エナガ先生の講義メモ

野鳥撮影がきっかけで鳥から教えてもらったこと、興味をもって調べたことをメモしていきます。 

生田神社の参道⑨花隈厳島神社(神戸市・中央区・花隈)

生田神社の参道⑨花隈厳島神社(神戸市・中央区・花隈)に関する記事です。

花隈厳島神社はは元町駅の西400m、
JRの車窓北側に見える位置にある
JRより5~6m高い花隈の丘陵(花隈城跡)に鎮座する神社です。


花隈城からJR
花隈城跡からJR元町駅方面を臨む


花隈厳島神社は平清盛が承安年間(1171~5)に大輪田泊の守護神として
勧請した厳島神社七社の一社です。


鳥居扁額には神戸最初船場鎮守とあり、
航海安全、芸能向上で信仰されてきた神社です。


祭神:市杵島姫命、大物主命


花隈厳島神社の鳥居
花隈厳島神社の鳥居


平清盛の時代には、兵庫の海は現在の花隈城の当りまで迫っていました。
花隈の地名は鼻隈で、丘陵が海に突き出ている様が鼻に似ていたことによります。


その岸壁の先端に海の鎮守として建てられたのが花隈厳島神社でした。

花隈厳島神社の社殿
花隈厳島神社の社殿


その後、16世紀後半になると、荒木村重がこの岸壁に花隈城を築城し、
花隈厳島神社は生田神社に移されました。


天明年間(1781~)には宇治川河口の弁天浜へ、
更には、明治初期には神戸港の建設で現在地へと移転を繰り返しました。

結局明治初期には神戸港の建設で当初の花隈の地に戻ったことになります。


花隈城跡公園
花隈城公園


天正6年(1578)、荒木村重が織田信長に反旗を翻し
花隈城での戦いとなりましたが、織田信長軍の武将・池田恒興と争い落城しました。


池田恒興は花隈城の部材を転用し兵庫城を築城したため、花隈城は廃城となりました。
この花隈城の戦いが最初で最後ではないかと推定されています。


花隈城跡碑
右:花隈城跡碑 左:東郷井碑

兵庫津から発見された花隈城の瓦
兵庫津から発見された花隈城の瓦1
兵庫津から発見された花隈城の瓦2
兵庫津から発見された花隈城の瓦2


保久良神社の参道⑬綱敷天満神社(神戸市・東灘区・御影)

保久良神社の参道⑬綱敷天満神社(神戸市・東灘区・御影)に関する記事です。


綱敷天満神社は阪神石屋川駅の北1km
石屋川の左岸、六甲山南麓に鎮座します。


石屋川沿いに六甲山に向かって進みましたが、
山陽道を越える時に御影公会堂がありました。

御影公会堂は昭和の始めに白鶴酒造の嘉納治兵衛の寄付で建築されたもので、
今年の4月にリニューアルオープンしたばかりです。


石屋川と御影公会堂
石屋川と御影公会堂


綱敷天満神社近く、JRの高架線付近に
「日本で最初の鉄道トンネル、旧石屋川隧道」の記念碑がありました。

石屋川は天井川で、その川底を通るためのトンネルとのことです。

JRの高架を潜り、石屋川の高い堤防を降りた場所が綱敷天満神社の鎮座地です。


綱敷天満神社の鳥居
綱敷天満神社の鳥居


社伝によると、以下のようにあります。
~天道根命が、天神山に別雷神を祀るに始まり、
天津彦根命に伝えられ子孫代々鎮祭す~


天神山とは綱敷天満神社の背後にある六甲山南麓の丘陵で
現在は御影山、御影山手などと呼ばれる山の住宅街です。


天道根命が別雷大神を御影山手の天神山にお祀りしたのが始まりで、
その後、常陸国を本拠とした茨城国造の天津彦根命が祭祀を継続しました。


御影山(天神山)
天神山(御影山)


