むかしの装い

―昔のこと、装うこと―

1930年代

戦前から終戦後の洗濯、下着とおむつ

戦前、1935(昭和10)~1955(昭和30)年くらいまでの洗濯についてと、メリヤス(ニット・編物)などの下着とおむつ(おしめ)の洗濯を、当時の婦人誌などからです。洗濯機の普及1955(昭和30)年代くらいから、と思うのですが、それ以前はたらい(盥、平たく大きな桶)と洗濯板などを使い、水道や井戸がない場合は、共同の洗濯場や川などで洗うというのが基本だったみたいです。水道がない場合は、水を汲むのも重労働、しゃがんだり中腰での洗濯とそれに伴う衣服整理はかなり負担の重い家事の一つでした。調理や掃除もガスや電化製品のない時代は楽ではなかったけれど…という時代のお洗濯です。
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左は1939(S14)年、右は1962(S37)年1957(S32)年です。戦前から、女性がしゃがんで洗濯することは体への負担が大きく、効率が悪いといわれていました、都会の富裕層では徐々に改善に目が向けられていましたが、経済的な理由もあって戦後になってもなかなか改善されなかったようです。

最右は当時の理想的で効率的な洗濯場、真ん中は通常の洗濯に必要な道具(たらい、洗濯板、汚れを擦るブラシやヘラ、など)、最左は洗ったものを干す物干し竿(洗濯ばさみではなく、基本は竿に通して干す)。足袋を洗うための型があるのが、いかにも戦前の中流家庭だと思います、また竿に通して干すというのは今ほとんど忘れられているのではないでしょうか?クリーニングもあまりなかったので、家族の衣類はもちろん、敷布や蚊帳などの大物や絹や毛の難しいものも家庭で洗っていたようです。和服は布に戻して洗ってた後また着物に縫ったり、ワイシャツなど乾燥後のアイロンかけ…そうそう当時は綿や毛の天然繊維ですから下着までアイロンかけないとシワシワになったらしく、体裁に気を遣う中流家庭ではものすごい手間暇と高度な技術が必要でした。
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洗剤も、まだ合成界面活性剤の洗剤があまりなかったので固形石鹸を使い、戦争になって石鹸が不足したり地方などでは、ソーダ灰汁さいかちやむくろじや油粕や布海苔なども使われました。布地の種類ごとに、さまざまな洗い方が工夫されていましたが、よそ行きの和服や男性の背広などはあまり(というかほとんど)洗ってなかったようです…シミや汗などを揮発油やさまざまな方法で処理はしていましたが。

また忙しく余裕のない層では、洗濯はなかなかできなくて、上着などは年に数度くらいしか洗わなかった場合も多かったようです。
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それでも、下着やおむつなどは洗わないと厳しいものです。その、下着やおむつ、の洗い方です。「木綿肌着と毛メリヤスの上手な洗ひ方」どちらも、メリヤス(ニット・編物)製品中心で洗濯が頻繁な肌着類、ソーダを溶かしたお湯にニ三十分浸してから石鹸をブラシで溶かしながら作った石鹸水でつかみ洗い・押し洗い・ブラシ洗い、白物の場合は漂白後、巻き搾り、アンモニア水に浸して、タオルに包んで押し搾る。おむつは毎日、あるいは日に二回くらい洗えるようできればたくさん用意し、汚れの種類によって分類、お風呂のお湯があればそれを使うとよい、小の場合は石鹸なし、大は汚れをすすぎ洗いしてから薄い石鹸液にしばらく漬けてブラシ洗いなどの後、赤ちゃんに刺激のないよう充分にすすぎ、雨天の時は籠にかけ中に火を入れて乾かし、乾いたら干している間に虫やごみがついてないかを調べ、ゴワゴワしたものは良く揉んで柔らかくする、という説明で、当時のできる範囲でかなり赤ちゃんに配慮した方法だと思います。できれば一週間に一度煮洗い(に、の図、バケツなどで石鹸液で煮る)するとよいそうです。これはまだ日中戦争(支那事変)も始まってない時期ですが、石鹸はかなり節約しています。
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古い時代の話でよく「生乾きのおむつのにおいの充満した部屋…」というような状態が語られるのですが、場合によってはおむつの数は少なかったし、親が多忙だったりで兄弟や子供が赤ちゃんの面倒を見ることも多かったのでおむつを替える回数もかなり少なく、石鹸は中流でも上記のように大切に使っていますから、なかなか…あと、背負っていたら背中まで濡れた、とか、背負わないと活動できませんし…集団で働いていると授乳にも気を使うことが多かったようです。

といったように洗濯ひとつとっても、手動で行う家事は今から想像もできないくらい大変だったので、戦前の中流以上の家庭では女中さんを使うことが普通でした。しかし、太平洋戦争(大東亜戦争)の頃は、女性も貴重な労働力として工場などに動員され人手不足でしたから、女中さんのいなくなった中流以上の主婦の負担も大きくなっていました。また、戦後しばらくは戦禍で破壊されたために、戦前より設備が整ってませんでしたし、物資不足…石鹸もなかったし、貴重な衣類はスフ(スティーブルファイバー)入りで摩擦水濡れに弱かったし…で、とても大変だったと思います。敗戦直後は、汚れてほつれた衣類で平気で歩いていると、雑誌などで文化人たちが非難することも多く、そんな記事を見ながら、非難する方も非難される方の気持ちもわかる気がして、複雑な気分になります…。環境にもよるでしょうが、一般に戦争で破壊されてしまった戦後しばらくの時期より、戦前の方が豊かだったようですから、復興のスローガンが「昭和八年に帰ろう(『月給百円のサラリーマン』)だったといわれます。だから、戦後しばらくも戦前と同じような方法で、重労働の洗濯をし、手間暇をかけて衣類整理をしていたと思われます、この記事で参考にした『主婦之友花嫁講座』も、初版は戦前の1939(S14)年ですが、手元のものは戦後の1948(S23)年版というのもその変化のなさなのかもしれません。しかも、もうひとつの1935(S10)年『お洗濯一切の仕方』と実は内容はほとんど同じで(イラストまで)、『主婦之友花嫁講座』のほうがページ数が多く詳細なのと、物資が不足しているので洗剤などむしろ時代を逆行してる感があるくらいでしょうか?

というかんじで。洗濯も含め家事は戦前も戦後しばらくはほぼ同じ方法で、でかなりの重労働…それが楽になるのは、復興も終わって、電化製品が普及する1955(昭和30)年代以降…洗濯機と掃除機と冷蔵庫と、上下水道とガス(電気)やエアコンのない世界の家事は大変だと思います。

大正-昭和戦前のウエディングドレス

大正頃から、昭和戦前の日本のウエディングドレスです、実際に洋装の花嫁はまだまだとても珍しかったと思うので無謀な?記事です…とりあえず、各時期の画像を。手元にあるものを並べただけなんだけど、並べるとウエディングドレスといえど流行の洗礼をしっかり受けているのがよくわかりました、ちょっとびっくり
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下図は、1907年フランスのもの。ベルエッポックのアールヌーボー的なS字型のシルエット、ウエストから細く腰に沿って裾が広がるかんじ、とつばが大き目の帽子な時期で頭は横にふくらんだポンパドゥールが流行っていた時期…ウエディングドレスもその特徴が現れています。白いウエディングドレスは、ヴィクトリア朝(1837-1901年)くらいからだそうです。詳しくないのでwikipedia参考
1918年アメリカのもの、体をあまり締め付けない、やや短い丈の筒形(チュニック)タイプへ変化しつつあります。
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1925(T14)年『婦人画報』のもの。スカート丈はかなり短くベールは長い、みたい。ところで、この1918年海外と1925(T14)年のドレス、袖が短くて手袋もないみたいなのですが…
1928(S03)年の『衣服と整容』から、当時流行の短いスカートと筒形(チュニック)ウエストが低いスタイル(ローウエスト)。ベールが長く、髪形が独特。合計300円(今なら×数千~5-6千??)
1929(S04)年のものは、以前紹介したドレメのこれ
1930(S05)年『主婦之友』から、同様の短いスカートと筒形低いウエスト。手袋と白い靴下、長いベール、冠はオレンジフラワー。もう一つはグラフ誌から。この時期はスカートが短いけれどベールが裾を引いて美しい。
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1931(S06)年『婦人公論』から。1930年頃から正位置のウエストでスカートが長くなったので、ドレスもロングに。逆にベールは短くなっています。
1932(S07)年『洋服裁縫大講習録』から。正位置のウエスト長いスカート、4点。製図(西島)もあるもの。
1933(S08)年『洋裁読本』から、これも製図(杉野)があります。
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1935(S10)年『文化洋裁講座』から、これも製図(文化)があります。流行に合わせて袖がふくらんでいます。
1937年アメリカのカタログから。この昭和12年頃は、日本の雑誌でもアメリカのウエディング特集記事などがあります、ちなみに当時結婚特集は秋が多い…
1939(S14)年おなじみ?の『主婦之友花嫁講座』から、1930年代のドレスはどれもスリムだと思います。このシリーズは1942(S17)年くらいまで版を重ねていたと思う?
1944年アメリカのカタログ、スカートが広がりつつあるようです。太平洋戦争がはじまるとさすがに日本の雑誌、『婦人画報』や『スタイル』でも、ウエディングドレスは載ってないです(昭和17年の花嫁・最下参照)戦後1949年の洋裁誌の対談では、戦争中は国民服とモンペの結婚式もあったと語られています
1949(S24)年『主婦之友』から、スカートがふくらんでいる今でもあるかんじのもの。

戦後1947(S22)年の『装苑』からですが、まだまだ洋装の婚礼は嫌われているといった意見もありますが、若い女性が望んで洋装が増えたという記事も目立ちます、が洋装関係の本なので最先端だとは思います。お祖母さま・お母さまの白無垢を利用したリメイクのウエディングドレスといったものもこの時期らしいです。また、ベールが短くなったこと、靴下は白でなくてもよいこと、物資がないのでドレスは木綿などあるものでもよいこと、染替えてイブニングドレスや、赤ちゃんのベビー服に利用すると経済的だ、などと書かれています。1949(S24)年頃には「(和装に比べて)経済的で、後から利用もできるウエディングドレス」など、若い女性に人気は出てきているみたいですが実際の着用率などは不明です。
 
細かい説明は省きますが、服装の規則(ドレスコード)が厳然としていた時期の礼装です。時期や環境によって、変わるのですが、1930年代後半くらいの一般的なところだと、手の甲を覆うほどの長い袖、つまった衿、長い裾(やベール)、手袋、靴下、靴は白。素材は純白ののサテンクレープを中心に、モアレ、タフタ、ジョーゼット、シフォン、レース、など戦前の布地の記事。髪飾りはオレンジの花、他のアクセサリーは指輪以外フランスはなし、アメリカはあり、など。式は教会で行うものなのでアフタヌーンが基本ともいわれ、肌を露出しない厳粛なドレス。披露宴ではイブニング系になるものの、やはりで気品があり、あまり肌を露出しないことになっていたようです。また、古い時期ほど、付添人(未婚の友人)やベールや裾を持つ子供の付添人などの服装(基本はアフタヌーン)、母親などの服装も細かく決められています。

私は、つましい庶民なのでドレス方面はなじみがないし、よくわかっていません。ウエディングドレス関係の本も持っていないので(欲しい、高い)、ものすごくてきとうなので信用しないでくださいね…ただ、ウェディングに限らず、戦前の服装の規則(ドレスコード)は興味があるので、ちゃんと調べていきたいと、は、思っています、今回は適当で…すみません。
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1942(S17)年、花婿は国民服、花嫁は黒紋付、の近親だけの結婚式。国民服は戦時の衣生活の合理化・簡素化を目的にしたもので礼服としても使用されました。祝宴の料理などは闇のものが多かったそうです。

