戦後のファッション史の多くはスタイルブック洋裁学校などの洋裁ブームとともに、パンパン(闇の女・夜の女)と呼ばれた街娼たちのファッションを取り上げることが多いので、パンパンの服装について。一般には、赤い口紅などの厚化粧・明るい色・ネッカチーフ(スカーフ)・ナイロンのショルダーバッグ・フレアーのロングスカートなどが指摘されていますが、実は時期ごとにさまざまに変化しているようで、特に朝鮮戦争前後の変化は結構大きいと思います。
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画像は服飾評論家のうらべまことさんが、1956『流行の裏窓』で紹介されたパンパンファッションです。
左のパッドの入った張ったいかり肩のフレンチスリーブの膝丈のワンピース、真ん中の同様の上着とターバンの画像はどちらも
1946(S21)-1947(S22)年頃だと思われる典型的な占領初期のスタイルだと思います。
右のGIと並んだ女性はスカートの丈から1949(S24)年頃だと思われます…
終戦後、占領初期の1948(S23)頃までのパンパンファッションは、濃い真っ赤な口紅・描き眉・マニキュアなどの厚化粧、下してカールやパーマなどの装飾的な髪型、パッドで張った肩・短いスカート・明るい色・ネッカチーフ(スカーフ)・ナイロンのショルダーバッグ・ローヒールの靴やサンダル(または下駄)・ソックス(か素足)などのまだまだ戦争中の延長的な、当時アメリカなどで流行していたミリタリー色の強い機能・活動的な雰囲気のシンプルめのファッション、を一般女性より早く派手に取り入れたものでした。色は赤や緑などの原色に近いものが流行ったといわれています。髪型はおでこを出す高く膨らませた前髪と後ろは内巻きにした装飾的で固い感じの塊になった日本髪的なカールです。

その後、1949(S24)年頃以降ディオールなどに代表されニュールックと呼ばれた、広がったフレアーのロングスカート・なで肩と細腰・ハイヒール・長靴下(ストッキング)の女性やしいロマンティックなスタイルが大流行しますが、これを最初に積極的に取り入れたのもパンパンたちだったといわれます(流行の牽引が服飾関係者・芸能関係者・意識高い系とか富裕層、に加え進駐軍関係者・パンパンというのがこの時代の特徴?)、色は原色に代わって中間調の落ち着いたものが主流になっていました。またこの時期の髪型はパーマでふわふわさせた以前より短めの少し前髪が額に下がったり、横分けなど分けめのあるものです。敗戦の混乱も落ち着いて物資不足も解消されて来て、全体にこぎれいでセンスが良くなっています。朝鮮戦争前の頃には占領直後多かった進駐軍は帰国して一時減るのですが、朝鮮戦争(1950年6月-1953年7月)で再び一気に増えたため(在日米軍の数は1945末43万→朝鮮開始時12万→戦争中35万)パンパンも増え、同時に占領初期とはパンパンの性質が違っていました。初期はグループの縄張りなどがあっても個人が独立して定まらない場所で営業を行っていたのですが、この時期には組織化や定宿・定住などの変化があったようです(ポン引き・オンリーも増えていました)。また、一般女性もですが、終戦直後の混乱が収まって少し余裕が出来た時期なので、全体にこぎれいにセンスもよくなっているようにも思います。

といったように朝鮮戦争以降の数が増えた?時期のパンパンは、占領初期の本来の定まらない場所で独立して営業する街娼とされるパンパン・闇の女とはタイプが違ってきていると思いますが…この朝鮮戦争前後の時期のロングスカートなどのファッションがパンパンファッションの特徴とされることも多いようですで…街娼というよりはアメリカ軍駐屯地の基地の女というイメージが強いように思います…

パンパンとは何か?という定義がアメリカ兵相手の女性であるなら朝鮮戦争前後の中間調の色のロングスカートにハイヒールのファッションとふわふわしたやや短めの髪も間違いではないと思います。一方終戦直後に現れた、街頭で客をさそい定まらない場所で個人で売春する街娼をパンパンとすれば、よりその性質が強い占領初期のパンパン達がこれに相当し、そのパッドで張った肩・短いスカートのミリタリー的な原色の多いファッションとおでこを出す高く膨らませた前髪と後ろ内巻きの固い感じの塊的な日本髪的なカールの髪型、が特徴となるようにも思います。基本的に一般女性より早く、欧米の(特にアメリカの)流行を派手に取り入れたものです。

どちらにしても職業柄、全体に派手で目立つ先端的なファッションと、濃い真っ赤な口紅・描き眉・マニキュアなどの厚化粧は同じですし(白粉も濃かったと思います)、、一般女性と最も差がある部分だと思います。

