高柳重信とわたしの巻

「蟹田で千円呑み放題の会があります。一緒に呑みませんか」
と誘われたのは1994年の12月。
 45歳のわたしは即座にOKと答えた。
 相手は蟹田町に住む10歳年下の友人、戎修氏。
「蟹田川近くの杉野薬局まで来て下さい」
と戎氏から電話があったのは数日後の土曜日。わたしは午後の電車でいそいそと出かけた。
 店の前で念のため看板を確かめる。
「飛車堂杉野薬局」と田舎に似合わぬ風変わりな堂号がついているではないか。
 薬屋がどうして「飛車堂」なのか、薬屋なのにどうして酒の飲み放題なのか、と看板を見上げていたら待ちかまえていた戎氏が中からにこにこと現れ、まるで拉致するかのようにわたしを店の二階へ連れて行く。
 杉野薬局は間口がそれほど広くないが思いがけないほど奥行きがある。しかも、総二階建てだから一般の家とは比べものにならないほど大きい。
 後で知ったことだが、おかじょうき川柳社代表杉野草兵氏のお宅だった。
 杉野氏の御尊父杉野十佐一氏はおかじょうき川柳社を創設された方で、無類の将棋好きだったという。だから「飛車堂」なのだ。
 店の奥には部屋がいくつもあり、蟹田町で相撲巡業があったとき使われたのだとか。
 卓球台がいつでも使えるようにセットされた部屋が二階にあって驚いていると、そこを通り抜けたところが目的の部屋だった。8畳の和室二間が一部屋として使われていたような気がする。
 がらんとしたその部屋に職業・年齢ともに不詳という感じの、いずれも一癖も二癖もありそうな見知らぬ男達がいた。
 それぞれ鉛筆を手に何やら難しそうな顔で座卓に向かっている。
 しかし、卓上にはビール瓶も一升瓶もコップもない。酒のつまみらしいものもない。
 あちこちに、何も書かれていない細長い白い紙の束があるばかり。
 不審に思って戎氏をただすと、彼は頭を掻きながら
「実は、おかじょうき川柳社の忘年句会です」
「句会が終われば呑み放題です」
「呑むまで時間がありますから川柳を作ってみませんか。言葉を五・七・五に並べればいいんです」
「ミカンのことを書いてください。そこの鉛筆で、その細長い紙に書いてください」
などと言う。
 要するに、わたしはおかじょうき川柳社の会員候補として戎氏にハントされたのだ。
 それにしても「千円呑み放題」とは、わたし好みのいい餌を見つけたものである。
 その餌に見境なく食らいついたわたしもわたしだが、結局、このことがあったから川柳に明け暮れる今のわたしがある。
 ところが、その時のわたしと来たら川柳のことなど何一つ知らなかった。
 それでは困るだろうと、戎氏から少し教えを受けることになる。
 彼が実際に何をしてくれたかと言うと、県立図書館から句集を1冊借り出してわたしに無理矢理読ませた。ほぼ、それだけ。
 あとは句会に来さえすれば何とかなる、ってなものだ。
 わたしがそのとき読まされたのは川柳の句集だと思うかもしれないが、豈図らんや俳句の句集である。
 しかも前衛と言われた高柳重信だった。
「これを読んでください」
「高柳重信の句はいい」
「草兵さんも好きなんだ」
と句集を渡されたとき、おかじょうき川柳社には入門者に俳句を読ませるという慣例があるのだろうと思った。
 戎氏はほかに何も説明しない。
 俳句も川柳も基本は五・七・五だから同じなのさ、なんて理屈も言わない。
 あのとき、川柳入門書を渡され手取り足取り教えられていたらへそ曲がりのわたしは今頃川柳をやっていなかっただろう。
 そして不思議なことに、入門のとき俳句を読まされたという先輩や後輩にこれまでお目にかかったことがない。

 高柳重信はインターネット百科事典「ウィキペディア」に次のように紹介されている。

 高柳 重信(たかやなぎ しげのぶ、1923年1月9日〜1983年7月8日)は俳人。本名は高柳重信(しげのぶ)、俳人としては「じゅうしん」を自称した。3行ないし4行書きの多行書きの俳句を提唱・実践し、金子兜太らと共に「前衛俳句」の旗手となった。歌人の高柳蕗子は実子。俳人の中村苑子と事実婚(内縁関係)にあった。

 戎氏がわたしに読ませたのは「高柳重信全句集」である。学校で習った「古池や」とか「柿食へば」などとはまるで違うタイプの俳句が載っていた。
 その作品から伺い知る高柳重信という人物は、実際はどうか知らないが、芭蕉や子規などと違って行動的な裸の男という感じが強い。わずか十七音ほどの言葉でわたしを機関銃のように撃ちまくった。
 わたしは高柳重信という紺碧の空へ真っ逆さまに落ちた。
「三つ子の魂百まで」と言うから「四十五のタマシイ死ぬまで」というのもきっとあるはずで、高柳重信の血は今もわたしの中を密かに駆け巡っている。

 わたしが持っている高柳重信の句集は2冊。
 1冊は、文庫本サイズで100ページに満たない。黒表紙に金色の明朝体で書名が箔押しされ、その表紙がセロファン紙にきっちり包まれていて独特の雰囲気を醸している。高柳重信句集「夜想曲」(中村苑子編1990年4月初版発行 1991年11月三刷発行 ふらんす堂文庫)である。
 これは書斎に置いてあるが、もう1冊は「蝸牛俳句文庫13 高柳重信 夏石番矢編・著 蝸牛社」で、トイレの本棚にある。1994年初版の第1刷。大きさも厚さも普通の新書版ほど。
 それでは、高柳重信の俳句をいくつか紹介しよう。
 高柳の作品は、2行になったり3行になったり、たまに空白の行があったりする。そのまま列挙するとどこで次の句になるか分かりづらかったりするので、句と句の間に便宜上「*」だけの行を置く。

秋さびしああこりやこりやとうたへども
 *
「月光」旅館
開けても開けてもドアがある
 *
船焼き捨てし
船長は

泳ぐかな
 *
白い耳鳴り
坊さんたちの
とほい酒盛
 *
酒を下さい 夜の調律が出来ません
 *
あ・あ・あ・とレコードとまる啄木忌
 *
まぼろしの白き船ゆく牡丹雪
 *
さびしさよ馬を見に来て馬を見る
 *
友よ我は片腕すでに鬼となりぬ
 *
いまはむかし夜景とあらば桜咲き
 *
六つで死んでいまも押入で泣く弟
 *
此の世に開く柩の小窓といふものよ

 いずれの句も「夜想曲」から引いた。
「まぼろしの」から最後の「此の世に」までの6作は山川蝉夫の筆名で発表されたもの。
「これらの句は川柳です」と言われれば、現に川柳をやっておられる方でも高柳を知らない方は何の疑いも持たないだろう。
 しかし、俳句として作られ俳句として発表されたのだからまぎれもなく俳句である。

「高柳重信全句集」を初めて読んだとき、俳句だろうが川柳だろうがそんなことはどうでもいいからこんな句が作りたいと思った。
 と同時に、高柳重信の俳句は高柳重信という人間そのものであるということが解って、体のどこかで「絶望」という二文字が点滅した。
 それでもわたしは高柳重信のような句が書きたかった。
 そうして四半世紀が過ぎた。
 今はもう、自分の句の中に自分がいさえすればそれでいいと思っている。
 ではあるが…、身の内を流れる高柳重信の血がしきりに何か言ってるような気がしてならない。

 どこまでも階段下りて行けば 空  むさし



 *この稿は、青森ペンクラブ会誌「北の邊」2020年第23号のため書いたものです。  

Posted by musan8 at 2020年05月21日 11:55Comments(0)

本棚と本と の巻

 私は、自分の持っている本をわが家のあちこちに置いている。
 そうしないと収まらないのだ。

 まず、机とパソコンがある2階の8畳。
 西側の壁が床から天井まで全面作り付けの本棚になっている。
 この部屋と本棚、というか現在のわが家ができたのは40年ほど前。
 最初、本棚には本だけが収まっていて余裕があった。
 ところが、ジャズのCDが同居するようになり、やがて多くの本を押しのけた。
 本棚に入りきれない本は処分すればいいのだろうが、少なくとも私の脳ミソに何らかの刺激を与えた本なのだから何となくそうできなかった。
 取りあえず床のあちこちに積んだり、寝室にしている隣の部屋の枕元に積んだりしていたが、段々目に余る状態になって、これはやむを得ないと2階の廊下へ本棚とカラーボックスを置きそれらの本を移動させた。
 しかし、あっという間に限界が来た。また別のどこかへやるしかない。
 そんな時、偶然にもトイレと風呂のリフォームをしなければならない事態になった。
 工事を引き受けた叔父貴へ、これ幸いとばかりに追加で本棚を作ってくれと頼んだ。
 設置場所としてトイレを指定したが、建築業の叔父は不思議そうな顔をしなかった。
 わが家のトイレは、それまで大と小に部屋が別れ、更にその手前に台形の小さな部屋のようなものがあった。その三部屋を一部屋に作り替え、便器も大小兼用のシャワートイレだけにする計画だったので何とも広すぎるトイレになるのだった。
 本棚は幅が90センチ、各段の高さが30センチ、それが5段になっている。
 普通のハードカバーだと1段に40冊から50冊は並べられる。
 そこへ2階からあふれ出た雑誌も文庫本もハードカバーもドヤドヤとやってきたが、1〜2年持ちこたえた。
 ところが、本は引き続き旺盛に増殖を続けてまたまた置き場所がなくなる。
 そこで目をつけたのが車庫。
 農家だったわが家の車庫は割と広い。退職した日の次の日から数日をかけ、汗まみれ埃まみれになって整理し何とか確保したのが軽トラック1台分ほどのスペース。
 そこへ小さなテーブルと事務用イスを持ち込み、壁際と、テーブルの前後にりんご箱を並べて積み上げた。すると、何やら書斎風の妖しげな空間が出現。
 りんご箱は、鉋がかけられていない、製材しただけの杉や松の板でできている粗末な木箱だが、中にりんごをいっぱい入れて持ち上げても壊れるようなことはない。
 体裁をそれほど気にしなければ重ねるだけで立派な本棚になる。
 家から飛び出た本たちが待ちかねたようにそこへやって来た。
 で、現在はどうかというと、りんご箱の本棚は既に満杯。
 車庫のわずかな空きスペースに段ボール箱がいくつか置かれ、本棚からはみ出た本が中で静かに眠っている。

