むかしの装い

―昔のこと、装うこと―

1920年代

大正14年の男性の洋服

1925(T14)年の『最新洋服概論』から、大正14年の紳士服…男性の洋服です。青木仙五郎さんが書かれたこの本、女性のものも多少あるのですが、主にこの時期の男性の洋服についての内容です。子供服、学生服、労働服、運動服、外套、礼服、軍服、宮廷・官僚などの制服などを画像と共に紹介していて、その当時の説明や使用生地などが書いてあるので簡単に紹介します。詳細は国会図書館のデジタルライブラリーで書名検索してご覧ください。画像はこの時期の多くの本同様に海外誌などからの可能性が高いです。
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モーニング ビジネスモーニングは商用や散歩用でフロックにつぐ略式礼装。 裾が斜めに切ってあるモーニングコートは上衣が黒チョッキでズボンがコール地(夜会は縞)、燕尾服(テイルコート)同様の礼装用。ダブルタキシードは食堂用や晩餐会、チョッキは白、絹の長めの襟でヘチマ形と上がり襟形があり、トラウザースには絹縁を一本つける、司会者の許可があれば燕尾服の代用が可。シングルタキシードはシングルの拝みボタン、靴はエナメルでネクタイは蝶結び。ダブルプレスト(2列ボタン)で丈の長い上着のフロックコートは礼装用、ダブルボタンでタックがつく。本文はオーバーコートの後の13章です

燕尾服(テイルコート) 我が国では、民間着用の大礼服。外国では午後の披露会・晩餐等に用いる正服。黒地の三つ揃い、披露会・晩餐等は白いチョッキ。ネクタイは白蝶結び、靴はエナメル。イブニングドレス、ドレスコートとも。
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男児服 ユニオンスーツで他の本などでコンビネーションと呼ばれている上下がつながった下着。日本の猿股(パンツ)のように股が閉じたものは用いないとの説明です、パンツの下部が開いているのでトイレは脱がなくても大丈夫なタイプで、次のウエストスーツなど同様ゴムなどの締め付けが良くないとされていたので。シャツブラウスをパンツの上に着るのがアメリカの男児の通常服、衿をつける時代。
ボーイススーツ やや改まった場合の少年のスーツは三種類、ウエストパンツはベストのようなウエストにパンツがボタンで留めてある古い時代の小児服、かぶって着るブラウスのブラウスパンツは水平型が多い、スーツ的なコートパンツオーバコート、ケープは絶対に男子は着ないと。
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学生服 児童用、中学校用、専門学校・大学用
労働服 前当てパンツはオーバーオール的なもの、続き服はつなぎみたいなもの、詰襟労働服オーバー、どれも鼠・浅黄、ホンコン織(参考01)などの丈夫な生地を用います。

陸軍服の説明があります、海軍服で水兵服と准士官・将校用の衣服です
陸軍海軍大礼服、本文は16章です
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紳士用パンツ 主に礼服用のシングルトラウザース、運動・散歩服用のマッキンレイトラウザースは丈が短め、乗馬用トラウザースには長・半キュロットがあり、ボタンが多く足に密着しているのが長キュロット、密着部分が短いのが半キュロット

ウエースト(ベスト) ダブルノーカラー、シングルノーカラー、ドレス用ノーカラー(夏と冬)。
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サックスーツ(背広) 事務・散歩など昼間用のサックスーツ(背広)。1列ボタンのシングルブレステッドサックスーツと2列ボタンのダブルブレステッドサックスーツ
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運動服 シングルブレステッドゴルフスーツ、散歩や舟遊びの際のスポーツコート、狩猟服のハンチングドスーツ、乗馬服のライチングスーツ、狩猟服の一種で半キロットのシューチングスーツ。屋内用のハウススーツ
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オーバーコート 礼装用のシングルブレステッドチェスターフィールドダブルブレステッド(2列ボタン)チェスターフィールド。普通オーバーのシングルブレステッド(2列ボタン)オーバーコート、春秋のフライフロントオーバーダブルブレステッドアルスターはボタンがダブルで丈が長め、日常用の厚手のシングルブレステッドアルスター、厳寒時の厚手のダブルブレステッドアルスターは丈も長め、薄めの普通の生地を用いた一般的なダブルブレステッドアルスタ、バンド(ベルト)付のダブルブレステッドアルスター。裏が毛皮のファーオーバーコートは最も厳寒に対応、散歩用のルーズフッチングオーバーコート、散歩や旅行用のゆとりのあるスポーチングラグラン、は室内用のドレスローブアルスター
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ケープ スリーケイプは肩から蹴廻し(裾?)まで縫い目があって、刳抜ケイプの縫目は肩だけ(大きな布を刳り抜く?)もので中学生用?なのでしょうか??
インパネス 外国の礼装用の外套、日本んのトンビとの違いは全体に短いこと?トンビは丈長で和服の上に用いることが中心。インパネス(またはそれに類する西欧の衣類)が和装に合わせて長くなったのがトンビでしょうか?西洋トンビやトンビインパネスと呼ばれることもあり、二重廻し、などの名前やそれぞれの定義は各説あるようです。この本でトンビは、和服に合わせて丈長の和服専用のインパネスのようなものといった説明でしょうか?

これ以降は、軍服や礼服の詳細な説明になります。陸軍正服、次に、陸・海軍の大礼服、各官の大礼服。洋服着用の心得として、「高位高官に面接の服装」「結婚式場に臨む場合の服装」「葬式に臨む場合の服装」「披露宴や食事、お茶の場合」「競馬場」「旅行、運動」「芝居、舞踏会」と続き、その他のも服も紹介して終わります。洋装も、和装も、この時代は状況や身分などで非常に厳格な決まりがあり、それを破ることは、本人のみならず家族・親類や関係者にも迷惑がかかるといった面もあって、その辺りは忘れてはならないと思います。

紳士ものって、詳しくないのでかなり間違っているかもしれませんが、これを書くことで少し知ることができて、自分にとっては良かったです、すみません。これ以上のことを書こうとすると一般的な男性の洋装が明治前後頃からなので、大変なことになりそうです。女性は一般化が大正期なのと、やはり慣れているので多少楽ですが、古い時代はとても難しいと現在痛感中です。同1925年の『TS洋服裁断全書』も紳士ものですので国会図書館でぜひ。

参考01 1923年に起きた関東大震災の際、支援物資の中にジーンズが入っていて「香港ズボン」と呼ばれた http://www.ykksnap.co.jp/products/infographics/history-of-jeans.html

大正13-15年の洋装

1924-1926年(大正13-15)年の日本の洋装です。欧米の服装が1914-8年の第一次世界大戦で大きく変わり現代の服装に近くなったように、日本の服装は1923(大正12)年9月1日の関東大震災が大きく変わるきっかけになった、といわれています。関東大震災の少し前から啓蒙的に洋装を広めようとする動きが活発化して、日本的な直線裁ちなどを取り入れた簡単に縫える簡易服の普及が試みられたりしていました。実際、学校の制服的なものや職業服が採用されたり、子供の洋装が増えつつあったようですし、女性の洋装も現れ始めていたようです。画像は国会図書館蔵の同時期の本からです
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1924年、大きなリボンが流行っているようです、靴下はたるんでいる感じで、仕立てや着こなしなど全体の印象がぎこちないようにかんじます
学生服やセーラー服も通学服として増えていたようです、最右は直線裁ち的な簡単服の製図で肩がつながっているので脇さえ縫えば完成します。
欧米の服装は第一次世界大戦後に女性が労働と社会進出に適した、短いスカート、体の締め付けの少ない筒の服型、清潔で簡単な短い髪型、などへの変化していて、その変化は日本の進歩的な層にも知られつつありました。日本の洋装は男性の外出着は広まっていたものの、女性の洋装はまだまだ難しかったようですが、関東大震災はその導入の一つの機会になったといわれています。洋装は当時の進歩・知的な層が牽引する傾向が強く、学校教育や講習会、新聞・雑誌などの紙情報などを通して啓蒙的に広がっていったように思います(アッパッパは少し違うけど)。また日本の環境に適するように、洋服や和服を改変した改良服などの試みが生活改善の一環として考案されました。
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上流階級の女性は明治期から徐々に洋装を取り入れていたものの、一般の洋装は学校の制服職業服などと子供服から普及していったようです。国会図書館で「洋服」などで検索すればわかるのですが、大正後期の洋裁の本の多くが主に子供服中心の本でした。それらの本では洋服は和服に比べ、布地が安く経済的で、活動に適し、締め付けがなく健康的で、洗濯が簡単で衛生的、などの理由で推奨されています。既製服や洋装店や百貨店であつらえることもありましたが、伝統的に和服は家庭で作られていたので、洋服も家庭で縫うことを前提の指導書が大正後期ころから盛んに発行され始めたようです。当時の女性は着物を縫えないと結婚できなかったため、女学校などの女子教育でも和裁は必須でしたが、それに洋裁が加わったのも同じ頃のようです。
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1925年、昭和戦前までのファッション画は海外のものを模写したように思えるものが多いのが特徴です、なので欧米の流行もかなりダイレクト。前年より、若干ゆるみが減ったようにかんじます。
和服は形が決まっていましたし、直線裁ちで生地のほつれも少なく縫ったり解いたりが簡単だったのですが、洋服は体型に沿わせるため生地の裁断や縫製が複雑で、しっかり縫えるミシンも必要です。その上流行によって形の変化が激しく、リフォーム・リメイクも簡単ではありませんでした。そこで誰もが簡単に縫えるように直線裁ち的な改良服なども工夫もされました、当時の欧米の流行は直線的な筒形のチュニック的なものでしたのでデザイン的に違和感も少なかったようです。欧米の直線的な筒形のチュニック的な流行は第一次世界大戦後に、機能経済性健康などを考慮された結果の簡便化だったので、日本でも簡易服として洋装が取り入れやすい時期だったのではないかと思います。といったかんじで、大正後期には子供の洋装が、裁縫が簡単で布地も安価な夏服から広がりつつあり、同時に一般女性の洋装も現れはじめていました。
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1923(大正12)年9月1日の関東大震災では、和服の女性が「帯などの締め付け・運動を妨げる長い袂・足さばきの悪く裾が乱れる」などの理由で逃げ遅れたとされています、当時の帯は現在主流のものより、幅が広めで袂も長いものが多かったようです。これらの状況やその報道なども、洋装化が進むきっかけになりました。また、震災後にアッパッパと呼ばれる夏の簡易服(自作や既製品など)が広まって、庶民の洋装化のきっかけになったとも一般に言われています。欧米で第一次大戦が女性の服装に大きな変化をもたらしたように、日本では関東大震災とその復興が洋装普及の契機になったとされています、戦争や災害などは大きな社会の変化と同時に、服装や生活にも多くの変化をもたらすようです。
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というような流れで関東震災後の大正末には、制服職業服以外に都会の子供の洋装がかなり増え(都市部富裕層で1/3-1/2?)、一部成人女性の洋装も現れ始めていました。洋装は成長期の子供にとって、活動的健康的衛生的でしたし、子供服は布地が少なくても作れて材料費も安く(当時の規則に従った和装は洋装に比べて非常に高額でした)、工夫すれば和服地や古い衣類などから作り直す(更生・リメイク・リフォーム)ことも可能で経済的と盛んに奨励され、通学服として定着していきます。この子供たちがやがて学校の制服なども経験し洋装になじんでいったので、1930年(昭和一桁後半)以降、女性の洋装が増えていったのだと思います(当時の洋装にも本来は厳しいドレスコードがありましたが、和装よりは自由に解釈される傾向が一部にあったように思います)。ただ注意したいことに、戦前から戦後しばらくの間の洋装は外出着(特に通学・通勤・職業服、とおしゃれのための服)が中心で、家では和服を着ることが多かったのです(夏の簡単な服は普及していましたが、冬は和暖房が整備されてなく寒かったので和服が多かったようです)。当時はこれを(和服と洋服の)二重生活と呼んでいました。
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1926年、さらにゆるみが減って襞が少なくなり筒形のチュニック的で都会的なかんじの1920年代的ともいえるタイプになっているようです
国会図書館の資料や婦人誌でも、洋装を扱う書籍や記事が関東大震災後に急に増えていて、そのどれもが実際の洋装を想定した実用的な内容だと思います。画像は、その洋装に関するものを国会図書館蔵の、1924年『実用新型夏から秋の子供服』、1924年『家庭で簡単に出来る男女 子供洋服の裁ち方と縫い方』、1925年『家庭文化裁縫』、1926年『簡単服の裁縫』、1926年『夏の女児(男児)洋服の作り方』から紹介しました。国会図書館のサイトで書名で検索すれば、詳しく閲覧できます。
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どの本でも、直線裁ち的で袖と身頃と肩が続いていて脇だけ縫えば簡単に裁縫できる簡易服が紹介されています、キモノ・マジャール・メジャースリーブと呼ばれたものです、マジャールはMagyarokでハンガリー人…トルコ的なイメージの袖です。 この時期はまだ、洋服地が手に入らないことも多く、浴衣地・銘仙・羽二重・セル・メリンスなど和服用の反物を使ったり、古い和服や洋服やその他の衣類から作り直す(更生・リメイク・リフォーム)といったことも行われていました。古い時代、庶民にとって布類は貴重品だったので和服も洋服も何度も作り直してさまざまに活用し、最後は雑巾などになるまで使い尽くしていました。親子三代にわたって使用されることも珍しいことではありませんでした。

