第一勧業銀行
経営・人事
[編集]

存続会社は勧銀だが、統一金融機関コードは第一銀行の0001を使用、看板には赤地に白のハートのマークを使い「ハートの銀行」と称していた。勧銀の流れを受けて宝くじを取り扱い、その関係から全都道府県に支店を有していた[4]。 当初の本店は旧第一銀行の本店(現在のみずほ銀行丸之内支店)に置かれたが、1981年千代田区内幸町の旧日本勧業銀行本店跡に本店ビルを新築し、移転した(現在のみずほ銀行内幸町本部ビル)。

旧第一銀行は第二次大戦中に三井銀行と合併して帝国銀行となったものの、両行の業務・企業文化の違いから再分裂したという苦い経験を持っていた。このため、勧銀との合併以前に浮上した三菱銀行との統合計画は途上で白紙撤回され、非財閥系である勧銀との合併後もいわゆる「たすきがけ人事」や頭取の「順送り(第一・勧銀交互に選出)」が行われ、事部も旧第一・旧勧銀で別々に置かれた。しかし、こういった人事は旧第一(D)・旧勧銀出身者(K)の対立を生んでしまって両者の融合が進まず、その収益性は富士住友三和・三菱などの他の上位都銀に比べると低いものであった[5]

一方、一勧以降の東京三菱銀行まで5件の都市銀行同士の合併と比較すると、いずれも合併コスト増大が資金調達コストの低減を上回っているのに対し、一勧は唯一コスト削減に成功しており、合併が効果的に働いていることがわかる[6]。また、合併から20年を経た1991年3月期決算では業務純益で都市銀行首位となったこともある。佐高信バブル景気崩壊以降の都市銀行の不良債権問題に際し、「第一勧銀の不良債権比率が低いのは、旧行出身者による互いのチェック・アンド・バランスが働いているため」と分析しており、合併の評価は一様ではない。


総会屋事件
[編集]

1997年には、総会屋への利益供与事件で本店を家宅捜索され、近藤克彦頭取の退任、頭取経験者の多数逮捕や宮崎邦次元会長の自殺という事態を引き起こし、社会的に非難された。この時も、逮捕された元頭取の中には「あれは旧第一銀行の案件で、自分は旧日本勧業銀行出身だから関係ない」などと公判で無責任な証言をした者がおり、いかに旧第一・勧業の関係が悪いものであったかを露呈してしまう結果になった。この不祥事以降、宝くじの広告から「受託 第一勧業銀行」の文字が消え、みずほ銀行となった現在も広告には表示されていない[7]

========================
宮崎 邦次(みやざき くにじ、
1930年1月15日 - 1997年6月29日
は、元第一勧業銀行頭取。佐賀県佐賀市出身。龍谷学園中学校西南学院高等専門学校、九州大学法学部卒業。

来歴・人物[編集]

大学卒業後の1952年、第一銀行に入行。首都圏を地盤とする第一銀行では東京の大学閥が幅を利かせているため宮崎はエリートとは見なされず、一人だけ記帳業務を6年間も続けさせられた後、支店の営業を転々。幹部候補にとって登竜門でもある海外勤務もしていない。

神戸支店次長時代に神戸製鋼所の内紛を終結する際、児玉誉士夫とその子分の木島力也の介入が入る。!!!

その後、井上薫の)秘書室長、企画部長、常務、専務、副頭取と順調に出世して1988年、頭取に就任。1992年、会長に就任。

1993年にオープンした宮崎県の大リゾート施設シーガイア建設に際し、最後の黒幕といわれる西山広喜の介入により巨額融資をした。

1996年、相談役に就任した。ほかに全銀協会長、日経連副会長などの要職を歴任した。

1997年に第一勧業銀行四大証券を取り巻く金融不祥事総会屋利益供与事件総会屋小池隆一への損失補填による利益供与)が発覚。小池への融資が急増するのは宮崎頭取時代からであった。同年、東京地検から厳しい事情聴取を受けた後、「大変ご迷惑をかけ、申し訳なくお詫び申し上げます。」「逮捕された方々の今後の処遇、家族の面倒等よろしくお願い申し上げます。スッキリした形で出発すれば素晴らしい銀行になると期待し確信しております。」などと書かれた近藤克彦前頭取、奥田正司前会長、杉田力之会長兼頭取宛ての遺書[1]を残し、三鷹市大沢の自宅で首吊り自殺。

