今の日本に怒り心頭

51.9尾道生呉育中3生3千人模試全9科目1位太田房江・主要5科目1位私で高2秋旺文社模試28位70.4早稲田政治1年経由・東大法75卒2011.9定年退職【阿修羅掲示板】愛読者で直下地震・放射能黒い雨?で緑内障悪化・間質性肺炎発症、埼玉宅17.3売却で大学時代思い出の地:軽井沢疎開。こんな21世紀の日本に怒り心頭!池田勇人と角栄が好きで塾に行かず県立から東大文1。日本は公平平等社会と錯覚?角栄逮捕以降戦後民主主義右旋回と所得相続税等低減化で戦前地主貴族が復活!橋龍消費増税以来、世界最古世襲縁故身贔屓資本主義の日本で相続者が親の財産を脱税・納税せず、介護保険料?だけで美田を相続?欧米並み総合課税納税者番号が羊頭狗肉でマイナンバー?チェルノブイリ:福一=ソ連崩壊:平成・令和日本?危惧。

2019.5.25は相撲を見て居なかったが
平幕:朝乃山が14日目に優勝?聞いて今場所は白鵬が計画?欠場し結果的にモンゴル鶴龍とグルジア=ジョージア栃ノ心と日本朝乃山ではトランプ大統領も臨席で日本に花持たせてやれ?白鵬の声がした!

2019.5.26の御嶽海vs朝乃山戦見て本当に優勝?相手に恵まれた幸運?
貴乃花を追い出した白鵬らモンゴル勢の思い通りで、そうさせて呉れた安倍晋三(=李朝最後の皇太子の孫疑惑清朝
康熙帝=元モンゴル帝国末裔ソックリさん)総理に日本勢の勝利を余裕でプレゼント?
白鵬が出るなら勝たねばならず計画欠場間違いない?!
日本人のお名前では相撲は江戸時代に成って徐々に成長した。
徳川家がモンゴル相撲を持ち込んだ?

ja.wikipedia.org/wiki/朝乃山英樹 - キャッシュ

朝乃山 英樹(あさのやま ひでき、1994年3月1日 - )は、富山県富山市出身で、高砂部屋所属の現役大相撲力士。本名は石橋 広暉(いしばし ひろき)。身長187cm、体重170kg(2019年初場所現在)。血液型はA型。得意技は寄り、上手投げ。最高位は西前頭5 ...

来歴 - 取り口 - エピソード - 主な成績

ja.wikipedia.org/wiki/御嶽海久司 - キャッシュ

御嶽海 久司(みたけうみ ひさし、1992年12月25日 - )は、長野県木曽郡上松町出身で出羽海部屋所属の現役大相撲力士。本名は大道 久司(おおみち ひさし)。身長180cm、 体重175kg、血液型はO型。得意技は突き・押し。自己最高位は東関脇(2017年9月 ...

来歴 - エピソード

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髙安 晃(たかやす あきら、1990年〈平成2年〉2月28日 - )は、茨城県土浦市出身の現役大相撲力士。田子ノ浦部屋(入門時は鳴戸部屋)所属。本名同じ。身長185cm、 体重180kg、血液型はA型。突っ張り、押し相撲を得意とする一方で左四つからの寄りもある。

来歴 - 取り口など - 合い口 - エピソード
 
 

ja.wikipedia.org/wiki/鶴竜力三郎 - キャッシュ

鶴竜 力三郎(かくりゅう りきさぶろう、1985年8月10日 - )は、モンゴル国ウランバートル市出身で井筒部屋所属の現役大相撲力士。本名はマンガルジャラビーン・アナンド( モンゴル語キリル文字表記:Мангалжалавын Ананд、ラテン文字転写: Mangaljalavyn ...

来歴 - 合い口 - エピソード - 主な成績

ja.wikipedia.org/wiki/栃ノ心剛史 - キャッシュ

栃ノ心 剛史(とちのしん つよし、1987年10月13日 - )は、ジョージア・ムツヘタ出身で春日野部屋所属の現役大相撲力士。本名はレヴァニ・ゴルガゼ(グルジア語表記: ლევან გორგაძე)。愛称はレヴァニ、角界のニコラス・ケイジ。身長191cm、体重170kg。 得意技 ...


