むかしの装い

―昔のこと、装うこと―

1960(昭和35)年の紫とロマネスクモード

1960、昭和35年の洋裁誌から紫色とジュニア・少女向けのロマネスクモードの特集です。ロマネスクとかゴシックとか、言葉本来の定義や意味はともかく…レースやリボン、ギャザーにフリル、ふくらんだスカートや袖、とひらひら可愛らしい浪漫的な洋服は、いつの時代も少女に大人気、ということでしょうか?装苑の5月号なんですが、誌面のレイアウトもなかなか素敵で今でいうゴシック風味??紫色の特集とともにロマンチックな春です。
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今月のテーマカラーはむらさき――ちいさいすみれいろのブーケは恋人に送るもの――むらさきは5月に咲くバイオレットやリラの花、夢や甘さ、ロマンチックでエレガントな色。リラ(ライラック)の花って言葉、すごく昔風で憧れます。最右のモデルは入江美樹さんで後の指揮者・小澤征爾夫人…最左(も入江さん)は、ワンダフルプリントの丸増株式会社の広告、正統派な?花柄と思います。どれもふくらんだスカート。
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――モードを身につけるほんの少しの前のおじょうさまは、まだまだ「若草物語」にでてくるべスやジョウのように、夢の中からぬけきれないようです。ですから、たっぷりした袖に、高くつんとした衿のついたドレスがいちばん魅力に思われるころです。美しいレースが、柔らかいフリルがふわふわと……帽子や外巻カールの髪型も、ちょっとおしゃれで可愛い??10代半ばくらいの少女のツインテールはまだあまりない、みたい?ストッキング(パンティイタイプではまだない、ガーターと長靴下)と華奢なハイヒールも特徴的。

この時期の服装や流行はあまり詳しく調べてないので不確かですが、1955(S30)-1957(S32)年くらいに大流行したパニエやペチコートでふくらませた落下傘スタイル・スカート、1958(S33)年には少し下火になるのですが根強い人気で、またこの1960(S35)年に微妙に形は違うのですが…上半身にやや余裕があり以前のフレアーからギャザータイプへ…復活してるような印象があります。

占領期のパンパン(闇の女)のファッション

戦後のファッション史の多くはスタイルブック洋裁学校などの洋裁ブームとともに、パンパン(闇の女・夜の女)と呼ばれた街娼たちのファッションを取り上げることが多いので、パンパンの服装について。一般には、赤い口紅などの厚化粧・明るい色・ネッカチーフ(スカーフ)・ナイロンのショルダーバッグ・フレアーのロングスカートなどが指摘されていますが、実は時期ごとにさまざまに変化しているようで、特に朝鮮戦争前後の変化は結構大きいと思います。
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画像は服飾評論家のうらべまことさんが、1956『流行の裏窓』で紹介されたパンパンファッションです。
左のパッドの入った張ったいかり肩のフレンチスリーブの膝丈のワンピース、真ん中の同様の上着とターバンの画像はどちらも
1946(S21)-1947(S22)年頃だと思われる典型的な占領初期のスタイルだと思います。
右のGIと並んだ女性はスカートの丈から1949(S24)年頃だと思われます…
終戦後、占領初期の1948(S23)頃までのパンパンファッションは、濃い真っ赤な口紅・描き眉・マニキュアなどの厚化粧、下してカールやパーマなどの装飾的な髪型、パッドで張った肩・短いスカート・明るい色・ネッカチーフ(スカーフ)・ナイロンのショルダーバッグ・ローヒールの靴やサンダル(または下駄)・ソックス(か素足)などのまだまだ戦争中の延長的な、当時アメリカなどで流行していたミリタリー色の強い機能・活動的な雰囲気のシンプルめのファッション、を一般女性より早く派手に取り入れたものでした。色は赤や緑などの原色に近いものが流行ったといわれています。髪型はおでこを出す高く膨らませた前髪と後ろは内巻きにした装飾的で固い感じの塊になった日本髪的なカールです。

その後、1949(S24)年頃以降ディオールなどに代表されニュールックと呼ばれた、広がったフレアーのロングスカート・なで肩と細腰・ハイヒール・長靴下(ストッキング)の女性やしいロマンティックなスタイルが大流行しますが、これを最初に積極的に取り入れたのもパンパンたちだったといわれます(流行の牽引が服飾関係者・芸能関係者・意識高い系とか富裕層、に加え進駐軍関係者・パンパンというのがこの時代の特徴?)、色は原色に代わって中間調の落ち着いたものが主流になっていました。またこの時期の髪型はパーマでふわふわさせた以前より短めの少し前髪が額に下がったり、横分けなど分けめのあるものです。敗戦の混乱も落ち着いて物資不足も解消されて来て、全体にこぎれいでセンスが良くなっています。朝鮮戦争前の頃には占領直後多かった進駐軍は帰国して一時減るのですが、朝鮮戦争(1950年6月-1953年7月)で再び一気に増えたため(在日米軍の数は1945末43万→朝鮮開始時12万→戦争中35万)パンパンも増え、同時に占領初期とはパンパンの性質が違っていました。初期はグループの縄張りなどがあっても個人が独立して定まらない場所で営業を行っていたのですが、この時期には組織化や定宿・定住などの変化があったようです(ポン引き・オンリーも増えていました)。また、一般女性もですが、終戦直後の混乱が収まって少し余裕が出来た時期なので、全体にこぎれいにセンスもよくなっているようにも思います。

といったように朝鮮戦争以降の数が増えた?時期のパンパンは、占領初期の本来の定まらない場所で独立して営業する街娼とされるパンパン・闇の女とはタイプが違ってきていると思いますが…この朝鮮戦争前後の時期のロングスカートなどのファッションがパンパンファッションの特徴とされることも多いようですで…街娼というよりはアメリカ軍駐屯地の基地の女というイメージが強いように思います…

パンパンとは何か?という定義がアメリカ兵相手の女性であるなら朝鮮戦争前後の中間調の色のロングスカートにハイヒールのファッションとふわふわしたやや短めの髪も間違いではないと思います。一方終戦直後に現れた、街頭で客をさそい定まらない場所で個人で売春する街娼をパンパンとすれば、よりその性質が強い占領初期のパンパン達がこれに相当し、そのパッドで張った肩・短いスカートのミリタリー的な原色の多いファッションとおでこを出す高く膨らませた前髪と後ろ内巻きの固い感じの塊的な日本髪的なカールの髪型、が特徴となるようにも思います。基本的に一般女性より早く、欧米の(特にアメリカの)流行を派手に取り入れたものです。

