IMG_2691

平川忠亮選手、現役引退のお知らせ


  11/26に公式から平川忠亮の現役引退が発表されました。チーム最年長の平川は浦和の最年長出場記録保持者でもあり、2006年のリーグ優勝を経験した最後の1人でもありました。
  今回はそんな平川の浦和での軌跡を振り返りながら、何故平川が浦和で走り続けられたのかを考察していきたいと思います。では早速。

IMG_2692

  2002年に筑波大学を卒業し浦和に加入した平川。右サイドを主戦場とする平川が浦和に入団するという事は、当時日本代表にも選出されていた山田暢久とのポジション争いを意味していました。その為加入当初は出場機会に恵まれませんでしたが、1stステージ9節の札幌戦でデビューを飾ると、本職の右サイドではなく手薄だった左サイドで起用されるようになります。プロになるまで左サイドでのプレー経験がほぼ皆無だった平川にとって、苦労が絶えない日々だったと思いますが、結局ルーキーイヤーとなった同年は30試合中22試合に出場。翌年も左サイドでレギュラーポジションを掴むと、クラブ史上初タイトルとなるナビスコカップ優勝に貢献し、自身も12節東京V戦でJリーグ初ゴールを記録するなど順調な日々を送りました。
  2004年には左サイドを補強ポイントとしていた浦和が、日本代表の三都主アレサンドロを獲得。平川はスタメン落ちの予想をされていましたが、蓋を開けてみれば1stステージでは全試合出場(15試合)を記録。2ndステージは負傷で出遅れるも、ステージ優勝を果たした名古屋戦やチャンピオンシップ2試合で出場するなど、スタメン・サブに関わらず欠かせない選手としての地位を確立しました。

IMG_2690

  2006年は前年の負傷でサブ落ちの憂き目に遭いましたが、中盤戦からは暢久から右WBのポジションを奪い取ると、その暢久が好調となりスタメンに返り咲いても引き続きレギュラーポジションを離さなかった平川は、リーグ優勝を果たしたG大阪戦や連覇を果たした天皇杯決勝でも先発出場。結局ギド・ブッフバルト監督が率いた3年間で、負傷期間を除くほとんどの試合に出場。両WBでの出場で浦和の黄金期を支えました。
  ホルガー・オジェック氏に監督のバトンが渡された2007年は、またも負傷で開幕から出遅れてしまいました。しかしオーストリアに移籍した三都主の穴が埋まらず監督が苦心する中、ケガから復帰するとすぐさま左WBのレギュラーを掴むと、当時の日本代表監督を務めていたイビツァ・オシム氏が高く評価する程の目覚ましい活躍を見せ、日本勢初のACL制覇に大きく貢献しました。

IMG_2693

  ルーキーイヤーから出場試合数を重ね続けた平川でしたが、2009年頃からは高橋峻希や宇賀神友弥ら、多くの若いサイドプレイヤーとのポジション争いを展開。そんな中で試合出場自体は重ねたものの、2012年にミハイロ・ペトロビッチ監督が就任するとその複雑な戦術から、全盛期に比べ明らかにスピードが落ちた平川のサブ落ちは、避けられないという声も少なくありませんでした。しかしここから平川の第二の全盛期が訪れました。
  開幕からスタメンで出場すると、結局ミシャ監督初年度は08年以来となる30試合を超える試合出場(31試合)を果たし、右サイドからチームのリーグ3位に貢献。その後2014年まで右WBのレギュラーとして不動の地位を築くと、2017年の磐田戦で1997年にブッフバルトが樹立して以来20年間破られなかった、浦和の歴代最年長出場記録を更新。
  そしてプロ17年目となった今季、39歳4ヶ月15日とチーム最年長出場記録をさらに更新したもののリーグ戦出場は僅か2試合に留まり、今季限りでの現役引退を決意しました。

