2013年07月05日 17:11

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☆1月17日から5日間、南フランスのカンヌで開催された MIDEM (国際音楽見本市) を終えて、同行の星野一雄氏 (コスデル商会) とミラノへ移る。

イタリアの主要都市を巡業中の「ヘアー」に、ミラノのテアトロ・マンツォーニで出会えたのは幸運だった。

ゴルト・マクダーモット作曲、ジェローム・ラニー&ジェームス・ラドー作詞・脚本による「アメリカ部族のラヴ・ロック・ミュージカル」と銘打ったこの作品は、
ヴェトナム戦争 (1960-1975) の精神的荒廃の中から生まれた。ブロードウェイの初演は1967年。「アクエアリウス」「ヘアー」「グッドモーニング・サンシャイン」等の曲が耳に残る。

その頃のニューヨーク、グレニッチヴィレッジの東部はヒッピーの溜まり場だった。家出してやってきた主人公のクロードには、ジーニーという恋人がいる。彼女は誰の子供か判らないが、身ごもっている。クロードに突然、召集令状が届く。仲間たちは「焼き捨てろ」というが、彼は決心がつかずに悩む。仲間たちは集まって裸で沈黙の抗議を行う。クロードは体制に抵抗しきれずに徴兵され、ヴェトナムで戦死する。第1幕の終わりは、薄暗い照明の中キャスト全員を全裸で登場させる衝撃的なエンディングだった。

イタリアの「ヘアー」は、ミュンヘン、バリ、アムステルダム、東京、モナコ、シドニー、トロント、ベルグラード等よりずっと遅くオープンしているが、ヴィクトール・スピネッティの演出は、ブロードウェイのオリジナルに忠実に思えた。出演はテオ・セルジオ・レスト、ロレダナ・ベルテ、アン・コリン、ロベルト・ボナンニ、ロナルド・ジョーンズ、モニカ・カストロ、ダニロ・モローニ、他。

イタリア語 (訳詞: ジュゼッペ・パトローニ・グリッフィ) の語感故か、全体的に迫力に乏しかったが、例の第1幕のラスト・シーンは、カトリックの国なのに東京よりもずっと派手だった。
明日はスカラ座で「カルメン」を観る予定。(1971.01.23.)


2013年02月14日 16:56

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☆ショー・ビジネスを学びにニューヨークに留学中の山口規子さん (ミュージカル評論家風早美樹さん夫人) のところに、日本人が集まった。文化庁派遣の留学生越智則英さん (ミュージカル俳優)、劇団音楽座の五十嵐進さん、それに私。せっかく集まったから、一緒に何か・・・といっても、日中は忙しい人もあり、ブロードウェイの舞台がハネた後のレイト・ショーを狙うこととなった。28丁目のウエスト253 にあるThe Ballroom で11PM から「ペギー・リー・ショー」がある。これにしましょうと満場一致で決まった。

昼間はニューヨークの友人の運転で、五十嵐さんとニュージャージー州ウエスト・オレンジの「エジソン博物館」とミルバーンのペイパー・ミル・プレイハウスに行った。

8PMヘレンさんと「ミー&マイガール」を観に行く。一昨年の9月にマーキス劇場の柿落し公演 (ブロードウェイ初演) を観ていたが、あの時のビル役はロンドン初演の時のロバート・リンゼイだったのが、今はジム・デイルにかわっている。ジムも英国人だが、1980年12月6日にセント・ジェイムス劇場で観た、グレン・クローズと共演の「バーナム」が忘れられない。彼はこの作品で、トニー賞最優秀ミュージカル男優賞を獲得している。ロバート・リンゼイに劣らぬジム・デイルのビル役は傑作。サリー役はいつものマリアン・プランケットに代わって、今夜は「ミー&マイガール」でブロードウェイ・デビューしたばかりのシェリー・カワート。ジャッーキーはジェイン・サマーヘイズ、マリアはジェイン・コネル、ジョン卿はジョージ・S・アーヴィン・・・他の主な出演者は2年前と変わらなかった。

