ほろほろと古錐さん の巻

bfc6080f.jpg 時の過ぎるのが早い。
 もう12月、角田古錐さんが亡くなられてから既に4ヵ月が過ぎた。
 古錐さんのことを時々ふっと思い出す。
 それは夜中に突然目が覚めたときなどであるが、最近とみにボケ気味な私の脳みそは前後の脈絡もなく斑にものを思い出す。
 古錐さんは凄いアマチュア写真家で、若い頃「ねぶた祭り」の写真コンテストでグランプリをとったことがあったんだ、だとか、津軽に聳える岩木山の写真を撮るためわざわざ下北へ行って超望遠レンズで撮った、とか、絵画・彫刻など美術に詳しく、美術品の収集もしていたんだよな…、なんてことがほろほろと頭をよぎる。

 今、机の上に古錐さんの句集「北の変奏曲」(東奥文芸叢書 川柳14 東奥日報社)と私の句集「亀裂」(東奥文芸叢書 川柳9 東奥日報社)が並べてある。
 シリーズ9冊目と14冊目だから全く同じ装丁で、まるで兄弟のようであり親子のようでもある。
 「北の変奏曲」は去年(2015年)の2月に発行された。
 亡くなられる1年と半年前のこと。
 この句集の準備をしていた古錐さんは80歳を超えていて「生きている内に出版されるかな」と私に笑いながら言った。
 私はそれを聞いて、単なる冗談だと思っていた。
 その頃の古錐さんはいつもどおりの古錐さんで、一緒に酒を飲んでもいつまでも飄々としていて決して私のように乱れることがなかった。
 ところが、それから間もなく体調を崩し、それこそあっという間にこの世におさらばしてしまった。

 句集の著者略歴を見ると、古錐さんが川柳を始めたのは1995年である。
 私が川柳を始めたのは1994年12月だからほぼ同時期に川柳を始めていた。
 その時古錐さんは62歳、私は45歳。
 古錐さんは青森県庁を退職し、まず北野岸柳さんの川柳教室へ通って川柳を学んだ。
 私はと言うと、友人に「千円飲み放題の会がある」とだまされおかじょうき川柳社忘年句会へいきなり紛れ込んだ。
 極端に言えば、古錐さんは川柳というものを正当に勉強し、私は見よう見まねの自己流でただ作っていた。
 古錐さんは岸柳さんの始めた川柳ふぉーらむ「洋燈」へまもなく入会、後におかじょうき川柳社へも所属する。
 私もおかじょうき川柳社にいながら「洋燈」へ入った。
 川柳ふぉーらむ「洋燈」は後におかじょうき川柳社へ併合されたので、それこそ20数年私と古錐さんは一緒に川柳をやって来た。
 句の作り方やスタイルは全然違っていたが互いの存在を認め合っていた、と思う。

 私が古錐さんを特に意識し始めたのはいつ頃だったろう。
 川柳を始めたころ「そんなに長続きしないだろう」と思っていた私は、周りで川柳をやっているひとのことをあまり意識せず、無茶な句ばかり作っていた。
 5・7・5音でさえあればどうにかなる、と思っていた。
 それでも、周りの人達に少しでも追いつきたいと思ってはいたらしい。
 一方、古錐さんがどうだったかと言えば、それが私にはよく分からない。
 何しろ、私は生まれてこれまで川柳教室と名の付くところで教えてもらった事がない。
 だから、古錐さんが川柳教室でどんなことを学んでいたのか分からないのだ。
 先生が北野岸柳さんだから川柳の歴史や作句技術など基礎をきちんと学んでいたことと思う。
 そう言えば、古錐さんは死ぬまできちんとした方で、しかも飛びぬけて頭脳明晰な方だった。
 そんな古錐さんだから柳誌「洋燈」の編集にも携わり、自由詠欄「洋燈集」を担当していた。
 ところが、洋燈に入って間もなく私は「洋燈集」への句の提出をさぼるようになった。
 何たって句ができないのである。
 そんなことが何回か続いたとき、私の勤め先へ古錐さんが電話をくれた。
 曰く「あんたが洋燈集に句を出さないでどうするんだ」だった。
 思ってもいなかった言葉で驚いた。
 私のような海のものとも山のものとも知れないやつが句を出そうが出すまいが「洋燈集」の編集には何の支障もないはずだから、それは古錐さんの思いやり以外の何ものでもなかった。
 人生の大先輩であり、エリートであった古錐さんが私のことを覚えてくれたんだと思うとうれしくもあった。
 それから私は何とか既定の数だけ句のようなものを作って出すようになった。
 あの一言がなければ、もしかしたら私は「洋燈集」に句を出すのをずるずるとさぼるばかりか川柳をやめていたかもしれない。

