2014年04月

血統つれづれ草 31 魔術師たちの腕くらべ その11

魔術師たちの腕くらべ その11

中島国治著「0の理論」より

 

ドルメロがすべての出発点になった

 そこには、判読のつかない記号やら文字が書かれていた。

最初、何のことやらさっぱりわからなかった。

繁殖牝馬の6代すべてに生年代が記され、マッシモ、メーディオ、ミニモと馬名の上に書かれた血統表。

イタリア語でマッシモは最大、ミニモは最小、メーディオは中間という意味である。更に見ると、ミニモ、第一、第二、第三、第四、第五、第六、マッシモと、より細かく分類されていた。

「これは何?」とジョゼッペが聞いた。

「太陽のサイクルのことでしょう」と、マダム。リディアが答えた。

これだ、と私は思った。頭の中で急いで計算してみると、マッシモは7歳、ミニモは8歳、メーディオは中間の年齢を指していた。

彼女は死んだ偉大な亭主のファンに対して、機嫌よく、この地球上の動植物はすべて月と太陽に支配されている存在であること、したがって、サイクルというものがおのずと存在し、そのサイクルのいかなる部分に先祖が位置づけられているかによって、個体の能力というものが決定づけられているのだ、ということを話した。

 

 つまり、種牡馬、そして繁殖牝馬の生年月日を知れば、どの先祖の能力、または性質が強く遺伝している(優性)か、どの先祖の能力は伝わっていない(劣性)か、が分かるというのだ。

 彼女の言葉を追うように文書を見ると、テシオが太陽のサイクルを劣性期4年、優性期4年、計8年を一つのサイクルとして捉えていることが読み取れた。フェデリコ・テシオはサラブレッドの複雑な血統を、遺伝を太陽と月のサイクルから光を照射し、解読していたのだ。

 テシオは、牡が仔に与える影響には太陽のサイクルだけが関与し、牝が仔に与える影響には太陽と月の両方が関与すると考えていた。

 

 私は、その夜下宿には戻らず、ジョゼッペと二人で記憶の整理と書き留めの作業に夜を費やした。私がこのときテシオから学んだことは、サラブレッドの遺伝を左右するサイクルに関する知識だけではない。

 

マダム・リディアが二人に話したこと

① 繁殖牝馬の数は20頭で、それ以上は増やさない。

② 放牧地には偶数で入れる。馬は群れをなして集団で生活する動物で、よく観察すると2頭づつペアを組んでいる。奇数で放牧するとペアを組めない馬は精神的なストレスを受け、事故やケガの原因となる。

③ 放牧地の柵は緩やかな曲線でできており、角がまったくない。走ってきた馬がカーブを利用して自然に速力を落とし、止まれるようにするため。馬の肩や腰などの故障も減り、同時に、小さな放牧地でも危なげなく走り回れるため何倍もの面積の牧場と同じ働きができる。

④ 馬房の仕切りの高さは2メートルで、それから上には仕切りがない。馬が寂しがらないように、仕切りの上には馬同士がお互いにのぞいたり鼻面を合わせたりできるようなちょっとした窪みが作ってある。飼葉を与える場合の仕切りにも、ちょうど馬の顔がいく辺りに鉄格子の入った穴が空いている。

⑤ 出産馬房は大きめに作られている。コンクリートのたたきになっているが、杉綾形の溝が10センチ幅で切ってあり少々のスロープがある。寝藁をとり、熱湯で洗うことができようにという衛生面での配慮である。

⑥ 馬を外に出すときにも、しきりと話しかけ、馬がその気になるまで、引き出させない。

血統つれづれ草 30 魔術師たちの腕くらべ その10

 

魔術師たちの腕くらべ その10

中島国治著「サラブレッド0の理論」から

 

私がテシオの偉業に出会ったとき

 昭和301955)年当時、私は東京芸術大学音楽部声楽家の学生であった。オペラ歌手を志していた私は、声楽科の学生なら誰しもが憧れるオペラ発祥の地・イタリアのミラノへ留学していた。

 

 ちょうどそのころ、イタリア産のリボーがフランスの凱旋門賞を勝ったというニュースがミラノの街を騒がせていた。凱旋門賞といえば当時の世界では最高賞金額のレースである。

 イタリアもまたわが国と同様に第二次世界大戦の敗戦国である。“フェデリコ・テシオが生産した16戦全勝の名馬”リボーの凱旋門賞での勝利は、敗戦の鬱屈した気分を吹き飛ばすビッグニュースであった。ちょうど、“フジヤマのトビウオ”古橋広之進がオリンピックの1500メートルを18分19秒フラットの世界新記録で泳いだとき、日本の人々が浮かれ騒いだようなものだ。浮かれた街に気分に引きずられるように、私は、学友のジュゼッペ・ダルピノと二人で血統や馬の研究を始めた。そうなるともはや声楽の勉強は二の次である。