1924-1926年の海外ファッション

1924-1926年(大正13-15)年、1920'sの海外ファッションです。1914-8年の第一次世界大戦時、男性に代わり女性が労働せざるを得なくなって社会に進出し、労働に適した締め付けをなくした丈の短いシンプルで機能的な衣服と短く軽快な髪の現代的な服飾が広まりました。この時代はローリング・トゥエンティRoaring Twenties…狂騒のとか揺れ動く20年代、などとも呼ばれ1929年世界恐慌まで続きました。
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第一次世界大戦は欧州大戦とも呼ばれるように、ヨーロッパを主戦場としたため欧州の疲弊とアメリカの好景気を招きました。ヨーロッパが低迷するのに対し、繁栄するアメリカでは、技術と産業構造が発展し大量生産・大量消費の時期に入ります。一方、ヨーロッパがようやく立ち直ったのが1924年あたりだといわれます。
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ジャズとダンスとシネマ、禁酒法とカクテルとパーティ、アールデコとシュルレアリスム、フラッパー(現代娘とか)とギャルソンヌ(少年のような娘)…てきとうですが、といった陽気な喧噪のローリング・トゥエンティの時代が、戦傷者と労働者階級の飢えと失業の悲惨さと対立しながら、本格的な幕を開けました。
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ファッションも、この1924年くらいから20'sの特徴である、ショートスカート筒形で平らな胸とローウエストショートカットとクロシェCloche(釣鐘型の帽子)、といったスタイルが、顕著になってきます。ドレスの軽量・小型化と機能化に伴い、以前の強く締め付ける胸から腰までを覆う大きはコルセットなど重く苦しい下着に代わって、ブラジャーと小さくやわらかなガードルや軽く小さな下着も普及しました。一方で、白粉と口紅、眉墨などの濃いお化粧が広まり、アイラインやアイシャドーのアイメイク、ネイルや染髪なども盛んになっていきました(元来欧米では宗教上の理由や禁欲的な19世紀の傾向から濃い化粧は慎むべきものでしたが、外出の機会が増えたことや女性の立場の変化、化粧品の進歩、映画の影響などとされます)、ただ濃いお化粧は夜のドレスアップの時のものだったみたいです。
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クチュリエcouturier(ドレスメーカー)では、シャネルCHANEL、ヴィオネVIONNET、パトウPATOU、スキャパレリSCHIPAELLI、などが有名です。ヴィオネて、案外知られてないのですが…ジャージのスーツのココ・シャネルに対し、マドレーヌ・ディオネはクレープ・ジョーゼットをバイヤスに使ったドレープのドレスで知られています。他に、マギー・ルフ、ルシアン・ルロン、エドワート・モリヌー、ジャック・エイム、などのメゾンmaison(会社・店)が台頭し以前からの、ランヴァン、キャロン、などと共にオートクチュールの黄金期ともいわれます。
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という1920年代の、1924-1926年の海外ファッション、スカート丈がだんだん短くなっていくようすがわかるでしょうか。それぞれ上がフランスのオートクチュールと下はアメリカの通販、微妙な差があるようです(フランスは年ごと、アメリカは1925/26一緒なので注意)。てきとうな選び方です、すみません。また、ドレスコード(服装の規則)が厳然とした時代ですので、本当は昼の服や夜の服…アフタヌーンドレスとかスポーツドレス、イブニングなど別個に検討するべきなんですけど…資料も少ないので、ありがちな画像ですし、と、ごまかします…その辺あいまいに紹介する悪い例です、古い時代ほど、詳しい方がきっとそのうち…
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日本では、関東大震災の翌年から昭和に切り替わるまでの間になり、震災後の風俗や服飾の大きな転換期にもあたります。

昭和戦前の布地、1930年代頃中心

昭和戦前の衣服に使われた布地のことです。古い時代の服を調べていると素材が現在とはいろいろ違うみたいで、よくわからなくて気になるので調べてみました。戦前はほとんどが天然繊維の毛、綿、絹で、化学繊維としては再生繊維(レーヨン、キュプラ/ベンベルグ、スフ)がありました。現在あまり知られていない布地もあって、たとえばギンガムの種類のコリアンクロスピーターパン、他に綿でネンスークトブラルコ瓦斯(ガス)糸を使ったもの、毛織物ではサージの下位品のヘル、絹ではカントンクレープなどがあったようです。また、時期や場所によって洋服地が手に入らなかった場合は、和服用の反物や古い着物を利用したり、毛織物のセル(サージの和名、薄いサージ)やメリンス(モスリンの和名)、絹の平織の羽二重富士絹、綿の浴衣地なども洋服用の布地としてよく使われていたようです。

とりあえず、代表的な戦前の主に女性向けの布地などを当時の資料と、場合によっては現在の解釈も併記しつつ書いておきます。この記事に限りませんが不確実なことが多いので、随時訂正していこうと思っています。
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繊維・織物全般
フィラメント(長繊維) 長い繊維、絹と化学繊維
ステープル(短繊維) 短い繊維、綿や毛や麻と化学繊維
撚糸 2本以上の糸をより合わせたもの、種類の違う場合は交撚糸
紡糸woollen yarn 原料を溶かし孔から押し出し凝固させて糸にすること
紡績worsted yarn 短い繊維を並べ引き伸ばし撚りをかけて糸にすること
梳毛(そもう)糸・織物 長い繊維を撚った糸、とその織物、やや光沢があるあまり厚くないが丈夫なものが多い(ウーステッド、サージ、ギャバジン、モスリン、など)
紡毛(ぼうもう)糸・織物 短い繊維を撚った糸、とその織物、縮絨した厚地が多い(フラノ、メルトン、ツイード、ラシャ、など)
スパン糸span yarn 短い繊維を紡績(並べて撚りる)した糸
平織 経(たて)と緯(よこ)一本ずつが交互(平絹、キャラコ、金巾、羽二重、ポプリン、など)
綾織・斜文織・ツイルtwill 経(たて)と緯(よこ)が浮いて織り目が斜め(サージ、ギャバジン、ヘリンボーン、など)
朱子繻子織(サテンsatin) 経(たて)と緯(よこ)の浮が多く光沢があり滑らか(サテンサテンクレープ・繻子ちりめん、繻子羽二重、紋綸子、など)
交織(こうしょく) 違う種類の繊維を混ぜて織る
縮絨(しゅくじゅう) 紡毛織物を湿らせて揉んだり叩いたりしてフェルト化したもの(フラノ、メルトン、ラシャ、など)
斜子織(ななこ) 経(たて)と緯(よこ)2本づつ引き揃えたの斜子組織の平織物
瓦斯(ガス)糸 ガスなどで毛羽を焼いた綿糸、光沢がある
シルケット糸 綿を苛性ソーダで処理し絹のような光沢などを加えた加工、マーセライズとも

