2005年11月21日

片付いた近代

fb27529e.jpg 日本のことも、会社のことも、大体思うことが片付いてきたので、ちょっと山人らしからぬ世俗的なネ

タばかりになっておりますが、あまり気になさらずに願いたい。まあ、江戸の文化というものは、武家文

化というものでして、その他にも町人文化とか、農村文化とか、公家文化とかいっていたのですね。あの

松・竹・梅というものも、武士・僧侶・公家という階級を指してたんですね。持論ですけど。まあ、あら

かた問題が解決したら、あと自分の問題を解決しなきゃならない。収入の問題や、結婚問題など、そうい

った身近なテーマをどうするかということが、日本の国民の問題として、取り組まねばならない事象にな

ってきます。それが民主主義をどうつくるのか、ということでしょう。もう、ハリウッドの映画はお手本

にならない。子供はどうしたら、増えるか。収入が密接ですね。学費が高いし、家賃も高い。でも、収入

はなかなか増えないんですね。日本とアメリカの関係が深まるにつれて、日本は孤立するというけれど、

そこまで深刻に孤立しているわけではない。ちゃんと、中国や韓国、東南アジアから製品が入ってきてい

るわけだし、日本が孤立して困るのは、かえってアジア諸国であるということがわからないのだろうか。

製品を買ってくれる客を政治問題によってみすみす逃すほど、商売人はアフォじゃない。まあ、そういう

わけで、なんも日本のことを心配することはない。アメリカも日本人の生活文化に対して、うるさく文句

を言わないようだから、あらかた日本は自国の文化を剥奪されずに守りきったといえる。そういうわけで

安心して、正月が迎えることができるだろう。

                               霧山人  
Posted by musanjin3 at 21:23Comments(1)TrackBack(0)哲学

2005年09月19日

第三次ベビーブーム

頭に浮かんでくるのは、ニート・フリーターの解放、それに続く第二次新婚ブーム、そして、第三次ベ

ビーブームという流れである。高齢化における年金問題は、食糧の配給によって、なんとか乗り切る。だ

いたい、中間マージンを取り過ぎるから、物価が高くなるのだ。直接、国家が高齢者の食料を支給するの

だ。どうしようもないときには、それしかないだろう。財務省も、お手上げだが、さまざまな問題はすべ

てをカネによって解決しようとするから、借金が増えるのだ。国民が利益を得るために、国家が負債を被

る。そして、官僚は見栄を張るために国費を浪費する。そして、もう、考えることのできなくなった、頭

のいい人たちは、どういうことだろうか。安くあげようと思ったら、いくらでもコストは落とせる。上杉

鷹山のまねをしなければならないのは、財務省や財務大臣なのに、国民にそれを求めるのはおかしな話で

ある。もう、日本の伝統というヤツは、昭和三十年代の団塊の世代の送った生活スタイルでほぼ決まりで

あろう。それ以前は、悪習である。そこまで言っておかないと、悪い伝統を復活させられて、重税に苦し

められかねないのだ。本当に、大人が圧倒的に悪い。この世にした大人が悪い。自分たちは、散々と良い

暮らしをしてきたんじゃなかったか。なんで、吾輩たちは、ニートやフリーターなんだ。原因はあんたた

ちじゃないのかね。だから、言っとくけど、国家の財政赤字なんて、我々バブルの恩恵のなかった人々に

は関係のない話である。カネではもうどうにもならないのだよ。プライマリーバランスの黒字化までは、

いいとしても、国債償還までは責任は負えない。これは我々にとって、無限のものである。つまり、明治

から続く悪習みたいなものなのだ。文明を手に入れたときから、くっついてきたものなのだ。だから、財

政赤字を理由に、日本国民の基本的人権を奪って奴隷化するというバブルの目的は達成されないであろう

。我々は、昭和の伝統どおりに、第二次新婚ブームと第三次ベビーブームの波をおこすのである。これが

日本の伝統なのである。国の借金なんかに騙されちゃいかん。そんなもの、文明のおまけみたいなものな

のだから・・・。後進国から先進国になるための罠・・・。

                                       霧山人  
Posted by musanjin3 at 18:17Comments(0)TrackBack(0)アナウンス

2005年09月05日

日本文明の由来

80a49885.jpg我が日本の有様を察すれば、大いに西洋の文明と異なっている。日本の文明も、その人間の交際におい

て、固より元素がないというわけではなかった。立君なり、貴族なり、宗教なり、人民なり、皆古より我