時期を追って、少し詳しくみていきます。
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アメリカ軍関係の女性たち
終戦と同時に、アメリカを中心にした連合軍が進駐し1952(S27)年に独立するまで日本を占領しました。連合軍の進駐に備えて新聞などで「婦女子の場合は、慎重に剛健な服装を維持しなければならない」「脱ぐな心の防空服・女子は隙なき服装」と女性のもんぺ着用の継続が促されました。また実際には、戦災・戦後の混乱・物資不足などでもんぺしか着るものがなかったことや、戦争中に続いて働かなくてはいけない場合も多かったので、活動・経済的なもんぺは戦後数年間は重宝されていました。

進駐軍が上陸すると、慰安所や娯楽施設(ダンスホールやキャバレー)で相手をする女性が現れました。最初の頃は、もんぺを穿いている場合もあったようですが(参考 1945/S20年の遊郭の女性のもんぺ姿)、その場合の女性たちも、凝った装飾的な下した髪型とお化粧をしっかりしている場合が多いようで、その辺りが一般女性(まとめ髪か単純に下した髪に素顔か薄化粧)との差なのだと思います。これらの進駐軍相手の女性たちが真っ先にもんぺを脱ぎ流行を取り入れた洋装を始めました、商売上の必要と、進駐軍兵士のPX(Post Exchange軍の売店)等経由のプレゼントや横流しなどアメリカの製品を手に入れる機会に恵まれていたからです。戦前も欧米のファッションに憧れる風潮は強かったのですが、戦争中は海外の情報やお洒落が規制されていたので、新聞などが進駐軍女性兵士の写真などを掲載するとし5-6年ぶりくらいの「新しいファッション」として魅力的にとらえられたようです。

進駐軍相手の女性たちの、真っ赤な口紅と細い描き眉やマニキュアなどの厚化粧、戦争中のまとめ髪を下してカールやパーマなど、といった取り入れやすい部分から始まった装いは、次にもんぺを脱ぎスカートを穿いてアメリカの流行のスタイル…張った肩、短いスカート、明るい色、ネッカチーフ(スカーフ)なども積極的に取り入れ、一般女性がまだもんぺを穿いていた時期だったので…それらがパンパンの特徴となりました。パンパンの一般より際立って派手なお化粧や髪型は明確な特徴だったようですが、服装そのものはアメリカなど世界的に流行っていたものを一般女性より早く、派手に取り入れたというのが実際のところだと思います。パンパンに限らず、占領初期の洋装は物資不足と戦争中のブランクで、お洒落に不慣れでバランスは悪かったようです、なので不必要に派手で(職業柄目立つ必要はありました、地味なもんぺの時期、鮮やかさがことさら際立ったことだと思います)アンバランスな着こなしもまたパンパンの特徴とされています。

パンパンである可能性の高い女性たちの画像です。
下画像最左1945(S20)年もんぺ姿、これだけはパンパンとは書かれてない方たちで、髪形は戦争中のまとめ髪から下したダウンスタイルになっています。終戦後は、銘仙など綺麗めな色柄のもんぺを作ったり、男性用を改造したズボン、もんぺの上衣部分を上着にしたり、シャツやブラウスの襟(や、それに見える替え襟)を上着から覗かせる着こなしも流行った?ようです。

終戦直後のパンパンは、あかだらけの素足にちびた下駄をつッかけ、もみくちゃになったワンピースに買物袋。頭髪にはシラミの卵が一杯についていて、病院の看護婦たちに悲鳴を上げさせた。また、うすよごれた肌着につぎはぎだらけのキモノ・スリーブといったものもいた(1949『肉体の白書』)という記述や、モンペという無様なパンツスーツ、爪が磨かれていず手はガサガサ、歯並びがきたなくブリキの歯を入れている、上から下までストレートのずん胴で曲線なし(1979・1995『敗者からの贈り物』)といったものもあります。
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中ほどの画像は1946(S21)年のおそらくパンパン、白いブラウスとスカートに下駄、花柄のワンピースの二人組は下駄や靴にソックスで(当時ストッキングなしはマナー違反、貴重な靴も伸びてしまいます)物資不足が忍ばれる装いだと思いますが、お化粧や髪型は戦争中にはなかった派手な?もの。