ジャージjersey 主に外衣にもちいる編地(ニット)の総称、織物のように裁断・縫製して製品化される
クレープcrepe・縮緬 強撚糸(強い撚りをかけた糸)を使った織り、ちぢれ・しぼ(細かい凸凹)のある織物、デシンde chine→ジョーゼットgeorgette→シフォンchiffonと薄くなる
クレープデシンcrepe de chine・フランス縮緬 フランス縮緬、強撚糸(強い撚りをかけた糸)を使ったしぼ(細かい凸凹)のある織物、細かいしぼのあり柔らかい、クレープでは厚め
クレープジョーゼットcrepe georgette フランス縮緬、強撚糸(強い撚りをかけた糸)を使ったしぼ(凸凹)のある織物、撚りが強く縮みが大きい、薄地
クレープシフォンcrepe chiffon フランス縮緬、強撚糸(強い撚りをかけた糸)を使ったしぼ(凸凹)のある織物、撚りはやや弱い、薄地で軽く柔らかい
ピケpique 畝織、平織の一種で経(たて)と緯(よこ)の密度を変えて畝をつくる
ボイルvoile 強撚糸の平織物、薄地で軽い
ポプリンpoplin 経(たて)の密度が高く、緯(よこ)糸方向に細い畝のある平織物
メリヤス ニット類の総称、靴下類の他、綿メリヤスや毛のメリヤスが下着などに使われた
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毛織物
アストラカンastrakhan 毛皮のアストラカンに似せた巻き毛持つ織物、玉羅紗
ウーステッドworsted 長い繊維を撚った梳毛(そもう)、梳毛織物やその総称、やや光沢があり薄めで丈夫
カシミヤcashmere カシミール地方の山羊の表面の毛の下の柔らかい毛、綾織のサージより柔らかい織物、女学生の袴用
ギャバジンgaberdin 梳毛の斜文織、スーツなど
サージserge 梳毛織物の一種、経(たて)緯密度がほぼ同じの2/2の綾織・正則斜文織、スーツや制服など
スコッチscotch スコットランド風、スコットランドツイード
ツイードtweed 元来は手紡ぎの紡毛糸の2/2綾織の手織物で、ざっくりした素朴な厚手の織物
ドスキンdosekin 牝鹿の皮、それに似せた毛織物
ブロードクロスbrordcloth 梳毛と紡毛で織り縮絨した薄地のメルトンに似たもの、または畝のある平織の錦織物、どちらも柔らかく光沢がある
フランネルflsnnel 平織または綾織りの縮絨・起毛した紡毛織物、柔らかかい
ヘリンボーン ニシンの骨のような織模様の織物、杉綾
ヘルhell 経(たて)に梳毛糸、緯に紡毛糸を使った織物でサージ(やメルトン)の下位品、丈夫で実用的、純毛と綿混があり、軍服・学生服・労働着など
ホームスパンhomespun 家庭で紡いだ手紡ぎの太い紡毛糸を用いた素朴な織物(ツイードも元来はその一種)
ポーラporal 強撚糸の薄地平織物、織目が荒く通気性が良い夏物用
メルトンmelton 縮絨し毛羽(けば)を出した紡毛織物、織目が見えなく厚めでやや硬い手触りで丈夫、羅紗の下位品
モスリンmuslin(メリンス) 梳毛織物の一種、平織りの柔らかな薄い織物で捺染される、メリンスとも呼ぶ(モスリンmuslinは欧米で本来は薄地の綿、日本では当初梳毛の毛織物をメリンスや唐縮緬などと呼びモスリンと混同したためこの時期のモスリンは毛織物。甘撚りの綿糸でモスリンに似せたものが新モス)
羅紗(ラシャ)raxa 縮絨し毛羽(けば)を出した紡毛織物、織目が見えなく光沢がある
ウールジャージーwool 、ウールジョーゼットwool georgette、ウールクレープwool crepe、ウールボイルwool voile、ウールポプリンwool poplin、などは上記織物参照

絹織物
練り糸 膠質(にかわしつ)のセリシンを除去した、柔らかく光沢のある絹糸
クレープcrepe・縮緬 強撚糸(強い撚りをかけた糸)を使った織り、しぼ(凸凹)のある織物、デシンde chine→ジョーゼットgeorgette→シフォンchiffonと薄くなる
カントンクレープcanton crepe 広東のクレープ、厚手で大まかなしぼ(凸凹)がある
サテンクレープsatin crepe・繻子縮緬 強撚糸を使った一面が朱子・繻子織でもう一面が縮緬のもの、光沢とちぢれ・しぼ(凸凹)のある
スパンクレープspan crepe スパン糸(短い繊維を紡績)のクレープ・縮緬、富士絹とクレープデシンの中間
タフタtaffeta 横畝のある平織物、しなやかな張りがある
パレスクレープparece crepe しぼ(凸凹)の目立たないクレープ・縮緬、柔らかくしなやか
紋パレス パレスクレープに地紋を織り出したもの
グログランgrograin 横畝の平織物、ポプリンより柔らかい、リボンなど
ビロード天鵞絨・ベロアvelour・ベルベットvervet パイル(添毛)織物、毛羽があり滑らか
ポンジー・繭紬(けんちゅうつむぎ) 柞蚕糸(ヤママユガ科の柞蚕の繭からとった太い糸)を用いた薄地の平織物、淡褐色を帯びて節がある
シルクポプリン・絹ポプリン・シャルマント・ローヤール 絹のポプリン、経(たて)の密度が高く細い横畝のある平織物、厚め
縮緬 日本の縮緬はしぼ(凸凹)が大きい
甲斐絹 練り糸の織物、タフタに似る
羽二重 無撚糸の平織、光沢があり滑らか
紋羽二重 紋様を織り出した羽二重
輸出羽二重 薄地の羽二重
富士絹・不二絹 屑糸の絹紡糸を使った平織物、硬めで羽二重に似る、1902年頃富士瓦斯紡績会社が創製した
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綿織物
インディアンヘッドindia head 太番手の素朴な平織物、
ヴェニス(ベニス) 透かし目のある織物
オーガンジーoragandy 平織物、薄く軽く透けて張りがある
オックスフォードoxford コーマ糸(短繊維を除いた糸)の斜子織(平織りの種類)、しなやかで光沢がある
金巾 27~40番程度の単糸の平織、シャーティングshirtingとも、天竺より薄くキャラコより厚い(場合もある)、キャラコと同じとも
シーチングsheeting・金巾・粗布 太番手の平織物、ドレスの仮縫い用
キャラコcalico 薄地の綿平織物、20~50番くらいとも
ギャラティ 表が繻子のような布地、丈夫
ギンガムgingham 先染め糸の格子柄などの平織物、縞もある、広義の種類にピーターパン・コレアンクロス・EGB
ケーメントクロス 厚手の布
ケンブリック 薄く上質のキャラコようなもの、ハンカチなど
コットンクレープcotton crepe 綿の縮緬、柔らかく肌触りが良い
コットンジョーゼットcotton georgette 綿の縮緬、安価で軽い 綿のサージ
コリアンクロスkorean cloth ギンガムに似た織物、糸が細く柔らかく光沢があって上質
サティーン 綿の繻子(絹のサテンと区別してこう呼ぶ)、現在のサティーンと違って弱い
スポンジクロスsponge cloth 節のある糸などで織った凸凹のある柔らかくふっくらした織物
スレキsleek 綿綾織物、滑らかで光沢のある、紳士ものの袖裏など
天竺・シーチングsheeting 20番くらいの太番手の平織物
ゼッファー ギンガムに似たもの
トブラルコtobralco 平織と斜子織との混合組織、太い糸のざっくりした生地で柔らかい
ドリルdrill・桂木(かつらぎ) 太綾の織物、厚い
ネンスークnainsook 平織物、薄く柔らかで光沢がある、キャラコより上質
バチースト ボイルに似た布地、軽く透けている
ビエラviyella 梳毛と綿糸の交織織、寝間着や下着や婦人服など 
ピケpique 太畝織、畝は細いほど上質
ピーターパンpeterpan 平織物、薄くキャラコに似る
ブロードクロスbroad cloth 経(たて)密度の高い平織物、滑らかで光沢がある
ボイルvoile 強撚糸の平織物、粗く透ける
ポプリンpoplin 経(たて)密度の高い(または緯糸の太い)平織物でブロードクロスより畝が太い、本来は絹と毛の交織り?
瓦斯ポプリン 焼いて毛羽をとった瓦斯(ガス)糸のポプリン、光沢がある(絹ポプリンとも呼び、絹糸で織られたポプリンと混同しやすい?)
綿サージ・コットンセル 綿を用いたサージ、綾織・正則斜文織
綿ネル 綿を用いたフランネル、起毛した織物
綿モスリン・新モス 薄い綿のモスリンのようなものが綿モスリン、甘撚りの綿糸でモスリンに似せたものが新モス
ローンlawn 元来麻の織物、平織物の薄地
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他・和服地(着物用の反物は布幅約36cm前後、長さ10~12m前後)
リンネル・リネンlinen 亜麻、晒した上質のものは夏のスーツなど
リンネットlinnet 麻を模したもの、戦前は綿と麻の交織

小倉 縦縞の丈夫な木綿布、霜降りなど
お召 御召縮緬、膠質(セリシン)を除去した練り糸を使い横糸に強くより(ひねり)をかけて織った絹織物でしぼ(細かい凸凹)がある
 染めた(一部が白いなどの)糸で作った(白い)織り模様がある
絹セル 経(たて)に絹、緯に細い梳毛糸を使った薄く密な毛織物、フロックやモーニング
塩瀬 厚地の羽二重
セル 薄地のサージ、梳毛織物
仙台平 堅牢な絹織物、多くは縞、袴に用いられ男物袴地の総称にも使われる
 紬糸(屑繭から作られた太く節の多い絹糸)の平織物、木綿に似せた絹織物
甲斐絹 練り糸の織物、タフタに似る
羽二重 無撚糸の平織、光沢があり滑らか
銘仙 平織りの絹織物の紬の一種、丈夫で安価
メリンス モスリンのこと、平織りの柔らかな薄い毛織物
浴衣地 綿の平織物、紺色の染が多い

