この重苦しい暑さは何だ。つぶされそうだよ。
まるで暴力じゃないか。
昨夜半からあんなに激しく風が吹いて猛烈な雨がずっと降っていたのに、夜が明けたら嘘のように雨が上がって雲は跡形もなく消え、風と極度の暑さだけが残ってしまった。
もちろんわが家にエアコンなどあるはずがなく、風がとてつもなく強くても暑さをしのぐため窓という窓を開け放している。
風があればやはりその分暑さが和らぐ。
ところでその風だが、あいにく一定の強さではない。
数分間隔で周期的に強くなりデスクの上の一筆箋など軽く吹き飛ぶ始末である。
お陰で、家の中に大事に飾ってあるマウンテン・バイクが転倒、ガラスのコンポートがひとつ壊れてしまった。
まだ一度も土を踏んだことのない懸賞で当たったそのマウンテン・バイクは、恐れ多くもかのポルシェデザインである。
大切な器が壊れたからと自転車や風に文句を言う訳にもいかない。
結局そこに思いが至らなかった自分に責めが回って来てしまう。
そんなことを頭の中で反芻しながら車庫へ向かう。
もう午前10時になろうという時刻。
あぢ、あぢあぢぢ、だ。
外は上からも前後左右からも、簡単に言えば全方向から暑さが攻めてくる。
数日前からシャッターを開放してある車庫は西側にある窓も北側にある窓もすべて全開。
どの窓もあまり大きくないがきょうは風がよく通る。
ツバメが5・6羽うるさく飛び回っているがキャンプ用ベッドを広げればあっという間に爆睡できるわが家で最高の場所。
今朝4時過ぎ漬け物売りに行ったとき国道280号バイパスの電光掲示板には気温26℃西風10メートルと表示されていた。
それから見れば風は幾分弱まっていて、気温はたぶん30℃を超えているはず。
この後、昼過ぎにかけ更にぐんぐん上がるだろう。
家の玄関から車庫までほんの数秒日向を歩いただけなのに髪の毛先から汗がぽとぽと落ちて来る。
自宅周辺で草花の写真を撮るのが趣味、撮影に出るのが日課になっている。
正真正銘の真夏で気が狂いそうな暑さだがジーンズの上下をいつものように着用。
虫に刺されないためと、藪を漕いでも腕や脚が傷だらけならないようにするためで、汗まみれになってもそこはひたすら我慢するしかない。
擦り傷だらけになったあの痛さに耐えるより、虫さされで赤く腫れ耐えきれない程の痒さを我慢するより遥かにましである。
去年からこんな暑い日は首に青く細いベルトを巻いている。
これは水に濡らして首や額に巻くとあっという間に涼しくなれるというハイテク素材でできている。
首には更にデジタル一眼レフカメラを1台ぶら下げていた。
肩には交換レンズや予備バッテリーを入れた古いカメラバッグを斜め掛け。
望遠マクロレンズも突っ込んでいるので肩にベルトが食い込む。
もちろん帽子を被っている。
きょうは風が強いからハンチング、色はベージュ。
私の写真はいわゆる雑草が相手で、シロツメクサからアザミ、タンポポ、ハコベと農道脇に生える草を何でも撮る。
余り管理の良くない転作田の前に立つ。
私の背丈ほどのヨモギが繁茂していた。
ヨモギやアザミ、ススキなどは2メートルくらい軽く伸びるので、中に入ると藪と言うよりはジャングルのようで分け入って行くには少し勇気が必要。
ヘビをあまり怖がらないし、実際には滅多に見ることもないからその辺は気が楽だが、何しろ暑さが暑さである。
農道から見るとヨモギが薄くなった辺りにポツポツとアメリカオニアザミが咲いていた。
アメリカオニアザミは茎がかなり太く背が割と高い。それらがやたら立派な棘で覆われ、身体に見合った大きい花をつける。
道路からほんの10数メートル先だった。
草が伸び放題なのではっきり分からないが畦と思われるところへ飛び降りる。