エピソード[編集]

  • 趣味は映画鑑賞。小森和子を師と仰いだ
  • 元佐賀県副知事の宮崎善吾は実兄。

    ===========================

    近藤 克彦
    (こんどう かつひこ、1937年9月5日 - )は日本実業家第一勧業銀行頭取やみずほフィナンシャルグループ名誉顧問を務めた。

    1996年4月に第一勧業銀行頭取就任。ところが、1994年7月から1996年9月までの間にかけて総会屋小池隆一の関係企業へ、系列ノンバンク大和信用を通じて117億8200万円の利益供与がなされていることが発覚した。この責任をとり1997年5月22日、近藤は、後任の頭取に藤田一郎副頭取を指名し、任期途中で頭取を退任することを表明した。同時に奥田正司会長及び、村本周三藤森鉄雄羽倉信也中村一郎宮崎邦次の各相談役の退任も発表された[3]。総会屋への利益供与については「総会屋が師事した元出版社社長の大物総会屋と歴代トップが親密な関係にあり、その呪縛が解けなかった。」と説明した[4]

    その後第一勧銀の幹部11人が逮捕され、1997年6月29日には、東京地方検察庁で事情聴取を受けていた宮崎元頭取が、「大変ご迷惑をかけ、申し訳なくお詫び申し上げます。」「逮捕された方々の今後の処遇、家族の面倒等よろしくお願い申し上げます。スッキリした形で出発すれば素晴らしい銀行になると期待し確信しております。」などと書かれた近藤及び奥田正司前会長、杉田力之会長兼頭取宛ての遺書[5]を残し自殺を図る。宮崎が搬送された杏林大学医学部付属病院に、同日午後5時40分ころ近藤もかけつけたが、厳しい表情で報道陣の質問には答えないまま、車で病院を出た[6]

    近藤は、事態の混乱の責任をとり頭取を退任したものの、逮捕されることもなく、民事損害賠償責任も負うことはなく、法的な責任はなかったため、頭取退任後も、顧問や、各社の社外取締役、社外監査役を歴任し、第一勧業銀行が、富士銀行及び日本興業銀行と合併したのちのみずほフィナンシャルグループでも名誉顧問を務めた。

    高杉良による経済小説『呪縛-金融腐蝕列島2』に登場する朝日中央銀行の坂本昇頭取は近藤がモデルとなっている。また題名にある「呪縛」は近藤が記者会見時に総会屋への利益供与について「呪縛が解けなかった。」と述べたことに由来する。

     
    ================ 

みずほFGの首脳人事 ポスト佐藤も旧興銀か

メガバンクみずほの派閥抗争全内幕 富士銀閥沈み興銀閥が浮いた重役人事

【この記事のキーワード】 ,  ,  

2013.03.26

みずほ銀行
(「みずほ銀行HP」より)
 大手町が沈み、丸の内が浮く――。みずほグループでは旧3行の本店所在地を符丁に使って行員を色分けする。旧富士銀行出身者を大手町、旧日本興業銀行を丸の内、旧第一勧業銀行を内幸町と呼ぶ。最近では「大手町と丸の内」の対立と揶揄されるほど内幸町の影は薄い。

 今回、みずほの人事で勝利したのは丸の内、敗れたのは大手町だった。

 みずほフィナンシャルグループ(FG)は3月上旬、傘下のみずほコーポレート銀行(CB)とみずほ銀行(BK)が合併して7月1日に発足する新・みずほ銀行の頭取にFG社長の佐藤康博氏(60、76年日本興業銀行入行)が就任する人事を発表した。佐藤氏が持ち株会社と新しい銀行のトップを兼務するのは大方の予想通り。去就が注目されていたFG会長兼BK頭取の塚本隆史氏(62、74年第一勧業銀行入行)は、代表権は外れるものの新銀行の会長に就く。