 私の読んだり見たりする本は、というか持っている本は分野がまちまちで自分ながら嫌になるほどまとまりがない。
 小説があるかと思えばエッセイや川柳の機関誌があったり、雑誌があるかと思えば画集が、詩集があるかと思えば写真集や歌集や句集があったりで、よく言えば自由奔放、普通に言えばめちゃくちゃ。
 ところで、私の場合、読んでしまった本を後日読み返すということがほとんどない。
 読まなければならない本が常に何冊か待機しているし、読み終わった本の置き方にルールがないのでどこにどの本があるかなんて誰にも分からないのだ。
 お目当ての本をうまく探し出せたことなんか一度もありゃしない。探すだけ無駄というもの。
 したがって、わが蔵書のほとんどは有り体に申し上げれば邪魔物である。どこかへ寄付したり売り払ってしまっても大して困らない。却ってすっきりするだろう。
 ではあるが、インターネット検索しても探し出せない、どれかの本のどこかのほんの1〜2行を必要とするときが来ないとも限らない。
 それと、自分のものになった本はやはりかわいい。
 そんなわけで、処分出来ずに手に入れた本は全て残している。
 実は、本を残すもう少し違う無様な理由もあるのだが、取りあえずこういうことにしておく。
 そして、私の体はいつあの世へ召されても不思議がないほどあちこち壊れているのだが、死ぬまでにはもう少し時間があるようで、生きている間は本を読むつもりだからこれからも本は増え続ける。
 残りの人生、いろいろ悩みがあるが本の置き場所と処分は抜き差しならない問題である。

 さて、私の蔵書がどれほどまとまりがないか、ここでその実態を具体的に見てもらおう。
 と言っても、全てを挙げることはできっこないので、トイレにある本棚、それも2段分だけを列挙する。
なぜトイレの本棚の、しかもある部分だけかというと、ほかのところにある本棚より本棚の前が広く写真を撮ったり記録するのに都合がよいから。それと、5段全部を記録するのは労力と資源の無駄遣いであり、何より面倒くさいからにほかならない。
 と、ここで問題発生。
 本棚に並んでいる本を見ると、その所有者の頭の中がどうなっているか分かってしまうと言うやつが私の周りに何人もいることを思い出した。
 やつらに言わせれば、自分の本棚にどんな本が並んでいるか公開するなんて、自身のお寒い脳の中身をあられもなく公衆の面前にさらけ出すいとも恥ずべき行為だ、ということになる。
 それはまずい。
 できれば避けたい。
 ではあるが、蔵書のほんの一部をバラすだけじゃないか、とも思う。
 ことここに至ったからにはやむを得ない。後は血となれ肉となれ!
 それでは、本の背に印刷されている書名・著者名・発行元を真ん中の棚の右端から左へ順に挙げて行く。

・大和屋竺ダイナマイト傑作選「荒野のダッチワイフ」
・「自然のことのは」ネイチャー・プロ編集室 幻冬舎
・「幕末暗殺」黒鉄ヒロシ PHP
・「チャペックの本棚」ヨゼフ・チャペックの装丁デザイン PIE BOOKS
・「味こごと歳時記」高橋治 角川書店
・「北の家族」時田則雄 家の光協会
・NHK「夢用絵の具」心を染めた色の物語 中村結美 夢用絵の具プロジェクト 駿台曜曜社
・「藤原悪魔」藤原新也 文藝春秋
・新宿中村屋「相馬黒光」宇佐美承 集英社
・「部長の大晩年」城山三郎 朝日新聞社
・「天下御免」高橋喜平、延清、克彦、太田祖電ら一族 日貿出版社
・「男が変わる帽子術」出石尚三 講談社
・「僕のヒコーキ雲」日記1994−1997 辻仁成 集英社
・「マティス 色彩の交響楽」グザヴィエ・ジラール著 高階秀爾監修 創元社
・「青空の指きり」恩田皓 河出書房新社
・句集「蛍」ねむらぬことば 西条真紀 手帖社
・「短歌という爆弾」 今すぐ歌人になりたいあなたのために 穂村弘 小学館
・ボリス・ヴィアン全集6「心臓抜き」滝田文彦 早川書房
・「高柳重信」夏石番矢編・著 蝸牛俳句文庫13
・「自然手帳 上」平凡社ライブラリー
・「ローマングラス」松永伍一著 二重作曄 写真 
・百分の一科事典「サクラ」スタジオ・ニッポニカ 右手に「知識」左手に「勇気」 小学館文庫
・「花迷宮」久世光彦 新潮文庫
・「知恵ある人は山奥に住む」高橋義夫 集英社文庫
・「骨壺の話」水上勉 集英社文庫
・「さくら路(みち)」宮島康彦 集英社文庫
・浅田次郎「活動写真の女」双葉文庫
・「永井荷風の昭和」半藤一利 文春文庫
・「俳優のノート」山崎努
・「撮影現場」リウ・ミセキ KKベストセラーズ
・「語りかける花」志村ふくみ
・随筆集「雪舞い」立原正秋 世界文化社

 次はその下の棚、これも右端から順に。

・戦後50周年記念写真展「土門拳の日本」1995
・「野花を生ける」しろうとの茶花 秦秀雄 神無書房
・「おしゃれなテーブルセッティング」ベリ・ウルフマン著 フタガワアキコ編 PARCO出版
・松田正平画文集「風の吹くまま」理屈抜きの絵 待望の初出版 求龍堂
・森の休日3「調べて楽しむ葉っぱ博物館」写真 亀田龍吉 文 多田多恵子 山と渓谷社
・「毎日書道講座9 篆刻」毎日新聞社
・墨「篆刻の鑑賞と実践」芸術新聞社
・「鳴海要陶芸展図録」
・「書道講座6篆刻」西川寧編 二玄社
・「ご縁あって」俊めいがたり 心の中に花が咲くように。 渡辺俊明 春陽堂
・「北の中世 津軽・北海道」監修…網野善彦+石井進+福田豊彦 編…菊池徹夫+福田豊彦 平凡社
・「茶懐石」辻留 辻嘉一 婦人画報社
・「A HORSE」黒鉄ヒロシ 競馬手帳社
・「古田織部」桃山の茶碗に前衛を見た 勅使河原宏 NHK出版
・「清張 古代史記」松本清張 日本放送出版協会
・「死ぬまでの僅かな時間」井沢元彦 双葉社
・「空の名前」写真・文 高橋健司 光琳社出版
・「守宮薄緑」花村萬月 新潮社
・「昏睡のパラダイス」加藤治郎
・「風姿抄」白洲正子 世界文化社
・「北のまほろば」街道をゆく四十一 司馬遼太郎 朝日新聞社
・平岡正明「オン・エア/耳の快楽」 毎日新聞社
・「平成幸福音頭(へいせいしあわせおんど)」藤原新也 文藝春秋
・「質問」田中未知 アスペクト
・「開高先生と、オーパ!旅の特別料理」谷口博之 集英社
・わたし歳時記「花なら桜」阿木燿子 青春出版
・「芭蕉の道ひとり旅」イギリス女性のおくのほそ道 レズリー・ダウナー 高瀬素子訳
・「MILS マイルス・デイビス自叙伝´◆廛泪ぅ襯后Ε妊ぅ咼后.インシー・トループ著 JIG

 持っている本のほとんどは読んだつもりだが、どんな内容であるか今も覚えているのはこの中に何冊もない。読んだ端から忘れていくのが私だ。
 買った記憶さえないものもある。
 ともかく、この本棚の本から推測される以前の私の脳内は、何とも奇っ怪で、ヤタラにごちゃごちゃしている。
 ん?、今の私の頭はどうかって?
 がらんどうさ、本ト。


※この原稿は、同人誌「文ノ楽」のために書かれたものです。
P916166602本棚  
Posted by musan8 at 2019年12月11日 13:00Comments(0)

志賀潔と「風貌」 の巻

P1014927志賀潔03 忘れようにも忘れられない写真がある。
 20年前に本屋で立ち見した土門拳の写真集「風貌」の中の一枚。
 今もそのモノクロ写真をくっきりと頭の中に思い浮かべることができる。
 鼻下に半白のひげを蓄えた、丸顔で額が遠い何やらおもしろそうなお爺ちゃんの顔が画面いっぱいに写っていた。
 赤痢菌を発見した世界的細菌学者・志賀潔博士である。
 昭和24年に写真家土門拳が宮城県亘理郡にあった博士の自宅で撮影したもの。
 写真の博士は真ん丸の眼鏡をかけているのだが、フレーム右側が白い絆創膏でぐるりと補修されいて、私はその異様さに一瞬にして魅せられてしまった。
 くちびるをわずかに引き締めながら微笑む博士はどこかいたずらっ子風であり、何やら恥ずかしそうでもあり、温かみのある何とも言えないポートレートになっている。
 高名な医学者にして文化勲章受章者であるのだから、眼鏡なんかいくらでも買えそうだがどうしてこの眼鏡をして写真におさまったのだろう。
 土門が「障子紙の代わりに新聞紙を使って」おり、「随分貧しい暮らしのように見受けられた」と書いているので何か特別な事情があったのかもしれない。
 第一級の写真家土門拳が撮るのだから、雑誌や本に発表されることはあらかじめ説明されていたに違いない。ではあるが、別に悪いことをしているわけではないからと飾ることなく、悪びれずありのまま写真におさまったものと思われる。
 私に言わせれば、そこが志賀潔という人の大きさであり、それを構うことなく撮ったところに土門の目の確かさがある。

 ところで、この写真を思い出すたびに思い出すことがある。
 何かの本で読んだ「日本的心で数学をやっている」という数学者・岡潔のこと。
 志賀博士と岡博士の容貌は似ても似つかない。
 それなのに私は、この土門の撮った傑作の主は岡博士であると勘違いしてしまうのだ。
 一体全体、この奇妙な混同はどこからどう来るのだろう。
 「シガキヨシ」「オカキヨシ」と名前が似ているからか。
 それとも、私が認知症になっているからか。
  
Posted by musan8 at 2019年06月03日 10:12Comments(0)

