老化とか劣化とか の巻

e0887168.jpg 私は現在六十七歳、日本国が認めるれっきとした老人である。
 あれ?
 確か、六十七歳だったよな…。
 今は2016年10月で、私は1949年1月生まれ、誕生日が過ぎているので現在の西暦から生まれたときの西暦を引けばそのまま満年齢のはず。
 計算してみるとやっぱり満の六十七歳で間違いない。
 こんなふうに時々きっちり確認しないと自分が何歳であるか分からなくてあわてたりする。
 国家が「前期高齢者」という煮ても焼いても食えない立派なレッテルを貼ってくれているくらいだからしょうがないかとも思うが、待て待てまだそんな矢鱈な歳ではないなどと勝手に打ち消したりもしている。

 ところで、最近変なことが気に掛かって戸惑うことが多い。
 「稲荷神社」の「稲荷」は何故「いなに」と読まないで「いなり」と読むのか、とか、「室生犀星」の「室生」にどうして中村真一郎という人は「むろう」ではなく「むろお」とわざわざ振り仮名を振るのだろうか(増補版「誤植読本」高橋輝次編著・ちくま文庫)など、普段の生活には何の支障もなく為にもならない、どうでもいいようなことが無性に気に掛かる。
 たぶん、老人になった証拠だろう。
 「むろお、ねえ」などと呻いていたら、川柳の師匠の言葉を思い出した。
 「行こう」と書いても「いこう」と読むことはない。「う」の前の「こ」を伸ばして「いこー」、つまり「いこお」と読む。
 この師匠の言葉と、中村真一郎という人が「室生」に「むろお」と振り仮名を振る理由はたぶん同じだと思う。違うかな…。

 ついでに、「稲荷神社」のこと。
 私のパソコンに入っている広辞苑第六版で「稲荷」を引くと、
 いなり【稲荷】(稲生(いねなり)の転か)』
とあって、次に6通りの意味が書かれている。
 6通りの意味の方はまあどうでもいいが、「稲生(いねなり)」とは何のことか知りたくなる。
 再び広辞苑を引く。
 驚きました。
 「稲生」は見出しに確かに1つある。
 でも、その読み方は「いねなり」ではなく「いのう」。
 「姓氏の一つ」で、目的の単語「いねなり」とはたぶん関係ない。
 広辞苑も変なところがある…。

 実を言えば「稲荷」の読み方が気になったのは数ヶ月前のことで、調べなければいけないと思いつつもいつの間にか忘れていた。
 それが昨日、パソコンに向かっているとき「稲荷」という言葉が突然頭のどこかでひらめいた。
 昨日ひらめかなかったら、それはまたずっと忘れたままになっていただろう。
 こんなふうに、近頃あれこれ忘れてしまうことが異常に多く、もしかしたら認知症になっているかもしれない。
 認知症は恐ろしい。
 気になったことや話していたことがほんの数分後に分からなくなって「あれ?何が気になっていたんだっけ」「さっき何を話していたんだっけ?」と思い出そうとしても思い出せないことがある。
 これもそこはかとなく恐ろしい。
 だから、気になったことはすぐにメモをするか調べてしまうに限る。
 そんなことは重々承知のはずだが、性格なのか何となく面倒臭くてつい放っておく。
 すると、また忘れる。
 そんなこんなで、いろんなキーワードが頭の中で迷子になっているものと思われる。
 そしてそして、迷子のキーワードを突然思い出したりすると、「いよいよ本物の認知症か…」と自分を疑うことになる。
 もしかしたらわたしの老化レベルはかなりハイレベルなところにあるのかもしれない。