どちらにしても職業柄、全体に派手で目立つ先端的なファッションと、濃い真っ赤な口紅・描き眉・マニキュアなどの厚化粧は同じですし(白粉も濃かったと思います)、、一般女性と最も差がある部分だと思います。

時期を追って、少し詳しくみていきます。
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アメリカ軍関係の女性たち
終戦と同時に、アメリカを中心にした連合軍が進駐し1952(S27)年に独立するまで日本を占領しました。連合軍の進駐に備えて新聞などで「婦女子の場合は、慎重に剛健な服装を維持しなければならない」「脱ぐな心の防空服・女子は隙なき服装」と女性のもんぺ着用の継続が促されました。また実際には、戦災・戦後の混乱・物資不足などでもんぺしか着るものがなかったことや、戦争中に続いて働かなくてはいけない場合も多かったので、活動・経済的なもんぺは戦後数年間は重宝されていました。

進駐軍が上陸すると、慰安所や娯楽施設(ダンスホールやキャバレー)で相手をする女性が現れました。最初の頃は、もんぺを穿いている場合もあったようですが(参考 1945/S20年の遊郭の女性のもんぺ姿)、その場合の女性たちも、凝った装飾的な下した髪型とお化粧をしっかりしている場合が多いようで、その辺りが一般女性(まとめ髪か単純に下した髪に素顔か薄化粧)との差なのだと思います。これらの進駐軍相手の女性たちが真っ先にもんぺを脱ぎ流行を取り入れた洋装を始めました、商売上の必要と、進駐軍兵士のPX(Post Exchange軍の売店)等経由のプレゼントや横流しなどアメリカの製品を手に入れる機会に恵まれていたからです。戦前も欧米のファッションに憧れる風潮は強かったのですが、戦争中は海外の情報やお洒落が規制されていたので、新聞などが進駐軍女性兵士の写真などを掲載するとし5-6年ぶりくらいの「新しいファッション」として魅力的にとらえられたようです。

進駐軍相手の女性たちの、真っ赤な口紅と細い描き眉やマニキュアなどの厚化粧、戦争中のまとめ髪を下してカールやパーマなど、といった取り入れやすい部分から始まった装いは、次にもんぺを脱ぎスカートを穿いてアメリカの流行のスタイル…張った肩、短いスカート、明るい色、ネッカチーフ(スカーフ)なども積極的に取り入れ、一般女性がまだもんぺを穿いていた時期だったので…それらがパンパンの特徴となりました。パンパンの一般より際立って派手なお化粧や髪型は明確な特徴だったようですが、服装そのものはアメリカなど世界的に流行っていたものを一般女性より早く、派手に取り入れたというのが実際のところだと思います。パンパンに限らず、占領初期の洋装は物資不足と戦争中のブランクで、お洒落に不慣れでバランスは悪かったようです、なので不必要に派手で(職業柄目立つ必要はありました、地味なもんぺの時期、鮮やかさがことさら際立ったことだと思います)アンバランスな着こなしもまたパンパンの特徴とされています。

パンパンである可能性の高い女性たちの画像です。
下画像最左1945(S20)年もんぺ姿、これだけはパンパンとは書かれてない方たちで、髪形は戦争中のまとめ髪から下したダウンスタイルになっています。終戦後は、銘仙など綺麗めな色柄のもんぺを作ったり、男性用を改造したズボン、もんぺの上衣部分を上着にしたり、シャツやブラウスの襟(や、それに見える替え襟)を上着から覗かせる着こなしも流行った?ようです。

終戦直後のパンパンは、あかだらけの素足にちびた下駄をつッかけ、もみくちゃになったワンピースに買物袋。頭髪にはシラミの卵が一杯についていて、病院の看護婦たちに悲鳴を上げさせた。また、うすよごれた肌着につぎはぎだらけのキモノ・スリーブといったものもいた(1949『肉体の白書』)という記述や、モンペという無様なパンツスーツ、爪が磨かれていず手はガサガサ、歯並びがきたなくブリキの歯を入れている、上から下までストレートのずん胴で曲線なし(1979・1995『敗者からの贈り物』)といったものもあります。
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中ほどの画像は1946(S21)年のおそらくパンパン、白いブラウスとスカートに下駄、花柄のワンピースの二人組は下駄や靴にソックスで(当時ストッキングなしはマナー違反、貴重な靴も伸びてしまいます)物資不足が忍ばれる装いだと思いますが、お化粧や髪型は戦争中にはなかった派手な?もの。

1946(S21)年春、進駐軍の若い兵隊さんが大和撫子を連れて楽しそうにしているのをよく見る、御婦人を大切にして、もんぺともズボンともつかないいでたちの女性でも丁重に、大事そうに腕をとっていたわっている(1946年3月『スタイル』)といった記述があります、スカートが増えるのはもんぺが暑く感じる夏くらいから、夏物は簡単で安いですし、長靴下(ストッキング)なしの素足にサンダルでもOKなので。靴と長靴下(ストッキング)は洋服以上に入手難だったそうです。

左の1947(S22)年のパンパン二組、ズボン姿も実際は結構多かったようです(特に冬、ストッキングがなかったのも理由)ラクチョウのお時さん有楽町の闇の女(パンパン)たちもズボン姿でした、ズボンは男性用のものを開きの位置を横側にするなど改造したようです。ズボンの二人は首に巻いたネッカチーフ(スカーフ)が目立ちます、でも足には下駄。最左のカバンとスカートも当時としては目を引いたかも、どちらも髪やお化粧にはかなり気を使っているようでサザエさん的(連載開始は1946年)におでこを出す高く膨らませた前髪と固い感じの塊になった日本髪的なカールはこの時期の特徴。
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ネッカチーフ(スカーフ)・ターバンと肩パッド(パディング)の記事
ネッカチーフ(スカーフ)・ターバンや・フードも流行っています、在日のアメリカ女性が埃よけや帽子代わりに(帽子を持ってこれなかったため)盛んに用いていました(1947『ファションヴィユ』)。戦争以来の機能性や道路事情の悪さもあってローヒール・ズック・サンダル・ウェッジソールが多かったようですが、ハイヒールなども現れ始めたそうです、もちろんまだ下駄ばきも少なくなかったようですが。また、ショルダーバッグやバニティケース的なバッグ類も見られたようです(1947/8『スタイル』)
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上は1948(S23)年。左はスカートやズボンにサンダルソックス、右はバッグ類もちゃんとしたものになり、少し伸びたスカート丈やワンピースなど服装が整ってきているようです。肩から下げるナイロンショルダーバッグはパンパンの持ち物としてよく語られます、ナイロンは当時プラスチック・ビニール(ポリ塩化ビニル)など合成樹脂素材の呼び名だったようで、アメリカ製のものが中心でした。

