2005年06月19日

[Fine Time 2〜A Tribute to New Wave/V.A.]

Fine Time 2


Fine Time 2 〜A Tribute to NEW WAVE
2005年4月6日
ユニバーサルJ
(UPCH-1398)
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ニューウェーブの定義がよく分からなかった。分からなすぎて、とにかく「タガを外そうとする実験的な精神」と捉えていた。ジャンルの超越。聴く側が音楽として聴こえることを期待している「結果」よりも、作り手の初期衝動をダイレクトに伝えようとする動き。

M6スパルタローカルズによるポリスのカバー「見つめていたい」を聴いて特にそう感じた。パフダディーが亡くなった親友のためにカバーしたというバージョンがラジオでよく垂れ流されているばっかりに、私と同世代の人間には、そっちの方が聴きなれているだろう。こちらは原曲に対し、感傷に浸りきらないよう都会的でクールな別れを演出したような印象を引き立てた曲であったが、スパルタローカルズはそれとは真逆で、振り絞った叫びの部分を押さえなおし、静かなベースを際立たせたいなたいロックとしてカバーしている。M3では、日暮愛葉のボーカルは彼女特有の深い愁いや色気を出し切るギリギリで寸止めにし、4ツ打ちリズムに乗せ”This is not alove song”という突き放した意味合いのフレーズをドライに繰り返す。M12、RECKによるマーズの「プエルトリカンゴースト」のカバー、原曲は1分あるかないかの短かい曲だが、うねって地底を這うようなギターを使ったアレンジで、もともと拡散している原曲の世界観の次元の歪みに手を突っ込み、さらに掻き回したような泥臭い混沌を作り出した。とどめのゆらゆら帝国によるスーサイドのカバーでは、生活に行き詰まり自殺する青年フランキーの身の上話をオリジナルに作り出し語りかける。変化の無い生活を反復されるノイズと2つの弦音だけで表し、銃
声を断末魔の悲鳴に置き換えた。

つまり今作は全編通してダウナーで、淀みつつ絶え間なく続いていく、そんな印象を持たせる曲が集まっているのだ。私は奇抜さや捉えどころのなさにニューウェーブの醍醐味を感じると同時に、そこがとっつきにくくもあった。しかしこれ等のカバー曲は、原曲に潜んでいる、聞き手が共感し得る感触を、こちらにグイと引き寄せてくる。私にはその感触というのが日常性であるように感じてならない。日常から非日常への脱却はそうそう成されるものではない。思い切りタガを外したつもりでも、私たちは連続する時間や関係性を絶っては生きられない。突然変異と思われる事象にも、そこへ行き着くまでの過程があるのである。

冒頭でも書いたが、ニューウェーブが時代を経てこれまで拡大解釈されてきた「衝動」=「飛躍」の部分に対し、今作はそこへ行き着くまでに経た「過程」を掘り下げて聞けるよう促してくれる、まさにガイド的な作品に仕上がっているといえるのではないか。

最後にM15の隠しトラックでコーネリアス(ネタバレ失礼!)はYMOの「CUE」を、音の揺らぎを細かく捉えたような曲調でカバーし”Give me a cue.(手がかりをくれ)”と歌う。手段と目的は逆転し、刺激は消費され行き詰ってしまった感を覚える現在にあって、私たちはそのか細く澄んだ声が響く空間に見過ごしている何かを、感じずにはいられない。

(text by ヨシヤマ)  
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2005年06月05日

[クラムボン/てん、]

てん、

クラムボン
てん、
2005年3月2日
コロムビアミュージックエンタテインメント
(COCP50845)
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「id」でのぞかせた実験的志向を、前作「imagination」でさらに高めることに成功したクラムボンの最新アルバムは、僕にとっては予想を裏切られた作品であった。前作までではなんとなく彼らの音楽の完成型の予想がついてしまっていたのだ。どうせ音響方面に行っちゃった人たちの行きつく先なんて似たようなものだから。だから予想を裏切られて僕はわくわくした。今度のクラムボンはポップである。いや、やっぱりクラムボンはポップである。そういう意味ではデビュー当時の雰囲気に戻ったか、と言いたいところなのだが、でも今まで感じていた「ポップ」とはなんだか違うのだ。