そして今夜のメイン・イヴェント。4人の日本人にヘレン・メリルが加わって、ザ・ボール・ルームの「ペギー・リー・ショー」へ !
ペギー・リーの舞台を観るのは、彼女が出演したブロードウェイ・ミュージカル「PEG」(1983.12.16.) 以来、4年ぶりだ。

病後のペギーは、開演時間にかなり遅れて登場。それも車椅子で現れたので、心配になったが、立ち上がって歌い始めたら流石に堂々と 「I Love Being Here With You」「Are You With Me?」「Jump For Joy」「Love Dance」「’S Wonderful」「Fever」「At This Moment」「From This Moment On」「Is That All There Is」「Since I Fell For You」「See See Rider」「You Don’t Know」「T’aint Nobody’s Bizness」「Them There Eyes」「Johnny Guitar」「Squeeze Me」「Circle in the Sky」「I’ll Be Seeing You」の18曲を見事に歌い終えると、万雷の拍手の中、再び車椅子で退場した。

楽屋訪問し、「前に東京にいらし時に、帝国ホテルでお会いしましたね」「いいえ、貴方に会ったのは三越でした」「それは別人でしょう」とトンチンカンな会話があってお開きとなった。(1988.02.04.)

(付記) 帰国後、調べてみると、1976年8月10日に帝国ホテルの「孔雀の間」で「ペギー・リー・ショウ」があり、そのプログラムによると、三越はペギーさんの招聘元・スポンサーだった。彼女には帝国ホテルではなく、三越がインプットされていたようだ。

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2013年01月19日 17:13

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☆秋とはいっても北欧では既に冬。ヘルシンキから空路30分、雪景色のかなり寒いタンペレだった。 空港まで出迎えてくれたタンペレ劇場のロイネ氏とエローネン女史に案内されたレストランで、久しぶりにトーゴー(東郷)・ビールに出会った。
東京の東郷会館でよく飲んでいたトーゴー・ビール、タンペレは、ネルソン、トーゴー等、提督ビールの工場がある本拠地だったのだ。

「ミー&マイガール」(フィンランド名 "LAITAKAUPUNGIN LORDI" )がタンペレでオープンしたのは、9月14日。言語はフィンランド語。演出・振付はヘイッキ・ヴェーツィ、ビル役はセッポ・メーキ、サリーはマリュット・サリオラ、ジャッキー: リトバ・ヤロネン、ジェラルド: ユッカ・レイスティ、マリア侯爵夫人: カイヤ・シニサロ、ジョン男爵: ヤーコ・ハーパネン他、現地のスターたち。 北欧やまだ社会主義国だった頃のハンガリー、ポーランドのプロダクションは、ロンドン、ニューヨークに比べると装置は素朴で華やかさに乏しく、出演者も少ないが、役者たちの熱のこもった演技で、本場に負けない楽しい舞台作りに励む様子は、好感が持てる。タンペレもまた例外ではなかった。(1988.11.04.)

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(写真: ビルとサリー、右はマエストロ)
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1985.02.02. ロンドンでリバイバルの「ボーイフレンド」千秋楽と「ミー・アンド・マイ・ガール」初日
http://blog.livedoor.jp/musicalwalker/archives/2009-08.html

1987.06.04.「ミー&マイガール」の宝塚初演
1987.12.18. 底抜けに楽しいメキシコの「ミー&マイガール」
1996.06.20. ベルリンのドイツ語版「ミー&マイガール」
1988.05.17. ストックホルムのコンパクトな「ミー&マイガール」
2009.07.20. 宝塚「ミー&マイガール」通算529回上演
http://blog.livedoor.jp/musicalwalker/archives/2009-09.html

2009.10.05. 東宝版「ミー&マイガール」初CD化
http://blog.livedoor.jp/musicalwalker/archives/2009-10.html






