2016年08月22日

八月、夏真っ盛りだが、時計の針を初春に戻してみる。

八海山の麓にあるトミオカホワイト美術館はお気に入りの場所だ。行くならとりわけ冬がいい。雪の静謐に佇む美術館の中はとりわけ密やかな雰囲気だが、高い天井を持つ広い空間は、適度な明るさと開放感を持ち、観る者は緊張を強いられることはない。静かに、けれども集中力を持ってトミオカホワイトの世界を辿る。今年訪れたのは四月。山に雪は殆ど残っていない。ここ数年新潟は雪が少ないと聞いていた。あの白づくめの景色を思った。
富岡惣一郎は上越高田の人。雪の白に魅せられた画家は“トミオカホワイト”と呼ばれる独自の白絵具を編み出し、独特の手法で白の世界を現出させる。山の姿は雪に覆われていたほうがいい、というのは阿部木の実さんと家人の会話だが、富岡の表現は、単に自然をカンバスに置き換えただけではない凄みを持つ。

キナキナの原初のかたちは幼子のおしゃぶりであり、描彩なしのきわめて素朴なひとがたである。頭部にその顔の表情なく、華麗な胴模様も一切描かれない。その意味で他のこけしとは一線を画すものであり、これまでそのこけしを楽しむということが出来ないでいた。にもかかわらず、富岡惣一郎の作品から得た印象からの連想は自然に南部こけし、キナキナへと繋がった。キナキナと言えば花巻の煤孫盛造工人であり、その煤孫工人が5月の白石に来られる折にこけしを注文したのだった。まだ会ったことのない工人に、最初からこけしを注文するつもりで会いに行ったのは初めてだ。それだけトミオカホワイトの印象が強かったのか、と今になって思う。

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材はアオハダ。抜けるような白をこの画像はじゅうぶんに写し撮れていない。きっちりと寸法を測って作られる煤孫工人のキナキナはきっぱりと清廉で、その形は鑑賞されることを自ら望んでいるようだ。そのまま凝視していると、ひたすらに白い木肌に薄っすらと美しい木目が浮き出るように見えてきた。
キナキナの見方が少しだけわかったような気がした。

mu1300 at 23:00コメント(0)トラックバック(0)こけし 

2016年08月07日

そう、えじこだった。
太田孝淳工人を訪れたのは、そもそもえじこを逃したからなのだ。
お邪魔した際には売り物になるえじこは無かったのだが、
工人は突然の訪問の我々の注文にも快く応じてくれた。

うかがった時、色々な話をお聞きした。目の描き方、ガラ入りのこと、etc
師匠の篠木利夫工人は佐藤佐志馬工人について修行した人なのだけれど、孝淳工人が作る型を制約しなかったそうである。今日、湊屋の趣溢るる孝淳こけしに触れることができるのはそのお陰なのだ。するとどうだろう、最近更新されたKokeshi Wiki 佐藤佐志馬の項目を見ると、佐志馬もまた、弟子たちに自分の型の継承を強いることがなかった、とある。型は継承されずとも、土湯こけしの伝統は受け継がれた。

さて、それからわずか2日後。工人からの小包が届いた。
「え、もう届いたの!?」
それだけでうれしい気分になって、中から出てきたのがこれ。

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大小二つのえじこ。どちらもそれぞれに、良い。
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私は反省した。こんなふうに手許に来てくれるのだから、例会で逃したぐらいで機嫌を損ねてはいけない。
8月の例会は中古頒布の特別例会、大人(たいじん)の風格で臨みたいものだ。

mu1300 at 23:13コメント(0)トラックバック(0)こけし 

2016年08月04日

ことの発端は6月の東京こけし友の会例会。
新品頒布の中に太田孝淳工人のえじこがあった。
色とりどり、一見無愛想な表情が可愛らしい。
欲しい。

くじ運の悪さはいつもながらだが、欲しいものがあるときは気が気でない。
順番が回ってきたときには、Yさんが最後の二つを手に取って思案中。
Yさんの背後に立つ某ベテラン蒐集家と私。
某ベテラン蒐集家が先にYさんに声をかけ、かくしてえじこは完売した。
そのとき同行していた家人はずいぶん落胆していたように記憶する。

