2017年04月26日

新幹線で北へ向かう。
車両は途中の駅で切り離されて、
在来線区間を行く。
列車は速度を落として山へ入っていく。

遠くの山並みはまだたくさんの雪を抱いている。
ずっと手前の低い山には、葉をすっかり落とした広葉樹が生えていて、地面にまだらに雪が残っている。落ち込んだ谷間に渓流が見える。こんなに遠くからでも川底の石がはっきり見えるほどの清らかな流れがときに激しく、ときにたおやかに流れている。山には人の手が入っている。切り倒された木々が横たわり、たくさんの切り株が白い肌を露出している。長閑な山みちがうねうねと連なって、その先に大きな青いトタン屋根の家が建っている。家は広く平らに開けた土地の端に建っていて、その他に小さな小屋がある以外はただ平らな土地があるだけだ。ここまで来ると道は真っ直ぐ平らな土地に沿うように続いている。その道の途中にカーブミラーが立っている。誰もいない直線の端から端まで映るミラーを誰が見るのだろう。線路脇にお墓がひとつ。道路はいつしか線路にぶつかって踏切がひとつ。あの家のためだけの踏切。
目の前の木々にもう一度目をやると、枝にはしっかりと芽がついているが、まだぐっと身を固くしてエネルギーを溜め込んでいる。これから春がやって来るなんて、素敵じゃないか。

こけしは佐藤康広工人の大頭。華やかな春の到来。
P7182595
P7182593


mu1300 at 00:09コメント(0)トラックバック(0)こけし 

2017年03月18日

昼まで本を読む週末。
適当なBGMを探しあぐねて無音で読み始めるとジョージ・セルがピアノを弾くモーツァルトのヴァイオリンソナタ(ヴァイオリンはラファエル・ドルイアン クリーブランド管弦楽団のコンサートマスターだった)のレコードを聴くシーンが出てきて、家にあるそのCDをかけて(そう、CDがあるんだ)読み続ける。その演奏が終わると同じボックスセットに入っているピアノコンチェルトを選んでかける。録音は1959年。ピアノはレオン・フライシャー、セルは指揮棒を手にしている。第25番ハ長調K.503をセルとクリーブランドの揺るぎないサポートを得て、フライシャーは端正だけれど柔らかく、独特な弱音で奏でる。第一楽章のフーガ、やや速めのテンポで弾かれる最終楽章、今読んでいる文章の行間に浮かんでは消え、消えては浮かぶ、すっ、と思索の合間に滑り込んでくる、こんな感触はそうはない、というか初めてのことだ。

そんなときふと本の頁から目を離し、見上げた先に置かれていたこけし達。
良輔2+八重子1

斎藤良輔、八重子夫婦のこけしと良輔の達磨。
達磨の底には、「38.1.7」の書き込みがある。

こけし達は、すっ、と心の襞に寄り添ってくる。
本と音楽とこけし。

騎士団長殺し 第1部 顕れるイデア編を426ページまで読み進む。

mu1300 at 07:59コメント(0)トラックバック(0)雑記こけし 

2017年03月09日

三月になった。
風はまだ冷たい。けれどついこのあいだまで吹いていた風とは違う。その感触はいくぶんではあるけれど柔らかくなって、優しく撫でるようにまとわりつく。まだ冬が去ったわけではないから油断はできないけれど、刺すような厳しい空気は段々と懐かしさを帯びた存在になりつつある。
帰宅してそんな風の柔らかさについて話すと、家人からは留保なしの同意。不思議な気分だ。留保なしの同意。感覚がシンクロするというのはこういうことか。

冬の光の話。
インスタグラムで、とある女優と、とある古本屋をフォローしている。ある日の画像はとても似ていた。木目模様の上(それはおそらくテーブルだと思われる)に置かれたものたちを、真上から撮影した画像。ひとつは今日の献立であり、ひとつは一冊の本。私はこの構成が好きである。

冬の日差しは弱いけれど、深い。ふだんは暗い部屋の奥まで、差し込んでくる。二つの画像は、映されたものを光が邪魔している。どちらの写真もそんな光がありのままに捉えられている。修正なし。この二人の間にはなんの繋がりもないけれど、遠く離れた二人の感覚は確実に同期している。その共鳴がただの傍観者であるはずの私にも届いている。