2013年01月03日 15:36

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☆1946年ブロードウェイ初演の「アニーよ銃をとれ」(Annie Get Your Gun) の日本初演の舞台に、新宿コマ劇場で出会った。制作・演出: 菊田一夫、翻訳: 倉橋健、訳詞: 中村メイコ。ブロードウェイ・ミュージカルの日本版は、昨年から「マイ・フェア・レディ」(江利チエミと高島忠夫)、「ノー・ストリング」(雪村いづみと高島忠夫)、「努力しないで出世する方法」(草笛光子と坂本九) と続いて、4作品目ということになる。

アーヴィング・バーリン (作詞・作曲) の最高傑作「アニーよ銃をとれ」は、高校生の頃からベティ・ハットンとハワード・キール主演の映画を映画館で繰り返し観て、その記録8年間に実に24回と最も思い入れの深い作品だが、舞台版を観るのは初めてなので、開幕前から心が躍る。

射撃の名手フランク・バトラー (宝田明) を中心とするバッファロー・ビル (市村俊幸) のワイルド・ウエスト・ショー一座がオハイオ州の田舎町にやってきて、土地の代表と射撃の試合を行う。選ばれたのは田舎娘のアニー (江利チエミ)、彼女は凄い腕前でフランクに勝ち、アニーはフランクの助手として一座に迎えられる。
やがてフランクとアニーは恋仲になるが、アニーの人気がフランクを上回った為、プライドを傷つけられたフランクは、商売敵のポーニー・ビル (久松保夫) のファ一・イースト・ショーの一座に鞍替えしてしまう。

第1幕でチエミが歌う「気ままな暮らし」(Doin’ What Comes Natur’lly)、「銃で男は得られない」(You Can’t Get A Man With A Gun) は、パンチが効いている。
一座のマネージャー、チャーリー (柳沢真一) やバッファロー・ビルが、アニーを一座に加えようと誘う歌「ショウほど素敵な商売はない」(There’s No Business Like Show Business) は、ずばりショー讃歌で楽しさ満点。アニーとフランクが歌う「愛は素敵」(They Say It’s Wonderful) のロマンティックなメロディを二人で美しく聴かせてくれる。一方、宝田フランクに一目惚れしたアニーに、フランクが歌う「俺が結婚する娘」(The Girl That I Marry)、後日、アニーが好きになって恋心を歌う「俺の負けだ」(My Defenses Are Down) も聴き応え充分。一幕の終わりで、アニーがシティング・ブル酋長 (森川信) の養女になって歌う「私もインディアンよ」(I’m An Indian, Too) も、陽気で楽しい。映画で見慣れた作品とはいえ、生演奏で熱唱する舞台には、格別の良さがある。

第2幕でバッファロー・ビルの一座はヨーロッパ巡業に出る。この旅でアニーはヨーロッパ諸国の国王や皇帝から沢山の勲章を授けられたが、現金収入に繋がらず興行的には失敗だった。ニューヨークへ帰るのも家畜輸送船で牛たちと同居になる。アニーは甲板でフランクへの想いを「あの人に抱かれて」(I Got Lost In His Arms)に託す。ニューヨークのホテルでは、経営不振のポニー・ビルが、大成功したらしきバッファロー・ビルを抱き込もうと、一座の歓迎パーティーを開く。赤いドレスの上に勲章を胸一杯に付けたアニーが歌う「朝に太陽」(I Got The Sun In The Morning) は圧巻。アニーはフランクに再会するが、どちらが世界一の射撃手かで口論になってしまう。ここで歌われるフランクとアニーの掛け合い「あなたには負けない」(Anything You
Can Do) は、実に愉快。結局、改めて射撃の試合となり、アニーは故意に負けて、恋を勝ちとり、ハッピー・エンディング。

出演者は他に山茶花究 (ウィルソン館の主フォスター・ウィルソン)、浦島千歌子 (フランクの付き人ドリー・テイト)、森山加代子 (ドリーの娘ウィーニー)、等々。金子光信 (アニーの弟ジェイク)、岡崎友紀子 (アニーの妹ジェシー) 等、子役の活躍も印象的だった。アーヴィング・バーリンの名曲揃いのこの舞台、見終わってもバーリンの珠玉のメロディーが耳から離れない。 (1964.11.11.)