そもそも家人は以前から太田孝淳さんのこけしが気になると言っていた。
美轆展を見に行った西田記念館でその孝淳さんのこけしが売られていたのだった。
それで火が着いた。

土湯温泉に移動して会津山根屋へ。
あ、こけし時代が置いてある。ちょっと拝借して孝淳さんの住所と電話番号をメモ、
そして家人が電話。
「これから行ってもいいですか?」
また、やってしまった。でも工人は快く了解してくれた。

カーナビに住所を入れて工人宅を目指す。
温泉街から市街地へと移動した住宅街の中に太田孝淳工人のお宅がある。
家に上げていただき、色々とうかがった。
太田孝淳工人は、昭和14年生まれの77才。
勤め先の旅行でこけしに出会い、以来長く愛好家であった。
様々な工人を訪れては、こけしの製作を依頼していたが、
さかんに訪れているうちに、作ってみたらと言われるようになって、
最終的には篠木利夫工人にこけし作りを学ぶことになった。
「こけし愛好家で定期的に持ち寄って鑑賞会をやってるの。古民家があって借りられるようになってるのね」(福島こけし談話会のことである)
と楽しげに話す孝淳さんは作り手となった今も、愛好家であり続けている。

いま注文を受けて作っているというこけし達を見せていただく。
六寸ほどの帽子をかぶったこけし達。
やや粗く仕上げられた木地にほどよく滲んだ轆轤線。
但し粗雑な印象は受けない。むしろ品の良さを感じる。
素朴さは失われず、程よく調和している。
模様も胴の形も帽子も表情もどれ一つとして同じものはなかった。
工人はその出来栄えに満足はしていないようである。
「この胴はもうちょっと細いほうがよかったんだけど」
正直で謙虚な人柄が窺える。模様にしろ寸法にしろ適当だから、
と話す孝淳さんはこけし作りを楽しんでいるようだ。
こういうことがあるから工人に会いに行きたくなる。
見ているうちに欲しくなって、3つに絞り込んでどれか1つをいただくつもりだったのだが、、、

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孝淳工人のこけしの表情に特徴的なのは、眼点を白く抜くところ。
その話をされている孝淳工人の瞳には光が差し込んで白く輝いていたのだった。







mu1300 at 10:31コメント(0)トラックバック(0)こけし 

2016年07月27日

バイクを乗り換えたのは、もう2年以上も前のことになる。サイズが小さくなったのは大きな変化だが、エンジンのタイプが変わったことがより大きな変化だ。小さなピストンが綺麗に揃ったサウンドを奏でる4気筒から、大きなピストンが力強い鼓動を打つ2気筒へ。小気味よい加速とともに上昇していくエンジンの回転音はドラムの連打のようだ。キース・ムーン?いや、どこか軽やかな心地よさはハル・ブレインかな、などと考えながら、アクセルを軽く吹かして回転数を合わせ、マニュアルミッションを操作してシフトダウン、ブレーキング、体重移動、加速、シフトアップ、そうしてコーナーをひとつひとつクリアしていく。

ん、キース・ムーン?
ずいぶん長いこと音楽に親しんできたつもりだ。とりわけ60’sと70's前半には。でもなぜか未体験だった。
この歳になって、The Whoにハマった。
カッコいい、というこの感じ。素直にこう思えるものに出会うこと自体久しぶりだ。
ハードで、ポップで、キャッチーで、そしてナイーヴ。
なぜ今まで親しめなかったのか。
ひとえにピート・タウンゼントの顔が好きでなかった、という理由しか思いつかない。
先入観恐るべし。
かくして、TOMMY、Who’s next、QUADROPHENIAのヘヴィローテーションと相成った。
未経験者でももう遅すぎるということはない。
これを知らずに人生を過ごすのは、やっぱりもったいないな、と思う。