帆風美術館をたずねて

ヒイラギナンテン02

 帆風美術館をご存じだろうか。
 私や私の周りの人たちは「ばんふうびじゅつかん」と呼んでいるのだが、図録の英語表記は「VAnfu museum of art」になっている。
 「BAnfu」じゃなく「VAnfu 」だから、「帆風」は「ヴァンフー」とこだわって読むべきかもしれない。
 この美術館、東京に本拠を構え、企画、デザイン、印刷、画像処理などを業務とする株式会社帆風が「企業の最終目的は社会貢献である」という理念のもとに、お世話になったという八戸市へ設立した。
 八戸市北インター工業団地の森に佇むこの美術館、小さいけれど並の美術館ではない。
 主に江戸期の日本画を展示しているのだが、全て複製画なのだ。
 不思議なというか、おもしろいというか、こだわりのというか、どう形容すればいいか少し困る美術館でもある。
 展示されているのは「デジタル光筆画」という特殊な技法でつくられた複製。
 複製と言っても和紙は和紙らしく、表装の裂地は布らしく、質感も重なりも緻密に再現されている。
 そして、館内で写真を撮ろうが展示されているものに手を触れようが、傷つけさえしなければ咎められることはない。
 どだい監視員がいないのだ。
 しかも、入場無料である。

 今年(2018年)8月下旬、ネットのブログやホームページでしか見たことのなかったこの一風変わった美術館へ日帰りで行ってきた。
 私の住んでいる蓬田村からだと、自家用車で片道およそ2時間半。
 老人が話し相手もなく一人で行って来るには手ごわいコースだ。
 そこで、昔なじみのジャズプレイヤー、ピアノのローランド・ハナと、バイオリンのステファン・グラッペリ、ハーモニカのトゥーツ・シールマンスをお供に《にぎやかドライブ》としゃれ込んだ。
 とは言っても、三人とも既にこの世にいない。《ひとりっきりのにぎやかドライブ》である。
 実を言うと、車載オーディオの音量を上げ彼等のアルバムを流し続けただけのこと。
 「夢のあとで」(サー・ローランド・ハナ・トリオ)というアルバムと、「ブリンギング・イット・トゥゲザー」(ステファン・グラッペリ&トゥーツ・シールマンス)というアルバム。
 「ブリンギング・イット・トゥゲザー」の6曲目「ユード・ビー・ソー・ナイス・トゥ・カム・ホーム・トゥ」では、トゥーツが達者な口笛も披露している。この曲はヘレン・メリルのセクシー・ボイスで有名になった。TV・CMで使われたことがあるので覚えている日本人も多い。
 ここでの彼等の演奏は重すぎず軽すぎず、しかも洗練されていてロング・ドライブにはもってこいだ。
 私の強力な居眠り予防策である。

 さて、美術館へ行くと言えば絵や書や彫刻、あるいは陶磁器、写真などを見に行くのが普通だが、今回の目的はちょいとずれている。
 館内の絵や書を見てから、この美術館丸ごと全部を題にして川柳を作り、句会をやろうというのだ。
 いわゆる「吟行」というやつである。
 折も折、開館10周年を記念する特別展「国宝重文展」が開催されていた。
 国宝16点、重要文化財51点がこの美術館で居ながらにして見られるという、お得感たっぷりの企画。
 申し添えておくが、誰でも知ってるように国宝も重文も本物はこの世にそれぞれ一点しかない。この美術館に展示されている複製の元になっているのはその本物を正確に撮影したデジタルデータである。
 本物も複製画も経年変化は避けられないが、デジタルデータには経年変化がない。データを取得した時点で時間が止まっている。
 であるから、事故や災害などで不幸にも本物が失われることがあれば、この美術館のデータはその作品の本来の姿を最もよく知ることができる貴重な資料となる。

 今回の吟行を主催したのは八戸市に拠点を置くカモミール句会という少人数のグループ。構えが小さく、発足してからそれ程年数も経っていないが、これまで十和田市現代美術館や種差海岸へ出かけては吟行を開き、あるいは「えんぶり」を見ながら吟行を行うなど意欲的な活動を続けている。
 案内をいただいたとき代表の笹田かなえさんに
 「おもしろい企画だねえ、帆風美術館なんて変わった会場をどうして選んだの?」
と聞いたら、
 「むさしさんが帆風美術館を見たいと言ったからじゃないの」
と言われた。
 そのとき私は何気ない風を装っていたはずだが、「俺、そんなこと言ったっけ?」「あれ?言ったような気がするな」「いつだった?」と頭の中はしどろもどろ(汗)
 もしかしたら、そのうろたえようはかなえさんに見えていたかもしれない。
 私のボケは快調に進行中である。

 ステファンとトゥーツが何度目かの「ヒット・ザ・ロード・ジャック」をセッションしている中、わが愛車グリーン・ドルフィン号は事故に遭うこともなく、午前11時頃ほぼ予定どおり帆風美術館駐車場に到着した。
 グリーン・ドルフィン号というのは、私が何となく密かにそう呼んでいるだけで、妻も知らないことであり、特に意味があるわけでもない。もちろん、ビル・エバンスのアルバム「グリーン・ドルフィン・ストリート」から拝借したわけでもない。強いて言えば車の図体がでかく、色が深い緑色をしていることと関係あるかもしれない。
 車載温度計の外気温表示は26℃。曇り。
 句会のたびに持ち歩く、電子辞書や鉛筆、ハズキルーペなどの入っている黒い鞄を持って車を降りる。
 この夏は気温がぐんぐん上がり、異常なほど真夏日が続いたせいで暑さに対する感覚が鈍くなっているからか、それとも森の中にいるからか、暑がりなのに26℃があまり暑く感じられない。
 何気なく入り口の方を見ると、右側の部屋で手を振る人がいた。
 窓の向こうにいたのは私より遠い弘前市から駆けつけたNさんとSさん。
 その部屋は今回の句会場で、ガラスの嵌まったアルミの引き戸があって直接出入りできるようになっていた。
 しかし、錠が下りている。
 Nさんたちは、美術館の入り口から入ってその部屋にいるのだった。
 ああそうかと美術館入り口の方へ行こうとすると、中にいた八戸市のHさんが私を呼び止めた。そして、まるで予定でもしていたかのように引き戸のロックを解除し「さあ、どうぞ」と私を中へ招き入れた。
 その部屋は大きく、ちょっとした体育館ほどもあって、一角にテーブルが並べられ既に6、7人が席についていた。
 今回の参加者中男性は、Nさん、Sさん、Hさんと私の4人。全員で9人のはずだから半分弱。今や川柳は女性の文芸になった、と陰口をたたかれるのも分からないではない。
 集まった顔ぶれを見ると、私以外は川柳界トップクラスの面々で、おもしろい句会になるのは約束されたようなもの。
 そんなメンバーを集めた笹田かなえさんにあいさつしようと部屋を見回したが、何故かいなかった。
 ま、いいや、まずは腹ごしらえとテーブルにつき、来る途中コンビニで買ったカツサンドとお茶を鞄の中から紙袋ごと取り出す。
 「帆風美術館へとうとう来たぞ」とホッとしながらペットボトルのほうじ茶を飲んでいると、しっとりとした雰囲気の女性が目の前に現れた。
 何と、私にあいさつをするではないか。
 「えんぶり和紙人形」の高橋寛子さんだった。
 「えんぶり」は青森県南部地方に伝わる冬の祭事、「えんぶり和紙人形」は高橋さんオリジナルの作品である。
 高橋さん本人とはこの日初対面だったが、作品は八戸市の目抜き通りにある「八戸ポータルミュージアムはっち」という観光交流施設に常設展示されているので、これまで何度も見て知っていた。
 短い棒のような道具「ジャンギ」を手にした羽織に烏帽子姿の勇壮な人形が、全て和紙で作られている。
 背丈は30センチほど。
 彩色は一切施されていない。それ故に、和紙そのものの風合いと白さが生かされていて、暖かく気高い。照明によって白い紙の肌にできる影がまた味わい深い。
 ポーズの違うものがいくつかあって、それぞれが今にも風を巻き起こし動き出しそうである。
 えんぶりは漢字で書くと「朳」、水田をならす農具「えぶり」に由来し、ならす動作を「摺る」と言う。因みに言うと、私の村ではその農具を「えびり」あるいは「いびり」と呼んでいて、やはり「摺る」と言う。
 高橋さんはこの美術館の評議員をされており、笹田かなえさんとは友達なのだった。
 その関係もあって、この会場を確保できたのかもしれない。
 高橋さんはまもなく帰られ、入れ替わるようにかなえさんが登場。

 腹を満たしてから「国宝重文展」を覗く。
 展示ホールは1階で、それほど広くない。屏風や掛け軸などが所狭しとディスプレイされている。
 俵屋宗達筆・国宝「蓮池水禽図」、池大雅筆・国宝「十便図」、岩佐又兵衛筆・国宝「洛中洛外図屏風(舟木本)」、尾形光琳筆・重文「風神雷神図屏風」、東洲斎写楽筆・重文「市川鰕蔵の竹村定之進」など。
 ほかに、能面や押出仏などの立体もある。
 平面の紙に印刷してから立体に整形したのだろうか。それとも、デコボコの紙に印刷する技術があるのだろうか。
 その辺はよく分からないが、いたずらに常識にとらわれることなく、何事にも果敢に挑戦する強い意思としぶとくしなやかな知性が感じられる。
 そうでなければ、複製専門の美術館など誕生しなかったろう。
 展示されている絵画や書は、近寄ってよく見れば一枚の紙に絵や書と表装が継ぎ目なく印刷されていることが分かる。
 だが、少し離れて「本物です」と言われれば私なんかあっさり信じてしまうほどの精度を持っている。

 写楽の大首絵は掛け軸になっていて、表装の裂地には刺し子が使われていた。
 私にはそれがひどくモダンに見える。
 職員の方に聞くと、表装はこの美術館が独自に考えたものだった。
 私は今刺し子と書いたが、もしかしたらあれは下北出身の民俗学者故田中忠三郎氏の言う「BORO」かもしれない。
 昔の青森の人たちは、長い間使ってすり切れた野良着、肌着、寝具などをいのちあるものとして大事にし、継ぎはぎして更に長く使い続けた。ではあるが、それは恥ずかしいものとされ、決して表舞台に出ることがないものだった。それを田中氏は「BORO」と位置づけ、収集し、公開した。「BORO」は「ぼろきれ」の「襤褸」で氏の造語だろう。
 ツギハギはおしゃれ心以上の思いが込められていると言った氏は、黒澤明監督の映画「夢」に農民の衣裳を提供した人であり、集めた刺し子数百点が国の重要有形民俗文化財に指定されている。
 それにしても、写楽の錦絵に「襤褸」を合わせるとは並のセンスじゃない。