国に存在して、各々一種族をつくり、各々自家の説がないわけではないのだけれど、その諸説並立するこ

とができないで、相近づくことができないで、合して一となることができなかった。これをたとえれば、

金銀銅鉄の諸品はあるけれども、これを溶解して一塊にすることができないのと同じようだ。もしあるい

は合して一となるようなことがあるといっても、その実際は諸品の割合を平均して混ぜたものではない。

必ず偏重片軽、一をもって他を滅し、他をしてその本色を顕すことができないものであった。なおかの金

銀の貨幣を造るのに、十分の一の銅を混合するのも、銅はその本色を顕すことができないで、その造った

ものは、純然とした金銀貨幣のようである。これを物事が偏重していると呼ぶ。

 そもそも文明の自由は他の自由を費やして買うべきものではない。他を犠牲にして得るものではない。

諸々の権義を許し、諸々の利益を得させて、諸々の意見を入れ、諸々の力を逞しくさせて、彼と我との

平均の間に存在するだけだ。あるいは自由は不自由の際に生じるといっても可である。自由を認めてもら

うために、不自由な面も我慢するということである。他人を尊重するということ。

 故に人間の交際において、あるいは政府、あるいは人民、あるいは学者、あるいは官吏、その地位の如

何を問わず、ただ権力を有する者がいれば、たとえ智力であっても腕力であっても、その力と名づけるも

のについては、必ず制限があるべきなのである。すべて人類の有する権力は、決して純精であるというこ

とはできない。必ずその中に天然の悪弊を含んでいて、あるいは卑怯であるがために事を誤り、あるいは

過激であるがために物を害すること、天下古今の実際の経験に由っても見ることができる。これを偏重の

禍いと呼ぶ。有力な権威者は、常に自分から戒めるべきであるのだ。我国の文明を西洋の文明に比較して

、その趣の異なる所は、特にこの権力の偏重について見るべきなのだ。

    ( 『文明論之概略』 巻之五 第九章 日本文明の由来 より 概要 )  
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日本文明の由来

36025f3c.jpg我が日本の有様を察すれば、大いに西洋の文明と異なっている。日本の文明も、その人間の交際におい

て、固より元素がないというわけではなかった。立君なり、貴族なり、宗教なり、人民なり、皆古より我

国に存在して、各々一種族をつくり、各々自家の説がないわけではないのだけれど、その諸説並立するこ

とができないで、相近づくことができないで、合して一となることができなかった。これをたとえれば、

金銀銅鉄の諸品はあるけれども、これを溶解して一塊にすることができないのと同じようだ。もしあるい

は合して一となるようなことがあるといっても、その実際は諸品の割合を平均して混ぜたものではない。

必ず偏重片軽、一をもって他を滅し、他をしてその本色を顕すことができないものであった。なおかの金

銀の貨幣を造るのに、十分の一の銅を混合するのも、銅はその本色を顕すことができないで、その造った

ものは、純然とした金銀貨幣のようである。これを物事が偏重していると呼ぶ。

 そもそも文明の自由は他の自由を費やして買うべきものではない。他を犠牲にして得るものではない。

諸々の権義を許し、諸々の利益を得させて、諸々の意見を入れ、諸々の力を逞しくさせて、彼と我との

平均の間に存在するだけだ。あるいは自由は不自由の際に生じるといっても可である。自由を認めてもら

うために、不自由な面も我慢するということである。他人を尊重するということ。

 故に人間の交際において、あるいは政府、あるいは人民、あるいは学者、あるいは官吏、その地位の如

何を問わず、ただ権力を有する者がいれば、たとえ智力であっても腕力であっても、その力と名づけるも

のについては、必ず制限があるべきなのである。すべて人類の有する権力は、決して純精であるというこ

とはできない。必ずその中に天然の悪弊を含んでいて、あるいは卑怯であるがために事を誤り、あるいは

過激であるがために物を害すること、天下古今の実際の経験に由っても見ることができる。これを偏重の

禍いと呼ぶ。有力な権威者は、常に自分から戒めるべきであるのだ。我国の文明を西洋の文明に比較して

、その趣の異なる所は、特にこの権力の偏重について見るべきなのだ。

    ( 『文明論之概略』 巻之五 第九章 日本文明の由来 より 概要 )  
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2005年09月04日