ポップさ、というものはもともと彼等の持ち味としてあった。しかし本作に感じられるそれは1周回って戻ってみたら実は1段高いところにいた、みたいなポップ。音の種類と質にこだわった前作の経験を経た進化が感じられる。ここにあるのはメロディやコード進行の妙で押し切る単純な「ポップ」ではなく、すべての音から感じられるポップネスだ。ボーカルだけではなく、ピアノ、ベース、ドラム、というシンプルな音が互いに呼吸を合わせ、歌声のように響きあう。何より音に歌心があるのだ。モノラル/ステレオの2枚組なのだがモノ・ミックスによって音の強度が増し、これまで以上に彼らの発する音のポップな歌心が前面に押し出されている。ある音の点が他の音の点と重なって線をなし、それが面になり、空間を巻き込んでいくかのような3人のコミュニケーション。3人の息遣いまで聴こえてきそうな、歌声を聴いているときのような生々しさ。それが妙にすんなりと体に染み込んでくるのだ。おそらく本作で彼らが表現したかったのはこの「生々しさのあるポップ」という部分なのだろう。アルバムごとにさまざまな試みをしている彼らだが、変わらないのはこの部分だったのだ、と気がついた。

クラムボンの核がいちばん強い形で表現されたアルバム。特別耳を傾けさせるような突飛なものはない。しかし、聴けば聴くほどのめりこみ、わくわくしながら音楽について考えこんでしまう。
(吉田政仁)
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クラムボンの音楽は光で作られているんじゃないかと思う。それは姿を変え、形を変え、水面に浮かんでは消えていく煌めきのようで耳から身体に入り柔らかに重なっていく。時に太陽の光の如く力強くもあれば、月明かりのようにぼんやりとした明かりや闇の中で輝く細やかな星のようでもあったりする。

だが、その煌めくような音は整った音、もしくは端正なメロディからくるものではない。ボーカル原田郁子の声は決して美声と呼ばれるものではないし、歌詞も音楽も様式にのっとった分かりやすいものばかりではない。しかし、このアルバムの中で原田の息遣いがどの曲よりも聞こえてくる10曲目「sonor」や、最後の「itoqou」でデジタルサウンドに乗せミト(?)がかすかに口ずさむメロディとリズムから彼らの体温が耳を通して近くに感じると、私はその音に美しさを感じる。整然とした美しさの類ではなく、有機的でしなやかな優しさからくるものだ。

この『てん、』には2つの世界がある。音をひとつひとつ丁寧に作り込んだスタジオを活用した曲達(例えば8曲目「炉」など)と、ライブ感が打ち出された、全体に流れのある音達(1曲目、9曲目など)の2種類。いずれも1枚のアルバムの中でうまく共生している。そのゆえんはやはり、曲の上を流れる原田郁子の息遣いも入り込んだ少し拙い歌声と言葉によっているのではないだろうか?逆に言えば、彼女の声があるからこそ2つの世界はクラムボンの存在を消すことなくサウンドの姿を変えていくことができるのかもしれない。

アルバム全体にまとまりがある、といった感想は抱けなかった。 けれど、音も声も言葉もすべてが少なすぎも、多すぎもしない。薄すぎも、濃すぎもしない。すべてが過不足なく有機的に結びついており、彼らがこの音を自然に、そして幸せに奏でていることが感じられるのだ。それが伝わってきた時、私はクラムボンの放つ12つの形の光に満たされ、ただ幸福な気持ちになった。
(なかのめいこ)  
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2005年04月10日

[A/あふりらんぽ]

あふりらんぽ

あふりらんぽ
A
自主製作
[通販 JAM'S Factory/商品No.CD-02]

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 ロックの魅力とは、足し算や引き算の合計に比例すると思っていた。つまり、アーティストや楽曲自身に、思想やイロモノ的視覚要素、あるいは超絶テクニックや誰もやったことのない実験的なスタンスなどがどれだけ付随しているか。またその逆で、女であることや男であることを捨てたり、わざと起伏の無い構成を選んだりといったように、その音楽にどれだけの「情報」が詰め込まれているか(または抜け落ちているか)。僕はいつの間にかそれだけを魅力に感じ、良し悪しの基準にしていたような気がする。