 それから思い出すのは、私がおかじょうき川柳社の代表になったときのこと。
 第4代代表の岸柳さんが病に倒れてから私はおかじょうき川柳社の代表代行ということになっていた。
 ところが、いつまでも代表代行というわけには行かないから代表になるようにと一部の方々から言われるようになった。
 しかし、代表代行であれば何か失敗しても代表ほど責任を感じなくてもいいと心の隅で思っていたらしく、私は代表になるのをためらった。
 そんなある日、数人のスタッフが集まった打合せの席上古錐さんが言った。
 「代表というのは、ほかの川柳社と何かあったとき”俺がおかじょうき川柳社の代表である”と威張ってさえいればそれでいいんだ」と。
 正直言ってあれにはぶったまげた。
 理屈も何もなかった。
 そして私は思った。
 何があっても俺がついているから心配しないで代表をやれ!と古錐さんは言っているのだと。
 そう思うと気が楽になり、今でも私はのほほんとおかじょうき川柳社代表というものになりすましている。

 古錐さんは川柳もうまかったが、長文も上手だった。
 月刊おかじょうきに「古錐の車窓」を連載し、それには多くのファンがいて「びわこ」の永政二さんもその一人だったと聞く。
 そうだ、古錐さんはカラオケでよく「小樽運河」を唄っていた。

 こうやって私がこの世を去るまで古錐さんは私の心の中に住み続けるのだろう。
 古錐さん、また一杯飲ろうぜ! 

 ●

ともだちになろう小銭が少しある
これぽっちの骨が人生なのかなあ
平行線だからこの手を放せない
みんな生きてる物凄い音たてて
固ゆでの卵ボロボロ恐山
雪しんしん静かに童話続いてる
生きるってやっぱり握り飯だなァ
死後のこと話そうおーい生ビール
真っ直ぐに立てばどこかが曲がってる
日が暮れて迷子だったんだと気付く
被告席に妻を忘れたまま帰る
左手のグラスで象が溺れてる
消臭剤プシュプシュ僕が消えてゆく
             全て「北の変奏曲」からむさしが選出


 *写真と本文は互いに関係がありません。
 *写真をクリックすると少し大きい画像が見られます。

Posted by musan8 at 2016年12月15日 19:33│Comments(2)TrackBack(0)

この記事へのトラックバックURL

http://trackback.blogsys.jp/livedoor/musan8/52750257
この記事へのコメント
「北の街」の原稿を書く前にちょっと覗いたムーさんに古錐さんのこと…。
困りますねえ。これで私は今日一日古錐さんのあれこれを思い出して原稿がはかどらないじゃないですか。なんて逃げ道に利用してしまいました。
私が川柳を始めたのが2000年1月。岸柳さんの川柳教室へ行き始めたのが2002年4月。洋燈に参加したのは2003年になってからだと思います。家が近くなので飲み会のあとは、よく送っていただきました。そのおりに小説家気取りのS氏のことを「Sさんは文章の書き方がわがってねえなあ」と、話された声がS氏の文を見るたびに蘇ります。
青森ペンクラブに入会されたのは2008年と記憶しております。年1回発行の会誌「北の邊」にはいつも川柳を出してくださいましたが、ある年「父を語る」をお願いしました。この企画には父君の写真も載せるのですが、写真は火事でなくして1枚も残っていないとのこと。後日古錐さんが小学生のときに描いたお父さんの絵が見つかり写真の代わりに掲載しました。本年4月発行の19号には『昭和の日』と題した川柳10句が寄せられました。その中の1句
・昭和の日 永遠という絵空事
Posted by 閑女 at 2016年12月18日 10:38
たまにしか更新しないブログなのに、もう見つかりましたか…。
さすが閑女さん、と言うか「「北の邊」編集長。

「あ、古錐さんいないんだ…」とあらためて思ったりしています。
Posted by むさし at 2016年12月18日 11:37