化学繊維
化学繊維には再生繊維(植物繊維などを溶かし作られたもの)、合成繊維(石油などから作られたもの、ポリエステル・アクリル・ナイロン)、半合成繊維(植物繊維と科学薬品で合成、アセテートなど)があり、戦前から戦中に使われていたのは再生繊維のレーヨンと、キュプラ(ベンベルグ)、ステープルファイバー(スフ)などです。

レーヨンrayon 木材パルプから紡糸(原料を溶かし孔から押し出し凝固させて糸を生産すること)にしたもの。光沢・肌触り・吸湿性・発色性は良いが、縮んだりシワになりやすく水にぬれた状態では非常に弱い。絹の安価な代用品として開発された。

キュプラ(ベンベルグ)cupra コットンリンター(綿花を採った後の短い繊維)から紡糸(原料を溶かし孔から押し出し凝固させて糸を生産すること)したレーヨンの種類。裏地など。1931(S06)年に延岡アンモニア絹絲株式会社(旭化成)がベンベルグとして製造。レーヨンより伸縮性や弾力性にすぐれる。参考、旭化成せんい・ベンベルグ

ステープルファイバー(スフ)staple fibre ステープル(短い繊維)ファイバー(繊維)、短く切った繊維。レーヨン製造工程で出るレーヨン糸屑の活用法として開発された、綿糸と羊毛糸の中間的な糸。戦争中、物資不足もあって非常に粗悪なものが生産・配給されたため評判はとても悪く粗悪品の代名詞となった。人造羊毛や人造綿とも呼ばれる。

用途別など、女性の洋服は、家庭着以外はがとても多かったそうです、戦後多いウール(や木綿)は女給・女中などや職業婦人向けという戦後の意見も…
柔らかいドレス 絹類(クレープ・縮緬類、特にジョーゼットなどや富士絹など)、木綿ならスポンジクロス・クレープ・ボイル、毛織物はウールジョーゼット・ウールボイル・ウールクレープ
普段着 洗濯のできる木綿の先染め(縞や格子など)ギンガムやスポンジクロス、クレープ。縞物の絹、など
外出着 ちょっとした外出は綿や毛のトブラルコやモスリン、アフタヌーンは絹、スーツやスカート・ジャケットな毛織物、どちらも無地で濃色が上品とされた(イブニングなどは薄色)

画像は1930(S05)年夏物です。活版なので、色や生地の織組織や風合いはわかりずらいのですが、プリントの意匠などはわかるでしょうか?ローラー捺染は行われていたみたいなので、そんな感じの多色の柄じゃないかと思いますがちょっと自信はありません。

…こういう記事は、自分用というか書いたりまとめたりしないと理解できない、ので。特に和服地がよくわからないです。以下は、例によっていろいろなメモです。

天然繊維の手入れは大変だったと思います。綿や絹や麻は、織方にもよりますがシワになりやすいので、頻繁なアイロンがけや寝押しなどが必要でしたし、当時の染色技術では退色・変色しやすいので洗濯にも大変気を使いました(洗濯機も、各種の合成洗剤も未発達でした)。捺染した絹や毛織物などは洗濯…クリーニングはめったにしないのが常識でした(和服もです、ただ環境としてはかなり汚れやすかったと思います)、現在より布地が貴重でしたからもちろんメンテナンスは行いました、そのへんの詳細も調べたいんですが…日光で色があせるとか、汗で生地が弱るとか、洗濯が難しいとか…現在とは全く異なる、注意が必要で手間のかかる繊維事情だったと思いますが、人件費が安かったので環境によっては手間暇かけられたとも言えます。

プリントは更紗など木の型を使う木版ブロック捺染が古くから行われていました、その後銅板捺染が始まりこれの発展したローラー捺染が行われます(日本への導入は1900年頃以降、機械捺染とか、マシンとかとも呼ぶ、かな?)、堅牢な染料の開発もあってプリント技術は向上していき、実用に耐える美しいプリント生地が安価で供給可能になりました。19世紀から20世紀にかけアール・ヌーボーやアーツ・アンド・クラフト運動との連動やウイリアム・モリスやリバティ社など優れた意匠も生まれていきました。現在手捺染とも呼ばれるシルクスクリーン捺染は、日本の版画や渋を引いた型紙を使う捺染技術とも関係があるとされることが多く、欧米では1930年以降くらいからとされています。日本でシルクスクリーン捺染がいつごろから始まったかは定かではないのですが、手元の1931年の本ではローラー捺染(当時はロールと呼んでたみたい?)は説明があるのですが手捺染としてスクリーンへの言及がないので(本中型と手拭い中型・注染は詳しい、なにしろ日本の和服のプリント・後染め技術は独自の高度さ)まだあまりなかったような…実際の布地(印刷物)をみても綿プリントなどはローラーっぽいように思います、送り、とかが小さいですし(画像のものが国産かどうかは不明です)…ローラー捺染は更紗、モスリン友禅、などに使われていたみたいです、ローラーは版が高いので色数の少ない大量生産に向いていました。反対に手捺染(型を使った染)は色数の多い小ロットのものに適していました。また、当時の手捺染が大巾が厄介という記述は、スクリーンではなかったことをあらわしているように思いますし、同時に幅の大きい洋服地へのプリントは困難だったことが伺えますが、1930年過ぎには絽織りの様な織物をゼラチンを浸し硬化させる方法がモスリンに行われていたようですから(和服用の反物と思う?)、導入期だったのではと思います。戦前の昭和10(1935)年以前の日本の雑誌などに見る洋服地の多くが先染めか単純なプリント意匠のように感じますが、それ以降はわりと複雑なスクリーン的な?プリント物が増えるように思いますが…てきとうな推測です。

参考 1999年『ファッション辞典』、、1930(S05)『婦女界』、1931(S06)年『婦人公論』、1933(S08)年『洋裁読本』、1934『婦人子供服専門講座』

昭和3年の令嬢姿

1928(昭和03)年の婦人誌の特集「昭和の令嬢姿」です。婦人誌ではこの令嬢紹介というのが盛んだったと思うのですが、戦前のものをあまりたくさん持ってないのでよくはわかりません。女学校で洋服の制服を着た令嬢や中流以上のお嬢様たちの多くが、卒業後(多くは高学年から)結婚や行事の時日本髪を結うために髪を伸ばしたといわれます。そして、結婚までは、お茶、生花、、ピアノなど各種のお稽古をして過ごしたそうです…といった、昭和初期の憧れの令嬢たちの姿です。

肖像と共に紹介されている令嬢たちの説明書きから簡単に、どれも画像の左からです。
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有名飲料会社監査役の令嬢(22)で双葉高女の御出身、お料理や裁縫、書道がなかなかお見事でございます。子爵御令嬢(21)は学習院御卒業後英国に留学されました、御家庭で英文学、仏蘭西語、ピアノ等を研究していらっしゃいます、非常に聡明な、洗練された趣味の持ち主でございいます。
男爵御令嬢(21)、学習院卒業後は家事の実習とピアノ、茶の湯、手芸のお稽古中です。電機会社令嬢(20)、双葉高女御出身で、習字、琴、盛花投げ入れがお見事です。
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画伯の愛嬢(19)様は、昨年京都府立第二高女をご卒業と同時に欧州を漫遊遊ばれました、ピアノと絵画のお稽古に御熱心でございます。伯爵御令嬢(20)、学習院専修科へ御通学中でピアノや日本画をお稽古遊ばしていらっしゃるその清麗な御容姿は華族界でも評判の方でございます。
銀行頭取の令妹、双葉高女の御出身でテニス、ゴルフがお上手な運動家でございます。実業家令嬢(19)、跡見女学校を御卒業後、絵画、ピアノ、生け花のお稽古に専心していらっしゃいます。
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文学博士令嬢、お茶の水高女から家政学院と進まれ、現在はピアノと独逸語を御勉強中でございます。画家の令嬢、テニスとヴァイオリンがお得意と伺っております。
皇族の方々の、御珍しい御平服姿でいらっしゃいます。御学問やお稽古事にも殊の外御熱心でテニスなどにも打ち興じられるさうでございます。
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侯爵御令嬢で気高く美しいと華冑界で評判のお二方(18,19)です。ピアノ、英語、生け花、茶の湯、絵画、短歌、と御堪能です。
病院長の令嬢(22)、お茶の水高女の御出身で書と長唄に絵画と日本趣味でいらっしゃいます。男爵令嬢(22)、美しく聡明で絵画の立派な技量をお持ちです。
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子爵御令嬢(20)、女子学習院を卒業されて謡曲と仕舞が御堪能で観世流の方で有名な方で、テニスもお得意です。企業取締役令嬢(22)、お茶の水高女出身でピアノや長唄や手芸がお得意です。
陸軍少尉令嬢(18)、女子学習院在学中で、テニスや洋画がお見事です。富豪令妹(20)、お茶の水高女御卒業後はピアノ、書道、盛花、を熱心にお稽古中です。
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企業取締役の令嬢姉妹、東洋英和高女を御卒業後、ピアノ、琴、生け花、料理のお稽古に忙しくお過ごしです。企業支店長令嬢、女子学習院御出身で音楽、映画、ピアノ、油絵がお得意です。
伯爵御令嬢(19)は学習院女学部御出身で、琴、三味線、英語などのお稽古に御熱心です。病院長令嬢(20)で学習院御卒業、ピアノに御堪能です。
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侯爵御令嬢姉妹(21,20)、女子学習院御卒業後日本画とピアノをお稽古中と承りました。実業家令嬢、東洋高女御卒業後、琴、三味線、盛花、茶の湯と忙しい日々をお過ごしです。
工学博士令嬢(19)、お茶の水高女を御卒業、料理や裁縫、琴、書が御堪能です。株式会社社長令嬢(19)、家政女学校に在学中で、ピアノ、ヴァイオリン、茶の湯、生花、の他乗馬もお得意だそうです。
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子爵御令嬢(20)、ラケットを握り乗馬もなされます、初めての和装姿。徳川ゆかりの伯爵御令嬢(20)、いろいろのお稽古にお忙しく、手蹟が見事で運動もお得意です。
貴族院議員令嬢(19)で聖心女学院を御卒業、絵画、料理、生花のお稽古に忙しく音楽、ピアノに殊に造詣の深い方です。子爵御令嬢(21)、女子学習院高等科を御卒業され音楽、洋画とお心得のなか特にヴァイオリンに秀でておられます。

