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2013年08月24日

高天神城訪問 〜まさかの20年後の人生の結末  (3313投稿)

先日、静岡の新店舗開店の応援に行った帰り道・・・

道を走っていると気になる山の景色が窓越しに…、

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早速、近づいてみます。

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そう、搦手口方向から撮影した遠江国の戦国の堅城「高天神城」です。


お城と言っても名古屋城や姫路城のような立派な天守閣を持つような城ではなく、戦国時代の山城です。
石垣による曲輪等の造作はなく、自然の山に削平地を作り、土で土塁を盛り、自然の急峻な斜面や崖を利用して縄張り(=城の防衛施設配置の設計)をする。その山自体を要害として立て籠もる拠点としたものです。
後世の城郭と比べれば”砦”に近いものかもしれません。
ただし歴史上、この高天神城は相当な”堅城”で名高い山城でした。

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今回はあまり時間がなかったので本丸に最も近い大手口の駐車場から登城しました。
案内図の下の手前方向が大手口です。この城は本丸と西の丸を中心に

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大手門跡を内側(城内側)から見ると切通しで原始的な”虎口”状になっていることが分かります。
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大手門、大手口と言えばその城の正面玄関口にあたります。
しかしさすが戦場を意識した戦国期の山城は利便性よりも徹底的に攻め難い構造になっています。
急峻な斜面や崖のような自然の要害を利用した縄張りは、普通に歩くだけでも相当に体力を奪われます。

またこちらの本丸(山の東峰部分)とは反対側の西峰にある西の丸では、各曲輪間に堀切が設けられるなど、一層守備力に力を注がれてきたのがわかります。ただ攻城路が分断されて複数の郭を持つ縄張りは守備側にとっても同様に部隊運用を著しく困難にしているという反対の側面も言える。ただ攻めにくいということは、間違いない!
この城の特徴はこのように、独特の「一城別郭」と呼ばれる構造にあります。鶴翁山という標高132メートル(比高約100メートル)の山頂部に築かれた城ですが、元々の城郭主要部である本丸、三の丸周辺は山の東の峰に沿って築かれている。それを徳川家康の支配下より攻め取った武田勝頼が城の防御性能を高めるために弱点でもあった西側の峰周辺に西の丸を中心とした新たな曲輪群を築き、それを井戸曲輪で東峰部分と連結するという、上空から見れば”H型”の城郭スタイルに改修したわけです。一つの城の中に二つの城が同居しているような関係です。
山城は防衛拠点としては素晴らしい立地ですが、問題は山故に水の確保です。そこで、この高天神城を見てみると、水場は本丸南側の谷間になります。そして”井戸”と思しきものが井戸曲輪として東峰と西峰の連結部になります。”水場”を確保するためにはこのH型の縄張りを維持する必要があったことが分かります。


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ようやくたどり着いた本丸です。
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本丸と言っても、さほど広さはありません。


本丸からは遠くまで見渡せ、周辺への監視塔としての機能も果たしていたのだろうと思われます。本丸から北方面を望んだ景色です。ちょうど現在の掛川市より南に下ってくる信州街道の監視をする方角です。
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この城の歴史を紐解くと、実はあの”桶狭間の戦”に繋がる事実が隠れています。

この城は古くは駿河国(静岡県東部)の今川氏の勢力下に置かれた時代にさかのぼる。
一説には源平合戦の頃に拠点として築かれたという説もあるが、文献によれば1500年前後には地場の土豪の拠点となっていた事が出ている。その頃より勢力を伸ばした今川氏が地元の小笠原氏を城代として支配下に置いていた時代があった。
その今川氏が1560年の桶狭間の戦いで敗れ、当主今川義元は討死をするという悲劇に見舞われてしまう。今川氏は西の徳川氏、北の武田氏より挟撃を受ける中で滅亡しに向かう。

その後、城は三河より遠江国(静岡県西部)に勢力を伸ばした徳川家康により1569年に小笠原家の当主であった小笠原氏興、小笠原氏助親子の時に遂に併呑される。

そしてその後この地は有力な戦国大名の武田家、徳川家(バックに織田信長がつく)の両家の抗争拠点となる。

1574年には武田信玄亡き後家督を継いだ息子の武田勝頼により猛攻を受ける。当主小笠原氏助は抵抗するも、徳川家康の援軍も期待できないまま、抗しきれず降伏する。これにより高天神城は武田家の支配下に置かれる。その際、小笠原氏助は移封され、武田勝頼によって命令を受けた岡部元信が城代として高天神城に入る。その岡部元信が最期の城主となるわけだ。

実は、この岡部元信と言う人物は1560年の桶狭間の戦いに繋がる人だ。
当時、尾張国に勢力を伸ばそうとしていた今川氏は様々な調略により三河から順に尾張国の武将たちを自らの勢力下におさめるよう動いていた。その最前線が名古屋市緑区にある鳴海城、大高城の周辺だ。この二城が今川方に寝返ることで、尾張国の当主になったばかりの織田信長はその勢力を抑えようと、今川方のこの二城周辺にそれらを包囲するように砦などを築き包囲体制を敷いた。これにより兵糧等の欠乏を生じた今川方が自軍救援のために侵攻してきたのが桶狭間の戦いの真相だと思われる。(いわゆる”後詰め”のための出兵と言います)その最前線にある鳴海城を桶狭間の戦いの折に守護したのが紛れもない岡部元信なわけだ。
岡部元信は今川義元が今川家の家督を継ぐ折に重要な役割を担ったという人物を父をもち、息子である元信には義元の信認も厚かっただろう。桶狭間の戦いで今川義元を失くした直後も、大混乱位陥る今川軍の中にいて最後まで前線を支えつつ鳴海城を死守し、最後は主君今川義元の”首”と引き換えに織田信長に城を明け渡して駿河に撤退している。さらにその撤退の帰り道に道中にあった刈谷城を攻め織田方の水野信親を打ち取り、城を焼き払い今は亡き当主今川義元への手向けの戦功を上げている。武将としてはなかなかの人物だ。

