「蟹田で千円呑み放題の会があります。一緒に呑みませんか」
と誘われたのは1994年の12月。
45歳のわたしは即座にOKと答えた。
相手は蟹田町に住む10歳年下の友人、戎修氏。
「蟹田川近くの杉野薬局まで来て下さい」
と戎氏から電話があったのは数日後の土曜日。わたしは午後の電車でいそいそと出かけた。
店の前で念のため看板を確かめる。
「飛車堂杉野薬局」と田舎に似合わぬ風変わりな堂号がついているではないか。
薬屋がどうして「飛車堂」なのか、薬屋なのにどうして酒の飲み放題なのか、と看板を見上げていたら待ちかまえていた戎氏が中からにこにこと現れ、まるで拉致するかのようにわたしを店の二階へ連れて行く。
杉野薬局は間口がそれほど広くないが思いがけないほど奥行きがある。しかも、総二階建てだから一般の家とは比べものにならないほど大きい。
後で知ったことだが、おかじょうき川柳社代表杉野草兵氏のお宅だった。
杉野氏の御尊父杉野十佐一氏はおかじょうき川柳社を創設された方で、無類の将棋好きだったという。だから「飛車堂」なのだ。
店の奥には部屋がいくつもあり、蟹田町で相撲巡業があったとき使われたのだとか。
卓球台がいつでも使えるようにセットされた部屋が二階にあって驚いていると、そこを通り抜けたところが目的の部屋だった。8畳の和室二間が一部屋として使われていたような気がする。
がらんとしたその部屋に職業・年齢ともに不詳という感じの、いずれも一癖も二癖もありそうな見知らぬ男達がいた。
それぞれ鉛筆を手に何やら難しそうな顔で座卓に向かっている。
しかし、卓上にはビール瓶も一升瓶もコップもない。酒のつまみらしいものもない。
あちこちに、何も書かれていない細長い白い紙の束があるばかり。
不審に思って戎氏をただすと、彼は頭を掻きながら
「実は、おかじょうき川柳社の忘年句会です」
「句会が終われば呑み放題です」
「呑むまで時間がありますから川柳を作ってみませんか。言葉を五・七・五に並べればいいんです」
「ミカンのことを書いてください。そこの鉛筆で、その細長い紙に書いてください」
などと言う。
要するに、わたしはおかじょうき川柳社の会員候補として戎氏にハントされたのだ。
それにしても「千円呑み放題」とは、わたし好みのいい餌を見つけたものである。
その餌に見境なく食らいついたわたしもわたしだが、結局、このことがあったから川柳に明け暮れる今のわたしがある。
ところが、その時のわたしと来たら川柳のことなど何一つ知らなかった。
それでは困るだろうと、戎氏から少し教えを受けることになる。
彼が実際に何をしてくれたかと言うと、県立図書館から句集を1冊借り出してわたしに無理矢理読ませた。ほぼ、それだけ。
あとは句会に来さえすれば何とかなる、ってなものだ。
わたしがそのとき読まされたのは川柳の句集だと思うかもしれないが、豈図らんや俳句の句集である。
しかも前衛と言われた高柳重信だった。
「これを読んでください」
「高柳重信の句はいい」
「草兵さんも好きなんだ」
と句集を渡されたとき、おかじょうき川柳社には入門者に俳句を読ませるという慣例があるのだろうと思った。
戎氏はほかに何も説明しない。
俳句も川柳も基本は五・七・五だから同じなのさ、なんて理屈も言わない。
あのとき、川柳入門書を渡され手取り足取り教えられていたらへそ曲がりのわたしは今頃川柳をやっていなかっただろう。
そして不思議なことに、入門のとき俳句を読まされたという先輩や後輩にこれまでお目にかかったことがない。
高柳重信はインターネット百科事典「ウィキペディア」に次のように紹介されている。
高柳 重信(たかやなぎ しげのぶ、1923年1月9日〜1983年7月8日)は俳人。本名は高柳重信(しげのぶ)、俳人としては「じゅうしん」を自称した。3行ないし4行書きの多行書きの俳句を提唱・実践し、金子兜太らと共に「前衛俳句」の旗手となった。歌人の高柳蕗子は実子。俳人の中村苑子と事実婚(内縁関係)にあった。
戎氏がわたしに読ませたのは「高柳重信全句集」である。学校で習った「古池や」とか「柿食へば」などとはまるで違うタイプの俳句が載っていた。
その作品から伺い知る高柳重信という人物は、実際はどうか知らないが、芭蕉や子規などと違って行動的な裸の男という感じが強い。わずか十七音ほどの言葉でわたしを機関銃のように撃ちまくった。
わたしは高柳重信という紺碧の空へ真っ逆さまに落ちた。
「三つ子の魂百まで」と言うから「四十五のタマシイ死ぬまで」というのもきっとあるはずで、高柳重信の血は今もわたしの中を密かに駆け巡っている。
わたしが持っている高柳重信の句集は2冊。
1冊は、文庫本サイズで100ページに満たない。黒表紙に金色の明朝体で書名が箔押しされ、その表紙がセロファン紙にきっちり包まれていて独特の雰囲気を醸している。高柳重信句集「夜想曲」(中村苑子編1990年4月初版発行 1991年11月三刷発行 ふらんす堂文庫)である。
これは書斎に置いてあるが、もう1冊は「蝸牛俳句文庫13 高柳重信 夏石番矢編・著 蝸牛社」で、トイレの本棚にある。1994年初版の第1刷。大きさも厚さも普通の新書版ほど。
それでは、高柳重信の俳句をいくつか紹介しよう。
高柳の作品は、2行になったり3行になったり、たまに空白の行があったりする。そのまま列挙するとどこで次の句になるか分かりづらかったりするので、句と句の間に便宜上「*」だけの行を置く。
秋さびしああこりやこりやとうたへども
*
「月光」旅館
開けても開けてもドアがある
*
船焼き捨てし
船長は
泳ぐかな
*
白い耳鳴り
坊さんたちの
とほい酒盛
*
酒を下さい 夜の調律が出来ません
*
あ・あ・あ・とレコードとまる啄木忌
*
まぼろしの白き船ゆく牡丹雪
*
さびしさよ馬を見に来て馬を見る
*
友よ我は片腕すでに鬼となりぬ
*
いまはむかし夜景とあらば桜咲き
*
六つで死んでいまも押入で泣く弟
*
此の世に開く柩の小窓といふものよ
いずれの句も「夜想曲」から引いた。
「まぼろしの」から最後の「此の世に」までの6作は山川蝉夫の筆名で発表されたもの。
「これらの句は川柳です」と言われれば、現に川柳をやっておられる方でも高柳を知らない方は何の疑いも持たないだろう。
しかし、俳句として作られ俳句として発表されたのだからまぎれもなく俳句である。
「高柳重信全句集」を初めて読んだとき、俳句だろうが川柳だろうがそんなことはどうでもいいからこんな句が作りたいと思った。
と同時に、高柳重信の俳句は高柳重信という人間そのものであるということが解って、体のどこかで「絶望」という二文字が点滅した。
それでもわたしは高柳重信のような句が書きたかった。
そうして四半世紀が過ぎた。
今はもう、自分の句の中に自分がいさえすればそれでいいと思っている。
ではあるが…、身の内を流れる高柳重信の血がしきりに何か言ってるような気がしてならない。
どこまでも階段下りて行けば 空 むさし
*この稿は、青森ペンクラブ会誌「北の邊」2020年第23号のため書いたものです。