February 12, 2017

【ネオアコ】がカッコ悪い7つの理由

かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう

これは早川義夫が1969年のジャックス解散直後に発表したソロ・アルバムのタイトルだが、
今回のテーマである「【ネオアコ】はどうしてカッコ悪いのか」とは全く意味が異なっている。
早川義夫の方は「カッコつけ(すぎ)るとカッコ悪い」という意味合いだろうけれど、
今回のアジェンダは「そもそもカッコ悪いものはいつまで経ってもどこまで行ってもカッコ悪い」、
ひいては自虐的かつ逆説的に「カッコ悪いことはなんてカッコいいんだろう」
という意味合いであって、明らかにスタート地点が異なっている。

【ネオアコ】のスタート地点については
ネオアコZINE´△僚説にも記したが、簡潔にまとめると…
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現状の否定として誕生した【ロック】が体制的になり、
そのことへの反発から湧き出た【パンク】も
否定の否定という二重否定以上の現象を生み出さず、
代わって否定を肯定する姿勢から誕生した【ポストパンク】が
1980年代前半に英国のインディーロックとして台頭。
その【ポストパンク】から派生したスタイルが、
従来のアコースティックミュージックより「新しい」ことから
【ネオアコースティック】と呼ばれるようになり、
その新鮮な発想とアプローチはごく自然に反作用的な否定を生むことに成功。
【ネオアコ】は1990年代に日本の某バンドが流通に寄与した単なる略称で和製英語。
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■1■ そもそも成り立ちからしてカッコ悪い

カウンターカルチャー=【ロック】のカウンターカルチャー=【パンク】の
カウンターカルチャー=【ポストパンク】のさらに派生形が【ネオアコースティック】だなんて、
結局ふりだしに戻っているような気もするし、あまりにもまどろっこし過ぎてカッコ悪い。

【ネオアコースティック】は否定を肯定する姿勢から反作用的な否定を生む。

非常に哲学的で禅問答的でひねくれていて一見難しい物言いに聞こえるが、言い換えると
「人生は悪夢のようなものなのだから、私は私なりに生きてゆくんだもん」という、
どこかで聞いたことのあるような台詞になる。
そしてその台詞の世界観に、1980年代前半に激しく共感した方々と
後追いでその世界観にハマった方々が、きっと今こうしてこのブログを読んでいると思われるが、
僕達/彼らに共通しているのは、
これまでのぬるま湯的な既成の世界観を覆す『The Queen Is Dead』の精神。
つまり【ネオアコースティック】は、The SmithsのMorrisseyの歌詞の世界観そのものなのだ。
(「スミスはネオアコか」の論議に全く興味がないのは、
「スミスこそがネオアコースティックだから」という結論を持っているからだけでなく、
論点が完全にずれているからである)

■2■ ひとりぼっちはカッコ悪い

そんなわけで、そもそも【ネオアコースティック】が否定の肯定から端を発しているせいか、
「どうせ僕なんて」的な自己憐憫やその反動からの自己愛など
思春期特有の趣きも手伝って、どこまでいっても単位は「自己」、つまり「個」だ。
そう考えると「個」単位の音楽であるからして、いつどこの「個」が名付けたのか、
【ネオアコースティック】や【ネオアコ】という呼称の発祥も当然定かではなくなる。
また、過去に「個」の世界観を持つ音楽に傾倒していたことに対して、
「哀愁」や「サウダージ」といえば聞こえはいいが、
どちらかというと「後ろめたさ」に近い感情を抱き始めるのも真っ当な社会人の成れの果てだし、
さらに加齢と共にもっと「個」から解放されていればという悔恨の念とセットになって、
どこかで「こんな音楽を聴いてきてよかったのだろうか?」という
過去から現在への自分自身=「個」へ跳ね返った疑念をも抱くようにもなり、
挙げ句の果てには「あの狂った季節は何だったのか?」を検証したくなり、小生のように
ネオアコZINE> と称して家系図を紐解くがごとく「相関図」を作ってみたくなるような、
そんな後ろ向きの構造が【ネオアコースティック】や【ネオアコ】の内部にはある。