少しずつ復興が進んでいて、ややロマンチックになった流行を上手に取り入れるパンパンも増えていました。お化粧は赤い唇に細い眉、香水なども一部では使われていたようです。オンリーと呼ばれる特定の相手の決まったパンパンが増え、相手が将校などだと贅沢が出来る場合も多かったようで毛皮なども着られています。しかし、貧しいパンパンも多く1948年10月の衣服の所有枚数は1.4-3.2枚、前や次の季節の衣類冬服を持っていないものがほとんどだったそうです。パンパンはお金があると全部使ってしまうようなタイプも多く、前の季節の衣類を売って次の季節の衣類を買ったといわれ、定住しないものなどはいわゆる着た切り状態のものも多かったそうです。この時代、自分で服を作る場合も多かったのですが、風俗関係の女性たちは買うか仕立てかだったようです。

1947年2月に発表されたディオールに代表されるロングスカートのニュールック、日本で積極的に紹介され始めるのが1948(S23)年初頭から、先端的な女性が着るようになるのが同年の夏から秋くらいから、さらに一般の女性に広まったのが翌1949(S24)年くらいだと思っています。パンパン(オンリーなど)の女性がこの流行を取り入れたのは一般より早いようですが(1956『流行の裏窓』1965・1982『流行うらがえ史』、1978『東京闇市興亡史』)、写真を見る限り1948(S23)年はまだ若干スカート丈が長くなったという感じではないでしょうか?ですが、詳細なことは調べ中です、信用しないでー
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時期ははっきりしませんが、1949(S24)年頃以降のパンパンたちだと思います。時期を見分けるポイントはスカートの長さ、左のようにスカートにフリルをつけるのは1948(S23)年夏以降だと思います。また、髪形も占領初期は戦争中のまとめ髪を下したダウンスタイルで、おでこを出す高く膨らませた前髪と後ろは内巻きにした装飾的で固い感じの塊になった日本髪的なカール、1949(S24)年頃には全体にパーマのかかったやや短めふわふわした髪型が主流になります。オキシフルなどで脱色した、茶髪もパンパン特有だったらしいです。

パンパンと呼ばれた女性たち…実際には、タイプもいろいろですし、流行も時間を経るとさまざまに変化しているので、そのファッションは千差万別だと思います。特に初期のパッドで張った肩・短いスカートといった服装ははあまり知られていないので残念です。各時期の服装の傾向は、右タグクラウドの各年などでも少しわかるかも?

参考

昭和7-9年頃の髪飾りや装身具など

1932(S07)-1934(S09)年頃の髪飾りや、帯留・指輪・首飾りなど装身具、和装向けの履物などです。
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髪飾りは左から。1934(S09)年1月の『婦女界』付録から日本髪用の髪飾り、お正月向けのもの?などです。真ん中が洋髪向けの髪飾り、洋髪といっても右画像の和服の女性の髪型のように、和装向けにはウェーブした髪を下の方でまとめたタイプが主流でした(洋装の場合はやや短い断髪から長めのウェーブのあるものへと変化していた頃、前から見るとまとめたタイプも長めの断髪もわりと雰囲気が似ているような…)。髪飾りは、左の1933(S08)年5月の『婦人倶楽部』の画像のように下の方でまとめた部分に挿すことが多かったようです。大正後半頃の七三などに挿した大きく飛び出たピン(スペインピンと呼ばれた)に比べ、ボリュームが少なく和の雰囲気にも合わせられるような髪飾りに変化したようです。若い女性向けには花を挿したり、プラチナに真珠やダイヤの付いたもの、年齢が上がると落ち着いたべっこうなど、他に垂れ下がるタイプのものもあったようです。追記 洋髪に差す簪は束髪簪と呼ぶそうです、あと画像左上段中央の土筆が二本あり金具で向きが変えられる仕用のものを花月差しと呼ぶそうです、和服や装身具は詳しくなくって…古い装身具はこちら、戦前日本のアンティーク~銀器・ジュエリー・高級磁器~さんが詳細ですし素敵です♪
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1933(S08)年5月の『婦人倶楽部』付録から、流行の帯留帯紐です。左は指輪「指輪に用いる宝石は、まるいものや、ありふれた形が飽きられ変形の多少大きめのものが流行です」天然のものは高価なので合成宝石も多かったようです。写真のものは、10-20円くらいで、どれも松屋や白木屋といった百貨店のもの。
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1932年1月『婦人画報』からです。大勝堂のダイヤと各種宝石の指輪の広告と、小林時計店の100円前後の帯留です。首飾り腕輪はデザイン重視の合成宝石、腕時計はプラチナやクロームが35円以上で宝石が入ると50円以上、モーリス、ロンジン、バルカン、モパードが全盛だそうです。下は指輪、ダイヤとオニックスなどの宝石で、時計共に大西錦綾堂。雑誌によって扱う商品が違っているのも今と同じ、婦人画報は欧米の高級品も多く上流階級向けです。
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1933(S08)年5月の『婦人倶楽部』の履物。新型のヒール付草履??通称?靴・シューズ草履が面白かったので切り抜いてみた…左の緑単色の方にはヒール下駄まであります。そういえば、この頃の女性・婦人誌でよく見る足袋の中に入れる(専用足袋もあった)ゴムやコルクの上げ底用ヒールラッキーヒールとかファインゴムや右画像のキルクヒールとか、和装でも背の高いことが美しい条件になってきているようです。別人のように背を高くするキルクヒール「キルクヒールは、あなたの背を二寸(約6cm)は確実に高くいたします…ゴム製のものと違って、べとつかず軽いのが何より…片足三匁(11.25g)位ですから非常に軽快で、重苦しい感じが絶対にありません…用い方も足袋に入れて履くだけの簡単さです。音が全然しませんから、使用を他人に気づかれる心配がありません」だ、そうで、3-4円くらい。

最後に当時の価格ですが、服飾品は2000-3000倍位で現在の感覚といわれますけど(昭和8年頃1円→現在2000-3000円)?どうなんでしょう…髪飾りは数千円から、ダイヤの帯留だと20万以上???