 佐藤人事の最大のサプライズは、7人いる副社長・副頭取が全員交代することだ。富士銀行出身者が一掃されたことが関心を集めた。BK副頭取の中野武夫氏(56、80年富士銀行入行)は4月1日付で、みずほ信託銀行社長へ転出する。みずほ信託の野中隆史社長(61、75年富士銀入行)は会長になる。

 中野氏は財務担当として、みずほグループの資本戦略を担ってきた。富士銀行出身のエースとして次期トップの呼び声が高かった。信託に出されたことで、ポスト佐藤のリストから消えた。

 CB副頭取の永濱光弘氏(59、76年富士銀入行)も、みずほ証券の会長に転出する。2度目の大規模なシステム障害で引責辞任したBK頭取の西堀利氏(60、75年富士銀入行)の後を受けてFG副社長になった西澤順一氏(56、80年富士銀入行)も退任する。副社長・副頭取には“粛清の嵐”が吹き荒れたが、富士銀の出身者には、ことのほか厳しかった。中野氏も西澤氏も80年入行の56歳という若さだ。「富士銀ばかりが狙い撃ちされた」との恨み節が聞こえてくる。

「旧3行の背番号を徹底的にはずす」

 こう宣言した佐藤氏の意気込みは、役員人事に鮮明に表れた。出身行に関係なく、1976~79年入行組の大半が退任し、80年組を副社長に昇格させた。富士銀の80年組は飛ばしたが、興銀の80年組は引き上げた。

 FGの役員人事では4月1日付で、取締役副社長兼副社長執行役員に高橋秀行氏(55、80年興銀入行)安部大作氏(55、同)が、常務取締役兼常務執行役員から昇格する。2人とも新しい銀行の副頭取執行役員を兼務する。高橋氏は財務・主計グループ長、安部氏はIT・システムグループ長兼事務グループ長で、ともに興銀出身だ。

 6月下旬に開催予定のFGの株主総会では常務執行役員の辻田泰徳氏(56、81年富士銀入行)が取締役副社長(代表取締役)兼副社長執行役員に昇格し、新銀行の副頭取執行役員を兼務する。常務執行役員の岡部俊胤氏(56、80年富士銀入行)は取締役副社長兼副社長執行役員に昇格し、新銀行の取締役副頭取(代表取締役)兼副頭取執行役員を兼務する。辻田氏は人事グループ長兼内部監査部門長、岡部氏は個人ユニット・リテールバンキング担当副社長で、ともに富士銀の出身だ。

 ポスト佐藤をめぐる「丸の内vs.大手町」のレースは、興銀が高橋氏と安部氏、富士銀は辻田氏と岡部氏の4人に絞られた格好だ。ここでも内幸町の第一勧銀組は蚊帳の外だ。

 >   >  メガバンクみずほの派閥抗争全内幕

企業・業界企業・業界

みずほFGの首脳人事 ポスト佐藤も旧興銀か

メガバンクみずほの派閥抗争全内幕 富士銀閥沈み興銀閥が浮いた重役人事

【この記事のキーワード】 ,  ,  
 

2013.03.26

  • いか」。というのは、4人とも前政権の色が強すぎるからだ。



 富士銀を率いてきたのが、持ち株会社FG社長・会長だった前田晃伸氏(68、68年富士銀入行、現名誉顧問)。興銀はCB頭取・会長を務めた齋藤宏氏(69、66年興銀入行、現名誉顧問)。テレビ局の女性記者との路上キスで写真週刊誌を賑わせた、あの御仁だ。

 齋藤氏の時代に高橋氏は企画部長、安部氏は秘書室長。岡部氏は前田氏の秘書室長で、辻田氏は前田氏が全国銀行協会会長になった時の企画部別室長を務めた。前田・全銀協会長のフトコロ刀という役回りである。4人とも前政権の色に、どっぷり染まっている人材なのだ。そのため、「ポスト佐藤は、もっと若返る」と見るメガバンク関係者が少なくない。

 佐藤氏の長期政権が続けば、今回、副社長・副頭取に昇格した80年組、81年組がトップになる芽は消える。現在、常務執行役員クラスの82~84年組に一気に若返ることになる。

