中継ぎ哀歌 〜ナカツギエレジー〜

俳優・高杉征司のブログ

「君と奏でる物語」〜プリズムホールのお仕事〜

 8月26日、「君と奏でる物語」2ステージ、無事終演。受講者のみんなが帰ったプリズムホール和室に突っ伏した。受講者は小学校5年生から高校1年生までの13人。みんなキラッキラ生命が漲っていた。その発するエネルギーはとてつもなく、向き合い続けた1ヶ月という時間を実感する。心地よい疲労。嗚呼、眠ってしまいたい、このまま泥のように。

 八尾プリズムホールさんの事業「つくってみようよ!おしばい」で演出をさせていただくようになって3年。何事も3年目というのは一つの集大成。今までやってきたことをフィードバックし、どこまでいけるかの話し合いは続いた。プリズムホールの事業担当の方々が素晴らしい。何度も京都まで足を運んでいただいて、中身についての話し合いを重ねる。脚本担当の山口茜氏、演出担当の私、演出助手の阪本麻紀氏と共に。子供に対して何ができるか、作品の完成度を何に求めるか。

 今年の一番の収穫は「自発的創造性」だったと確信している。俳優たちが自分で感じ、考え、共演者と価値観をすり合わせ、やってみる。この瞬間を目の当たりにしたときは衝撃を受けた。ふわっと「今のこの子たちならできる!」と感じたので「自分たちで考えてみて」と手放した。そうすると、堰を切ったようにクリエイティブなやりとりの応酬が始まった。それぞれが自分の役、相手の役を深く理解し、作品構造をイメージし、それが動きや発話になって現れる。立ち位置や動線も必然的に決まっていく。今までは私があらかじめ決め、稽古の中で変更を加えるというやり方だったのだけれど、今年は子どもたちに自分で考えてほしくて決めなかった。数少ない稽古でお客さんを入れた本番を迎えるからには完成度の担保のためにやむを得ないと考えていた。それ自体間違っていたとは思わないけれど、三年目にしてそこまでたどり着いたのだと感じた。種を撒き、刺激すれば、子どもたちは楽しみながら勝手に歩き始める。こんな当たり前のことがなかなかできない。「責任」は、一歩間違えば行動を制限してしまう。「信頼」と口で言うのは簡単だけど、それを本当に相互に獲得するためにはそれなりの時間と経験が必要となる。傷つけ、傷つけられ、その先に踏み込むしか獲得の方法はない。こんなに当たり前で、こんなに難しいことに挑戦していたのだと気付かされた。プリズム事業担当の方々と「こんなワークショップにしたい」「こんな作品を創りたい」と三年かけて、何度も何度も言葉をかわしてきたものの一端をやっと掴むことができた気がした。
 全8回のワークで50分の作品を創る。経験のある大人の俳優でもなかなかのミッションだけど、それを演技経験のない子どもと成し遂げる。本番という発表がある以上、ある一定のクオリティに仕上げないといけない。それが子どもたちの成功体験になるんだし、数値化できないこういう類の事業の一つの成功の物差しにもなる。そしてアーティストとして招聘された私の観客への責任でもある。その反面、演劇を子どもたちとする意義として、完成度ではなく、その過程を大切にしたい気持ちが強い。さっきまでの自分を越えていく努力をすること。絶対的な声の音量ではなく相対的に大きくなる声。その子なりに頑張っていることを評価したい。観客には伝わらなくとも、今目の前にいる共演者(他者)と向き合い交流すること。人に何かを伝えようと努力する。人が何を考えているのか知ろうとする。他人と向き合う。それはつまり自分と向き合うこと。それは楽しくもあり、非常な恐怖でもある。そんな経験をしてもらうことが大切だと感じる。それと発表のクオリティという成果との折り合いをどうつけるか。もちろん時間がたくさんあれば、彼らのそんな経験はいつしか演技のスキルに繋がっていき、作品のクオリティに直結するだろう。それをごくごく限られた時間の中で両方達成するのは本当に難しい。でも諦めたらそこで終わり。創造性とクオリティという本来矛盾しない二つを当たり前につなげていく日々。

