2010年4月18日朝5時20分、私と家人は建て替えられて1年ほどの小さな小さなその無人駅にいた。
弱い雨が降って肌寒いので二人ともコートを羽織り帽子をかぶっている。
駅舎の北側に完成間近いトイレが見える。
カメラバッグにボディ2台とレンズ3本、そしてコンバージョンレンズが1本。
ずしりと手に重い。
もう一つの小さなバッグには携帯電話や財布、タバコなど身の回りのものを突っ込み肩に斜めがけにしている。
程なく駅舎内に設けられたスピーカーが若い男の声を吐き出した。
マイクに口を近づけすぎているのだろう、壊れてくぐもった大きな声が青森行きの列車は4分遅れていると告げた。
私たちが待っているのは津軽線上りの始発列車。
青森駅でバスに乗るのが6時50分だから4分遅れてもこれからの旅に何の支障もないのだが、いきなり遅れるというのはいささか気にかかる。
4分遅れの、本来であれば5時半出発の列車に乗り青森へ向かう。
乗客は1両に5〜6人。
旅行者は私たちだけで、ほかは出勤のようだ。
福島県三春町へ向かっている。
正確に言えば「三春の滝桜」を見に行こうとしている。
滝桜と言えば、樹齢1千年を超えるという枝垂れ桜の見事な巨木。
前々から一度は見たいと思っていた。
ひと月ほど前家人が新聞を見て某大手旅行社が募集する「日本三大桜三春の滝桜・福島の桃源郷花見山公園・直江兼続ゆかりの米沢・千本桜の桜回廊烏帽子山公園2日間」という広告を発見し申し込んでいた。
格安だから飛びついたのだ。
それからというもの家人の命令により「滝桜」のホームページを毎日見ることに。
桜はその年の気候でいつ咲くか分からない。
咲いている滝桜にツアーでお目にかかれるかどうかなんておそらく神様でも分からない。
そんな旅行を予約するなんて賭け事に近い。
開花予想を気にかけ、ネットのライブカメラで蕾の膨らみ具合を見続け、そして開花を喜んだ。
ところが、開花して数日後の昨日30センチの積雪があったという。
出発直前まで一喜一憂が続いた。
予報によるときょうの福島は晴れ。
もしかしたら結構咲いているかもしれない、などとあらぬ事を期待してしまう。
青森駅には西と東に出入り口があり、東口の方がメインでバスの発着場所は通常東口である。
ところが今、東口の駅前広場は工事中。
何でもバス乗り場を整備しているらしい。
暮れに新幹線がやってくるからだろうか。
そんなふうだから、今回乗るバスは工事をしていない西口へ来ることになっていて、私たちも西口へ出た。
午前6時ちょい過ぎの西口には誰もいなかった。
出発まで40分ほどあるので近くのコンビニへ。
青森も弱い雨が降っている。
おにぎりやお茶を仕入れ西口へ戻るとツアー参加者らしい人が数人いた。
何となく匂いで分かる。
寒いのでバスが早く来ないかと窓から外を見る。
と、雨に雪が混じっているではないか。
寒いわけだ。
同行のツアー参加者らしい人達が少しずつ増えてくる。
どの人も私たちと同世代かそれ以上の年配で、夫婦と思われるカップルや女性のグループ。
やがて、白い車体の大型バスが臨時バスプールへ到着。
出発時間から見ておそらくこのバスに違いないと駅を出たら一緒にいた人達もぞろぞろやってきた。
近くで見ると仙台の旅行社がチャーターしたのは青森県内のよく見かけるバスだった。
入り口に真っ黒な髪を撫でつけやや太い縁のメガネをしたスリムであまり若くなく陽気でもないような男がいて名前を聞く。
開いたバスのドアに紙が貼ってあり座席が指定されていた。
私たちは最後部の席。
殆ど満席に近い。
集合から出発まで10分の予定で、狂いなく出発。
次の停車は青森西郵便局。数人が乗り込む。やはり60代の人達。
バスは国道7号線を弘前へ。
弘前駅前にあるホテル付近から更に数人が乗り込む。
最後部にある5席を私と家人の2人が占領していたのだが70歳くらいの女性2人がそれに加わった。
これで予約した客の全員が揃ったわけだが、知ってる顔は一つもなかった。
バスは国道7号に戻って南下し、大鰐弘前インターチェンジから東北自動車道に乗り更に南下を続ける。
今回のツアーは格安だからバスガイドはつかない。
青森駅西口で名前を確認した男が添乗員。
添乗員はガイドではないから必要最低限の事務的連絡事項しか話さないと事前に送られてきた書類に書かれていた。
彼は言葉遣いからみると仙台の人のようだった。
この全く事務的な人間に見える男がひょいひょい面白いことを言う。
彼の説明ではこれから桜を見ることになっている4カ所の内2カ所は開花していない、すなわち全く咲いていないという。