 記憶に関したこと以外でも自分の老化をしみじみ思うことがままある。
 先日、カメラのレンズを見てそう思った。
 草花を撮るのが趣味で、かれこれ20年ほど50ミリマクロレンズというものの世話になっている。
 マクロレンズとは接写用レンズのことで、撮ろうとしている花にぶつかっていないかと心配になるほど近寄って撮ることもできる。
 ちなみに、そういう専用レンズを使えばいい写真が撮れるだろうと思うかもしれないが、そうとは限らない(汗)
 だから私は、よそ様の何倍も撮るように心がけている。
 下手な鉄砲も数打ちゃ当たるで、たまに1枚くらいまぐれでいいのが撮れるかもしれない。
 とにかく、ああでもないこうでもないと被写体にあっちからもこっちからもレンズを向け、ひたすらシャッターを切っている。
 年に10万カット以上の写真を撮ることも珍しくない。
 そんな過酷な使い方をされたこのレンズは、これまで何度も内蔵されている絞りが壊れた。
 壊れればその都度修理に出し、もう20年近く使っている。
 カメラのレンズというものにはピント合わせのために回すリングがついている。
 それはピント・リングと呼ばれ、普通凸凹のゴムで覆われ指が滑りにくく操作しやすいようになっている。
 現代の一眼レフカメラはシャッターボタンを半押しすると自動的にピントが合うようになっているが、条件によってはそれができないことがあって、そんな時必要なのがこのリング。
 さて、私の愛用マクロレンズであるが、こいつのピントリングが去年あたりから妙にネバネバになって、今年に入ったあたりからぼろぼろ剥がれ出した。
 今では、剥げた部分の面積がゴムの残っている面積をはるかに超えている。
 内緒だが、このレンズと全く同じ規格のレンズをもう1本持っている。
 そいつはゴムの剥がれたやつよりずっと新しいのだが只今故障中。
 故障したらさっさと修理に出せばいいのだが、出せば大した金額ではないにしても修理費がかかり、それが年金生活者には案外痛い。
 ということで、ゴムが剥げても動いている古い方を使っているという次第。
 私は草花を撮るため毎日の如くカメラを手にする。 その度にピントリングを操作するので、毎日のように「お前も老いたなあ、劣化がひどいなあ、まるでオレみたいだ…、直してあげたいけどな…」などとついつい話しかけてしまう。
 私もこのレンズに負けず劣らず劣化が激しい。
 あ、人間の場合は老化と言うんだっけ…。
 私は、数年前に梯子から落ちて右股関節が変形している。だから歩くと痛い。
 歯は数年前何本か抜けて美味しいものを美味しく食べることができない。
 目は、パソコンで文章を作っていると字がぼんやり見えて打ち続けていられなくなるほど衰えている。

 ついでに気になっていたことを少し書く。
 食べ物を誰かに少し差し上げるとき、津軽の私の住む地方では昔から「ひとかたけですが」などと言ったりする。
 「ひとかたけ」は「一回食べる分」とか「少しですが」という意味で使われているのだが、その言葉を口にするたび「この言葉はどこから来たのだろう」「語源は何だろう」と気に掛かっていた。
 そして、それは津軽弁、つまり津軽特有の言葉だから広辞苑や大辞林などの辞書に載ってるわけがないと思っていた。
 ところが「あさめし、ひるめし、ばんめし」(日本ペンクラブ編・ちくま文庫)という本を読んでいたら「かたけ」が出てきた。
 向田邦子さんが「お弁当」というエッセイで「親がひとかたけの弁当を」と使っているのだ。
 こりゃ大変とばかりに広辞苑を引いたら「かたけ」はちゃんと載っていた。
 「かたけ」は「片食」と書き、「1日2度の食事(近世、朝夕2食)のうち、1回の食事」「食事の度数を数える語」という意味があった。
 今の日本は1日3食だから「片食」という言い方は似合わないが、2食であれば「片」は理屈に合う。
 それを津軽弁だとばかり思っていた自分が情けなかった。 
 俺は、何のため辞書を何冊も買ったのだ。

 もう一つ。
 ある本を読んでいたら「馬齢を重ねる」という言葉が出てきた。
 「馬齢を重ねる」ってオレみたいなやつを言うんだよなと思ったら頭のどこかに「ばれい」が引っ掛かってしまった。
 で、「ばれいしょ」ってどうやって書くんだっけ?とふと思ったのだ。
 そうしたら私の頭の中であるはずがない「馬齢薯」という3文字が転がり始めた。
 これはいけない、何かが狂っていると思い手元にあった電子辞書をすぐ引いた。
 当然であるが「ばれいしょ」は「馬齢薯」でなく「馬鈴薯」だ。
 「齢(とし)じゃなく鈴(すず)ねえ…あ〜あ」だった。
 これって、やっぱり老化だよな…。

 というふうに、私のあちこちで「老化」というものがくっきりし出した。
 そして最近、何かへまをすると何でもかんでも「老化」のせいにしている自分がいる。
 もしかしたら、この何でも老化のせいにするってのも老化のせいかもしれない…。
 ありゃりゃ。


 *本文と写真は互いに関係ありません。
 *写真をクリックすると少し大きい画像を見ることができます。


Posted by musan8 at 2016年10月15日 10:13│Comments(2)TrackBack(0)

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この記事へのコメント
ムーさん、こんにちは!
「なんの花だろう」と思わず写真をクリックしてしまいました^_^;
なんと花ではなくて水平な板に水平にとまっているトンボでした。

これも目の「老化」か運動神経の「劣化」(←っていうのかな?)ですぅ〜
よく見えなかったし、もしや「虫??!」って思ったのにもうクリックの指を止めることが出来なかった・・・(泣)
Posted by 啓子 at 2016年10月17日 09:25
あちゃー、啓子さんクリックしたか…(汗)
最後の*印のところに「写真はトンボです」って書いておけばよかった。
ごめん。
Posted by むさし at 2016年10月17日 10:07