あ、いいな、と思うこの感じ。最近そう思えるこけしに出会うことができた。
日下秀行工人の吉弥古型写し。平成26年に店を構えたこの若手工人には、そう時間がかからずに出会えたのではないかと思う。歳とともに先入観から自由になりつつあるのだろうか。
シャープで、シンプルで、ラフで、けれどシュア。
一人の若き愛好家(樋口達也)と提供された出会いの場(西荻イトチ)による幸運を分けてもらった。
素敵なこけしだ。と同時に伸びしろも感じさせる。この工人の辿っていく道を見続けてみようと思わせる。
11月には東京に来られると聞いた。だけど、できれば遠刈田に訪ねてみたい。バイクで、神経を研ぎ澄ませて。
未経験者にはまだ早すぎるということはない。
これを知らずにこけし生活を送るのは、これまたもったいないよな、と思う。

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ザ・フー(The Who)は、イギリスのロックバンド。ビートルズ、ローリング・ストーンズと並び、イギリスの3大ロックバンドの一つに数えられる。
デビュー当初はスモール・フェイセス(のちフェイセズに改名)と並びモッズ・カルチャーを代表するバンドと評された。1969年に発表されたアルバム『ロック・オペラ “トミー”』でロック・オペラというジャンルを確立。また1971年発表の『フーズ・ネクスト』では、当時貴重なシンセサイザーを、後のテクノにも影響を与えたミニマル・ミュージック風に導入するなど、先進的な音楽性を持つバンドに成長するに至る。また、ギターを叩き壊しドラムセットを破壊する暴力的なパフォーマンスと文学性豊かな歌詞世界とのギャップが魅力のひとつでもあった。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第29位。
正式メンバー
ロジャー・ダルトリー (Roger Daltrey CBE, 1944年3月1日 - )(ボーカル)
ピート・タウンゼント (Pete Townshend, 1945年5月19日 - )(ギター、ボーカル、キーボード、シンセサイザー)
ジョン・エントウィッスル (John Entwistle, 1944年10月9日 - 2002年6月27日)(ベース、ボーカル、ブラス)
キース・ムーン (Keith Moon, 1946年8月23日 - 1978年9月7日)(ドラムス)
(Wikipedia)

日下秀行 昭和52年年12月19日 宮城県白石市に生まれる。学校を出て、しばらく土木・建設業の仕事についた。その後、自分の一生の仕事を求めてサービス業や販売業などに就いたが、納得のいく仕事はなかなか見つからなかった。
平成21年6月に求人票を見て応募したのが、宮城県蔵王町の「伝統こけし工人後継者育成事業」であった。これに採用されて伝統こけしの製作を学んだ。この時採用されたのは、日下秀行のほか達曾部早苗(現在佐藤姓)、熊谷祐太の三名であった。最初の3年間は、遠刈田伝統こけし木地玩具業協同組合に所属している数名のこけし工人から指導を受け、平成23年12月からは佐藤哲郎に約一年間師事し研鑽を積んだ。
〈伊勢こけし会だより・138〉(平成24年2月)で新作者として紹介された。平成24年6月の東京こけし友の会例会では新人工人として紹介され頒布された。
平成25年から「みやぎ蔵王こけし館」で木地玩具の製作補助や来館者にこけし製作実演と体験教室の指導などを行った。
平成26年夏に白石より、遠刈田へ居を移し、師匠哲郎の家の近くで工房を開き独立した。
(Kokeshi Wiki)