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2012年12月30日 17:13

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☆「雨に唄えば」「艦隊は踊る」「歓びの街角」等沢山のミュージカル映画で親しんでいたデビー・レイノルズの「アニーよ銃をとれ」が6月にロサンゼルスのドロシー・チャンドラー・パビリオンで上演中と聞いて、日帰り(?) でも観に行きたいと思いながら、果たせなかった。

それが、MUSEXPO ’77 (1977年音楽見本市) 参加のために立ち寄ったフロリダ州マイアミでやっていた。次の目的地ブラジルのサンパウロへ移動する予定の今日が、12日間の限定公演の初日だった。このチャンスは逃せない。同行者2人には先に行ってもらい、半日遅れの深夜便で追いかけることにして、いざ、マイアミ・ビーチ・シアター・オブ・ザ・パフォーミング・アーツへ。

演出はガワー・チャンピオン。フランク・バトラー役はハーヴ・プレスネル。映画版「不沈のモリー・ブラウン」(1964) のデビー・レイノルズ&ハーヴ・プレスネル・コンビが舞台で実現した。

ところで「アニーよ銃をとれ」は、インディアンが登場する場面が多い。アニーがインディアン・スウ族の酋長シティング・ブルの養女になるのはよいとしても、ショーの場面で、インディアンの駅馬車襲撃、騎兵隊とインディアンの戦闘などがあり、インディアンたちが痛めつけられる。

今年89歳になるアーヴィング・バーリン (作詞・作曲) は、アメリカ原住民である “インディアン” の扱い方が不適切なことに悩んでいた。彼はMGM映画「アニーよ銃をとれ」のビデオ化にも許諾を与えなかった。バーリンは脚本に手を加えるわけにはいかないので、デビー版のこの舞台では、アニーが歌う「私もインディアンよ」の場面がカットされていた。

アニーとフランク以外の主な配役は、ロンドンとブロードウェイの「モスト・ハッピー・フェラ」に主演したアート・ランドがバッファロ・ビル、プロードウェイで「くたばれ! ヤンキース」「ガイズ&ドールズ」等に出ていたベテランのウィリアム・マクドナルドがチャーリー。ストレート・プレイ、映画、TV出演が多いマヌ・トゥプーがシティング・ブル酋長。「スヌーピー」「ジプシー」のリバイバル版等で知られるドン・ポッターがポーニー・ビル。

小柄なデビー・レイノルズは、ライト級のアニー・オークリーといったところ、ブロードウェイ行きを狙っているが、無理かもしれない。
デビーには1974年にブロードウェイの「アイリーン」が国内ツアーに出た時、ロサンゼルスのシュバート劇場の楽屋でインタビューしたことがあった。今日は楽屋訪問の時間が無く、マイアミ空港へ急ぐ。 ベネズエラのカラカス乗り換えの深夜便でサンパウロへ向かう。この旅はその後、ハバナからニューヨーク、サンフランシスコへと続く。(1977.11.01.)


2012年12月17日 13:06

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☆1960年代を代表するポピュラー・ソング・ライター、バート・バカラック (作曲) とハル・デイヴィッド (作詞) による、唯一のブロードウェイ・ミュージカル「プロミセス・ブロミセス」がシュバート劇場で続演中だったので、観に行った。
同行者は青木啓氏 (「ジューク・ボックス」誌編集長)。

ビリー・ワイルダー制作・脚本・監督、アカデミー賞で作品賞を含む5部門で受賞した1960年の傑作コメディー映画 “THE APARTMENT” (邦題「アパートの鍵貸します」、ジャック・レモンとシャーリー・マクレーン主演) のミュージカル化。
ニール・サイモン脚本、ロバート・ムーア演出、マイケル・ベネット振付で、1968年12月1日にブロードウェイのシュバート劇場でオープンして以来1年10ヶ月になる。