 みずほの今回の人事は富士銀のエースたちを更迭し、興銀のエース候補を抜擢するという佐藤色の濃いものとなった。

 だが、人事抗争に敗れた富士銀勢が黙って引き下がるとは思えない。みずほグループは富士銀行、第一勧業銀行、日本興業銀行の3行が2000年に統合して発足したが、その足跡は3行による派閥抗争の歴史だからである。

 振り返ってみると、派閥地図を塗り替えたのはBKで起きた2度にわたるシステム障害だった。1回目は02年4月。旧3行が合併してBKとCBが誕生したが、BKのシステム統合に失敗した。統合の主導権を握った第一勧銀が自行のシステムをゴリ押ししたことが原因とされた。富士銀と興銀が手を組んで、第一勧銀を追い落とした。今日に至るまで第一勧銀が主導権争いに加われないのは、そのためだ。第一勧銀が脱落し、富士銀と興銀の対決になった。ここまでは、持ち株会社を拠点とする富士銀が優勢だった。

 2回目のBKのシステム障害は、東日本大震災直後の11年3月。BK頭取である富士銀出身の西堀利氏が引責辞任に追い込まれた。この時は、興銀と第一勧銀が手を組んだといわれた。

 みずほは、3行の融和を優先させたため、3トップ、2バンクという世界の金融機関では例を見ない、珍種のメガバンクとなった。ところが、BKのシステム障害が3トップ、2バンク体制を崩壊させた。富士銀はシステム障害で勢いを失い、主導権を握ったのが興銀だった。

 興銀出身の佐藤氏が持ち株会社と中核銀行のトップを兼ねるワントップ、ワンバンク体制に移行する。その最初の試金石が新体制の役員人事だった。佐藤色が濃いものになったが、これで派閥抗争が打ち止めになると見る金融マンは皆無に近い。

 興銀、富士銀、第一勧銀という派閥があるのに、さらに、今回、消滅した2つの銀行の元BK、元CB組という新たな派閥が出世レースに加わる。3つあったトップのポスト(持ち株会社の社長と傘下の2つの銀行の頭取)が2つに減る。

 これで人事抗争が激化しなかったら、それこそ、メガバンクの7不思議の1つになる。

(文=編集部) 

暴力団融資、副頭取が放置 みずほ銀 3年前に把握
2013年10月4日5時11分 朝日新聞

2010年に融資の事実を把握したのに抜本的な対策をせず放置していたのは、当時の副頭取だったことが3日わかった。

■考察
2010年時点の副頭取といえば
上野徹郎(第一勧業銀行出身)コンプライアンス統括グループ担当支店部担当兼店舗部担当
吉留学(富士銀行出身)

第一勧銀出身の上野副頭取でしょうか?
ポイントとなるハコモノ参照
みずほ銀問題「甚だ遺憾」=麻生金融相の怪文書の図がハコモノ・コネクション的に興味深いです。

上野徹郎清和綜合建物(株)代表取締役社長
元(株)日宝業務センター 取締役
すり替えられた日宝業務センター参照
元(株)第一勧銀総合研究所 監査役
元(株)第一勧銀ハートサービス 取締役
元 第一勧銀カード(株)取締役
元 日本オー・シー・アール(株)取締役
元(株)第一勧銀情報システム 取締役
元(株)第一勧銀オフィスサービス 取締役
ほか兼任多数

■清和綜合建物(株)
取締役:黒澤成吉:清水建設(株)代表取締役副社長
取締役:笠原伸次:澁澤倉庫(株)代表取締役会長
監査役:東聖高:(株)ユウシュウ建物 代表取締役社長
監査役:沖本隆史:中央不動産(株)代表取締役社長
中央不動産の保有・管理物件コネクション

■(株)第一勧銀総合研究所
千代田区内幸町1-2-1 日土地内幸町ビル
税理顧問:本間美邦税理士

■第一勧銀カード(株)
東京都中央区日本橋小網町6-1 山万ビル
支店:大阪市中央区南船場2-3-2 南船場ハートビル
※(株)山下設計参照
吉留学ヒューリック(株)常勤監査役