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群れるのもカッコ悪い。だからといって孤独を貫くというのもどうだろう。
「孤高」という言葉には確かにカッコいいイメージがあるけれど、
突き詰めて煎じていくと、結局寂しい「ひとりぼっち」という悲しい事実に行き着いてしまう。
Aztec Cameraが『Oblivious』で歌っていたような
「僕らのことを淋しがり屋と呼ぶけれど、僕らはただ一人きりでいるだけさ」
といった、いわゆる「個」の本質、本性である強がりの姿勢が
【ネオアコースティック】や【ネオアコ】にはいつの時代も垣間見える。
これは到底カッコいいとは言えない「引きこもり」的かつ「閉じこもり」的な姿勢だ。
この姿勢が発展して、第三者が【ネオアコースティック】や【ネオアコ】のことを語ったり、
【ネオアコースティック】や【ネオアコ】の曲をかけたりすると、
鼻で笑うような対応しかできなくなるような人間性が生まれる。
【ネオアコースティック】や【ネオアコ】に関与すること自体がカッコ悪さの極致であり、
器の小さい人間のさらなる増殖に寄与している気さえする。
もしかするといいだけ分別もついて歳をとり人間関係を殊更重視するようになった
2017年の今だからこそそう感じるのかもしれない。
1983年には「一人きりでいる」という姿勢がものすごくカッコよく感じたのだから。
それは当時の時代的空気感がそういう風潮だったことも大きいが、
何より「今が一番時代の最先端だ」といった
今では決して抱くことのできない絶対的自信があったからだろう。
今の時代には誰も自信なんて持てっこない。
やはり長年生きていると、過去の方が美しく思えることの方が多くなるものだ。
八神純子の『思い出は美しすぎて』が浮かんだ方は、すでにこの退行現象に陥っている。



■3■ めんどくさいのがカッコ悪い

さて「【ネオアコースティック】や【ネオアコ】」と2つの言葉を並列的に書くと長くなるし、
もう難儀なので、これからは【ネオアコ】に絞ることにしたいのだが、
こう前置きすることすらカッコ悪い。というよりめんどくさい。
そう、【ネオアコ】はめんどくさいのだ。

どのバンドが【ネオアコースティック】で、どのバンドが【ネオアコ】か。
時代的にどこまでが【ネオアコースティック】で、どこからが【ネオアコ】か。
そういっためんどくさいテーゼから始まって、
音的には似たような【C86】や【アノラック】や【twee pop】との相違も全く不明確で、
言葉を使う時もいちいち思案しなければならず、とにかくあちこちでめんどくさい。
多くの音楽評論家の適当な解説による何だかややこしい時代背景も同時に孕んでいて、
実態がつかめないのが何より複雑だし不甲斐ないしめんどくさい。
そのめんどくささが今の時代に【ネオアコ】という言葉を発する瞬間に付き纏い、
そういった些事に拘泥している自分自身にもカッコ悪さを感じるという負のスパイラルを生む。

■4■ 胡散臭さがカッコ悪い

【ネオアコ】も【ネオアコースティック】もいくら英語に直しても実は日本でしか通用しない。
それも何だか音楽価値的に低くなっている要因のようで何だかちょっとカッコ悪い。
どうせなら世界共通語の【インディーポップ】がこの2つよりも深く浸透していれば、
この問題は全く勃発しなかったのに、どうして【ネオアコ】だけが広く伝播してしまったのか。
それはもしかしたら日本の「ファッション」と密接に関係していたことが大きいかもしれない。
例えばファッション雑誌『オリーブ』。例えばアニエスbのボーダーシャツ。
例えばカジヒデキの短パン。(そういえばPale Fountainsの『Just A Girl』も縦縞に短パンだな)
そのカジヒデキがどのような経緯で独特のファッションスタイルに到達したかというと、
実はDerek Jarmanが監督したThe Smithsの『The Queen Is Dead』(また登場)のPVでの子供の
衣装がまさしくボーダーシャツに短パンで、それがカッコよく見えたから、ということらしい。
そのインタビュー記事をネットで読んで、大いに納得した。