 文豪川端康成が愛蔵していた池大雅の「十便図」は、光がたっぷり射し込む和室の窓際にあった。
 笑い話のようだが、若い頃「十便図」の「便」って何だろう、便所のことかと思って調べたことがある。
 中国、清の時代の文人李漁が山麓の別荘に閑居していたところ、客が「静は静であろうが、不便なことが多いであろう」と言った。李漁はこれに応じて「十便十二宜詩」をつくった。「便(べん)」は便利なこと、「宜(ぎ)」はよいこと。
 この話を元に、池大雅が「十便帖」を、与謝蕪村が「十宜帖」を描き、合作した画帖が「十便十宜図」である。
 「十二宜詩」なのに何故「十宜帖」なのだと思うが、不思議なことに元から「十宜」の詩しかなかったという。謎である。
 今回展示されているのは「十便図」で、木でできた書見台に無造作に置かれていた。
 客がほかにいないのをいいことに畳にあぐらをかき、ページを行きつ戻りつしながらゆるゆると鑑賞する。
 どこの美術館でも美術品の退色には異常なほど気をつかっていて、どちらかというと薄暗いところに置き、更に照明を絞って見せている。
 だから、直射日光の当たるところには決して置かない。息を吹きかけてもだめで、手にとって見るなんてとんでもないこと。
 この美術館の見せ方は誠にありがたい。

 写楽の大首絵はA4くらい、大雅の「十便図」は1枚が私の両手を少し重ねて並べたほどのサイズ。
 屏風が何点もあって、当たり前の話だが原寸大で、印刷物の大きさとしては一般人の常識をはるかに超えている。
 屏風のように大きいものも、「十便図」のように小さいものも全て2億画素のカメラで撮影したという。現在、市販カメラの世界最高画素数がおよそ5000万画素だからとんでもないカメラだ。
 そして、信じられないほどの再現力だ。

 会場を行っては戻り行っては戻りと3回ほど回って、それでもまだ見ていたかったが図録を買い句会場へ。
 この図録、印刷の精度といい造りといいかなり良心的、且つハイレベルである。美術館を運営する印刷業者が造ったのだから当たり前と言えば当たり前だが、儲けは度外視しているようでこの手の図録としてはかなり低価格。
 ついでに、絵はがきも数枚買ってきた。

 句会は、互選方式だった。
 句箋という細長い白い紙が束で用意されていて、その紙1枚に川柳を1句書き、各自10句ずつ提出する。
 集まった句箋を1枚ずつにばらしてランダムに並べ替え、A4専用紙に10句ずつ手分けして書き写す。要するに清記するのだ。
 Aさんが清記したものは誰が作った句でも全てAさんの筆跡であるから、書き文字の特徴で誰の句かばれるということがない。
 清記したもののコピーが全員に配られ、それぞれがいいと思った句を選んで発表し、選んだ人の多い句から話し合っていく。
 次の2句はそのとき私が提出したもの。会場の評価は可もなく不可もなくといったところだった。

 時をこじ開け風神雷神出ておいで
 レプリカのレレレ寒山拾得図

 実は、今回帆風美術館を訪ねるに当たってぜひ見たいと思っていたものがあった。
 鳥羽僧正作といわれる京都高山寺に伝わる絵巻物、国宝「鳥獣戯画」である。
 平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて制作されたもので、蛙、兎、猿などが擬人化され描かれている。
 アニメ映画「火垂るの墓」の監督高畑勲さんに「鳥獣戯画を読む」という一文があって、小学6年生の国語の教科書に絵入りで載っている。だから、子どもたちにも人気があるはずで、きっと展示されていると思った。
 漫画チックであるにもかかわらず品格があって川柳のモチーフにはうってつけ。
 それが、会場をいくら探しても見つからない。
 後期展示で出てくるのか、展示予定がないのか。いずれも聞き漏らした。
 それから、尾形光琳筆「風神雷神図屏風」の裏に描かれた酒井抱一の「夏秋草図屏風」。
 この二つの重文、今は別々の屏風になっているのだが、元のように表と裏に描かれた状態で見たかった。レプリカだからこそそれが可能だと思っていた。実は、それに注意して見るつもりだったが、家に帰ってから失念していたことに気付いた。後日、私が見たかった状態で復元され、しかも会場にあった事が判明。うかつだった。
 また、光琳の重文「風神雷神図屏風」の元になった宗達の国宝「風神雷神図屏風」も見たかった。
 できれば、光琳のものと宗達のものを並べて見たかった。

 欲を言えばきりがない。
 またいつか、今度は絵を見るためだけにゆっくり訪ねてみよう。
 そう言えば、展示されているものがレプリカだということをすっかり忘れて見ていた。
 グリーン・ドルフィン号、また行こうな。



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Posted by musan8 at 2019年01月29日 14:35Comments(0)

しおり の巻

8c612ded.jpg 私は蓬田村に生まれ、ずっとそこに住んでいる。
 村は青森市の北隣にあって、田んぼと山と海しか見るべきものがほとんどない。
 だから、車で30分ほど走り青森市中心部へ行って食料品や身の回りの品を調達する。
 簡単に言えば青森市の経済圏にあるということだろう。
 家にいながらインターネットで何でも買える時代にわざわざ青森市まで買物に行かなくてもいいだろうと思うかもしれないが、状況はまだそこまで進んでいない。
 本ももちろん青森市で買う。
 ネットショップをよく利用する友人に言わせれば、本こそインターネットを利用するべきなんだとか。
 欲しい本はすぐ見つかるし、注文すれば翌日かその次の日には配達されるしで便利この上ないそうだ。
 でも、私はそうはいかない。
 実物をパラパラ開き、少し拾い読みしてみないと買う気にならないのだ。
 だから、青森駅ビル4階に出店していたM書店が今年9月末に店仕舞いすると聞いたときは一抹の寂しさを感じた。
 飲食店がなくなるより、本屋がなくなる方がずっと寂しい。
 おかじょうき川柳社の例月句会へ行った時、あるいは川柳教室で青森駅前の複合施設「アウガ」へ行った時は毎回のように立ち寄っていた。
 電車を利用する人、駅近くに用がある人で本に興味のある人にとって、駅ビルに店があるということは便利この上ない。
 とは言っても、持ち合わせはいつも小銭少々という人間なので、本のほとんどを古本で間に合わせていて、新刊本を扱うM書店ではたまに文庫本を1、2冊買う程度だった。
 本屋の閉店・撤退と言えば、全国チェーンの「ほんらだけ青森店」が一昨年閉店している。あのときも身の回りが薄ら寒くなったように感じた。
 新刊本を扱う本屋も古本を扱う本屋も青森市内にはほかに何店かあるので困ってしまうというわけではないが、馴染みの本屋がなくなるのは寂しい。
 どこの棚にどんな本が並んでいるか知っているということは、ただそれだけでその店に入りやすいのだ。
 そんな訳で、私が今たむろしているのは青森市内の「ブックオフ」2店。
 それと、先日青森市中心部にオープンした小さな古書店。私好みの本が数多く並んでいるので注目している。

 本屋のことばかり長々書いてしまったが、本題は「本屋」ではなく、タイトルにあるとおり「しおり」である。
 「しおり」を広辞苑(第七版)で引くと、
『しおり【栞】シヲリ(「枝折(しおり)」から転じて)^篤癲手引き。入門書。「入学の―」読みかけの書物の間に挟んで目印とする、短冊形の紙片やひも。古くは木片・竹片などでも作った。』
とある。
 これから書こうとしているのは△諒。
 本と言えば、私の読むのは主にエッセイだが、ときどき詩集を読んだり小説を読むこともある。
 詩集だってエッセイだって、小説だって一気に読んでしまえるものはほとんどない。
 だから、どうしてもしおりを必要とする。
 ページの角を折ってどこまで読んだか分かるようにするのを「犬の耳」というらしいが、私はそれが好きになれない。
 若かった頃は本屋がサービスでくれるペラペラした紙のものや、小さな付箋用紙でも何の不自由も感じなかった。
 しかし、次第にそれではつまらないと思うようになった。
 老化とともに意固地になって来たのだろうか。
 そんなわけで、何か機会があるごとに手頃なしおりがないかと目を光らせている。
 文房具屋、雑貨屋ばかりか土産物屋などでも探し、いろいろ買っては使ってきた。本に挟んだままになってどこへ行ったか分からない物もかなりある。
 今、デスク周りにあってすぐ手にすることができるのは数種類。
 黒くて細い革紐の先がオバケのQ太郎の顔になっているものは、友人からプレゼントされたもの。これは邪魔にならなくてなかなか使いやすい。
 檜葉の薄くて小さい長方形の板に太宰治の顔と小説「津軽」のある部分が数行プリントされたものは金木(五所川原市)にある太宰治記念館「斜陽館」向かいの店で買った。
 厚さが2ミリ近くある赤くて硬い革製のやつはCOACH(コーチ)というアメリカ製のブランド物。紐がついていない。上の方に小さな窓が作られていて、私はそこに棟方志功の絵を入れている。とは言っても、観音様の顔の部分を版画展のチラシから切り抜いたものである。これは、随分昔仕事で上京した際に銀座直営店で買ったような気がする。 
 そして、POSTALCOの革製しおり。これは弘前市にある小さな雑貨店で買った。POSTALCO(ポスタルコ)とは、デザイナー、マイク・エーブルソンとパートナーのエーブルソン友理が立ち上げた文房具やバッグを中心とするブランドだとインターネットのホームページに載っている。青と茶色に染められた柔らかい2種類の革を組み合わせたもので、不思議な雰囲気がある。
 オバQのしおりはいただき物だから値段が全く分からない。コーチのものは古すぎていくらで買ったか記憶がない。檜葉のしおりは千円位だったはずで、ポスタルコのやつは2千円と少し。
 古書は少しでも日に焼けていたりするとハードカバーが一冊百円で買えたりするので、たぶん、どのしおりもそれより高い。
 雑用紙の切れっ端や本屋のおまけで間に合わせていれば古本が何冊も買えるのだが、生憎私にはそれができない。
 ところで、紐状のもの、檜葉の板のもの、コーチの革製、ポスタルコの革製、この4つの中でどうしようもなく気に入っているものを上げろと言われれば、残念だがないと言わざるを得ない。
 手に持った感じがしっくりこないとか、軽すぎるとか厚すぎるとか原因はいろいろで、この本にはコーチ、このノートにはポスタルコ、この詩集には檜葉の板などと気分によって使い分けている。
 簡単に言えば、どれもイマイチなのだ。
 ところが、お気に入りのものが最近手元に転がり込んできた。
 驚くなかれ、サービスでもらった。
 青森市中心部にあるビルの1階に先日オープンした古書店で、安野光雅絵・杉本秀太郎文の「花」(岩崎美術社)と、洲之内徹の「さらば気まぐれ美術館」(新潮社)、加藤晴之著「蕎麦打」(ちくま文庫)をレジに持って行ったら、主人が文庫本にそっと挟んでくれたのだ。
 薄くて何てことのない普通のヌメ革。幅は2センチ5ミリ、長さ10センチ。紐を通す穴が上にあって、その両側が斜めに切り落とされ、穴には艶のある茶色の紐が結ばれている。紐は合成皮革で、長さが5センチほど。店の名前が中央下にアルファベットで刻印されている。
 このしおり、サイズといい厚みといい硬さも手触りも今の私には文句のつけようがない。
 染色されていないヌメ革だから、年々色が変化して行くので、それが楽しみ。ちょっと素っ気ないところがまたいい。
 店主は何も言わなかったが、もしかしたら開店記念の品かもしれない。
 「定休日はいつですか」と聞いたら「前の店は3年間1日も休んだことがありません。この店もそうなるかと思います」と気負うことなく普通に言った。
 今どきこんな店があるなんてなあ。
 生きていればたまにはいいことがあるものだ。


