不思議な小皿 の巻

2d84add6.jpg 初めて川柳を作った20数年前のことを今でも思い出す。
 10歳年下の友人に「蟹田に千円呑み放題のところがあるから」と誘われ、行ってみたらおかじょうき川柳社の忘年句会だった。
 一杯食わされたのだ。
 「句会が終わればいくらでも飲ませるから」となだめられ、「ただ待っているのも退屈だろう」と句を作らされた。
 以後句会に出続けている。ではなく、懇親会に出続けている。
 当時、おかじょうき川柳社の句会には怪物がうようよ集まって来て、それを眺めているだけでも飽きなかったし、何よりも懇親会でふんだんに酒が飲めた。
 私は句会のために句を作っていたのではなく、怪物が見たい、酒が飲みたいと句を作っていた。
 その頃の私の句は単なる5・7・5に過ぎなかったが、作りながら「川柳ってどうして5・7・5なんだ」といつも思っていた。
 「5・7・5なのに何で俳句じゃなく川柳なんだ」という疑問もあった。
 そして、これらの疑問は私だけが知らないほんの初歩的なものだから決して他人に聞いてはいけないことで、どれだけ時間がかかろうと自らに問い続け、いつかは自分なりの答えを見つけなければいけないことだと思っていた。
 句会に集まるのは変に熱を帯びたニンゲンばかりだから懇親会での話は尽きることがなく、無理やり終わるのはいつも深夜で、帰りは仲間の車に世話になるしかなかった。
 会場が青森市になってからも家に帰るのはやはり深夜で、今度はタクシーを利用するようになり、それがいつの間にかJR津軽線の最終電車で帰るようになって、今では終電より1本早い電車で帰宅している。
 そんな変化(老化?)と関係あるのかないのか、脳も変化をきたしている。
 「生きる」ことをテーマに書いた5・7・5が川柳だと先輩たちに教えられ、今もそうだと思っているが、前期高齢者になった頃から「川柳とは小皿に盛った自分である」などとあらぬことも思うようになった。
 その小皿は不思議な小皿で、盛るものの内容、形、味などに制約がある。
 盛ることができるのは人間、つまり「自分」であり、それも17音前後にまとめられていなければならない。
 「自分」というものには、自分なりに見た世の中や自然なども含めることができる。
 小皿の縁から鼻や指先がはみ出るのは仕方ないが、全体が5・7・5音のリズムに乗っていなければならない。
 「自分」の特定の部位を刺身のようにそのまま盛り付けることもできるが、こくがあってしかもさっぱりした味に仕上げるのが理想で、煮たり焼いたり蒸したり、粗塩や胡椒を振ったりと工夫が必要である。
 そんなややこしい作業の果てにようやくでき上がる小さな一皿の私。
 そんなむさしなんて、例えできたとしても誰も見たくも食べたくもないだろうが、要するに、これからの私がつくるべき川柳というのはそんなものかなと思うのである。

 すみません鼻が曲がっていませんか  むさし



*この原稿は、2017年7月14日の東奥日報金曜リレーエッセイ「想咲日和」に掲載されたものです。
*本文と写真は互いに関係ありません。

Posted by musan8 at 2017年08月10日 08:38│Comments(2)
この記事へのコメント
大丈夫!
ちゃんと出して下されば
食べます。
好き嫌いはありません。(生卵以外)

ちゃんと薬味つけて下さいね。
味見もして下さいね。
Posted by 櫛子 at 2017年08月12日 01:42
お!櫛子さん!
いらっしゃい。

薬味か…。
それで間に合うかなあ。
Posted by むさし at 2017年08月12日 08:36