昭和8-9年頃の和服と美しい身のこなし方

和装が続きます、1月は和服(着物)を目にすることが多いので、1933(S08)-1934(S09)年の冬から春の和服と身のこなし方を少しこの機会に紹介します。でも私、和服は実際に着ることがなくて本だけの知識しか持ち合わせてないのでかなり適当です、ごめんなさい。
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1934(S09)年1月の『婦女界』付録から、初春の左が20歳前後、真ん中は25-6歳、右が30歳後の着物と羽織りなどです。まだ和装が主流(特に既婚女性)だった時期ですが、髪形は洋髪(伝統的な日本髪ではない欧米の影響のあ髪)がほとんど。和装でもウェーブの軽くかかった「耳だし」と呼ばれる耳を出す髪型です。明治後半から大正前期の大きく膨らんだひさし髪、その後七三耳隠しと昭和になる頃から次第に膨らみが小さくなっていき、1930年頃から頭に沿った耳を出す髪型が主流になりました。
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1934(S09)年3月の『主婦之友』付録から、花嫁衣裳と若い女性の着物です。日本髪も、時代に合わせて変化していて明治初期頃は膨らみの少ない日本髪でしたが、ひさし髪(ポンパドールの変形と思われる)など欧米の影響もあってか?明治末から大正にかけて大きくなりました(参考画像)。欧米の髪型は1920年代頃から機能・単純化した流行に合わせて断髪など次第に小型化します、和装に用いられた洋髪も上記のようにその欧米の流行に合わせて耳隠しから耳だしなど小型のものへ変化したのですが、伝統的な日本髪は膨らんだままあまり変化をしていないように思います(両横の鬢が以前より前に出て、下方にも伸びて大きくなったようにも感じますが)
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同『主婦之友』から、羽織とコートです。羽織はかなり丈が長いようです、、短い半コート(羽織より少し長いのが半コート、吾妻・東コートは衣服がすべて隠れる長さ)の衿は道行衿(みちゆき)。また半襟は大正までの色や柄のものから昭和に入って次第に白が主流になっていきます。同様に、足袋も昭和になるとが中心みたい。大正後半頃から、帯の位置とても高いのもこの時期の特徴だと思います。後ろ姿の写真が多いのは、古来日本の美意識は後姿にもあったから。忘れがちですけれど…襟と襟足、がとても大切な美しさのポイントだったのだと思います。昭和の和装は、以前に比べれば髪型も洋髪ですし各所で近代化した和装ですが、それでも戦後に比べると伝統が色濃く残っていると思います。顔以外にも首筋の無駄毛を処理してすっきりした襟足の美しさを作ったんですね、美容書でもこの点に力を入れているように思います。現在の女性の襟足は、戦前までの感覚からすると、もじゃもじゃで醜いってことになりそう…
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1933(S08)年5月の『婦人倶楽部』付録から、「美人になる身のこなし方」の特集記事です。和装を中心にそのいくつかを簡単に紹介します、他は興味があれば拡大してみてくださいね。
立ち姿の美しく見せ方
身体をやや斜めにして、姿勢を正しくし顔を正面に向けますと、喉から胸にかけての線が美しくなります。足は揃えずに、片方を後ろに引いてそのかかとを浮かせると(前足に重心をかける?)腰から下の曲線が柔らかくなります。
座った時の美しい手のおき方
肘を引いて膝の手前に手を置きます、手のひらを伏せ上下に交叉させると大人しい感じがいたします。
・姿を美しく見せる歩き方
外輪の方は内輪に歩くように、直線の上を歩くように。履物の音を騒々しく立てたりせず、草履は爪先から地につけて歩くことです。
階段の上品な上がり方下り方
振袖の場合、階段に向かってやや斜めに構へ袂(袖)を前で合わせて左手で持って、階段の端の方を腿をすぼめて上り下りすると、袖を引きずったり踏んだりするようなことがありません。
指の軽くしなやかな使い方
手首を自由に動かすようにします、五本の指全体に力を入れず、薬指や小指など使わない指を遊ばせておきますと指がしなやかに見えます。
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上品なハンドバッグの持ち方
ハンドバッグは左の小脇に抱えて、肘を身体につけ親指をバッグの外に他の指を内側にして抑えるようにします。静止した場合は、脇の帯の下あたりでバッグを右手に持って、軽く左手を添えると大変上品なスタイルになります。この頃、持ち手のないバッグが多く(特に和装)、肩掛け(ショルダー)や大型のものなどはありませんでした。昭和戦前までのバッグ類は「下げずに、抱える」というのが基本だったように思います。欧米でも(時期によりますが)小型のバッグが中心でした、品の良いご婦人が大きな荷物というのは本来はあり得なかったのだと思います。
洋傘の品のよい持ち方
洋傘はぶらりと下げたりしますと野暮に見えますから、両肘を脇につけ両手で…片方を柄に片方を中ほどに添えて持ちます。
美人に写るポーズの取り方
写真を撮る場合は、体を正面に向けず斜めにします。座る場合は、斜めに構え肩を落とし顔を正面に向けます。立ち姿でも斜めに構えて顔は正面を向きます、正面を向く場合も心持首を傾げるか顔を少し横に向けます…全身真正面は美しくないということでしょうか?アップした画像も、この法則に従っているものが多いと思います。
 
といったことに気をつけると、昭和戦前の和装美人になれるかも?働き着や野良着以外の「お着物」は武家以上の階級を中心として発達したものだったので、面倒といえば面倒くさいんです。欧米でも古い時代の流行や規則(マナー)は上流階級のものでしたし…

