ムーの棚から

〜こけしと時々読書・音楽・山と日々の出来事で綴るブログです〜

桜井尚道工人の岩蔵型五寸。7月の終わりに私の元に来た。
桜井こけし店は大沼岩蔵(岩蔵は万之丞の叔父で師匠)から桜井万之丞、昭二、昭寛、尚道と続く鳴子のこけし工人の家系。こけし屋はどこも後継者問題を抱えているが、桜井家では幸いなことに息子がこけし作りを始めた。
これまで桜井家のこけしを良いものだと思いながらも一歩引いて眺めるばかりで、いくつか持ってはいるけれど、私としてはずいぶん抑制の効いた接し方をしてきたと思う。それでも作り手の問題は気にかかるから、息子が後を継ぐと聞いて嬉しかった。だからなんとなく彼の作るものを横目に追いかけてきたのだ。
彼が修行に入ってから、実際にこけしを世に出すまでは、ずいぶん時間がかかっていたように思う。Kokeshi Wikiによれば修行に入ったのは平成27年4月ごろ、ほぼ初作とされる小寸は平成29年8月とあって、2年4カ月が経過しているけれども、はめ込みの作品は平成31年まで待たねばならず、4年の月日を要している。その後令和2年に深沢コレクションに挑戦した古鳴子も小さなもので、はめ込みのこけしへの本格的な取り組みはさらにあとになる。その足取りは意欲的ではあるが慎重で、階段を焦らず一歩一歩上がっている、そんな風に見える。これは推測に過ぎないけれど、師匠としての父、昭寛はなかなか厳しく指導したのではないか。
その尚道工人のこけし、確かな腕に支えられた出来栄えに文句のつけようもない。先に触れた古鳴子の復元も良い出来で、これは手元に持っていて、でも小寸の良さになにかもう一つ纏わせたい雰囲気がある、そんな印象を持っていた。単に好みの問題ではあるけれど。
この夏、イラストレーターの佐々木一澄さんが自身の原画展に合わせて、所有の岩蔵を託して尚道工人が製作した五寸とたちこ、それと本人型のえじこをSNSの画像で見た。スマホの小さな画面からでもそのこけし達から伝わってくるものがある。これは良いものに違いない。それで浦和駅近くの楽風にいそいそと出かけ現物を確認する。小さな画像から伝わったものに間違いはなかった。すでにえじこは無くなっていて、五寸とたちこを求める。几帳面で繊細な木地挽き、ビリカンナで仕上げた複雑な肩のラインは見どころだが、今までとの違いを最も感じるのは「顔」、表情である。間違いなく岩蔵の系譜にある表情は昭二とも昭寛とも違う。これまでの生硬さが取れていて、少しまわりくどい言い方をすれば、下書きなしの彼の顔になっている(むろん実際に下書きなどしない。心の下書きと言うべきか)。
それにしてもこの胴模様、アヤメの配し方ときたら、これは岩蔵の創作だと思うが余白の作り方が絶妙に感じられる。この美点は忠実に受け継がれている。
D852F597-0B48-4861-A4B1-4B3B75708413
このこけし、これまで一段一段階段を上がってきた工人が一段飛ばしで駆け上がったような印象がある。いよいよ目が離せない。
桜井こけし店ではこの週末から10月9日まで、西田峯吉のコレクションに挑戦した展示をするそうだ。個人的には5年ぶりの祭りにひとつ楽しみが増えた。

39FE8738-2C6E-44EB-B496-C3CD27CD2283
radikoという便利なものが出来たので、週末の移動の車中でよく聴いている。ある日もそんな風にクリス松村の9の音粋(bayfmの番組)を聴いていたら、佐野元春の新譜がかかった。そのときの感想が「いいなぁ、佐野元春」。

佐野元春なら知っている。僕が中学生のころ「アンジェリーナ」「SOMEDAY」はとてもヒットしていた。どこかで必ず耳にするサウンドだったからか、それともすこしばかり特徴的な歌い方だからか(話し方も)、どちらかと言えば好きだったはずだけれども自分でレコードを買ったり、誰かに借りたりということはなかった。でも同じ時代を生きてきたから、彼がずっと活動していて、僕らに向けて音楽を送り出しているのは、僕の視界のかなり外れのほうにおぼろげに認識されていて、けれどはっきりとした像を結ぶことは、あの放送までなかった。