昭和9年の女学生と少女・少年・子供服

1934(S09)年の婦人誌の付録から女学生少女少年子供服です。関東大震災後くらいから、都市部の富裕層の子供や学校の制服での洋装は増えていて、1930(S05)年くらいからは、夏の簡単な家庭着あたりから女性の洋装も広がっていました。この1934(S09)年頃になると、小さい時から洋装だった子供が成長しそのまま洋装を続けたこともあって、都会の中流以上や職業を持つ若い女性の洋装が増えていたように思います。といった時期の、女学生・少女・少年・子供服です。あでも、まだまだほとんどの女性(特に既婚)は和服でした、一般的な多くの人々の洋装は戦後一気に広まりました。。洋装率の記事(または右下の検索ボックスで「洋装率」「今和次郎」を検索)とか…
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1934(S09)年の春物です
1930年頃、欧米ではスカートは少し裾が広がった細く長いものになり、正位置の細いウエストなど女性らしいシルエットを生かすスタイルが流行していました。それに加えてこの前年の1933(S08)年あたりから、や肩にかかる襟などによって、なで肩的な大きめの肩のデザイが目立っているように思います。また、室内着やレジャー用にパジャマやガウンも話題だったようです、パジャマはパンツなので女性のパンツ姿が珍しかった当時とても斬新だったようです。帽子は1920年代のクロッシェと呼ばれた釣鐘型のぴったりしたものに代わって、つばのあるタイプが増えています。
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1934(S09)年の編物で、肩などわりと凝っています
と、かなり適当な流行の説明です(まだちゃんと調べてないんです)が、若い未婚女性は当然として(戦前日本では結婚前の若い女性がいちばん流行に敏感でしたが欧米の流行は大人の女性のものでした。この時期の日本の既婚女性はほぼ和服でしたし)少女・子供服にもその流行の特徴が現れているようです。はっきりわからないのですが、最後にアップしたアメリカの子供服などはあまり流行を意識してないようですが、この頃の日本の子供服はかなり流行を意識しているようで、黒髪のおかっぱ頭(ボブ)と合わさって、独特な雰囲気だと思います。
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1934(S09)年の春物
雑誌などでは「日本人は流行をむやみに追いたがる」という意見も多いです、洋装が始まったばかりで気合が入っていた時期なので、洋裁家(デザイナー)の方たちも海外のヴァーグフェミナあたりのトップモードをかなり意識しているのだと思います。ただ、実際に作る場合に素材などが、なかなか入手ができなくて(高価な輸入ものは限りがあったし)和製の洋反物や和服用の布地などを使用する場合もあり、その頃のセンスやカッティング・パターンなどの裁断や縫製技術の拙さが加わって、日本独自の風情あるスタイルになってるように…特に『主婦之友』『婦人倶楽部』などやや大衆向け(といっても、当時の中流以上)の雑誌で顕著だと思うんですけど…
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1934(S09)年の夏物です
以前に紹介したものも、混ぜちゃっててすみません。5年後の1939(昭和14)年と違い、リボンやレースなどの過剰な装飾がなくわりとシンプルな少女・子供服、思わずやはり戦犯は中原淳一さん??と思ってしまいましたが、全く個人的な想像です番傘?を持っていますが、これは欧米で流行っていたものの逆輸入。日本・東洋趣味って19世紀くらいから人気だったのですが、この時期も流行ったので、と思います。
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1934(S09)年の夏物、少女・子供なので袖なしですが大人の袖なしはあまりない時代です
下図は、日本のように大人の流行服の縮小版ではなく、流行の影響が少ないように思うアメリカの子供服です。ほんとは、もっといろいろ紹介したいけど、またの機会に…
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ちょっと乱暴な紹介の仕方でごめんなさい、服装の規則(ドレスコード)がきっちり決まっていた時代なので、遊び着や改まった外出用などシーンや用途、と素材も明確にした方が良いのですが…

昭和14年の女学生と少女・少年・子供服

1939(昭和14)年の婦人誌の付録から女学生少女・少年・子供服です。純粋な綿や毛の布地が手に入らなくなった時期で、手持ちのものを工夫することが奨励されていたので、古い衣類などから更生(リメイク・リフォーム)したもの増えています。でも、まだ海外からの雑誌をはじめ情報も入ってきているので、ちゃんと世界的な流行を意識しているようです。
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10歳前後、初夏ものです
1939年(日本だと太平洋戦争の前)は理解不足で不確かなのですが、9月に第二次世界大戦がはじまったこの年は、わりと流行の変化が大きかったように思っています。数年前から、肩は張るようになっていて、また(1920年代は短く、1930年代に入る頃から長くなった)スカートが再び短くなりつつあったのですが、この年は膝下位に短くなります、同時にフレアーやプリーツなどで裾が広がるようになり、腰からウエストは細くタイト(ここ重要?なのでギャザーは少ない量のようです)になっていて、だけはふくらんだり変化に富んでいる…という感じだと思います。ちょっと張った肩と少し広がった短いスカートとふくらんだ袖、って印象。
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女学生向きのもの、組み合わせの工夫など。この頃、仲良し二人で服の雰囲気を合わせて歩くことも多かったみたい
白い襟やソックスのリトルガールルックとか、古典的でロマンチックな傾向も、当時の雑誌などではよく書かれています。ただ、戦後のニュールックほど甘さを強調したものでも贅沢に布地を使ったものでもなく、世界的に物資不足が進行していたため、布地は節約気味?で、かつ大戦勃発頃のせいか程よく機能的で活動的なかんじも加味されています。短いボレロや、以前は下着的なブラウス・シャツなどの外衣化、一部でですがスカートからレースのペチコートをのぞかせることも流行ったようです。それと、変な帽子など、といったところですが、この記事、女学生・少女・子供服ではあまり顕著ではないけど…
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10歳以下の少女、右は替え衿の特集、着こなしに変化をつける工夫です、戦前戦後はこういう小さな工夫が大切にされていたと思います
日本でも以上のような傾向を、時局柄つつましくはありますが取り入れているようです。女学生少女向きなので、よく見ると小さなリボンや小花、レースやテープがあちこちについていたりで、可愛いと思います。子供だから、ちょっと過剰目の装飾も上手くまとまってるというか。髪型も、リボン使いや、ボブの毛先が微妙にカールされていたり、お揃いの小物だったり…わりと凝っています。
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4~5歳まで、全体に上部が縞の靴下が多いです
私はこの1930年代末から1940年代はじめのスタイルが案外すきです。ややロマンチックなんだけど、機能・活動的、ちょっと不安定な要素(どこが?個人の印象です)も素敵です。日本だと、中原淳一さんの『女学生服装帖』の後半のイメージでしょうか?作業しながら、これ、中原さんが描いたら素敵だろうな、て少し思いました、デザインはけっこう有名な洋裁家やデザイナーの方たちです。
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男の子、子供のおもちゃなど小道具に、ミリタリーっぽいものが多く時局を感じます
冬はウールが高価なことと入手難なのか更生(リメイク・リフォーム)ものが増えています。翌1940(S15)年になると、春・夏物も更生(リメイク・リフォーム)が中心になってきていますので、一般には1939(S14)年は春・夏物の新しい布地(スフ入りと思います)が手に入りやすかった最後の年なのかもしれません。そして、あと10年程は正規に新しい布は手に入らなくなります…このあたりは、確信が持てないので、またゆっくり確かめたいと思っています。
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春の編物です、女学生用の帽子や小物、お花がついて可愛いところが女学生
雑誌の写真の人物などを切り抜いているのは、服だけを純粋に見るためです。戦前戦後の婦人誌のカラーは、バックの色や意匠の主張が強いというのもあります。けれど一方で、当時の雰囲気が失われるなど欠点も認めます、そういったものを求める方や、当時の製作者の方には申し訳なく思っています。あと、雑です、いつもとても雑な切り抜きですみません。
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冬は古着や和服などからの更生(リメイク・リフォーム)ものが増えています
昭和14年て、いくらか書いたつもりでいたんだけど『主婦之友 花嫁講座』ばかりでした。今回も『主婦之友』と『婦人倶楽部』の付録からですが、この二誌は比較的有名ですし発行部数も多いので御存知だったりお持ち方も多いかも。昭和10年代は、他誌や書籍も加えて丁寧にやりたいと思っていますし、戦争中も占領期も以前書いたものが自分的にはとても不満です。 
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 紹介した付録です、裏の広告は中山太陽堂のクラブ

1936年のバロン薩摩夫人、薩摩千代さん

バロン・サツマと呼ばれた薩摩治郎八(さつまじろはち、1901-1976)さんの夫人の千代(1907-1949)さんです。千代さんは山田英夫伯爵(松平容保の三男で、長州藩士・参議の山田顕義の娘の婿養子)の娘で、1926(T15)年3月にバロン薩摩さんと結婚されたそうです。千代さんを千代子と書いていましたが、戸籍上の名前は「千代」で敬意尊称の意味で「」が加えられることがあったそうです。千代夫人はいろいろの説があるのですが、1929年フランスの『Minerva(ミネルヴァ、婦人写真新聞)』の第一面を飾られて、その後1930年日刊紙『Excelsior(エクセルシオール)』の夏の別冊のモード特集(ジョルジュ・ルパップ表紙)でもモデルも務められたといわれます。他に『ラール・ヴィヴィアン』のページを飾ったともいわれ、カンヌの自動車エレガンスコンクールで屋根と泥除けが淡紫でいぶし銀のボデー、金物は純銀メッキのクライスラーに乗った銀色のタイユール(tailleur スーツ)を着た千代さんが西洋麗人を圧して優勝した件とかも有名で、華やかなパリ社交界の花、でもあったようです。戦前日本でも有名だったファッション誌『VOGUEヴォーグ』の件は未確認です…
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その千代夫人の写真を1936(S11)年の発刊後間もない『スタイル』で見つけました、駿河台の御邸(気紛れ荘Villa mon caprice)での撮影のようで、すでに結核で健康を害されて帰国されていたころだと思います。「父(山田英夫伯爵)がお稲荷様にバチが当たるって申しますので(犬は)飼いませんの」が印象的で、ドレスの仕立は上野広小路のカナノヤだそうですす(パリのバロン薩摩さんに関してはランバンやポアレなどの記述も見えます)。夫人の着こなしや美容・ダイエットなどに始まり社交界で通用する美しさと教養はバロン薩摩さんが指導されたそうで、結婚前はふっくらした日本的な方だったようですが、だんだん洗練されていって戦前の日本女性としてはすごく美しくハイセンスな方ではないかと思います、なので治郎八さんも優れた感性の持ち主だったのではないでしょうか。千代子さんの身長は156-7㎝ということですがスタイルが良いのでもっと高く見えるような、享年は42歳でした、美人薄命…
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薩摩治郎八さんは広岡敬一さんの本で知りました、秋月ひとみ…後の利子夫人がらみです、ストリップのスター秋月ひとみさんとのエピソードも含めその流転の人生は衝撃でした(興味がおありなら、下の参考などはごく一部ですが…読んでください)。バロン薩摩さんはパリの日本人留学生会館であった日本館に出資・尽力したことで、レジオンドヌール勲章をフランス政府から贈られています。また同じくレジオンドヌール勲章を贈られ、共に戦禍の時代に翻弄された藤田嗣治さんとの関係(詳細はwikiなどで)なども有名です。レオナール・フジタにしても、バロン・サツマにしても、モダンボーイと呼ぶにはあまりにも恐れ多いのですが、どちらもとてもお洒落で粋で、超モダンな方たちだったと思います。薩摩さんが爵位がないのに男爵(バロン)と呼ばれたのは、その莫大な資産と華麗な浪費ぶり(800億を使い果たしたとも)からでした。薩摩家は木綿問屋で明治期に金巾(かなきん)の輸入で財を成したといわれます(治郎八の母はモスリンの杉村家)、ちなみに薩摩一族は鹿児島ゆかりではなく近江の出身のいわゆる近江商人ようです。近江商人には紅の丸紅や柳屋の化粧品関係、繊維関係など多いですよね、薩摩家は彦根市の薩摩町と関連があるのではともいわれます。薩摩家も繊維や服飾との関係は深いみたいで…その辺りも興味があります。