 あふりらんぽを聞いて愕然としたのが、「手を加えている」度合いがとことん少なかったということだ。歌詞は「こんばんは、あふりらんぽです」とか「アイス食べたい」など、日常会話をそのまんま切り抜いてきたものばかりで、あとは野人のような雄叫びばかり。ギターとドラムだけという小編成が織り成すサウンドは尖りに尖った爆音ノイズで、音階も構成もすっ飛ばしている。本作は彼女ら自身の手によって作られた初の音源で実質上ファーストアルバムだが、最初からこんなに振り切れていたのかと思うと驚きを隠せない。

 「情報」が無い代わりに、ここには「衝動」が溢れかえっている。楽器をかき鳴らす気合いと絶叫、それだけで成り立っている世界。何かを付加したり脚色したりなどという意識は毛頭無いのだろう。そんな男気にも似た気合い一発な精神がかっこいいのだ。

 世の中には頭で考えるタイプの音楽と体に任せるタイプの音楽がある。僕は前者にどっぷり浸かっていた派だが、あふりらんぽを聞いてぶん殴られたような錯覚に陥った。そんな「洗礼」を受けた後は、ただただ彼女らの暴走が痛快に思えてしょうがなかった。たまには頭をからっぽにするのも悪くないな。

(text by 村上巨樹)

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 あふりらんぽの曲を聴いていると映画「八墓村」を思い出してしまう。田舎ならではの狭い人間関係の中で繰り広げられる、血を巡る殺人。いや、あふりらんぽはカラっとしているんですよ、ライブ観ても。きっとそれは、「脳ミソすっぽんぽん最強ロック」というキャッチコピーそのまま、エロもおふざけも怒りも全てむき出しな原始的な音が、八墓村の愛憎が混ざり合ってしまった土着的な感じ(本能的に「ヤバイ!」と察知してしまうような)に近いからなんだろう。

 さて、そんな血縁よりも濃い、お転婆な魂がシンクロしあってしまったようなこの2人組、楽器は気だるげなギター(オニ)とゆるゆるで乱雑なドラム(ピカ)だけ。ガジャガジャと掻き鳴らされ打ち出される筋の無い音と共に、ぼやぼやとした囁きあいが掛け合って絶叫になっていく二人のボーカル。歌詞は聞き取れないくらい喚かれているか、「姫ちゃんのリボンを読んだ」とか「夏は暑くてだるい、アイス食べたい」とか、詩心のカケラもなく生活臭漂ってくるものだ。最初からこちらを挑発しながらも脱力させる1、2、「彼氏できたぞ」という狂喜に乱舞するサイケな音調の3、バカ騒ぎしてるうちにナチュラルハイになって楽しいのもだるいのもいっしょくたになってしまったような4、7。しかし最後8曲目でうだりは最高潮に達すと共に、彼女達の一番深い、血なまぐさい処に潜って聞いているような不穏な音を浴びせかけられる。それまでのおちゃめさはなくなって、くんずほぐれつのとっつかみ合いのように、ドラムの音は鋭くなり、ギターは不安を煽るように重く巻きつく。16分間思わず、精神世界を彷徨わせられる。 

 そこには二人以外の干渉を許さない結束がありながら、聴く者は「音楽」という構築されたモノへの構えを崩されて、カタルシスを超えた彼女達の衒いのない衝動に、一緒にはしゃいでしまうのである。

(text by ヨシヤマ)  
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2005年04月07日

[スーベニア/スピッツ]

スーベニア


spitz
スーベニア
2005年1月12日
ユニバーサルミュージック
UPCH-1380
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 初めて聴くアルバムなのに、とても懐かしい感覚にトリップした。何に似ているのだろうかと考えあぐね、ひょんと「スピッツ自身だ」と気づいた。そのとたん、この新作のそこかしこから、これまでのスピッツの楽曲が顔をのぞかせる。面影が幾重にも重なり、音の輪郭をくっきりと縁取っていく。

 ここ数作のスピッツの活動を振り返ると、その時々で、彼らがクオリティの高い作品を発表してきたことは確かだろう。だが、薄皮一枚分、実体から遊離しているような「ぶれ」があったように思う。プロデューサーを変えたり、打ち込みを多用して音色を着替え、似合う音を探している、そんな風に見えた。その試行錯誤の集大成が、前作『三日月ロック』(02年)であり、この作品でスピッツは音作りの面で新境地を開拓した。だが、今作を聴いた後では、それも進化の一過程にすぎなかったのだと思えてくる。