 No.1015809

上野徹郎は悪い奴ですw

2013/10/04 18:51

2
2

反社会勢力に不正融資した件をもみ消した
元副頭取は
上野 徹郎
清和綜合建物株式会社代表取締役社長

清和綜合建物は第一勧業銀行系で
第一銀行の不動産部門として設立。

オリコは第一勧業銀行系の信販会社。

上野 徹郎は旧第一勧銀出身
2011年4月付けで
みずほ銀行副頭取を退任。
清和綜合建物株式会社代表取締役社長に就任。

第一勧銀といえば総会屋への利益供与で
頭取の首が飛んだブラック金貸し。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~人相通り?
FBKは都庁・警視庁に強く、IBJは大蔵財務省に強く、DKBは全都道府県店舗進出=宝くじ興行=でヤクザに強かった。今回の事件の発端は何処から?誰が?ネットではフォロー出来ない。週刊誌待ち。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
旧DKB:江上剛:【特別編】⇒削除:眉唾で平凡な為

みずほ銀行、暴力団融資問題に想う 
繰り返される事件の背後に潜むもの
http://diamond.jp/articles/-/42293 




みずほ銀、反社勢力との取引を温存させた社内体制と、ずさんな不祥事対応の背景

Business Journal 10月1日(火)17時27分配信

写真を拡大 写真を拡大

みずほ銀、反社勢力との取引を温存させた社内体制と、ずさんな不祥事対応の背景
みずほ銀行本店(「Wikipedia」より)

 金融庁は9月27日、みずほフィナンシャルグループ傘下のみずほ銀行が、暴力団構成員ら反社会的勢力との取引を知りながら2年以上も放置したとして、銀行法に基づく業務改善命令を出した。

 
金融庁は昨年12月からみずほ銀に対して実施した定期検査で、反社会的勢力への融資があることを突き止めた。みずほ銀で法令順守を担当する役員は、2年以上前から反社会的勢力との取引があったことを知りながら、具体的な対応をとっていなかったという。

 問題となったのはみずほグループの大手信販会社・オリエントコーポレーション(オリコ)などを通じて実行した自動車ローンなど。暴力団組員らが中古車を買った際のローンが中心で、取引件数は230件、融資額は2億円に上った。★平均87万円★

 問題融資は、どの銀行も抱えている。旧第一勧業銀行ではマル特、旧富士銀行では特対と呼ばれていた。みずほ銀の特対案件は金融庁検査にひっかからないように処理されてきた。例えば暴力団組員らへの融資は、特定の支店に集中するのを避け、全国各地に分散させていた。

 今回問題になったのは、反社会的勢力との取引を把握しながら、担当役員が2年以上も放置していたことだ。みずほ銀の最高首脳が、その事実を知らなかったというのは極めて不自然だ。特対案件については必ず報告を受けているはずだからである。

 問題の融資が明らかになったのは2010年末。オリコは旧第一勧銀出身者が社長で、みずほ銀頭取は旧富士銀出身者、みずほ銀の法令順守担当役員は旧日本興業銀行出身者だった。旧3行のバランスに配慮した人事が、問題融資の抜本的な対応を遅らせた可能性がある。★旧他行の上司に報告すると、その責任を取らされるから回避した。DKBでも総会屋事件は第一=DだからとKは逃げた。見ざる・言わざる・聞かざるが出世の鉄則?!!!!!★

 日本銀行の記者クラブは正式な記者会見を要請したが、みずほ銀は応じなかった。みずほ銀の広報担当者に記者から「2年間も放置されていたのはなぜか」「担当役員で情報が止まっていたのはなぜか」との質問が飛んだ。担当者は「それは当局に報告することになっている」とかわした。「記者会見は開かない」「会見に経営トップは出ない」「経営トップは『知らない』で押し通す」。これはみずほ銀行で不祥事が発覚した際の対応マニュアル3点セットであり、1997年に、みずほ銀の前身の旧第一勧銀による総会屋への利益供与事件で学んだものだといわれている。

●尾を引く、旧第一勧銀の利益供与事件

 1997年5月23日、東京・千代田区内幸町の第一勧銀本店(現・みずほ銀行本店)は東京地検特捜部の家宅捜索を受けた。その日、本店22階で同行会長の奥田正司と頭取の近藤克彦がそろって辞任会見を開いた。近藤は「(総会屋側に)多額の融資を行った最大の要因は(歴代最高幹部が親しかった)元出版社社長の依頼を断れなかったことで、社長の死後も、その呪縛がとけず、関係をたち切れなかった」と釈明した。次期頭取と紹介された副頭取の藤田一郎は「以前から不正融資を知っていた」と告白した。近藤、藤田の新旧頭取の衝撃的発言は旧第一勧銀行内を震撼させた。