昭和8年の舞姿

続けて、1933(昭和08)年の『婦女界』から、いろいろな有名人の方たちの「舞姿」などです。古い雑誌、私の手持ちの昭和初頭から30年代くらいの女性誌のお正月号のグラビアは、ほぼこいうった「舞姿特集」がたくさん掲載されています。この記事の画像はすべて、1933(昭和08)年の『婦女界』の1月号から、他に髪形や化粧品のグラビアもあるので、結構なページ数のグラビアですよね。太平洋戦争で荒廃し混乱した時代の復興の合言葉の一つに「昭和八年に帰ろう」というものがあったそうですが…この1933(昭和08)年のグラビアを見ていると、ページ数の多さ・紙質・印刷と全体の落ち着いた雰囲気など終戦後の占領期(初期)に比べ本当に「豊かな戦前」だったのだと痛切に感じます。(ちなみに『婦女界』は発行部数の関係でしょうか、『主婦之友』『婦人倶楽部』よりは全体に地味でグラビアページも少ないと思います。その代りこういった舞台などの芸能関係に強かったともいわれます)
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また個人的な感想ですが、昭和戦前上流階級が主導の上品な文化、対して戦後は庶民階級中心の大衆文化の印象が強いようにも思います。私は占領期(初期)が大好きなのですが、その時期の服飾などに関しては、つくづく「趣味悪い」「可愛くない」「安っぽい」と認めているんです…悲しいことですけど。

『婦女界』の「舞姿」などのグラビアの紹介です。映画や音楽など芸能関係は詳しくないので、画像にある説明文以上のことはよくわかってないので突っ込まないでください…

一番上の画像、リスト曲「愛の夢」花柳宝珠、清元・四季三洋「千歳」市川紅梅、舞踊の忠臣蔵「力彌」水谷八重子こと花柳寿、清元「四君子」故小山内薫氏夫人花柳保輔、「情炎夜曲」九貴麗子、レビュー唄八景「お三輪」天津乙女
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「春の遊び」花柳壽美、浜唄「吉三人形」藤間春枝、長唄舞踊「お七恋しや」南榮子、「道成寺」藤間勧素娥、畑耕一作「劫火」藤蔭静江
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「朝海」花柳たい子、「秋の色種」西崎綾、坪内逍遥作「良寛と子守」尾上菊枝、長唄「英獅子」森赫子、琴曲「黒髪」藤間喜與恵
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「ふるさと」高田せい子、「エスパニア気質」梅園竜子、シリエ・シャミナード曲「韻律に酔ふ」リート・イナキ、ムソルグスキー曲「展覧会の美」石井小浪、スパニッシュダンス「ボレリアス」川上鈴子、チャイコフスキー曲・胡桃割「ダンスアラブ」田澤千代子、松竹歌劇団天草みどり、レビュー「パリ・ニューヨーク」寶塚少女歌劇佐保美代子

…でした。お正月のせいもあるのでしょうが1933(昭和08)年頃は、、まだまだ芸能方面は「洋物」が少なく「和物」が主流だったようです。「洋物」は独特の雰囲気です…

少し和服(着物)の歴史を調べたりもしているのですが、絹などの高価な素材で太い帯を締める和服って座敷で着る場合が多かったので、その場合は「端折り(はしょり)」と呼ばれる帯下の折返し部分がなく裾を引いて着るものだったんですね?(外出時は端折った)…裾引きの豪華な和服の姿はとても美しく、長い袖や太い帯や高く結った日本髪などとのバランスも良いと思います(昭和戦前の日本髪はボリュームがかなりあると思います、参考画像)。「舞姿」の画像でも「裾引き」と「お端折り」の両方があってその違いがよくわかります。また、庶民階級の木綿や麻の着物には別の美しさがあって好きです。

昭和8年のお正月

あけましておめでとうございます、1933(昭和08)年の『婦女界』1月号からお正月的なものを… 
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久保政吉商店のウテナクリーム、ウテナのクリームは雪印のバニシングクリーム(無脂肪)、月印のハイゼニッククリーム(中性)、花印のコールドクリーム(脂肪性)、各30銭-1円くらい。この時期すでに雑誌などの髪型の主流は、びんつけ油などで固めた伝統的な日本髪から、洋髪(下のレートの画像のようなまとめ髪)になっていました、なのでお正月には「特別に日本髪」ってかんじです。昭和戦前のクリームの詳細は 昭和戦前のクリーム01 昭和戦前のクリーム02 
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グラビア「嘆きのセレナーデ」は春野芳子さん、ちょっとエキゾチックなキモノ風ドレス?…でした、ここのところ更新できていなくてごめんなさい……

明治・大正から昭和の数寄屋橋

占領期の記事を書いていて、数寄屋橋の画像を目にすることが多く手持ちのものをまとめてみました。数寄屋橋は江戸城の外堀にかかっていた橋で、1972『資生堂社史』によれば、1957(S32)年(1958年説が多い)首都高速道路建設の外堀埋め立てで消えたとあり、江戸城の外堀と運命を共にしました。江戸城の外堀には銀座あたりだと北から八重洲橋・鍛冶橋・(西へ、紺屋橋・京橋)・有楽橋・丸ノ内橋・数寄屋橋・山下橋・新孝橋・土橋・難波橋・新橋などがありました。最下画像参考
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左から、明治-大正頃の数寄屋橋、1928(S03)年数寄屋橋と朝日新聞社、1931(S06)年数寄屋橋小公園と丸ノ内橋
数寄屋橋は1629(寛永06)年に外堀へ架橋、御門内に南町奉行所がありました。1923(T12)年の関東大震災後の1929(S04)年頃新しい橋が完成、近くの朝日新聞東京本社は1927年、丸い形の日本劇場(日劇)は1933年にできているようです。wikipediaにもあるこの新しい数寄屋橋の写真は、手持ちの1957(S32)『資生堂社史』からで、完工間もない数寄屋橋『江戸城の今昔』からと書かれています。国会図書館で調べると1928『江戸城の今昔』鳥羽正雄、確かに數寄屋橋門(舊)と數寄屋橋(現)があるようで、1928(S03)年の工事中の写真ではないでしょうか?
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1945(S20)年の空襲、数寄屋橋から銀座4丁目方面とその逆方向
銀座の空襲は1945(S20)年1月27日午後、泰明小学校(銀座5丁目、数寄屋橋の西)が直撃弾2発を受け、朝日新聞社と日劇の間にも爆弾が落ちた他、銀座4丁目、西4-6丁目が火災に、有楽町界隈も罹災しました(画像はその時のものかもしれません、撮影は石川光洋さん)。3月9-10日の東京大空襲では銀座1-2丁目、西2-4丁目が焼夷弾で炎上。5月24日夜半の空襲では縦断爆撃で残っていた部分、1-5丁目と6丁目の大部分が焼き払われました。かろうじて新橋寄りの7-8丁目が焼失を免れました。
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1948(S23)年数寄屋橋上の露店、1952(S27)年頃
終戦後の占領期には、近くにGHQ関連施設が多くパンパン(闇の女)と呼ばれた街娼が現れ、数寄屋橋は進駐軍兵士との待合場所として有名でした。また外堀側に沿った電車通りに屋台も並んでいて、闇商人と不良外人がたむろしていました。橋の袂に巡査派出所(交番)があって、警官がパンパンに注意をすると連れの進駐軍兵士に殴られたり、酔っぱらった兵が日本人を数寄屋橋上から外堀側へ投げ込む事件も何度か起こり、投げ込まれた女性が干潮時の泥に足をとられ溺死したこともあったそうです(1947年9月)。1953(S28)年11月と12月にもポン引きや会社員が投げ込まれています、逆に兵が日本人に投げ込まれる事件もあって袂の巡査派出所(交番)には小舟が備え付けられるようになったそうです(1994『MPのジープから見た占領下の東京』他)
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1953(S28)年数寄屋橋アメリカ兵投げ込み事件と映画『君の名は』
同じ頃、1952(S27)年ラジオ、1953(S28)-1954(S29)年の映画で有名な『君の名はで、主人公の真知子と春樹が東京大空襲以降、すれ違いが何度も起きたのもこの数寄屋橋、全国的に有名になりました。
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1957(S32)年高速道路の工事
1957(S32)年11月発行の1957(S32)『資生堂社史』での首都高速道路建設のため数寄屋橋の取りこわし工事の写真をいろいろです。現在の数寄屋橋交差点近くには有楽町マリオン、東急プラザ銀座、ソニービル、不二家などがあります。
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 1934(S09)年の地図と、外堀の橋