2019.4.27、14時台BS3:
中国王朝英雄達の伝説:途中見で清朝康熙帝の肖像画が出て見たら安倍晋三にソックリ!李朝はモンゴル系武将李成桂の建国だが明⇒清宗主国で血縁関係濃厚で蒙古+満州族系双方の遺伝子が李朝に?


これが本当なら誰も彼に取って代わろうとしない筈かも?
NHKがその検証番組か?
習近平主席は清朝学者や人相見に調べさせたら?
文大統領は李朝研究者に調べさせたら?
悪寒がし出したかも?
李朝最後の皇太子の夭折の第1子=安部晋太郎系だけ?
佐藤家・朝鮮系渡来人の岸家も対象?
韓ドラ:六龍が飛ぶ?で永楽帝の側室に李朝高官子女が嫁いで居たし、貢女が奇皇后の高麗=元だけでなく明や清にも李朝が貢女を送って居たらしい。

永楽帝 - Wikipedia 

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永楽帝(えいらくてい)は、明の第3代皇帝。姓は朱(しゅ)。諱は棣(てい)。廟号は太宗( たいそう)であったが、嘉靖帝の時に成祖と改称された。諡号は体天弘道高明広運聖武神功純仁至孝文皇帝、嘉靖帝の時に啓天弘道高明肇運聖武神功純仁至孝文皇帝と ...

生涯 - 人物評など - 宗室 - 生母の問題について
 

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康熙帝 愛新覚羅玄燁
第4代皇帝
清 佚名 《清圣祖康熙皇帝朝服像》.jpg
清聖祖康熙皇帝朝服像(北京故宮博物院蔵)
王朝
在位期間1661年2月5日 - 1722年12月20日
姓・諱愛新覚羅玄燁(アイシンギョロ・ヒョワンエ)
満州語ᠠᡳᠰᡳᠨ ᡤᡳᠣᡵᠣ ᡥᡳᠣᠸᠠᠨ ᠶᡝᡳ
aisin gioro hiowan yei
諡号仁皇帝(gosin hūwangdi)
合天弘運文武睿哲恭倹寛裕孝敬誠信功徳大成仁皇帝
廟号聖祖
生年順治11年3月18日
1654年5月4日
没年康熙61年11月13日
1722年12月20日) 
順治帝
庶妃トゥンギャ氏(孝康章皇后
后妃孝誠仁皇后
孝昭仁皇后
孝懿仁皇后
陵墓景陵(ambalinggū munggan)
年号康熙 (elhe taifin): 1662年 - 1722年

康熙帝(こうきてい)は、の第4代皇帝玄燁(げんよう、燁は火偏に華)。君主としての称号はモンゴル語でアムフラン・ハーン、廟号聖祖諡号は合天弘運文武睿哲恭倹寛裕孝敬誠信功徳大成仁皇帝(略して仁皇帝)。在世時の元号康熙を取って康熙帝と呼ばれる。

西洋文化を積極的に取り入れ、太宗とともに、中国歴代最高の名君とされる。その事実は歴代皇帝の中での文字を含む廟号がこの康熙帝と、澶淵の盟を締結させた最盛期の皇帝の2人にしか与えられていないことからも窺える。またの文字も、通常はの高祖(太祖高皇帝)劉邦など、王朝の始祖あるいは再建者に贈られる廟号であるが、康煕帝は4代目であるにもかかわらず太祖世祖に続いて3番目に贈られている。

生涯[編集]

即位[編集]