IMG_2732

  浦和の黄金期をサイドから支えた平川の武器は、かつて犬より速いと言われた野人・岡野雅行をして「ヒラの速さは尋常じゃない」と言わせるスピードです。決してドリブルが得意な選手ではありませんでしたが、そのスピードは攻守に渡り浦和に欠かせない重要な武器となりました。
  しかし平川が多くの監督に重宝された最大の要因は、スピードではなく頭の良さ=クレバーな選手だからだと私は思います。平川が2002年に浦和に入団してから実に10人もの監督がこのチームの指揮を執りましたが、ほとんどの監督が平川を必ず起用してきました。平川は戦術理解に優れ、それぞれの監督が自分やサイドのポジションに何を求めているかをきちんと把握し、それを実践する事が出来るのです。一見簡単なように思えますが、これが出来ずに能力がありながら試合に出れない選手は数多く存在します。
  例えば2004年は先述の通り左サイドに三都主を補強。そのポジションを務めていた平川はスタメンから外れる予想を開幕前にされていましたが、1stステージでは全15試合に出場(フィールドプレイヤーでは平川と長谷部誠のみ)しました。しかもポジションは左右のWBに留まらず、SBやなんとCBをこなす事もありました。これは当時のブッフバルト監督が、平川であれば与えたポジションで求める仕事を、確実にこなせると信頼した結果と言えるでしょう。
  また2011年は、前年に宇賀神と峻希が台頭した結果開幕当初こそサブの時間が増えましたが、中盤戦に入ると宇賀神から左SBのスタメンを奪取。これは同じ左サイドで攻撃の核となっていた原口元気をフォロー出来る選手として、ゼリコ監督に評価されたから。実際この年の平川はほとんど攻撃に参加する事はなく、ひたすら原口のサポート役に徹していました。

IMG_2733

  そんな平川のクレバーさが際立ったのが、ミシャ監督が浦和を率いていた時期でした。2012年時点で33歳だった平川は、自慢のスピードに陰りが見え始めスタメン落ちを危惧されていましたが、この難解なサッカーにすぐ順応しレギュラーポジションを確保。この時光ったのが的確なポジショニングでした。
  WBというポジションは、サッカーの中でも1,2を争う程に消耗が激しい場所。さらに攻守両方で1vs1になる機会が多く、サイドの選手1人が怠慢なプレーをしたり、ポジショニングを誤ると全体のプランそのものが崩れかねません。そんな中で平川は、常にいて欲しいポジションに自分を置き、的確なプレー判断でミシャサッカーの右サイドを支えました。
  このポジショニングが出来る要因は、実は上手くサボっている点なのです。30歳を超える選手が、90分間サイドを上下動し続けるのは極めて困難。ですが平川は、自分の位置と全く関係ない所で展開されていると、明らかにスイッチが切れているような雰囲気を出しているのです。もちろん完全にサボっている訳ではなく然るべき位置に微調整はしているのですが、試合中のONOFFをここまで使い分けられている選手は、個人的には見た事がありません。こんな頭の良さもまた平川の大きな武器と言えると思います。

IMG_2730

  1979年生まれの平川ですが、同い年の選手には小野伸二、高原直泰、稲本潤一、中田浩二など錚々たるメンバーが揃っており、彼らは所謂ゴールデンエイジと呼ばれワールドユース(現U-20W杯)で準優勝の快挙を成し遂げました。しかし平川は高校年代まで代表招集歴が全くなく、同年代で世代別代表に選ばれていた選手に比べて地味な印象は拭えませんでした。そもそもスピードがあると言っても、それ程派手なプレーをする訳ではなかった平川ですが、そんな選手がビッグクラブ(とたまに言われる)に17年間在籍し続け、その期間の大半をレギュラーメンバーとして過ごしてきた事こそが、平川忠亮という選手の凄さを証明しているのではないかと思いますし、ブッフバルトでも暢久でも鈴木啓太でもなく、平川が浦和の最年長出場記録を保持しているという事に、とても大きな意味があると私はそう感じています。
  ほとんどの監督が重宝し多くの選手が尊敬の意を示し、そしてたくさんのファン・サポーターに愛される平川の引退は、正直申し上げて大変ショッキングな事ではあります。彼の引退により、現在浦和に在籍する選手全員が06年のリーグ優勝を知らない事になるのも、寂しさを増長させる要因の一つかも知れません。
  しかし平川は引退会見で、「未来」や「次のステップ」といった先を見据えたコメントを多く残していました。もしかしたら平川にとっての引退とは、サッカー選手を辞めるというより、次の道へ踏み出す最初の一歩を意味しているのかも知れません。
  2010年代に入り多くのレジェンドと呼ばれる選手が浦和を去りました。そんな選手達を、優勝という花道で送れる可能性が幾度もありましたが、暢久も坪井慶介も啓太もその花道を歩む事なく浦和から去ってしまいました。だからこそ、平川が踏み出す新たな第一歩を、花道にしたいという想いを一層強く抱いています。唯一浦和が獲得した全てのタイトルを知る男平川の最期を優勝で締め、その花道で彼を送り出してあげたい。その為にも最終節を含む残り3試合は、絶対に勝たなければなりません。

平川忠亮が進む新たな道に幸あらんことを

IMG_2734