西洋文明の由来

f3fa84b8.jpg 西洋の文明の他と異なる所は、人間の交際においてその説が一様ではなく、諸説が

互いに並立して互いに和することがないの一事にある。たとえば政治の権を主張する

の説ありて、宗教の権を専門にするの論がある。あるいは立君といい、あるいは神政

府といい、あるいは貴族執権、あるいは衆庶為政といって、各々その赴く所に赴き、

各々その主張する所を主張して、互いに争うといっても、互いによくこれを制するこ

とができない。一つも勝つ者がなく一つも負けた者がいない。勝敗久しく決定しない

で互いに相対すれば、たとえ不平であっても、共に同時に存在しないわけにはいかな

い。既に同時に存在することができれば、たとえ敵対する者といっても、互いにその

情実を知って、互いにその行うことを許さないということはできない。我に全勝の勢

いを得られないとして、他の行いを許すという場合に到れば、各々自家の説を張っ

て文明の一局において働き、遂には合して一となるべきである。これがすなわち自主

自由の生じる由縁であった。

 人民自由の気風というものが、すなわち文明進歩の徴候となるのである。

 イギリスにおいて、王室の威権、盛大であるとはいっても、人民もまた商売工業を

勉めて家産を積み、あるいは貴族の土地を買って地主というものが少なくなかった。

既に家財地面を有して業を勉め、内外の商売を専らにして国用の主人になれば、また

坐して王室の専制を傍観することができなかった。昔年は羅馬(ローマ)に敵して宗

旨の改革があった。今日は王室に敵して政治の改革をしようとするの勢いに到って、

その事柄は教と俗との別があるけれども、自主自由の気風を外に洩らして、文明の徴

候であるという意味は同一である。けだし往古に行われたフリー・シチ(自由都市)

の元素も、ここに到って漸く発生したものであろう。

 
 ( 『文明論之概略』 巻の四 第八章 西洋文明の由来 より 概略 )  
Posted by musanjin3 at 23:59Comments(0)TrackBack(0)歴史

2005年08月25日

文明の太平ということ

27c1c1dd.jpg徳義は文明が進むに従って、それまでの権力を次第に失っていくといっても、世に徳義の分量を減らす

というわけではない。文明の進むにしたがって智も徳も共に量を増し、私を拡大して公に為し、世間一般

の公智公徳の及ぶ所を広くして、次第に太平に赴き、太平の技術は日に進み、闘争の事は月に衰え、その

極度に至っては、土地を争う者もなくなり、財をむさぼる者もいなくなっていくべきだ。いわんや君長の

位を争うような鄙のような卑劣な事においてをや。君臣の名義などは既に已に地を払って、子供の戯れに

も地位をいう者がないべきである。戦争も止めるべきだ。刑法も廃止すべきだ。政府は世の悪を止めるの

材料ではない。物事の順序を保って時を省いて、無益の労力を少なくする為に設立しただけである。世に

約束を破る者がいなければ、貸借の証文もただ備忘のために記すだけだ。他日訴訟の証拠に用いるのでは

ない。世に盗賊がいなければ、窓戸はただ雨風をおおい犬猫の入る事を防ぐだけであって、錠前を使用す

る必要がない。礼楽が行われ、道に遺物を拾う者がいなければ、巡査はただ遺物を拾って主人を求めるの

に忙しいだけだ。大砲の代わりに望遠鏡をつくり、牢屋の代わりに学校を建て、兵士罪人の有様は僅かに

古画に存在するか、あるいは芝居を見るのでなければ想像することもできない。家内の礼儀が厚ければ、

また教化師の説法を聞くに及ばない。全国一家のように、すべての家が寺院のようだ。父母は教主のよう

で、子供は宗徒のようだ。世界の人民は、あたかも礼儀の大気に擁護されて、徳義の海に浴するものとい

うべし。これを文明の太平と名づける。

 ( 『文明論之概略』 巻之四 第七章 智徳の行わるべき時代と場所とを論ず より 概要 )  
Posted by musanjin3 at 09:17Comments(0)TrackBack(1)倫理学

