小川薫が語る「親分衆交友録」小川薫が語る「親分衆交友録」

2006年12月23日

小川薫が語る「親分衆交友録」

小川薫「親分衆の交友録」つづき

≪ 俺は中学、高校と野球漬けの生活だったが、やっぱり親父の背中を見て育ったから博打には眼がなくて、それが兄弟三人が揃ってそうだったから、「鉄砲三兄弟」なんて呼ばれたね。いま考えたらひどい話だが、俺たち兄弟相手に博打で勝っても金が取れないからだよ。負けてスッカラカンになっても、兄弟の金を借りて賭け続けるんだ。だから、兄弟同士の殴り合いの喧嘩なんて日常茶飯事だったな。

 で、ある時、広島で俺が野球賭博の「鉄砲詐欺」をやってしまって、地元にいれなくなったんだ。そこで、夜逃げ同然に逃げ込んだのが福岡県久留米市の、後の「道仁会」の起源となる稲吉親分の事務所だった。この親分が引退して、前身の「古賀一家」から1971年に名称を変えたのが「道仁会」で、初代会長になったのが古賀磯次さんだよ。当時から組の幹部を知っていたし、その関係は稲吉親分から古賀親分に引き継がれ、さらに二代目会長の松尾誠次郎さんに繋がっていくんだ。

 俺がよく覚えているのは、稲吉親分が経営している事業の中でも、久留米市内でやっていた「火の鳥」という大型キャバレーかな。俺は朝、魚市場や青果市場に行って、

「今日はどちらのチームに賭ける? 阪神、巨人?」なんて言って野球賭博の注文を取り、事務所に戻って整理するわけだ。毎週月曜とか金曜日が精算日でね。そんなことに明け暮れていたから、古賀さんが「道仁会」の初代会長になったことも気づかないほどだったよ。

 ただ、野球賭博といっても、久留米では始めたばかりで浸透もしてなかったから、広島や関西に比べると規模も小さかった。せいぜい5000円とか1万円賭けて、それが10人もいればいい程度だったね。(つづく)

 

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mumeikai at 17:23│Comments(1)TrackBack(0)

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この記事へのコメント

1. Posted by たつや   2015年10月20日 03:01
小川薫さんのお嬢様は広島女学院で評判のべっぴんさんじゃったやで

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