一呼吸置いて、むっとする暑さと親指より太く堅いヨモギの幹を掻き分けジャングルへ踏み込む。
足元は年がら年中ゴム長靴で固めている。
ゆっくりゆっくり歩く。
どうせ無職の身で有り余るほど暇がある。
両手で強引にヨモギの幹を左右に押しのけ一歩ずつバランスを取りながら歩く。
しばらくすると汗が額やこめかみを伝い顎から滴る。
眼鏡が曇っている。
立ち止まって、まずタオルで顔をぬぐい、ティッシュペーパーで眼鏡を拭く。
不意にヨモギ特有の匂いが鼻を突く。
ヨモギの背丈が私の目の位置より高いのでここからはまだアメリカオニアザミが見えない。
見当を付けた方向へ更にゆっくり歩く。
ヨモギの背丈が段々高くなる。
もう少しだ、と思っていると突然目の前が開けた。
驚くほど広い場所だ。
壊れた巨大な建物がある。
海が見える。
陸奥湾とはどこか違う。
アメリカオニアザミはどこにもない。
眼鏡を外しタオルの手拭いで目の辺りを強くこする。
何もかもくっきり見える。
しかし、アメリカオニアザミは依然として見えない。
不意に、目の前の建物が何であるか判った。
明確に認識できた。
テレビで見たことがある。
津波で壊れたあの原子力発電所じゃないか。
水素爆発を起こした東京電力の原発だ。
見回しても私以外誰もいない。
どうしたんだ!
わが家の裏の転作田がいつの間にフクシマにつながったんだ。
そんなことはあるはずがない。
あまりの暑さできっと頭が混乱しているのだろう。
そう思って目を強くつむる。
額に吹き出した汗が眉毛を越え瞼を伝う。
汗を拭き、ゆっくり目を開く。
原発は消えなかった。
これはタダゴトでない。
線量計。
そんな単語がいきなり頭をよぎった。
当然のことだが、私は線量計などというものを持っていない。
必要ないんだから…。
これは嘘だ。
嘘だああああ。
だが待てよ、嘘だろうが何だろうが原発にこれほど至近距離にいればセシウムとかいう目に見えない恐ろしいものが充満しているはずだ。
もしかしたらそれは致死量に達しているかもしれない。
急に息苦しくなってくる。
深呼吸を1回、2回、3回。
そうだ、逃げなければ。
逃げなければいけないだろう、お前。
振り向く。
あれ?
押し分けながら歩いてきたジャングルが、ヨモギのジャングルがない。
瓦礫。
あるのは瓦礫。
ただ瓦礫。
柱や板の木材、錆びたトタンや壊れたコンクリート、箪笥の引き出し、テレビやら冷蔵庫やら何が何やら分からないものの山。
どうする?
お前、どうするんだ!
とにかくすぐに原発から離れないと。
どこでもいい、走れ!逃げろ!逃げるんだ!
脳が激しく命令を繰り返す。
しかし、身体が言うことを聞かない。
カナシバリにかかったか…。
妙に足が重く締め付けられている。
引き抜こうとしても動かない。
抜けない?
見下ろすと、両足が、ゴム長靴が、干からびて固そうな地面に足首までめり込んでいた。
どうなったのだ、どうなったんだ…。
絶体絶命!
しゃがむ。
俺はここで死ぬのだろうか。
原発を仰ぎ見る。
このままだと死ぬ、たぶん死ぬ、いや、きっと死ぬ!
誰か、誰かあ、誰でもいい、助けてくれ!
急激に回りが冷え込み汗が瞬時に引いて行く。
右手の甲が突き刺すようにズキンと痛む。
虻!
草花を撮影していると虻や蚊にしょっちゅう刺される。
反対の手で痛いところを無意識に思い切り叩く。
う。
うう。
目の前の原発がかき消えた。
コンパネを貼った粗末な天井が見える。
首を倒し右を見るとおんぼろトラック、左を見ると、なつかしい私のデスク。
車庫の中にいた。
キャンプ用ベッドの上で仰向けに寝ていた。
額に汗の粒がふつふつ吹き出ているのが分かる。
強い風が吹き抜け、ツバメがうるさく飛び交っている。
手の甲が、か、痒い。