彼曰く
「これから咲く、という希望のある桜を見に行く」
である。
福島の花見山公園は満開だが、目玉の滝桜は13日12時過ぎに開花し今は三分咲きだそうだ。
添乗員曰く
「桜は花が5つ開けば開花宣言する」
のだそうだ。
ベテラン添乗員らしく2日目のオプションである「牛釜飯御膳」の注文を手際よく取ったり、お金を集めたり中々である。
花輪、前沢、国見の各サービスエリアでトイレ休憩。
私はその度にバスから降りタバコを吸った。ついでに足腰を伸ばす。
青森で乗車したとき車内は寒いくらいだったが盛岡からは晴れていて暖かい。
仙台あたりから車窓に見えるソメイヨシノが満開状態になり目を洗われたような気分になる。
福島飯坂インターチェンジで東北自動車道を下り、一般国道へ入る。
間もなく添乗員が
「もう少しで花見山公園です、左前方に見えるのがそうです。バスが何十台も集中し渋滞しています、場合によっては手前でバスを降り歩いて花見山へ向かいます、そうしないと花を見る時間が作れません、覚悟はいいですか、30分ほど歩くことになるかも知れません、膝のヒアルロン酸は大丈夫ですか、30分ですよ」
などと言った、と思ったら、
「見てください、あんなにバスが並んでほとんど動いていません」
と続けた。
「女性の方、トイレは15分並ばないと用が足せません、どうぞご注意を」
とも言った。
見ると国道の左車線にバスが数十台数珠つながり。
数珠つながりのその先は信号を左に折れて更にずっと続いていた。
そして、小旗を頭上に掲げた人を先頭にバスの横の歩道を観光客が一列になって歩いていた。
それから数分後、我々も動かないバスを降りて歩くことになった。
測ったわけではないが実際に歩いたのは20分くらいだろう。
駐車場はバスや自家用車や人でごった返していた。
駐車場より一段高いところにトイレや店が並んでいて、そこも人だらけ。
道はそこから花見山へ続いている。
花見山は個人所有の土地で、元々は花を見せるためのものではなく栽培し出荷するためのものだそうだ。
4〜5メートルほど幅のある道は行き帰りの観光客であふれていた。
山は濃いピンクから白っぽいピンク、あるいは黄色の花が咲き乱れ、さすがに写真家秋山庄太郎が桃源郷と言っただけのことはある。
ここで花を見るため与えられた時間は約1時間。
いいないいな、と言っている間に1時間が過ぎてしまった。
駐車場に帰ると私たちのバスが待っていたが、運転手によれば到着したばかりだそうだ。いやはや。
次は目当ての「滝桜」。
花見山から一般国道へ出て福島飯坂インターチェンジで東北自動車道に乗る。更に郡山ジャンクションを経て磐越自動車道に入り少し先の船引三春インターチェンジというところで高速を降りた。一般国道へ。
花見山を出ておよそ1時間経った頃また渋滞に突入。
添乗員が
「花見山へ行った観光バスは100パーセント滝桜へ行きます、と言うことは必ず渋滞があります、ここは花見山の場合と違ってバスから降りて歩くことが禁じられています、じっとバスに乗って駐車場まで行かなければいけません」
と言う。
バスは少し動いては止まり、止まっては動き、やがて「滝桜」の横へ。
窓からカメラを突き出し数回シャッターを切る。
渋滞に巻き込まれてからおよそ30分、ようやく駐車場。
広い駐車場は自家用車と大型バスで満杯。
チケット売り場前の道路にショッキングピンクのジャンパー、赤いキャップ、顔の横には小さなマイク、帽子の脇にはこれまた小さなスピーカーの男がいて人に埋もれながら交通整理をしている。
ここは「観桜料」なるもの300円を徴収される。もちろんツアー料金に含まれていた。
「大変な人ですから滝桜のすぐそばまでは行けないかもしれません。そこはみなさん、津軽人ですから、頑張って行ってください」
と訳の分からないことを添乗員に言われた。
滝桜は200〜300メートル先にあり、舗装された歩道を人混みに流されて行くと静かに立っていて、どういう訳か添乗員の言葉に反し手で触れられるほど近くまで行くことができた。
巨大な桜の樹である。
あちこちにつっかえ棒をしている。
三分咲きだというが、私に言わせれば全然咲いていない。
一番手前の枝にほんの少し花が開いているだけ。
蕾ばかりの巨木だが全体的にうっすらとピンクに染まりさすがに風格がある。
でも、そんなのをずっと見ていてもつまらないから道を戻る。
道なりに並んでいる店で名物の三角油揚げを買おうとしたが売り切れだった。
