金曜日 曇り
プラスの気温の日が続いて、ずいぶん雪解けが進んでいる。
奇妙な具合だ。
2度ほど、記録的な大雪になった札幌なのに、雪解けは例年より早い。
1か月とは言わないが例年より半月ほど早く季節が進んでいる印象。
今日は、新聞でコラムを担当している執筆陣で道外に移るため降板予定の作家の送別会をした。
ネタにする俳句や短歌を選び、コラムを書く。
これもまた選句のひとつだろう。
あれやこれや選句の仕事というのが多い。
毎月目を通す句の数はいったいいくつになるだろうか。
中には大手メディアもあるので、8千句は超えていると思う。
さすがに集中力が切れることもないわけではないが、そんなときはいったん手を休めて集中が戻るのを待つ。
投句する人が真剣なのを知っているから、やっぱり選句というのは手を抜けない。
実は、選者をしていると多少悩むことも多い。
自分に選者の資格があるだろうかという疑問がいつもあるが、それは棚上げしておかねばしかたないと腹は括っている。
高いところから句の良否を判定する姿勢は絶対に避けようと決めている。
取れない句というのは多数あるけれど、その一句一句には価値があると感じている。
きれいごとを言っているのではない。
どの句もその人にしか作れなかった句であり、詩だから。
共感して胸つかれる思いも頻繁だ。
基本的に、選句する際には、ぼくは一読者となる。
それは読んでいるのだから当然読者だろうと思う人もいるだろうが、実際はそうではない選者が多いように思う。
つまり俳人として持っている自分なりの俳句への姿勢というものを基準として俳句をチェックしている選者が当然いる。
それの何が悪いと言われそうだ。
悪いとは思わない。
けれど、ぼくはあえてそれはしない。
ぼくは有季定型を自分の作句の形として採用している。
自分で作るときは、それを自分に強いている。
だけど読者となったときには、そういうものを全部捨てて、俳句を絵画を見るかのように楽しむ。
だから、伝統俳句だろうと現代俳句だろうと、口語でも無季でも自由律でも多行俳句でも新かなでも旧かなでも、表現形式にはこだわらず一句一句を面白く読んでいる。
そこに作者の吐息が感じられれば最高の気分になる。
だからどんな句であってもぼくにとっては面白いのだけれど、選ばねばならないのが選句というものだ。それが困る。
好みで選句しているのだろうか。
それは当然あるだろう。
だけど繰り返しになるが、あくまでも読者として特に感心した句というものを選んでいる。
ぼくはこんな句は作らない、と思った句であっても、それは作者の視点なので基準とならない。
読者のぼくが感心して読んでしまった句を選ぶようにしている。
読者(ぼく)はきまぐれだ。
だから何に感心するかは分からない。
でも傾向として、感心できない句というものはある。
・事実報告の句
・言い古された慣用句に頼っている句
・月並みな老いの句(老いの句自体を否定はしない)
・政治的主張しかない句
こうして書き出して、確かにそうなのだが、どこか納得できないものを感じてもいる。
最後の決め手は上記のようなことではないような気がするのだ。
そこで大切になってくるのが、「レトリック」の存在。
どうも結局、そこに行きついてしまう。
単なる事実報告であっても、レトリックさえ成功すればその句は単なる事実報告ではなくなる。
なんだか当たり前のことを言ってるような気がしてきた。
俳句は「言葉の芸」だ。
美術で言えば、セザンヌが平凡な林檎やオレンジを描いても平凡にはならないように、モチーフがいかに平凡であっても、言葉の芸がそれをひとつの芸術に変える。
そのあざやかな手並みが一句を立ち上げるのだろう。
17音しかないからこそ、その芸が際立つ。そこにしか頼るべきものがない。
どんな鋭い、あるいは立派なことを書いても、そこに言葉そのものの芸がなければ、陳腐な句になる。
言葉を読者の心の深いところにしみこませるためには、レトリックが最も効果的に思える。
現代詩や短歌は、物語を書ける。
けれど17音の俳句では物語はできない。
言葉それ自体の美しさや喚起力を際立たせるためのレトリックが必要。
過去の名句と呼ばれるものを読み直せば、それを痛感する。
読者は言葉のマジックを期待しているのだ。
なんだか、そんなことを思ってしまった。