最新盤(そして僕にとっては初めて買った佐野元春)は佐野元春&THE COYOTE BANDとして彼のデビュー43年目に出された「今、何処」。配信のみで発表された「ENTERTAINMENT!」とのパッケージになっている。その「今、何処(WHERE ARE YOU NOW)」を聴いて思ったのだ。これは今の時代を生きる人が聴くべき音楽だ、と。

懸命に生きている人たちに見えているのは、自分の身の回りで起きること、自分に降りかかってくること、自分に関係すること。そんな気持ちに寄り添う詩、そんな心を励ます歌、そんな音楽が溢れているように感じていた。ありえないと思っていたことが次々に起きて、過去はあてにならない、では何をよすがに生きればいいのかと感じる人々にそうした歌たちは優しく響く。けれども佐野が歌うのはあなたと私の向こう側にいる人たち、そして否応なく絡みついてくる体制や世間への抵抗であり、だからこそ目の前のあなたをそれでも守りたいと歌う。このろくでもない世の中への危機感である。それがとてつもなく親しみやすいサウンドに乗せて届けられる。無駄な曲などひとつもない。

この危機に何をもって向き合えばいいのか。佐野はこのアルバム中3曲で魂という言葉を使った。どう生きるかを考えるのが哲学なら、佐野の音楽は哲学である。それもとびきり親しみやすいやつだ。一人でも多くの人に聴いてもらえたらと思う。
6BC2FA4C-1124-4D2F-8056-1BFBE209B79E

大沼秀顯のこけしを添えたのは、彼が佐野元春と同い年だから、である。

旅の思い出を少しだけ。
久しぶりの5月のコンクールに合わせた東北の旅では、会場で会った人を除いて延べ9人の工人に会いに行き、最後の9人目が岡崎斉一工人だった。
開放的な店構えは滝の湯のほうからから下ってくるとよく見える。絵付体験をしている親子がいて、工人も奥さんも姿が見える。
オーソドックスな菊模様のこけしが棚に並んでいる。いつもきちんと商品を並べていることが素晴らしい。6寸のこけしはとてもバランスが良くて、素直に手が伸びる。けれど表情が一番気に入ったのは5寸のこけし。バランスの良さは6寸に劣るけれども、私の好きな顔なのである。私が気になる表情をしていたせいか、奥さんはそのこけしをすっ、と私の前に並べる。結局その二つが我が家にやって来た。

