日光東照宮の参道入口に位置する「神橋」
冬はこんな感じです(これは資料写真ですが)
毎年正月に行っていた頃は
朝、よく散歩しました。

 今日は仕事が非番だったので、電車で一駅となりの街へ、昼食と買い物に出かけた。
 昼は、入ったピッツェリアのピザとパスタが本格的なもので、とても美味しく、満足できた。
 買い物は、家族に付き合ってブティックを2、3店廻り、自分はユニクロでヒートテックの下着とスウェットの上下を1着買った。

 それだけで帰ってきたのだが、やはり疲れてしまい、午後は夕方まで寝込んでしまった。

 年明けは、このようなことばかり書いているような気がしているが、ここに来て本当に疲れる体になってしまったようだ。

 脊髄小脳変性症を発病して、病気の症状とそれらが次第に重く進行してくるのを体験してみて、脊髄小脳変性症というのはつくづく大変な病気であり、毎日この病気を抱えながら生活することが如何に辛いものであるかということを、嫌というほど感じさせられている。難病を抱えている人たちは、難病の症状によってはそれほどでもないものもあるかもしれないが、程度の差こそあれ同じように苦しい日々を送っているに違いない。

 こればっかりは体験してみなければ分からない。今はつくづくそう思う。
 もし自分がこの病気にかかっていなかったなら、難病に苦しむ人たちがいることを頭の片隅には置いていたとしても、日々の仕事を行なうなかでは、まったくその存在など意識に上ることもなく、自分に課せられた組織のマネジメントの仕事を嬉々としてこなし、その成果を前に、自分はそこそこ優秀な人間であると満足感に浸っていたことだろう。

 難病に罹るか罹らないか、難病と生きる辛い人生を生きることになるかならないか、この差によって、生きることの重みの体験、人生にとってあるいは人間にとって何がより大切で何がどうでもよいことかを理解できるかできないかが変わってしまうのだ。私にとって難病になってみて初めて分かったこと、難病にならなかったら多分一生分からなかったであろうこと、それらを体験する日々が、いま私の人生に訪れているのだ。

 人のこころ(魂)はさまざまな人生の体験によって成長していく。私は、そう信じている。

 そうであるならば、私にとって難病にかかったことは「成長」のチャンスだ。

 難病なんかに罹らなかったらどんなによかっただろう。余生がどんなに楽しいものになっただろう。こう思わないこともない。

 しかし難病と生きる体験が始まり、そして数年が経過した今の思いは違っている。信じてもらえないかもしれないが、難病に罹ったからこそできている貴重な体験があるのだから、「難病に罹ったことは自分にとってよかったのだ」と思っている自分が、今はいる。


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