衝撃を受けたものへのオマージュを込めて、そのスタイルを踏襲する。
そこに【ネオアコ】の正体を見たような気がしたからだ。
とどのつまり【ネオアコ】は【ネオアコースティック】に衝撃を受けた者が奏でている音楽で、
所詮二番煎じであり真似事に過ぎない。
日本人が英国人の音楽やファッションを模倣しようとしても、
どうやっても越えられないハードルが立ち塞がっているはず。
何も人種や国籍や言語の話を持ち出そうとしているわけではない。
精神的にも肉体的にも、そもそも構造や背景の違うオリジナルな西洋文化を
オマージュと称して東洋で踏襲することなんてやっぱり無理な相談なのだ。
それは結局、模倣や真似になってしまう。模倣や真似は非常に胡散臭い。
特に音楽に対し影響を与える可能性が高い「ファッション」は、
やはり一過性の流行という意味合いも濃くあり、そういった意味でも胡散臭さを手伝っている。
永続しそうもない、その場限りの音楽。
渋谷をうろつくような奴らが騒いでいる音楽【渋谷系】が揶揄されるのは、
小さい島国日本でごく一部が騒いでいる音楽【ネオアコ】が揶揄されることと同様、
そういった怪しくて本物ではない胡散臭さの象徴のような気がしてならない。
ポップアイコンを標榜し「ファッション」と共に時代と添い寝するだけの刹那的な存在は、
やはり胡散臭いと言われても仕方がないし、イミテーションにはそもそも価値がない。
うわべだけをとらえるとどうしてもきつい物言いになってしまうけれど、
胡散臭いものはどう転がしても煮ても焼いても、やっぱりカッコいいとは言えない。



■5■ 何だか語感もカッコ悪い

ここまで来て何だか【ネオアコースティック】の略語という役割を超えたところに、
【ネオアコ】のカッコ悪さがあるように思えて仕方がなく思えてきた。
それは先述のように、めんどくさく胡散臭いことも決定的な要因だと考えるが、
きっと【ネオアコ】という言葉の響き自体にもカッコ悪い問題は潜んでいる。

「キムタク」や「ミスチル」のような破裂音がないので語感的にも弱々しいし、
「オコエ」ならまだしも【ネオアコ】の「ネ」が弱音っぽく、
「オア」という言葉の並びも何だか脆弱で、どう贔屓目に見てもカッコ悪すぎる。

■6■ 意味不明なのがカッコ悪い

【ネオアコ】という言葉だけでは意味がストレートに伝わらないのも非常にマイナス要素だ。
【ギターポップ】なら「ギターを使ったポップなんだな」とわかるし、
【シティポップ】なら「都会的な洗練されたポップなんだな」とすぐ認識できるのに対し、
【ネオアコ】は冒頭の序説にも記したように、時代考証的にも一周廻らないといけないし、
一周回った分だけハードルが上がって、更に難しくわかりにくく使いにくくなっている。
やはりこの四文字だけでは直感的に意味を理解できないもどかしさやめんどくささがある。
【ネオアコースティック】であれば「アコースティック」があり、ちょっとカッコいい響きで、
音や楽器を想起させることから、何となく純粋で汚れていないイメージは伝わるものの、
【ネオアコ】ときたら現代の広告代理店的戦略であれば絶対に採用されない最悪の代物だ。
「AIDMA(アイドマ)の法則」がまるで成立していない。

また、【ソフトロック】や【ポストパンク】や【インディーポップ】のように、
「ロック」や「パンク」や「ポップ」といった既成の音楽ジャンルを示す単語が
【ネオアコ】には盛り込まれていないのも重大な欠陥だ。
【ネオアコ】だけではそもそもどういう意味なのか、何のカテゴリーなのか、
これは一体音楽のジャンルなのかという大前提すら判断しにくい。
つまりは思考回路を働かせなければならず、今となってはそれすら働かせるのがめんどくさい。
めんどくさいのは現世においては、カッコ悪いの代名詞でもある。

