「西のクラブ、東のレート」。もとは「西にレーニンあり、東に原敬あり」という1920(T09)年、衆議院議員永井柳太郎氏の演説だそうです。これをもじって「西にクラブ、東にレート」といわれるようになったそうで後に「に」が「の」へ変化(詳細は水尾順一『化粧品のブランド史』、また三田村蕗子『夢と欲望のコスメ戦争』、『資生堂百年史』でも西のクラブ、表記)、そして今ネット上は順番変わって「東のレート、西のクラブ」が多いと思います。
西は関西のクラブ・中山太陽堂と、東は東京のレート・平尾賛平商店、どちらも大正から昭和初期の有名な化粧品会社です。詳細はwikiなどに書いてあるのでそちらを参考になさってください。
クラブの双美人は前田公爵夫人がモデルって言います、これはまだ双子じゃない?時期の1906(M39)年のクラブ洗粉
と同年のメリー洗粉、メリー洗粉の発売は1907(M40)年になってるのですがこれは間違いなく?1906(M39)年??の広告、それに双美人
1878(M11)年に創業、小町水(注1)を発売、以降ダイヤモンド歯磨などで当時すでに老舗だった東京の平尾賛平商店と、1903(M36)年創業で1906(M39)年発売のクラブ洗粉で新興著しかった関西の中山太陽堂のクラブの両雄対決をあらわしている言葉、だと思います。ところで「西にレーニンあり、東に原敬あり」は原敬首相への批判ですよね(批判した永井柳太郎氏は懲罰)なのでレート批判という意味もあったのでしょうか?がちょっと気になってます。と同年のメリー洗粉、メリー洗粉の発売は1907(M40)年になってるのですがこれは間違いなく?1906(M39)年??の広告、それに双美人
昭和初期のクラブのカテイフードと1915(T04)年のレートフードと1910(M43)年のポスター
1914(T03)年夏の東京大正博覧会でのレートの金牌独占とクラブの銀牌の受賞をめぐる金牌問題(注2)や、そのすぐ後12月の南洋スマラン万国大博覧会の両社の金牌受賞の時などでは、広告合戦が盛んでした。その後、1925(T14または前)年からはレートフードとクラブのカテイフードの「フード」(注3)の商標をめぐる訴訟問題が起こりました。中山太陽堂のカテイフードの商標出願に平尾商店が異議を唱えて対立します、1927年に中山太陽堂が一旦勝訴するのですが、結局1935年まで争いが続いたようです、って難しいことはよくわかんないのでここまで。両社にとっては一大事でしたが、クラブの社史や業界紙の記事には広告合戦などの競争を楽しんだ風潮もあったと書いてあり、その競い合いが業界の発展に拍車をかけた、ということですし、業界全体にかかわる問題が起きれば一致団結しその地位の向上に努めたとも書かれています。
クラブの方はクラブコスメチックスに引き継がれていますが、レートはは現在消失(注4)しちゃってますので悲しく思います。レート・平尾賛平商店て詳細がわかりにくいのです、1929(S04)年03月の平尾賛平商店五十年史が早く公開されると良いのですが…
クラブのはき白粉ってのは、刷き白粉、粉白粉のことです
注1 小町水は1878(M11)年発売、1891年ダイヤモンド歯磨、1906年乳白化粧水レート、1909年レートクレームはバニシング系、1915年レートフードはトガラントゴム・グリセリン・亜鉛華などの入った白くとろみのある化粧水(乳液)、1918年レートメリーは後のファンデーションにつながるもの注2 レートが金牌を独占したとする金牌問題の、大阪朝日新聞 1915.2.5の「浮華なる風俗と女優の化粧並に不当金牌問題に就て我商店必親展の書翰を公開し赤心を披瀝して各位の御清鑑を仰ぐ」という中山太陽堂の記事は神戸大学附属図書館のデジタルアーカイブ、新聞記事文庫で検索してご覧ください
注3 Skin Foodsは当時欧米の化粧品の種類名で栄養料と訳されています、ただしフード(日本名)及びFOODの商標は平尾が持っていたとの主張がありますが真偽や詳細はわかりません。
注4 1954年の会社更生法(ミの廿二号)によって財産の保全命令を受け、法の保護のもとに更生手続きの第一歩を踏み出した。(1954/08/14)『日本粧業』、レートフード新装発売の記事があります(1956/02/03)『日本粧業』
注4 1954年の会社更生法(ミの廿二号)によって財産の保全命令を受け、法の保護のもとに更生手続きの第一歩を踏み出した。(1954/08/14)『日本粧業』、レートフード新装発売の記事があります(1956/02/03)『日本粧業』
参考 平尾太郎(1929)『平尾賛平商店五十年史』、(1983)『クラブ・コスメチックス80年史』、水尾順一(1998)『化粧品のブランド史』 他