２０１５年８月７日、金曜日、午前８時。玄関を出ると粘つくようなぬるい空気に包まれムッと来た。
青空なんてどこにも見えないどんよりとした空。
小雨くらい降りだしても何の不思議もないと思うが降ってはいない。
右肩から斜め掛けしたカメラバッグの中身はいつもと同じだが、何となくいつもより重い。
車庫のシャッターを開けて中から赤いマウンテンバイクを引き出す。
こいつはポルシェデザインだ。
ある飲料メーカーの懸賞に応募してもらったもの。
ただし、応募したのは私ではなく家内である。
実は、懸賞でもらった自転車が紅白１台ずつあって、ポルシェデザインでない白い方にずっと乗っていた。
真っ赤な方はその間家の縁側に飾られていた。
しかるに今年、１台目がパンクをしてしまった。
修理に出そうと思ったが、溝が全くなくなる程磨り減ったタイヤを見て気が変わり２台目を使うことにした。
車庫と蔵の間からＪＲ津軽線側の村道へ出る。
門とは逆の西側の、いわゆる裏口である。
このところ暑い日が続いている。
昨日は特にひどく猛暑日だった。
今年66歳になる私だが、これ程ひどい暑さが続いた年を知らない。
夜、枕が濡れてしまうほど汗を掻いた。
私は寒さに弱い人間だが、暑さにも弱い。
寒さは重ね着したりストーブなどの暖房に頼れば何とかなるし、それでも寒ければ布団を引っかぶって寝てしまえばいい。
ところが、家に冷房装置がないので、暑さというのは着ている物を全部脱いでも間に合わないことがあって困ってしまう。
熱帯夜のときは半袖シャツとパンツだけで寝ている。
昨夜は額を流れる汗で夜中に目が覚めた。
濡れたシャツが気持ち悪く着替えしないではいられなかった。
起き上がってシャツを脱いだ時、いきなり強い雨が降って来た。
あわてて寝室や書斎の窓を閉める。
再び床についても依然として雨は降っていて、これで少しは涼しくなるだろうと思っている内に眠ってしまった。
午前６時に目覚めたとき雨は止んでいたが蒸し暑さに変わりはなかった。
きょうは青森ねぶた祭の最終日。青森港で海上運行と花火大会が催される。
そう言えば、昨日６日は70年前広島へ原爆が投下された日だった。
しかし、今の私にそんなことはほとんど関係ない。
年金生活も６年目。
人混みは嫌いだし、戦争も嫌いだ。
楽しみは自転車で近くを散歩すること。
出掛けたついでに道端で雑草の写真を撮るのがもう一つの楽しみ。
毎日同じような写真を撮って飽きないのかと友人達に言われるが、実は昨日と同じ写真をきょうは撮ることができない。
草たちは昨日もきょうも同じように見えるが、実は毎日違う。
わが家の裏口を出ればそこは村道で、左へ１００メートルほど行けばＪＲ蓬田駅、右を向けばいきなりＪＲ津軽線「寺道踏切」である。
踏切を渡り、引いてきた自転車を左の空き地へ立て、バッグから一眼レフカメラを取り出す。
６台目のデジカメだ。
カメラは耐久力を超えると壊れる。
簡単に言えば使い過ぎると壊れる。
そうして５台が壊れた。
今使っているカメラもシャッターを１回修理したもの。
カメラ背面にあるディスプレイをそっとひっくり返し、横にあるスイッチを入れる。
液晶ディスプレイに絞り値やシャッタースピード、電池の消耗度など様々な情報が瞬時に表示される。
異常なしだ。
この空き地は４〜５メートルの幅で南へおよそ１００メートル続く蓬田駅の敷地。
あまり草が刈られないので雑草の写真撮影が趣味である私にはまことにありがたい。
気をつけながら奥へと見て行くが、数日前まであちこちに咲いていたネジバナが一本もない。
「時は過ぎ〜花は散る〜」
なんて馬鹿な鼻歌のようなものを低く唸りながら数歩進むとヒルガオが数輪咲いていた。
昨夜の強い雨に打たれたからだろうか、どれも花びらが傷んでいる。
その傷ついた花びらにこぼれ落ちそうなほど水滴を宿していた。
昨夜のあの雨だろうか。
花を斜め上から狙い、手前の水滴にピントを合わせシャッターを切る。
シャッターボタンを半押しにするとカメラが自動的にピントを合わせてくれるのだが、ほんの少しカメラを前後させ自分が納得できるピントを探し出してから深く押す。
カメラ任せにはできない。
撮影結果をカメラ背面のディスプレイで確認し、更にもう１回シャッターを切る。
きょうのように風がないと１回シャッターを切れば十分なように思うが、それでも２回切る。
癖だろうか性格だろうか、そうしないと気が済まない。