有楽町の闇の女(パンパン)たち

有楽町付近の街の女パンパン(闇の女、夜の女)と呼ばれた敗戦後の街娼(街頭で客を誘い定まらない場所で売春する)を、潜入取材した記事などを『婦人画報』と『スタイル』からです。戦前、上流階級向けだった婦人画報は、敗戦直後しばらくは社会派の面が強くなったようでさまざまな女性問題を取り上げています。
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パンパン(闇の女)を題材にした芝居、1947(S22)年9月空気座「肉体の門」、時期不明同公演
1947(S22)年3月の『婦人画報』の「有楽町付近の女たち」本誌特派記者・嵯峨あやさんの記事から簡単にまとめた部分と一部はそのままの内容です。
日曜の昼、有楽町駅付近の急造マーケット街の中などにあるパンパン(闇の女)達のたまり場の一つの、ささやかなおでん屋(数寄屋橋などのあった外堀川に沿って屋台が並んでいた場所かガード近く?)です。その狭い店内は5-6人の女たちでいっぱいになっていたそうで、調理場と客席は40cmの板のテーブルで仕切られ、空になったおでんや肉シチューのどんぶりが散乱していました。女たちは昨夜4畳半に男女10人で泊まるという目にあったことをこぼしていました。この占領初期の時期のパンパン(闇の女)は決まった住居がない場合がほとんどでした。

記者が店へはいると入れ違いに、戦災孤児と思われる13-4歳の男の子が2人出ていきました。おでんをつつきながら、記者は彼女たちを眺めます。敗戦から1年半、その頃のパンパンは化粧もうまくなり、髪も整え、無精な雀の巣…チリチリのパーマ髪はもういなくなっていました。敗戦直後のパンパンはモンペに下駄の薄汚れた姿だったそうです、物も余裕もなかったうえ戦争中はお洒落できなかったので、その時期に育った若い女性たちの多くが洋服も着物の着方すらわからなかった、といわれます。おでん屋の彼女たちは、ビルに勤める女性たちより立派な身なりでちゃんとした革の靴も履いていたそうです。有楽町のパンパンは白人を相手にする洋パンが多く、他所より値段も高く服装も整っていました。

笑うと可愛い白い外套を着た20歳くらいの女性と小太りの女性は、昨夜の池袋の警察の刈り込みのことを話していました。「この間一斉検挙をやったばかりじゃないの?」と記者が話しかけます。「土曜ごとにやるのよ、酷い時は週に2回もある」数寄屋橋などでお客と待ち合わせる場合も多いので、狩りがあることがわかっていても仕事を放り出すことが出来なくて捕まってしまう、という彼女たち。

23-4歳の若葉色のコートの美人は姐さん株(リーダー)らしく、記者に商売を始めたいきさつを語ります。静岡の軍需工場から東京に来て3ケ月の講習を済ませてチケット制で踊るダンサーになりますがその間に遊ぶことを覚えたそうです。その彼女が質問してきました「あんたの場所、いつもこっちなの?」「…食えないから、これからはじめようかと思って…」「いま勤めているの?よした方がいいわ。狩りもあるし楽じゃないし、一旦はいっちゃうと抜けられないしね。」パンパンになろうかと相談した記者は、別の痩せていて濃ローズ色の格子柄のツーピースに黒革のしゃれたハンドバックの連れから、よしたほうがよいと忠告され、記者は話題を変えます「普通どれくらいもらうの?」「300円くらいね、1ケ月に何万ということもあるけど残らないわね。みんな食べちゃうから…」

この時期のパンパンのほとんどが、一定の住居を持たないので食料の配給を受けることが出来ず(家を離れているにもかかわらず転出証明書を持っていないため)、家もないので調理も不自由で、宿に泊まって法外に高価な闇で食料を買ったり外食するため、稼ぎの多くが宿代と食物に使われてしまったようです。宿屋は一泊30円朝食付きで80円だったり、朝夕二食付きの雑魚寝の場末の薄汚い大部屋が一泊200円。こんな会話も交わされています「あすこ?あすこはおムシがいるんで…」「シラミ?裸になって寝ればいいじゃないか」「だって、着物の方にたかっちゃうもの。布団干さないらしいね」毛じらみなどは、何度か洗っても卵が取れず毛を切る他ないという場合もあったようです。できれば数人で一部屋借りることが彼女たちの理想だったようです、宿と闇の食物で経済的な余裕がなく着るものは、ほとんどプレゼントされたものとも話しています。靴下(ストッキング)も月5足は必要でした。公務員の初任給ですが、1946(S21)年460円、1947(S22)年1200円前後でした。