mu1300 at 21:46コメント(0)トラックバック(0)こけし音楽 

2016年07月01日

先日仕事で広島に行くことになり、往復の飛行機で読む本は肩肘張らずに読めるものをと思い、内田百里遼椶鮖って行こうと思った。私は内田百里遼椶鯑匹鵑世海箸ない。いま、家人が百寮萓犬紡臍愼れあげており、先日も本屋にあるだけの内田百里鯒磴だ蠅瓩燭隼虻買ってきた処だ。そして私にも盛んに読め読めと云う。読め読めと云うから読んでみようと思い、家人がもう読んでしまった百寮萓犬遼椶鰐気い里尋ねたところ、図書館派の家人は殆ど借りて読んでおり、意外にも一冊の「百鬼園随筆」があるだけだという。但しこの本はいささか問題を抱えており、つまりボロボロなのである。なぜボロボロなのかは家人の名誉に関わることなので此処には書けない。自慢じゃないが、私は本を綺麗に読む方である。だからと言って家人がまだ読んでいない本を持ち出すのは気がひけたが、快諾を得たので三冊の中から「阿呆の鳥飼」を選び、カバンに入っていた「族長の秋」と入れ替えて家を出た。
機内で新聞を一通り読み、おもむろに百里鯑匹濟呂瓩道笋話僂犬拭2燭鮹僂犬燭と言って、此の歳に成るまで読んで居なかった事を恥じたのである。もっと早く出会っていたら人生どんなにか変わっていただろうに。読書中の私の顔は明らかにニヤけて、目尻に涙を溜めた(笑いすぎである)怪しい男に映ったに違いない。どれ程面白いのかと云えば、あんまり夢中で読んでいたので飛行機が着陸するのに気付かず、着地の衝撃で飛び上がった程だ。往きも帰りも、である。
着陸しても頭の中は百寮萓犬念貲佞緑屐恰も自身が百寮萓犬砲覆辰真柑でバスに乗る。広島空港は東広島市の山の中にあり、広島市内にはリムジンバスで45分ほどかかる。ぼんやり車窓から外に目をやると、空に向かって水平に突き出した鉄骨の巨大な構造物が目に入った。滑走路の終わる辺りから急激に落ち窪んだ地形になっていて、その窪みは畑だったり人家だったりしている。その頭上に突き出しているのは飛行機を滑走路に誘導するための構造物なのだが、真下に暮らす人々には甚だ迷惑ではないかと思う。ある日突然見慣れぬ大きな日陰ができたら随分と居心地が悪いのではないか、いや案外慣れてしまって影がないと却って不安なのか知ら、などと考えている内に、うとうとしてしまい、其のうちに広島駅に着いた。

今日のこけしは柴田良二工人、正統派の鉄蔵型である。大真面目であるのに何処か惚けた風は百寮萓犬砲眥未犬詭わいがあるかもしれない。堂々の尺は昨年の秋田県こけし展にて。

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mu1300 at 00:06コメント(0)トラックバック(0)雑記こけし 

2016年06月06日

久しぶりに友の会の例会に出席すると、思いもよらぬ報らせに接した。

工人訃報 
斎藤良輔 平成27年4月25日 89歳

奥様の八重子さんの訃報に接したのは、昨年の4月ごろだったか。良輔さんはご健在なのだろうかと思っていた。
スクリーンの文字をあらためてよく見ると、もう一年も前の日付が映し出されている。

〔人物〕 大正14年6月12日、福島県会津若松市栄町の商業斎藤栄作六男として生まれる。昭和15年尋常小学校卒業後は会津若松市内で働いたが17年に東京の軍需工場に、その後工場疎開で福井へ向かう。戦後は会津若松へ戻りアルマイト打刻会社で営業職に就いていた。昭和27年当時会津若松で働いていた佐藤吉弥長女の八重子と結婚、遠刈田へ拠点を移し足踏みロクロで木地修行を始めた。昭和28年には動力ロクロに変わり新型の下木地等を挽いたが、伝統こけしの描彩を33年より吉弥についで開始した。吉弥の死後も妻八重子と共に店を受け継ぎ、同地で平成19年頃までこけしを作り続けた。現在は娘婿が住んでいる金沢に夫婦で移り住んでいる。(Kokeshi Wikiより)