F6878FB3-CE68-4780-A273-9AB584D2B359

この5寸のこけしの背中側、普段ではちょっと考えられない位置に模様が描かれている。

8F03A7C9-F1AA-45C2-8CBB-514809BA183C

なんでこんなところに模様があるんですかと聞くと、木に節があるんだけど、もったいないからその上に模様を描いたのだと話してくれる。

6B8AE6C7-9839-4927-9F86-B86BC5C8A858

素敵な目隠しだ。なんとも斉一さんらしいなあ、と改めて感じ入った。

それから珍しい本間留五郎型。斉一さんにそっくりだと思いませんか。

82E77E6A-62F7-4103-AEF5-D1CD60CF38E8


仙台秋保工芸の里の鈴木敬工人は、高橋吉の再来かと思わせる描彩と石川の研修所仕込みの木地を扱う確かな技術で素晴らしいこけしを作っている。デビュー当時から注目していて縁があればその都度こけしも求めてきたし、「鈴木敬工人の木地教室」と題した記事の出来事も大切な思い出になっている。その敬工人が2022年の全日本こけしコンクールの実演工人として白石に来ていた。展示品の整理券71番を握りしめつつ、展示品の列ではなく実演工人の列に並んで待ち工人のもとへ。今回敬工人は小さな可愛らしいこけしを中心に持ってきていて、実を言うと今の私の気分には合わず、その場でこけしを選ぶことはなかったのだった。他の工人のところでいくつか選んで、レジに並んでいるところで71番が呼ばれて慌てて受付へ。
実はこのコンクールで整理券をもらって展示品を見るのは初めてなのである。受付で住所、氏名、電話番号など記入すると入場証のようなものを首から下げて、なんと係員が会場をそぞろ歩く私の後をついて歩いてくるのである。ついてくるのは大変じゃないかと声をかけるが、それが仕事ですからと言う。おそらく市の職員だったりするのだろうと推察した。仕事とはいえご苦労なことである。この遅い番号からして、見て回ってこれは、と思うこけしには既に予約済の札がついている。鈴木敬工人もコンクールに出品していて、今回全日本こけしコンクール会長賞を仙台こけし10号で受賞している。当然ながら入賞作品は買えないわけで、展示品を見る。台座のついた六寸ほどのこけしが目に留まった。これいいなあ、しかし予約済であった。他の工人の展示品から2つ選んで購入手続きを済ませ、おもむろに敬工人のところへ向かう。あの展示品、作ってもらえませんか?を言うために。
それから2週間あまり。工人から写真と共にメッセージが届いた。写真には二体のこけし。悩みに悩んで一つ選び送られてくるのを待つ(届いたのは出張で不在中であった。遠くから帰った時に楽しみが待っているというのもまた良いものだ)。頼んでよかった、というのが偽らざる感想である。吉のこけしは色数が少ないこともあるが、全体の印象はふくよかさ、よりはストイックな感じが勝っているような気がしている。もちろん細胴ばかりではなく下がくびれた胴のふくらみを強調した型もあるけれど、それはデフォルメという言葉の方が合っているように思う。
今回の敬工人のこけしは吉の忠実な写しではない。あえていえば吉以来の伝統に忠実に則った「敬の」こけしだろう。材はコサンバラ(アオハダ)。きめの細かい透き通るような手触りの木地に、矛盾を承知で言うと、細いが十分に太い胴と柔らかかつ複雑な曲線で形作られた頭部に軽く心動かされた後、その表情を見る。見れば見るほど吉ではなく敬を感じる。ただし、吉を消し去ったわけではない。吉に続く未来に敬のこけしがいるような、そんな感覚にとらわれる今回の表情ではないか、と思うのだ。そして吉よりずっとふくよかだ。
工人とのメッセージのやりとりにそんな感想を送ると、工人は古い新聞の切り抜きを送ってよこした。そこにはこんなことが書かれていた。そうか、そういうことなのか、と思う。話しているのは敬工人の曾祖父、鈴木清工人である。
「吉と、昔、あったとき『オレ、すばらしいこけし作った』といっていたけど、そのこけしの顔、みると、笑ってるんだけど、さびしいような、渋い表情してるの。私は絵かきだったからよくわかるんだけど、こけしの顔ってのは、自画像、描いてるようなもんなのネ、だんだん自分に似てきちゃう。吉こけしの顔も、貧乏な生活の中での彼の顔なんだね。まねしようとして出来るもんじゃない。気持ちまでうつしとれるもんじゃない」
2FC9F6BC-2001-406B-B34E-3D14E60B7BB9