と、かなり上流の富裕なお嬢様たちだと思います。お茶の水、双葉、学習院の高等女学校出身が多く、卒業後は家庭で過ごし、お茶、書道、歌、生花、絵画、ピアノ、などのお稽古にはげまれています、語学を学ぶのは華族の令嬢に多いように思います。高等女学校では、一般教養の他お裁縫なども必須でした、当時の女学校は「良妻賢母」を育成することが大きな目的だったからで、衣服に関する技術も重視されていました。子供服を中心に広まった洋装が家庭でも縫われたのは、和服が元来家庭で縫われていたことと、それを学校で教えていた家庭裁縫の伝統とその教育が大きな理由だったといわれます。

服装は撮影用に着飾ったものだと思いますが、30数人の令嬢のうち、洋髪と洋装が3名、洋髪と着物が19名、日本髪(和髪)と着物が9名、洋髪と支那服が1名という割合です。洋髪と着物の組み合わせが一番多いようです。1928年三越前の調査での洋装の割合が16%でした、この企画の洋装は華族や画家の令嬢に集中していているようです。洋髪もわりと華族に多く耳隠しが中心、平民の実業家令嬢は日本髪です…平民といっても、有名な大きな会社経営陣の令嬢です…日本髪の割合も1/3と三越前は15%弱よりかなり多く、これは撮影用の正装だからだと思います、日本の整髪料で紹介したんですが「伝統的な日本髪(和髪)」もけっこう変化があってこの時期の日本髪はとてもボリュームがあります。(島田系が多いと思うのですがよくわかりません)

以前に紹介した写真も含まれてます…

昭和3年の子供服

1928(昭和03)年の子供服です。ウエストが低く胸のふくらみやウエストのない直線的な筒形のスカート丈の短いボーイッシュ(少年的)な1920年代後半の流行がしっかり反映されています。1920年代の流行、参考
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左から、二三歳男女兼用服(ギンガム)、四五歳女児服(メリンス)、六七歳女児服(コレアンクロース/朝鮮ギンガム、ポプリン)、八九歳女児服(富士絹)、十一二歳女児服(サージ)、文化裁縫女学校校長並木伊三郎さんの考案、文化です。文化は飯島民次郎系列の並木伊三郎さんとシンガーミシンの遠藤政次郎さんの創立したものが母体です。この時期はまだ誌面では文化式原型は使われてないんです、その辺は調べ中ですが、文化式原型が形になるのは1935(S10)年くらいからでしょうか?文化に限らず、原型が雑誌などに掲載され現在に近い形になる(ちょっと説明が難しんですがこれ以前は割り出し式/胸度式/短寸式との併用式原型とかがあったようです)のは1935(S10)年以降、なかんじです…
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左から、三四歳女児服(ネル)、四五歳男児服(セル)、六七歳男児服(セル、サージ)、十三四歳女児服(富士絹)、十五六歳女児服(富士絹、アルパカ)、夏物で上のものも同じです。裁縫も簡単で生地も安いので洋装は夏物から普及しました、アッパッパと呼ばれる簡易服(震災以降流行ったとされ、実際には1930年前後と思われる)も夏物で戦前は「夏だけ洋装」が多かったのです、夏は簡単な洋装の方が着物より涼しかったからといわれます。1940年前後の都市部ではかなり高齢の女性にも夏はこれらの簡易服の洋装が多くみられますし、地方でも未婚女性の多く(一部?)は同様だったように思います。
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上の二三歳男女兼用服(最左)はロンパースにジャケット(ベスト)で、ロンパースはズボン(パンツ)を身頃(上半身)にボタン留めです。下の六七歳男児服(左3番め)も、ウェスト(ベスト)にズボンがボタン留めです…このウェストや身頃(上半身)にズボンをボタンで留める方式は下着も含めて戦前にはすごく多いタイプでした、ゴムはあったのですが品質がまだ悪く伸びやすくパンツが下がる心配が多かったこと、幼児期にゴムで体を締めることが健康上良くないとされたこと、から6~7歳まではウェストや身頃(上半身)にボタンで留めることが推奨されていました。セーラー服のスカートも実はこの方式が多く(縫い付けてある)、ジャンバースカートにつながるようです。ちなみにジッパー(ファスナー)もまだ普及してない時代でした。また、ワンピースが主流だったことも昭和戦前期の特徴だと思います。

子供の洋装の割合です。今までも何度か触れた今和次郎さんの考現学(モデルノロヂオ)の調査などですが(参1参2)、吉田謙吉・資生堂・自由学園などのものも含めると戦前の女性の洋装率は、1925年銀座で1%、1926年銀座で4%、1928年三越前で16%、1930年銀座で13%、1937年東京25%、1941年東京55%、これは初期のものなどは銀座など繁華街で制服の女学生も含む数字です、一方同じ調査の子供の洋装率は1925年東京61%(婦人1%)、1937年全国91%(婦人25%)、で制服も含めて洋装が子供から普及したことがよくわかるように思います(あくまでも、考現学の調査ですが)。実際、国会図書館などで洋裁の本を探しても1920年代までは子供服が中心なんです。想像ですが、昭和戦前期の洋装は、1923年の関東大震災以降徐々に一般に広がっていったものでしたが、それはまず子供から普及したといえると思います。そしてその子供たちがそのまま洋装を続けたことで洋装人口が増えていったことも大きかったと思っています。何でも、子供の頃にきっちり洗脳しておくことは、大変重要です…

戦前の生地の説明、ちょっとだけ 

戦前の国産洋装下着製品、乳バンド(ブラジャー)

製品化された国産女性用洋装下着について、まだわからないことだらけですが乳バンド(ブラジャー)中心メモ的に。男性の下着は明治期にはメリヤス肌着などが製品化されていましたが、女性の方は洋装自体が一部上流階級をのぞいて普及していませんでした。徐々に一般の洋装が始まるの大正以降だといわれます。その女性用洋装下着既製品についてです。高本明日香さんの『戦前の日本における婦人洋装下着の担い手』にとても詳しいのですが、大正期には洋装下着の製造業者が現れ雑誌や新聞等で広告していたことがわかります。
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洋装下着の広告は大正末頃くらいにあったようですが(大正14~5年、乳おさえ・美容肌着など)、あまり戦前の雑誌を持っていない(高い…)ので一例として、1927(S02)年と1928(S03)年の主婦之友から「秋岡金虎堂」の「赤線印乳バンド」とこれを通販していたと思われる1928(S03)年の主婦之友から「白木屋」の広告、「半澤商店」「エービ印乳バンド」、「テーシー商会」「美容衛生乳房バンド」、と一冊の雑誌に乳(房)バンド乳おさえともいいました…今のブラジャー的なもの、の広告がたくさん載っています。1931(S06)年の婦女界では「腰美帯(コルセット)」「乳バンド」は美容用具として紹介されていて、「赤線印乳バンド」と「テーシー商会」「蝶印乳房バンド」の広告も。同年の別の婦女界では「婦女界型コルセット」。1932(S07)年から発売されたと思われる(これについてはまた書く予定です)1933(S08)年の「ホーマーズロース(パンツ)」「コンビネーション(パンツ付のシャツ、当時よく用いられた下着)」もあり婦女界の通販有名デパート販売されていたことがわかります。テーシー商会の乳房バンド・ホルダーは1925年発売みたいです(『東京小間物商報』広告から)
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『日本洋装下着の歴史』では、昭和初期に松岡商店の松岡錠一さんの回想としてアメリカから持ち帰った商品を参考に手探りで完成させた苦労や、4サイズ作ったこと、生地は綿ポプリン、幅広のゴムがなかったこと、などが語られています。着装方法を説明するために、50cm程の人形に小さなブラジャー、コルセットを着せて店頭に飾ったなどの工夫もしたそうです。

1931年の婦人之友では「メリヤス製のシュミーズ…安い既製品がデパートなどに沢山あります…ブラジーヤーの出来合ひは体に合はないばかりか、値段もずゐぶん高いものです…やせた人にはそれほど必要ないでしょう。近頃外国では、わざとつけない人があると聞きます…」と当時の下着事情が語られています。同記事や、戦前の婦人誌では下着を家庭で作ることも奨めています。参考

欧米で胸を成型する下着のブラジャー(brassiere仏、ブラジェール)が一般に使われるようになったのは1920年代頃といわれます、日本でブラジャーという言葉(に近いもの)が使われだしたのは早くは1920年代、一般には1930年前後からだと思われます(注1)。戦前日本では「ブラジャー(やコルセット)は太った人のもの」という観念が強くあったみたいです。一方シャツ(やシミーズ)やズロース(パンツ)は製品も含めてずいぶん普及し広告も小さいながら通販を中心に増えていくようで、子供の洋装が増えたことも大きいと思います。1935年全国購買組合聯合会『購買委員の栞』にはメリヤス(編んだ生地)のシャツ、クレープのシャツ、クミアイ靴下、クミアイズロース(白・黒)などが並んでいますから、この時期には(子供中心だとは思いますが)製品が普及していたのではないかとと思われます(シャツの普及は、もっと古い時期からともいわれます)。1942(S17)年以降の衣料切符の項目には、洋装下着として、コンビネーションスリップシミーズズロースブルマーがあり、製品で配給されていたようです。ブラジャー(乳バンド)は含まれてないので、その辺りからも普及率が推測できるかも?これは1940(S15)年の広告
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(注1)ベアトリス・フォンタネル『ドレスの下の歴史』、セシル・サンローラン『アンダーカバー・ストーリー』などから。これ以前は胸まであるコルセットによって胸を支えていました、また大正末期の洋裁の『洋服裁縫大全』ではヴェスト(アンダウエスト)と、胸まである簡単なコーセットが上半身の成型下着として扱われているようです。いつか、詳しく調べたいと思いますが「胸まである長いコルセットと丈の長いパンツのドロワースなど、分量が多く複雑な下着」から「ブラジャーと短いパンツ類などの簡単な下着」への変化は、第一次世界大戦後(1918・T07年)の1920年代に服装が合理的で簡単なスカート丈の短いものに変化したのに合わせた変化だったように思います。