2005年08月24日

文明化されているということ

d40ced08.jpg人の文明が漸く開化して、智力が次第に進歩するに従って、人の心に疑いが生じてきて、天地間の物事

に遇っても、軽々とこれを看過することはなくて、物の働きを見ればその働きの原因を求めようとして、

たとえあるいは真の原因を探ることができなくても、既に疑いの心を生ずれば、その働きの利害を撰んで

、利に就き害を避ける工夫をめぐらすことができる。風雨の害を避けるには家屋を堅くして、河海の溢れ

ることを防ぐには土手を築き、水を渡るのに船を造り、火を防ぐに水を用い、医薬を精製して病気を治療

し、水理を治めて旱魃に備え、やや人力に依頼して安心の地位を作るに至ることができた。

 既に人力によって自分の地位を得るための術を知れば、天災を恐怖するという痴心は次第に消散して、

昨日まで依頼していた鬼神に対しても、半ばその信仰を失ってしまうだろう。故に、智恵に一歩を進めれ

ば一段の勇気を生じ、その智恵はいよいよ進めば勇力の発生もまた限りがない。試みに今日西洋の文明を

以てその趣を見ると、およそ身外の万物、人の五官に感じることがあれば、先ずその物の性質を求め、そ

の働きを質し、したがってまたその働きの原因を探索して、一利といえども取るべきはこれを取り、一害

といえども除くべきはこれを除き、今世の人力の及ぶ所は尽きてしまった。

 概してこれをいえば、人智を以て天然の力を犯し、次第にその境に侵入して造化の秘訣を発見し、その

働きを束縛して自由にさせないで、智勇の向かう所は天地に敵がなく、人を以て天を使役する者のようだ

。既にこれを束縛してこれを使役するときは、またどうしてこれを恐怖して拝崇するであろうか。

 既に精神の自由を得た。またどうして身体の束縛を受けるだろうか。腕力、漸く権力を失って、智力、

次第に地位を占め、二者互いに年を重ねることが出来ずに、人間の交際に偶然の禍福を受ける者は少なく

なった。世間に強暴をほしいままにする者があれば、道理を以てこれに応じ、理に伏さなければ、衆人庶

民の力を合わせてこれを制するべきだ。理を以て暴を制するの勢いに至れば、暴威に基づいた名分もまた

これを倒すべきだ。故に政府といい人民というといっても、ただその名目を異にして職業を分けるだけで

あって、その地位に上下の区別があることを許さない。政府はよく人民を保護して、弱小を扶助して強暴

を制するのは、即ちその当たるべき職務であって、これを過分の功労と称するには足らない。ただ分業の

趣意にもとらないだけである。あるいは国君である者は、自ら徳義を修め、礼楽征伐を以て恩威を施そう

とするけれども、人民は先ずその国君の何物であるかを察知して、その恩威の何事であるかを詳細にして

、受けるべきではない私恩はこれを受けず、恐れるべきでない暴威にはこれを恐れず、少しも貸さず少し

も借りず、ただ道理を目的として止まる所に止まるということを勉めるべきだ。

 智力が発生する者はよく自分の体を支配し、あたかも一身の内に恩威を行うために、他の恩威に依頼す

ることを必要としない。たとえば善を行えば心に快いという褒美があって、善を行うべき理由を知ってい

るがために、自ら善を行うのだ。他人に媚びるのではなく、古人を慕うのでもない。悪を行えば心に恥ず

かしいと思う罰があって、悪を行うべきではない理由を知っているために、悪を行わないのだ。他人を憚

るのではなく、古人を恐れるのでもなく、どうして偶然に出てきた人の恩威を仰いでこれを恐怖喜悦する

ことがあるだろうか。

 政府と人民の関係は、文明の人の心に問えば先のように答えるべきだ。国君といっても同類の人だ。偶

然の生誕によって君長の位にいる者か、または一時の戦争に勝って政府の上に立つ者のほかの何物でもな

い。あるいは代議士といっても、もと我が選挙を以て用いている一国の臣僕である。どうしてこの輩の命

令に従って一身の徳義品行を改める者がいるだろうか。政府は政府である。我は我である。一身の私につ

いては少しの事といっても、どうして政府によってくちばしを入れることが出来ようか。あるいは、兵備

刑典懲悪の法も吾輩の身に取っては無用の事である。これのために税をだすのは吾輩の責任ではないとい

っても、悪人が多い世の中において、これと雑居するがために、やむを得ずしてしばらく税を払い、その

実際はただこの悪人に投与するだけだ。そうであるのにどうして政府によって、宗教学校の事を支配して

、農工商の法を示し、甚だしいのは日常家計の事を指図して、直ちに吾輩に向かって善を勧め生を営むの