A5769F6F-8DAD-4CA2-B68C-304BA980C9C8
DD9ACEC0-7AAD-4FB0-B5D5-BCFF588346C8
3844C8DB-0681-49B4-9F2B-36A0B485837B

「ご無沙汰、さきに謝ります。お預かりしているべっけ出来ていません。」
という書き出しで始まるメッセージが届いた。今年は3年ぶりの全日本こけしコンクールが白石で開催される。鎌田さんはホワイトキューブ(コンクール会場)でブースを持っていて、行くといつもブースでお会いして、たいてい奥様の美奈枝さんもいて、そこでひとしきりおしゃべりして帰る、というのが毎年の過ごし方なのだった。さきのメッセージには書き出しに続いて、もう会場にはおらず会期中は自宅にいらっしゃることが書かれていた。もちろん伺います、と返信した。
ただただ渋滞を避けたいだけのために夜中に家を出て、白石には朝7時到着。朝着いたのは初めてである。せっかくだからと初めて行列に並んで、おかげで展示品や実演工人のこけしを迎えることができたりしたが、知り合いの工人とおしゃべりしたりしているうちに昼になってしまい、慌てて会場を後にして、駅前の「なかじま」でうーめんを食べ、「なかじま」で偶然会った知り合いの愛好家と連れ立って鎌田さんの家へ向かった。
メッセージには「お預かりしているべっけ」とあったけど、何を預けていたのか、実ははっきり思い出せなかったのである。ほうぼうの工人に何かと預けているものだから、もうこちらが呆けてわからなくなってしまっている。そんな状態で鎌田こけしやの入り口に立つと、おなじみの暖簾が新しくなっている。扉は開け放たれていて、春というには少し冷たい風に暖簾が揺れている。二人の描くこけしの顔が配されたデザインがいい。
7E9B392E-FB48-47C0-8137-B1D56DAD5B4B
いつもの通り二人が迎えてくれる。家人は美奈枝さんと外で盆栽談義(美奈枝さんは趣味で盆栽をやっている)、私は中へ入って孝志さんとこけし談義である。すると箱から出してくれたのは預けていたぺっけであった。せっかく来るのだからと急遽作って下さったのだ。そうだこれだった。預けていた文市のぺっけの写しが今回紹介するこけし。ずいぶん前に入手したもので色は飛び、汚れも著しいのだが、持っている雰囲気が何とも気に入って、いつも見えるところに置いてあったものである。このぺっけでひとつ気になっていたのはロクロ線で、果たして元は何色だったのだろうか、あまり見たことない色が微かに見える。鎌田さんは普通の紫色で仕上げてくれていた。こうしてみると出来てきたぺっけは忠実な写しというよりは、お二人によるリデザインで新しく生まれ変わったと言った方がいい。そして二人の持ち味がこの小さなぺっけにとてもよく出ていて、また鎌田家のこけしが好きになってしまう。色鮮やかなのに、決して華美でなく、でも明るくて、何より楽しい、そんなこけしだと思う。
5C633FD1-16D1-4786-B1E8-BBD310AF3824
向かって左から、美奈枝、孝志、文市
最近の孝志さんが描くこの表情が好きだ
3F2B3888-9B17-4B47-AFFD-5ADAE4E9A7CC
3つづつ6つ作ってくれたうちの4つまでしかまたしても絞り切れず

我々がうかがっている間にも二人の愛好家が訪れてきて、こけし談義はさらに盛り上がる。皆きっとここに来るのが楽しいのだろうな。私はと言えば、また小さなこけしを持参して、これを託して鎌田さんのところを後にした。次にお邪魔するときには作ってくれているかな、と、楽しみが待っている。また来るね、と猫にも挨拶を忘れずに。
4DECCDDA-8577-4DB5-9D5E-A20C1534599E

久しぶりに佐藤康広工人のこけしを迎えた。人気の工人にもかかわらず、インディゴこけしも持っていない私が言うのも気がひけるが、良いこけしを迎えることができたと思っている。

フォルムは工人の系譜の祖にあたる佐藤松之進のものに他ならない。上部を少し抉るように細くした変化のある輪郭。描かれたのは重ね菊、王道の胴模様である。胴の上下にロクロ線を配してバランスをとる。色は紫。この色は独特の雰囲気を持っていて、全体を引き締める。物を包んで紐でキュッと締め上げるような。
面描はこの工人独特の表情、一目で作者を言い当てることができる目、鼻、口。
手にとってみるとザラついた質感は無研磨。染料は地肌に染み、あるいは弾かれて掠れ、多彩な表情を作っている。何より驚かされるのは、その筆使い。その技法にはあるいは名前がついているのかもしれないが、とにかく単純に筆を置くようなことだけはしないぞ、と決めているかのような描き方。筆の運びは早く、遅く、揺らいだと思えば、停滞し、リズミカルに跳ね、意図的にズラされる。こけしに筆で模様を描く、というときに筆でできるあらゆることを表現したいかのようだ。
そうしたディテールをひとしきり見回した後に、もう一度引いて見ると、これだけ細部までこだわり抜かれていても、全体として破綻を来していないことに感心する。佇まいは遠刈田のこけし、そのものになっている。