飛鳥時代には聖徳太子が四天王寺建立に必要な石を求め、
大和の兵衛、山城の太兵衛を伴われ御影を訪れました。

良質の御影石を採掘できたので、御影石と名付け、倉稲魂大神を合祀しました。


綱打神事の勧請縄柱
綱打神事の勧請縄柱

 
平安時代には2度も当社に参拝した菅原道真公をお祀りしています。
一度目は讃岐守として任地に赴く途中
二度目は左遷されて大宰府に赴く途中


菅原道真が大宰府に赴く途中に当地で休息した時に、
里人が石の上に綱を巻いて敷物としたのが社名の由来です。


綱敷天満神社の拝殿
綱敷天満神社の拝殿


13世紀初めに道真公の9世の孫、菅原善輝が現在の地に社殿を建立して、
三柱を天神山から遷しました。


祭神:別雷大神、倉稲魂大神、菅原道真


綱敷天満神社の内陣
綱敷天満神社の内陣


1月8日の綱打神事は、厄除開運・無病息災を祈願する特殊神事です。

赤い注連柱に掛けられた勧請縄に神事の祈願が象徴されています。

勧請縄の大綱は龍を表し、大綱に刺さる8本の白矢は八雷神です。
この注連柱を潜り抜ければ1年間無病息災に暮らせるものとされます。

祭神の別雷大神は八雷神の総称です。

八雷神は黄泉国で腐りかけた伊邪那美命の体に湧いた八柱の雷神で、
その雷神が8本の白矢となり罪穢を祓い清める神事です。


綱打神事の大綱と8本の白矢
綱打神事の大綱と8本の白矢


延喜式には摂津国・菟原郡には河内国魂神社があったと記され、
それが綱敷天満神社ではないかとの説があります。


河内といっても上代の凡河内国(おおし)と呼ばれる広大な地域で、
凡河内国造は大阪湾全体を掌握して河内国・摂津国・和泉国を支配しました。


河内国魂神社はその凡河内氏の氏神社と考えられ、
祖神には綱敷天満神社の祭祀を行った天津彦根命、子の天御影命がおります。

天御影命も凡河内氏を通じて当社背後の御影山に繋がっていることが分かります。


綱敷天満神社の社殿
綱敷天満神社の社殿(背後の丘陵が御影山)


廣田神社の参道⑰打出天神社(芦屋市・打出小槌町)

廣田神社の参道⑰打出天神社(芦屋市・打出小槌町)に関する記事です。


打出天神社は阪神打出駅の北100M、
「うちでのこづち」伝説発祥の地である打出小槌町に鎮座地します。


打出天神社の参道は阿保親王廟の標石や
黄金塚の別称を持つ金津山古墳もあり、まさに御伽噺の世界です。


阿保親王廟碑
阿保親王廟
碑(阿保親王墓は金津山古墳の北600m)


金津山古墳は芦屋市最大の古墳で、
阿保親王が打出の村人の飢餓に備えて財宝をこの塚に埋めたとされる伝承があります。


♪朝日さす入り日 輝くこの下に 黄金千枚瓦万枚♪  打出伝承歌


金津山古墳は打出の海浜部に築造された全長55mの帆立形古墳で、
打出の海上交通を支配した豪族を埋葬した墓と想定されます。


<金津山古墳>
形状  :帆立形古墳
サイズ :全長55m、後円部径40m
築造時期:五世紀中旬
被葬者 :海上交通を支配した豪族

金津山古墳1
金津山古墳1

この金津山古墳の上には明治のころまで、厳島神社の祠があり、
現在は打出天神社境内に祀ってあります。

金津山古墳の西150mには消滅古墳ではありますが
全長90mの打出小槌古墳がありました。


打出小槌を振れば大判小判がザックザックの世界ですが、
打出小槌古墳が壊されたのは室町時代とのことです。
おそらく打出の村人が古墳を掘り起こして、
副葬品の宝石類を手に入れたのだと思います。


金津山古墳の上にあった厳島神社

金津山古墳の上にあった厳島神社(五社相殿の左)


打出天神社は山陽道の国道2号線の南20mにあり、
葦屋駅(あしやうまや)の伝承地の一つでもあります。

古くから交通の要衝で、天神信仰が早くから伝わったものと思われます。

天暦元年(947)に北野天満宮に道真公が祀られた時期に
北野天満宮から勧請されたともありました。


祭神:菅原道真


打出天神社の鳥居
打出天神社の鳥居



当神社が鎮座する打出は、山陽道が箕面の山麓から武庫の平野を横断して、
初めて海岸に打ち出る地点でそれが打出の地名由来ともあります。


又、神功皇后がこの地から新羅に打ち出たからという説や、
籠坂・忍熊皇子が、三韓を征し東進を続ける神功皇后を
打出の浜で討とうとしたという説もあります。


茅の輪くぐり
打出天神社の拝殿(茅の輪くぐり)