道を教えるためとかいって、銭をださせようとするのであろうか。謂れのないこと、甚だしいことである

。誰か膝を屈して人に依頼して、我に善を勧めようとして請求する者があるだろう。誰か銭を出して無智

の人に依頼し我に営生の道を教えよといって嘆願する者がいるだろうと。

 文明の人の心事を写してみると、このようなものであろう。

 ( 『文明論之概略』 巻之四 第七章 智徳の行わるべき時代と場所とを論ず より 概要 )  
Posted by musanjin3 at 19:23Comments(0)TrackBack(0)政治思想

2005年08月21日

日米外交の後手

ada04608.jpg郵政民営化のカードを盾に、日米安保をなんとかできないものか。日本の政治家で、そう
いったかけひきができる人はいないな。日米安保があるから、中韓露に敵視されるようだ。
日本の民間人には、関係がない敵視のされかたである。経済力か、軍事力か。また、日本
とアメリカとの関係は、独立戦争後のアメリカとイギリスのような関係にはなれないだろうか。
日本がアメリカで、アメリカがイギリスである。日米の関係は対等で、軍事条約ではなく、
通商条約が二国間関係の主力になるように模索すべきである。中共が攻められないように、
一時、自衛軍を強化しておき、真の独立後、中国のようすを見計らって、軍備削減をはかる
という戦略。また、脱欧入亜の方法論は、見通しが甘かった。アジアといっても、従来の
アジア観は遠ざかっており、アジアの未開性については考慮が浅かった。だから、アジアと
の連携で真の独立を果たそうという試みは困難だろう。アジア自体がいまだに、西洋列強の
支配構図の束縛から精神的に脱し切れていない。文明の精神がなければ、自国の独立は
むずかしい。日本を知ることによって、日本の歴史の未開性を思い知ると、日本の未来は
どうすればいいか、自分たちで築き上げるしかないなと思うようになった。

                             霧山人  
Posted by musanjin3 at 16:32Comments(0)TrackBack(0)宣伝

2005年08月17日

智徳の弁

4171d6ce.jpg文明の人事は、極めて繁多なるを要す。人事繁多なれば、これに応ずべきものとせば、今の婦人の徳行

を見てこれに満足するも、理なしというべからず。支那日本にて風俗正しき家の婦人に、温良恭謙(険)

の徳を備えて、言忠信、行篤敬、よく家事を理するの才ある者は、珍らしからずといえども、この婦人を

世間の公務に用ゆるべからざるは何ぞや。人間の事務を処するには、私徳のみを以て足らざるの証なり。

結局余輩の所見は、私徳を人生の細行として顧ざるにはあらざれども、古来我国人の心に感ずる如く、た

だこの一方に偏して議論の本位を定るを好まざるなり。私徳を無用なりとして棄るにはあらざれども、こ

れを勤るの外にまた大切なる智徳の働あるとの事を示さんと欲するのみ。

 智恵と徳義とは、あたかも人の心を両断して、各その一方を支配するものなれば、いずれを重しと為し

いずれを軽しと為すの理なし。二者を兼備するにあらざれば、これを十全に人類というべからず。然るに

古来、学者の論ずる所を見れば、十に八、九は、徳義の一方を主張して事実を誤り、その誤の大なるに至

ては、全く智恵の事を無用なりとする者なきにならず。世の為に最も患うべき弊害なれども、この弊害を

弁論するに当て一の困難あり。何となれば、今の世にありて、智恵と徳義との区別を論じて旧弊を矯めん

とするには、先ずこの二者の分界を明にし、以てその功用の所在を示すことなれば、思想浅き人の目を以

てこれを見るときは、あるいはその議論は、徳を軽んじて智を重んじ、漫に徳義の領分を犯すものなりと

て、不平を抱く者もあらん。あるいはその議論を軽々看過して、徳義は人間に無用ないとて誤解する者も

あるべければなり。

 そもそも世の文明のために智徳の共に入用なるは、なお人身を養うに菜穀と魚肉と両ながら欠くべから

ざるが如し。故に今、智徳の功用を示して、知恵の等閑にすべからざるを論ずるは、不養生なる菜食家に

向て、肉食を勧るに異ならず。肉食を勧るには、必ず肉の功能を説て菜穀の弊害を述べ、菜肉共に用いて

両ながら相戻らざるの理を明にせざるべからず。然るにこの菜食家なる者、その片言を信じて、断じて菜

穀を禁じて魚肉のみを喰わんとすることあらば、惑の甚しきなり。これを誤解といわざるを得ず。

       ( 『文明論之概略』 巻之三 第六章 智徳の弁 より )