このこけしは西荻窪イトチのイベント開催時に出品されたもので、テーマは「過去、現在とこれから」。ここには同時代の伝統こけしのひとつのあり方が示されている。工人のセンスと探究心がそうさせたのではないか、と思う。しかし同時に行われたトークイベントで工人は無研磨のこけしを過去に位置付けていて、その眼はすでにこれから、に向けられているようだった。

ED0ECBE2-10D1-416B-BACF-59E1405AB06B

こけしに劣らず、鳥も好きなのである。もっぱら野鳥を見るのが好きで、たまに鳥を見に出かける程度ではあるけれど。
普通こけしは草花を身にまとっていることが多くて、そのほかに描かれるものはあまりないようだ。花鳥風月というのに鳥もあまり見かけない。梅の枝に鶯をとまらせたり、風雅な鳥を見事に意匠化した例がなくはないが、鳥好きとしてはちょっと寂しい。だから懇意にしていただいている工人のほんの数人に鳥を描いてくれないかなあ、などと呟いてみることはあった。
確かに眦通雄工人にこの話はしたと記憶している。いつか鳥を描いてくれませんかね?それも鳥そのものを描くというより、鳥をうまくデザインしたものにしてもらえないでしょうかね?とこんな感じだったと思う。わがまま極まりないお願いで、可愛いこけしの量産体制だった工人がいつ着手してくれるかもわからず(ずいぶんバックオーダーを抱えている様子だった)、まあそのうちに、という感じで頭の片隅に置いていた。
ある日何の前触れもなく工人からこけしの画像が送られてきた。よく見るとちょっと見慣れぬ模様が描かれていて、おお、やってくれた。鳥だ。それも雀である。4つのこけしが並んでいて全部違う。試行錯誤のあとがこの4体ということなのだろう。それにしても皆面白い。迷わず4つとも送ってもらう。
筆だけで表現する雀、横を向いたもの、正面を向いたもの、赤だけで、赤と茶で、と様々なパターンにトライしてくれている。日頃描きなれている菊を描くときの筆遣いで、雀を表現してくれている。工人はこれをスズメ菊と名付けた。
この4つのこけしは既に工人のインスタグラムに登場していて、スズメ菊はその後もどんどん改良されて進化している。こけしの新しい模様ができていく過程を見られるなんてなかなか無い貴重な体験をさせてもらっていて、これもこけし趣味の面白いところなのかな。でもあまりわがままを言ってはいけないと、これはこれで戒めないといけない。そう、作ってもらう、作る気になってくれるまで気長に待つ、というスタンスで臨まないと。
68803F36-3894-4565-AFF5-25B2CB7F95E1


津軽こけし館で今晃工人と石川美祈子工人の展示“なるかならぬか”が開かれていて、飛んでいきたいところだったが、今は事情が許さず行くことは出来なかった。それが東京に巡回してきた。そんなわけで初めて西荻の「もりのこと」に行った。
入場が4人に制限された店内には幸い他の人はおらず、じっくりと見る。石川さんがいて話し相手をしてくれる。

石川さんに会うのは2回目で、初めて会ったのは修行を始めた頃の今さんの家だった。いつものように座敷に上がらせてもらうと、奥の小屋に見慣れぬ人がいて木取りをしている。それが石川さんだった。あれから6年近くが経ったのだ。

今さんと石川さんは二人挽きのろくろで交互に自分のこけしを挽く。石川さんがろくろを回し今さんが挽いて、今さんがろくろを回し石川さんが挽いて、という風に木を挽いていく。こけしの形は今さんがお題を出す。今日はこんな形のこけしを挽いてみよう、と。それで二人でこけしを挽く。形ができたら描彩をする。机には今さんが選んだ染料やら絵具やらインクが適当に並んでいてそれで描く。なにを描くかの指示はない。それで出来上がったこけしを交換する。石川さんの修行はそんな風に進んだ。
そうして作られ続けたこけしが二つづつ、2015年から2018年までの70組が並んでいる。二人のこけしは決して同じではない。それなのに何の違和感もない。その時々の二人の気持ちが響きあっていたからに違いない、そんな佇まいのこけしにすっかり幸せな気持ちになって会場を後にした。

