1925(T14)年の「女子の體操服」です、女子の体操服の歴史は「ブルマーの社会史-女子体育へのまなざし」青弓社やWebの「学校制服・体操服のトンボ ミュージアム」やwiki??などが詳しいと思います、ので興味がおありの方はそちらをぜひ…
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が、とりあえずてきとうな概略。ブルマーbloomersは、アメリア・ジェンクス・ブルーマー(Amelia Jenks Bloomer,1818-1894)の名前に由来する衣服とされています。ブルーマー夫人が1851年友人のエリザベス・スミス・ミラーの開発した衣服を機関紙で紹介し、普及に努めたことに始まるそうです。ブルーマー婦人たちが目指したのは、コルセットからの解放という衣服改良が中心でしたが、ブルーマリズム(一般に女性解放運動とされる)と呼ばれて批判されて、発表した頃は受け入れられませんでした。やがて19世紀末になってようやく体育(運動)用の服やサイクリング服として広まっていきました。体育用に用いる場合、セーラー服や長靴下と組み合わせることが多かったようでニッカボッカーとも呼ばれます、日本だとニッカースとか。
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明治期後半の女子体操服1900(M33)年頃から多く採用されたといわれる海老茶袴の「女袴」で、長い着物の上に着た女袴は男性の袴と違ってスカート状でした。通学用との兼用で、運動時に着物は襷(たすき)がけで袖を押さえ、袴は下着を着用するか、裾を縛ることなども行われていたそうです。同じ頃、ブルマーとセーラー服の体操服が紹介され始め、明治期の1905(M38)年に、アメリカに留学した井口あくり(阿くり)さんがセーラー服ブルマーを提案され、教鞭をとっていた東京女子高等師範学校の体操服(制服)としたそうです(今見ると袴っぽい)。

井口さんのブルマーとセーラー服も、当時は広く普及することはなかったそうです。ブルマーはわりとよく知られているのですが、セーラー服のほうは継続しなかったことと体操服とされることから最初の女子制服のセーラー服ということにはなってないみたいです。井口さん自身も著書の『体育之理論及実際』で「…もし其の上に同図の如き袴を着用するに於いては、毫も其の風来を損することなく高等女学校生徒の一般学校用服として、最も適当なるものなりと信ず…」って書かれてます、先見の明、ですね。
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服飾史とかの本でよく使われている写真などとお茶の水女子大学デジタルアーカイブズの1909(M42)年の国語体操専修科卒業写真(小さめに一部です、問題があれば削除します。1880~90年代や1902年文科・理科卒業写真も洋装です)などからも井口あくりさんの体操服がわかると思います。上の、井口さんの『体育之理論及実際挿絵では袴(スカート)がついているのが平常服運動服は袴を脱ぎ袴下(ブルマー)の裾を括る、胸当ての扱いも独特、とゆうかんじでしょうか?東京女子高等師範学校とは、襟の形が違いますし、袴(スカート)の扱いは残念ながら不明です。

その後大正になって洋装の普及と女子の運動ブーム?にあわせて、1921(T10)年前後からブルマーやセーラー服は広まっていきます。その頃のブルマーの丈が短くなっているのは、欧米の第一次世界大戦後の服装の大きな変化(体が楽な緩めの服で短いスカート、みたいな)を受けているのだと思います。

といったながれなのですが。日本で最初にセーラー服とブルマーの東京女子高等師範学校の体操服を製造したのが大河内婦人洋服店です。そして当時、そこで徒弟をしていたのが最初の画像の1925(T14)年の「女子の體操服」の西島芳太郎さんです。西島さんの師の大河内治郎さんは、大島万蔵へ弟子入りしドレスメーカー大河内婦人洋服店として独立後、日露戦争期の看護婦服の製造で成功された方です。大河内さんは日本の女性の制服とか職業服の歴史にわりと関わっておられたみたいな。ブルマー関連のことを西島さんの「大河内治郎氏の成功を語る」から。
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西島さんによれば、赤十字社病院の看護服は徳海屋、芝の秋草、麻布の高木新太郎らが御用達を勤めていたのですが、大河内婦人洋服店の大河内治郎さんは1903(M36)年にその大量生産に成功します(200枚ほど、製作は浅草の新海縫造さん)、これが好評で大河内婦人洋服店の信用は一気に高まったそうです。その前後、現お茶の水の東京女子高等師範学校の御用達にもなりました。大河内商店調製の軽快な黒セル(サージ)体操服と体操専科の小倉織(木綿)の通学兼用体操服が生まれるのですが、その採寸に大河内主人と西島さんがおこなった様子なども書かれています。写真に頻出する国語体操専修科の体操服の他に黒セルのものもあったみたいです…師範学校の黒い服が井口さんで、その服が、とか、いろいろ想像してしまいます。

という西島さんの、女子の体操服とセーラー服、ブルマースはニッカースともいって普通より幅が広いものと紹介し、紺か黒の薄地の毛織、セーラー服は白いリンネルか麻、白小倉推奨で、服地も高等師範学校の体操服を踏襲しています。14~5歳用、サイズ固定なのが残念?袴と同じなので、袴を縫えるなら容易だそうです。
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体操服ではないほうの、セーラー服は「初めて洋服を着るとなると、誰でもどんな型にしたものかと迷ふものですが、さうした場合には是非この型をおつくりなさいませ。このセーラードレッスは、どなたにもよく似合ひます…又運動用としてならばそれ(年齢、16~7歳)以上の人にも差し支えありません…この型が基礎ですから…変わった型は自由に作ることができます。」この、それ以上の年齢の人の運動服にも、ってのもポイント。型のサイズは鯨尺の厘と思うのでx0.379mmなのでしょうか?(西島さんは1921・T10年婦人之友でも体操服のセーラー服とブルマー、名称はニッカースを発表しています、上着の方はウエストにギャザーが入っています、また、機会があれば)

で。ブルマーなんですけど、プルマーとか、プルマースとかいった名前でこの時期から戦後まで、ものすごく大量に少女(スカートの裾から見えることが前提)や婦人用(パンツの上に滑りが良いように重ねて穿くペチコート的なパンツ)で紹介され続けています。少女用の場合、外着になるので色や柄も豊富で、婦人用は装飾など入れてきれいめ。wikipedia(英語)では1910~30年くらい頃、海外でも下着をブルマと呼び以後定着したとか、書いてある(みたい、英語わかんない)のですが…下着の呼び方とか、そのへん難しいというか…言葉の定義があいまいで変化しがちで…スカートから見えてもOKな下衣という解釈もあったブルマー、今の見せパン的なもの古い呼び方になるかも?

気分転換で、時代を遡ってみたら収拾がつかなくなっちゃった…昭和32と昭和18年が…慣れない事は、やるな、ですね。大正末から昭和のはじめのモダンなこと関係は、詳しい方が多いから私がやってもまぬけだって、正直思っています、ただ、戦中戦後につながることで知りたいことがあって…