 今作を『三日月ロック』と比べてみたとき、ハッとするような新しさはないかもしれない。しかし、明らかに違うのは、今作には「スピッツ」以外の夾雑物がまるで感じられないことだ。先行シングル「正夢」に代表される、たっぷりとしたストリングスを効果的に用いたバラードと、3、8など、ギターの存在感が際立つ、キレのあるロックを二本柱とし、音数を抑えたシンプルな作りで、楽曲の個性を引き出している。良い素材に過剰な味付けは必要ないのだろう。三味線を取り入れた5、ゆったりとしたスカのリズムの10などの変わり種の楽曲も、じっくり熟成された感があり、音の方向性にぶれがない。

 草野が端正に歌い上げる芯の通ったバラードの4を聴きながら、スピッツにおける進化とは、純化に他ならない、と感じた。バンドの核が浮き彫りになった夲作は、処女作の衝撃に近い。たぶんこの先、彼らの音はより原初の方向へと進んでいくのだろう。

(text by ケミカル)
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 どうなの、この変わることなくほとばしる透明感は!なんなの、この胸キュン度合いは!

 40近い男達の作り出す音楽に向かって満面の笑みで「化け物!!!」と平気で言い放ってしまう我が口。失礼してます。

 そろそろ結成20年目を迎えようとするスピッツがリリースした11枚目のアルバム『スーベニア』。前作『三日月ロック』から3年ぶりとなるこのオリジナルアルバムを耳にして、つぶやいた言葉は「甘酸っぱい」「瑞々しい」そして「化け物」。さすがに上記3点はもはや周知の事実なんだけど、毎度のコトながら言わずにはおれませんとも。ええ。

 さて、ロシア語で「お土産」という意味を持つ『スーベニア』というタイトルのこのアルバムを再生すると、まず草野正宗の鮮度の落ちないあの声が滑りこんでくる。加えて淀みなくしなやかに流れ込むアコースティックギターの音色が混ざり合えば、胸の奥に潜むセンチな感情の堤防が決壊する。

 柔らかな光の温みを感じさせる1曲目「春の歌」から始まり、「それは恋のはじまり 闇の終わり」という歌詞が心をぎゅっと鷲掴みにする「恋のはじまり」、そしてシングルとなった「正夢」などスタンダードになりそうなスピッツ節の楽曲がある一方で今回は何曲か実験的な試みも行っている。5曲目の「ナンプラー日和」では沖縄三味線を音前面に押し出した彼ら風味の南国サウンドを演出。そして、ゆるやかなレゲエ&スカリズムをまんべんなく取り込んだ「自転車」では、いつまでも少年の一面ばっかりじゃなくミュージシャンとして侮り難しな一面も大人の余裕も合わせ技でアピールをしている。その手触りは適度な重みのあるものとして耳に届いてくれる。

 それでも、感情の防波堤を壊されとめどなく流れる胸締め付けられる感情に溺れると、彼らの音の中に「恋」の姿を発見してしまったりするのだ。なんだかんだで彼らがいつまでも瑞々しい「化け物」である理由なんてそこに尽きるんじゃないかなぁ。特に草野正宗自身が自分では嫌いだという声を解放し、色気出したという今作はそれが際立っている気がする。

(text by なかのめいこ)  
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2005年04月06日

[獄門逝きの十三号線、雷舞院刀狂]

獄門



2005年
HEADZ
DAT-3/HEADZ 43
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 帽子を目深にかぶり、伏し目がちに黙々と弦を弾く秋山徹次……。そんな姿が目に浮かぶこの作品。およそ“気持ち良く聴かせよう”“楽しませよう”というサービス精神(あるいは下心)のないたたずまいには、音フェチと呼びたくなるほどの執拗なまでのこだわりが垣間見える。時に果てしなくリピートする偏執狂的でノイジーなエレキと、殺伐と尖ったアコギ。それは乾いた土臭さと諦念にも似たひたむきさを感じさせる。ロック的な手法を一切排した、コアなロック。こんなにカッコイイ作品には、めったに出合えるもんじゃない。いわゆる音響派と括られ、決して表舞台には出てこないアーティストだが、そこらのロッカーもどきよりはよっぽど刺激的だ。
(text by おだゆみこ)  
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2005年04月05日

[大友良英ギターソロ(12th October 2004@新宿ピットイン+1)]



ギターソロ








大友良英ギターソロ(12th October 2004@新宿ピットイン+1)
2005年
DOUBT MUSIC
dms-101
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 これ、ホントにライブ盤っ!? 音が破格に鮮明だし、何より静か……。