順治帝の第3子として生まれる。疱瘡にかかったことを口実に城外に出され、乳母の手で育てられた。順治帝は子供の養育に関心が薄く、玄燁は祖母である孝荘文皇后により厳格にしつけられた。順治18年(1661年)、病状が悪化した順治帝は、玄燁が疱瘡を克服して生き残ったことと、厳格な教育を受けて育ったことを理由として皇太子に指名した。順治帝は同年に崩御し、玄燁は8歳で皇帝に即位した[1]。一説によると宮中で育てられず、北京のつましい地区で育てられたということであり、順治帝が崩御して宦官が迎えに来たとき、康熙帝は同年代の子供と路上で遊んでいた。もしこれが事実なら、人間形成の大事な時期に庶民の生活に触れて、宦官の毒気に当てられないで済んだわけである[2]順治帝の遺命により、即位後はスクサハソニンエビルンオボイの重臣4人による合議で政権運営が行われた。康熙6年(1667年)にソニンが死去すると、オボイが反対派を粛清して専横を振るうようになった。康煕8年(1669年)、康熙帝はソニンの遺児ソンゴトゥと謀って、モンゴル相撲にかこつけてオボイを捕らえて排除し、15歳の時に親政を始めた。

三藩の乱[編集]  【直下図は安部晋太郎に似ている。これは何なんだ?!】

青年時代の康熙帝

康熙12年(1673年)、三藩の乱が起こった。の臣であった呉三桂は順治帝に山海関を明け渡して清に投降し、その後は南に逃れた南明永暦帝を殺したことで功績大と認められ、皇族やモンゴル王侯ではないにもかかわらず旗王と同格の親王爵位を授けられていた。この呉三桂を筆頭とした尚可喜耿精忠の3人の藩王は、それぞれ雲南広東福建を領地としており、領内の官吏任命権と徴税権も持っていたので独立小国家の体をなしていた。

康熙帝はこの三藩を廃止することを決めた。廃止しようとすれば呉三桂たちは反乱を起こすと群臣の多くは反対だったが、3人だけ「このまま藩を存続させればますます増長し、手に負えなくなり、結局反乱することと同じである。どうせ同じなら今廃止したらどうか。」という意見を出し、康熙帝はこれを採用した。

予想通り、呉三桂たちは清に対して反旗を翻した。三藩軍は清の軍隊を各地で破り、呉三桂は清から分離してを建国し、鄭氏台湾鄭経もこれに呼応した。そのため清は、一時期長江以南を全て奪われるなど、崩壊の危機を迎える。群臣は康熙帝に故地満州に避難することを勧めたが、康熙帝は断固として三藩討伐の意思を変えなかった。呉三桂たちは「満州人を追い出して漢人の天下を取り戻そう」というスローガンを民衆に訴えたが、そもそも漢人の王朝である明を滅ぼしたのは他ならぬ呉三桂であったので、民衆は支持しなかった。康熙帝が漢人の周培公らを起用したことで、清軍は徐々に優勢になっていき、康熙20年(1681年)に周を滅ぼして三藩の乱は鎮圧された。その2年後には李光地中国語版の意見を採用し、鄭氏政権からの降将施琅を登用して台湾を制圧、反清勢力を完全に滅ぼした。

外征と晩年[編集]

避暑山荘の康熙帝銅像

台湾を収併した年、ピョートル1世(摂政:ソフィア・アレクセーエヴナ、顧問:ヴァシーリー・ゴリツィン)時代のロシア帝国が、満州人の故地である黒竜江付近のアルバジンに南下してきたので、この地域の軍事力を強化し(清露国境紛争)、康熙28年(1689年)にソンゴトゥを派遣してネルチンスク条約を締結した。19世紀に受け入れさせられた一連の不平等条約と異なり、この条約は両国が対等の立場として結ばれたものである。中華思想によれば中国は唯一の国家であり、対等な国家の存在を認めず、国境など存在しないという建前だったが、この原則を揺るがす内容であった。これには側近のイエズス会宣教師フェルディナント・フェルビースト(南懐仁)の助言があったといわれ、条約締結の際にもイエズス会士が交渉を助けた。ただし、その後の対ロシア関係は理藩院によって処理されており、清の国内では朝貢国と同様の扱いを受けていた。そのため、この条約締結をもってして清朝が主権国家体制の枠組みに包含されたとまではいえない。