家に帰って初めて会った日にわけてもらった石川さんと今さんのこけしを並べてみる。このこけしたちもそんな風に作られたのかもしれないな。
A5960DEF-A0E8-4B6A-80B9-9CAA0401EAF1

鳴子の日本こけし館がインスタグラムを始めたのでフォローしている。
いつものように投稿をながめていると、こけしが5体並んで写っている。岡崎斉一工人のこけしだ。

岡崎家は鳴子のこけしの中心であった。岡崎斉、斉司、斉一と続く岡崎家のこけしの図柄は鳴子一般型と呼ばれるほどに広く描かれている。滝の湯に向かって上がっていく坂の左手に店があって、こけし祭りの夜、店の中には大勢の人がいて、とても祭りらしい賑わいを感じさせてくれる。

初めて行った年からずっと続いていたこけし祭り行きも、仕事で2年連続、そして昨年は延期と、3年続けて行くことができていない。祭りの夜は蛍光灯の灯りがひときわ明るいお店に足を運んだことはもちろんあるのだが、現在の当主である斉一工人のこけしに実はそれほど馴染みがなかった。それでも我が家には六寸のこけしとねまりこがあって、ややぽってりとした筆遣いの表情、きちんと描かれた胴模様はとても丁寧な仕事だ。でも私には少しばかり可愛らしさが勝っているように思えたのだった。
6E34BEDD-FDCA-4E10-ABEE-CCE88B96EA5D
これは2016年9月のこけし祭りの思い出を語る夕べで当たった斉一工人のこけし。

インスタグラムの画像に写るこけしにはっとさせられた。私の知っている斉一工人のこけしとは一目見て違う。その違いは表情、面描にあった。これまでに比べてやや細い線で描かれる目と眉、俯きがちだった表情はやや目線を上げて、しっかりと正面を見据えている。けれどその表情は決して厳しいとか、毅然とした、という風ではなく、感じるのは、穏やかさと揺るぎの無さである。そうしてこれが初めて購入した岡崎斉一工人のこけしということになった。
BF2F76E7-1A4E-41CC-8917-2050C8AFCF9B
六寸と四寸。特にこの六寸の表情は鳴子こけしの白眉と言っていいとさえ感じる。斉一工人の人柄を知っているから、工人がこのこけしを作ったことがうれしい。
工人の人柄を知るのに、この文章を引用しておこう。日本こけし館のインスタグラムから。
「岡崎斉一工人は真心を込めて一本一本丁寧にこけしを作っております。まず一本買ってみてください。とおっしゃっていました 😊
人柄も良くみんなから親しまれています。
特に夫婦なかが良くいつも一緒💕
そういう人柄がこけしに出ているみたいです😃 」
この文章の感じが、斉一工人を表すのにぴったりなのである。

こけしを求めるために日本こけし館の担当の方とやりとりをしていたら、実は明日から5月31日まで閉館なんです、と言う。東京は緊急事態宣言がみたび出され、ゴールデンウィークの人出は見込めない。鳴子を想い、東北のこけし産地を想う。今の私にできることと言えば、こけしを買うことぐらいしか無い。


手の倫理」伊藤亜紗著 講談社選書メチエ
を読む。
手の倫理。何かに触れることがこれほど困難な時代はないと思うが、そんなときに手についてなにごとかを述べようとするこの本に興味を持った。

全体を通して、穏やかで(静かな、というほうがよりふさわしい)丁寧な語り口で進められるが、その内容はそれとはうらはらにとても刺激的だ。
ー触覚を担うのは手だけではありませんが、人間関係という意味で主要な役割を果たすのはやはり手です。さまざまな場面における手の働きに注目しながら、そこにある触覚ならではの関わりのかたちを明らかにすること。これが本書のテーマです。ー
と書かれたこの本にはずいぶん付箋がつくことになった。読み進めるにつれ、「思い当たる節」が次々と出てくるからだ。