このこけしが何故気になるのか、ながめてみようと思うのか、ということが気になる。
今日のこのこけしはどうして手元に来たのだろうか。偶然なのか必然なのか。こけしとシンクロしたのか、あるいは工人への共感か。
出来栄えは言うまでもなく素晴らしい。

高橋武俊工人の八寸。花はエゾキスゲ。
P2114376
P2114374


mu1300 at 19:35コメント(0)トラックバック(0)こけし雑記 

2017年01月01日

一年を振り返っておかなければな、と思っているうちに、あれよあれよという間に新しい年になってしまった。
色々なところに旅に出かけ、限界集落を訪れたり、釣った鰻の蒲焼をご馳走になったり、猿やカモシカやヤマガラやコゲラに出会ったり、澄んだ空気を胸いっぱい吸い込んだり、たなびく雲を従えた霊峰を拝んだり、朝のひんやりとした空気の中で念仏を聴いたり、今年もそんな風に過ごせるだろうか。
こけしに関わる出来事も数々あったけれど、印象に残っているものの一つが、仙台カメイ美術館で開催された「珠玉のコレクションを蒐めて」だった。立ち並ぶこけし達は言うまでもなく名品揃いであり、さらに出品者の個性まで楽しめる興味深い展示だったと思う。そういえば、その日偶然トークショーに来られていたとある工人に出会っていなければ、音楽の街と化した鳴子を訪れることもなかったし、工人の仕事場を見せてもらったり、あんなに長く話し込むこともなかった。これもまたプライベートな旅の大切な記憶となる。
一年の最後のイベントはいつも横浜人形の家だ。ここ数年、この工人がまた新しい挑戦をしてくれているのでは、という密かな期待を抱いて行くのが楽しみになっている。それはずらりと並んだこけしに紛れて、ただ佇んでいた。聞けばやはりあのカメイの展示にあった大沼竹雄の型だった。写しと原については様々な見方があるけれど、そんなことを軽々と超えてみせてくれたと思う。

1231-m2

1231-m1

大沼秀顕工人の竹雄型。
こんな素敵な巡り会いが、またありますように。
今年もよろしくお願いします。

mu1300 at 11:18コメント(0)トラックバック(0)こけし雑記 

2016年11月17日

あのときから鳴子に行くと必ず立ち寄っていたのだ。
高亀に。
いや、これは正確ではないな。
高亀の店頭を外からのぞき込んでいた、
のだ。
こけしのことでそれほどに思いが高まったことは、そんなには無かった。

鳴子のこけし祭り、第60回の記念の年、高橋武俊工人はそれまで描くことのなかった、遊佐雄四郎の胴模様を描いて受賞した。
祭りの2日目、高亀の店頭にはその模様が並んでいた。
でももうこけしを買い過ぎていた私は購入を見送った。
これがあのとき。

今年の祭りでもひょっとしたら、という気持ちでコンクール出品作のほうへ向かう。
あった。この模様がついに来てくれた。

P9112910
P9112909

黄胴、肩にビリカンナ。ロクロ線はややピンクがかった色が使われている。
攻めている。

10月はじめ、カメイ美術館を訪れた足で、鳴子を訪れた。
思いがけず、鳴子は音楽の街と化していた。温泉と音楽祭。
声を枯らしてアース・ウィンド・アンド・ファイアの素晴らしいカバーを楽しんだ。
ライブ会場は高亀の目の前で、店頭に並んでいるこけしの様子が否が応でも目に入る。
翌日私は高亀の店内にいた。
そしてこの素晴らしいこけしがいま手元にある。

PA233183
PA233182

雄四郎の描く胴模様は独特な菊の模様だが、わたしには猛禽類が大きく翼を広げた時の姿がみえる。そしてフクロウの姿を思う。
そうして、このこけしから力をもらうのだ。

PA233184




mu1300 at 15:22コメント(0)トラックバック(0)こけし 

2016年11月05日

今年の鳴子の招待工人はちょっと気になる人ばかりだった。
どんな人が人選しているのだろうか。

その中の一人、西山敏彦工人のことは愛好家なら皆知っている。
次々と繰り出されるアイデア溢れるえじこ、果てはオブジェまで
作ってしまう人気の工人である。
今年の祭り、私は真っ先にコンクール出品作のほうへ向かい、
招待工人達に群がる人の波が一巡したころ敏彦工人のブースに顔を出した。
案の定というべきか、もうほとんど品物がない。
どこか申し訳なさそうに座っている工人。
そんな中に奇跡的に残っていた一本のこけし。