またバロン薩摩さんは、『婦人画報』ともかなりかかわっておられます。一方この、千代夫人の写真を掲載した宇野千代さんの雑誌『スタイル』は藤田嗣治さんの話題も豊富です。『スタイル』はかなり軟派な?お洒落雑誌なので(日本のファッション誌の草分けの一つ、日中戦争以降の編集方針も素敵、画報も独自だけど)ブログを始めたころはあまり触れてなかったんですけど、お化粧関係の記事がとても多くて、ヘアダイ(白髪染ではなく、茶髪の方。ちなみに過酸化水素水による各部位の脱色法は戦前から秘かに知られて一部専門誌などへの記載もあります、が、髪に関しては黒髪を尊重する風潮なので日本では否定的でした、一般的には進歩的な美容家の意見でもものすごい勢いで?否定的でした。おちついたらちゃんとそのうちに書きますね。ヘナなどは昭和初頭頃知られてたみたい)もすごく早くに取り上げていたり、です。

バロン薩摩さんと秋月ひとみさんのエピソードも紹介したいのですが、キッズ向け検索から来られる方もいらっしゃるので悩むところです。この記事、ちゃんと調べてないので…でもバロン薩摩さん関係はすごく興味あります。バロン薩摩さんが晩年『暮らしの手帖』で連載された『香水物語』で愛する香水として挙げているのがCARONのNuit de Noelです、ニュイドノエルて近年のしか知らなくて…中村進治郎さんも香水について詳しかったみたいですけど、戦前の専門家以外の男性で香水に詳しいってなんだかすごい…
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画像、写真提供は利子夫人などです…髪型から考えると、後半1920年代頃でしょうか??(治郎八さんとのはスカート丈からして1930年代かも?)

参考 1993『ストリップ慕情』広岡敬一、2009『「バロン・サツマ」と呼ばれた男』村上紀史郎、2010『パリ日本館こそわがいのち薩摩治郎八』小林茂、2011『蕩尽王、パリをゆく』鹿島茂、他

昭和戦前の布地、1930年代頃中心

昭和戦前の衣服に使われた布地のことです。古い時代の服を調べていると素材が現在とはいろいろ違うみたいで、よくわからなくて気になるので調べてみました。戦前はほとんどが天然繊維の毛、綿、絹で、化学繊維としては再生繊維(レーヨン、キュプラ/ベンベルグ、スフ)がありました。現在あまり知られていない布地もあって、たとえばギンガムの種類のコリアンクロスピーターパン、他に綿でネンスークトブラルコ瓦斯(ガス)糸を使ったもの、毛織物ではサージの下位品のヘル、絹ではカントンクレープなどがあったようです。また、時期や場所によって洋服地が手に入らなかった場合は、和服用の反物や古い着物を利用したり、毛織物のセル(サージの和名、薄いサージ)やメリンス(モスリンの和名)、絹の平織の羽二重富士絹、綿の浴衣地なども洋服用の布地としてよく使われていたようです。

とりあえず、代表的な戦前の主に女性向けの布地などを当時の資料と、場合によっては現在の解釈も併記しつつ書いておきます。この記事に限りませんが不確実なことが多いので、随時訂正していこうと思っています。
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繊維・織物全般
フィラメント(長繊維) 長い繊維、絹と化学繊維
ステープル(短繊維) 短い繊維、綿や毛や麻と化学繊維
撚糸 2本以上の糸をより合わせたもの、種類の違う場合は交撚糸
紡糸woollen yarn 原料を溶かし孔から押し出し凝固させて糸にすること
紡績worsted yarn 短い繊維を並べ引き伸ばし撚りをかけて糸にすること
梳毛(そもう)糸・織物 長い繊維を撚った糸、とその織物、やや光沢があるあまり厚くないが丈夫なものが多い(ウーステッド、サージ、ギャバジン、モスリン、など)
紡毛(ぼうもう)糸・織物 短い繊維を撚った糸、とその織物、縮絨した厚地が多い(フラノ、メルトン、ツイード、ラシャ、など)
スパン糸span yarn 短い繊維を紡績(並べて撚りる)した糸
平織 経(たて)と緯(よこ)一本ずつが交互(平絹、キャラコ、金巾、羽二重、ポプリン、など)
綾織・斜文織・ツイルtwill 経(たて)と緯(よこ)が浮いて織り目が斜め(サージ、ギャバジン、ヘリンボーン、など)
朱子繻子織(サテンsatin) 経(たて)と緯(よこ)の浮が多く光沢があり滑らか(サテンサテンクレープ・繻子ちりめん、繻子羽二重、紋綸子、など)
交織(こうしょく) 違う種類の繊維を混ぜて織る
縮絨(しゅくじゅう) 紡毛織物を湿らせて揉んだり叩いたりしてフェルト化したもの(フラノ、メルトン、ラシャ、など)
斜子織(ななこ) 経(たて)と緯(よこ)2本づつ引き揃えたの斜子組織の平織物
瓦斯(ガス)糸 ガスなどで毛羽を焼いた綿糸、光沢がある
シルケット糸 綿を苛性ソーダで処理し絹のような光沢などを加えた加工、マーセライズとも

ジャージjersey 主に外衣にもちいる編地(ニット)の総称、織物のように裁断・縫製して製品化される
クレープcrepe・縮緬 強撚糸(強い撚りをかけた糸)を使った織り、ちぢれ・しぼ(細かい凸凹)のある織物、デシンde chine→ジョーゼットgeorgette→シフォンchiffonと薄くなる
クレープデシンcrepe de chine・フランス縮緬 フランス縮緬、強撚糸(強い撚りをかけた糸)を使ったしぼ(細かい凸凹)のある織物、細かいしぼのあり柔らかい、クレープでは厚め
クレープジョーゼットcrepe georgette フランス縮緬、強撚糸(強い撚りをかけた糸)を使ったしぼ(凸凹)のある織物、撚りが強く縮みが大きい、薄地
クレープシフォンcrepe chiffon フランス縮緬、強撚糸(強い撚りをかけた糸)を使ったしぼ(凸凹)のある織物、撚りはやや弱い、薄地で軽く柔らかい
ピケpique 畝織、平織の一種で経(たて)と緯(よこ)の密度を変えて畝をつくる
ボイルvoile 強撚糸の平織物、薄地で軽い
ポプリンpoplin 経(たて)の密度が高く、緯(よこ)糸方向に細い畝のある平織物
メリヤス ニット類の総称、靴下類の他、綿メリヤスや毛のメリヤスが下着などに使われた
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毛織物
アストラカンastrakhan 毛皮のアストラカンに似せた巻き毛持つ織物、玉羅紗
ウーステッドworsted 長い繊維を撚った梳毛(そもう)、梳毛織物やその総称、やや光沢があり薄めで丈夫
カシミヤcashmere カシミール地方の山羊の表面の毛の下の柔らかい毛、綾織のサージより柔らかい織物、女学生の袴用
ギャバジンgaberdin 梳毛の斜文織、スーツなど
サージserge 梳毛織物の一種、経(たて)緯密度がほぼ同じの2/2の綾織・正則斜文織、スーツや制服など
スコッチscotch スコットランド風、スコットランドツイード
ツイードtweed 元来は手紡ぎの紡毛糸の2/2綾織の手織物で、ざっくりした素朴な厚手の織物
ドスキンdosekin 牝鹿の皮、それに似せた毛織物
ブロードクロスbrordcloth 梳毛と紡毛で織り縮絨した薄地のメルトンに似たもの、または畝のある平織の錦織物、どちらも柔らかく光沢がある
フランネルflsnnel 平織または綾織りの縮絨・起毛した紡毛織物、柔らかかい
ヘリンボーン ニシンの骨のような織模様の織物、杉綾
ヘルhell 経(たて)に梳毛糸、緯に紡毛糸を使った織物でサージ(やメルトン)の下位品、丈夫で実用的、純毛と綿混があり、軍服・学生服・労働着など
ホームスパンhomespun 家庭で紡いだ手紡ぎの太い紡毛糸を用いた素朴な織物(ツイードも元来はその一種)
ポーラporal 強撚糸の薄地平織物、織目が荒く通気性が良い夏物用
メルトンmelton 縮絨し毛羽(けば)を出した紡毛織物、織目が見えなく厚めでやや硬い手触りで丈夫、羅紗の下位品
モスリンmuslin(メリンス) 梳毛織物の一種、平織りの柔らかな薄い織物で捺染される、メリンスとも呼ぶ(モスリンmuslinは欧米で本来は薄地の綿、日本では当初梳毛の毛織物をメリンスや唐縮緬などと呼びモスリンと混同したためこの時期のモスリンは毛織物。甘撚りの綿糸でモスリンに似せたものが新モス)
羅紗(ラシャ)raxa 縮絨し毛羽(けば)を出した紡毛織物、織目が見えなく光沢がある
ウールジャージーwool 、ウールジョーゼットwool georgette、ウールクレープwool crepe、ウールボイルwool voile、ウールポプリンwool poplin、などは上記織物参照