会津で農業や染色業、営業をしていた良輔が吉弥の娘、八重子と結婚して遠刈田に拠点を移し、木地修行を始めた理由の本当のところは私にはわからない。しかし、以下の引用に表された気持ちに偽りはないだろう。
「木地修行当時は新型こけしブームでした。その中で蒐集家から師匠へのこけし製作依頼がありました。師匠吉弥がこけし製作にかかり仕上がったこけしを見て、私は其の素晴らしさ、奥深い美しさにひかれて修行に入りました。」(伝統こけし最新工人録 平成23年)
師匠へのリスペクトが原点にあった良輔工人、その謙虚さが良輔こけしの核心だと思う。

斎藤良輔工人は私のこけし趣味の原点のひとつと言っていい位置を占めている。
伝統こけしに触れて間もない頃、家人の誕生日の祝いにと、こけしを選んだ。あのときは、ちょっと変わったもの、少しグロテスクなものを選ぼうと決めていた。選んだのは良輔の木目模様のこけし。サイズは尺。でも家人は同じ日に求めた井上はる美(当時の記名に倣った)のほうを良いと云い、良輔こけしは私の所有物となった。それ以来、良輔こけしは私のこけし趣味に一定の位置を占めることとなり、折に触れ求めるこけしの筆頭格となった。

初々しさ、硬さが残る初期作は、経験の浅さ故、出来栄えには相当にムラがある、まさにそれが楽しみとなること、経験を重ねるにつれ美しさに磨きがかかり、庄七の色気にも通ずる麗しさを湛える壮年期の充実、個性が完全に確立され、円熟を極みを見せる時期(「ピーク期」という言葉は使いたくない。手元のこけしで言えば、胴底に六十才とかかれたこけしに私はそれを見出す。)、わずかに筆の乱れを感じさせつつも、決して枯れることのない製作晩年の時期、それぞれの楽しみを教えてくれた良輔のこけし達。
こげす、えじこ、豆こけし、当てゴマや三福神のような木地玩具へと関心が広がったのも良輔工人が残したものを通じてのものだったし、様々な形、多彩な模様、安定していながらも非凡な造形のセンスは、私を決して飽きさせることがなかった。
吉弥の忠実な写し(それでいてどうしようもなく良輔こけしになっているところが好きだ)や、不明こけしの復元と云った当時のこけし好きの我儘な求めに応じながら、素晴らしい出来栄えで蒐集家達に求められた以上の答えで返したりしている、そんな良輔こけしが時を隔てて一人のこけしファンを育むことになった。

伝統こけしに出会ったときには、良輔工人はもうこけしづくりを止めていた。初めて訪れた薄く雪化粧した冬の遠刈田。良輔の店はシャッターが下り、人は住んでいないように見えた。土産物店で良輔の消息を聞き、普段は遠刈田にいないことを知った。
一度も会うことの無かった工人。話を聞きたかったけれど、もうそれは叶わない。残されたもの達を通してその声を聞くことしかできない。

良輔不明大

例会には良輔工人の古遠刈田不明こけしの写しが2つ並んでいた、そのうちのひとつ。Kokeshi Wikiの橋本蔵をみても比較的初期のものだと思う。
胴底に「昭和42.1 こけしの家」との書込みがあり、本人は「遠刈田 良輔 復現」と書き入れた。「復現」と書いたことに意味があると思いたい。