頭部はカヤ材。敏彦工人が最近好んで使う材であり、
他の工人達の作るものにも多く見かけるように感じる。
素晴らしく芳しく香るこの材に工人達を惹きつける何かがあるのだろうか。
滑らかに仕上げられた頭部の感触はすべすべとしていて、触りたくなる。
触った手に香りが移る。
家に帰って包みを開けたとき、カヤの匂いがいっとき辺りを支配した記憶がかならず蘇る。
P9112908

ざっくりとした胴に赤い線がじっとりと染みている。粗い仕上げは一様ではなく、返しロクロの紫はすうっ、と引かれている。作為なのか偶然なのか。
そして勝次型の渋い面描がこのこけしのキャラクターを決定的にしている。
P9112905

天候不順の今年は野菜も果物も不作である。幸い鳴子は例外であった。
こうして豊かな実りを味わっている間にも、秋は足早に冬へと歩を早めているようだ。






mu1300 at 08:24コメント(0)トラックバック(0)こけし 

2016年10月23日

最近若い愛好家の一部で「伝統性」や「写しと原」、「愛好家の集いの在り方」など
が話題や議論になっているのをネット上で目にした。
とても好ましく思うのは、声高に主張するというよりも、
オープンに議論しようという姿勢が伝わってくること。
議論は深まり、話題は拡がっているのかしら、ということが気になる。

愛読しているブログに阿呆こけし洞がある。
若き酒田こけし研究の第一人者が最近、新山実を取り上げていた。
ここで紹介されているのは東京こけし友の会で頒布された新山栄五郎の写し。
その胴模様は原の持ち主でこの写しを依頼したS氏の意向により、当初のものから変更されたことが伝えられている。
この経緯はS氏から聞いており、変更前のものがたまたま手元にある。

鳴子の祭りは気合を入れていくくせに、白石のコンクールはいつものんびり昼頃に行く。
人気の工人の前にはもうほとんど品物がなく、販売のテントにいる鎌田さんとひとしきりお話しして、味噌を買ったりして帰るのがいつもの過ごし方。
それでもだいぶ長居してそろそろ帰ろうかというときに家人が声を上げて駆け寄った、
その先にあったのが新山実工人の手になる栄五郎写し。
このこけしについて話す実工人はどこか自信に満ちていたように感じたのだった。
その口調から自身の仕事への手応えが伝わってくる。
その後、模様は変えられた。

PA233171

原の胴模様はほとんど見えない。
工人は観察眼とイマジネーションに従って返し轆轤の模様を描いた。
私はこのこけしが好きだ。
伝統性ってなんだろう。
原と写しってなんだろう。


mu1300 at 18:52コメント(2)トラックバック(0)こけし雑記 

2016年09月30日

いつもの年と同じように、木の実さんに会いに行く。
いつもの年と違うのは、木の実さんがひとりでいたこと。
今年もまた、以前お願いしていたものを受け取るのを楽しみにして行く。
そしてまた、お願いしていたものが幾つかあって、選ぶ楽しみが待っている。

P8062668-001

今年は2年に一度の個展の年。
いつも変わらず、素敵なこけしやえじこを届けてくれる木の実さんにも、変化はやってくる。
環境が変わる。くらしが変わる。気持ちが変わる。考えが変わる。
川連のギャラリー木もれ陽の暖簾のかかった入口の脇にガラス扉の木製のキャビネットがあって、
ここには木の実さんの現在(いま)がはいっている。

木の実さんの関心は、小椋泰一郎に向けられているようだった。
その中身はこの秋の個展で明らかになったのだが、訪れたのは8月初め。
私が目に止めたのはこのこけしだった。