 映画『カナリア』のテーマ曲からスタート。丸みを帯びたアコギの音が朴訥と語りかける。曲が終わったことにも気づかず夢見心地。と思いきや、たたみかけるエレキの金切り声……。とまあ、こんな調子で、相反するスタイルの音楽が入れ子構造を成しているという、ちょっと風変わりなライブ盤である。

 現場のナマっぽさを記録するのがライブ盤の役割だとすると、この作品はその逆。場の空気感の混入を極力抑え、ライブならではのバグを出来るだけ排除したうえで、精緻に再構築している。おそらく、一瞬で消える音の残骸を集めることよりも、その奥にある自身のコアを再編集し、提示することに意義があると判断したのだろう。

 とにかく静かな作品だ。アコギでは、泣きたくなるほど美しいメロディーを、音数少なに語りかけてくる。慈しむように弾き出される一音一音の響きと、それらの重なり合いが生み出す、夢のような甘美な瞬間。決して流麗に奏でられるわけではないが、空気の振動までも感じさせる音は、静かでありつつも雄弁で、濃密。我知らず魅入られてしまう。次の曲に移ってしまうのがもったいない!と思わせられるほどに。。

 エレキでガシガシとド派手な音に演っている時でさえ、静寂さが時折音を包む。風も吹かず時間さえ流れない真空地帯が見える。ギュイギュイ軋む音は、衝撃のための轟音ではない。音の粒がぶつかり合ったり同調したりすることにより、エネルギーが発散された結果生じる、必然性のある轟音とでも言うべきか。微妙に変化する音、波打ちながら澱む音、叩きつける音、切り裂く音、揺れる音……。ここにある、こんなにも圧力の高い音たちは、音が纏う様々な表情を追い求めた結果。だからそれは、ノイジーでありつつも思索的で、静かでさえあるのだ。

 ライブ盤とは名ばかりのコアな集大成。大友良英の今がここにある。

(text by おだゆみこ)
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 どこにもない音を産み出そうとうんうん唸りながらギターを弾いているミュージシャンである。そんなふうに感じた。大友良英は良くも悪くも頭で音楽を産むタイプのミュージシャンだと思う。

 昨年のライブ音源8曲に、スタジオ録音の1曲を含めた全9曲。アコースティック・ギターで奏でられるゴンチチばりの癒し系な曲と、エレクトリック・ギターのばりばりアバンギャルドなノイズ・ナンバーが交互に、計算されつくしたかのように並べられている。この曲順からも、頭使ってるんだろうな、という印象を持った。いや、確かにそう感じたのだが、それにしても1曲目と2曲目のギャップにはたまげた。どんなごつい変態が現れるのかな、などという期待があまりに綺麗なアコギの音に裏切られ、ほお、そうくるか、それではコーヒーでも淹れて、まったりしようかしら、と一息ついたその瞬間。うちのコンポがぶっ壊れたんじゃないかと思った、突然の衝撃。それまでの思考の流れを一気に引き裂くカマイタチのようなソリッドなノイズ。何が起こったのかもわからず、そして、一気に耳が開いていく感覚を得た。そしてその耳で聞く音は、音楽の中のギターの音ではなくなり、最小限の単位に分断された音になる。その一つ一つの音が、総勢で五感を惑わせ、神経を狂わせにかかっているかのような、凶暴な、しかし感情に訴える、大友の思いの丈のように感じてくるのだ。そうすると、アコギの美しい旋律にも、何だかのっぴきならない凄みが宿ってくる。

 やはり最初の2曲が本作のすべてを物語っていると思う。本作にはギタリストを超え、ミュージシャンとしての大友の本音が凝縮されていると思うのだ。音の力でリスナーの心を乱し、一気に耳を開かせるような、そういうことがしたいのだと、大友は言っているのではないだろうか。だからその思いの丈を本当に感じるにはアルバムでは物足りないと感じるのである。ライブを見なくちゃ本当のことは分からない。そう思わせる、真面目に頭で考えた、なんとなくかしこまった体裁、のようなものをこの「ライブ盤」からは感じてしまうのだ。ライブ盤だけですべてを見せないところにこのライブ盤の凄さがあり、また、大友の頭の良さ、凄さがある。頭で考え抜いた音楽の、その先の世界をライブで感じたい。

(text by 吉田政仁)  
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