打出の小槌は幻想の世界で、以下のような伝承も当地にあります。

~昔、芦屋の沖に竜神が住んでいた。
この竜神が人に化身して、朝廷に小槌を献上した。
この小槌を打ち振ると、何でも願い事が叶うという大切な宝物。

打出の長者が都で仕えていたときに、この小槌を、褒美に貰った。

 この小槌は、貴重な宝物でしたが、ただ一つ困ったことに、
鐘の音が聞こえると、それまで打ち出した宝物の全てが消え去った。~


大判小判がザックザックの世界
打出の小槌は幻想の世界



伊佐具神社の参道⑪久々知須佐男神社(尼崎市・久々知)

伊佐具神社の参道⑪久々知須佐男神社(尼崎市・久々知)に関する記事です。

久々知須佐男神社はJR福知山線の塚口駅の東南900m
近松公園の西側にあります。


須佐男神社の鳥居
須佐男神社の鳥居


久々知須佐男神社は、平安時代の天徳元年(957)
摂津一帯に勢力を持っていた源氏の棟梁・源満仲の創建とされる社です。


須佐男神社の拝殿
須佐男神社の拝殿


源満仲は川西を本拠とし、能勢妙見を信仰していました。
そのため明治時代までは牛頭天王を主神とし、妙見祠と称していました。


妙見とは北斗妙見菩薩を指し北極星を中心に
北斗七星を神格として祀ったものです。


祭神:須佐男命


須佐男神社の本殿
須佐男神社の本殿


境内に源満仲が多田(川西市)に向って
矢を射るのに足をかけた「矢文石」があります。


満仲が放った矢は、頭が九つもある大蛇に突き刺り、
そこが源氏の発祥の地といわれる多田の地になりました。


矢文石
矢文石


鎮座地の久々知は古代の氏族の久々智氏が居住した地です。
久々智氏は孝元天皇の皇子の大彦命の後裔で、坂合部氏と同族です。


古事記に見える久久能智神は木の神で、
久々智氏が木と関係の深い氏族であり、杣山の運営に関わる氏族と見られます。


近松公園2
近松公園


垂水神社の参道⑱味舌天満宮(摂津市・三島)

垂水神社の参道⑱味舌天満宮(摂津市・三島)に関する記事です。

味舌天満宮(ました)は阪急京都線・正雀駅の東800m
安威川支流の山田川に架かる狭い歩道橋を渡った先にある神社です。

味舌天満宮の社叢
味舌天満宮の社叢と山田川

室町時代、源氏の末裔・馬場当次郎尚久が八幡大神をまつり、
村の鎮守とした馬場宮がこの宮の起源です。

その後、織田有楽斎の子の織田尚長が社殿を造営して、
八幡大神を摂社に移し、菅原道真を祀り天満宮とし現在の形にしました。

祭神:菅原道真
合祀:天照大神、天忍穂耳、瓊瓊杵命、鵜葦草葦不合、天児屋根

味舌天満宮の鳥居
味舌天満宮の鳥居

織田有楽斎は織田信長の実の弟で、本能寺の変以降は秀吉に仕え
摂津国の味舌(ました)で二千石を領していました。
味舌天満宮を中興した織田尚長はこの味舌で有楽斎の五男として誕生しました。
現在の正雀3丁目に当りになります。

父の有楽斎は内通・密告などの功績で家康から3万石の所領を与えられ
尚長は大和柳本藩の藩主となりました。

味舌天満宮の拝殿
味舌天満宮の拝殿

同じ味舌地区(ました)に、行基創建の放光山味舌寺があり、
行基が老僧より供された珍菓の味より名付けられた寺名ともされています。


味舌天満宮の本殿
味舌天満宮の本殿(織田尚長が建立)


八幡神社
八幡神社(織田尚長が建立)



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