むかしの装い

―昔のこと、装うこと―

2015年05月

パリの恋人とファニーフェイス

1957(S32)年、「昼下がりの情事」に続いて秋に公開されたのが「パリの恋人」、原題をFunny Faceといいます。ファニーフェイス、ファニーフェース…「特別美人ではないけど個性的で魅力ある顔立ち」といった意味ですが、日本でこの言葉が広く一般に使われるようになったのはこの映画が契機ではないかと思います。若干弱気ですが…手持ちの雑誌から察するとそう思われるんですけれど?
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一番下の画像に、1957(S32)年冬の「ファニー・フェイス時代」の記事があります。ケッタイな顔、アンバランスな顔、おかしな顔、コミカルな顔…こそ魅力のある顔、新しい美の発見、と真剣に座談会です。「パリの恋人Funny Face」のオードリー・ヘップバーンを代表に、ペコちゃんとかベティ・ブーフ、キャサリン・ヘップバーン、ジュディ・ガーランド、日本では雪村いずみ、松田和子、久我美子などが上げられています。
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そして、オードリー・へップバーンの映画の衣装デザイナーとしてジバンシィも話題になりました。ジバンシィが衣装を担当するようになったのは「麗しのサブリナ」からですが、その頃はイーディス・ヘッドのほうが有名でした?これは1957年秋の記事ですが、この頃からジバンシィも広く知られるようになったみたいです、説明文も味わい深い、というか…どちらの文も同じデザイナーの方です。

「ローマの休日」でヘップバーンカット、「麗しのサブリナ」でサブリナパンツなど、「昼下がりの情事」でアリアーヌ、「パリの恋人」でファニーフェイス、当時の日本の流行は、(ちょっと作られた感じも強いのですが)オードリー・へップバーンの影響力がすごかったみたいです。
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上記「ファニー・フェイス時代」という記事と、1956(S31)年春のジバンシィの記事です。洋裁誌では前1956(S31)年からジバンシィを取り上げつつはありましたが(オードリー・へップバーン抜きで、たぶんまだ衣装担当デザイナーの情報が入ってない)、1956~57年頃のコレクション関係の記事だと「斬新過ぎる」って評価も多く、まだまだディオールが話題の中心。同1957(S32)年のディオールの死後以降、ピエール・カルダンサン・ローラン、とともにジバンシィの話題も多くなっていきます。

昼下がりの情事とアリアーヌ巻

1957(S32)年夏公開の映画「昼下がりの情事」でオードリー・ヘップバーンが巻いたスカーフの巻き方を、当時アリアーヌ巻と呼びました。
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「昼下がりの情事」でオードリー・ヘップバーンが演じたのがアリアーヌ、で、それにちなんでつけられて髪形がアリアーヌ」、前にも少し触れたのですが。「ローマの休日」の時話題になったミスヘップバーンコンテストのように、この髪形の女性を集めて「アリアーヌ・コンテスト」も開かれたそうです。アリアーヌと呼ばれた髪型は、当時流行っていたやや長めの女性らしく優美なウェーブのあるタイプです。ページボーイ(中世の小姓のような内巻き)的で、この頃流行の髪型のブーファンとか、ロマンスラインなどとも似ていると思います(参考)。
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そして映画の最後のシーン(最上画像)、オードリー・ヘップバーンのスカーフの巻き方が「アリアーヌ巻」と呼ばれたものでこれも大人気になりました。アリアーヌ巻は、その頃頻繁に見られた頭から被るスカーフの巻き方の一種で、1953(S28)年の「真知子巻」とは違ってスカーフを「フードのようにぴたっと頭に巻き、首元もきっちり留めた」巻き方だと思います。この前後の時期、スキーなどスポーツウェアが流行ってきたこともあって、ぴったりしたフードや同様にぴったりしたスカーフの巻き方が多く見られました。マリアーヌは髪型もスカーフの巻き方も「真知子巻」や爆発的に流行った「ヘップバーンカット」のように流行史に残るような大きな話題にはならなかったものの、結構流行ったようです。また、ネッカチーフとスカーフの違い、広義のスカーフと首に巻く場合のネッカチーフの説明に、アリアーヌ巻きはスカーフで「お高祖頭巾かぶり」と紹介されていて外国ではヘッドラッピングと呼ぶと書いてあります(解説者は映画の影響の名前を避けてるようにも感じました)、でも、お高祖頭巾はちょっと…すごい。
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そんな当時のようすが忍ばれる、翌1958(S33)年の洋裁誌のアリアーヌ巻きの街頭スナップの記事です。「安い費用で、それは、スポーティなドレスにも、そうでないスタイルにでも、ピタリとマッチして、その上顔の輪郭を美しく粋どり、かてて加えて、みぞれ降る夜などは防寒も兼ねるのだから、意義ある流行というべきでしょう。白い布地ならあなたを聖処女にする…」とはじまり、スカーフの長さが足りないとか、もっとゆるみを少なく巻くほうがいいなどの意見が書いてあります。正統派のアリアーヌ巻きは、真知子巻同様白だったのでしょうか?オードリー・ヘップバーンが巻いたスカーフも白っぽい色ですから。あまりきつく巻くと髪型がつぶれてしまうのではとも思いますがどうだったのでしょう、この頃の髪型は上記のアリアーヌを始めふんわりとウェーブなどで膨らませたものが多かったので、少し気になるところです。もう一つ気になったのは、コートを着る寒い季節なのに、パンプス長靴下(ストッキング)が多く、それも薄くて透明な長靴下ほど上等でおしゃれだったのでかなり寒かったんじゃないか、ということです。
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最後は「昼下がりの情事」に見られたアリアーヌ巻的なもの、など。
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平尾賛平商店の昭和までの商品