1670年代ジュンガル部ガルダン・ハーン(噶爾丹)がオイラトの覇権を握り、さらにモンゴルのハルハ部の内紛に介入、ハルハ諸部を制圧した。康熙32年(1693年)、ハルハの諸侯は康熙帝に保護を求め、康熙帝はこれに応えてガルダンと対決(清・ジュンガル戦争)、みずから軍勢を率いての戦闘を経て、康熙35年(1696年)に致命的打撃をガルダンに与えることに成功(ジョーン・モドの戦い英語版)、ガルダンは敗走中に死去した。従来、ハルハ諸侯は清朝に朝貢を行い、冊封を受けるのみで、他の朝貢国と同様に内政自主権を行使していたが、これ以後は清の盟旗制に組み込まれることとなる。

18世紀初め、ダライ・ラマ6世を巡って生じたチベットの内紛で、青海グシ・ハン王家の傍系王族の一部とジュンガルのツェワンラプタン中国語版が同盟を結び、康熙56年(1717年)にジュンガル軍がチベットへ侵攻し、ラサを制圧、チベットのラサン・ハン英語版中国語版を殺害した。康熙帝はラサンの救援要請に応じ、康熙57年(1718年)にチベットへ出兵したが、この第一次派遣軍はジュンガル軍によって壊滅させられた(サルウィン川の戦い英語版)。これに対し康熙帝は、グシ・ハン一族の主だった者たちを、当初ジュンガルと同盟した者たちを含めて北京に招き、爵位で釣って清朝側につけることに成功した。康熙59年(1720年)の第二次派遣軍は、「グシ・ハンの打ち立てた法の道」を回復することを旗印に、グシ・ハン一族の軍勢とともに進軍した。ガリーガルトクフランス語版の知事カンチェンネー中国語版ドイツ語版とラサンハン軍にいたツァンポラネー中国語版ドイツ語版らゲリラ勢力の蜂起に苦しめられていたジュンガル軍はこれを見て、戦わずして中央チベットから撤退していった。

康熙帝は「グシ・ハンの立てた法の道(ダライラマを擁するチベットのハン)」をチベットの正統の政体と認め、この政体の回復をチベット介入の旗印にしていた。康熙60年(1721年)には、グシ・ハン一族にハン位継承候補者を選出するよう求めたが、グシ・ハン一族は18世紀初頭以来、内紛の極みに達しており、一族とチベットの有力者が一致して支持しうる候補者を選出することができなかった。康熙帝はラサンを継ぐハンを冊封しないまま没し、チベットの戦後統治処理は次代の雍正帝の手に委ねられることになる。

康熙60年(1721年)、朱一貴中国語版台湾阿里港(現在の里港郷)で反乱を起こしたが、総兵藍廷珍中国語版とその族弟藍鼎元中国語版を派遣し、翌康熙61年(1722年)に平定した。この年の正月、在位61年の宴会で機嫌よくした康熙帝は大臣たちを私室に招き、機嫌よく思い出話をした。

「私が10年在位した時は20年在位するとは思わなかったし、20年在位した時は20、30、40年と在位するとは思わなかった。50の時も60年も在位するとは思いもかけなかった。今はもう61年である。歴史によれば、70歳に達した帝王は3人しかいない。なんと私は恵まれているのだろう。私はいつも臣下に寛大にふるまい、大臣たちの身の保全には特に気をつけた。だからお前たちもみな、年を経て幸福に暮らし、名誉をともなっていられるのだ。こうやって向かい合っている君臣が髪も髭も白くなっているとは楽しいことではないか。」

また、得意の戦争や6回の南方巡航を回顧した[3]

康熙61年11月8日、康熙帝は冷風に当たり高熱を出し、その6日後の11月14日に崩御した。順治帝は清を中華王朝としたが、実質的に清を全国王朝としたのは康熙帝である。清東陵に陵墓がある。

北方民族の王者[編集]