 現代文明は、はなはだ知識にかたよっていて、また智識とも智恵ともいうに及ばないところに止まって

いる。さらに、文明とは智恵と徳義の両方がなければならないので、かなり偏っているといえよう。その

徳義が備わっていない文明は、弱肉強食の競争社会に陥りやすく、富の偏在が生まれてくる。これを、ど

うして文明といえるだろうか。この富の偏在によって裕福になった者共は、その富を社会に還元すること

なく、それを国債という形で貸付ていたのだった。これでは、ニートやフリーターにカネが廻って来ない

はずである。国家に貸し付けられたカネは、国家のお抱え商人に流れ、公共事業で土建屋に流れ、公務員

の給料に流れる。そうなれば、ここからブランド品などの高価な商品の購買にカネがまわるので、そうい

った企業や外国の企業に流れ出していって、一向に地方にはカネは流れてこないことになる。都会と地方

は、二ケタほど物価が異なるために、一層、二極化が進む事になる。そして、富裕層は再び国債を買って

国家に貸し付ける。これで、国家の財政はだんだんと悪化していくのだ。その悪化した財政を立て直そう

と増税を試みるが、二極化した低所得の庶民のところには一向にカネが廻って来ないために、税金を払い

たくても、払えないという状況になってくる。これが、国債における富裕層と貧困層の二極化なのである

。ここには、カネを増やすという知恵は存在するが、智恵とはいえず、徳義がないから、貧困層に対する

思いやりも考慮も存在しない。結局、自分たちのカネを増やそうとしているだけであった。これが、アメ

リカ文明というものである。徳義を重んじる文明は、決して貧困層を苦しめないように動き、テロの起こ

りにくい慈愛のある社会であるといえるのだ。さて、日本はアメリカ文明を取り入れたが、本当にアメ

リカ文明の悪いところは改善しないでもよいというのであろうか。日本は、日本であるから、日本の論議

で、アメリカの欠点を改善するべきであるのだ。弱肉強食とは、本能主義ともいう。

                                霧山人  
Posted by musanjin3 at 16:54Comments(0)TrackBack(1)倫理学

2005年07月14日

言論保護法案

日本の文学を見ていますと、漱石は『抗夫』を書いたときから、漱石は調子が悪くなったと思う。このあたりの経緯はもう一度確認しなければならないが、松本清張の『小説東京帝国大学』を読めば、国民と政府との関係が悪化していくことがわかる。その中に、こういうやり取りがあった。


 「哲学館ちゅうと、ムイアヘッドの倫理学のことで文部省から処分をうけた、あの学校かよ?」

 「はあ」 工藤は目を伏せた。

 「うむ、そうか……あれは、結局、宮内省が文部省をつついち、あの挙に出させたのじゃ。あの学説が天皇の地位を脅かすきにねや。……なんで、君は初めからその学校の卒業生ということをぼくに云わなかったのじゃ?」

 「はあ、どうも云いそびれまして……」

 「思うに、君もあれで肩身の狭い気持になっとるんじゃろう。それは大間違いじゃ。大体、学校側はだんだん文部省に頭を下げちょるようじゃけんど間違いじゃ。あれは、うんと突っ張るがええ」

 「世間の評判も文部省を攻撃しています」

 「それよ。新聞にはいろいろ書いちょるけんど、なに、ああいうものは限界があるきに、ぎりぎりのところから先は、もう、先に進むことが出来ん。皇室の問題になると、へなへなと腰砕けになる。学者も、新聞も自由があるようなつもりで書いちょるけんど、いまの世の中には、どだい自由ちゅうもんはないきにねや」
 
