

1はすごいどストレートで、多分要旨は1行。ここはそれほど。
2はすごい言われてる。無重力空間の画とかホントに宇宙にいるみたい。
見てるとだんだん宇宙にいる感覚になって、不自由さが伝染してくる。
映画というよりディズニーランドの乗り物みたい、ってさもありなん。
で、自分は3が一番好きで、キュアロンっていうかメキシコらしいと思った。

他に人もいないし、慣れ親しんだ大気圏内でもなくて、
物理法則通りにものごとが流れてゆく宇宙空間。
そこで死にそうになったらどんな反応があるかなあ、って考える。

1、いままでの地球上で得た感覚でいきのびる
  →宇宙船の操作方法とかわからないけど、自分の感覚で...っていう。
   ヤフーの感想とかにもあるけど、これで大体でやると多分死んじゃう。
   だってその感覚って、地球上のものだから。

2、ボンヤリ知ってる道具やマニュアルをちゃんと理解していきのびる
  →ちゃんと考えて、理詰めで、ある道具を正しく使いこなす。
   ここまでは多分やりそうだな、とか思う。

3、宇宙船とか手に入る道具を想定されている以外の方法でいきのびる
  →2がダメならここまでやって、生き延びるんだ、って話だけど
   自分も場合によってはそこまでできないような感じがする。
   前提は自然法則を理解していての話だけど。マクガイバー的な。

3までアタマをフル回転して考えないと、っていう危機意識も
そうしても生き延びるんだ、って意思がとてもメキシコ、というか
ブラックボックスで生きている(たぶんその前にあきらめる)
第一世界とすごい違うな、って。
最後キュアロン的な世界にたどり着いたときはホントにちょっと感涙。

これって自分の脳の手術についての話に近いな、って思った。

大体のことは1のレベルでやってるんだけど、
さすがに自分の命がかかると2のレベルにいくことになる。
っていうか1のままだと死んじゃう、って思うから。
すると手術の技術とか、病院の特性とか、色々見えてくる。
その結果、何ができて何ができないか、ある意味観念できる。
で(薬事認可などをかいくぐるアメリカのHIV患者の映画が
今度あるらしいけど)それを越えるとレベル3かな、って。

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本日は行き当たりで映画を2本見てみることに。

「ブリングリング」は原作読んでたので
ストーリーの背後にある若者たちの状況がよくわかったけど
まあ、ソフィアコッポラっぽい映像とかキレイな感じの映画。

でも末尾にSpecial Thanksとされたブランドがどんな意図で出てるのか。
自宅を提供したParis Hiltonもどういう意図なんだろうか。
ロスの高級住宅街に住むこどもたちって
いまだと否応なしにセレブ/Facebook文化に取り込まれて
リアリティがどんどんなくなってく感じ。
犯罪自体も、刑期の後もセレブ的に取り上げられて
結果オーライ、に思ってもおかしくない。
根源的には台詞にあった「周りの人に認めてほしい」
承認欲求のきわめて(自分から見て)奇形的な出方なんだろうけど。

この後見た映画の監督がメキシコ人(キュアロン、他にデルトロ、イニャリトゥ)
他にもブラジル人(サレス、バディーヤ)、南アフリカ人(ブロムカンプ)、
韓国人(ジュノ)監督が彼らのやり方で、ハリウッドで映画をとってる。
どストレートのアメリカ人ではない、こういう人の世界観が
たぶんハリウッド的には新鮮みたい。
「(世界普遍の)グローバルスタンダードではない
 (地域や国の文化を見せる)アメリカらしい映画って何?」
ってこれとは逆にある評論に書いてあったけど
このコッポラの感じって実はそうなのかも。
スティーブンキングとかの昔ながらのアメリカ風、と違って。

最後に「続きはウェブで」的な台詞も出てくるけど、
ある意味すごーく異常で不穏な世界。
だけど周りで見てたのが高校生?たちで。
その不穏な感じを感じてないんだろうなーという感想もチラホラ。
うーん、ある意味読み方が人によってすごい違う映画だと思う。
この映画の場合、映画館に行く意味はひとつだけ、
周辺の評価を聞くこと、ってことでしょか。

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昨日は12月27日(金)で2012年の年末。
セクションのみんなと11時半〜3時のおそばやさんでの解散会、
デザインと情報学の先生と7時から古い江戸料理やさんでのお話会。
若干慣れずに疲れて、顔色を指摘されたけど
仕事だから、ではなくいることに喜びを感じる場所だなあ。
ありがたいことです。
年越そばと江戸料理っていう自分にはない、とても東京な時間。