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Posted by musan8 at 2018年10月14日 14:43Comments(0)

りんごの花びらはブルースに の巻

6961f944.jpg 二〇〇八年九月二十八日
 私は喪服を着て数珠を持ち、自家用車を運転して神妙に家を出た。
 薄曇りの日曜の朝だった。
 集合場所はJR津軽線を駅二つ南へ行った後潟駅の近く、茅葺き屋根をトタンで覆った大きな家。
 映画「ウルトラミラクルラブストーリー」の撮影現場である。
 脚本・監督は青森市出身の横浜聡子、主演はむつ市出身の松山ケンイチ。私は、主人公陽人(ようじん)の近所に住むおじさん役でエキストラを頼まれていた。
 その日の撮影は、若くして亡くなった陽人の葬儀という設定。
 奥の間の襖を外して祭壇が飾られ、村人や関係者役の数人が祭壇前に並べられた座卓を囲み歓談している。
 私の右が一番の上席で、剃髪し法衣をまとった本職の若い坊さんがひとりだけ入口を向いて正座している。彼もエキストラ。私の向かい側の左端、つまり一番末席に藤田弓子がいて、私の左には喪服姿の原田芳雄がいた。
 卓上の料理は近所のおばちゃんたちが用意したもの。マグロ、イカ、ホタテなどの刺身が盛られた大皿と、茄子とキュウリの漬け物、豚汁、更にご飯もある。
 ところどころにビールの大瓶と大きさも形もばらばらな徳利が立っていた。
 原田は陽人の主治医役。生のホタテのヒモが気に入ったようで「うまい」と何度も小皿に取り、しゃきしゃきコリコリと食べる。
 原田が席に着く前のリハーサルで「原田さんは津軽弁が分かりませんが、津軽弁で何でもどんどん話しかけてください」と監督に言われていた。
 しかし、相手は数々の賞に輝いてきた近寄りがたいほどの名優であり、私は言わば背景に過ぎない一介のエキストラ。初対面で、しかもアドリブでこっちからあれこれ話しかけろと言われても難しい相談だ。
 実は、原田出演の映画を私は一本も観ていなかった。代わりと言っては何だが、彼が唄う「ミッドナイトブルース」の入ったCDを持っていて、それまで何度となく聴いている。
 だから、私にとって原田芳雄は映画俳優というより名うてのブルースシンガーである。
 幸運にも隣に座ることができ、監督が何でも話せと言うのだからこの時とばかりにツラの皮を厚くしてブルースがどうのこうのと語りかけても何の支障もなかった。
 ではあるが、実際は面の皮も大したことがなく、場所も場所だけにそれができない。
 徳利に入っている酒の代わりのぬるま湯を「さあ先生」と何度も何度も注ぐばかり。
 あれから九年が過ぎた。
 あの時ブルースのことを話しかけていればどうなっていただろうと今更のように思う。

 原田は、その年の十一月に大腸がんの手術を受け、三年後に他界している。
 私の隣で美味そうにホタテのヒモを食べていたあの時すでにがんと闘っていたはずで体調はかなり悪かったと思われる。
 だが、そんな様子は微塵も感じられなかった。新鮮な刺身をじっくり味わい楽しんでいるようだったが、あれは演技だったか。

 「リンゴ追分」という歌がある。美空ひばりの持ち歌であるが、ユーチューブにアップされている原田芳雄の唄がいい。
 2002年8月にTBSアナウンサー林美雄のお別れの会で収録されたもの。
 原田は無伴奏で唄い始める。

 ♫りんご― 花びぃらが〜 風に散ったよな 月夜に月夜にそっと えーえーえー うぉおおお え〜 津軽娘は泣いたとさ つらい別れを泣いたとさ りんごの花びらが〜 風に散ったよな えええ

 唄い方、曲のくずし方に度肝を抜かれる。
 訥々と語る悼辞を挟んで後半はギターの弾き語り。

 ♫もののはずみで生まれつき もののはずみで生きて来た そんなセリフの裏にある言葉のからくり落とし穴 ああああ 一番星出るころ俺の心に風が吹く 津軽娘は泣いたとさ つらい別れを泣いたとさ りんごの花びぃらが 風に風に散ったよな うぉおお〜うぉおお〜

 絶唱である。
 りんごの花びらはブルースになった。


*この原稿は、青森ペンクラブ会誌「北の邊」2018年 第21号のため書かれたものです。
*文章と写真は互いに関係がありません。
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Posted by musan8 at 2018年07月13日 09:57Comments(0)

たわごとの木 の巻

e90e3d5b.jpg 人の背丈程の高さで幹の曲がりくねった一本の木が、スペード形の葉をびっしり茂らせ風もないのに微かに揺れている。
 私が「たわごとの木」と呼ぶその木は、一個ずつ色も形も違う拳のような実をつけ、私の心の中にひっそりと立っていた。

 「変な体調」が続いている。
 身体のあちこちが変で、その「変」がラグビーのルーズ・スクラムみたいに集まると「変な体調」になる。
 「変な体調」の第一は酒に弱くなったこと、というか酔っぱらいやすくなったこと。
 そのことに気づいてからもう数年になる。
 大して多く飲んでもいないのに酔っぱらってしまうばかりか、どこでも眠り込んでしまうようになった。
 無職の身になって十年近くなるが、所用があり毎月何度か青森市へ出かける。句会とか打合せとかお祝いの会とか様々で、懇親会を伴うことが多い。
 懇親会があってもアルコール類を口にしなければ何の問題も起きないはずだが、そうは行かない。
 私にとって懇親会と飲み会は同義語だから、懇親会には欠かさず参加する。
 日本酒もワインも美味いし、ビールも美味い。
 独特の苦味と旨味がある黒の生ビールがあったりすれば、私の中に住む別のワタシまでしゃしゃり出てぐいぐい飲んでしまう。そうすると、酔っ払いの度を示すメーターがもしあるとすれば、その針が振り切れてしまう程酔ってその日は正常に帰宅できるかどうか自分でも分からない。
 私は青森市の北隣の蓬田村で生まれ、これまで七十年程その半農半漁の村で生きてきた。
 言わずと知れた過疎の村だがJR津軽線と国道二八〇号線が並行するように南北に走り抜け、小さい村ではあるが駅が四つある。
 わが家と接触しても不思議じゃない程近くを電車が走り、巨大ゴミ箱に過ぎない書斎の窓から腕を伸ばせばすぐ手の届きそうなところに蓬田駅がある。
 だから、飲み会のセットされた所用が青森市内である場合は蓬田駅から電車に乗って青森駅まで行き、逆コースで帰って来る。
 自家用車で行って酒を飲んでしまえば当然のことだが運転して帰ることができないし、二十キロしか離れていない青森市に泊まる気にもなれない。
 酔えば眠り込むようになったということはいくら能天気な私でも自覚していて、近年はなるべく早い時間に帰路につくよう心がけている。
 そして、「家に着くまでは決して眠らない」と固く心に誓いながら青森駅6番ホームの電車に乗る。
 津軽線はねぶた祭りや花火大会などの特別な日以外はたいてい空いていて、いつも座れる。
 青森駅から七つ目の駅が蓬田駅、電車でおよそ三十分である。快速電車なんて気の利いたものはない。
 青森駅の次の油川駅に差し掛かる頃になると、電車特有のレールを走る車輪の音が「決して眠らない」と心に決めてからまだ数分しか経っていない私をいとも簡単に眠りの世界へと引きずり込む。
 「眠らない眠らない」とどんなに頑張っても無駄で、いつの間にか「夢の國」のふかふかしたベッドへ気持よく五体を横たえていて、ハッと気がつけば十中八九は後の祭り、すでに蓬田駅を通過している。
 そんなことが嘘のようにままある。
 最終電車で乗り越すと、降りた駅から蓬田駅へ戻る電車も、蓬田駅から三つ向こうの、駅前にタクシーがいる蟹田駅へ行く電車も次の日の始発まではない。
 乗り越したらさっさとタクシーを呼んで帰宅すればいいのだが、年金生活者であるからそんな無駄なことはどうにか避けたい。
 そもそも、なるべく金を掛けたくないから電車で出かけ電車で帰るのだ。
 そして、ド・田舎の駅では決してタクシーが待っていてくれないし、酔っぱらった股関節の悪い老人が一駅とか二駅とか歩けるはずもない。
 眠さと酔いで朦朧としながらも自分の馬鹿さ加減に愕然としている私が、私の中で怒りを煮えたぎらせているもう一人のワタシを懸命になだめ、しかる後に懐具合を確かめてからやっぱりタクシーへ電話する、ということに相なる。