その岡部元信が城主であったときに、高天神城はその最期を迎える。1575年に支配していた武田勝頼は三河(愛知県西部)で長篠の戦で敵対する織田、徳川連合軍により大きな損害を受ける。父信玄以来の宿将と呼ばれる有能な家臣を大勢失くしている。その間、高天神城は城主岡部元信の下、西の丸の造営を行うなど守りを固めるが、対する徳川家康も遠江国東部の武田方諸城を攻め落としつつ高天神城周辺に迫る。いくつもの付城(監視のための駐留部隊を常駐させる拠点)や砦を築き包囲網を固めていく。堅城故に直接的な攻撃は避け、兵糧攻めの包囲攻撃を行っていく。そして運命の1580年9月徳川家康、織田信長両軍により包囲されていた高天神城は本格的な攻撃を受ける。その後も僅か1000人程度の城兵で半年以上は持ちこたえるが、東の北条氏、西の織田氏、南の徳川氏・・・各方面からの攻勢に対しての対応で手がいっぱいで応援の軍勢を出す余力のなかった武田勝頼からは援軍(=後詰め)は届かず、頑強に抵抗をしてきた岡部元信は包囲軍に対して止む無く降伏開城を願い出る。

しかし、徳川、織田軍はその降伏の申し出を拒否した!
攻城側が攻めあぐねつつも、その数倍にもわたる軍勢の力の差を見せつけることと、自軍の損害を減らしながら城を陥落させる必要から数度の強襲攻撃や包囲の後に、籠城側に対して降伏勧告をするも、城側がそれを拒否することはしばしば見受けられますが・・・その逆で、城側からの降伏の申し出を攻め手が拒否するのは異例のことだ。
ワタクシが歴史においてすぐに思いつく限りでは、時代が下り、幕末の戊辰戦争の頃、会津藩を攻める新政府軍に対して会津側は自ら恭順の意を示したがそれを事実上拒否して戦争が始まった。それに近い状態かもしれない。高天神城も会津若松城攻めでもどちらも相手を武力で屈服させねば大義名分が立たない・・・という戦場の当事者には理解しがたい大きな政治的な意図が裏側にあった戦いでした。

高天神上の戦いでの「拒否」のその理由は、攻城軍は高天神城を守備の城兵ともども強襲により力で全滅させるという悲惨な結末を描いていたからにほかならない。当時、織田信長軍は長篠の戦で勝利を収めた後、天下統一への障害となる甲州、信州周辺を領国とする武田家への本格的な侵攻計画を着々と進めていた。その中で、元々が中央集権的ではなく古来からの有力豪族の共同体としての性格の強かった武田家の中に、武田本家であり当主の勝頼への忠誠心を失わせることで、寄合組織の求心力の低下により中から組織を瓦解させようと画策していた。
その一つの方法として、家臣の守る要衝の軍事拠点であった高天神城に対する援軍を出すことが出来ず結果的に悲惨な結果として家臣を見殺しにしてしまうという結末を描く必要があったわけだ。当主である武田勝頼の支配者としての権威を失墜させるためには、その結末は絵に描いたような悲惨な結末である必要があるわけだ。城主の首一つ程度での無血開城、降伏ではその絵が描けないわけだ。そのための攻城軍による「降伏の申し出の拒否」という説が濃厚だ。それは1581年1月25日付で攻城軍の陣営にいる武将、水野忠重宛の信長からの同趣旨の書状が残っている。
まさに両社から見捨てられてしまった悲劇の生贄の城であったといえる。

結果として、高天神城では1581年3月22日に岡部元信以下残存の城兵は城を出て突撃を敢行し全滅するという悲惨な最期を遂げる。21年前の1560年の桶狭間の戦いの折、敗戦より一矢報いて凱旋を果たした勇将岡部元信自身、このような悲惨な最期を夢にも思ってはいなかったであろう。その心境はいかなるものだったであろうか。歴史は本当にわからないものです。
織田信長の活躍を描いた「信長公記」には”武田四郎(=勝頼)〜途中略〜高天神にて干殺しにさせ、後巻仕らず、天下の面目を失い候”と記している。

◆武田勝頼像
katuyoritakedaその後、史実は信長の思った通りとなった。
織田家による1582年の本格的な侵攻に前後して武田家は配下の武将の離反や謀反が続き、内部からの瓦解が進んだ。配下の重臣である穴山信君、小山田信茂、木曾義昌などが裏切り、一族であり重臣であった織田軍の侵攻に対して武田信廉も戦線を放棄した。
結果、1582年3月には当主武田勝頼は「おぼろなる月もほのかに雲かすみ 晴れて行くへの西の山のは」という辞世の句を残し天目山の戦いで自刃し武田家は滅亡することとなるのだが・・・。

武田家の信玄による成長期と勝頼の代になってからの衰亡期を学ぶと、現代の企業組織問題にもつながる組織論の一つの答えが見えてくる。これはいつも経営者となってあら、歴史に触れる度に感じること。



私の地元である愛知県名古屋市緑区周辺は桶狭間の戦いの舞台。
少し調べてみるとこの城もそんな地元に不思議な縁のある城跡でした。
歴史はこれがあるからやめられません。




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