村正ばかりを集めた展覧会が開催されているのを知り、村正が住んだ三重県は桑名の町を訪れることとなりました。

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展覧会が開催されていたのは桑名市博物館。
千子系、村正からの後代の正重、正真、藤正(初代村正と同一との諸説あり)等 やく三十振の大、小、短刀が一同に揃う、今後にあるかどうかの展覧会。
終日も近ずきだした秋の日に出向いてみた。

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珍しいものは藤正の短刀(多度大社、四日市市立博物館蔵)や改ざんされた村忠銘の短刀など(東京国立博物館)に、刀身に漆を塗りつけた桑名宗社蔵の正重の太刀二振りなど、よくもこれだけ集めることができたのは地元桑名であったからかなと関心した規模の展覧会で、僕が入場した日も平日に関わらず大勢の方が入館されていました。。

桑名と言う街は京都からの移動となると、電車でなら一度は名古屋にでてからの関西本線の移動となる街でもあり、特別に何かの要件がないようであればあまり足を踏み入れるような街でもあらず、せっかく来たのだから展覧会だけではこちらも欲求が満たされない。

昔から訪れてみたかった村正の墓と屋敷跡をと探訪してみることにした。

初代村正は室町期の陶工であり、僕が刀剣に興味持ち出しき頃に読みあさった文献には初代村正の朽ち果てたような五輪の墓などもその本には写真にて掲載されていましたが、村正の家系は幕末頃には末代が途絶えてしまった家系のようであり、菩提寺の墓地からも今となれば数基ありし墓も処分されてしまい、後代 「承応4年(1655)正月16日」と刻まれた石墓が無縁墓地の中にひっそりと入れられていました。

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承応となると江戸初期の時代ですから、何代目にあたる村正なのか、直系もしくは千子一派の一族の墓なのか詳しいことはわからずしも、唯一現存する村正とはなんらかの関係ありし一族の墓には相違あらず、目の前にしたときは微かな感動を覚え、『やっとお逢いできましたね村正殿。。‼』
と気がつけば墓石に手をふれていました。

無縁となれども、やはり今の時とても僕のような者もおられるのか墓前には訪ねてこられた方が酒などを供えてあるのをみて。
これからも村正の逸話を途絶えることなく語り継がれてはこの墓が人の知るところとなり、供養されていく事を望んだ。。

なお、菩提寺は仏眼院と言うお寺になりますが、墓地は寺からすこし離れた場所の住宅地の中にあり、そう広い墓地ではありませんが、無縁墓となるので方向とすれば
割烹旅館魚重楼側からの道路をはさんだ所に墓地入り口があり、そこの入り口からは北側の突き当たりに無縁の一番大きい墓がある。
墓の積み重なりし上には地蔵菩薩の石像がありますが、その地蔵をポイントに一番下の場所右側に村正の墓石が安置されています。
行かれる方はご参考まで。


屋敷跡は桑名市西南部に位置する走井山の山麓と伝えられており、三枝鉄道北勢線の馬道駅の北側に建っているマンションで現在はグローリアルヒルズ走井山公園弌番館あたり一帯であったようです。

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(二年前あたりにたてられたと言う標識)

こちらは馬道駅より駅舎から下車したとしたならば右側に向かい、一番最初の道を北側に入ると勧学寺本堂に向かう参道の階段途中にあります。

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(赤印地点)


なお、石碑は馬道駅舎から左に行き最初の道を北側に道なりに登ってゆくと、マンショングローリアルヒルズ走井山公園弌番館の正面玄関がありますが、その入り口左側にあります。
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今は石碑銘版の彫り文字もほぼ消えてしまっていますが、そのマンションの管理人の方に頼めば銘版に書かれていた文状のコピーが貰えます。


どうに構えても村正の鍛錬所と屋敷は当時としてはかなりの規模の工房であったのではないかと推測します。
安価にて斬れのよい実践向きな刀剣を打つ鍛冶としては、結構な数の刀を生産していたとも考えられ、弟子の数なども多く、経済的にも恵まれた鍛冶であった可能性があります。
最後に、昭和30年代あたりの村正屋敷跡の画像もありますので添付しておきます。

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