絹織物
練り糸 膠質(にかわしつ)のセリシンを除去した、柔らかく光沢のある絹糸
クレープcrepe・縮緬 強撚糸(強い撚りをかけた糸)を使った織り、しぼ(凸凹)のある織物、デシンde chine→ジョーゼットgeorgette→シフォンchiffonと薄くなる
カントンクレープcanton crepe 広東のクレープ、厚手で大まかなしぼ(凸凹)がある
サテンクレープsatin crepe・繻子縮緬 強撚糸を使った一面が朱子・繻子織でもう一面が縮緬のもの、光沢とちぢれ・しぼ(凸凹)のある
スパンクレープspan crepe スパン糸(短い繊維を紡績)のクレープ・縮緬、富士絹とクレープデシンの中間
タフタtaffeta 横畝のある平織物、しなやかな張りがある
パレスクレープparece crepe しぼ(凸凹)の目立たないクレープ・縮緬、柔らかくしなやか
紋パレス パレスクレープに地紋を織り出したもの
グログランgrograin 横畝の平織物、ポプリンより柔らかい、リボンなど
ビロード天鵞絨・ベロアvelour・ベルベットvervet パイル(添毛)織物、毛羽があり滑らか
ポンジー・繭紬(けんちゅうつむぎ) 柞蚕糸(ヤママユガ科の柞蚕の繭からとった太い糸)を用いた薄地の平織物、淡褐色を帯びて節がある
シルクポプリン・絹ポプリン・シャルマント・ローヤール 絹のポプリン、経(たて)の密度が高く細い横畝のある平織物、厚め
縮緬 日本の縮緬はしぼ(凸凹)が大きい
甲斐絹 練り糸の織物、タフタに似る
羽二重 無撚糸の平織、光沢があり滑らか
紋羽二重 紋様を織り出した羽二重
輸出羽二重 薄地の羽二重
富士絹・不二絹 屑糸の絹紡糸を使った平織物、硬めで羽二重に似る、1902年頃富士瓦斯紡績会社が創製した
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綿織物
インディアンヘッドindia head 太番手の素朴な平織物、
ヴェニス(ベニス) 透かし目のある織物
オーガンジーoragandy 平織物、薄く軽く透けて張りがある
オックスフォードoxford コーマ糸(短繊維を除いた糸)の斜子織(平織りの種類)、しなやかで光沢がある
金巾 27~40番程度の単糸の平織、シャーティングshirtingとも、天竺より薄くキャラコより厚い(場合もある)、キャラコと同じとも
シーチングsheeting・金巾・粗布 太番手の平織物、ドレスの仮縫い用
キャラコcalico 薄地の綿平織物、20~50番くらいとも
ギャラティ 表が繻子のような布地、丈夫
ギンガムgingham 先染め糸の格子柄などの平織物、縞もある、広義の種類にピーターパン・コレアンクロス・EGB
ケーメントクロス 厚手の布
ケンブリック 薄く上質のキャラコようなもの、ハンカチなど
コットンクレープcotton crepe 綿の縮緬、柔らかく肌触りが良い
コットンジョーゼットcotton georgette 綿の縮緬、安価で軽い 綿のサージ
コリアンクロスkorean cloth ギンガムに似た織物、糸が細く柔らかく光沢があって上質
サティーン 綿の繻子(絹のサテンと区別してこう呼ぶ)、現在のサティーンと違って弱い
スポンジクロスsponge cloth 節のある糸などで織った凸凹のある柔らかくふっくらした織物
スレキsleek 綿綾織物、滑らかで光沢のある、紳士ものの袖裏など
天竺・シーチングsheeting 20番くらいの太番手の平織物
ゼッファー ギンガムに似たもの
トブラルコtobralco 平織と斜子織との混合組織、太い糸のざっくりした生地で柔らかい
ドリルdrill・桂木(かつらぎ) 太綾の織物、厚い
ネンスークnainsook 平織物、薄く柔らかで光沢がある、キャラコより上質
バチースト ボイルに似た布地、軽く透けている
ビエラviyella 梳毛と綿糸の交織織、寝間着や下着や婦人服など 
ピケpique 太畝織、畝は細いほど上質
ピーターパンpeterpan 平織物、薄くキャラコに似る
ブロードクロスbroad cloth 経(たて)密度の高い平織物、滑らかで光沢がある
ボイルvoile 強撚糸の平織物、粗く透ける
ポプリンpoplin 経(たて)密度の高い(または緯糸の太い)平織物でブロードクロスより畝が太い、本来は絹と毛の交織り?
瓦斯ポプリン 焼いて毛羽をとった瓦斯(ガス)糸のポプリン、光沢がある(絹ポプリンとも呼び、絹糸で織られたポプリンと混同しやすい?)
綿サージ・コットンセル 綿を用いたサージ、綾織・正則斜文織
綿ネル 綿を用いたフランネル、起毛した織物
綿モスリン・新モス 薄い綿のモスリンのようなものが綿モスリン、甘撚りの綿糸でモスリンに似せたものが新モス
ローンlawn 元来麻の織物、平織物の薄地
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他・和服地(着物用の反物は布幅約36cm前後、長さ10~12m前後)
リンネル・リネンlinen 亜麻、晒した上質のものは夏のスーツなど
リンネットlinnet 麻を模したもの、戦前は綿と麻の交織

小倉 縦縞の丈夫な木綿布、霜降りなど
お召 御召縮緬、膠質(セリシン)を除去した練り糸を使い横糸に強くより(ひねり)をかけて織った絹織物でしぼ(細かい凸凹)がある
 染めた(一部が白いなどの)糸で作った(白い)織り模様がある
絹セル 経(たて)に絹、緯に細い梳毛糸を使った薄く密な毛織物、フロックやモーニング
塩瀬 厚地の羽二重
セル 薄地のサージ、梳毛織物
仙台平 堅牢な絹織物、多くは縞、袴に用いられ男物袴地の総称にも使われる
 紬糸(屑繭から作られた太く節の多い絹糸)の平織物、木綿に似せた絹織物
甲斐絹 練り糸の織物、タフタに似る
羽二重 無撚糸の平織、光沢があり滑らか
銘仙 平織りの絹織物の紬の一種、丈夫で安価
メリンス モスリンのこと、平織りの柔らかな薄い毛織物
浴衣地 綿の平織物、紺色の染が多い

化学繊維
化学繊維には再生繊維(植物繊維などを溶かし作られたもの)、合成繊維(石油などから作られたもの、ポリエステル・アクリル・ナイロン)、半合成繊維(植物繊維と科学薬品で合成、アセテートなど)があり、戦前から戦中に使われていたのは再生繊維のレーヨンと、キュプラ(ベンベルグ)、ステープルファイバー(スフ)などです。

レーヨンrayon 木材パルプから紡糸(原料を溶かし孔から押し出し凝固させて糸を生産すること)にしたもの。光沢・肌触り・吸湿性・発色性は良いが、縮んだりシワになりやすく水にぬれた状態では非常に弱い。絹の安価な代用品として開発された。

キュプラ(ベンベルグ)cupra コットンリンター(綿花を採った後の短い繊維)から紡糸(原料を溶かし孔から押し出し凝固させて糸を生産すること)したレーヨンの種類。裏地など。1931(S06)年に延岡アンモニア絹絲株式会社(旭化成)がベンベルグとして製造。レーヨンより伸縮性や弾力性にすぐれる。参考、旭化成せんい・ベンベルグ

ステープルファイバー(スフ)staple fibre ステープル(短い繊維)ファイバー(繊維)、短く切った繊維。レーヨン製造工程で出るレーヨン糸屑の活用法として開発された、綿糸と羊毛糸の中間的な糸。戦争中、物資不足もあって非常に粗悪なものが生産・配給されたため評判はとても悪く粗悪品の代名詞となった。人造羊毛や人造綿とも呼ばれる。

用途別など、女性の洋服は、家庭着以外はがとても多かったそうです、戦後多いウール(や木綿)は女給・女中などや職業婦人向けという戦後の意見も…
柔らかいドレス 絹類(クレープ・縮緬類、特にジョーゼットなどや富士絹など)、木綿ならスポンジクロス・クレープ・ボイル、毛織物はウールジョーゼット・ウールボイル・ウールクレープ
普段着 洗濯のできる木綿の先染め(縞や格子など)ギンガムやスポンジクロス、クレープ。縞物の絹、など
外出着 ちょっとした外出は綿や毛のトブラルコやモスリン、アフタヌーンは絹、スーツやスカート・ジャケットな毛織物、どちらも無地で濃色が上品とされた(イブニングなどは薄色)

画像は1930(S05)年夏物です。活版なので、色や生地の織組織や風合いはわかりずらいのですが、プリントの意匠などはわかるでしょうか?ローラー捺染は行われていたみたいなので、そんな感じの多色の柄じゃないかと思いますがちょっと自信はありません。

…こういう記事は、自分用というか書いたりまとめたりしないと理解できない、ので。特に和服地がよくわからないです。以下は、例によっていろいろなメモです。

天然繊維の手入れは大変だったと思います。綿や絹や麻は、織方にもよりますがシワになりやすいので、頻繁なアイロンがけや寝押しなどが必要でしたし、当時の染色技術では退色・変色しやすいので洗濯にも大変気を使いました(洗濯機も、各種の合成洗剤も未発達でした)。捺染した絹や毛織物などは洗濯…クリーニングはめったにしないのが常識でした(和服もです、ただ環境としてはかなり汚れやすかったと思います)、現在より布地が貴重でしたからもちろんメンテナンスは行いました、そのへんの詳細も調べたいんですが…日光で色があせるとか、汗で生地が弱るとか、洗濯が難しいとか…現在とは全く異なる、注意が必要で手間のかかる繊維事情だったと思いますが、人件費が安かったので環境によっては手間暇かけられたとも言えます。

プリントは更紗など木の型を使う木版ブロック捺染が古くから行われていました、その後銅板捺染が始まりこれの発展したローラー捺染が行われます(日本への導入は1900年頃以降、機械捺染とか、マシンとかとも呼ぶ、かな?)、堅牢な染料の開発もあってプリント技術は向上していき、実用に耐える美しいプリント生地が安価で供給可能になりました。19世紀から20世紀にかけアール・ヌーボーやアーツ・アンド・クラフト運動との連動やウイリアム・モリスやリバティ社など優れた意匠も生まれていきました。現在手捺染とも呼ばれるシルクスクリーン捺染は、日本の版画や渋を引いた型紙を使う捺染技術とも関係があるとされることが多く、欧米では1930年以降くらいからとされています。日本でシルクスクリーン捺染がいつごろから始まったかは定かではないのですが、手元の1931年の本ではローラー捺染(当時はロールと呼んでたみたい?)は説明があるのですが手捺染としてスクリーンへの言及がないので(本中型と手拭い中型・注染は詳しい、なにしろ日本の和服のプリント・後染め技術は独自の高度さ)まだあまりなかったような…実際の布地(印刷物)をみても綿プリントなどはローラーっぽいように思います、送り、とかが小さいですし(画像のものが国産かどうかは不明です)…ローラー捺染は更紗、モスリン友禅、などに使われていたみたいです、ローラーは版が高いので色数の少ない大量生産に向いていました。反対に手捺染(型を使った染)は色数の多い小ロットのものに適していました。また、当時の手捺染が大巾が厄介という記述は、スクリーンではなかったことをあらわしているように思いますし、同時に幅の大きい洋服地へのプリントは困難だったことが伺えますが、1930年過ぎには絽織りの様な織物をゼラチンを浸し硬化させる方法がモスリンに行われていたようですから(和服用の反物と思う?)、導入期だったのではと思います。戦前の昭和10(1935)年以前の日本の雑誌などに見る洋服地の多くが先染めか単純なプリント意匠のように感じますが、それ以降はわりと複雑なスクリーン的な?プリント物が増えるように思いますが…てきとうな推測です。

参考 1999年『ファッション辞典』、、1930(S05)『婦女界』、1931(S06)年『婦人公論』、1933(S08)年『洋裁読本』、1934『婦人子供服専門講座』

