占領期の記事を書いていて、数寄屋橋の画像を目にすることが多く手持ちのものをまとめてみました。数寄屋橋は江戸城の外堀にかかっていた橋で、1972『資生堂社史』によれば、1957(S32)年(1958年説が多い)首都高速道路建設の外堀埋め立てで消えたとあり、江戸城の外堀と運命を共にしました。江戸城の外堀には銀座あたりだと北から八重洲橋・鍛冶橋・(西へ、紺屋橋・京橋)・有楽橋・丸ノ内橋・数寄屋橋・山下橋・新孝橋・土橋・難波橋・新橋などがありました。最下画像参考
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左から、明治-大正頃の数寄屋橋、1928(S03)年数寄屋橋と朝日新聞社、1931(S06)年数寄屋橋小公園と丸ノ内橋
数寄屋橋は1629(寛永06)年に外堀へ架橋、御門内に南町奉行所がありました。1923(T12)年の関東大震災後の1929(S04)年頃新しい橋が完成、近くの朝日新聞東京本社は1927年、丸い形の日本劇場(日劇)は1933年にできているようです。wikipediaにもあるこの新しい数寄屋橋の写真は、手持ちの1957(S32)『資生堂社史』からで、完工間もない数寄屋橋『江戸城の今昔』からと書かれています。国会図書館で調べると1928『江戸城の今昔』鳥羽正雄、確かに數寄屋橋門(舊)と數寄屋橋(現)があるようで、1928(S03)年の工事中の写真ではないでしょうか?
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1945(S20)年の空襲、数寄屋橋から銀座4丁目方面とその逆方向
銀座の空襲は1945(S20)年1月27日午後、泰明小学校(銀座5丁目、数寄屋橋の西)が直撃弾2発を受け、朝日新聞社と日劇の間にも爆弾が落ちた他、銀座4丁目、西4-6丁目が火災に、有楽町界隈も罹災しました(画像はその時のものかもしれません、撮影は石川光洋さん)。3月9-10日の東京大空襲では銀座1-2丁目、西2-4丁目が焼夷弾で炎上。5月24日夜半の空襲では縦断爆撃で残っていた部分、1-5丁目と6丁目の大部分が焼き払われました。かろうじて新橋寄りの7-8丁目が焼失を免れました。
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1948(S23)年数寄屋橋上の露店、1952(S27)年頃
終戦後の占領期には、近くにGHQ関連施設が多くパンパン(闇の女)と呼ばれた街娼が現れ、数寄屋橋は進駐軍兵士との待合場所として有名でした。また外堀側に沿った電車通りに屋台も並んでいて、闇商人と不良外人がたむろしていました。橋の袂に巡査派出所(交番)があって、警官がパンパンに注意をすると連れの進駐軍兵士に殴られたり、酔っぱらった兵が日本人を数寄屋橋上から外堀側へ投げ込む事件も何度か起こり、投げ込まれた女性が干潮時の泥に足をとられ溺死したこともあったそうです(1947年9月)。1953(S28)年11月と12月にもポン引きや会社員が投げ込まれています、逆に兵が日本人に投げ込まれる事件もあって袂の巡査派出所(交番)には小舟が備え付けられるようになったそうです(1994『MPのジープから見た占領下の東京』他)
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1953(S28)年数寄屋橋アメリカ兵投げ込み事件と映画『君の名は』
同じ頃、1952(S27)年ラジオ、1953(S28)-1954(S29)年の映画で有名な『君の名はで、主人公の真知子と春樹が東京大空襲以降、すれ違いが何度も起きたのもこの数寄屋橋、全国的に有名になりました。
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1957(S32)年高速道路の工事
1957(S32)年11月発行の1957(S32)『資生堂社史』での首都高速道路建設のため数寄屋橋の取りこわし工事の写真をいろいろです。現在の数寄屋橋交差点近くには有楽町マリオン、東急プラザ銀座、ソニービル、不二家などがあります。
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 1934(S09)年の地図と、外堀の橋