おでん屋では何人かの女性の出入りがあったようです。30過ぎの女性は記者に、以前は邦文タイプをやっていて終戦後は英文へ変わったものの会話が出来なくてこの仕事に入ったなどと語ったようです。
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1947(S22)年『スタイル』からダンスホールで、八重洲口のボールルーム・サンタフェ、麹町のクラブ・エスカイヤ
同年開店したばかりの銀座のバアで公定価格のビールがあった 1948(S23)年尾張町の地下鉄の入り口に終電をめざして駆け込む銀座の女給さん達
クロちゃん(仮名)と呼ばれるお姐さん(リーダー)が現れ、記者は彼女と外に出ます。クロちゃんは19歳にもかかわらず気風の良さを買われてこの付近の随一のお姐さんです。検挙は7回、首筋でぶつ切の断髪、紺のズボンと上衣に茶のスキー帽、男の子みたいなのでおしゃれなパンパンの仲間内では「構わなすぎ」の評判をとっているが、腕は良いのだろうと記者は推測します。収入は200円平均、月収は6000円。もとは裕福だったようですが女学校2年の時に兄が戦地に行き、学校の勤労奉仕の聯隊や傷痍軍人の洗濯と針仕事にうんざりして盛り場で遊ぶようになってズべ公の仲間入り、それが学校に知れたことで退学。戦争が終わって東京に上京したものの母と上手くいかずに家出して泥棒するよりはとラクチョウ入りしたという経歴ですがそのクロちゃんが言うには
 
「その時、ここには五人の姐さん(リーダー)がいてね、一人に百円づつちゃんとつけとどけをしたの。相当もっていた着るものを行季ぐるみ売って千円ばかりの金を作ったんだけど、つけとどけや仲間へのお近づきのおふるまいで、すぐなくなってしまったわ。だからいやでも稼ぎがなければならなかったのよ。」彼女によれば、今有楽町には地方からの憧れ組50人、東京組のなかでは戦災孤児が30人、残りは好奇心からの20人、計100人がいて、ほとんどが親がないか家庭の折り合いが悪く家に帰りたくない者ばかりだったそうです。自分のひがみか、あるいは本当にいじめられたかで、今の仲間以外には頼るものがなく外部に対して酷く反抗的だったそうです。100人の中で2人は父母の話し合いで生活のための場合も。ほとんど喰うためにこの商売をしていて、稼ぎのほとんどが闇の寝ぐらと食費に消えてしまうため問題の解決が遠いと記者は書いています。

「こんな状態がいつまでも続けられるものじゃないし、時々かんがえることもあるのよ。こゝのひとたちだってそうはいわないけれど、みんな考えている。だからここも相当出はいりがあるの。私なんか古株の方ですもの。駅の周りの中華料理店なんかには、こゝから出ていった人が大分いるわ。住んで食べさせてもらってに三百円くらい貰うんだけど、みんな辛抱しているところをみると、私たちの自由より楽なのかもしれない」
「もっとまじめなところで働きたくてもいくところがないわ。刈り込みにあうたびに吉原病院の三日住居、血液検査と指紋をとるのに三日かゝるのよ。わたしは病気をもってないからいつもそれで放免になるけれど、出るとき誰が迎えに来るわけではなし、刈り込みで私たちを保護して下さるという看板にいつわりのない警察なら二度とこんな商売をしないですむように、どこそこへ行きなさいって教えてくれてもよさそうなもんだわ。ただし感化院や婦人ホームはおことわりよ。府中の何とか園っていうのに友だちが入っていて一度面会に行ってみてきたことがあるけど、絶対に外出させてくれないんですって。園長先生というご婦人も冷たそうな人だったわ。そんな窮屈なところ我慢しきれないことよ」
「ほんとうに自分の部屋がほしいわ…いま借金600円くらいあるわ…わたしね、もしまじめになるなら給仕か幼稚園の使い走りみたいなことがやりたいの…だけど私の前身を理解して雇ってくれる人なんてないわネ。ほう輩から、白い眼で見られるのはいやだわ。だからやっぱり先のことは考えないほうがよいのよ」
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詳細は、拡大して読んでください。

この時期の有楽町特有の事象かもですが…
・有楽町のパンパン(闇の女)は、1947(S22)年くらいには服装が整い、高価な絹の靴下(ストッキング)なども穿いていた
・有楽町のリーダーは複数いて加入時にはそれぞれに付け届け(100円くらい?)をした、また仲間へはお近づきの振舞も必要だった
・有楽町100人、地方50人東京は戦災孤児30人と興味本位20人。親がいないか家庭との折り合いが悪いものがほとんど
・パンパン(闇の女)は、住居を持たない(ことが多い)ので配給を受けられず、稼ぎの多くを宿代と闇の食費に使い残らない
・なので、着るものはプレゼントされたものが多い
・出たいと思っても、行くところがない
などでしょうか?この数か月後の、街頭録音のインタビューのラクチョウのお時さんの話と共通点が多いように思います。特に後半の19歳の姐さん(リーダー)クロちゃんは恰好もパンツ姿ですし、女学校に行ってたことや、ラクチョウの仕事をやめたくてもやめられない事情などの話は、お時さんととても似ている部分があるようです。パンパンに関する記事は記者やアナウンサーの主張や誘導尋問などが含まれているのではと思います、がこの時期の街娼である有楽町のパンパン(闇の女)の一面もあらわしているようです、また上野や池袋など場所によってルールは違っていたのではないかと思います。

次は前年の1946(S21)年12月の同『婦人画報』、佐多稲子さんなどの「世相を語る座談会」から、てきとうに。
「この頃、街の女に対して、ただ生活難から落ちてゐるのではない、一種の興味から好きでやっていると云ふ意見もかなり出てをりますね」
「内務省のお役人にもさういふ意見の人がおりますのよ。統計では生活難によるものが50%で、好奇心が23%、自暴自棄が5%、従前から売笑的状態にあったもの14%…お役人は、闇の女になるのは好奇心じゃないかといってゐたわ。自分が好きでやってゐるのではないかといふのね」
「大体の数は?」
「推定ですけど、18000名と云ってをりますね」
「学歴から申しますと…中産階級以下のものがいちばんおおいといふことがわかりますね」
事務員などと、兼業でやっている場合もあったようです。好奇心の内容が性的好奇心だけなのかということも議論されていて、以前の抑圧された封建的な生活と違う、自由な戦後社会への憧れもあるのではとしています。
「戦争中の挺身隊の生活などの余波みたいなものではないでせうか。終戦直前には、風紀の退廃のやうなことがいろいろありましたわね」
「…そうした道義低下のことまで好奇心で片付けられたら、それこそ大変ですわね。若いひとたちの間に、道義観とか、恋愛観といったものが失はれて来ていることは、確かなことだと思ひますが…」
「…とにかく、敗戦後の、目標を見失ってフラフラした気持ちは誰彼なしに持っている気持ですものね。さういった一種の虚脱感から出てくる一つの現れではないかしら…」
 