その空き地にはほかにめぼしい花がなかった。
籐の籠を自転車のハンドルに針金で無理矢理くくり付けてある。
そこへカメラを裸のまま突っ込んでストラップをハンドルに引っかける。
そして、右足を大きく振り上げ、やや高く固定したサドルを跨ぐ。
右股関節が痛い。
右足でそっとペダルを踏む。
また、右股関節が痛い。
庭木の雪囲いをしていて梯子から落ち右の股関節を悪くしてからすでに数年。
痛くても自転車へ乗るとき振り上げるのはいつも右足、最初にペダルを踏むのもどうしても右足。
50メートルほど行くと水田が広がり道路が縦横に走っている。
交差点を真っ直ぐ進む。
田んぼの畦も道路の路肩も草で青々としている。
草は私にとって大事なもの。
草刈りが終わったばかりの道端を見るといつもがっかりしてしまう。
農家にとって草刈りは農地の管理上重要な作業だが、私にはつらい。
草を刈られるよりもっとつらいのは除草剤を散布されること。
焼け焦げたような茶色になって嫌な臭いを発散させている草を見ると可愛そうになる。
きょうはむせるほどの緑色。
草を観察しながらゆっくり自転車を走らせる。
いつだったか、ジョギングしている連中が私の漕いでいる自転車をあっさり抜いて行ったことがあった。
私の自転車は歩くスピードに近く、そんなスピードでないと車上から草がよく見えない。
道端にツユクサの群落があって花を上下に咲かせている個体を発見。
左右のブレーキレバーを軽く握る。
音もなく自転車が止まる。
２段に咲いているツユクサは別に珍しくはないが、しゃがんでゆっくり撮ることにする。
草の写真を撮るようになってから10年ほどになろうか。
最初はそうでなかったが、今では草花にも表情があるように思っている。
思わず話しかけたりすることもある。
何だか怒った顔のように見えるツユクサがあったりするが、今カメラを向けられているツユクサは剽軽な顔つきに見えた。
この群落のツユクサは青い花びらが普通より大きく発色もよくみんな立派に見える。
ツユクサの向こうの稲に視線が行く。
穂が出揃っていた。
親父が生きている頃稲作をいつも手伝わされていたが、私は稲のことを全く知らない。
でも、今年の稲は元気そうに思えた。
１枚だけ撮る。
再びペダルを漕ぐ。
自転車のハンドルはいつも気まぐれである。
国道２８０号バイパス手前で側道を右に折れ、北へ向かった。
自宅から１５０メートルほどのところである。
少し行くとオトギリソウとビロードモウズイカが咲いていた。
オトギリソウは背丈が40〜50センチほどの茎の上に小さな黄色い花を数輪咲かせる。
ビロードモウズイカはもっと背が高く茎は太さが１センチほどもある。
直径２〜３センチの黄色い花が数輪その太い茎に直接咲いていた。
オトギリソウは漢字で書くと「弟切草」だったはず。
この草で鷹の傷を治す薬を作ることができ、秘密だったその処方を誰かに教えた弟が兄に斬られる物語があるそうだ。
オトギリソウを撮るたびそのことを思い出す。
ビロードモウズイカは地中海出身の帰化植物で、私の村には10数年前国道２８０号線バイパスと一緒に進出して来た、ようだ。
今ではあちこちに咲いていて珍しくもない。
どっちも２〜３カット撮る。
少し離れたところにアザミが咲いていた。
私は単にアザミと呼んでいるが、ノアザミだろうか。
家に草花の図鑑が10冊ほどあって時々眺めているが、図鑑を見ているからと言って草花をちゃんと覚えているわけではない。
図鑑を開くと草花の写真に説明が添えられているが、どういうわけかその説明を読む気にならないのだ。
どこかの教室へ行けば教えてくれるのだろうが、それも面倒である。
だから、私は植物についていつまでもちゃんとしたことを知らない。
見つけたアザミは一株。
蕾を数個つけているが咲いているのは１輪。
数カット撮って別れを告げる。
国道２８０号線バイパスの路面は周りの田んぼより数メートル高くなっている。
だから、田んぼ側からバイパスへ入るには必ず坂道になった取付道を登らなければならない。
私が今自転車を走らせている測道はバイパスにぴったり寄り添うように延びていて、村道の取り付け部があるたびにアップ・ダウンがある。
股関節の具合が悪い私にはつらいが、道端の草を撮るにはこの道がいい。
アメリカオニアザミが咲いていた。
アザミはみんな菊の仲間だそうだ。
