ギャラリー
  • サムライ言葉 63 「うっそりと」
  • 江戸歳時記 22 「江戸紫」
  • 江戸歳時記 22 「江戸紫」
  • サムライ言葉 62 「懐手」
  • 江戸歳時記 21 「夏の商い」
  • 江戸歳時記 21 「夏の商い」
livedoor 天気
livedoor プロフィール

2011年01月03日

大奥の謎 1 「大奥のはじまり1〜大奥とは〜」

 大奥は徳川将軍家の居城だった江戸城にあって、二百数十年間、大奥はいつも同じ景色をしていたわけではありません。
017_s[1]







 大奥といえば、あまたの美女が妍を競い、将軍の種を宿そうと必死になり、正室と側室が対立し、愛憎をむき出しにして抗争に明け暮れる女の園との印象が一般的です。
 その印象は決して間違ってはいません。
 何故なら、家康の血筋が途絶えた場合を想定した御三家の創設が1つ。もう1つは、3代将軍家光の乳母 春日局は、男色を好み子供のいない家光を心配して、家光の子であれば母は誰でもよいという「腹は借もの」との考えから、一人の将軍をめぐって多くの女たちが子供を競って産む機構を作り上げたからです。
 一方、大奥は様々なお家騒動の渦中において、将軍家と密接に繋がっていたので、徳川家の運命を左右する重要な役割を演じたのも事実です。
 このコラムでは、大奥の宿命ともいえる女たちの権力闘争を含め、数多くの大奥の謎について迫ってゆきたいと思います。
91E5899C82R[1]














images[3] 大奥の誕生には、家康の人生で得られた教訓が生かされています。家康は政略結婚で2人の正室を自らの意志によらず娶らされました。



家康




















 駿府の人質時代に今川家から築山殿(瀬名姫)を、豊臣秀吉からは妹の朝日(南明院)をあてがわれたのです。
人質時代:天文16年、織田信秀が再び三河を攻めた折、家康の父 松平広忠は再度、今川義元に援軍を要請しました。義元は交換条件として人質を差しだすことを要求し、家康は人質となります。その後、駿府にいく途中に家臣の戸田康光に奪われ、織田信秀に売られました。家康は2年間にわたって織田家で生活し、その間、盟友織田信長と出会います。織田家の人質生活は結構待遇が良かったといいます。しかし、その間に父 広忠は家臣の岩松八弥に暗殺されました。
天文18年、今川家軍師雪斎和尚は、織田家に奪われた竹千代(家康)を奪回し、次に家康は駿府の今川家の人質となったのです。>

71c3436ae68e52657c6ea37c26d66f92[1] 織田信長が桶狭間で今川義元を討ち、家康は今川家の人質から解放されると、築山殿(左写真)は厄介なお荷物となりました。家康が今川家を捨て、織田家に接近したことで、築山殿は憎悪を抱きます。それが、個人を超えて家の命運にまで及び、信長と同盟を重視する家康は、築山殿を殺害、更に彼女が生んだ嫡子 信康までも成敗しました。
imagesCAWFDU9U 朝日(左写真)もまた、天下人となった秀吉が家康を屈服させようと、妹を強引に離婚させ、押しつけてきた花嫁でした。夫婦間に愛情は芽生えず、朝日は心労から健康を害し他界しました。
 
 以後、家康は正室を置かず、16人の側室を持ちます。しかも、門地高い女性は避け、多くは既婚者で、身分の非常に低い女性や、夫を殺害されるなど不幸を背負った女性も少なくありませんでした。こうした女性から、11男5女を得ました。この子宝が徳川政権の礎となり、大奥はおのずと家康の教訓を組織化したものとなってゆきました。
adult-4-03[1]  

















(次回は、「大奥のはじまり2」をお届します)


mugai_de_iai at 06:00│Comments(0)TrackBack(0)大奥 

トラックバックURL

コメントする

名前
URL
 
  絵文字