1946(S21)年春、進駐軍の若い兵隊さんが大和撫子を連れて楽しそうにしているのをよく見る、御婦人を大切にして、もんぺともズボンともつかないいでたちの女性でも丁重に、大事そうに腕をとっていたわっている(1946年3月『スタイル』)といった記述があります、スカートが増えるのはもんぺが暑く感じる夏くらいから、夏物は簡単で安いですし、長靴下(ストッキング)なしの素足にサンダルでもOKなので。靴と長靴下(ストッキング)は洋服以上に入手難だったそうです。

左の1947(S22)年のパンパン二組、ズボン姿も実際は結構多かったようです(特に冬、ストッキングがなかったのも理由)ラクチョウのお時さん有楽町の闇の女(パンパン)たちもズボン姿でした、ズボンは男性用のものを開きの位置を横側にするなど改造したようです。ズボンの二人は首に巻いたネッカチーフ(スカーフ)が目立ちます、でも足には下駄。最左のカバンとスカートも当時としては目を引いたかも、どちらも髪やお化粧にはかなり気を使っているようでサザエさん的(連載開始は1946年)におでこを出す高く膨らませた前髪と固い感じの塊になった日本髪的なカールはこの時期の特徴。
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ネッカチーフ(スカーフ)・ターバンと肩パッド(パディング)の記事
ネッカチーフ(スカーフ)・ターバンや・フードも流行っています、在日のアメリカ女性が埃よけや帽子代わりに(帽子を持ってこれなかったため)盛んに用いていました(1947『ファションヴィユ』)。戦争以来の機能性や道路事情の悪さもあってローヒール・ズック・サンダル・ウェッジソールが多かったようですが、ハイヒールなども現れ始めたそうです、もちろんまだ下駄ばきも少なくなかったようですが。また、ショルダーバッグやバニティケース的なバッグ類も見られたようです(1947/8『スタイル』)
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上は1948(S23)年。左はスカートやズボンにサンダルソックス、右はバッグ類もちゃんとしたものになり、少し伸びたスカート丈やワンピースなど服装が整ってきているようです。肩から下げるナイロンショルダーバッグはパンパンの持ち物としてよく語られます、ナイロンは当時プラスチック・ビニール(ポリ塩化ビニル)など合成樹脂素材の呼び名だったようで、アメリカ製のものが中心でした。

少しずつ復興が進んでいて、ややロマンチックになった流行を上手に取り入れるパンパンも増えていました。お化粧は赤い唇に細い眉、香水なども一部では使われていたようです。オンリーと呼ばれる特定の相手の決まったパンパンが増え、相手が将校などだと贅沢が出来る場合も多かったようで毛皮なども着られています。しかし、貧しいパンパンも多く1948年10月の衣服の所有枚数は1.4-3.2枚、前や次の季節の衣類冬服を持っていないものがほとんどだったそうです。パンパンはお金があると全部使ってしまうようなタイプも多く、前の季節の衣類を売って次の季節の衣類を買ったといわれ、定住しないものなどはいわゆる着た切り状態のものも多かったそうです。この時代、自分で服を作る場合も多かったのですが、風俗関係の女性たちは買うか仕立てかだったようです。

1947年2月に発表されたディオールに代表されるロングスカートのニュールック、日本で積極的に紹介され始めるのが1948(S23)年初頭から、先端的な女性が着るようになるのが同年の夏から秋くらいから、さらに一般の女性に広まったのが翌1949(S24)年くらいだと思っています。パンパン(オンリーなど)の女性がこの流行を取り入れたのは一般より早いようですが(1956『流行の裏窓』1965・1982『流行うらがえ史』、1978『東京闇市興亡史』)、写真を見る限り1948(S23)年はまだ若干スカート丈が長くなったという感じではないでしょうか?ですが、詳細なことは調べ中です、信用しないでー
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時期ははっきりしませんが、1949(S24)年頃以降のパンパンたちだと思います。時期を見分けるポイントはスカートの長さ、左のようにスカートにフリルをつけるのは1948(S23)年夏以降だと思います。また、髪形も占領初期は戦争中のまとめ髪を下したダウンスタイルで、おでこを出す高く膨らませた前髪と後ろは内巻きにした装飾的で固い感じの塊になった日本髪的なカール、1949(S24)年頃には全体にパーマのかかったやや短めふわふわした髪型が主流になります。オキシフルなどで脱色した、茶髪もパンパン特有だったらしいです。

パンパンと呼ばれた女性たち…実際には、タイプもいろいろですし、流行も時間を経るとさまざまに変化しているので、そのファッションは千差万別だと思います。特に初期のパッドで張った肩・短いスカートといった服装ははあまり知られていないので残念です。各時期の服装の傾向は、右タグクラウドの各年などでも少しわかるかも?

参考