向かい側の店でコーヒーを1杯飲む。350円也。
コーヒーメーカーで淹れられ紙コップに入っていたが不味くはなかった。
宿泊は猪苗代湖近くのリゾートホテル。
ここでも添乗員が意味深なことを言った。
「夕食は地場産品を使った料理でお品書きがついてきます、、、が、、、、あまり期待してはいけません」
ホテルに到着したのは午後7時。30分後には夕食だった。
大きな部屋に並んだ椅子席に一見豪華そうな夕食が準備されている。
食べると、材料も味も格安料金のものだった。
私はもちろん生ビールを頼む。2杯空けて、更に冷たいお酒を1本頼む。
後は風呂に浸かって第1日目終了。
ほろ酔いのままぐっすり眠った。
2日目は喜多方ラーメンの工場で試食をしてから山形県へ。
直江兼続ゆかりの米沢・上杉神社、高畠ワイナリー見学・試飲、日本さくら名所100選千本桜の回廊烏帽子山公園と続く日程。
上杉神社と烏帽子山公園はどうやって見ても開花していない。
開花していないのは事前に添乗員が説明してくれたので潔くあきらめ、試飲と試食に力を注ぐ。
ワインはおちょこのようなグラスで試飲するのだが、たぶんボトル半分くらいは飲んだろう。
上杉神社前の売店では米沢牛入りのコロッケをひとつ買って食べた。
これは美味だった。
烏帽子山公園ではひとついいものを見つけた。
駐車場脇の斜面にオオイヌノフグリが群落をなし咲き誇っていた。
オオイヌノフグリは別名「星の瞳」と言い、背が低く丸い小さなブルーのそれはそれはかわいい花をつける。
それが敷き詰められたように咲いていて、まるで青い絨毯のよう。
運良く私のほかは誰も注目していない。
しゃがんだり立ったり15分ほどかけて写真を撮ることができた。
この旅で一番困ったのはもちろん滝桜が咲いていなかったことだが、もう一つ困ったことがあった。
弘前から隣に座ったお二人が筋金入りのおしゃべりで、いつまでも途切れることなく当然のように大きな声で内輪話を続けるのだ。
全く遠慮というものを知らない。面の皮が厚いというか何というか、どうすればああいう人間になれるのだろうと考えてしまった。
何回も思わず注意してしまいそうになり、こらえるのがやっとだった。
そんな旅だったが途中添乗員が訥々と不思議な話をしてくれたのがせめてもの救いだった。
一つだけ紹介しよう。
「みなさん」「近くに熊野神社がある方います?」「熊野神社」「ですよ」「この前」「和歌山ツアーへ行ったときのことです」「そのツアーには津軽のあるところの熊野神社の役員が」「5人いました」「でね」「この方たち」「熊野本宮へ行ったとき」…「社務所へ相談に行きました」…「この方たちが役員をやっている神社」「古くなったので建て替えることになったそうです」「本殿も建て替えることになりました」…「そこで」「今まで誰も見たことのない」「本殿の中の」「御神体を確認しました」…「御神体」「何だったと思います?」……「石だった」…「と言う話はよく聞きますね」…「ところが」…「そこの御神体は」……「熊だった」…「いくら何でも」「熊野神社だから御神体が熊ってのはねえ」…「しかも」「その熊」「どこにでもある土産物の木彫り」「それで」「口に鮭を一匹くわえている」…「一同びっくり」…「そこで」「これはいかに何でもおかしい」「ということになって」「本宮社務所へ相談に行った」「というわけ」…「でね」「社務所の方に相談しました」「ところが」「新しく御神体を分けていただくには」「莫大なお金がかかる」「ということが分かりました」「でも」「そんなお金はない」「だもんだから」「5人は相談しました」「結果」「本殿を新しくした」「後も」「今までどおりの御神体で」「と決まりました」……「木彫りの熊ですよ」…「それも鮭を口にくわえたやつ」「どこにでもある置物ですよ」「誰かが」「きっと」「家にある土産物の熊が」「邪魔になって」「それで」「置いて来たんでしょうね」「全部本当の話です」
添乗員は前方を向いたままこの話をし、乗客は全員笑いこけた。
事実とすれば、悲しくなってしまうほど笑える話だ。
バスは来たときのコースを逆に北上し、弘前へ寄り、青森西郵便局へ寄って青森駅西口へ。
当初の予定より1時間以上早く青森に着いてしまった。
しょうがないから駅東口へ行き某居酒屋でビールを飲んでから最終列車で村へ。
家に着いたのは午後11時ちょっと前。
疲れました。
*写真はバスの窓から撮った滝桜
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