年末、社内のひと中心に「むだ話」をしてみたら
 ●(バーチャルにとどまらない)テクノロジと動物をつなげたい
 ●日本のゆるキャラとか妖怪に独自性を感じる
 ●デザイナーがクライアント仕事を安価/スピーディにできる仕組
 ●東京近郊における山登りや森林浴?的なことについて体験
 ●異なる分野の人がアイディア交換できるプラットフォーム
とか、ふだん仕事だと出てこない話を考えてるひとがおおいんだな、と気づき。
最後のじゃないけど、なんだか「仕事」以外のフレームで
アイディアとか人をつなげるのがいいのかなあ。

アメリカの友達からも一度ダメになったといわれている
デトロイトが再生産的に新しいかたちを模索してると聞いてて。
本もくれたけど、こんなTEDビデオも教えてもらった。
http://www.ted.com/talks/toni_griffin_a_new_vision_for_rebuilding_detroit.html?fb_action_ids=10152143442866064&fb_action_types=og.likes&fb_source=other_multiline&action_object_map=%5B347230882086807%5D&action_type_map=%5B%22og.likes%22%5D&action_ref_map=%5B%5D

gentrificationっぽいけど、自動車産業時代なりたってた仕組のかたちを変えて
「生産性の無い空き地→地域農園」にはじまり、今の活動にリデザインする。

同時に似てる話で(5年くらい前の話だけど)夕張市の医療再生に関し
「医療だけではなく町づくりがセット」という「村上スキーム」も読み。
そこで/その人たちでしかできないこと(再現性がない)が少ないけど
「やる気ない人でもその仕組を妄信すればできる」て再現性はないわけで。
その様子はある時点で「完成」することはなくオンゴーイング。
「最初は目立って注目、でもわかりやすい完成形がないから忘れる」
(この場合この人が事件の当事者になっちゃったから?)
になりがちだけど、ホントはプロセスを見てゆくといいんじゃないかな。

こういうことが出る現状、こないだのGladwell「ダビデとゴリアテ」で感じる。

「アメリカンドリーム」の最初って「世界一の金持ち」ではなく
「自宅と家族を持って、明日を心配せずに安心してくらせる」ことだったんだよね。
アイルランドやイタリア、オランダから飢饉やなんかで、食うや食わずで、
(西欧的な意味では)何もない土地にやってきた人たち。
彼らから見れば「落ち着いて暮らせる」のって、信じられない幸せなわけで。
それってアメリカンドリームだよね、って。

「ダビデ(身の丈で、感じられる満足感、幸せを持つ)的」だったのが
「ゴリアテ(独自のいいとこはあるシステムだけど、軍とかの社会が提示する、
 いつのまにか必要以上に大きい目的を妄信/追求する)的」になってて。
ある時代はベネフィットだったけど、時代が変わって仕組がアンマッチ。

「Back to the Basic !」っていって「昔ながらの農業、以上」ってのは
ちょっと小さくまとまりすぎ、かつある意味閉鎖的な感じがして。
その間くらいの仕組みがないもんかなあ、と。
あるところでGrowth Huckerっていわれているタイプと似ているな、
デトロイトの話とかそうかも、と思う年末であります。


ここんとこ読んだ本の備忘録。

ある作家の南米取材(?)日誌。
全体はへー、だけど、ブラジルに住んでる人との会話で
いいなーって思ったところがあった。

風景が見えるし、こういうセンスっていいなって。
いろいろ書くといいとこがなくなりそうなので一部省いてうつしてみると。

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その道に沿って、ライトアップされたブロンズの彫刻像が無数に並んでいた。
人気の途絶えた歩道に、くっきりと浮かび上がって見えた。

「ここが、あたしの生まれた町」エルレインは満足そうに言った。
「でももうすぐこの灯りは消える。
 だからその前にどうしてもあなたに見せたかった。」

うまく言えないが、その瞬間、ぼくは危うく泣き出しそうになった。

灯台まで行き着き、港の突端から背後を振り返ると、
エルレインの生まれ育った町の全景が望めた。
彼女は髪をおさえながらぼくを振り返り、笑いかけてきた。

あなたは今、自分の住んでいる町を愛しているか、と。

ぼくはその予想外の質問にうろたえた。挙句、答えた。
気に入ってはいるけど、とても愛すまではいかない。

すると彼女はまた笑った。
鼻の穴を思い切り膨らませ、両手を広げ、こう言ってのけた。
あたしはこの世界を愛しているよ。ぜんぶ、全部大好きだよ。
だからあなたもそうすればいい、と。