昭和6~7年の婦人服

昭和6~7(1931-32)年の講習録から婦人服です。1920年代のファッションの短いスカート・ローウエスト・広めの筒型の少年的なものに代って、長いスカート・ジャストウエスト・細めの体に沿った女性的な1930年代前半の流行が顕著になってきています。
2016043001
春秋冬用の外出着ワンピースツーピース(スカートかワンピースに上着などの二種類のセットやアンサンブル?定義はまだあいまいな時期)です。ウエストの位置が高くなって、スカート部分が長くなったため、襞や切り替えを多用して単純化を避けたといわれます。外出着なのでちゃんと帽子をかぶっています、1920年代後半の額を隠す深い被り方から、後ろを下げて額を出す被り方に変化していった頃です。
2016043002
昭和6~7年の少女と女児服で書いたように、一般の洋装は子供服や制服や夏の簡易服などから普及したとされます、そして昭和初期くらいだと学校時代に制服などで洋装した女性も婚期を控えて和装に戻る場合が大半だったようです。それ以降も女性が洋装を続ける理由は、個人差が大きいと思いますが、着飾ってお洒落する目的もあったでしょうし、職業を持ち働きやすさなどを優先して洋装する場合もあったと思います(もちろんその両方や他にもいろいろ?)。実用性とか経済性とかの庶民的な洋装に比較的興味があるのですが、その場合スカートブラウス・シャツの組み合わせは、安価に揃えられて組み合わせで着回しもきくのでとても現実的だったと思います。これにセーターとジャケット(コートと呼ぶ場合も多い、スカートと共布ならスーツ)か保温用の下着やストールなどで一年を乗り切るといった方法も正式ではないものの(通学、通勤、散歩、買い物など用)あったみたいなので…学生やちょっとした仕事着なら大丈夫…的な??ただ、和装もですが服装の規則が厳然と決まっていた時期なので、訪問など儀礼的な場合には適した服装ではありませんでした(上着が必要とか、素材が、とか…てきとうですが参考、そのうちちゃんと書きますー)
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コスチュームコスチュームタイユールtailleurで、スーツ のことです。ツーピースとかもですがまだ言葉の定義などが定まってない時期なので、着装方法も含めて紹介者によってまちまちでテーラーメードやスリーピースなどとも呼んでたみたいで、書いてる私もしばしば意味不明な状態になってしまうんですが、基本的にスーツは揃いのスカートと上着にブラウス・シャツです。外套と袖のないマント半外套はショートコートとかジャケット的です。これらの毛織物中心の服には、絹(クレープデシン、羽二重、富士絹)の裏を付けたりすることが多く、高度な裁縫技術が必要なので専門店に仕立ててもらう場合が多かったと思います。
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夏服は、袖のない(身頃と一体化したキモノ・フレンチスリーブなど)ものなら作るのが簡単で安価な製品もあり、ワンピース形式が和服に似ていてなじみやすかったことや何より和服より涼して楽だという理由で、一番早くに庶民に普及した洋服といわれます。定義はいろいろですが、生地や形、着こなしによってはアッパッパとか簡易服とかハウスドレスなどと呼ばれたものも含まれていると思います。婦人誌ではアッパッパという言葉はあまり使われませんし、安い木綿などの生地で出来た簡単なワンピースを下駄ばきで(靴は高いしなかなか手に入らなかった)和装下着の腰巻などを覗かせたり、の下町などで見られたといわれる適当な着こなしのものをアッパッパと呼んだというか…調べているのですが、なかなかまとまらないので今はごまかしますが。とにかく、夏の簡単なワンピース類です。春秋冬服はその簡単なワンピースに袖のついた服らしく、素材によって働き着スポーツ服(この時期は簡単なスポーツである散歩などや買い物のなどの服も含まれますので、ちょっとした外出用といったかんじ)訪問着にもなるもののようです。手製のウエディングドレスを実際に着た場合がどれくらいあったかは…不明ですが、大正-戦前のウエディングドレスの記事
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下着類です、詳細は戦前から戦後の下着とかドロワーズの歴史とか戦前の国産洋装下着製品、乳バンド(ブラジャー)とか…色物や刺繍やレースなど手製とはいえ美しさも追求しています。メリヤスの肌着(パンツ・ドロワーズやシャツ・シュミーズ)などは1930年代以降はデパートなどでも随分売られていたようです。
2016043006
エプロンと、働くときに着る事務服として戦前から戦後用いられていた服の上に着るスモックです。お風呂上がりに着るバスローブ、寝る時のナイトガウン、お化粧時に着るドレッシングガウンなどは、ゆったりした優雅な生活がしのばれます。
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戦前、特に早い時期は雑誌ごとに洋裁記事を担当する洋裁家(今でいうデザイナー)が決まってる場合も多く、主婦之友は並木伊三郎さんなど文化系が、婦人公論は杉野芳子さん他、婦人画報は伊東茂平さん、婦人之友が西島芳太郎さん、などです。この西島さんの講習録は、田中千代さんの雑誌デビュー記事も載っています。このあたりの方たちは(1933年に亡くなった並木さん以外)、戦後も活躍されていますのでご存知の方もおられると思います。婦人画報は戦後のものしか持ってないのでわからないんのですが、かなりお洒落な雑誌だったと思います、が図書館いかなきゃいけないのでハードルが高くて…残念ながらよくわかりません。一方この大講習録を発行した婦人之友の方は、庶民にも実用可能な比較的質実剛健?な内容だったのでは?と思います。なので、浴衣地で作る簡易服(アッパッパ)や和服地や古い着物から作る洋服なども頻繁に取り上げていますし今和次郎さんなども登場されるし、で地味ですが私としては読んでいて楽しいです。そのくせ、お料理などは海外の家庭料理などを積極的に紹介したりもしていて侮れなかったりもします、比較的庶民派(といっても戦前の婦人誌の読者層は基本中流以上)ですが主婦之友や婦人倶楽部ともまた違った雰囲気です。

昭和6~7年の少女と女児服

昭和6~7(1931-32)年女児とか少女の服を、洋裁の大講習録から。一般の日本女性の洋装は子供服制服から普及しました、和服より締め付けや着崩れが少なく運動に適していることは成長期の子供にとっては古い時代から誰もが認めるところだったようです。大人より簡単なものでも充分でしたし、必要な布地などにかかる経費や流行の影響も少なく導入しやすかったことも大きかったと思いますし、子供をかわいらしく洒落て装わせたいという親の気持ちも大きかったと思います。
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都市部の中流階級以上では、明治期の後期頃からエプロンを洋服だけでなく和服の上に着せることが流行したようで、次に七五三などの晴着やよそいきを洋装で整えることが始まり、次第に通学着の洋服や実用的な日常着が普及していきました。また、簡単に縫える夏のふだん着の洋服も日本の猛暑をしのぐには和服より涼しく手軽だったことから、型紙を通信販売などで購入して手縫いのものが同じ明治の後期くらいから家庭で作られていたといわれます。
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女児の洋装は、第一次世界大戦の影響の日本特有の好景気をうけた1918~9(T08-9)年くらいから本格的に始まり、1920(T09)年には著しく増えたということです。大戦後の世界的な流行、丈が短く機能・活動的シンプルな傾向を受け女児服も装飾の少ない幅広の簡単な形でしたから導入しやすい時期でもあったと思います。セーラー服(水兵服)は、欧米でもスクール・ドレスといって通学服を意味するほど少女に適したものとされていて、女学校の通学着制服(大正期は自由な選択できた場合も多い)されるなど、中流以上の多くの日本人女性が最初に体験した洋服だったと思います(ファッションとしても1920年代に流行ったとされます。日本の制服としては他のタイプよりお洒落だという認識が当時は強く1930年代の女学生が最も望んだ形がセーラーだったそうです)。この時期のセーラー服は上をミディブラウスと呼び胸当てのない(当時の米国式らしい?年長向けとも)ものあり、ウエスト(ベスト)につながったジャンパースカートのような16~20本くらいの箱襞のスカートが多いように思います(色は冬は紺、夏は水色も)。子供や少女の通学服などの洋装の普及に合わせて、機能的で衛生的とされた洋装下着靴下などや簡易な夏のふだん着の洋服も普及していきました。
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女性の洋装は1924(T13)年の関東大震災を契機に、服装の近代・機能・衛生化などが叫ばれ一般に普及したとされていて、昭和期には子供服の普及や女学生制服もさらに盛んになって広く普及していきます。1920年代はスカート丈がどんどん短くなりローウエストの筒形の少年的な服装が流行りました、スカート丈に合わせて下着のパンツ(ドロワース)などは短く小さくなり、靴下は逆に長くなりました(透け感の強い肌色の長靴下が現れたのも同時期です)。その後世界的な恐慌を契機に、1930(S05)年以降は懐古的で女性らしい正位置のウエストで丈の長い服装が中心になります。この昭和6~7(1931-32)年頃はその影響が日本でも出始めた時期です、少女の服もウエスト位置が上がって、丈が長くなった反動で切り替えや襞などを多用した複雑なスカートが現れてきました。この、昭和6~7(1931-32)年頃の少女・女児服はその流行も取り入れかなり大人っぽいものも多いように思います、16歳くらいまでの少女のものが含まれています。
2016042804
女児服の上下がつながったロンパースと、上衣と同じ生地で作られたスカートから見えてもOKなオーバーパンツのブルマー付の服です。冬の外套の左2つはレギンスで子供の冬の下衣として用いられていました、ちなみにタイツが一般に用いられるようになるのは1960年代以降くらいからです。
2016042805
少女と女児の下着などです、ゴムの締め付けの健康への悪影響や、当時の伸縮性の少ない生地の関係で腰の部分などに下着の厚みやしわが出ることを嫌って、上下の続いた下着が盛んに用いられていました。コンビネーションは上下が続けて裁縫されたもので、前がボタン留めになっていたり股部分が開いているなどの工夫がされていました。ウエストドロースはウエスト(ベスト)にドロワーズがボタン留されているもので、脇や腰の部分から取り外すことができました。パジャマなど洋風の寝間着も紹介されています。エプロンは服の汚れを防げる利便性もあって、上記のように明治期から子供に着せることが流行っていました、古い時代のレースや襞飾りの多いものに比べるとこの時期はわりとシンプルです。昭和初期頃には、比較的庶民層でも和服の上にエプロンを着ている写真やイラストなどが多いように思います。
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今和次郎さんの考現学(モデルノロヂオ)などの調査での子供の洋装率は、1925年東京61%(婦人1%)1937年全国91%(婦人25%)となっています(地方によってはもっと低いと思うのですが?不明です)、昭和期にはいってから1935(S10)年くらいまでに子供の洋装が一気に進んだ様子がわかります。

昭和6~7年の赤ちゃんと男児服

昭和6~7(1931-32)年赤ちゃん男児少年の服などをかなりのボリュームの洋裁の大講習録からです。
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男の子の洋服いろいろ、どれもとてもきちんとした服だと思います。小さい子のズボンはウエスト(ベスト)や上着にボタン留めするか(サスペンダーのような)肩ひもで吊るのが主流でした、幼児にゴムの締め付けは良くないとされていたこととゴムが洗濯の際にはずさなくてはならないくらい品質が良くなかったからです。ファスナー(ジッパー)もまだ普及してなかったので、ボタンかスナップで留めました。セーラー服やスーツなどをよく見ると、シャツや上着にボタンでつながっています。パジャマオーバーオールも紹介されています。
2016042602
男児のセーラー服(水兵服)は、日清日露の軍人への憧れからか女児の洋装より早く普及したそうです。ロンパースは上下がつながっているつなぎのような幼児用の服です。おくるみは赤ちゃんをくるむための布、おしめおさえやケープ類など各種の赤ちゃん用品です。子供服や赤ちゃんのものはかなり早い時期から洋風のものが紹介されていて一般に手作りが多かったのではないかと思います。もちろん一般にはまだまだ和風のものの方が主流で、おむつ・おしめは、使い捨てのものはまだなく布製のものを洗って使っていました。初めてのお産はお嫁さんの実家でするすることも多く(病院での出産は稀、産婆さんが手伝う)、姑が着古した着物から作った手作りのおむつを持参するなどの習慣が庶民階級にはあったそうです。枚数は奇数で5~7枚くらいが普通で9枚だと自慢できたとも言われます(婦人誌などはあまり読めない階級の状態かも、『布の記憶』)
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この洋裁全集で紹介された各種洋服の図の索引から、なのでこれらの服はすべて作り方が載っています(製図や作り方の要望ってあるんでしょうか?)。主要な著者は昭和7年のスタイル画とメージャースリーブ大正14年、セーラー服とブルマーでも紹介した西島芳太郎さんです。
2016042604
西島さんは大正頃から婦人之友の誌上で洋裁講座をされていて、洋裁や家庭裁縫の普及に大きく貢献された方だと思います。後に西島式?の原型を完成されますが、この頃はまだ囲み製図とか割り出し式とか腕ごと採寸とか…そういった原型以前?的な製図方法でした、1930年頃までの洋服は形も比較的ルーズなチュニックタイプだったのでそれで充分だったということもあると思います。現在原型というと、文化式ドレメ式が有名ですが、どちらもこの1930年前半の時期は開発途上でした(ドレメはS08年の本では完成してたように思う)。原型という日本独自(ドイツも)の製図方法を使用する家庭裁縫技術は昭和戦前期、だいたい昭和10年くらい前後に大まかな形が出来上がったのではないかと思います。