P8102832
P8102833

このこけしはしばらく前に作ったものだという。
見事な出来栄えのこの泰一郎型がひとつの到達点となり、
そして新たな出発点となって、この秋の東京での個展に繋がって行ったのだ、
と今になって思う。
変わらぬ伝統に拠って立ちながら、新しい仕事への変化を求めてやまない、
一工人の変化の過程で生まれた、これもひとつの成果、である。


mu1300 at 00:05コメント(0)トラックバック(0)こけし 

2016年09月28日

昨日の夜、金木犀の香りがどこからともなく仄かに香ったように感じたのだった。
そして今朝、辺り一面が金木犀の香りに満たされていた。
季節は移ろうもの。けれど変化は唐突にやってくる。

秋は深まりつつあるけれど、今年の秋に限っては、あの日から秋が始まったのだった。
それは遠刈田のろくろ祭りに行った翌日のこと。日曜日の朝、肌に触れた風のせいか、
「今日から秋だ」と確かに感じたのだ。

秋が深まりつつあるいまのうちに夏の記憶を辿っておく。思い出すままに。

龍平の店を訪れたのは初めてのことだった。いつも気にはかけていたのだが、通りかかるときに開いていることがなかった。
先客が一人いる。店の中はこけしであふれている。店主が座る畳敷きの小上がりの奥に棚がある。店内をひと回りして、棚を見ると、もう目が離せなくなった。
惹きつけるものは何だろう。最初に目を引いたのが描彩でないことは確かだ。恐らく最初に認識したのはその輪郭で、佇まいとしか言いようのないものだ。
保存が良いとは言えない、汚れたこのこけしの良さは、古品だから感じるのだろうか?このこけしが作られた当時には感じ取れなかった類の感触なのだろうか?
伏し目がちで、控えめで、しっとりとしていて、どこか高潔なこの感じはたぶん当時と変わらない、と思う。

P9112934
P9112933

高橋武蔵 六寸ほど

この夏の一枚から


mu1300 at 00:20コメント(4)トラックバック(0)こけし 

2016年08月22日

八月、夏真っ盛りだが、時計の針を初春に戻してみる。

八海山の麓にあるトミオカホワイト美術館はお気に入りの場所だ。行くならとりわけ冬がいい。雪の静謐に佇む美術館の中はとりわけ密やかな雰囲気だが、高い天井を持つ広い空間は、適度な明るさと開放感を持ち、観る者は緊張を強いられることはない。静かに、けれども集中力を持ってトミオカホワイトの世界を辿る。今年訪れたのは四月。山に雪は殆ど残っていない。ここ数年新潟は雪が少ないと聞いていた。あの白づくめの景色を思った。
富岡惣一郎は上越高田の人。雪の白に魅せられた画家は“トミオカホワイト”と呼ばれる独自の白絵具を編み出し、独特の手法で白の世界を現出させる。山の姿は雪に覆われていたほうがいい、というのは阿部木の実さんと家人の会話だが、富岡の表現は、単に自然をカンバスに置き換えただけではない凄みを持つ。

キナキナの原初のかたちは幼子のおしゃぶりであり、描彩なしのきわめて素朴なひとがたである。頭部にその顔の表情なく、華麗な胴模様も一切描かれない。その意味で他のこけしとは一線を画すものであり、これまでそのこけしを楽しむということが出来ないでいた。にもかかわらず、富岡惣一郎の作品から得た印象からの連想は自然に南部こけし、キナキナへと繋がった。キナキナと言えば花巻の煤孫盛造工人であり、その煤孫工人が5月の白石に来られる折にこけしを注文したのだった。まだ会ったことのない工人に、最初からこけしを注文するつもりで会いに行ったのは初めてだ。それだけトミオカホワイトの印象が強かったのか、と今になって思う。

P7102566

P7102565

材はアオハダ。抜けるような白をこの画像はじゅうぶんに写し撮れていない。きっちりと寸法を測って作られる煤孫工人のキナキナはきっぱりと清廉で、その形は鑑賞されることを自ら望んでいるようだ。そのまま凝視していると、ひたすらに白い木肌に薄っすらと美しい木目が浮き出るように見えてきた。
キナキナの見方が少しだけわかったような気がした。

mu1300 at 23:00コメント(0)トラックバック(0)こけし 
QRコード
QRコード
最新コメント
アクセスカウンター
  • 累計:

  • ライブドアブログ