 家宅捜査のきっかけは、証券会社による総会屋への利益供与事件であった。総会屋の小池隆一(97年5月14日に商法違反容疑で逮捕)は野村證券、山一證券、日興証券、大和證券の4大証券の株式を大量に購入し、大株主の立場を利用して不正な取引を要求していた。東京地検は小池の株購入資金の出所が旧第一勧銀であることを突き止め、同行の家宅捜索を行い、関係者の事情聴取を開始した。

 6月29日、相談役の宮崎邦次が衝撃的な首つり自殺を遂げた。★この時、捜査継続すべきだった!何故、止まったのか?★会長、頭取、相談役らは総退陣。旧第一勧銀の逮捕者は11人に上った。野村證券・第一勧銀事件は、かつての経営トップの相次ぐ逮捕を招き、空前の金融スキャンダルに発展した。

 小池の知名度は決して高くなかった。小池を旧第一勧銀に紹介したのは総会屋が出す雑誌で大成功した木島力也である。新左翼のゲバルト学生に愛読された『現代の眼』は実に奇妙な雑誌だった。広告は銀行、証券、重工業の一流企業ばかり。総会屋が出した雑誌でベストセラーとなったのは、後にも先にも『現代の眼』だけである。

 木島は右翼の巨頭、児玉誉士夫★(岸・福田系=角栄は小佐野賢治からだと安心していたら、児玉からだったのが、真相?)★派の総会屋だった。旧第一勧銀の経営陣が呪縛にかかったのは木島に対してではない。木島のバックにいる児玉の影に怯えて呪縛が解けなかったのだ。1992年9月、築地の料亭・吉兆。木島は、旧第一勧銀会長の宮崎、頭取の奥田らと宴席をもった。お開きの時間になった頃に、木島が宮崎と奥田に向かって「例の件はよろしく」とささやいた。「わかりました」と宮崎が答えた。木島の子分、小池を介しての迂回融資が決まった瞬間だ。

 木島が死んだ後も、宮崎と奥田は小池への迂回融資の中止を命じなかった。木島が死んだとたんに融資をストップしたら「自分は軽く見られている」と悟った小池がどんな過激な行動に出るかわからなかったからだ。小池に対する融資は460億円に上った。

 旧第一勧銀事件の最大の教訓は、反社会勢力を排除できるかどうかは、結局「トップの勇気」にかかっているということだった。しかし、教訓が生かされることはなかった。第一勧銀の後身のみずほ銀の経営陣が学んだのは、「(会見を)開かない、出ない、知らない」で済ませる保身術だけだった。

 安倍政権の産業競争力会議の民間議員になっている、みずほフィナンシャルグループの佐藤康博社長(みずほ銀行頭取)の経営者としての器が問われている。

編集部

最終更新:10月1日(火)17時27分

追記:2013.10.6(日)

<みずほ銀・組員融資>頭取らの減給検討 歴代役員が放置

毎日新聞 10月5日(土)21時50分配信

<みずほ銀・組員融資>頭取らの減給検討 歴代役員が放置

記者会見で頭を下げるみずほフィナンシャルグループの岡部俊胤副社長=東京都中央区の日銀金融記者クラブで2013年10月4日午後5時、木葉健二撮影

 みずほ銀行が信販会社を通じて暴力団員らに融資していた問題では、行内でその事実を把握した2010年12月以降、当時の副頭取ら5人の役員が法令順守を担当し、事実上これを放置。「ずさんな対応」が連鎖し問題融資の情報が生かされず、顧客らの不信感を招いた。みずほ銀は再発防止策の策定とともに、佐藤康博頭取、塚本隆史会長らの報酬カットなどの処分を検討する。