胸を押さえる帯状のもの、は、古来から存在したようで、ギリシャのアポデズムapodesmos・アナマスカリテル・マストデトンmastosなど(乳房の下に巻かれた主に赤い布や紐らしい)、ローマ時代のピアッツァ・アルメリーナのカザーレ別荘Villa Romana del Casaleのモザイクにみられる(運動着ともいわれます)ような胸帯ストロピウムstrophiumやファスシアfasciaなどがありましたし、同様のものが各時期各地であったとは思われます。13世紀の『薔薇物語』にも「乳房が重すぎるなら、布を胸に巻きなさい」と書かれているようです。近頃オーストリアで発見された15世紀のものはレースで飾られカップ状の部分もあり現在のものに近い形のようです。

近代的な胸を成型し支える独立した下着(ブラジャー)は、16~7世紀以降の胸まであった長いコルセットが、20世紀へのかわり目あたりに短くなりはじめ、胸専用の下着の必要が生じたことで工夫され、1920年代に服装の簡略化に伴って広く普及したようです。近代的な最初のブラジャーは、1804年に現れたとか、エルミニー・カドルが1889年の万国博覧会に出品したコルスレ・ゴルシュである等説があり、これらはまだコルセットにつながった不完全なもの(肩ひもで吊っていない)とされることが多いようです。19世紀末以来、スーティアン・ゴルジェ(現仏Soutien-gorgeブラジャー)、プラストン・ゴルジェ、マンティアン・ゴルジェ等胸を支えるという意味のものの広告があるみたいですし、1899年ドイツのクリスティンハルトChristine Hardtや1914年米国メアリー・フェルブス・ジェイコブMary Phelps Jacobが近代的なブラジャーの特許を得ているようです。メアリー・フェルブス・ジェイコブ(カレス・クロスビーとして知られる)のものは、二枚のネッカチーフと産着の帯紐を使ったもので、製品化しようとしたが失敗に終わり特許はワーナー・ブラザースに売却されました…などいったように、さまざまな近代的なブラジャーに関する情報があるようです。(まだ整理できてないことでかなり不確かです)

また、注意したいことに1920年代頃乳(房)バンド・乳おさえが現在のもののようにカップのふくらみのほとんどない文字どうりのバンド的なものだったのは、1920年代のファッションが胸のふくらみの少ない体型を理想としていたためで、海外の当時のものも同様な形で若い女性などはつけないこともあったようです。そして、この頃からシュミーズ(一番下の肌着)の下の肌に直接ブラジャーをすることが行われるようになってきました、これ以前はシュミーズの上にコルセットをつけていました。1930年以降は、女性らしいラインを理想としたため、カップのふくらんだ形に変化します。しかし、我が国の乳バンドという言葉はその、バンド・帯、のまま戦前社会に定着してしまったような感じがあります、もちろん、洋裁関係者などはブラジャーという言葉を使ってはいましたが。

実は↓こういうものを発見?して、あせっています、1915(T04)年と1916(T05)年なんです…
大正4年頃に、製品が発売されていたと…しかも下開きパンツとコルセット的な何か… ??
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参考 高本明日香(2011)『戦前の日本における婦人洋装下着の担い手』 『装粧品新聞』 『東京小間物商報』 (1987)『日本洋装下着の歴史』 青木英夫(2000)『下着の文化史』 他 

大正14年、セーラー服とブルマー

1925(T14)年の「女子の體操服」です、女子の体操服の歴史は「ブルマーの社会史-女子体育へのまなざし」青弓社やWebの「学校制服・体操服のトンボ ミュージアム」やwiki??などが詳しいと思います、ので興味がおありの方はそちらをぜひ…
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が、とりあえずてきとうな概略。ブルマーbloomersは、アメリア・ジェンクス・ブルーマー(Amelia Jenks Bloomer,1818-1894)の名前に由来する衣服とされています。ブルーマー夫人が1851年友人のエリザベス・スミス・ミラーの開発した衣服を機関紙で紹介し、普及に努めたことに始まるそうです。ブルーマー婦人たちが目指したのは、コルセットからの解放という衣服改良が中心でしたが、ブルーマリズム(一般に女性解放運動とされる)と呼ばれて批判されて、発表した頃は受け入れられませんでした。やがて19世紀末になってようやく体育(運動)用の服やサイクリング服として広まっていきました。体育用に用いる場合、セーラー服や長靴下と組み合わせることが多かったようでニッカボッカーとも呼ばれます、日本だとニッカースとか。
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明治期後半の女子体操服1900(M33)年頃から多く採用されたといわれる海老茶袴の「女袴」で、長い着物の上に着た女袴は男性の袴と違ってスカート状でした。通学用との兼用で、運動時に着物は襷(たすき)がけで袖を押さえ、袴は下着を着用するか、裾を縛ることなども行われていたそうです。同じ頃、ブルマーとセーラー服の体操服が紹介され始め、明治期の1905(M38)年に、アメリカに留学した井口あくり(阿くり)さんがセーラー服ブルマーを提案され、教鞭をとっていた東京女子高等師範学校の体操服(制服)としたそうです(今見ると袴っぽい)。

井口さんのブルマーとセーラー服も、当時は広く普及することはなかったそうです。ブルマーはわりとよく知られているのですが、セーラー服のほうは継続しなかったことと体操服とされることから最初の女子制服のセーラー服ということにはなってないみたいです。井口さん自身も著書の『体育之理論及実際』で「…もし其の上に同図の如き袴を着用するに於いては、毫も其の風来を損することなく高等女学校生徒の一般学校用服として、最も適当なるものなりと信ず…」って書かれてます、先見の明、ですね。
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服飾史とかの本でよく使われている写真などとお茶の水女子大学デジタルアーカイブズの1909(M42)年の国語体操専修科卒業写真(小さめに一部です、問題があれば削除します。1880~90年代や1902年文科・理科卒業写真も洋装です)などからも井口あくりさんの体操服がわかると思います。上の、井口さんの『体育之理論及実際挿絵では袴(スカート)がついているのが平常服運動服は袴を脱ぎ袴下(ブルマー)の裾を括る、胸当ての扱いも独特、とゆうかんじでしょうか?東京女子高等師範学校とは、襟の形が違いますし、袴(スカート)の扱いは残念ながら不明です。

その後大正になって洋装の普及と女子の運動ブーム?にあわせて、1921(T10)年前後からブルマーやセーラー服は広まっていきます。その頃のブルマーの丈が短くなっているのは、欧米の第一次世界大戦後の服装の大きな変化(体が楽な緩めの服で短いスカート、みたいな)を受けているのだと思います。

といったながれなのですが。日本で最初にセーラー服とブルマーの東京女子高等師範学校の体操服を製造したのが大河内婦人洋服店です。そして当時、そこで徒弟をしていたのが最初の画像の1925(T14)年の「女子の體操服」の西島芳太郎さんです。西島さんの師の大河内治郎さんは、大島万蔵へ弟子入りしドレスメーカー大河内婦人洋服店として独立後、日露戦争期の看護婦服の製造で成功された方です。大河内さんは日本の女性の制服とか職業服の歴史にわりと関わっておられたみたいな。ブルマー関連のことを西島さんの「大河内治郎氏の成功を語る」から。
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西島さんによれば、赤十字社病院の看護服は徳海屋、芝の秋草、麻布の高木新太郎らが御用達を勤めていたのですが、大河内婦人洋服店の大河内治郎さんは1903(M36)年にその大量生産に成功します(200枚ほど、製作は浅草の新海縫造さん)、これが好評で大河内婦人洋服店の信用は一気に高まったそうです。その前後、現お茶の水の東京女子高等師範学校の御用達にもなりました。大河内商店調製の軽快な黒セル(サージ)体操服と体操専科の小倉織(木綿)の通学兼用体操服が生まれるのですが、その採寸に大河内主人と西島さんがおこなった様子なども書かれています。写真に頻出する国語体操専修科の体操服の他に黒セルのものもあったみたいです…師範学校の黒い服が井口さんで、その服が、とか、いろいろ想像してしまいます。

という西島さんの、女子の体操服とセーラー服、ブルマースはニッカースともいって普通より幅が広いものと紹介し、紺か黒の薄地の毛織、セーラー服は白いリンネルか麻、白小倉推奨で、服地も高等師範学校の体操服を踏襲しています。14~5歳用、サイズ固定なのが残念?袴と同じなので、袴を縫えるなら容易だそうです。
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体操服ではないほうの、セーラー服は「初めて洋服を着るとなると、誰でもどんな型にしたものかと迷ふものですが、さうした場合には是非この型をおつくりなさいませ。このセーラードレッスは、どなたにもよく似合ひます…又運動用としてならばそれ(年齢、16~7歳)以上の人にも差し支えありません…この型が基礎ですから…変わった型は自由に作ることができます。」この、それ以上の年齢の人の運動服にも、ってのもポイント。型のサイズは鯨尺の厘と思うのでx0.379mmなのでしょうか?(西島さんは1921・T10年婦人之友でも体操服のセーラー服とブルマー、名称はニッカースを発表しています、上着の方はウエストにギャザーが入っています、また、機会があれば)

で。ブルマーなんですけど、プルマーとか、プルマースとかいった名前でこの時期から戦後まで、ものすごく大量に少女(スカートの裾から見えることが前提)や婦人用(パンツの上に滑りが良いように重ねて穿くペチコート的なパンツ)で紹介され続けています。少女用の場合、外着になるので色や柄も豊富で、婦人用は装飾など入れてきれいめ。wikipedia(英語)では1910~30年くらい頃、海外でも下着をブルマと呼び以後定着したとか、書いてある(みたい、英語わかんない)のですが…下着の呼び方とか、そのへん難しいというか…言葉の定義があいまいで変化しがちで…スカートから見えてもOKな下衣という解釈もあったブルマー、今の見せパン的なもの古い呼び方になるかも?