 「どうも、みんな、その辺を感違いしち困る。親爺のところに漢学を習いに来ちょった兆民居士が、こう書いちょる……世のいわゆる民権なるものは、自ら二種有り。英仏の民権は恢復的の民権なり。下より進みて之を取りし者なり。世また一種恩賜的の民権と称す可き者有り。上より恵みて之を与うるものなり。恢復的の民権は下より進取するが故に、其分量の多寡は、我れの随意に定むる所なり。恩賜的の民権は上より恵与するが故に、其分量の多寡は、我れの得て定むる所に非ざるなり。若し恩賜的の民権を得て、直に変じて恢復的の民権と為さんと欲するが如きは、豈事理の序ならん哉……とな」


  こんな具合だ。そして、流れ流れて戦前戦中の言論弾圧、以後の占領統治のときの言論規制となってくる。今、憲法で保障されているとはいえ、どうなのだろうか。まあ、幻想だが…。だから、あったらいいなあ、言論保護法案。これで、人権擁護法案はなんとかなるのではないでしょうか。

                                

                             霧山人


  
Posted by musanjin3 at 18:36Comments(0)TrackBack(0)文学

啄木の歌2

   
   田も畑も売りて酒のみほろびゆく故郷人にこころ寄する日

         (『スバル』掲載 石川啄木 明治四十三年)

 やはり、啄木の歌は今の朝日歌壇には載らないだろうなぁ、という深刻さがある。朝日社員自体が深刻

さがないからである。官僚にも深刻さがないのは、やはり庶民よりももらっているからだ。未だに朝日新

聞を取り続けているのは、やはり平和ボケしたいという欲求があるからだろう。しかし、現実を変えるこ

とに資するも、ジャーナリズムの使命である。やはり、人間というものは、国家が潰れる、会社が潰れる

、家が危ないという危機感の中でしか、本領を発揮しないものなんでしょうか。上に挙げたような状態は

今でもおこっているでしょう。田畑が宅地や店舗になってますからね。バブルのときの土地値上がり後、

土地を売ってドンちゃん騒ぎをした人々は、酒(ドンペリ)飲んでほろびゆくんだろうなぁ。吾輩の眼下

にも、酒のんで滅びた人たちがいろいろ映っているよ。焼酎ブームとか、飲みすぎ厳禁だ。田畑を売れば

、あとはサラリー貰いか、年金受給だけしかない。農作業の楽しみを捨ててしまった。産業に有利な行政

を改めて、環境に有利な行政に移行すべきだ。農政の復興こそ大事である。

                               霧山人  
Posted by musanjin3 at 10:24Comments(0)TrackBack(0)文学

啄木の歌

 
 ふるさとの村医の妻のつつましき櫛巻などもなつかしきかな

            『スバル』掲載 啄木 明治四十三年

 医者の世界も小説の舞台に取り入れようと思っております。明治の医者の妻、それは本当につつましく

犠牲愛のような存在だった。しかし、現代の医者は裕福すぎるほど裕福だ。それは、医者不足を建前に、

未だに税制において、優遇されているのだ。もはや、医は「仁術」ではなく、医は「科学技術」の時代に

なってしまった。そして、医者の妻の座は、金持ちのステイタスとなっていた。また、長期入院患者の食

費すらも自己負担になった。国民健康保険も値上げして、十分になえるはずなのに、どうして、そっちの

ほうもけずらんといかんのか。もっと、患者を金蔓だと考えないようにしないといけませんな。病院は商

売じゃないでしょ。そのうち、高木兼寛をモデルにしたキャラをつくるから、みならっていただきたい。

所詮、ブラックジャックは高木先生にはかなわなかったよ。

                                                             霧山人  
Posted by musanjin3 at 09:58Comments(0)TrackBack(0)文学

2005年07月13日

妄言

 推理小説を考えているんだが、最近、右派ナショナリズムの掲示板その他への圧力が凄まじい。やっぱり、中国・朝鮮を非難するところは厳しい状況だ。
やっぱ。ソフトバンクの人でしょうか。わからん。最近、あちらも重いので仕方が無い。親日の人たちは、反日勢力に流されることを極度に嫌っています。教育関係や現在の精神の戦いを描いた小説になっていきそうです。

                           霧山人  
Posted by musanjin3 at 11:24Comments(0)TrackBack(0)アナウンス

2005年07月11日

無題

          自ずから笑う壺中大夢の人

          雲寰縹緲として忽ち神を忘るる

          三竿の旭日 紅桃の峡

          一丈の珊瑚 碧海の春

          鶴は晴空に上りて仙翮静かに

          風は霊草を吹いて薬根新たなり

          長生 未まだ蓬莱に向かって去らず

          不老 只だ当に一真を養うべし

            (『漱石詩注』 第三 無題十一月十三日より)