さうでもないわよ、普通のお勤めをしている女の子が、800円も1000円もする靴を履いて、絹の靴下を穿いて(闇値で数百-800円ともいわれます)、あの人もああいふ靴を履いているから私も買はう、といってゐるのですよ…」
「正当の自分の生活では買えないわね(若い女性の給料は1500-3000位との説もあるけど、公務員初任給も1946年460円、1947年1200円前後とか…)
「…非常に消費的な雰囲気だけでせう。さうしたなかで…若いひとたちが今まで抑えられてゐた反発で、お洒落がしたくなる。しかしお洒落をするためには、正当な生活ではできないに決まってゐます」
「二十過ぎたばかり位の人は、いままでは学校生活、それから戦争中のいろいろ圧迫された生活で、なにか美しいもの、楽しいものといふ。さういふものを阻まれてゐたといふ不満があるんですね。さうした不満が爆発するといふことも考えられていいのではないかしら…」
「…いままでに何も楽しい思いをしてゐなかったから…私たち一世代前のものたちにさういふ機会があったといふことを非常に羨ましく思ふらしいですね」
「だから、かういふ問題は好奇心などといふもので片付けられたら大変なことになるわね。本当に生活全体の問題として考えられなかったら。闇の女の問題は、もう闇の女になってしまってゐる人たちを見てあれは好きでやってゐるのだというふうにいってしまふ、そのことはこれから落ちてゆく境遇にある沢山の女性の生活といふものを考へていかなかれば問題の解決点に到達できないわね…」

終戦間際、風紀が退廃していたという意見があるようで、敗戦後の目標を失った虚脱感にも触れています。役人がパンパン(闇の女)になる理由として、経済的な理由以外に興味本位を主張しているのに対してさまざまな意見を交わしています。
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1994『MPのジープから見た占領下の東京』から地図と1945(S20)年東京の写真
1947(S22)年8月スタイル』の小野佐世男・夏村扇吉「夏の夜の銀座を歩く」という記事の「ラク町の縄張りを争ふ"夜の女"」などから
銀座もずいぶん変わった。綺麗な洋品雑貨や粋な小間物を売る昔ながらの店も復活したけれど名も知らぬバアや喫茶店も雨後の筍のやうに立ち並び、昔はなかったキャバレーやダンス・ホールが出来、何かひどく勝手の違ふ国際街みたいになってしまった。おまけに、これだけは昔は絶対になかった「夜の女」、――髪を縮らせて毒々しい化粧をし、片手に小さいヴァニティ・ケースを持ち、チュウインガムを入れた口をもぐもぐやりながら、公然と客を漁って歩くあの「夜の女」が、有楽町から数寄屋橋、さらに尾張町四つ角(銀座4丁目交差点)にかけて、二三人づゝ腕を組んで豹のやうな眼を光らせながら、どこからともなくぞろぞろと出て来る銀座…

…数寄屋橋の方に行ってみると、そこの橋の袂になんだかいっぱい人がたかってゐる。交番の前だ。何だらうと思って近づき…髪を縮らせてレインコート着、片手にヴァニティ・ケエスを抱へた、まだづぶ若い女の子が二人、交番の真ン前で、掴み合いをせんばかりのものすごい勢ひで、啖呵を切っている。
「何言ってやアんだい、おたンこなす!乙ゥ済ましてやがって縄張りッてのを知らねえのか?」
「だから、詫まってンぢゃないの。悪かったわよ!」
「ふん、その面が気に喰はねえんだよ!」
啖呵を切られている方の女は、いくらか年上でおろおろと蒼ざめてゐるが、二人とも毒々しい化粧、乱暴至極なその口の利き方、――言はずと知れたあの「夜の女」達だ。年上の女は、縄張りがあるとも知らず、この有楽町付近で客を漁り、それが見つかって喧嘩にでもなったのであらう。僕も旦那(小野)も…物も言へずにぼんやり眼を見張って眺めてゐると、啖呵を切ってゐる若い女の傍らに用心棒みたいに立ってゐた女の一人、まだやっと十六、七くらいの、口紅の濃い、眼の大きな、まだ稚げで、寧ろ可憐な顔つきをした女の子が不意に此方を向き、思はずきょとんとしてゐる旦那(小野)に向かって、
「何見てやがんだい、この野郎!」
といきなりどやしつけた。
「見世物ぢゃねエンだよ、さッさとあっちィゆきな!」
「え?」
「何をォまごまごしてやンだい、大きな図体してやがって!」
「……」
「あっちへゆけッてんだ。まだ分ンねえのか?」
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1947(S22)年『スタイル』ラク町の夜の女、1946(S21)年、1947(S22)年『婦人画報』街の女
この記事では、戦後、銀座が国際街…進駐軍に占領されアメリカの植民地的な街に変わった事に触れています。ダンスホールは戦前も流行っていましたが、キャバレー(戦前はカフェーと呼ばれたものが相当するともわれます)はなかったのではないでしょうか、RAA(Recreation Amusement Association特殊慰安施設協会)施設の一つとして作られたように思います?そして戦前の銀座には、存在しなかったのが夜の女…パンパン(闇の女)でした。有楽町界隈は進駐軍の施設が多かったので、洋パンと呼ばれる進駐軍相手のパンパンが中心で、身なりの整った値段の高い女性が多かったようです。1947(S22)年夏頃の、彼女たちのようすがよくわかる記事だと思います。縄張りを荒らすことは、問題行為だったのがよくわかります。時期としては7月くらいなので、夜嵐あけみさんやお時さんがいなくなって英子さんがリーダー格になった頃でしょうか?

以上1946(S21)-1947(S22)年の『婦人画報』と『スタイル』から、占領期前半のパンパン(闇の女、夜の女)と呼ばれた街娼の記事でした。戦争中の内務省による出版物などの検閲はなくなりましたが、この占領期はGHQの検閲があって進駐(占領)軍への批判などはできなかったことに留意してください。
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