プラスの気温の日が続いて、ずいぶん雪解けが進んでいる。
奇妙な具合だ。
2度ほど、記録的な大雪になった札幌なのに、雪解けは例年より早い。
1か月とは言わないが例年より半月ほど早く季節が進んでいる印象。
今日は、新聞でコラムを担当している執筆陣で道外に移るため降板予定の作家の送別会をした。
ネタにする俳句や短歌を選び、コラムを書く。
これもまた選句のひとつだろう。
あれやこれや選句の仕事というのが多い。
毎月目を通す句の数はいったいいくつになるだろうか。
中には大手メディアもあるので、8千句は超えていると思う。
さすがに集中力が切れることもないわけではないが、そんなときはいったん手を休めて集中が戻るのを待つ。
投句する人が真剣なのを知っているから、やっぱり選句というのは手を抜けない。
実は、選者をしていると多少悩むことも多い。
自分に選者の資格があるだろうかという疑問がいつもあるが、それは棚上げしておかねばしかたないと腹は括っている。
高いところから句の良否を判定する姿勢は絶対に避けようと決めている。
取れない句というのは多数あるけれど、その一句一句には価値があると感じている。
きれいごとを言っているのではない。
どの句もその人にしか作れなかった句であり、詩だから。
共感して胸つかれる思いも頻繁だ。
基本的に、選句する際には、ぼくは一読者となる。
それは読んでいるのだから当然読者だろうと思う人もいるだろうが、実際はそうではない選者が多いように思う。
つまり俳人として持っている自分なりの俳句への姿勢というものを基準として俳句をチェックしている選者が当然いる。
それの何が悪いと言われそうだ。
悪いとは思わない。
けれど、ぼくはあえてそれはしない。
ぼくは有季定型を自分の作句の形として採用している。
自分で作るときは、それを自分に強いている。
だけど読者となったときには、そういうものを全部捨てて、俳句を絵画を見るかのように楽しむ。
だから、伝統俳句だろうと現代俳句だろうと、口語でも無季でも自由律でも多行俳句でも新かなでも旧かなでも、表現形式にはこだわらず一句一句を面白く読んでいる。
そこに作者の吐息が感じられれば最高の気分になる。
だからどんな句であってもぼくにとっては面白いのだけれど、選ばねばならないのが選句というものだ。それが困る。
好みで選句しているのだろうか。
それは当然あるだろう。
だけど繰り返しになるが、あくまでも読者として特に感心した句というものを選んでいる。
ぼくはこんな句は作らない、と思った句であっても、それは作者の視点なので基準とならない。
読者のぼくが感心して読んでしまった句を選ぶようにしている。
読者(ぼく)はきまぐれだ。
だから何に感心するかは分からない。
でも傾向として、感心できない句というものはある。
・事実報告の句
・言い古された慣用句に頼っている句
・月並みな老いの句(老いの句自体を否定はしない)
・政治的主張しかない句
こうして書き出して、確かにそうなのだが、どこか納得できないものを感じてもいる。
最後の決め手は上記のようなことではないような気がするのだ。
そこで大切になってくるのが、「レトリック」の存在。
どうも結局、そこに行きついてしまう。
単なる事実報告であっても、レトリックさえ成功すればその句は単なる事実報告ではなくなる。
なんだか当たり前のことを言ってるような気がしてきた。
俳句は「言葉の芸」だ。
美術で言えば、セザンヌが平凡な林檎やオレンジを描いても平凡にはならないように、モチーフがいかに平凡であっても、言葉の芸がそれをひとつの芸術に変える。
そのあざやかな手並みが一句を立ち上げるのだろう。
17音しかないからこそ、その芸が際立つ。そこにしか頼るべきものがない。
どんな鋭い、あるいは立派なことを書いても、そこに言葉そのものの芸がなければ、陳腐な句になる。
言葉を読者の心の深いところにしみこませるためには、レトリックが最も効果的に思える。
現代詩や短歌は、物語を書ける。
けれど17音の俳句では物語はできない。
言葉それ自体の美しさや喚起力を際立たせるためのレトリックが必要。
過去の名句と呼ばれるものを読み直せば、それを痛感する。
読者は言葉のマジックを期待しているのだ。
なんだか、そんなことを思ってしまった。