 「変な体調」の第二は夜中に何度も目が覚めてしまうことで、これは寝不足に直結し大いに困っている。
 原因はいくつもあって、まず1つは膀胱が満杯になりやすくなったこと。
 膀胱が満杯になれば脳から「小水を排出しなさい」と命令が出され、私はその命令に決して逆らうことができない。
 尿瓶を用意して寝るわけではないので、どんなに眠くても起きて、股関節の痛みを我慢しながらできるだけ急いで階段を降り一階のトイレまで行くことになる。
 戻る時は二階までゆっくり階段を上るのだが、その時の股関節の痛みが降りる時をはるかに上回るのは言うまでもない。
 膀胱が満杯になりやすくなった原因は「老化」による膀胱容積の変化と「晩酌のビール」にあると睨んでいる。
 「老化」はもうどうしようもないから「晩酌」をどうにかすればいいのだろうが、晩酌、特にビールはそれが楽しみで生きいるようなものだからやめるわけにはいかない。( ※ 晩酌に飲んでいるのは正しくはビールではありません。ビールの半額くらいの「第3のビール」とか言われるものです。「ビール」と書かないと恰好つかないものですから、スイマセン。)
 夜中に目が覚める原因に股関節の痛みというものもある。
 数年前、庭木の雪囲いをしていたらどうしたものか梯子から足を踏み外し一・五メートル程下の地面にまるでゴミの塊りのように無様に落ちた。
 若い頃なら体操選手よろしく見事に着地してみせたものを、何しろ高齢なものだから落ちたことに驚いてばかりで両足を突っ張り着地失敗。
 強い衝撃がもろに股関節へ来た。
 あまりの痛さにどうすればいいか分からなくて地面の上にしばらく転がっていた。
 次の日になっても痛くて歩くのがやっとだったので青森市内のとある整形外科医で診てもらうと「右股関節が変形していますね」と腰のレントゲン写真が表示されたパソコンのディスプレイを見ながら院長である医師がさっぱりしたように元気よく言った。(こんな場合、元気に言うべきなのかな…。)
 ディスプレイを脇から覗いたら右大腿骨の付け根が左大腿骨の付け根より少し内側に食い込んでいて、左右の状態が違う。
 「右股関節が変形していますね」だなんて、そうなった原因がはっきり分かっていて、尚且つそこが痛くて来たんだから、そんなことド・素人でも分かるだろうにと思ったが黙っていた。
 2種類の痛み止め、つまり、飲み薬と貼り薬が処方されたが、それで変になった股関節が治るはずはない。
 「我慢していればそのうち治る」、あるいは「自己回復力でどうにかしなさい」と言わんばかり。とりあえず、痛みをごまかしておこうという考えだろう。
 (現在も原因はそのまま股関節に存在し、最初の頃より痛みは和らいでいるもののなくなることはなく、鎮痛剤の効果が薄れたり切れたりすると私の大事な眠りを妨げる。)
 医師は、もっと痛くなれば患部に直接鎮痛剤を注射する、とか、我慢できないようになれば手術する、などと澄まし顔で自らを納得させるように言った。
 私より少しだけ若そうなその医師の言い方はどこか軽くてどこか不気味で、その病院へはそれきり行っていない。
 帰り際に「なるべく歩かない方がいい」と言われたのを覚えている。
 鎮痛剤を飲むと胃の具合が悪くなるので胃薬を一緒に処方する医師もいるが、その医師は胃薬を処方しなかった。
 おかげで胃の具合がやたら悪くなったが鎮痛剤を飲まない訳にはいかない。飲まないと呪いたくなるような痛みがぶり返した。
 漫画にすれば、まじめな「胃のチョーシ君」とわがままな「股関節のイタミさん」が弥次郎兵衛様の腕の両端にそれぞれぶら下がり、互いに「さあどっちだ」と睨み合いながらぶらんぶらんしている、そんな絵柄だろう。
 今は、別の病院で別の鎮痛剤を処方してもらっている。
 鎮痛剤に関しては、後日次のような報道があった。
 《厚生労働省が、解熱鎮痛薬「ロキソプロフェンナトリウム水和物」の使用上の注意について「重大な副作用」の項目に「小腸・大腸の狭窄・閉塞」を追記するよう、改訂指示を出した。》
 固くてどこか役所っぽく読みづらい文章ですね。こういうのはなかなか書けない。
 「ロキソプロフェンナトリウム水和物」というのは「ロキソニン」の名で知られる痛み止めの薬。私も以前何かの時に何度か飲んだ記憶がある。
 幸い私が現在服用しているのはロキソニンではない。
 私は大腸がんの経験者であるから腸への副作用なんて何としても御免被りたい。
 それにしてもロキソニンめ…、名前が「アソビニン」とか「ゲシュニン」や「コヤクニン」みたいで悪人風なのに、胃の具合を悪くするばかりか腸閉塞まで引き起こすとは恐れ入った。
 夜中に目が覚める3つ目の原因は小用ならぬ大用で、これは大腸がん手術の後遺症である。
 私は平成十八年に大腸がんの手術を受け直腸を二十センチ切り取られた。
 執刀医によると、手術により短くなった腸は決して回復することがない。しかも、短くなったがために排便が定期的でなくなるばかりか、便秘と下痢をいつまでも繰り返すといい、事実その通りになった。便秘と下痢の周期は状況によって変わる。
 便秘も苦しいが、手術の後遺症の下痢は夜中だろうと日中だろうといつでも勝手に何度もやって来るので苦しい上に疲れてしまう。
 がんのために命を落としてしまうより遥かにましだとは思うが、これはこれで経験者でなければ分からない苦しさがある。
 夜中に目が覚める原因その4は足で、これは今夏初めての経験。
 やませがやたらに長く続いて暑くない夏だったからだろうか。
 具体的に書くと次のようになる。
 夏にしてはそれ程暑くないのでタオルケットを着て寝る → しばらくすると暑くなる → 暑くて我慢できなくなってタオルケットの裾から足を出す → 足の先が雪女の胸に抱かれているような感じになり具合が誠によくない → 足をタオルケットの中に引っ込める → しばらくするとまた暑くなるので更にまた足を出す
 足を出したり引っ込めたりは最初無意識にやっているが、何度もやるので目が覚めてしまう。
 夜中に目が覚める5つ目の原因はイビキ。
 私はとんでもなく大きい音のイビキをかく、らしいが、自分のかいているイビキは自分に聞こえるものではない。
 それはそうだが、時々「ガガッ」という変に大きい音のイビキが喉の奥へ割りたての薪のようにつっかえ、呼吸が瞬間的に止まって目が覚める。
 イビキの主な要因は飲酒で、大酒を飲んで寝ると特に激しいらしいが、酒は前に書いたとおりやめられない。
 夜中に目が覚める次の原因は「川柳」である。
 川柳を始めて二十年を超えたが、句というものはなかなかできるものではなく、私だけのことかもしれないが句会・大会当日の朝になっても提出すべき句数の半分もできていないなんてことは珍しくない。
 その為かどうか、私の中にいる肝っ玉の小さいもう一人のワタシが句会や大会の近づくたびに真夜中だろうが朝方だろうが私が眠っているにもかかわらず勝手に起きて宿題の句を作り始める。
 内緒だが、もう一人のワタシの方が私よりどこかちゃんとしているような気がしないでもない。
 もう一人のワタシが作った句は、書いておかなければ起きた時誰も覚えていない。
 だから、枕元には紙と鉛筆がいつも置かれていて、私はワタシの作った句をできると同時にメモする。
 この、任意の時刻に眠りを中断して目を開き、枕元の電灯を点け、鉛筆と紙ばさみを手に上を向いてメモするという作業は実に困難な作業である。
 それを素早く確実にこなすには勇気、根気、狂気などの気力を著しく必要とし、できるようになるまで数年かかった。
 ところが、朝になってそのメモを見ると落胆もはなはだしい。すばらしい句をメモしたはずなのに、書かれた文字もそれなりに読めるのに、どれもこれも意味不明で全く句になっていない。
 それでも私の中のもう一人のワタシが「必ずメモしろ」と口うるさく言うので、万に一つも意味のある句はないのになどとぶつぶつ言いながら私はワタシの句をメモしている。
 今は意味不明でも、それは今の私の理解力が低レベルなだけで、数か月後、数年後に突然「あ!そうか」と分かることがあるかもしれない。
 現在、その呪文のような文字列は分解されて別の句を作る際のヒントに使われたりしている。

 そんな訳で、私の眠りは情けない程に分断されていて、ここ数年「よく眠れた」と思ったことは一度もない。
 だから、「老人みたいだ」と配偶者にさげすまれても「私はちゃんとした老人です」などと悪態をつきながら睡眠時間確保のためやたらに早く床へ就く。
 酒に酔いやすくなったのは、眠りがこんな状態になって体調に複雑に作用しているからかもしれない。

 「変な体調」の第三は、目の具合である。
 数年前から、本を読んでいると字が見えづらくなった。
 パソコンのディスプレイを見ていても同じ現象が起こる。
 本を読みたいし、パソコンを使って資料や原稿を作らなければならない生活をしているので、これも実に困る。
 今のところ、見えづらくなれば目を使うのをやめるしか対処法がない。
 しばらく眠れば回復するのだが、いつでもどこでも眠れる訳ではない。
 飛蚊症があるから、それが原因かと思っていたが別の原因があるらしい。今年の住民健診で、眼底検査の結果が「要精密検査」と出た。
 保健師の説明によれば白内障が始まっているかもしれないという。なる程と思う。
 近いうちに眼科医へ行ってみなければなるまい。

 「変な体調」の第四は、歯だ。
 数年前、上の奥歯が左右数本ずつ抜け落ちた。
 その時、何で上の歯なんだろうと思った。
 私の出した結論は、地球には重力というものがあって、上顎の歯は下向きに生えているのでりんごが地面に落ちるように下に、つまり、落ちる方向にその重力が働くからというもの。
 重力は、下顎にあって上向きに生えている歯には上から押さえつけるように、つまり、落ちないように働いているはずだと思うが、たぶん間違っているだろうな…。
 歯の抜けた直接の本当の原因は歯周病だったと思う。
 歯医者へ行かなかったのでよく分からないが、歯周病の原因は喫煙だろう。
 たばこは十八歳から(内緒)五十年近く喫い続けたが、喉頭がんになったのでやめた。
 青森県立中央病院耳鼻咽喉科の担当医に「あなたの喉頭がんの原因は喫煙しか考えられません。今回は放射線照射療法ですが、再発すれば手術しなければならなく、手術をすれば声帯を失うことになります。そうすると自力で声を出すことができません。会話は機械を使って声を出すか、手話か筆談になります。」と言われたからである。
 たばこはやめても抜けた歯は戻ってこなかった。
 たかが数本の歯を失っただけじゃないかと思われるかもしれないが、食べ物が噛みづらくなったので食うことが億劫になり流動食(酒類のこと)に頼りがちになった。
 これも体調に影響していると思う。
 残った歯はゆるんで、出っ歯になった。