では【ネオアコ】にとってかわる新たな用語は? という当然の疑問があることは百も承知だ。
ここまでカッコ悪いを(意に反して)連発しておきながら、
何の代替案も持ち合わせていないのは輪をかけてカッコ悪いし、
【ネオアコースティック】好きを標榜している自分にも相応の意地や沽券というものがある。

まず「ロック」という単語は極力排除したい。
どちらかというと個人的には「ポップ」に近いテイストを語感で感じたい。
「ロック」にはカッコつけすぎてカッコ悪くなる危険が孕んでいる。
その点「ポップ」は丸くて柔らかく、誰からも愛される汎用性がある存在のような気がする。
【ネオアコ】は基本「ポップ」であらねばならない。「ロック」である必要はそもそもない。

【ネオアコ】が有する精神性に、
いつでも緑に満たされる常緑樹になぞらえて「エヴァーグリーン」というのがあるので、
【エヴァーポップ】というのはどうだろう?
「Ever」という単語は、Oasisを想起させるからNGとか、
Feltに『Evergreen Dazed』という曲があるからOKとか、
いや「エヴァー」なんてハナから意味がわからないとか、いろいろ意見が分かれそうだ。

ではもっと包括的な言葉として【ネオポップ】はどうだろう?
「新しいポップ」。
【ニューミュージック】だともう過去に日本で既出なので、
それをポップに言い換えただけだけど、
【ネオポップ】だと現代美術ですでに使用済だから仕方なくOKとか、
新しい清涼飲料水みたいだからNGとか、こちらも賛否両論ありそうだ。

それならば折衷案として【ポップロック】あるいは【ロックポップ】はどうだ?
いやいや、これでは全く音が想像できやしないし、そもそも本質を見誤っている。
もうわけがわからなくなってしまった。ここまで来ればもうゲシュタルト崩壊だ。
あぁ頭も悪いがカッコも悪い。うーんこまった。

■7■ 結局僕達自身がカッコ悪い?

もう論も尽きた。精も魂も尽き果てた。
これはもうじき53歳になるオジさんが考えるべき問題ではない。
53歳はもっと会社の経営におけるリスクヘッジについて思考を巡らせるべき年齢であるべきだ。
同い年のRoddy Frameだって、最近は何も語らず静かにしているじゃないか。
そして、もはやこれ以上論を続けることにもあまり意味を見いだせないし、
これ以上続けると話がもっとややこしい方向に行って、
めんどくさい思考を捻り回さなければならず、それこそカッコ悪さの上塗りになってしまう。

【ネオアコ】がカッコ悪いのは、もしかすると往年の愛好者である僕達が、
【ネオアコ】砲よろしく、こうやっていまだに口うるさく物言いをするからかもしれない。
いや、きっとそれが最大の要因なんだろう。
悔しいけど。



それでもなお【ネオアコースティック】や【ネオアコ】を愛し聴き続けてるのには、
人知を超えた何か宇宙的な力が作用しているとしか思えない。
この件についてはまた日をあらためて考察したい。  
Posted by muselection at 22:00Comments(0)TrackBack(0)music | life

December 29, 2016

おそらく世界屈指

神懸かり的な巡り合わせによって発生した一瞬の化学反応で
普遍性を封じ込められたものは、
エヴァーグリーンで永遠に輝きを放ち続ける名作となり得る。
Prefab Sprout『Steve McQueen』。
あまりにも奇跡的な出会いの結晶。

『Steve McQueen』のことを愛する度合い。
『Steve McQueen』の所有数。
おそらく世界でも屈指の存在だと思う。

もし明日絶命するなら絶対聴いておきたい作品。
人生で出会うことができて心底良かったと思える作品。
そういう作品に巡り会えたとしたら、それは本当に本当に幸福な生涯。
僕の場合それは間違いなく、Prefab Sproutの『Steve McQueen』。

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Posted by muselection at 22:46Comments(0)TrackBack(0)Prefab Sprout | music