ではあるが、ヨーロッパから渡ってきたというこいつはトゲの数、付き方、花の形がいかにも獰猛そうで菊の親戚とはとても思えない。
こいつの撮影はまたの機会にして通り過ぎる。
自転車という乗り物は股関節の良くない私にはかなり便利な乗り物である。
右足でペダルを漕ぐのはつらいが、左足でペダルを踏むのは何の苦痛もない。
自転車は左足だけでも漕げて走れる。
右足はペダルに載せているだけでいい。
それで、なおかつ運動になる乗り物なのだ。
一時、バイクに乗って写真を撮り歩こうと考えたことがあった。
50ｃｃクラスだと燃費がいいのでかなり乗り気になったが、自転車はガソリンがいらないし普通の自転車であればバイクより格段に安い。
特に私の場合、懸賞で当たった自転車が２台もあった。
バイクに乗っていればペダルを漕ぐこともなく全く運動にならない。
というわけで少し苦痛を伴うが自転車を漕いでいる。
しばらく行って橋を渡ると隣の蓬田集落へ入る。
右の方の水田を何気なく見ると、50センチほど伸びた稲の中に何やら青い物が見えた。
自転車を降りて水路を跨ぐ。
あちこちにミズアオイの花が咲いていた。
管理があまり行き届いていない田んぼなのだろう。
でも、私にはその方がありがたい。
黄色の蕊にピントを合わせる。
しばらく撮って、また北上する。
側道とバイパスの間が４〜５メートルの空き地になっているところでクサフジがはびこっていた。
わが物顔に四方八方蔓を伸ばし紫色の細かい花をあちこちに咲かせている。
クサフジの中でノラニンジンも白い花を咲かせていた。
シロバナノラニンジンというのが本名で、ヨーロッパ原産だそうだ。
ニンジンと言っても根は太くも赤くもならないらしい。
こいつもビロードモウズイカと一緒にバイパスに乗ってわが村へやってきた。
そこから数十メートル行くと空き地に薄紫のギボウシが下を向きながら数株咲いていた。
図鑑ではタチギボウシ、漢字で書けないが「立擬宝珠」である。
この花は昔からこの辺に咲いていたようで、母が「子どもの頃お宮の近くにギンボがいっぱい咲いていた」と言っていたのを覚えている。
母はこの集落からお嫁にやってきた。
お宮とは、今は「蓬田城址」という看板が立っている蓬田八幡宮のこと。
パラパラと雨がこぼれてきて、道路のアスファルトに黒い斑点を作り始めた。
西の空が薄墨でぼかしたような雲に覆われている。
少しは降るような気がしたが大したことはないだろうとペダルを漕ぎ続ける。
バイパスの側道から村道に変わった。
蓬田村は水田が多く、区画整理がなされ中を道路が直角に交差して走っている。
この道路、農業用の道路だから一般的に言うと「農道」なのだが「村道」として認定されている。
村道の方が国からもらえる交付税というお金が多いのだ。
間もなく雨が止んだ。
私の予報もまんざらではない。
次の郷沢集落に入る。
右手に運動場がある。
きれいに草を刈り込まれた原っぱのようなものだが、陸上競技用トラックがあって、誰もいない。
中学校の運動会や村民体育祭などというものの会場になる場所である。
北側の空き地奥でハンゴンソウが鮮やかな黄色の花を咲かせていた。
あちこちの道路脇に大群落を作って日本人にしかめっ面をされているアメリカ原産のオオハンゴンソウとこのハンゴンソウは別のもの。
どっちものっぽだが、こっちの方が慎ましいように思う。
気がつくとその手前の方で膝くらいの高さにカラマツソウが咲いていた。
こいつ、本当はアキカラマツと言うらしい。
まだ咲き初めの小さな房のような花をしゃがんで撮る。
股関節が悪いのでしゃがむのも立ち上がるのも一苦労。
運動場を出ると再び雨が降りだした。
それ程強くもなく、長い時間降るようでもない。
そうではあるが、１００メートル程先にある老人ホームのところで左折し国道２８０号バイパスを横断して西側の側道を帰ることにする。
ここから北へ行き始めるととんでもなくどんどん行ってしまいそうな気がした。
ハンドルにくくり付けた籐の籠へ剥き出しで突っ込んでいたカメラをバッグに入れる。
濡れている。
老人ホームのところの十文字を左折。
この辺の国道バイパスは本線に平行して東側と西側にそれぞれ側道がある。
上り下りの車の往来が途切れるのを待ってバイパスを横切り、今度は西側の側道をゆっくり南下する。
つまり引き返している。
シャツもジーパンも少し濡れてきた頃、雨の勢いが急に弱まって止んでしまった。