良輔と八重子

八重子工人のこげすと一緒にその声を聞く。


〔参考〕
Kokeshi Wiki 「斎藤良輔」
こけし辞典(昭和46年初版)「斎藤良輔」

mu1300 at 00:45コメント(0)トラックバック(0)こけし雑記 

2016年03月14日

中学生のころか、あるいは高校生だったか、父から子供時代の話をまとまった形で聞いた記憶がある。
それはもちろん戦争中の話であり、終戦直前のソ連による侵攻から帰還(父の家族は当時満州にいた)までの経緯がハイライトであり、
その話を聞いた私は衝撃を受けた。そして戦争を知らない私の戦争の記憶の大きなスペースを今に至るまで占め続けることとなった。
父はだいぶ後になって、その話をまとめ直して文章にした。

とある法事の日。
「〇〇(父の名前)が満州のこと書いてるでしょう。だいぶ控えめに書いてるけど」
80才をとうに越えた叔母がいう。
「本当はあんなもんじゃなかったのよ。もっと色々あったんだから」
同じ空気を吸っていたはずのきょうだいだって、子供のころの年齢差は、大人とは比べものにならないほどの大きな違いで、
叔母が語る歴史はまた叔母の歴史として語られたがっているようだ。
私はそのとき部屋の反対側の端にいて、叔母の話を十分に聞き取ることができなかった。
間もなく法事の時間になって、そのはなしはそのまま宙に浮いて、そして霧消したように感じられた。

小熊英二の「生きて帰って来た男」を読む。
兵隊としてシベリアに抑留された戦争を挟んだ父親の人生の記憶を、息子である筆者が記録していくかたちでまとめられている。
この本が貴重なのは、昭和を一市民として過ごした父親の世の中を見る眼の公平さが、語りの中に率直に現れていることだと思う。もちろんそれは優れた聴き手と優れた書き手に恵まれたからには違いないのだけれど。
幸運にもここに書かれたことは聞かれなければ語られなかったかもしれず、あるいは語られるべくして語られたのかもしれない。
ただ、語られたことで、記憶は歴史になった。

近年、かつてこけしの世界を牽引してきた工人達の訃報が相次いでいる。
昭和を生きた工人達の語りを聞ける時間はそう多くは残されていない。
そして、あの宙に浮いて霧のように消えてしまった叔母の話のことを思う。

佐藤哲郎工人のこけし。いまや遠刈田の古老と言ってよい年齢だが、父、吉弥の記憶はこの初期作から今に至るまで繋がっていて、幸いにも現れた後継者に受け継がれているはずだ。

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mu1300 at 00:49コメント(0)トラックバック(0)こけし雑記 

2015年12月31日

大沼秀顯工人は神出鬼没である。

こけしあるところ、至るところに顔を出され、いまやこけし界のスポークスマン、宣伝部長のごとき多忙ぶり。こけし祭りでも準備から始まり、懇親会の司会進行まで、八面六臂の活躍ぶりで、いったいいつ休んでいるのかと思うほどだ。
そんな秀顯工人がテレビに出ていた。手際の良さに舌を巻きながらみる。木取り、木地挽、描彩とたどる画面の様子にはいっさいの迷いがないようにみえる。そして仕上がりには雑なところが微塵もない。

そして、工人のこけしは進化しているように思う。
それは自然な変化のせいだけでなく、工人が毎年のように新たな挑戦を続けているからだ。
今年の工人最大の挑戦は、岩太郎型の製作だろう。
大沼岩太郎は秀顯工人の父秀雄、その父竹雄の祖父にあたる。
鳴子のこけし祭りに出品されたそのこけしは、見事なものだった。その後こけし千夜一夜でその製作に至る経緯が明らかになり、さらに進化していることを知る。

産地も東京も数多くのこけしイベントが開催された11月、そのほとんどを横目に見ながら過ごしたひと月だったけれど、毎年訪れている横浜人形の家には、顔を出すことができた。
秀顯工人とひとしきり話す。写真でしか見ていない岩太郎の原を見てみたい、そんな気持ちを話してくれた。会場に岩太郎型はなかったのだが、見慣れたこけし達の中に少し違った雰囲気を持つこけしがあって、手にとった。
瞳は大きく、眉の湾曲はやや大きい。髪飾りや鬢も見慣れない描き方のこけしがすっかり気に入ってしまった。