November 13, 2016

地方在住者における既得権益の正しい使い方

過日上京して最も衝撃的だったのは
買い手の自分が売り手の店主に怒鳴られた事だった。

これは地方では滅多にない体験だったが、
今回お会いした中央在住者は全員が全員、
その店主の悪態や罵言を既に周知し諦観していた。

「あそこはそういうところだから」「仕方ない」「やむなし」
「そういうところだと思いながら付き合うしかない」
「頭がおかしいだけ」「本当は良い人だと思うけど口は悪いよね」
「もう何年も行ってない」「客商売を何だと思ってるんだろう」
「お前のところにいったい幾らつぎ込んだと思ってるんだ」云々。

その店はネオアコースティック系の品揃えが豊富だったこともあって
僕のように学生時代から通販で大量の商品を購入していた人も多いはず。
そんな地方在住者にとって30年間ずっと知らずに過ごしていたパンドラの箱的な実態、
それはすでに中央においては「常識」だったのだ。
そういった暗黙の了解はある種の既得権益とも言える。
それは大なり小なり中央にも地方にもあるのだけれども。

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しかしながら自分は地方在住のため中央の余計な情報や不用な関係性が排除され、
純粋に音楽や文化を愛せる環境にいた。
だからこそ想像力と感性と憧憬を拠り所に(もうそれだけを頼みの綱として)、
自分なりに形成してきた音楽観や世界観それに矜持に対しても
何ら疑いを持つ事なく献身的かつ一途に突き進んで来れたのだろう。
言い換えれば、これもある種の地方在住者だけが得られる既得権益なのだ。

そしてここにいくつかの画像をアップしているが、
そのチョイスからも深い意味を読み取れるのが地方在住者の特権だとも言える。

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それは自分が授かった武器と甘受したい。
しかしそれを凶器に変えるのは壮大な曲解でありただの傲慢だ。

地方在住者はその独自の視点から物事を捉えればいいし、
無垢な愛情を熱源として、
耳から聴こえる音以外から得られるものすらも悠然と濾過し、
可能な限り自己表現する事で世界に還元していくだけでいい。
それが地方在住者における
正しい既得権益の使い方だと思うのだけれどもいかがだろうか?

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October 10, 2016

永遠にみる不完全な夢〜Sarah Records

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すっかり秋めき肌寒い連休、
哀愁漂うネオアコースティックを聴きたくてSarah作品を聴こうとしたのだけど、
自分にとっては珍しく作品が全くコンプリートされていなくて途中で購入放棄した形跡が散見。
メディアの混在や連番の中抜けも甚だしい。
どうしてそんな事態が起こったのかを振り返ってみた。

7'

札幌のレコード店でSarah作品を購入できるようになったのは1989年に入ってから。
それ以前のアナログはすでに全国的に入手困難な状況だった。
途中からでも作品を連番で揃えられるカタログ的な収集は当初は新鮮な喜びだったが、
徐々にリリース形態が判明してくるにつれ喜びではなくなってきた。

10'

1987年にThe Smithsが解散し心に大きな穴が開いた僕達に純粋なDIYインディー精神を
呼び起こしてくれたはずのSarahに少し違和感を感じ始めたのは、
連番買いが必ずしも毎回名曲とは限らなかったからではなく、
どちらかというと購入そのものに「背徳感」がなくなってしまったから。

それまでなけなしのお金をレコードにつぎ込む際に感じていた
ある種の「背徳感」が、いつの間にか連番で揃えなければという「義務感」や
付き合わされているのではという「疑念」に変わってしまったことに気づいた瞬間、
喜びは去り、夢から覚めたようにSarah作品の購入意欲が一気に失せてしまった。

勿論Sarahのバンドや作品が悪かったわけではない。
単に共同幻想から僕が脱落しただけ。
作品が良くて聴きたくて買っていたわけではない自分に辟易しただけ。
責任転嫁するようだけれど、ある種の催眠商法的な洗脳に染まっていた気もした。
言うなれば魔法が解けた。それが1990年の後半だった。

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cd

The Smithsがラフトレから作品をリリースしていた頃には魔法はかかりっぱなしだったし、
それにかかっていた事すら気付かなかったのに、Sarahの魔法は案外簡単に解けた。
それは複数のバンドを連番でリリースする限界だったからかもしれないし、
時代が90年代を迎えていたからかもしれない。

