人間は、古来多くの病気に苦しんできた。今日でも多くの病気や難病に苦しめられていることに変わりはない。

 その中でも不治の病はと直接結びつくだけに最も恐れられてきた。人はだれもを免れることはできない。若くして死を迎える者、働き盛りに突然死を向かえねばならなかった者、超高齢まで長生きして召される者など、死ぬ時期は様々であるが、それでも死を恐れる感情に大差はない。

 脊髄小脳変性症のような難病は実に始末が悪い。病気の原因が不明であるばかりか、必ず進行し、遅かれ早かれを免れることはできないためだ。
 しかも、死に向かうプロセスでは、病気が進行するにつれ確実に具合の悪さや苦痛が増してくる。

 私自身も、発症が確実と診断された頃に比べ、日々の苦痛が倍増と言っても良いほどひどくなってきている。

 私の場合、脊髄小脳変性症(マシャド・ジョセフ病)を体験しているのだが、多系統萎縮症、パーキンソン病、多発性硬化症などの難病患者の方々も、同じような、あるいはもっと苦しい毎日を送られていることと思う。

 難病に向き合って生きるとき、難病にかかった不運をひたすらに嘆き・悲しみ、苦痛を訴え続け死を迎える場合や、難病の進行と死の近い容態に苦しみながらも、周囲を不幸にすまいと笑顔を絶やすこと亡く闘病生活を終える場合など、患者の生き様には様々な形が見られる。

 私には、いずれが良い、自分はこうありたいなどと評価を下すつもりなどは全くない。いずれも正直な反応であり、難病と闘う姿勢に、本質的な違いはないと考えている。

 一部の病気を除いて、病気を発症しても、多くの病気について、それらの発症について患者個人には責任はないと、私は考えている。

 病気を理解する場合、トータルとしての民族や人類全体の影響や、進化する生命である地球の自然状態が人間に及ぼす影響といったものすら苦慮に入れなければならないとまで想像しているからである。

 一人の人間は人類の不可欠な部分である。人類や地球などの環境の変化が、進化の過程で思わぬ歪みを生じ、困った病気を生み出してしまう。難病はそんな部類に属する病気なのではないか。そんな風にも思えるのである。難病やある種の心理疾患の発症率は、不思議なことに増えもしなければ減りもしないという。こんなところにも難病の特殊性を見てしまうのだが・・・

 だとすれば、難病と闘う意味も変わってくるし、難病の苦しさを緩和するケアの方法にも新たな視点が加わってきそうな気がする。


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