ラティーノ

昨日本屋で見かけたMalcolm Gladwellの新作。
「David and Goliath 
 Underdogs. misfits and the art of battling giants」。

一見強い、大きい、と思われるものが
一見弱い、小さい、と思われるものに倒されるケースの本。

いろいろあるけど彼もこの「一見」という
「いままでの判断基準にとらわれる」ことから外れると
マイナーなものが勝つことになるよ、という話。

いまのマイブームでもあり、彼が本書くってのは
世の中そんな空気があるからなんだろうなあ。

印象派の画家はトキワ荘状態の集まりで切磋琢磨したとか
中くらいの学校のトップの方が
最上位の学校の真ん中くらいよりレベルが高いとか。

タイトルでいうと

一見
「力強い巨体で、盾を持つ部下を従え、協力な鎧と剣を持つ人」対
「戦士でもない羊飼い、背が小さくて、自分のパチンコしか武器がない人」
だけど

実際は
「巨人症に苦しみ、自分で盾も持てず、鎧が重くて動きが鈍い人」対
「独特の特技を持ち、小回りが利き、秒速34mの弾で遠くから兵を倒すための武器を持つ人」
だったという。

従来のフレーミングにとらわれると前者みたいに見えちゃうって話。

今日アート系の先輩と話してて
人に話すと休みの間仕事のこと考えてたといわれる状況をいったら
「趣味はビジネス本を読むことなんでしょ?」
シンプルでスッキリしたフレーミングだわ。
「横においといて映画みなよ」だってW

David and


小説がドラマ化されてた本で
誉田哲也というひとがかいている「感染遊戯」って文庫。
文庫は今出てるけど、原作は結構前なのね。

ドラマは知ってる人がやってたってのも聞いて
改めて見たんだけど、その中でも取り上げられてた。

いかに日本の既存官僚「システム」の中では
体感的におかしい、不正義なことが行われて
それがしょうがない、ですんでるかって話。
コレをウェブ上で指摘するといろんな人が動き出すっていう。

触れられている理不尽なケースはいっぱいあるけど
確かにそれらの人は「省庁」としてそれを実施して
「個人」としてはしていない、という。

お話のすじはなるほど、だけどこれって官僚だけの
話ではなくて...自分とかもそうだなあ、と。

感染遊戯





部分的には聞いてたけど、のゴッホについて
タッシェンの一冊でわかるシリーズ。
新美術館でいまの展覧会してる時に買ったもの。
わかりやすく人生の流れが書いてある。

なんとなく不穏な?既視感があったけど
テーマに対して「全くの観察者」ではいられなかったり
(書く対象の人に対して共感とか意見をもってたり
 その背後にあるものを理解したかったり)
ゴーギャンとかに対して気にしいだったとか
読むとなんだか共感ポイントがいろいろ...。

っていうか彼みたいに絵の才能がないわけだし
自分ってどうなんでしょう、とか思ったり。

Van Gogh

理論的な本?を初めてに近く読んだ
カポエイラの本「Capoeira - Roots of the Dance-Fight-Game」
3冊シリーズの1冊だって。

いろいろニュアンスを聞いていた言葉とか概念が
なるほどなー、っていう感じで書かれていました。

たとえばMalandragemってひとは
半分プロフェッショナル、半分アンダーワールドに足を
つっこんでいる人で、キーワードは「Semi Professional」。
中心となる仕事で責任とかを追いすぎて
もうひとつの自分の視野のために使うエネルギーが
なくならないひと、というようで、なんだか柔らかい。

いま読んでいるMalcolm Gladwellの「Goliath and David」
(自明と思われている大国と小国の戦争の場合、
 実際歴史の中で小国の方が勝つ割合が高い、とか)に
似ているなあ、と。

専門力はもちろんいるんだろうけど、
それを客観視できる別の視点、
たとえばストリートスマートな感覚があるひとってことかなあ。

自分はなかなかできませんが、確かに、って感じ。
エスタブリッシュメントの反対、という出自もあるんだろうし。

他にもいろいろだけど、何回も読むと思うなあ。

Capoeira

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