物語の主人公は、ニューヨークの保険会社の若手独身社員チャック・バクスター 。
ちょっとしたきっかけで、重役たちの情事用にアパートの自分の部屋を提供せざるを得なくなるが、その甲斐あって、出世していく。ところがアパート利用者の一人、人事部長シェルドレイクの情事の相手は、チャックが惚れていた幹部用食堂ウェイトレスのフランだった。クリスマスの夜、シェルドレイクの愛が遊びだと知ったフランは、チャックの部屋で自殺を図る。部屋に戻ってフランを発見したチャックは、隣部屋に住むドレイファス医師に助けを求め、フランを救う。そしてチャックとフランは・・・ハッピー・エンディング。

「ファンタスティックス」(1960) でエル・ガヨを演じたジェリー・オーバックがチャック、フランは「ヘアー」や「ジョージM」のジル・オハラ。ドレイファス医師は「キャバレー」のノーマン・シェリー、それにアイケルバーガー役のヘンリー・サットン、カークビー役のロン・キャロル、ドービッチ役のポール・リード等々、オリジナル・キャストが初日から続いている。

1928年生まれのバート・バカラックは、マレーネ・ディートリッヒ等歌手の伴奏や編曲をしていた時代があったが、その後はハル・デイヴィッドと組んで作ったソフィスティケイテッドな歌が大受けしている。
ミュージカル・ナンバーのピカイチは、何といっても第2幕でフランとチャックが歌う ”I’ll Never Fall in Love Again” (もう恋などしたくない)。ディオンヌ・ウォーウィックのレコードでも大ヒットした。
他に、チャックの “Promises, Promises” (プロミセス・プロミセス)、”Half as Big as Life” (半人前の私)、”She Likes Basketball” (バスケットボールがお好き)、チャックとシェルドレイクの ”Our Little Secret” (小さな秘密)、ヴィヴィアン、ミス・ポランスキー、ミス・ウォンの “Turkey Lurkey Time” (ターキー・ラーキー・タイム) 等々、楽しいナンバーが揃っている。(1970.09.04.)

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☆昨日はチェコ・スロヴァキアのブラティスラヴァで、スロヴァキアのオープス・レコードとの契約をまとめる仕事でハードな一日だった。
今朝は5時起きで7時発のバスに乗り、ウィーンへ。60キロの距離なので1時間位で着くところだが、チェコ・スロヴァキアとオーストリア国境通過手続きに時間がかかり、ホテルに入ったのは9時を回っていた。
ウィーンではシンフォニー・トーン社のイムレ・ロージャ氏との約束があったが、急用でスイスへ出かけられたとのことで、「夕刻には戻るので、昼は劇場にご案内するように頼まれました」と、日本人の留学生がホテルで待っていてくれた。

そこでブロードウェイ・ミュージカル「プロミセス・プロミセス」のドイツ語版 ”DAS APARTMENT” を、テアター・アン・デア・ウィーンでマティネーを観ることとなった。

保険会社の若手社員チャックが、アパートの自室を会社の重役たちの不倫の場として提供し、見返りに出世していく可笑しな物語。
ジャック・レモンとシャーリー・マクレーン共演の愉快なコメディー映画「アパートの鍵貸します」(THE APARTMENT, 1960) を、ニール・サイモン脚本、バート・バカラック作曲、ハル・デイヴィッド作詞、ロバート・ムーア演出、マイケル・ベネット振付でステージ・ミュージカル化して、1968年12月1日にブロードウェイのシュバート劇場で初演、1,281回ロングランしたヒット作。

ドイツ版演出は1916年生まれのヴェテランで、かつて俳優として活躍したこともあったロルフ・クッケラ。出演はペーター・フローリッヒ (チャック)、マリアンヌ・メント (ヒロインのフラン役)、ロイス・リースス、アンジェラ・マーバッヒ、クルト・ソボルカ、他。「二度と恋はしたくない」ほか、バート・バカラック・メロディーは快く、言葉のハンディを超えて楽しめた。(1974.01.30)









