戦争の頃の標語で「パーマネントはやめませう」というものがあります。パーマネントは国産の機械ができて、ようやく普及が始まったばかりだったのですが。

日中戦争であらゆる物資が不足していてそれを補うために1938(S13)年04月01日の国家総動員法公布以降、国民生活のあらゆる分野が統制(経済活動などに制限を加えること)されていました。新聞にパーマネントが禁止されるという記事が掲載されたり(警視庁衛生係は事実ではないとコメント)、貴重な電力資源(発電には石油石炭など資源が必要)を無駄に使う(当時のパーマには電気の熱を使った)と弾圧されるのではないかと、当時の美容業界は懸念しました。「電髪」という名称への変更や、時局向きの髪形「淑髪」の考案、技術の向上など、さまざまな工夫を凝らして自粛自戒しましたが、1939(S14)年6月16日、国民精神総動員委員会(精動)は「学生の長髪、パーマネント、ネオンの禁止」などの運動方針を決定しました。方針の決定、で、禁止ではないかんじ…?

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美容業界は活路を求め国民精神総動員委員会首脳部を訪れ政府高官(の委員)から「慎ましい化粧は良い、パーマも全面禁止ではない」と…一部の行き過ぎた化粧や雀の巣のようなパーマが弾圧の対象であるとの回答を得たようで…す?なので、業界としてはこれ以降もパーマネントはおこなっていたようですが(以後発行された美容書でもパーマへの言及はあります)、世間は次第に「パーマネントはやめませう」と非難するようになっていきました。さらに、1940(S15)年2月1日電力調整令によってドライヤーなどの使用が禁止されました。濡れたままセットをしたり、電力を使わない木炭を熱源を使ったりと苦肉の策を講じはしましたが、5月9日燃料が配給制が整備されとどめを刺されることになります。しかし、この3ヶ月の延命は、美容業界人が身の振り方を考える貴重な猶予期間でもあったそうです。

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以上は、廣澤榮「黒髪と化粧の昭和史」内で紹介されている、小出新次郎「パーマネント・ウェーブの周辺」(しんぴょう)の内容、東京小間物商報などからです。その後、7月7日の奢侈品等製造販売制限規則(七・七禁令)の贅沢禁止令ですから、美容業界への打撃は大きかったと思います。実際には、それ以降1943(S18)年くらいまでは一部でパーマをかけることはおこなわれていたようです。1943(S18)年1月27日、鳥取県庁で職員の電髪(パーマネント)と口紅の使用を一切禁止する、と新聞が報道しているようですし(昭和二万日の記録)。なので、パーマは電力や燃料使用などの制限という形で実質規制されたものの、パーマそのものを禁止する法律等はそれまでなかったのではないか、と思うのですが…微妙?によくわかりません、謎です。ともかく「パーマネントはやめませう」とか「贅沢は敵だ!」「お袖(和服の)は短く切りましょう」などの指摘も、マスコミや同じ女性である婦人会などが率先していたような…イメージもあります。

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1939(S14)年秋くらいから一時若い女性にリボンが流行するようですが、パーマをはじめさまざまなおしゃれが制限され始めたことと無縁ではないかもしれません。

画像は以前の「非常時下の花嫁01-05」でも使った「花嫁講座」から。1939(S14)年11月発行ですから、国民精神総動員委員会によってパーマが禁止された、と一般に理解されている時期以降です。髪の手入れの記事では「パーマネントの手入れ」についてもしっかり、言及されていますが、一方ではパーマの代わりに、アイロンを使ったりさまざまなウェーブの方法が紹介されています。1939(S14)年末の髪型各種、この時期から終戦後までの代表的な髪型のリバース(内巻)と一本ロール(長めの外巻)、アイロンを使う方法、アイロンを使わない方法、便利なロール用の道具。同時期の髪型は「非常時下の花嫁05」にもすこしあります。「ゾートス整髪」も、ほぼ同じ時期…奢侈品等製造販売制限規則あとです。

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