戦前と終戦後のスタイルブック

戦後の洋装(ファッション)史でまず語られるのがスタイルブックです。中原淳一さんのもの、大橋鎭子花森安治さんの衣裳研究所の『スタイルブックのリンク、婦人画報社の『STELE BOOK スタイルブッ』などが有名だと思います。終戦後間もないあらゆる物資が不足する厳しい状況の、食べるものも、住むところも、もちろん着るものも、満足にないなかで、女性は洋裁スタイルブックに夢中になったと伝えられます(その理由は、さまざまに語られていますが)スタイルブックと呼ばれたものは1946(昭和21)年春くらいから盛んにいろいろなものが発行されました。
2013033101
スタイルブックというのは、流行服の型を図や写真で紹介した本(服の作成方法も含まれる)、という意味だと思います(『ファッション辞典』)。なのでいわゆるファッション誌や洋裁誌などてことですね?日本でスタイルブックという言葉がいつ使われたのか?というのははっきりわからないのですが手持ちでは1924年に村上壽恵子さんという方が婦人之友で使われています。今和次郎さんが1935(S10)年9月の『シャルマン』のなかで…いろいろなスタイル・ブックや、流行雑誌がこの頃めっきりふえて、また安定的な刊行物になったかの感があるが…と述べ、1937(S12)年4月『日本読売新聞』で…スタイル・ブックには外国でも日本でも、およそ二種類に分かれています…と観賞向き(VOGUEヴォーグ、feminaフェミナなど)と実用的な庶民向きの(マッコールMcCall's、ヴァーグ・パタン・ブックなど)ものがあるとしています。日本では文化服装学院の1934(S09)年『服装文化』と『FUKUSO.BUNKA』が嚆矢ともいわれますが1936(S11)年に『装苑』、同年6月には宇野千代さんの観賞向きの『スタイル』が創刊。『婦人画報』からは、ずばり『スタイルブック(伊東茂平編集、海外モード紹介)洋装クラブ(ドロシー・エドガー、パタン付大衆向け)洋装シルエット(日本人向けヴァーグを目指した)が出ていましたし(桑沢洋子『ふだん着のデザイナー』)、戦前の『婦人画報』自体がかなりスタイルブック的な内容だったと思います。1936(S11)年4月発行の文化服装学院の『装苑(前身の『服装文化』は1934年)も服飾月刊誌でした(『文化服装学院四十年のあゆみ』)。あたりが戦前のスタイルブックとされたものの代表的なところだと思います?(他に1940年前後に?『スタイルのスタイルブック』や中原淳一の『スタイルブックきものノ絵本』もありました)。
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1936(S11)年『最新洋裁大講座』でも、洋裁店や百貨店などで欧米のスタイル・ブックが空前の売れ行きを見せたとして(ファッションブック、流行雑誌と定義している)各国の雑誌類を紹介しています、でもヴォーグらしきものがVotre gout(ヴオトルグー)だったりで、ちょっと微妙ですが…なほ最近日本にてもスタイル・ブックを発行しております…と(探せば、もっと関連資料が出てきそうですが戦前は詳しくないので)。

スタイルブックという言葉は以上のようなかんじで、戦前日本で使われていたようです。戦前のスタイルブックは、洋装に関心の高い比較的富裕な層に向けて発行されたものが多いように思います。一方戦後のスタイルブックは、あらゆる層(といっても、ある程度は余裕がある)一般女性も夢中になったと伝えられます。また、戦前は海外のファッション誌が入っていてそれらも読まれていたのですが、終戦後しばらくの占領期は海外雑誌が自由に入手できなかったのでスタイルブックや類似の洋裁誌などが唯一の情報源だったようです。

戦後のスタイルブックとそれ的なものに関しては、1946(S21)年夏くらいまでのものとして『私のきものスタイルブック(実業之日本社、3月?)、『スタイルブックきものノ絵本(ヒマワリ、5月に広告)、『スタイルブック(衣装研究所、5月)、『STELE BOOKスタイルブック(婦人画報社、7月1日)、『ニュースタイル』、などがあげられます。伊東茂平さんの『私のきものスタイルブック』(實業之日本、5月?手持ちは9月の秋の号)。また、『婦人画報』『スタイル』も1946(S21)年春前?に復刊していますし、7月には『装苑』も復刊しました、どれもほぼ同じ時期といえると思います(画報だけはもっと早いと思う)。とりあえず、手持ち分と、広告などです。他には『流行うらがえ史』からの情報で、『アメリカから新着の夏のスタイル四十種』(女性ライフ、7月)、『ドレスメーカー・パターン・ブック』(1946年秋?)、『スタイルブックの決定版』(日米通信)なども挙げられていますし、日本服飾文化協会などのものもあったみたいだし…混乱期なので詳細は不明です。初期のスタイルブックは、50ページ未満の薄い本で読み物がほとんどない服の形の紹介が主で作り方も少ししか載ってないものが多いようです(パターン・型紙はつく場合もあった)、服飾誌関係のものを除くどれも数年と短命でした。追記 スタイルブックという名称にこだわれば、現在ネットなどで確認できるのは中原淳一さんのもの(5月5日発行)と衣裳研究所(5月31日発行)が早いと思います…加えて、このお二人わりと行動?が似ているんです、同じ雑誌に執筆していたり、お互い書きあったり、それとノーチェックだったのですが田中千代さん…なので少し最近動揺しています。この辺、ちゃんと研究というかどなたか調べられてないんでしょうか??専門の方が憲政資料室のプランゲ文庫とか調べたらわかるんじゃないかとか、調べてくれないでしょうか…さすがに、どちらも有名人なので超高価だし、手に入らないけど、すごい気になる
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戦争中は言論統制によって、報道・出版・その他の言論が規制されていました。敗戦によって規制がなくなり言論が自由になると(GHQによる検閲はありました)、戦争が終わった解放感も加わり活字飢餓(何でもいいから何か読みたくなるくらい活字に飢えた状態?)といわれる現象が起きそれと相まって出版が盛んになりました。復刊・新刊を含め、あらゆる出版物の発行が1946(S21)年春くらいから急増し、1948(S23)年くらいまでが最高潮だったといわれます。カストリ雑誌なども有名ですが、いわゆるスタイルブックの類もこの流れの中にあったと思います。戦争中、もんぺばかりで美しい洋服とは無縁の状態が長かったですから…たとえは微妙なのですが、性風俗を求めたカストリ雑誌に対し、ファッションへの飢えを満たしたのがスタイルブックと呼ばれる一連の服飾誌と洋裁ブームだったと思っています。物資不足が改善され全般に余裕が生まれた1949(24)年くらいには出版ブームが終わったようで、スタイルブックの多くは廃刊になったり月刊・季刊誌やその付録へと形を変え(吸収され)ました(それらもまた広義にスタイツブックだったと思います、これらの女性・洋裁誌は紙不足などの解消もあってこの時期ページ数が急増していきます)…ファッション(やモード)誌という言葉は1970年代くらいまで?一般に(たぶん)使われてなかったと思います(不安)。他に『る こすちうむ』という雑誌もあったようで、さらにやや遅いのですが1949(S24)年の『ドレスメーキング(鎌倉書房)アメリカンスタイル全集(日本織物出版社)なども有名です。ちなみにスタイルブックという言葉をつけたものは、この後も装苑・ドレスメーキングなどの洋裁誌の付録として長い間親しまれ、現在でもその名をつけたものがファッションに限らず?いろいろ発行されています。

他に当時の婦人誌としては、戦前昭和10年頃に付録合戦で最高潮の売り上げを記録した『主婦之友』と『婦人倶楽部』に加え、戦後発刊された『主婦と生活』『婦人生活』(婦人の生活ではないです)がありました。戦前戦中の『主婦之友』『婦人倶楽部』と戦後の後発二誌を少し集めています、これらは味わい深いのですが、まあ一般向けの主婦誌といったかんじですし、『主婦之友』『婦人倶楽部』はどんどん対象年齢が上がってるようです、同様なものに『婦女界』も。他にやや硬い『婦人之友』と『婦人公論』…他にもあるのですが、有名なのはこのあたりだと思います、これらも服飾記事もあるので微妙ですが付録以外はスタイルブックと明確には呼べないと思います…ような。

最上画像は、左から『私のきものスタイルブック』実業之日本社・秋、『STELE BOOKスタイルブック』婦人画報、『すたいるぶっく』主婦と生活、『スタイルブック』東京生活社。読み物というより眺めたり作ったりするのが目的らしくどれも50ページ以内、パターン(型紙)がついたものもあったようです。 想像ですが、自分で作る際の手がかりにする以外にも、占領下で情報も限られ既製品もほぼなかったので洋装店や知り合いなどに洋服を注文する(作ってもらう)際の参考としても便利だったと思います。衣裳研究所のものはさすがに手元にないので不確かですが、1946年夏まで位の初期のスタイルブック各誌は多くが自然発生的で、戦前のものの復刊的な印象を個人的には持っています。また直線裁ちも大正くらいからの改良服・簡単服以降、戦前戦中もそれ的なものがあったようです。衣裳研究所のスタイルブックは、ページ数もありますが平均的に20円以上の他スタイルブック誌に比べて価格が12円と安かったことも庶民にはありがたかったのではないでしょうか?スタイルブックではない女性誌の値段は1946(S21)年夏頃は4~5円が多いです。

2番め画像、左は戦前1937(S12)年の婦人画報の『スタイルブック』『洋装クラブ』の広告です。真ん中が戦後1946年5月の宇野千代さんの『スタイル』掲載の中原淳一さんのヒマワリの広告、5、6・7、8月のもの、『スタイルブックきものの絵本』申込受付中→ものすごい評判です→只今発売中…『ソレイユ』?と思ってたけど広告だけなので判断に苦しみます…住所は同じ「神田神保町三ノ三」、ソレイユは25円こちらは27円で、伊東茂平さんの『私のきものスタイルブック』秋・35円に次ぐ高額商品です(画報と主婦と生活は25円)、ほかに『ABC繪本』10円もあったみたいで(この、きものノ絵本はは戦前戦中の1940年代にも出ているようです)…この時期は、もう何が何だかぐちゃぐちゃですね。最右が『スタイル』誌の『スタイルのスタイル・ブック!!!』!!です(宇野千代さんの指令でしょうか、これも1940年頃に出ています)。そして、何度か書いてますが(昭和25年の流行と街頭)、個人の関係やGHQのCIE(民間情報教育局)図書館のファッションセンターなどが情報源ではあるようですが、この時期は不明です。戦後のファッションアメリカ一辺倒だったのは、占領下でアメリカ経由でしか情報が入らなかったというのも理由の一つだと思います。追記 1946(S21)年夏頃にはファッション誌が並べられていたことが確認できました。なので、1946(S21)年夏頃はGHQの図書館のヴォーグVOGUE(北米版)やハーパーズバザーHarper's BAZAARなどがソースだったかも。他に、海外通信社との契約も情報源でした?