【みずほ銀はようやく会見を開いたが】解明ほど遠い会見での説明

 親会社のみずほフィナンシャルグループ(FG)の岡部俊胤(としつぐ)副社長は4日の記者会見で、10年当時の担当副頭取について「知っていたと言わざるを得ない」と説明。みずほ銀は5日現在、担当だった5役員のうち副頭取1人、常務3人の計4人が「(問題を)認識していたと思われる」としている。しかし、今年9月末に法令順守担当を更迭された常務以外の4人はすでに退任。「OBのヒアリングはこれから」(岡部副社長)という。

 みずほ銀は問題を把握した後、
半年に1回程度、グループの信販会社オリエントコーポレーション(オリコ)を通じた「提携ローン」について、暴力団員ら反社会的勢力への融資がないかをチェック。少なくとも4役員が報告を受けたが、問題融資の契約解消など抜本的な対応を怠った。残る1役員(副頭取)は在任期間が2カ月程度と短く、みずほ銀は「認識していなかったと思われる」と説明。しかし、法令担当を引き継ぐ際の書類に問題融資の報告が含まれていた可能性もあり、当時の認識や対応について「今後、さらなる確認を実施する」(みずほ銀)という。

 オリコはみずほの前身である第一勧業、富士、日本興業の旧3行のうち、第一勧業との関係が深い。歴代の法令順守担当は5人のうち4人が第一勧業出身者。オリコ社長も同様だ。出身行の身内意識が問題解決を遅らせたのではとの見方については、岡部副社長は「全くない」と否定。しかし、今後の実態調査で解明し、説明責任を果たすことが求められる。 


塚本 隆史(つかもと たかし、1950年(昭和25年)8月2日 - )は、日本の銀行家。みずほ銀行会長ならびにみずほフィナンシャルグループ会長東京都出身。

来歴・人物[編集]

2002年からグループトップを務めてきた、旧富士銀出身の前田晃伸の後継として、FG副社長から昇格。これまで旧DKB出身者がトップをつとめてきたみずほ銀行のトップと出身行が入れ替わる形になった。

2011年に発生した、みずほ銀行のシステムトラブルに伴い、グループのトップとしての引責と子会社であるみずほ銀行のトラブル収拾に当たることを理由とした、降格人事に伴ってFGでは代表権を返上。会長に退き、同時にみずほ銀行頭取に就任[1]

2013年7月1日付で、新発足となるみずほ銀行の代表権のない会長に就任[2]

略歴[編集]


 
佐藤 康博(さとう やすひろ、1952年(昭和27年)4月15日 - )は、日本の銀行家。みずほ銀行頭取ならびにみずほフィナンシャルグループ社長(グループCEO)。東京都出身。

略歴[編集]

  • 1976年 - 東京大学経済学部卒業後、日本興業銀行入行。総合企画部長等を歴任する
  • 2002年 - みずほコーポレート銀行国際企画部長、インターナショナルバンキングシニアコーポレートオフィサー
  • 2003年 - 同執行役員国際企画部長、インターナショナルバンキングシニアコーポレートオフィサー
  • 2004年 - 同常務執行役員
  • 2006年 - 同常務取締役兼常務執行役員
  • 2007年 - 同副頭取兼副頭取執行役員(内部監査統括役員)
  • 2009年 - 同取締役頭取、みずほフィナンシャルグループ非常勤取締役[1]
  • 2011年 - みずほフィナンシャルグループ社長、みずほ銀行非常勤取締役[2]
  • 2013年 - みずほ銀行頭取[3] 

    みずほ銀と暴力団《赤旗10.5(土)》

    底知れぬ闇

    「提携ローン」 銀行は損失ゼロ

    Buzzurlにブックマーク
    Yahoo!ブックマークに登録

     反社会的勢力との暗い過去を清算できていなかったのか―。日本を代表する巨大企業、みずほ銀行の信頼が揺らいでいます。同行は「反社会的勢力との断固対決」をうたいながら、暴力団員らへの融資を2年以上放置してきました。上司にたてついてでも銀行員としての誇りを守る、テレビドラマのようなヒーローはいませんでした。(佐久間亮)


    写真

    (写真)みずほ銀行本店=東京都千代田区

     「市民社会の秩序や安全に脅威を与える反社会的勢力とは、断固として対決します」。みずほグループの「企業行動規範」は、闇勢力との「対決」をうたっています。ところが今回、みずほ銀行が暴力団員に融資を実行し、役員がそれを知りながら2年以上も対策をとらずに放置していたことが発覚しました。みずほ銀行は社会に「ウソ」を表明していたことになります。