康煕帝(北京故宮博物院蔵)
狩りをする康熙帝
南巡する康熙帝

康熙22年(1683年)からほとんど毎年、康熙帝は夏にはムラン(木蘭)囲場(現・承徳市囲場満族モンゴル族自治県)に赴き、モンゴル王侯とともに狩猟を行った。こうした狩場で十数日の間、モンゴル風のテント生活を送ったのである。康熙帝は弓の達人で、自ら虎や熊を倒したといわれる。また康熙42年(1703年)には熱河に離宮避暑山荘を造り、毎年夏から秋にかけて北京を離れて熱河で過ごし、モンゴル諸王や外国朝貢使節を引見した。こうした北方民族の王者としての行動様式は、家法として雍正帝乾隆帝にも受け継がれていく。【右肖像画がソックリのか?】

国内政策[編集]

康熙帝は内政にも熱心であり、自ら倹約に努め、代に1日で使った費用を1年間の宮廷費用としたといわれる。また、使用人の数を1万人以上から数百人にまで減らした。国家の無駄な費用を抑え、財政は富み、減税をたびたび行った【施政は真逆だ!】また、丁銀(人頭税)の額を康熙50年(1711年)の調査で登録された人丁(16歳から59歳の成年男子)の数に対応した額に固定し、1711年以降に登録された人丁に対する丁銀を当面免除した。これは地丁銀制へとつながる。

文化的にも、『康熙字典』『大清会典』『歴代題画』『全唐詩』『佩文韻府』などを編纂させ、『古今図書集成』の編纂を命じた(完成は雍正帝の時代)。朱子学に傾倒し、自ら儒学者から熱心に教えを受けて、血を吐くまで読書を止めなかったといわれる[4]

康熙帝の時代から十哲の一人として朱子(朱熹)を祀るようになり、『朱子全書』『性理大全』などの朱子に関する著作をまとめた。『明史』の編纂にも力を入れ、大部分を完成させている(全巻完成は乾隆4年(1739年))。また、イエズス会宣教師ジョアシャン・ブーヴェらに実測による最初の中国地図『皇輿全覧図中国語版』を作成させた。

文字の獄をはじめたのも彼の代からであり、その政策は子の雍正帝、孫の乾隆帝にも受け継がれた。

後継者問題[編集]

康熙帝は孝誠仁皇后が生んだ第2子の胤礽(示偏に乃)を、康熙15年(1676年)に皇太子に立てた。康熙帝は胤礽を非常に可愛がり、遠征中に自筆の手紙を何度も差し出したり、一緒に狩りに行ったりした。また、成年しても爵位や領民を与えず、部屋住まいにした。これは帝位を円滑に継がせたいための処置であった。ところが、ガルダン・ハーン討伐で他の皇子たちが功績を挙げたので、6人に爵位と八旗や領民を与えた。旗は元来はそれぞれ独立した部族集団であり、清朝初期の皇帝やその前身の後金ハーン満州の部族連合の長として合議で選ばれており、皇帝が皇太子と定めても帝位を継げる保証は必ずしもなかった。そのため、各旗の旗人は壮烈な党派争いを演じ、陰謀が巡らされた。また、満州人には長子相続という慣習がなく、中国式の皇太子の地位など皇子たちには納得がいかず、兄弟みな同格だと認識していた。

そうした中、康熙42年(1703年)に胤礽の後ろ盾でもあったソンゴトゥがクーデターで失脚すると、胤礽は孤立して自暴自棄となった。康熙47年(1708年)秋、内蒙古に赴いていた際に、康熙帝は同行していた胤礽を跪かせ、泣きながら激しく叱責し、逮捕させた。康熙帝は、悲観のため不眠症となった。その後、北京への帰還の際に皇太子を正式に廃した。

胤礽が廃された後、皇長子胤禔が皇八子胤禩中国語版を新たな皇太子に推薦した。しかし、胤禩が反胤礽の中心人物であったことを知り、康熙帝は怒って貝勒の爵位を取り上げた。さらに、皇三子の胤祉が、胤禔はラマに頼んで廃太子に呪詛を仕掛けたと直訴した。調べたところ、廃太子の部屋に呪詛の証拠が見つかり、胤禔は群王の爵位を取り上げられ、監禁された。