レート化粧品、平尾賛平商店の昭和4年までの製品の発売年などです。
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画像は1880(M13)年かなよみ新聞広告、と1910(M43)年の、油絵看板。かなよみ新聞の広告、小町水小町あらひ粉、それに薔薇製香水というものもあるんですが、社史の発売製品年代表には掲載されてなくて。1883(M16)年02月、宮内庁御用達となった牡丹香水も詳細は不明ですが日本的な香りだったのでしょうか?菊桐香水は明治31(1898)年、これも宮内庁御用達です。なお、国産の香水は1872(M05)年、東京親父橋芳町よしや留右衛門の洋式香水、桜の水(桜水)が最初だといわれています。
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製品用マーク、有名な化粧品は多くの贋物が出回ったそうです。そのため1912(M45)年6月以来偽造品防止と信用保持の目的で銅凸版印刷の二代目平尾賛平氏の肖像のマークを貼附したということです。その後1926(T12)年12月から三羽鳥マークに改めたそうで、1914(T03)年以降は皇后宮職誤用宮内庁御用金牌受領等の文字の入った花蝶マークも加わり、1925(T14)年には野口柾夫氏などのものも多く加わったそうです。その、いろいろな製品用マークと荷印です。

小町水(明治10年代)、ダイヤモンド歯磨(大正初期)、などは随分偽物が出回ったようですし、フード問題、レーム・霊夢(大正11年)はじめいくつかのレート商標事件、などが起きていたようです。 

社史から1928(S03)年までの発売製品年代表、製品の発売年などです。
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明治期のレート平尾賛平商店と海外進出

1905(M38)年、支那各地に配布せるダイヤモンド歯磨(金剛石牙粉)第1回ポスター、レート化粧品の平尾賛平商店です。
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初代平尾賛平氏は三井組東京商社等を経て1878(M11)年夏神田淡路町岳陽堂と号し松本良順の方剤、脚気薬利水散等を発売しました、後のレート、平尾賛平商店の始まりだそうです。同年12月おしろい下小町水を発売し、化粧品会社として第一歩を記しました。翌1879(M12)年に馬喰町に店舗を移し(『平尾賛平商店五十年史』p1~3)、以下のような↓発展をとげたということです。明治30年代くらいまでは岳陽堂・平尾賛平(新聞は平尾賛平のみ)って広告が多いみたいです。
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1878(M11)年夏――――岳陽堂と号し、松本良順の方剤、脚気薬利水散、他の発売
1878(M11)年12月―――おしろい下小町水、創製発売
1879(M12)年夏――――コレラ流行、虎列刺病除け匂い袋発売
1883(M16)年02月―――牡丹香水上納、宮内庁御用達となる
1891(M24)年06月―――ダイヤモンド歯磨発売(練歯磨発売は1888年資生堂)
1892(M25)年―――――この頃から地方での販路も展開
1898(M31)年01月30日―初代平尾賛平(幼名松次郎)死去、2月より二代目平尾賛平(幼名貫一)襲名
1904(M37)年03月―――大阪市に支店開設
1906(M39)年―――――乳白化粧水レート発売
1909(M42)年―――――レートクレーム発売
1911(M44)年―――――レートヂェリー発売
1915(T04)年―――――レートフード発売
1918(T07)年―――――レートメリー発売
1918(T07)年12月―――株式会社平尾賛平商店設立