 みずから笑う、仙人の壺の中の天地のような大夢の人。雲ある天地はひょうびょうとしたわしくうるわしいはるけさをもって、忽ち吾輩の心を忘れさせる。高く上った太陽が、赤い桃の花咲く山のはざまを思わせる。一丈の珊瑚は、碧海の春に。鶴は晴れた空に舞い上がりて、仙鳥ゆえにその羽、静かに。

風は神秘なる貴き草を吹いて、薬となる霊草の根が新鮮に育つ。長い人生、いまだに蓬莱山に向かって去らないでいる。老いずして、ただまさにひとつの真実を養い育てていく。

 ある掲示板がきっかけ?で、交代劇を果たした、とあるジャーナリズムの刷新に祈りをこめて、取り上げた詩文である。言論の自由を保持するためだけに、正義をかかげた勇気は汲んでいただきたい。

不正はいかんのであって、その業がちょっとしたきっかけで、一回転しただけだろう。言論にたずさわるジャーナリズムの汚名を挽回するためには、さらなる使命に燃えて、日本のために働くのみである。

吾輩は現実の場を再建するために、働くだけである。ここにおいて、とがなきことを嘆願して、後々の日本の発展に尽力をつくすことを願わんと欲す。

                            霧山人  
Posted by musanjin3 at 20:35Comments(0)TrackBack(0)文学

幻想と現実と

一つの幻想、それはインスピレーション、直感、そして勘によって出現してく

るもの。それは、やがてすぐには目に見えてはこない現実に突き当たることが

ある。その現実の姿にぶつかったとき、一体、どうすればよいか、それを考え

るのは吾輩だけでは不可能である。そこが、幻想である所以であるのだ。それ

が、幻想であるが故に、幻想を真実として完全に理解することはできないの

だ。真実とは、やはり、あるテーマに直に触れているものにしか、手ごたえが

得られないものであり、もちろん、吾輩がその遠くにある真実をどうにかする

ということはできないのである。そこがまた、幻想である所以なのである。し

かし、その幻想において、自分が直に触れている問題に関して利するものがあ

る場合、それを自分流に解釈して、真実とする場合もあるかもしれない。それ

は、偶然に支配されているが、その偶然性が縁覚として、働くことも多分ある

にはちがいないが、それは吾輩にはうかがい知ることのできないことである。

そのことを、どうかご了承願いたいものだ。         

                         霧山人  
Posted by musanjin3 at 18:04Comments(0)TrackBack(0)哲学

日本文化論



今の日本人が再び読むべき初心者向けの本。1976年のことだから、三十年は日本および欧米は、
思想的空白に陥っていた様子であります。この本を読めば、また未来への希望がわかるようになるに
ちがいありません。また、何をすべきかもわかるにちがいありません。


                          霧山人

http://blogs.yahoo.co.jp/rkfjj865



  
Posted by musanjin3 at 17:32Comments(0)TrackBack(0)哲学

2005年07月06日

角栄の失脚



 日本の政治家が、真の国民政治を行えなくなった神話がこの本にあるように思えます。細川政権の挫折、そして、それ以後の日本の顚倒は、角栄失脚のような政治家の葬られ方を恐れるがための動きでしょう。小泉政権も反米を避け
つつ、磐石とはいかないアメリカ政権の懐刀として、その基盤を維持しているように思えます。今後、角栄失脚の怨念を破って、国民政治を行ってくれる政治家は現れてくるのでしょうか。           霧山人


http://blogs.yahoo.co.jp/rkfjj865  
Posted by musanjin3 at 15:18Comments(1)TrackBack(2)政治思想

2005年06月29日

文学のすすめ

Posted by musanjin3 at 17:34Comments(0)TrackBack(0)文学

2005年06月22日

太宰 治

Posted by musanjin3 at 10:51Comments(0)TrackBack(0)文学

2005年06月21日

岩野 泡鳴





http://blogs.yahoo.co.jp/rkfjj865/5153650.html

岩野泡鳴は、道徳の頽廃期において、身をもって、道徳の必要性を体験してくれた作家です。
泡鳴のようにならないようにしましょう。
                     霧山人  
Posted by musanjin3 at 20:01Comments(0)TrackBack(0)文学