気分転換で、時代を遡ってみたら収拾がつかなくなっちゃった…昭和32と昭和18年が…慣れない事は、やるな、ですね。大正末から昭和のはじめのモダンなこと関係は、詳しい方が多いから私がやってもまぬけだって、正直思っています、ただ、戦中戦後につながることで知りたいことがあって…

昭和3年のモダンなお化粧

初代メイ・ウシヤマさんの1928(S03)年近代美しき粧ひ」から続いて、モダン(近代的)なお化粧です。

お化粧はまず皮膚の構造とトラブルの解決法から始まってマッサージやパックの説明。ウィッチヘーゼルやティンクチャー・オブ・ベンゾイン、卵など古典的な素材を使うものから、ハリウッド美容院特製のハリウッド・パックなど当時としては最先端情報が満載です。皮膚が整ったら、今度はお化粧のための材料や道具類の紹介と、感心するほど丁寧な説明が続きます。
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化粧水で整えた後、この頃一番一般的だったバニシングクリームを下地にした水化粧の説明。襟足や首などから薄く水で溶いた白粉を何度も塗って仕上げ、顔は首などより薄めに、鼻筋は濃い目に(画像)塗っていく方法で顔より首の方が白い伝統的なお化粧です。

次に、部分化粧でまず眼のお化粧から…ここで、メイさんもわざわざ断っていますが「眼のお化粧」という言葉自体が珍しかったらしく「が眼の化粧があるか、と不信がられる方があるかもしれませんが、私は目を美しく見せる事をもくして眼の化粧と云って居るのでありまして、何も眼の中に白粉や、クリームのような化粧料をつけることを意味して居るのではありません。」…という。眼球に白粉を塗るわけではない、と、それは大変こわいです。
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具体的な眼のお化粧は、まつげをカールしてメイベリンなどの「睫毛墨」…マスカラを塗っています。あとは「白粉の濃淡」「紅の入れ方」などで変化つけるくらい、アイシャドーの記述はまだありません。紅の使い方で、眼を美しく仕上げる方法は前1927(S02)年の早見君子さんの本などが詳しいです…国会図書館、ネットで閲覧はできないのですが複写はできると思うのです。

続いて唇や眉毛のお化粧、そして洋装の場合などです。クリームの上に粉白粉をつける粉化粧がこの頃の通常の洋装化粧で、色は白以外に肌色、黄色、ピンクなどです。レート(瓶は水白粉)と有名な資生堂七色白粉が1928(S03)年当時の日本製では色数が多いものの代表ですが(たぶん)、実はこんな色、レートはパステルカラーというかんじで資生堂は混ぜて使う前提で原色的なのだとか(海外の製品も使われていました)。また洋装でも夜会などの場合は首や肩や腕まで水化粧濃いめ白いめにお化粧したみたいです、これは、メイさんも翌年のマリー・ルイズさんも同じ提案ですから当時の通例だったのだと思います。水化粧は白や肌色で、仕上げは肌色の粉化粧でしたからかなり白かったと思います…洋装といっても「お化粧は文字どうり白いもの」という観念がかなり強かった時代ですし白人を目指していた?ので、粉だけだと自然すぎで薄すぎという認識だったのではないでしょうか。粉化粧は顔もですが首や腕など服と擦れ合う体部分が特に、水化粧にくらべて剥離し易いということもあったみたいです。
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もちろん、まだファンデーションもドーランも(一応一般には)なかった時代です。白粉や口紅の色や種類が豊富になるもう何年かあとまではお化粧品の種類自体がまだとても少なかったのだと思います。メイさんのご主人、ハリー牛山さんの1931(S06)年の「モダン化粧室」では、口紅の2色使い(詳細は不明)、チタン系や褐色の白粉などの紹介が始まっています(他の雑誌などでも同じ頃メイさんが同じ内容を紹介)。この頃から褐色・オークルなどの濃いめの肌色白粉(今のような自然な色)がでてきたみたいで、その後1933(S08)年には資生堂から何種類かの肌色の白粉やアイシャドーが発売されたりです(海外のものもありましたが)。1920年代だと、肌色といっても数色(肌、桃、卵色)くらいな状況で、肌色や桃色の白粉にさらに白い色を混ぜて使っているのが当時の洋風のお化粧、首のほうが顔より白い衿化粧もしていたみたいですから、ちょっと実際のものは想像がつかないのですが…カラーフィルムがない時期なので具体的なことは不明です。

映画などを参考にした方もいたでしょうし、早見君子さんが前述の1927(S02)年の本で銀座に横行する「舞台上のカルメン式の化粧法や、欧風を悪用したドギツイ化粧法」や「眼ぐま」「洋装での濃い(白い)白粉」を非難していますから、そういったお化粧もあったのだと思います。舞台上のカルメン式て河合澄子さんでしょうか?高木徳子さん?浅草オペラに限らなくても当時の舞台化粧的な、↓って(古いです、すみません)かんじ??古い時代はよくわからないことが多くて間違ってたらごめんなさい。
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といった1928(S03)年の洋装のお化粧です、詳細は国会図書館近代デジタルライブラリーの「近代美しき粧ひ」などでご覧ください、前回紹介したもの以外では1926年の「化粧秘訣美人になるまで」の最後に具体的な当時の有名な方の化粧法紹介があって一般庶民じゃないので結構外国製のものも多く…上流階級やモダンな方は海外のものを愛用していたそうで、白粉だとコティ、ピノー、ロージャーなどだったみたいです。

昭和3年のモダンなヘアスタイル

モダンガール向き?な、昭和3年のモダン(近代的)なお化粧や髪型をメイ・ウシヤマさんの1928(S03)年近代美しき粧ひ」から。

当時一般的なマルセルウェーブのアイロンの使い方や新しい技術のフィンガーウェーブ断髪(ショートカット)の種類や方法、洗髪・シャンプーや染髪、シンジングと呼ばれた枝毛を焼き取る方法、と、とても詳しい説明があります。いつも書いていますが、髪の毛関係は理解不足というか苦手なので、てきとうな紹介でごめんなさい…興味があったら、ぜひぜひ国会図書館近代デジタルライブラリーへ…「近代美しき粧ひ」などで検索などすればどなたでもご覧になれますよ、と。とりあえずモダンな「断髪の種類」を、モダンガールは毛断嬢(もうだんじょう)とも呼ばれましたから…
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ホリゾンタル 中央、横、オールバック等で耳の下くらいまでの長さに切ったもの、後ろも横もほとんど同じ長さ
シングル 前横はホリゾンタルと同じか横を短くして、後ろを刈り上げたもの
ダッチカット 従来の子供のおかっぱ(前髪ぱっつんなど前髪を切るもの?)
ボーイッシュ・バップ 前後とも極度に短く刈り込んだ少年のような断髪で、イートン・クロップ(油性整髪料などで頭にぴったりさせサイドに流した髪型)等も含まれる日本ではなじみがあまりないもの

それぞれのカット方法も書いてあって。従来のおかっぱのダッチカットと男性のように非常に短い髪型のボーイッシュ・バップ(イートン・クロップなど)はあまり一般にはお勧めできないということです。実際に当時の写真などを見ても(時期にもよりますが)、分け目があったりカールがあるボブなどもわりと多いようです。襟足の作り方は4種類、一般的な自然のまま、真直ぐ、丸いもの、鋭角?など。断髪にマルセルウェーブや毛先をカールするバッヴ・カールなどのウェーブやカールを加えると単調で無趣味にならない、そうでその紹介も。断髪と和服も不調和でないとか斬新ですし、実際には圧倒的に多数派のおとなしい方向きの和装と調和する洋髪(伝統的な日本髪以外はみんな洋髪という時代です)なども紹介されています。熱したコテを使うマルセルウェーブフィンガーウェーブの方法の説明の画像です、私には理解できないので、ぜひ国会図書館で!フィンガーウェーブを最初に紹介したのはこの初代メイ・ウシヤマさんではないかと思われます。
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1930年代(1927年後半くらい?とも?)以降はスカートが長くなるのですが、髪のショートカットもやや長めというか女性らしくなる傾向のようで、ちょうど1928(S03)年はその変わりめの時期、ストレートでボーイッシュなボブから女らしいカールのある髪型が新しくかんじる時期なのかなと思われて、そのへんが従来のおかっぱのダッチカットや男性のようなボーイッシュ・バップ(イートン・クロップなど)に厳しい意見なのかも?です、どちらもセンスを要求される髪形ですから決まるとすごく素敵な髪です。洋服と髪型ってセット物で、髪がボーイッシュな刈上げならスカートは短くローウエストでストレートな洋服と少年ぽい体型、カール・ウェーブのある女っぽい髪形には長めスカートにウエスト正位置な女性らしいデザイン、な、ようで面白いです。

他に「洋髪の結ひ方と美容の秘訣」「都会で流行の家庭美容美顔術」「美人になる秘訣」なども1928(S03)年の美容書(発刊ラッシュ?かも)、こちらも国会図書館近代デジタルライブラリーでぜひ。それと、メイさんのご主人ハリー牛山さんの1931(S06)年の「モダン化粧室」もありますし、少し古い1926(T15)年の美容術講習録もすごいボリュームです。1931(S06)年「実際美容術」は日本的舞台的な化粧法が詳しくて私は好きなんですけどモダンではないです。戦前のお化粧は和装のお化粧(でも洋化粧だったりなのがややこしい)がわりと好きなので、モダン系には弱くて…またマヌケなことを書いているかもです。