2012年11月23日 15:44

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☆1月の政変後 ”ブルジョア思想” が批判されている中国だが、本場アメリカのミュージカルが大受けしているという。

中国の友人から「北京で初めてアメリカのミュージカルを上演するので来ませんか」とのテレックスを受けたのは、先月初め頃だった。行きたいのは山々だが、
残念ながら行かれなかった。すると北京放送局のご好意による「ファンタスティックス」と「ミュージック・マン」の記録映像が、中国唱片公司経由で届けられた。居ながらにして観られるとは、これは有難い。

2作品とも中国中央歌劇院 (The Central Opera Theatre) の上演で、先ずはトム・ジョーンズ&ハーヴィ・シュミット作詞・作曲・脚本のオフ・ブロードウェイ・ミュージカル「ファンタスティックス」を観る。中国での題名が美国音楽劇「異想天開」、言語は北京語 (Mandarin)。演出はアメリカ人、ニューヨークの “サークル・レパートリー・カンパニー” のロドニー・マルオットが担当した。
「思い出そう」「ノーのひと言」「誘拐ソング」「雨が降る」「野菜を植えよう」等のミュージカル・ナンバーは全て入っている。出演者たちはオペラ歌手なので、歌は申し分ない素晴らしさ。幕が開いて、準備が出来ていなかった役者が慌ててズボンをはいたり (これはオリジナルのオフ・ブロードウェイ版でもお馴染みのシーンだが)、楽しい幕開けだ。中国で京劇を楽しんだことはあるが、オペラは観たことがなく、オペラ歌手の演ずるミュージカルというのは、勿論初体験だが、歌唱力の見事さは当然ながら、その演技力凄い。言葉のハンディを超えて、ストーリーの持つ親子の葛藤、男女の恋心などがしっかり伝わってきて感動的だった。「子供は思うようにならない。その点、野菜育ては間違いがない。トマトを育てりゃ、トマトができる」と二人の親父がコミカルに歌い踊るシーンなど抱腹絶倒もので、楽しいビデオ鑑賞となった。このカンパニーは、南京、上海、広州、香港へも行く予定。

メレディス・ウィルソン作詞・作曲・脚本による1957年のブロードウェイ・ミュージカル「ミュージック・マン」は、大好きな作品だ。東京では1985年 (野口五郎、戸田恵子主演) と翌1986年 (野口五郎、田中雅子主演) に上演されている。
舞台は1912年のアイオワ州リヴァー・シティ。自称ハロルド・ヒル教授は、ミュージック・マンと呼ばれる音楽行商人で、楽譜も読めないくせに、田舎町へ出没しては、楽器演奏を教えると言って少年たちのブラス・バンドを作り、沢山の楽器とユニフォームを売りつけて代金を持ち逃げする詐欺師。ところがこの町で、彼は図書館員のマリアンと恋に落ちたことから状況は変わる・・・。ブロードウェイではロバート・プレストンがミュージック・マンを演じ、1962年の映画版も彼が主演していた。

中国語題名は「楽器推銷員」。演出は米国コネティカット州ユージン・オニール劇場のジョージ・ホワイト。出演者60余人は勿論中国人。ブロンドや赤毛のかつらをかぶり、”アメリカ人になりきって” 熱演している。

「序曲」に続くオープニング・シーンは、リヴァー・シティに向かう汽車の中。走る汽車の振動に合わせて、セールスマンたちが体を上下に動かしながら歌う「ロック・アイランド」に始まり、「グッドナイト・マイ・サムワン」「76本のトロンボーン」「マリアン」「ギャリ・インディアナ」「貴方に会うまでは」等、素晴らしいミュージカル・ナンバーが揃っている。北京オペラの役者たちの中国語の歌唱が実に聴き応えがある。この中国版「ミュージック・マン」は、北京公演の後、天津などを巡業するそうだ。

この作品、ブロードウェイでは1958年のトニー賞で、「ウエスト・サイド・ストーリー」を凌いでミュージカル作品賞を獲得。そしてメレディス・ウィルソンの作詞・作曲賞、ロバート・プレストンの主演男優賞など、合わせて7部門でトニー賞に輝いている。(1987.06.15.)