多様性という言葉への違和感(第1章 倫理)
ー言葉に寄りかからず、具体的な状況の中で考える。私が強くそう念じる背景にあるのは、実際に、気になって警戒している言葉があるからです。
それは「多様性」という言葉です。ー
確かに多様性の時代、ダイバーシティの時代と言われ、実際にその言葉を何度も発したことがある。けれど、それはいつも無条件というわけではなく、どこかになにかを留保しているような、そんな感覚があった。それが何なのか、伊藤は現実の日本で進む分断に触れてからこう書いている。
ーもしかすると、「多様性」という言葉は、こうして分断を肯定する言葉になっているのかもしれない。そのときそう思いました。多様性を象徴する言葉としてよく引き合いに出される「みんなちがって、みんないい」という金子みすゞの詩は、一歩間違えば、「みんなやり方が違うのだから、それぞれ領分を守って、お互いに干渉しないようにしよう」というメッセージになりかねません。ー
と言い、多様性は不干渉と表裏一体になっていることを看破する。そしてこう言う。
ーつまり、多様性という言葉に安住することは、それ自体はまったく倫理的なふるまいではない。そうではなく、いかにして異なる考え方をつなぎ、違うものを同じ社会の構成員として組織していくか、そこに倫理があると思うのです。ー
この本はいわゆるビジネス本ではない。もっと広汎な、触覚を通じた人間関係を考察するものであることは承知の上で、容易に思い浮かぶのは職場における様々な状況であった。

安心と信頼は違う(第3章 信頼)
伊藤は「安心」と「信頼」の違いを、社会心理学が専門である山岸俊男の「針千本マシン」という架空の機械を引き合いに出して説明する。針千本マシンとは、喉に埋め込むタイプの機械で、その人が嘘ついたり、約束を破ったりすると、自動的に千本の針が喉に送り込まれる、という仕組みの機械である。
ー重要なのは、このマシンがあることによって、まわりの人が、この人間は嘘をつかないはずだという確信を持つことです。ー
より厳しいルールを導入して、統制を強化する。ルールを破ることの代償が大きいがゆえに、ルールは守られるはずだ。企業活動の中で当たり前に見る風景である。伊藤はこう続ける。
ー果たしてこれは「信頼」でしょうか。それとも「安心」でしょうか。山岸は、ここには「安心」はあるが、「信頼」はないと言います。ー
嘘をつくと不利益をこうむる、だから嘘をつかないという想定ができるから「安心」であり、他方で、「信頼」が生まれるのは「社会的不確実性」があるからだ、という山岸の整理を続けて紹介して、簡潔にこう述べる。
ー要するに、「安心」とは。「相手のせいで自分がひどい目にあう」可能性を意識しないこと、信頼は「相手のせいで自分がひどい目にあう」可能性を自覚したうえでひどい目にあわない方に賭ける、ということですー
安心できずにハラハラさせられる、そんな風にはなりたくないから、ルールを守れ、それは規定通りなのか、などという言葉が飛び交う職場。そうか、肝心なのは安心と信頼のバランスなのか、と思う私は、伊藤がこう続けるのでまた考えさせられた。
ーポイントは、信頼に含まれる「にもかかわらず」という逆説でしょう。社会的不確実性がある「にもかかわらず」信じる。この逆説を埋めるのが信頼なのです。(中略)信頼はものごとを合理化するのです。信頼は複雑なプロセスを短縮し、コストを削減する効果を持っています。ー
ー(前略)現実には社会的不確実性をゼロにするのは不可能です。つまり100パーセントの安心はありえない。どこまでもシステムを複雑化してしまう無限後退に終止符を打ってくれるのが「信頼」なのです。ー