3番め画像、『スタイル』1946年3・4月、『婦人画報』1946年3・4月、『装苑』1946年7月9月…ものすごく劣化が激しいです。
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上画像は、『暮らしの手帖』第1世紀1~10号(増刷です)衣裳研究所の増刷分『家中みんなの下着(42版、すごいロングセラーで人気だったと思います)。古い時代の化粧品製造や婦人誌の美容本から始まって、次に集めたのが『暮らしの手帖』だったんです(第1世紀70号代まで)。ブログが服飾中心になっちゃったので(最初は暮らし全般のつもりだった)出番がないんですが(秘かにあちこちに使ってる)…初期の『美しい暮らしの手帖』の頃は、文章が多くじっくり読むとなかなかすごい発見があります。ただ執筆陣も含め、戦時中に花森さんが携わった『婦人の生活』参1参2に少し近いかんじで、商品テストなどもなくいわゆる『暮らしの手帖』のイメージとは違うように思います。他誌が、どんどん欧米化(特に初期はアメリカ)を志向するのに対し、この頃の『美しい暮らしの手帖』はかつての日本的な美しさと佇まいにもこだわっているといった印象と同時に、知的でモダンでありながら古き良き欧州の雰囲気もあって素敵です(当時としては)

関連 花森安治さんの女装と『婦人の生活』、伊東胡蝶園(パピリオ)参考1 、参考2 『暮らしの手帖』創刊号のブラパッドの記事画像と、と関連ブログ記事、『暮らしの手帖』昭和32年の記事画像と関連ブログ記事です。他、花森安治関係

『新青年』とモダンボーイの総帥、中村進治郎さんのヴォガンヴォグ

1920(T09)年創刊の『新青年』と、それに連載されていた中村進治郎さんの「VOGUE EN VOGUE ヴォガンヴォグ」です。VAN石津さんが「ぼくのモダンボーイ記」や『VANストーリーズ』の中で語ってておられるので、定義はさまざまですが、1930年前後(やや遅い時期?)のモダンボーイのことも少し。昭和戦前だけでも門外漢なのに、その上紳士方面なので…いろいろ不備は多いと思いますけど。
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石津謙介さんが1975年に書かれた「ぼくのモダンボーイ記」です…モダンボーイだのモダンガールだのという言葉が当時のジャーナリズムに出てきたのは、昭和の初めから五、六年にかけてで…当時の東京では木挽町あたりがモボと最も結びつきやすい場所だったように思える。というのは、銀座という日本で一番しゃれた地区と、かつて外国人居留地であった築地との間がこの木挽町である。銀座人種のハイカラなやつは何となく木挽町のあたりで遊んでいる。銀座のしゃれっけと居留地のバタ臭さが合流したあの界隈が、銀座ではもうなんとなくしらけてきたしゃれ者の集まり場所であり、そこがいわゆるモボたちのたまり場であっても不思議ではあるまい…そんなところでスマートに遊んでいる人たちは、いわゆる当時のジャーナリズムに取り上げられなかった人たちだが、金の使い方がうまくて、小粋で、おしゃれで、相当なる極道息子であったはずだ。だから、当時のモボ代表選手は、結局、昔からの老舗を誇る銀座の店の若旦那ということになりそうだ。思い当たるお方もたくさんいらっしゃるに違いない。

最後の言葉、印象的ですよね、石津さんだって老舗大店の出身、でも地方なんですね、だから自分は…てかんじもあったのかもしれません?あくまでも石津さんの意見ですが、まだ昭和戦前の現役世代が残っている時代に書かれた文章です。で次に、横浜もまたモボの聖地だったと、第一キヨなどのチャブや、の話が続きます。

この「チャブや」という、うらぶれた西洋木賃ホテルが、当時のモボにしては絶対に顔を出さなけれな行けない場所でもあったわけだ…ちゃんとした踊り場があって、バーボンか何かを飲んで、当時日本では聴けなかったような新しいレコードで、フリスコ・ハップ(Frisco up?bop?)を踊る。「チャブや」にいる女の恰好がまたいかした。当時の日本の婦人洋装の、ある意味ではトップであったかも知れぬ…外人向けの売春宿へ、日本の洒落者が行く。そんなところで最も防若無人にふるまっていたのがこの中野英治というモボである…鉄のメリケンや自転車のチェーンをポケットに入れてイキがっていたようだ。でも実際にはそれを使わぬところが、モボの、モボたるゆえんであろう。…もう少し大人っぽく、インテリくさくしたのが岡田時彦…モボというにはあまりにも洗練されすぎていて、なんとなく不良少年じみたところもなければ、オッチョコチョイ風でもなかっただけに、モボという尊称(?)にはちょっと遠いかも知れぬというのがこの人だった。

石津さんによれば、チャブ屋へ行く前には必ずフロリダとか国華や日米などのダンスホールに行かないといけなかったそうです、そこのスターがフロリダのチャップリンとも踊ったとされるチェリー(田辺静江)さんや国華の椿さんで、ダンサーとの同棲も流行ったそうです。また車やオートバイなどの乗り物を持ちスポーツに興じることもモボの条件だったとも語っておられます。女たらしの目的もあって外見に気を使うので、にやけた、カッコのいい、オッチョコチョイ、という軽薄なイメージがモボにあったのでモボといわれることは潔し、としない風潮があったそうです。またモボは、人のことを気にしない、我が道を行く、というのも特徴だったそうです。
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映画以外では、オペラ歌手の藤原義江…それから例の東郷青児である。この辺が当時のモボの憧れのシンボルみたいなものであった。第一、モボとは、精神的前衛派でなければ意味がない。今の言葉でいう反体制派であり、それが形の上にも何らかのアピールになって表れる。そして最も大切なことは、常に身辺に色恋沙汰がうず巻いていることも必須条件だろう。その意味では、さきほどの中野英治などはアピアランスだけに現れていて、精神的には反体制派とは思えないし、彼を取り巻く恋愛事件も何となくしゃれっ気に乏しかった…文士の中では新感覚派の川端康成もその一人であったかも知れないが、当時の感覚では、何といっても、中村正常と龍膽寺雄が最もそれ的であったのではあるまいか…浅草オペラ、これもモダンボーイに大きな影響力を持っていたと思う。今も活躍している田谷力三がいる。エノケン、ロッパも、ある意味ではたいへんなモダンボーイである…少し形は違うけれど「あきれたボーイズ」…少なくとも、この浅草オペラと「あきれたボーイズ」というのは、当時モボには大変な影響を与えたのは事実であろう。

モダンな青年雑誌に『新青年』というのがあった。この中の「ボーグ・アン・ボーグ」(ママ)を担当していた人に、中村進治郎というたいへんハイカラな人がいた、この人こそモボの総帥で、今でいう服飾評論家のはしりである。猛烈な恋をして華やかな噂をまいたり、そしておしゃれ雑学の大家でもあり、ファッション界の草分けみたいな人でもある。この人こそ当時のモボの極めつけだとぼくはそう信じている。

と、すごく長い前置きですが、石津謙介さんの中村進治郎さんへの気持ちが伝わって来るように思ったので長々と紹介しました。

昭和10年以前頃の『新青年』は江戸川乱歩、夢野久作、小栗虫太郎、海野十三、横溝正史などの探偵作家を擁しながら、小説中心ではない都会的なセンスの総合雑誌で、モダニズムとダンディズムに溢れモダンボーイに圧倒的に支持されていたそうです。重苦しい時代の一隅に軽薄浮調の見本と批判を浴びながら、生きていた雑誌と乾信一郎さんは振り返られています。

石津謙介さん大絶賛のモボの総帥であり、モボ・モガの教祖的存在といわれる中村進治郎さんの『新青年』連載が「ばにてい・ふえいあ」と「VOGUE EN VOGUE ヴォガンヴォグ(1930年01月改題)でした。山下武さんは「進ちゃん」の愛称で親しまれた彼ほど、エロ・グロ・ナンセンス時代といわれた世相を身をもって体現したものはいないと中村さんを評されていて、『新青年』の編集部にはファンレターや質問状が山のように届いた程に、中村さんのヴォガンヴォグの人気は高かったそうです。「VOGUE EN VOGUE」は「ファッショナブルな流行?」、モード雑誌の「VOGUE ヴォーグ」を連想させる題名だとも思います。内容はファッション評論の記事を中心に、口紅や香水の品定めやメイ牛山(初代)さんのパーマネント、テーブルマナーまで最新情報が懇切丁寧に都会的なセンスで取り上げられていたそうです。挿絵やイラストやトークショーの仕事もこなしたナンセンス作家、和製ドン・ファンの異名を持つ好男子が一般にいわれるところの中村進治郎さんの人物像でした。その記事のヴォガンヴォグは以下のような内容だったらしいです…

たとえば、白粉はコティよりルシアン・ルロンに限るとか…Cotyは戦前は中級品としてよく知られていましたから(日本の粉白粉容器はどれもCotyっぽい)モガはLucien Lelongなのですね、ルロンは1920年代前半には香水も出しているクチュリエで不勉強な私はよく知らなかったので、さすが総帥?だと感心しました。…巴里の屋根の下、という古風なアヤシキ映画が現れてから、ハンティングがとても流行りだしたそうですが(最上、最右がハンティング帽)、都会のまんなかで、ヒンミンクツのまねをするなんて、ご道楽の過ぎたもんです。おそらくそういう田舎者達は、本誌を読まない手合いに相違ありません。若しくは、現代を知らない方々…ハンティングはかなり古い時期からあって鳥打帽とも呼ばれました(昭和以前は学生や店員が着物の上などに被っていたそうで、それが昭和以降紳士のスポーツや郊外散歩用となったそうです、また形も変化しています)、あと戦後芸術家などにベレー帽が流行ったときも同じ論調でしたが結構辛辣な意見ですよね…中村さんは海外のモード誌を東大生の苦学生の方に訳してもらっていたともいわれますから、きっとVOGUE ヴォーグもよくご存じだったと思います、男性誌は石津さんによれば『エクスファイヤーEsquire』『メンズウエアmenswear』だったそうです。さてその、石津さんも、モダン・ボーイの特徴の一つは不良、だったと書かれていますが、当然中村さんもモダン・ガールたちとの華やかな話題にこと欠きませんでした。
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中村さんは1907(M40)年横浜生まれ、家庭の事情で小学校卒業後から給仕として働くなどさまざまな辛酸を嘗めておられるようです。1928(S03)年、映画雑誌「蒲田花形」の編集に携わります、映画関係なので女優たちとの浮名を長し銀座の軟派青年たちの間の顔となっていきます。一度、結婚もされておられます。1932(S07)年12月12日ムーラン・ルージュ新宿座の歌姫高輪芳子さんとの心中事件で一躍世間を騒がしました。この年は、血盟団事件、満州国承認、五・一五事件で犬養毅首相が殺害、などが起こり軍部の力が強まった時期で、一方では坂田山心中と三原山女学生心中事件以降、三原山火口への投身自殺がブームとなりその年だけで900人以上が火口へ身を投げたともいわれるような世相でした。中村進治郎・高輪芳子さんたちの「歌姫情死事件」は睡眠薬とガスによって18歳の高輪芳子さんが亡くなり、26歳の中村さんが生き残ったことから狂言自殺が疑われました。警察は中村さんを嘱託殺人の容疑で取り調べました、疑惑は晴れましたが、その後の中村さんは「ヴォガンヴォグ」などの仕事も打ち切られ、収入も減って落魄の身となって追い詰められていきました。そして二年後の1934(S09)年11月15日に大量の睡眠薬によって自ら命を絶ちました、27歳でした。