     金融庁によれば、同庁の聞き取りに対し、みずほ銀行の担当役員はこう語りました。

     「仕組みを所与のものと思っていた。変えられるとは思っていなかった」「審査をかいくぐってきたものについては融資せざるを得ないと思い込んでいた」

     この担当役員が語った「仕組み」というのが、銀行と顧客の間に信販会社を仲介させる「提携ローン」と呼ばれるシステムです。

     自動車などを購入する際、顧客は銀行と提携する信販会社とローンの契約を結びます。支払い能力など、顧客審査は信販会社が行います。その審査結果をもとに銀行が顧客に融資します。融資が焦げ付いた場合や融資先が暴力団員だと発覚した場合には、銀行は信販会社から返済を受けるため、損失が生じない仕組みになっています。

     みずほ銀行は2010年12月まで独自の審査をしてきませんでした。融資審査を信販会社に丸投げしていたのです。10年末以降に既存の融資について独自の調査を始めたことで初めて暴力団員への融資が発覚。12年9月時点で約230件、約2億円に上りました。信販会社と銀行の審査力の差を、反社会勢力に突かれたのです。

     みずほ銀行は暴力団員への融資が明らかになった後も信販会社に返済を求めず、追加の取引を拒むよう指示するにとどめてきました。12年12月の金融庁の立ち入り検査によって問題が発覚したことで、今年5月、ようやく返済を請求しました。

     暴力団員への融資情報は一部の担当役員のところで止まっていました。経営会議やコンプライアンス(法令順守)会議にかけられることもありませんでした。

     金融界と闇の勢力との関係は、これまでも繰り返し問題になってきました。三井住友銀行は「みずほ銀行と同様な提携ローンは取り扱っていない」とし、三菱東京UFJは「事前に、銀行として審査している」としています。しかし、みずほ銀以外の金融機関に問題がないのか、検証が求められます。

    「オリコ」仲介 焦げつきも

     暴力団員への融資はどうなったのか。信販会社を監督する経済産業省は、個々の融資の調査はこれからだと語ります。みずほは4日の記者会見で回収不能の債権もあると認めました。

     問題となっているのが、信販会社・オリエントコーポレーション(オリコ)です。筆頭株主はみずほフィナンシャルグループ(10年にグループ会社化、株式保有24・6%)。社長の齋藤雅之氏は、みずほ銀行の前身第一勧業銀行出身と、完全な身内企業です。暴力団員への融資すべてが、このオリコを仲介して行われていたのです。

     事実、みずほ銀行が信販会社に対し暴力団員関連の融資返済を求めた5月、オリコはみずほ銀行から約150件の返済請求を受けています。経産省は1日、オリコに対し事実関係や再発防止策を16日までに報告するよう命じています。

     オリコの契約書には顧客が反社会的勢力だと分かったときは、契約解除や損害賠償を求めることが書かれています。オリコは、みずほ銀行から10年末以降、暴力団員の融資情報を知らされていたにもかかわらず、契約解除などの措置を講じてきませんでした。みずほグループ全体で暴力団員への融資を放置してきた形です。


    今も引きずる?暗い過去

     みずほ銀行は、これまでにも闇勢力との癒着が何度となく問題となってきました。

     1991年には、前身の一つ、富士銀行による約2600億円にも上る架空預金が発覚。

     系列のノンバンク「芙蓉総合リース」とあわせ50億円に上る資金を広域暴力団山口組系の企業に融資していたことも明らかになりました。

     97年には、同じく前身の一つ第一勧業銀行による総額118億円に上る総会屋への利益供与が大問題となりました。第一勧銀の前会長、副頭取、元常務らが次々と逮捕され、元会長が自殺する事態に発展しました。

     2006年には、指定暴力団住吉会系の企業に法人や個人の顧客情報1200件を渡していたとしてみずほ銀行業務監査部調査役が逮捕されています。

     ある金融ジャーナリストは「暗い過去を簡単に切れるわけではない。いまも引きずっているのではないか」と指摘しています。

    図