1893(M26)年頃から南洋にダイヤモンド歯磨以降他製品の販路を広げ、他地域にも進出します。明治30(1897)年代から四川省重慶(M31年から)や上海(南支はM34年から)、やがて中国各地に代理店を設置し、1916(T05)年には南満州鉄道株式会社と特約を結んだそうです。その後ハワイはじめアメリカでもダイヤモンド歯磨、また南米には他化粧品も展開。朝鮮や台湾では試用品を配って需要を喚起したそうです。その頃1905(M38)年の金剛石(ダイヤモンド)歯磨…牙粉のポスターと原図などが最初の画像です
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説明が前後して申し訳ありません、以下は興味があれば。

おしろい下小町水以前、化粧水としては江戸時代に花の露菊の露江戸の水などあったようですが(花の露などは『江戸の化粧』では蘭引で蒸留した液体や油という説も)商品化された化粧水としてはかなり早いのかも。以降、小町の袖1879(M12)年匂ひ袋、小町あらひ粉1880(M13)年、小町の友1881(M14)年歯磨き、小町水おしろい1883(M16)年、小町粉白粉1884(M17)年、ダイヤモンド名の白粉や香水、日本美人名の商品各種、メリー白粉1902(M35)年、メリー洗粉1907(M40)年、菊桐香水1898(M31)年、一滴香水1909(M42)年、とか…レートlait仏ミルク・乳を意味します、乳白化粧水レートは安息香(ベンゾイン)バルサムやトルーバルサムのチンキでミルクのように白濁させたものらしく、レートフードはガム系(トガラントなど)でとろみを亜鉛華(酸化亜鉛)で白色をつけた濃厚な乳液状のもので少し白く色がついたそうです。二代目平尾賛平氏に拠れば、明治から大正の化粧水は小町水のような透明→白濁乳液(乳白化粧水レート)→化粧液・濃厚乳液(レートフード)という流れ、だったそうです。当時の平尾賛平商店はいろいろな商品を開発しているように思います。

そして、ごめんなさい。松本良順(松本順)と小町水、間違ってたと思います…1878(M11)年に松本良順が処方し岳陽堂(平尾賛平商店)から発売したのは脚気薬利水散、他(天真丹、通じの振出し、風ぐすり、無臭肝油)、などだと思われます。おしろい下小町水は渡邉東洋という方と関係があるみたいで、小町水当時の宣伝効能は假名垣魯文、高畠藍泉(三世柳亭種彦)の筆だそうです。

ついでに明治期の有名な化粧水や乳液系としては、にきびとり美顔水(1886/M19桃谷順天堂、化粧用美顔水はM35)、キレー水(1893/M26以前?山崎帝国堂)、オイデルミン(1897/M30資生堂)、テキメン水(1897/M30田中花王堂)、二八水(1900/M33長瀬富郎商店、現花王)、艶顔水(不明、森下喜野)、キメチンキ(不明、名古屋土屋國次郎・美国堂)、ローヤル水(不明、佐々木商店)、ホーカー液(1911/M44堀越二八堂、後堀越嘉太郎商店、宇野千代さんがスタイルの随筆をまとめた『私のお化粧人生史』で絶賛している)など、処方はグリセリンにアルコール、酸やアルカリ、水(蒸留水やハーブウォーター類)といったものが多かったそうです。大正になるとレートフード(1915/T04平尾賛平)や白色美顔水(1914/T03桃谷順天館)などの白色系の?ものが流行ったらしく、他にクラブ乳液(1913/T02中山太陽堂)、美顔ユーマー(大正期~S04以前、桃谷順天館、化粧液)、ヘチマコロン(1915/T04天野源七商店、現大山)とか、ヘチマコロン以外は乳液的なものが多かったみたいです。昭和に入ると植物系(瓜、果物)のものや酸性のアストリンゼント系のものが多くなるような。ちゃんとまとめたいんだけど…

この時期、花王という名称が多いのです、混同しがちですが、現花王の長瀬富郎商店と田中花王堂(問屋)と花王白粉(脇田盛夏堂)とか。まとまりもなくだらだらと書いてしまいました…

参考 平尾太郎(1929)『平尾賛平商店五十年史』
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