 身体の変調は外にいくつもあるが、書くのが面倒である。
 五十代に入ってから自然気胸の手術を受け、その数年後には大腸がんの手術を受け、六十代になって喉頭がんの放射線治療も受けてと傷痕がいくつもある身体だから変なことが起こっても何の不思議もない。
 私の中に住む別のワタシが、股関節の手術を受けなさい、歯医者へ行って歯を入れなさい、晩酌はやめなさいと小賢し気に言っているがそう簡単に行くものでもない。
 そんな悩み多き老年の顔をまじまじと見ていた配偶者が
「それって老年期じゃないの?」
と、至極あっさり言った。
 更年期ならぬ老年期か、当たっているかもしれない。

 たわごとの木は私の心に根を張って生きるためのエネルギーを吸い上げている。それなのに、私が体調不良であることも、老化が激しくなっていることも何の影響もないように元気である。であるが、季節に関係なく生らせる実がこの頃徐々に肥大化し形も少しいびつになって色がくすんで来ているようだ。
 もしかしたら、そう感じるのも老年期のせいかもしれない。


 *この文章は、同人誌「文ノ楽 17」用に書かれ掲載されたものです。
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Posted by musan8 at 2018年03月20日 21:18Comments(2)

机上のモノたち の巻

4b014239.jpg 私が使っている机は事務用の机として作られたものではない。
 刑務所で受刑者が作った食卓である。
 なぜ刑務所作業製品の食卓を使っているかと言えば、もちろんそれなりに安いからである。
 そして、実に頑丈だからである。
 普通の事務机と比べて天板がやたらに厚くやたらに広い。
 天板も脚も集成材だからかなり重い。
 大きくて部屋の入口から入れることができなかったので、天気のよい日に一旦屋根に上げ窓を全部取り払ってそこから入れた。
 トラックの荷台から屋根に上げるのも、窓から部屋に入れるのも若者が4人掛かりでやっとやったという記憶がある。
 
 今回の話は、その広くて重い机のことではない。
 机の上のこと。
 私の机は一見普通の机より広いとは感じられない。
 何故かというと、所狭しとたくさんの物が載っているからだ。
 机が、「重いじゃないか!」と激しく文句を言いそうなほど何だかんだ載っかっている。
 パソコン・セットしかなかったらどんなに広々としてさっぱりするだろうと思う。
 ではあるが、私の性格と関係あるのかないのか片付けても片付けても次々物がやって来てすぐにすき間が埋められてしまう。
 実は、机の上ばかりじゃなく、机のある書斎代わりの八畳の部屋も物だらけ。
 巨大ゴミ箱に机が置かれていると言った方が分かりやすいだろう。
 もしかしたら、巨大ゴミ箱の中で椅子に座ったまま眠ったりしている私もゴミかもしれない。
 差し詰め生ゴミと言ったところか。

 机の上に物がいくつ載っているのかこれまで数えたことがない。数えようとも思わない。
 とにかく多過ぎるのだ。
 でも、むさしがどんな机であんなバカな川柳や文章を書いているのかと興味のある方がこの世のどこかにいるかもしれないので少しだけ紹介することにする。
 まず、パソコン。机の上の一番いい場所で一番大きい面積を占めている。
 ノートパソコンではなく、れっきとしたデスクトップ・パソコン。
 ディスプレイの上には棚が設えられていて、棚の上には安物のインクジェット・プリンターが鎮座ましましている。
 川柳や文章を作るのはほとんどこのパソコンでやるのだが、たまに鉛筆やボールペン、あるいは筆で何かを書くこともある。
 そのためのスペース、つまり手作業のできるスペースということだが、それはキーボードの手前に置いたA4サイズのカッターマットの上しかない。
 パソコンとキーボードの間にも物が置かれている。
 左から順に挙げれば、まず直径7〜8センチほどのガラスのシャーレがある。
 それにはダブル・クリップやゼム・クリップなどが入っている。
 シャーレの上にはメンディングテープがあって、更にその上に右手の形をした大きなクリップがある。
 この月光荘のクリップは、買ったはいいがはどう使えばいいか分からないので今のところ単なる置物に過ぎない。
 その右にあるのは、首の置物。
 函館のギャラリー村岡というところでずいぶん昔に買った。3センチ角ほどの大理石のような石の台座に高さおよそ5センチの金属製の頭が接着剤でくっつけられている。
 真鍮だろうか、鼻が大きく口をぎゅっと引き結んでいて、何となく威厳がありそうな顔。
 買ったときは光っていたのだが今は黒ずんでしまった。黒ずんでいる方が光っているよりはいいように思うがどうだろう。
 その右には物が二つある。
 手前は木製の小さなカッターにセットされたメンディングテープ。
 その奥にはモンブランのボトル・インク。
 ブルーなのかブルー・ブラックなのか今となっては覚えていないほど昔に買ったもので、1年に2〜3回付けペン用に使うことがある。
 その右は2種類の目薬。
 日に数時間パソコンと向き合うので目薬は必需品なのだ。
 その右、ディスプレイの真ん中やや右よりにカメラがある。
 フィルム用カメラでオリンパスペンという。
 昔は、つまり発売当時はこのサイズでも小型で、だから「ペン」という名前がついている。
 これは、ある人の遺品、ありがたくもタダでいただいた。
 今はたぶん使用不能だと思われるが、35ミリ・フィルムを使い、12枚撮りのフィルムだと24枚撮れるハーフサイズ・カメラである。
 私が今使っているカメラはデジタル一眼レフだがやはりオリンパス製なので、これはそのご先祖様みたいなもの。
 大のお気に入りだから机のほぼ中央に置いてある。
 その右にあるのは、高さ4センチほどの切妻屋根の家の形をした真っ黒な鉄製文鎮。
 黒い色が黒錆なのかペイントなのか。盛岡の光原社という民芸の品物を扱っている店で買った、と思う。
 その右にも文鎮があって、こっちは高さ2センチほどの円柱状でガラス製。
 その右には百円ショップで買った高さ7〜8センチほどのガラス製ドームがある。
 時計を分解修理する職人のように、ゴミが付着すると困るものや紛失しやすい細かい何かに被せて使おうと買ったのだが、今は中にメモリースティックがあるだけ。
その手前は小さな急須型の磁器製水滴。
 硯にぽとりぽとんと水を注ぐためのもので、朱の地に花柄模様が描かれていて赤絵と言われるタイプのものかもしれない。
 アンティークショップで千円ぐらいだった。大して古い物でないのは確かだ。

 ここまで挙げた物がパソコンのディスプレイの幅、およそ50センチの範囲に置かれている。
 その右へ行こう。
 高さ10センチ程の人の形の木彫がある。
 ちょっと見にはいたずらで削った木のようにしか見えないが、よく見ると坊主頭の男で背中に細い針金の羽根がついている。
 天使だ。
 これも、前述のギャラリー村岡で買った。
 その右には直径7〜8センチ、高さも同じくらいの白いガイシがある。
 ガイシは漢字で書くと「碍子」で、「電線を絶縁し支持するために鉄塔や電柱などに取り付ける器具。一般に陶磁器またはプラスチック製の絶縁体と鋳鉄製の金具より成る。」(広辞苑第六版)もの。
 これは磁器製で、真ん中の穴にアウロラというイタリア製の黒いボールペンを差し込んでペンスタンドの代わりに使っている。抜群の安定感がある。

 と、ここまで書いて、更にその左右にあるものを書き込もうとしたが、とにもかくにも物がありすぎて我ながら嫌になってくる。
 いちいち書き連ねていくのは書く方もつらいし、読む方もたぶんつらいだろう。
 端折って書く。

 インク壺と一緒になったペン立て。華奢に見えるが、手に持つとかなり重い。
 シャープペンシルを差し込んだ焼き物の小さい壺。釘か何かに引っかけることができるように脇に出っ張りがある。
 細長い、普通のやつの半分くらいの硯。物のあり過ぎる机の上では小さいが故に助かる。
 鉛筆や蛍光ペンが無造作に突っ込まれた、元は綿棒の入っていた透明なプラスチック製容器。
 切手を入れた磨りガラスの容器。金属製の蓋がついている。
 印肉が入れられている小さな陶器の蓋物。
 そして、ハスの花が描かれた散華を入れた小さな額がある。
 これを買ったのは私だがその素性を今でははっきり思い出せない。定年退職した記念の旅行で買って来たような気がする。
 散華をネットで調べると「仏に供養するため花をまき散らすこと。特に、法会(ほうえ)で、読経(どきょう)しながら列を作って歩き、はすの花びらにかたどった紙をまき散らすこと。」と出てくる。
 私の机の上にあるのは裏に「中宮寺門跡 蓮花」と書かれている。奈良県の法隆寺近くにある中宮寺という寺で買ったもの。
 日本画家重岡良子という方の絵で、色気のない私の机の上にほんのり彩りを添えてくれている。

 更にその左右にあるものを書こうとしたがここで限界、飽きたので本当にやめることにする。
 私の机の上にあるものは、私が生きている間はそれぞれに実用のモノとして機能を有しているが、私が亡くなればその瞬間からゴミとして扱われるモノたちである。
 いずれも愛着のあるモノばかり。
 気が向いたらいつかまた続きを書こう。

  
Posted by musan8 at 2018年02月15日 22:39Comments(2)

シェルターに持ち込むもの の巻

d832bcfd.jpg 2017年9月15日早朝、何とも表現しようのない薄気味悪いサイレンの音が村中に鳴り響いた。
 Jアラートである。
 北朝鮮から午前7時ごろ発射された弾道ミサイルがあろうことか北海道上空を通過し、襟裳岬東方の太平洋上に落下した。
 消防自動車のサイレンとも救急車のサイレンとも違う、心を乱されるような聞きなれない変な音。
 今でもときどき思い出してしまう。
 できれば二度と聞きたくない。