その後、胤礽に会うと別人のように穏やかになっていたので、康熙帝は康熙48年(1709年)春に再び胤礽を皇太子に立てた。しかし、胤礽が諸大臣との宴会を通じて皇太子党なるものを築いたことを知ると、康熙帝は歩軍総領トホチらを処刑し、胤礽は康熙51年(1712年)に再び廃立、幽閉された。これ以後、後継者問題に懲りた康熙帝は二度と皇太子を立てなかった[5]

その後も帝位をめぐって他の皇子の間で暗闘が繰り広げられた(九王奪嫡中国語版)。元々は皇十四子の胤禵中国語版が有力な帝位継承候補であったとされる。孝懿仁皇后の弟で大臣のロンコドが公表した康熙帝の遺詔によって、皇四子の胤禛(雍正帝)が即位したが、その経緯は不明朗である。ロンコドは康熙帝の遺体の届いた宮中に胤禛以外誰も入れなかった。そうして康熙帝の遺言なるものが見つかると、「胤禛は人格が立派で、私に孝行であり、政治の才能もある。帝位に就くのに適している。」と書かれていた。その後、胤禛が皇帝になった[6]。この即位に関しては様々な憶測が伝わり、「雍正簒位」として民間に広まることとなる。

逸話[編集]

  • 上述のように狩猟が得意であり、生涯に虎135頭、熊・豹30頭、狼96頭を倒した逸話が残っている[7]
  • 外見は背格好は中以上、中国人の基準から見るとやせているが、均整の取れた容姿を持つ。丸顔で、天然痘のあとが残っている、目は普通の中国人よりも大きく、鼻は小さく、やや鉤鼻で、先端になるにつれて膨らんでいる[8]
  • 能力は俊敏で、洞察力や知性、記憶力に優れ、驚くべき天分の広さ、いかなる事件に耐えられる剛毅さを持ち、大計画を立ててこれを指導し、強固な意志力を持っており、威厳のある外見ではないが、趣向や趣味は高貴であり、大王にふさわしい、と絶賛されている[9]
  • 学問を非常に好み、孔子の著書の大半やその他にも多くの古典を暗記していた。また、西洋の学問にも深く興味を抱き、幾何学科学天文学をよく学んだ[10]
  • フェルディナント・フェルビースト湯光先を臨時の会議に呼び出し、中国天文学と西洋天文学のどちらが正しいかを確かめるため訊問し、西洋天文学の正しさを実証させた[11]
  • 呉三桂など多くの漢人の反乱に悩まされたが、不眠不休で連日連夜にわたり会議を行い命令を下した。適切な対応をしたため、数で勝る漢人を懐柔すること成功した[12]
  • モンゴルの王が反乱を起こそうとすると、すぐさま北京の軍とモンゴルに隣接する遼東省の軍を合流させた混合軍を送った。モンゴルの王は自軍の情勢も兵力集中も隣国の協力も得られずに敗北し、兄弟と王子が俘虜となった[13]
  • 飢饉の時に諸省の税を免除して、米倉を解放した。被害の大きい地域には米と金を分配した。また、六部を新築するために北京に集まっていた貧民を使役し、彼らの困窮を救った。中国史で起こりがちであった農民反乱を、こうして未然に防ぐことに成功している[14]
  • 康熙帝は時折巡幸して国民と官吏を視察した、その時、身分の低い者でもそばに行くことができ、彼らに親切で慈愛のある態度を取った。そして官吏に満足しているかを尋ねた[15]
  • 生活は質素であり、食事は普通のもので満足した。また離宮を建設した時、豪勢さを反映するものは見当たらず、質素であった。衣服も豹の毛皮と一般的に用いられるものだった[16]
  • 皇子の教育にも熱心であり、歩き始めるとすぐに馬術、弓術、銃術を教えた。また、皇子たちが過保護にされるのを好まず、労働、労苦を与えて、粗悪な肉類を食べるように躾けた[17]
  • 1708年に明の皇統の生き残りである75歳の朱慈煥に対して、「謀反を起こした事実はないが、謀反の心を抱かなかったことはないとはいえない(朱某雖無謀反之事,未嘗無謀反之心)」と判断して、逮捕した挙句に朱慈煥本人を凌遅刑に、その一族を皆殺しの刑に処して、明の皇統を根絶やしにした[18]

 

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