高輪芳子さんは1915(T04)年生まれ、本名は山田英、憲兵下士官の父の仕事の関係で朝鮮、東京、満州、九州と流転の生活を送られています。松竹楽劇部五期生で歌唱力を評価され、一期上の四期生(『松竹歌劇団のあゆみ』p146-7、三、四、五期生はすべて1930年前半の入団)の江川蘭子さん(江戸川さんではないようです)と共に期待されたそうです。高輪さんは家庭の不幸や病身に加え、1931(S06)年02月にガスの炎が着物に移り下半身(体の1/4)に大火傷を負います。松竹を去り、一旦浅草オペラ館を経て、10月31日から新興の新宿ムーランルージュに移りました、父親が早逝し残された母との生活を支えるためでした、また火傷で歩行が困難だったので自宅から新宿が近かったからともいわれます。高輪さんはディートリッヒに憧れて歌手でありながらヴァージニアの煙草を吸い酒をあおっていたり、17歳で自殺した少女詩人清水澄子さんの熱心な読者であり、火傷をする以前から、死への情景があったといわれます。心中未遂後の中村進治郎さんのことなど詳細は山下武さんが(1996)『「新青年」をめぐる作家たち』にとても詳しく書かれていてます、同書では1930年前後にモダンボーイの総帥と呼ばれた方の生き様や同時期のモボ・モガたちのある一面がとてもよくわかるように、私は思います…言葉の定義というのは人それぞれですしモボ・モガの興隆期はもう少し早いとも思いますが…石津さんの記述や編集部へ殺到したファンレターや質問状も中村さんが1930年前後のモダンボーイの一つの象徴であったことをあらわしているように思います。
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1930年以降は、世界不況から第二次世界大戦へ向かう決して明るくはない時代だったと思います。しかし都市の中産階級以上はそのなかで豊かさを享受しモダンな消費生活を楽しむことも可能でした。一方、戦前は身分の格差の大きな社会でした、享楽的な都市消費生活の一方に子供を身売りするまで追い詰められた地方の窮状も歴然とありました、食い詰めて都会に出てきた若者たちは色を売り、労働者となり、さまざまに体を切り売りして糊口をしのいでいたのです、それも忘れてはならない事実だと思います。そんな光と影が織りなす時代だと思っています。

『新青年』戦後の1950(S25)年まで続きました。同年、男性服飾誌としてスタイル社の『男子専科』が創刊、また1954年の『婦人画報増刊 男の服飾』の後続『男の服飾 MEN'S CLUB』が創刊されました。

参考 石津謙介(1975)『ぼくのモダンボーイ記』、山下武(1996)『「新青年」をめぐる作家たち』宇田川悟(2006)『VANストーリーズ』、
 
いつもの余計なつけたしメモです
1972年『噂』から玉川一郎さんと銀座「らどんな」マダム瀬尾春さんの昭和一桁代の銀座を回想する対談から「…中村シンちゃんていたわよ。」「中村進治郎。あれは死にました。当時のモダン・ボーイなんです。『新青年』なんかで流行りものを書いた男で、ヒモ的作家なのでね…」
高輪芳子さんは、ガリ=クルチ、ジーリ、スキーパのレコードに聞き入ってお酒を飲んでいたとか(音楽はよくわかりません)、化粧前はディートリッヒのブロマイドがさまざまにあったとか。ディートリッヒといえばJOY…使っておられたのでしょうか? 日本にもちゃんと入っていたみたいですし、何より中村さんは詳しそうですし。1930年過ぎ頃にカクテルセットもPatouからでていたという情報があります、若葉、ビタースイート、スイートなのだそうで、好みでブレンドするそうですが真偽は不明です。

1989年『モダンガールの誘惑』に少し『ヴォガンヴォグ』の「GIRLSの頁」が掲載されていました。ガール向けの記事で、下着の変遷などと香りの記事、化粧品の香りをたとえばCotyのL'aimantなどに統一しましょう、て内容です、このころすでに一部だとは思うけど、Cotyなどちゃんとライン使いできるような環境があったのかもですね(そしてたぶん、無香や微香性とかはなかったんじゃないかな?と)。
 
モダンボーイというより紳士服関係の偏ってるかもしれない国会図書館情報、書籍名で検索してください。1926『洋服店の経営虎の巻』、1930『日本洋服沿革史』、が結構好き♪他に1908『洋服大全』、1910『実用洋服裁断法』、1910『洋服辞典』、1925『TS洋服裁断全書』、1925『洋服裁断全書』、1930『京浜羅紗商同盟会沿革史0』、なども♪

画像の説明をまとめてします。上から
『新青年』なんて持ってないので、1930(S05)年の主婦之友から当時の紳士服です(モダンボーイじゃないと思います・汗)三越の洋服部のものが中心みたいです。一般向け婦人誌の記者と百貨店の組み合わせは、中流辺の大衆向けで独特な解釈も多いので洋装は注意が必要じゃないかと思っています、和装はそんなことないと思いますが。それも当時の側面ではあるのですが、古い本や雑誌(誌面の制限を多くの著者が嘆かれています)を鵜呑みにしないように、と最近特に自分を戒めています…古い時代のイメージは、個人の受け取り方次第だと思いますから。

1933(S08)年、日比谷公会堂の「国際ファッション・レビュー」から、ズボンは吊っていたのでピンとしています。ファッション・レビューてドラマ風のファッションショー的なものでしょうか?ちなみにジャパン・アドブァタイザー社主催の男性のファッションショーもこの年からみたいです、女性のファッションショーは同じアドブァタイザー社のものがこの年で過去に5回だそうで…どちらもモボ・モガが詰めかけて大盛況だったそうです。戦前の本当にモダンな層は海外のVOGUEなどを目指していて、洋裁店などでは日本のスタイルブックやまして婦人誌のものは軽視していたそうです…私は庶民派で普通の人の服装や生活に興味がありますし、婦人誌のものは味わい深くて大好きですけど。戦前に限らず昭和期までのお洒落な方たちが行きつく先は、海外誌と仲間内や業界など出先で得る情報だったと思います、もちろん経済力とセンスが不可欠でした。日本の一般誌は、主に大衆の動向を知るための情報源(ばかりじゃないけど)だったのではないでしょうか…古い時代の服飾関係の話です(私は裕福ではないし能力もないのでこういったことは少し苦手です)。今はいろいろな場面で日本的解釈の西欧風のものが評価されるようになってます。

てきとうな1930年代頃のCoty PowderとLucien Lelong製品、容器の年代特定には自信がないので間違っていたらごめんなさい。中村進治郎さんが書かれたという香水記事、ぜひ読んでみたいです。洋装以外に古い時代のお化粧の理想もまた海外のブランド品でした…モダンでスノッブな層では粉白粉と香水だけは絶対海外、て方が多かったように思います。
最後は、中村進治郎さん高輪芳子さんです。

1930年代初頭の海外、昼の服

1929年ニューヨークの株価の大暴落をきっかけに始まった世界恐慌以降の不況と社会不安をを背景に、1930年にはいるとファッションは合理的で現代的でありながら、保守的で退廃的・優美で優雅なかんじに変化します。1920年代に短くなったスカートは20年代末に長くなって、低かったウエストの位置が元に戻り細長いシルエットになります、エレガントでシックな雰囲気…というか。

いきなり海外の1930年代ファッションですみません、昭和30年代初頭の下着ブームについて書きたい…いいえ、書いている、のですが、難航しています。他にも、いくつか気になっていることがあって、それも書きたい、と思案中です。なので気分転換に?好きな1930年代です。日本の非売品の本からですが、1930年代の海外のものらしい、という以外あまり詳細がわからない…という画像類です。昼と夜の服装の違いが明確だった時代の昼の服、ワンピースなどと活動的で実用的なスーツとブラウス、などです。
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ワンピースなどです、訪問や午後の集まりや外出などのためのもの。正位置のウエスト、プリーツやぴったり沿った腰からフレアーが少し広がった長いスカート、幾何学的な切り替えを多用した凝ったデザイン、などこの時期の特徴だと思います(フレアーはもう少し後の方がわかりやすいのですが)。深く斜めに切り込んだ襟元(襟は30年が進むと次第に詰まったものが多くなっていきます)、刺繍、カットワーク・ドロンワーク、レース、ピンタック、スカラップ(注)などを多用して飾りました。
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機能を重視した実務的なテーラードスーツ(注)とコートなどです、色は黒、紺、茶、ベージュなどが多く、素材は梳毛(ウーステッド)、ツイード、ヘリンボーン、サージ、ジャージ(注)などでした。ざっくりした風合いの毛織物のツイードは従来、紳士服の素材でしたが婦人服にも用いられるようになりました。下着に使われていたジャージも同様でどちらもシャネルが得意とした活動に適した素材です。
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ブラウス、素材はシルクやウールの、クレープ(デシン、ジョーゼット、サテン)やモスリン(注)。同じ時期と思われる、15~18歳向けの少女服子供服、どちらも大人っぽい雰囲気。そしてまだ1920年代的な平らな胸の下着
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全体にやや筒型のシルエットや、髪型・スタイル画の雰囲気、帽子はつば(ブリム)が下がってぴったりした感じから、1930年代の早い時期ではないかと推測します。服のシルエットもですが、帽子というのも年代ごとに特徴があるみたいで、20年代の帽子はもっと深く顔が隠れるくらいに被っていましたし、30年代が進むとつば(ブリム)や飾りが目立つようになっていくように思います。1930年代のファッションといっても、初期から末期まで結構さまざまで、その間の変化も大きいと思うのでその辺気をつけて見てみるのも楽しい…

1940年代の装い・海外01  1920~30年代の海外の服装を少し
 
英語が苦手なのでよくわからないのですが、海外のサイトなどを探せばこういった画像はたくさんあると思います。「1930 fashion」他に年号やdress,suit,clothingなどで画像検索してみてください?昭和○○年の…一連の記事は、自分では気に入っていて、できればもっとほかの時期もやりたたいと思っているのでそのうち再開しますが、戦前に戻っちゃうかも、大好きな戦中と占領期はやり残してるし、昭和30~40年代もいつかやりたいです。

(注)
梳毛織物(ウーステッド 短繊維を除き、もつれを取って長く平行に揃えた(梳毛)羊毛を使った織物、やや光沢があるあまり厚くないが丈夫なものが多い
ツイード 元来は手紡ぎの紡毛糸(短繊維を集め平行に揃え撚りをかけ糸にしたもの)の綾織りの手織物で、ざっくりした素朴な厚手の織物
ヘリンボーン ニシンの骨のような織模様の織物、杉綾
サージ 梳毛織物(ウーステッド)の一種、右綾織物
モスリン(メリンス) 梳毛織物の一種、平織りの柔らかな薄い織物、我が国ではメリンスとも呼ぶ
シルクウール シルクとウールの混紡織物
ジャージ  主に外衣にもちいる編地(ニット)の総称、織物のように裁断・縫製して製品化される
クレープ 強撚糸(強い撚りをかけた糸)を使ったしぼ(細かい凸凹)のある織物、デシンジョーゼットシフォンと薄くなる、サテンは光沢のあるもの
カットワーク・ドロンワーク 刺繍の一種、糸を抜き取ったり、内側を切り抜いてレース模様を作る方法
ピンタック 直線状の細いタック(縫い襞)
スカラップ 半円を並べた波形の縁
テーラード・スーツ 型、仕立て、生地が、紳士服ような女性用のスーツ(上衣と下衣が同じ生地など揃いのもの)

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