 本番前日、私は演出として作品を収束に掛かる。今からできることとできないことを判断して、ダメ出しをする。しかし脚本を書いてくれた山口さんはまだまだ諦めていなかった。セリフを付け足したい。シーンを書き換えたい。もっともっと面白くなる、と。せっかくここまでクリエイティブに広げてきたのに、何を最後に収束に向かっているのか。私も目が覚めたようにそれらに取り組む決意をする。「責任」と「信頼」という言葉と向き合い続けた一ヶ月。責任を取るとは何なんだろう? 信頼するとはどういうことなんだろう? 言うのは本当に簡単だけど、すぐに都合のいい言葉に成り下がる。甘言となり、言い訳となる。そんな難しさに悩み続け、最後の最後まで貫徹できたと思う。阪本さんも本当にがんばってくれた。子どもたちに寄り添い続け、私やプリズムさんの意図を汲み、それでいて自分の判断で動き続けてくれた。当然子どもたちからの信頼も厚い。菩薩のような彼女。阪本さんなしには成り立たなかったと感じている。

 2ステージの発表を終え、誰もいなくなったレセプションホールに荷物を取りに行くと会館の技術スタッフさんが後片付けをしておられた。大方の責任から解放された抜け殻のような私に優しく話しかけてくれる。この方が作品に注いでくださる力、子どもたちを見守ってくださる目、我々アーティストへの眼差し。本当に支えていただいたと実感する。芸術・表現・自主性・交流・教育。切っても切れないこれらのものがほんとうの意味で一つになるためにまだまだ私にできることはある。そう奮い立たせてくれる事業だった。
 八尾プリズムホールの館長・事業担当の方々・またご助力いただいたその他の職員の皆さん、受講してくれた子どもたち、大切なお子さんを預けてくださった保護者のみなさま、一緒に戦ってくれた山口・阪本両氏。その他助成金元の財団や行政など挙げればきりがないけれど、この事業に関わったみなさんに心から感謝申し上げます。このような機会をいただきましてありがとうございました。

2018-08-26 20.16.44


 帰り道、乗り換えの鶴橋で焼き肉の香り。吸い込まれるように入店。講師三人で今回のワークについてたっぷり振り返りをした。焼き肉もおいしかった。次は下鴨車窓のツアー。10月も演出作品が二本。12月公演に向けての稽古も始まる。まだまだ忙しいけど、こんな一つ一つの経験が、繋がりが、また私を奮い立たせてくれる。

「純粋パレス」再び

 チェック機関というのは存外機能しないもので、私が母校に教育実習で還ったときなんぞは、「実習生を図書新聞で紹介します!」と言ってプロフィールの提出を求められた。愛読書や座右の銘など色々聞かれたので全力でふざけて回答した。自画像に至ってはポコチンを少々リアルに描いて提出した。先生から「高杉、ふざけすぎや!」と突き返されるはずだった。当然そうなるべきだった。ところがどうだ。全部が全部、丸っきり印刷されて、全校生徒に配られたではないか。「スルーしてんじゃねえ!」と言ってみたところで後の祭り。まあまあ物議を醸した21年前の心温まる思い出。

 更に遡ると、中学校の卒業文集が思い出される。「仲間と過ごした楽しい時間が」とか「修学旅行で見た清水の舞台が」などと面白くも何ともない事を書きたくなかった私は、全力で駄文を書き綴った。結果、国語のF木先生からプリントからはみ出るほどの真っ赤な大バツをつけて突き返された。「こんなふざけた文章が卒業文集に載せられるとでも思っているのか、大馬鹿者が!」と言われた。F木先生は小刻みに震えていた。彼(ら)が彼(ら)の思う優良な中学生像に私を押し込めようとしていることに我慢ならなかった私は、一字一句変更を加えずに新しい原稿用紙に書き写し、「書き直しました」と言って再提出を試みた。「嗚呼、また呼び出されて紋切り型の教育理想論を暴力的に押し付けられるのか」と陰鬱とした気持ちで数日を過ごしたが、一向に音沙汰はない。「今日こそは呼び出される」「今日こそは」日一日と過ぎていく。そしてそんなことも忘れてしまったある日、卒業文集は完成した。烈火のごとく怒ってくると思われたのに、何事もなく卒業文集は完成したのだ。私だけカットされているかとも思い、めくってみると、駄文が駄文のまま掲載されている。F木先生は諦めたのか、チェックしなかったのか。
 駄文というのは、近所の小学生が悪辣で、わがままで、いかに威張り散らしているか、どれほど全能感に侵されているかをエピソードを挙げ連ねて、面白おかしく批判的に書いたもので、しかしそれは小学生の時の自分を見ているようで、もっと言えば「中学卒業を控えて今なお、そういう稚拙な感覚から脱することができないでいる私」という自己批判に転じるのであって、最終的には「読者の皆さんはどうですか?」という一種のパラダイムシフトを設定したものだ。いわば太宰治の「親友交歓」のようなもので、「威張るな!」の一言で読者の立場をひっくり返したあの名作のような構成になっていた。自分なりに自信作だったので、何とかこの形のまま掲載したかった。そんな私の執念が実ったと言えるだろう。