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2012年11月21日 19:41

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☆1960年5月3日にニューヨークのダウンタウン、サリヴァン・ストリートの小劇場サリヴァン・ストリート・プレイハウスでオープンしたミュージカル「ファンタスティックス」(トム・ジョーンズ脚本・作詞、ハーヴィ・シュット作曲) は、実に四半世紀、1万回を超え、連日世界最長続演記録を更新し続けている傑作。

この作品を日本で上演する為に、東京・渋谷の教会の地下に客席150の小劇場「ジァン・ジァン」が造られたのは1971年。あれから15年。当時のオリジナル・キャストによる15年ぶりの再演が、今日、青山円形劇場で行われた。

企画・制作: 松江陽一、演出: 中村哮夫。出演者は宝田明 (エル・ガヨ)、高野美千代 (ルイザ)、あぜち守 (マツト)、友竹正則 (ベロミー)、近藤準 (ハックルビー)、天本英世 (ヘンリー)、山中堂治 (モーティマー)。「思い出そう」「ジャスト・ワンス」「夢さめて」「雨が降る」・・・ミュージカル・ナンバーも懐かしい。

あれから確実に15才年をとられている筈なのに、皆さん、若い若い。和気あいあい、同窓会のような舞台は実に楽しかった。終演後、野口久光氏と皆さんの楽屋にビデオ取材で訪問した。(1986.05.24.)

1970.09.06. オフ・オフ・ブロードウェイの「ファンタスティックス」
http://blog.livedoor.jp/musicalwalker/archives/2010-10.html

1997.02.06. マニラの「ファンタスティックス」
http://blog.livedoor.jp/musicalwalker/archives/2010-11.html


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☆良い天気の冬の午後、宝田明さんから電話が入る。「今、鎌倉芸術館にいるんだよ。松山善三さんが書かれた新作をやるんだけど、来られない?」ミュージカルと聞けば、いつでも何処へでもすっ飛んで行くクセがある。同じ市内で、クルマなら30分もかからない所に行かないわけがない。「伺います」「開演は6時。ティケットは用意しておくから、先ず楽屋に来てね」というわけで、行ってみると、上月晃、こだま愛、石富由美子さん等々、お馴染みの方々がお揃いだ。

「暮れに心臓バイパス手術をやってね、2週間入院していたんだよ」「えっ? それで、もう舞台? 大丈夫ですか?」開演すると間もなく事情は判った。宝田さんの役は、寝たきり老人。ナットク。舞台は有料老人ホーム「あかつき」。我が儘な年寄りもいれば、希望に燃える元若者もいる。絶望に襲われれば、奇跡も起こる。老いらくの恋も・・・何でも有りの愉快なホーム。

制作: 櫻井洋三、演出は竹邑類。甲斐正人作曲、竜真知子作詞のミュージカル・ナンバーが楽しい。
誰がつけたのか、英題が「THANK YOU FOR YOUR 1/2 KINDNESS」となっていた。(1998.01.29)

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プロフィール
【川上博 プロフィール】
本名: 本田悦久 (ほんだ・よしひさ)。中央大学法科卒。元ビクター・エンタテインメント(株)理事。洋楽部、国際部、海外関係会社担当。川上博の筆名で、1960年代より新聞、雑誌等に執筆。1965年から14年間、NHK-FMコンサート「ミュージカルへの招待」解説出演。著書「ミュージカル、なるほど おもしろ読本」ほか。ミュージック・ペンクラブ・ジャパン会員、日本映画ペンクラブ会員、昭和音楽大学非常勤講師。英国 「Musical Stages」誌のコラム“Japan Through the Hondas' Eyes”、ドイツ 「Musicals」、韓国「The Musical」等に執筆。