最後に、初代メイ・ウシヤマさんは本名牛山春子(春なのでメイ?)さん。アメリカのスターフィルム宣伝部長からサンタリー美容大学に学んだハリー牛山(牛山清人)さんと結婚、メイさん自身もサンフランシスコ・ドンラックス美容学校やロサンゼルス・マクドナルド美容学校で技術を習得なさったようです。1925(T14)帰国後、松坂屋にハリウッド美容室を開設しました。今一般に有名なメイ牛山さんは二代目(最初はジュン牛山)です…遠藤波津子さんなども二代目以降襲名されてますよね。モダンガール御用達?的なモダーンな美容師さんといえば、丸ビル4階に丸の内美容院を開いていた愛子さんではない山野千枝子さんとこの初代メイ・ウシヤマさんだと私は思っています。女優になりたいとおっしゃる初代メイ・ウシヤマさんは、このような方↓でした(最右、上はハリーさん)。
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参考です、他に右カテゴリー「昭和戦前・化粧他」にも多少

昭和4年の洋装事情

ドレメの杉野芳子さんの自伝から実際の洋装の状況を拾ってみました。杉野さんは1914(T06)年に渡米、帰国後の1926(T15)年にドレスメーカースクールを開校されました。当時既に一般化していた名称、男子服のテーラーに対してのドレスメーカー(メーキング)なのだそうです。

1929(S04)年、当時の生徒さんは洋服を作ってもたんすの奥にしまいこんでしまって通学はまだ和服だったそうです。そこで杉野さんは、洋服は着慣れることが大切と「これから作る洋服は、全部、皆さんがご自身でお召しになるものとして作っていただいて、通学も洋装と定めます」と爆弾宣言をし、生徒さん達はショックを受け動揺されたそうです…というくらいに、洋装は珍しいことだったようです。洋装での通学は恥ずかしいので…その頃の膝下すれすれの短いスカートで下肢を晒すことはとても勇気が必要だったそうで…何人かでタクシーに乗ったり、大変だったそうですが「着ること」は洋服を知るための大切な教育だったみたいです。
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そしてその洋装はのためには、下着がないこと、靴がないこと、着物での内股の歩き方を特訓で直さなくてはならなかったこと…そんな状態に立ち向かわなければならなかったそうです。卒業式も、全員洋装と決まり、30人ほどが下着、コルセットやブラジャーなどから作らなければならなかった(自分で作れない場合は洋服を作るときに作ってもらったのだと思います)そうです。下↓がその年の、卒業式の写真です(問題があるといけないので小さいです)。ドレスは素晴らしいものができたのですが(当時の洋装姿としては、本当にどなたも素敵だと思います。ドレメでは一人一人それぞれに似合う洋服を指導していました)…靴を履いているのは前列だけ!後列は草履下駄履きだったそうです!当時靴屋は東京と横浜に一軒づつしかなくて、サイズが合わなかったからだそうです。右は同年の製作風景、生徒さんは和服です。
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1933(S08)年の文化裁縫女学校の生徒さんの写真(小池千枝さんのもの)もあるのですが、こちらも普段は和装とセーラー服(女学校の??)がほとんどです。一方、文化学院大学部美術科へ1935(S10)年に入学した長澤節さんの証言では「和服ばかりの時代に、この学校の女学部にはお化粧をして真っ赤な口紅をつけ、パーマをかけ、洋服を着ている女の子たちが何人もいるので、びっくりしてしまいました」だそうで背広のない長澤さんは困ってしまったそうです。次第に洋装が増えていたのだと思います。

読売新聞のモダン・ガール記者(17-8才で!)から、ドレメに学び洋裁家(ドレスメーカー)に転向したマス・ケートさんの1929(S04)年の婦人公論の「初めて洋装をする人々へ」では、下着の着方から始まって各種衣料の説明など詳しいのですが「下駄をはいてコロコロとあるいてゐるやうに、膝を曲げたきりで、少しものばさないで歩いている人が随分あります…」以下、歩き方の説明が続くのです。ちょっと今では想像がつかないのですが、着物を着て内股でちょこちょこ前かがみになって歩くような歩き方が当時までは美しかったのです。この辺は、戦後の極普通の庶民への洋装指導とまったく同じです。

ケートさんの1932(S07)年の婦人画報の記事では、冒頭に「一体に日本婦人のショートスカート姿はかんじがあまりよくなくて、悪くするとモガと一言あびせかけたくなるような下品さがありました。さふゆう私もショートスカートをはき、モガとどなられて往来を歩いてゐたのですがどうにも仕方がありません、それが流行だったのですから----多くの婦人は流行に忠実なものです。」…洋装はどなられたのですね、モガ!と。そんな逸話も結構満載なモダン・ガールのマス・ケートさんでした。

マス・ケートさんの記事や、1930(S05)年「洋装通」(一般ではなく専門化向けの内容だそうです)は、平井一弘さんの「マス・ケート文集」に収録されています。杉野さんの自伝も、最近のものなのでネットの書店などにもあります。後古い本ですが、婦人画報「ファッションと風俗の70年」もその辺載ってます、ちょっと古いぶん間違いもなくはないんですが写真も豊富です、長年愛読していてる本です、古本屋さんとかにあると思います。

今回は当時のものをまったく持ってないので、画像に苦労しました…なくてもいいんですけど、寂しいし。説明が下手なので、補ってくれるのが画像です。1929(S04)年はこれ以上出ません、たぶん。最後の画像は、ご存知の方も多いとても有名な画像です。デジカメなので(いつもですが)、ゆがみまくっててすみません。
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グラフ誌の昭和4年9月18日の記事、松坂屋の職業婦人のための標準洋装ということで洋服には全部値段が入っていて、大体10~40円くらいなのです。家庭を持った中流サラリーマンの月収が100円(職業婦人は高い方で40円?)くらいとして…かなり高額商品です、制服・職能服(靴や小物の価格は含まれてない)としても…お給料程の洋装です。そして、これはあくまでの職業婦人の服、流行先端のおしゃれなドレスとはちょっと違うわけです。庶民の洋装?アッパッパは1円前後と思うので…浴衣の生地の半額のアッパッパだけが庶民(の定義はいろいろですが)にも購入可能だったと思うのです。マス・ケートさんの「洋装通」にも「職業婦人の衣類」の項がありますが、小物は別にして年に1~2種類しか購入できなかったようすがうかがえます。松坂屋の記事、靴が数種類しかなくて履きまわしているんです、よくみると。戦前から戦後まで雑誌記事の靴に注意すると面白いです、戦中から戦後はほんとどこにも靴がなかったような感じなんです、色はカラーフィルムじゃないので変えてますけど。

昭和以降の洋装の歴史、S28年版02

前回の「昭和以降の洋装の歴史、S28年版01」の元記事です。日本の洋装と海外の流行を並べてあったりで、わかり易いですが、私はちょっと疑問もあるので判断はおまかせします。が、今みたいに、情報の多い時代ではないので、当時としてはとてもよくまとまっていると思います。

文章の記者は「衣服の変遷」って本を1943年て、戦争中のすごい時期に出していらっしゃるのですが詳細は不明です。その時代を経験したと思われる方のものなので、貴重だと思います。
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イラストはデザイン画の方なのでしょうか?イラストに添えられたコメントも同じ方です(なので、昭和初期のスカート丈など若干記事本文との食い違いがあって、そこが面白いですが)。画風が40~50年代のデザイン画調なので気の毒です。女学生(ハイヒール?)、昭和6年の子供服のローウエスト(歩けない?)と婦人服(どちらも少し前のデザイン?それとも日本では遅れて流行っていた?)、スカート丈など考えてしまうものもあります。色も、ちょっと?と私は思いますけど、どなたか、詳しい方、検証なさってください…古い時代はよくわかりませんので。

洋装の一般への普及は1923(T12)年の関東大震災後といわれてそれは洋髪なども伴いました。活動に不自由だった和式からの改変ですが、当時の洋装(洋服・断髪)が欧米の第一次大戦後の同様の機能優先への変化を受けた結果だったことも大きいと思います。丈が長く体を締め付けるような不自由な衣類や、髪を結い上げたりする非活動的なものから、機能的で活動に適したものへの変化は世界的な流れでもあったと思います。

前述した、スカート丈の記述の食い違いですが、記事本文は1930(S05)年頃から丈が長くなる傾向とするのに対して、イラストのコメントは1931(S06)年からショートスカートの洋装が普及したとあります、世界的な流行は1930(S05)年(のちょっと前)頃が転換期だと思うのですが、日本の洋装ではどうだったのでしょう?手元の写真やデザイン画などからは、日本も流行をある程度踏まえていたようには思うのですが、それはあくまでも「最先端」の部分だったのかも?とか、いろいろ謎が多いです。1930年代半ば、昭和10年くらいからは割合洋装の写真や洋裁の本なども豊富なので探り易いのですが…記事本文では膝少し上くらいのショートスカートが(おそらく60年代のミニ以上に)衝撃的だったことが察せられます。また海外のスカート丈、ほんとはもっと前(第一次大戦後)から、少し短かったと思います…
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戦前の洋装に関しては、洋装をした方たちの置かれた環境などもとても気になっています。また戦前の女性の洋装率は、今和次郎・吉田謙吉・資生堂・自由学園などの調査を見ると全体に数は少なく、特に1920年代では最先端の場所での少数の事例だったと思います(1925年銀座で1%、1926年銀座で4%、1928年三越前で16%、1930年銀座で13%、1937年東京25%、1941年東京55%、銀座などの繁華街で女学生の制服も含みます、昭和16年の女性の洋装率も参考)。けど1920~30年代の尖端の洋装は、古いのにびっくりなくらいにおしゃれで素敵です。

面白かったのでやたら長くなった1955(S30)年、とりあえず一段落ついたのでちょっとだけ気分転換をしようと、昭和戦前に手を出してしまいました。ちょうど、昭和28年の装苑があったので、自分の整理も兼ねていい機会かな、と。結果…慣れないことはよせばよかった、です。自分の中で、消化不良感がものすごい…こんなんじゃ、だめですね。

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