 私がテシオの偉業、そして競馬に出会ったのはこのときである。テシオの未亡人、マダマ・リディアを通じて“ドルメロの魔術師”テシオの遺産に触れたことが、私をして奥深き競馬の門を叩かせることになる。

 

未亡人が見せてくれたテシオ直筆の記録

 ジョゼッペの父は馬主で、競走馬を何頭も持った富裕な実業家だった。ジョゼッペも血統や競馬に詳しく、馬について語る言葉にも一つ家言があった。彼の父親はテシオの生前に親交があり、ジョゼッペはその思い出話をいつも聞かされていたようであった。

私が初めてテシオのことを聞いたのも彼からであった。我々はいつもテシオのことを話し合った。私はテシオに会いたかった。会って馬もことをいろいろ聞きたかった。けれどもフェデリコ・テシオはすでに他界していて、絶対にかなうことのない望みであった。

 

「テシオの馬が走るのは遺伝というものを完璧に彼が把握していたからなんだ」とジョゼッペは私にいった。

「配合が特別だということかい?」

「もちろん、それもあるけど、馬にはそれぞれ種付けにあった年齢とか、日にちがあって、同じ種牡馬と繁殖牝馬の組み合わせでもそれによって走る馬が出たり出なかったりするんだって」

「そんなことってあるのかい!?

「詳しいことはわからなが、うちの親父が、テシオがそういうのを聞いたことがあったんだって」

ジョゼッペの話は私をいつも驚かせた。私はしつこく質問し、彼も頭を絞ってテシオに関するあらゆることを思い出そうとしてくれるが、どんどん答えられない質問が増えていった。二人で一晩中語り合った末にたどりつく先はいつも、前よりも深く、大きくなった謎であった。

「でも、テシオはノウハウの一部を、私設血統書みたいにして残しているらしいよ」

ある日、ジョゼッペは私にいった。

「本当かい?」

「テシオは太陽とか月とか、親父たちにはどうせわけのわからない呪文のようなことを、いつも話していたそうだ。なんでも生体にはリズムとかサイクルがあって、それが遺伝に影響するというんだ。信じられる?」

(中略)

徐々に私とジョゼッペの緊張もほぐれてきた。マダム・リディアはときおり私たちにも人なつこい目をむけて打ち解けて話してくれた。だが、私はほとんど産業スパイのような気分だった。テシオの残した記録を何としても見たいと思っていた。人種的な壁に阻まれて声楽家にはなれないその代わりに、イタリアにきた証として馬産の最高のノウハウだけはどうしても知って帰りたかった。頃合いを見てジョゼッペが、テシオが残した血統書がああると聞いているが、できたらそれを見てみたいと、やんわりと切り出した。私は緊張した。マダム・リディアは、ほんのちょっと真顔になったけれど、快く私たちを書斎へと案内してくれた。そこには、フェデリコ・テシオ直筆の記録がうず高く積まれていた。

「本当に見てもいいの?」とジョゼッペがたずねた。

「いいですとも。判読できるならお役に立ててください」そのようにマダム・リディアは我々にいった。

マダム・リディアはすっかり安心していたのだろうと思う。なにしろ私たちはまだ20歳そこそこの音楽学生であるし、馬産とは何の関係のない素人で、フェデリコ・テシオのファンであるというだけにすぎないのだ。

ジョゼッペは少々メモをとったが、私は一切取らなかった。マダム・リディアに警戒されることを恐れたためである。何しろ、彼女にここまで、といわれたら最後、万事がアウトなのだ。その代わりに記憶した。音楽家は楽譜を記憶する。記憶することは音楽家の特技である。私はコピーのように記憶することに努めた。

 

それは文書というよりもテシオが常日頃の作業や研究、血統の仮説、生産馬の短評、種付け関する諸事、生まれてくる仔馬の予知、身辺雑記などを折々に書き付けたメモといった方がよかった。うず高く積まれた文書をより分けながら一つ一つ目を通していった。そんな私たちを見ながら、マダム・リディアがこんなふうにいったことがとても印象的だった。

「フェデリコの予言はいつも正しかったものですよ。でも生まれてくる仔馬の性別だけはたまに間違えていたことがあるけど」

だが、ジョゼッペと私はうわの空で聞いていた。どこかに隠されているはずの、馬の能力を決定づける生体のリズムに関する法則を必死になってさがしていたからだ。ジョゼッペはともかく、私はもうここにくる機会はないだろう。早く見つけなければ、と思うと気が焦った(注:中島はこのあと4~5回ドルメロを訪れたようである)。

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