「これは竹雄の型」
「ほんとは瞳がもっとクリッとしてるんだけどね」
原のこけしを知らないのは不勉強のせいに他ならないが、無責任に楽しむだけの私にとってはこのこけしが目の前にあるだけで十分だ。
この一年を締めくくるのに相応しい、現在一番のお気に入り。

hideaki
hideaki

mu1300 at 11:21コメント(0)トラックバック(0)こけし雑記 

2015年12月29日

 11月、筑波山を登った。以前(だいぶまえのことだ)二度ほど訪れた時の筑波山の記憶と言えば、ずいぶん殺風景な場所だな、と思ったように、賑やかな場所ではなかったはずだった。
そんな我々を大渋滞が待ち受けていた。しばらくならんでみたものの、耐えられなくなって離脱する。でも諦められない。違うルートで攻めてみる。だいぶ進んだが、また同じ道に出てしまう。列はまだまだ続いている。また離脱する。でもあきらめきれない。ただこんなことを繰り返すわけにもいかない。

山の形を思い出してみる。山なんだから一方からしか登れないということはないはず。
細い山道をクルマを泥で汚しながら登ったところに裏筑波の登山口があった。
あきらめないといいことがある、たまには、だけれど。

ややぬかった道を歩いて軽登山を楽しむ。もう午後、北側斜面は色とりどりというわけにはいかないが、却って点在する色彩の鮮やかさが際立つ。一人立つ楓の木の黄色などは特に。そしてとにかく人がいないのがいい。
登山口にはキャンプ場があって、この周りには色づいた植物が多い。名前は知らないけれど、紫色の実をつけた木がある。高いところになっている。細く長い枝を手繰り寄せて顔を近づけた。やや控えめな色味だけれど、暮れなずむ空気の中では十分に魅力的だ。

筑波の紫


紫はこけしに使われる色。とりわけ飛びやすい色だ。真っ先に思い浮かんだのは、弥治郎系のこけし。頭のろくろ線に鮮やかに引かれた紫。

伝喜

これは紫がとくべつ鮮やかというわけではなく、かなり控えめにしか使われていないけれど、色はしっかり残っているようだ。初めて手元にやって来た、佐藤伝喜の小寸。可愛らしいので名札を外さないでおいた。


mu1300 at 08:30コメント(0)トラックバック(0)こけし 

2015年10月28日

あまりテレビは見ないのだが、たまたまチャンネルを合わせたときに、やっていると見てしまう番組に“song to soul”がある。60年代から80年代の洋楽ヒットソングから一曲だけ取り上げて、その曲に関わった人達にインタビューしながら掘り下げていくややコアな番組だけれど、終わることなく続いている。

その夜はラヴィン・スプーンフルの“魔法を信じるかい?(Do You Believe In Magic)”が取り上げられていた。初めて聴いたのは中1の夏、NHK-FMの特集番組の中の1曲として流れてきたときのこと。エアチェック(ラジオ番組を録音すること。為念。)したカセットテープはその後「すりきれるほど」聴き、その後の音楽趣味を決めてしまった。

バンドのメンバーはこう言う。
「ラヴィン・スプーンフルはグッドタイムミュージックを演ってたんだ。グッドタイムミュージックていうのは、仕事を終えて帰宅して、靴を脱いでソファに座って、リラックスして楽しむような音楽だよ」と。

仕事を終えて家に帰り、靴を脱いで靴下も脱いで、ソファに座って音楽を聴きながら、ついでにこけしも楽しみたい。今の気分はこれかな?

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子持ちこけしの子無しとして出ていたもの。でも、こけしの造形ではない。容器として形作られたように思える。ひょっこり子が見つかったら楽しいけれど。
佐藤吉雄。奇跡的に鮮やかな色彩。

mu1300 at 12:02コメント(0)トラックバック(0)音楽こけし 
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