雨は止んだが、写真を撮りながらそのまま南下することにする。
バイパスの西側と東側にほとんど同じ種類の植物が生えているのだが、全く同じではない。
少し違うのがあったりする。
水田の排水路にエゾミソハギとアカバナが小さな群落を作って咲いていた。
エゾミソハギは１メートルほどの直立した茎の上部に赤紫の小さなひらひらした花をびっしりつける。
実はこの花、ミソハギかも知れない。
私の持っている図鑑の写真はミソハギもエゾミソハギも大した違いはなかった。
この辺一帯は大昔蝦夷地と呼ばれていたので私は勝手にエゾミソハギと呼んでいる。
母はこの花を「ボンバナ」と言う。
お盆の頃に転作田や道端でわんさか咲くから「盆花」なのだろうか、仏壇や墓に供えたことがあるからだろうか。
今年は暑い日が続いたせいか開花期が早めにずれているようで花がややくたびれていた。
隣のアカバナ、ところによってはもう散り始めているのにここはまだ咲き初め。
薄赤くすましたような顔で立っている。
どっちの花も今年たくさん撮っているので１枚だけ撮る。
少し走ると、また排水路の中で３〜４株花が咲いていた。
エゾミソハギと似たような背丈であまり大きくない黄色の花をたくさんつけている。
排水路が好きなのだろうか。
この花はクサレダマという。
花の図鑑には花の名前がカタカナで書かれている。
最初この花を調べたときクサレダマは「腐れ玉」かと思ったが説明文を読んでいくと「草連玉」だった。
どこにでも咲いているわけではないが村のあちこちで出会う。
この花の姿形が結構好きなので何枚か撮る。
道端の雑草を10年くらい撮って来て、最近は「これ好きなやつだな」とか「そうじゃないヤツだな」なんて思うようになった。
アメリカオニアザミは「そうじゃないヤツだな」の方に属する。
蓬田城址の近くまで戻る。
道路のそばに背丈２メートルほどの細い木が生け垣のようになっているところがあって、アジサイのようでそうでない白っぽい花が咲いていた。
ノリウツギだろうか。
自転車から降りて近寄ろうとしたら手前の藪が何だか気になった。
じっくり見ると、まだ色づいていないイシミカワの実があちこちにあった。
こいつは茎にトゲがあって気をつけなければならないが、赤や紫に色づくとなかなか美しい。
好きな花と言うより、お気に入りの実だ。
まだ緑色だがご挨拶代わりに数カット撮る。
ノリウツギ？の足元ではキツリフネが咲いていた。
どういう訳か花の状態がよくないものばかり。
そのそばにキカラスウリの白い花が３輪あったが、これも状態がよくない。
それぞれお愛想のように１カットずつ撮って自転車へ戻る。
日射しはないが雨が止んだせいかやたらに蒸し暑い。
乾き始めたシャツの袖で額の汗を拭う。
この暑さは目深にかぶったツバの広い麦わら帽子のせいでもあるようだ。
蓬田集落の中程まで戻ってくると道端にハギが一株咲いているではないか。
ハギは草冠に秋と書く。
秋を代表する花ということだろう。
まだ蕾が多いが結構咲いている。
たぶんヤマハギというやつだ。
そうだよな、ねぶたの後ろを秋が追いかけて来るって言うもんな。
暑い暑いと言っても暦の上では明日が立秋だもんな。
そんなことを思いながらカメラの角度を変えながらシャッターボタンを数回押す。
道端の藪に咲くオニユリや、まだ緑のノブドウの実を見ながら自転車を走らせる。
転作田で白いソバの花が一面に咲いていた。
ソバの花独特のにおいに襲われる。
このにおいは「匂（にお）い」じゃなく、明らかに「臭（にお）い」だ。
ソバの花の匂いは好きじゃないが「ざる蕎麦」は大好きである。
ソバの臭いが鼻につかなくなった頃、自転車は橋を渡ってわが集落へ突入。
橋のたもとの小さな空き地で疲れたようにセイタカアワダチソウが咲いている。
その少しこっちにはナガボノシロワレモコウが首を傾げて咲いていた。
これは今年初のお目もじ。
「ご挨拶しなきゃ」ということで自転車を止め、先っぽのぶつぶつを少しアップ気味に撮る。
近くでヨツバヒヨドリがもくもくと花を咲かせ私を誘っていた。
午前10時、きょう最後の１カットを撮る。
今年も、自転車を漕ぎながら、草の写真を撮りながら、ぶつぶつ言いながら秋へ突入する。
このぶつぶつ、いったいいつまで続くのだろう。
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