「さわる」は伝達、「ふれる」は生成(第4章 コミュニケーション)
ー自分は正解を知っていると思っている人ほど、つまりトレイナーとしての自信がある人ほど、もしかすると伝達モードに落ち入りやすいのかもしれません。倫理には、道徳と違って、いつでもどこでも通用する「一般」はありません。この意味で、倫理は常に生成的です。「こうあるべきだ」という一般則としての道徳の価値を知りつつも、具体的な状況というライブ感のなかで行動指針を生み出し続けること。(後略)ー
これは戒めの言葉なのではないかと思い、引用する。
でも、これは「手の倫理」の話なのではないか、よもや職場で相手に触れることなどできはしないなどと愚考を巡らせるが、伊藤はここでこんな引用をする。
ー哲学者の鷲田清一は、人の声を聞くことが持つ触覚的な側面について論じながら、「ふれる」のなかに、実は「さわる」が含まれることを指摘しています。(中略)
 その変調、そのきめの微かな変化に、「ふれる」こととしての「さわる」もあるのである。そして、自ー他の溶解としての「ふれあい」よりもむしろ、このような異質さそのものに「ふれる」こととしての「さわる」こと、つまり距離を置いたままの接触のなかにこそ、より深い自ー他の交感が訪れることがあるのである。ー
人の声を聞くことが持つ触覚的な側面、という言葉は刺激的だ。人が集まることが難しい現状では、人の声の代わりに文字情報が使われることが、一段と増えているように思う。人の声の力を文字に代替させることの危うさを思う。

あそびから生まれる共鳴(第5章 共鳴)
この章はこの本のある種のクライマックスと言っていい。「物理的ー生成的なコミュニケーション」の例として、視覚障害者の伴走をとりあげる。ランナーと伴走者はロープを手につながって長い時間、同じ動作を共有する。筆者はアイマスクをつけて伴走者と走る体験をする。とてつもない恐怖と不安で最初は足がすくむ。伴走者は大ベテランにもかかわらず。見えないはずの足元の段差、目の前の木の枝が見える。しかし走り出して数分のうちにその恐怖から離れる。それを「信頼」が生まれた瞬間だという。この第5章は示唆に富んだエピソードに満ちているが、ひとつだけ触れておきたい。
あるベテランランナー(ブラインドの)の言葉が紹介されている。
ー「ロープを持って二人で走っていると、『共鳴』するような感じがあるのですが、お互いの調子があがってくると、はずむようなリズム感が伝わってきて、楽しいこころが躍る感じがします」。ー
なんという幸せな瞬間かと思う。伊藤はふたつの体を揺れる二つの振り子に例え、伴走におけるロープがふたつの体の振動を結びつけると書き、こう続ける。
ー振り子にしろ、体にしろ、共鳴のポイントは「自ずと動く」ところでしょう。押していないのに、あるいは自分が走ろうとする以上に、相手の振動を得て動きが増幅していく、自ずと動くのだから、体は軽く感じるはずです。ー
そしてあらためてロープの力を実感するのである。二人のランナーがじかに手をつないで走るとしたら、目の見える伴走者がぐいぐい引っ張ってしまうのではないか、それは一方的な「伝達」のコミュニケーションであって、そこに「共鳴」はないと言う。
ーでもロープなら、「あそび」ができる。がちがちに固定されていないつながり方だからこそ、多少動きがずれたとしても、ロープがそのずれを吸収してくれます。走っている側も、ずれたことを感じ取って調整する余裕ができます。柔らかいロープだからこそ、バッファとしての機能を持つことができるのです。ー
あそび、バッファがあるからこそ、「生成的」なコミュニケーションができる。組織で働くということは他者との関係の生成の連続に他ならない。「伝達」から「生成」そして「共鳴」へとコミュニケーションの質を変えていけるのか?人間関係について考えるのに多くの気づきをもたらしてくれる。本書「手の倫理」にはそんな効用がある。

もうすぐ今年度が終わって、新しい年度に変わる。年度初めが春というのは良いことだと思う。上へ上へと伸びていく草花の生命力を感じながら、そして「手の倫理」での気づきを大切にしながら、新たな年度を迎えたい。そんな気持ちに寄り添ってくれそうな、木の実さんのこけし。
A3D7DD18-FDD5-4F15-8B38-5A7F00779C80







このページのトップヘ