 そのJアラートのサイレン、11月29日午前3時過ぎに北朝鮮から弾道ミサイルが発射された際には鳴らなかった。
 あれはほぼ1時間かけておよそ1千キロを飛行し、私の住む青森県の西方約250キロの地点に落下した(ことになっている)。
 サイレンが鳴らなかったのは、国土に危険性がないと政府が判断したからだという。
 北朝鮮は新型大陸間弾道ミサイル「火星15」の発射実験に成功したと発表し、アメリカ全土への到達が可能だと宣言した。
 「火星15」には核弾頭を搭載できるらしく、金正恩氏は、もし核戦争になればアメリカはもとより真っ先に日本列島を海に沈めてやると豪語している。
 ということで、私たちが生きている今の日本はいつ核戦争に巻き込まれてもおかしくない、とんでもなく危険な状況にある。
 ところが、周りを見回しても誰一人としてそんなことは考えていないようだしおびえてもいないようだ。
 金正恩氏とトランプ米大統領が脅し合っているニュースをまるでお笑いのボケと突っ込みの様子を見ているように見ている。
 核戦争なんて起きるわけがないといった顔ばかりである。
 かく言う私も、実は「まさかそれはないだろう」と高をくくっている。
 つまり、平和ボケしている。

 ところが、平和ボケしている私の頭が「核シェルター」のことを時々思っていたりする。
 「シェルター」をキーワードにインターネット検索すると、「核シェルターの家庭用の価格はいくら?」という見出しが付けられたホームページがヒットする。
 「日本も家庭用核シェルターが必要になってきた時代かもしれません」などと書かれている。
 内容をかいつまんで紹介すると、家族4人が中に入って身を守ることができる100万円弱の地上据え置き型家庭用防災シェルターや、数百万円もする地下に設けるタイプの防災シェルターなどが写真入りで取り上げられている。
 更に、地下15階に及ぶ70人収容可能で5年分の食料を保存できる1区画3億円以上するアメリカの核シェルターまで紹介されている。
 「防災シェルター」や「核シェルター」は今や現実のものなのだ。
ではあるが、原爆や水爆を滅茶苦茶撃ち込まれ日本列島が水没してしまうのであれば例え数百万円かけて家庭用防災シェルターを用意したところで何のためにもならない。
 そんなわけで、年金でその日暮らしをしている私は防災シェルターを準備するつもりなど毛頭ないし、買えるわけでもない。
 それはそうだが、もしも10日ほど暮らすことができるような核シェルターをタダで手に入れることができるならばどうしよう、なんてことを思わないでもない。(イジキタナイね…)
 そして、それが手に入るとすれば避難する際、中に何を持ち込もうかなどと考えたりする。
 せっかく核シェルターに閉じこもるのであれば有意義に過ごしたいではないか。
 こんなのを昔の人は「捕らぬ狸の皮算用」と言った。違うかな…。
 で、私は、シェルターに何冊かの本を持って入りたい、とか、音楽も聴きたいからポータブルCDプレイヤーと数枚の音楽CDを持ち込みたい、などと思ったりする。
 それと、コーヒーも飲みたい。モカ・マタリの豆を用意しておこうなどとも思う。
 外は戦闘状態、あるいは焼け野原というとてつもない状況の中で、シェルターにこもって本を読んだり、好きな音楽を聴いたり、コーヒーを飲んでいられるかとも思うが、可能であれば、そんな中で私が読む本はどんなものがいいだろう。
 川柳を作り続けて20年が過ぎたが、句集などの川柳関係書籍を持ち込むつもりは微塵もない。
 ノーベル賞をもらえない村上春樹の本も、ノーベル賞をもらったカズオ・イシグロの本も意図するところではない。
 そんなことをああでもないこうでもないと考えて、実は何日も楽しんでしまった。
 聖書はどうかとも思ったがクリスチャンではないのでやめて、それでは「歎異抄」や経典などの仏教関係はどうかとも考えたが辛そうなので除外。
 今のところ有力候補は宮本武蔵の「五輪書」である。中に何が書かれているかなど知りもしないが、これは文庫本にもなっていて手に入れやすいはず。
 「五輪書」でなければ、吉川英治の「宮本武蔵」はどうだろう。これも、新潮文庫から出ている。
 自分が「むさし」を名乗って川柳を書いているからの「武蔵」なのだが、何となく井伏鱒二の「珍品堂主人」はどうか、とも思ったりする。
 「珍品堂主人」は骨董屋のことが書かれているそうで、何やらおもしろそうだ。
 文庫本でも出ていることになっているが、どういう訳か青森市民図書館でも青森市内の書店でも見つけることができなかった。ネットだと比較的簡単に入手できるようだが、そこまではしたくない。
 ある人が井伏鱒二全集を持っていて、その中に入っているという情報ももらったが、シェルターの中で井伏鱒二かよなどと思ったりもする。
 たかが本であるがされど本で、究極の選択ともなればいわく言い難い難しさがある。
 では、CDはどうかというと、手元にジャズのCDが1千枚と少しあって、その中から選ぶのだから簡単そうだがこれまた難しい。
 トランペットの帝王マイルス・デイヴィスもギターの名手ウェス・モンゴメリーもいいが、これ1枚と言えばやっぱりデクスター・ゴードンの「GO」というアルバムを選ぶかもしれない。
 デクスター・ゴードンは言わずと知れた高名なテナーサックス奏者だ。しかもこのアルバムには「チーズケイク」という名曲が収められている。
 「チーズケイク」とは耳慣れない言葉かもしれないが、片仮名で言えば「チーズケーキ」のこと。
 あ、蛇足だね…。

 もしかしたら、オレって今、妄想してる?


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Posted by musan8 at 2017年12月15日 09:22Comments(0)

支離滅裂 の巻

9fe919df.jpg 机の上に左の肘をついて、上を向けて開いた手の平には顎を乗せている。
 頬杖をついているのだ。
 右手は何をしているかというと、パソコンのマウスを掴んでいる。
 では、私が何をしているかというと、実はただボーっとしている。
 パソコンの前に座ってはいるがディスプレイを見ているわけでもない。
 何かを考えているというのでもない。
 眠りに落ちそうな状態で椅子に座っている。
 目をつぶれば一瞬にして眠りの世界に入れそうだが、なかなかそうはならない。
 うまく行けば椅子に座ったまましばらく夢が見られる。
 眠り込んでしまえば今やっている作業が遅れてしまうとか、目が覚めたらどうしなければいけないとか、そんなことは考えていない。
 このところ、晩酌後の私はいつもこんな調子だ。

 携帯電話のこと。
 私はまだガラケーを使っている。
 ガラケーって何だと思った頃が懐かしい。
 ガラパゴス携帯なんてどんな人が考えた言葉か知らないがなかなかの発想だと思う。
 今では私もガラケーがどうのこうのと普通に言っている。
 ところで、今使っているガラケーが壊れたら私は次の携帯をスマホにするのだろうか。
 ガラケーが売られていなければスマホにするしかないが、ガラケーがあれば次もガラケーになるはずである。
 ガラケーの何がいいかと聞かれればちょっと困るが、利用料がスマホより安いというのが大きな理由。
 スマホに魅力がないということではない。
 家族に無駄遣いのチャンピオンと囁かれているほど無駄遣いをしていつも大した小遣いを持っていない老人なので利用料の高いスマホへ移行できないのだ。
 例えスマホに変えたとしても、私は目が悪いからゲームはできないだろう。
 多用するのはたぶんカメラとインターネット。
 手の平に乗る道具で簡単にネットサーフィンができるというのは魅力的である。

 無駄遣いと言えば、思い当たることだらけ。
 昔風に言えば骨董屋みたいな、今風に言えばリサイクルショップみたいな、格好つけて言えばアンティーク屋みたいな、そんな店を覗くのが好きで安物を何だかんだ買ってしまう癖がある。
 もちろん、古本屋も好きである。
 川柳を始める前、村に住む骨董の好きな人としょっちゅう酒を呑み骨董のことをいろいろ教えてもらったことが今のそんなところにつながっている。
 骨董と言えば古美術品みたいで恰好いいが、私の場合美術品と名の付くものを買うようなパワーがどこにもないので買うのは単なる古物である。
 古物を売ったり買ったりするには古物商許可証というものが必要で、私に骨董のことを教えてくれたひとも古物商ではなかったがそれを持っていた。
 その許可証というのは、警察署を経由して都道府県の公安委員会へ書類を提出すればたいていもらえるらしい。
 試験はないはず。
 古本屋をやるにもその資格が必要なのだそうだ。
 話が脇にそれた。
 古物は普通の商品と違うところがある。
 何が違うかと言えば、普通の商品は店に現物がなくても注文すれば大抵手に入れることができるが、古物は目の前にあるものを誰かに買われてしまえば次にいつお目にかかれるか全く分からない。
 いつどんな品物が入荷するかも不明である。
 だから、古物を置いている店はしょっちゅう顔を出してチェックしなければならない。
 そうしないと、自分の欲しい物が入荷しても誰かに買われてしまったりする。
 全く油断ならないのがそんな店で、買わなかったり買えなかったりして後で「あの時無理をしてでも買えばよかった」と悔やむことも多い。
 その辺のスリルがまたおもしろいところ。
 例えばリサイクルショップと普通の文房具屋に同じ万年筆があるとする。普通の店では未使用のものが定価で売られているが、リサイクルショップでは同じ未使用の物でも定価よりずっと安く買える。
 だから、何本も持っている万年筆でもついつい手が出てしまう。
 それが私の無駄遣いの実態である。
 古物でも特殊な物は逆に新品より遥かに高いこともある。
 私が買えるのは鉛筆とかコップとか本などで、せいぜい頑張ってもパイプ椅子とかである。
 ということで、プレミアムのついたものは買わない、買えない。
 古物を置いている店では廃盤になった物を見つけることもある。
 そんな楽しいところだが、買おうとするものは注意深く見なければいけない。
 壊れた物を壊れた物として平然と売っているのがそんな店であり、レジに品物を持って行くと「状態を確認しましたか」「品物は交換できませんので」とよく言われる。
 自分の責任で物を買わなければいけないのだ。
 古いものは妙に人間を惹きつける力を持っている場合があって、そんな物に出会う楽しみもある。
 あ、M舎のあの古い額縁まだあるだろうか…。

 と、ここで目が覚めた。
 パソコンに向かったまま眠り込んであれこれ夢を見るのは楽しい。
 ではあるが、首が疲れる。


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Posted by musan8 at 2017年11月15日 14:10Comments(0)