 今年2月に京都府立文化芸術会館で発表された「純粋パレス」が帰ってくる。福知山市と京都市の府内二都市ツアーだ。
 脚本と演出を担当するのは田辺剛さん。彼の世界観は秀逸で、「歪」を描かせたら右に出るものはないと思っている。カフカのような「不条理」、日常に根ざした微かな「ひずみ」、盲目的な常識に隠れた確かな「ゆがみ」。
 この作品には、そんな「歪」がそこら中に散りばめられている。一枚のドア。開けるたび次々と変わる風景。時代、場所、人。次から次へと目まぐるしく変化する。そして最後には、ずっと変化を感じる軸になっていた男自身にも変化の波が押し寄せる。揺らぐ存在。不確かな常識。「ここは一体どこなのか?」「私は一体誰なのか?」そんな疑問が観ている者をも飲み込んでいく。自分の存在や常識、絶対的に信じていたものが音を立てて崩れ落ちる一種のパラダイムシフト。我々はすべてを疑うべきなのか。

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「純粋パレス」
脚本・演出:田辺剛(下鴨車窓)

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【福知山公演】
2018年9月1日(土) 16:30開演 @夜久野ふれあいプラザ ホール
※きょうと北部演劇まつり参加作品

【京都公演】
2018年9月14日(金)-16日(日) @京都市東山青少年活動センター 創造活動室

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みなさんのご来場をお待ちしています!

「演フェス」発「純粋パレス」経由「前髪を揺らす風」行

5kg太った。
なんだかシルエットがムティムティしている。そんな自分に出会うのは5歳の時以来なので、お久しぶりです! 正確には昨年もこの時期5kg太ったのだが(もてぃろん正月太り)、「悪童日記」の激しい稽古でみるみる元に戻っていった。ずっと「ムキムキ」と言われていたのに、ここにきて「ムチムチ」。ゴロは似ているのに何と差異のあることよ! これが40代か、と実感している。某高校の柔道部でレンジャー部隊のような稽古をし、人殺しの技を磨いていたので体力には自信があった。打倒ヒクソン・グレイシーを標榜して、腕立て・腹筋・背筋各100回を10セットこなし、今では考えられない昭和の風景なのだが、見たこともないような図太いタイヤを腰に結わえ付けてグラウンドを煙が出るほど走っていた。そうやって獲得した筋肉質な身体は代謝が良いのかどうか知らないけれど、特にコントロールしなくてもグラム単位でしか体重の増減はなかった。そしてついに40代の壁。食えば太る。歩けば息が上がる。頭髪は抜け落ち、残尿感がほとばしる。今にうんこ漏らしたりするのかな。そう思うと泣けてくる。でもその涙、拭ったりしない。俺の手はそんなことのためについているんじゃない。漏らしたうんこをバレないように片付けるためについているんだ。涙は乾く、が、うんこは乾かない。いや正確には、乾いたとて「乾いたうんこ」がそこにある。違う。俺はそんな話がしたかったんじゃない。なんだ? 公演情報をお知らせしたかったのだ。クソまみれの手でキーボードを打つ俺は、年齢に抗うべくランニングを始めた。こればっかりは本当のことだ。

純粋パレスイメージ

Kyoto演劇フェスティバル実行委員会プロデュース企画
「純粋パレス」
脚本・演出:田辺剛
日時:2018年2月17日(土) 15:20 開演
   上演時間40分
会場:京都府立文化芸術会館 ホール
出演:西村貴治
   高杉征司
   大熊ねこ
   藤原大介
詳細はこちら→
ご予約はこちら→


そしてもう一つ!


高槻シニア劇団 恍惚一座(うっとりいちざ)
「前髪を揺らす風」
脚本・演出:高杉征司
日時:2018年2月18日(日) 12:30 開演
   上演時間40分
会場:京都府立文化芸術会館 和室
詳細・ご予約はこちら→


短期間に「出演」と「脚本・演出」が覆いかぶさってのっぴきならない状態です。
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