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これ以上Sarahから得られるものはない。
良い曲はいつかコンピ盤に収録される。
そんな袋小路的思考に風穴を開けたのはBlueboyの【Sarah055】だった。
彼らの奏でる音に不純物は一切混じっていなかった。
彼らだけは本物だと確信できた。彼らの魔法にだけはかかってみようと思った。

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しかしBlueboyという新たな希望を携えた魔法は
レーベルの終焉に伴いShinkansenへの乗り換えを余儀なくされ、
そして2007年のKeith Girdlerの夭折をもって完遂を迎えた。
それは今振り返ると本当の意味でSarahという長い長い夢から覚めた瞬間だったかもしれない。

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紙カラー見開きジャケットCD【Sarah100】のリリースで幕を閉じた
Sarahの精神は純粋なものだったに相違ない。
それは名作群を聴けば誰にでもわかる。
ただ僕達は邪な考えを抱くくらい年を重ねていた。すでに一度桃源郷を経験していた。
夢は二度寝では続きを見られるわけではなかったのだ。

ちょうどアナログとCDのリリースが入り混じった端境期だった事も手伝って、
個人的にSarahには複雑な感情が今でも残る。
しかしそういった過去の経緯も含めてのインディーポップファンであるべきなんだろう。
僕はSarah作品を永遠にコンプリートしないつもりだし、きっと永遠にできない。

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July 24, 2016

2016 ネオアコースティックZINE

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2016年7月18日(月・祝)11:00〜19:30 さっぽろテレビ塔2F
NEVER MIND THE BOOKS 2016で前年に引き続き出展

ネオアコースティックZINE【muse603】『ナニアコ』の概要です
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EVERYTHING
REMINDS
US OF
SOMETHING
FANTASTIC

『何を見ても何か素敵なことを思い出す』

Neo Acoustic threadassociators

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●内容

【表面】
・24名のネオアコースティック最重要人物★を関連作品と共に紹介
 及びその人物が主に関連した
 総勢642のバンド/アーティスト名をジャケットとスレッドで紹介
・表紙(写真上参照)
・序文「したたかに彷徨う1000の方法」(日本語+英語)

★最重要人物
Louis Philippe, Johnny Marr, Robert Wyatt, Edwyn Collins
Kate St. John, Amelia Fletcher, Nicky Holland, Feist
Roy Dodds, Neil Scott, Philip Kin, Martin Duffy
Richard Preston, John Leckie, Stephen Street, Ian Broudie
Hugh Jones, Phil Thornalley, Thomas Dolby, Paul Hardiman
Clive Langer & Alan Winstanley, Robin Guthrie, John A. Rivers, Ian Catt

【裏面】
ネオアコースティックに関連する(から想起させる)
・361組のバンド
・243名のアーティスト
・28名のプロデューサー
・計632に及ぶ名称が連なるネオアコースティックチャート/相関図
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<サイズ> B2 1枚/MAP折/仕上がりB5

<色> 両面4cフルカラー

<備考>
・初版100部発行
・LIMITED EDITION ナンバリング(ナンバーは選択できません)
・先着50部の限定特典として
 O.S.T.『Something Reminds You Of Neo Acoustic』を進呈 ※7/24 50部に達しました。
・ネオアコースティックの全体像を作品レビューなどの「言葉」ではなく、
 チャート/相関図で「視覚化」した(おそらく)世界初の試み
・既存のネオアコ本、ネオアコガイドにはなかった最終形のビジュアルZINE
・レビューなどの主観を排除し、あくまでも客観のみに特化した新しい試み
・世界基準となっており、テキストはすべて英語でも表現
・裏面はB2サイズにも及ぶ大きさにつき、ポスターとして掲出することが可能
 (購入された後の裏面の公表にはご配慮ください)
・あれやこれや再確認するもよし、新たな再発見を求めるもよし、
 これからネオアコという名の海を彷徨う際には出港から順路を辿る海洋図的側面も

詳細はこちらの特設サイトをご覧ください。 2016ネオアコースティックZINE
  
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