エナガ先生の講義メモ

野鳥撮影がきっかけで鳥から教えてもらったこと、興味をもって調べたことをメモしていきます。 

長田神社の参道④兵庫大仏(神戸市・兵庫区・北逆瀬川)

長田神社の参道④兵庫大仏(神戸市・兵庫区・北逆瀬川)に関する記事です。

兵庫城は明治7年の新川運河開削で破壊されましたが、
池田恒興が天正9年(1581)兵庫城築城と同時に町割りした城です。

柳原惣門跡から町中に入り、
平清盛の影が色濃く残る寺町の雰囲気を味わいました。


能福寺は兵庫大仏で知られる寺ですが、
平清盛が福原で、巨額の財産と権力を手に入れるきっかけとなった寺です。

<能福寺の歴史>
延暦24年(805) 伝教大師・最澄が創建
治承4年(1180) 福原京遷都、平家一門の祈願寺に指定
明治24年(1891) 豪商・南条荘兵衛の寄進で大仏を建立


兵庫大仏
能福寺・兵庫大仏(能福寺は平家一門の祈願寺)


病で太政大臣を辞した平清盛は能福寺で出家し、
大輪田泊を再整備して、宋との貿易によって莫大な利益を得ました。


しかし次第に奢る平家に反目するものも増え、政情不安で福原遷都を諦め
翌年には源氏が各地で挙兵する中、京都で死去します。


<晩年の清盛>
1168年 能福寺で出家
1173年 大輪田泊改修
1180年 福原遷都断行するも中止
1181年 清盛死去


治承5年(1181)清盛が京都で熱病で死去(64歳)したとき、
能福寺の初代住職・円実法眼は遺言に従い、清盛の遺骨を経ケ島に持ち帰りました。


能福寺の境内には清盛のお墓「平清盛廟」が祀られ、
その隣には美しい「兵庫大仏」があります。


十三重石塔(平清盛供養塔)
十三重石塔(平清盛廟)


能福寺の北東90mには能福寺の守護神だった神明神社があります。
神明神社は兵庫津の七社の一で、古くに伊勢神宮から勧請したものです。 

   
祭神:天照大神、豊受大神 
配祀:猿田彦大神、大物主命
  

この場所はかつては兵庫津の宿場町で
井筒屋など大名の本陣を努める宿が並んでいました。


神明神社
神明神社(能福寺の守護神)


西仲町の金光寺は平清盛が福原へ遷都しようとした際に、
大輪田泊で網に掛かった薬師如来像を本尊とした寺です。


金光寺
金光寺(兵庫区・西仲町)


柳原大黒とも称される福海寺の境内には平清盛の時雨の松碑があります。


平清盛が好んだ『時雨の松』は、青葉から玉露の滴を垂らし、
霊験あらたかで、平清盛の隆盛を導いたとされます。
いまは、碑だけが福海寺に残されています。

平清盛公・時雨の松
平清盛の時雨の松碑

生田神社の参道②熊内八幡神社(神戸市・中央区・熊内町)

生田神社の参道②熊内八幡神社(神戸市・中央区・熊内町)に関する記事です。

熊内八幡神社は新神戸駅の北東150mに位置する神社です。


熊内八幡神社と同じ、熊内町(くもち)に属する布引橋から生田川上流を望むと、
新神戸駅があり、その背後に六甲山の山々が見えます。
赤いゴンドラが間断なく連なり、ハーブ園へ上っていく姿には心が惹かれました。


生田川と布引山(砂山)
布引橋から生田川上流を望む


布引橋周辺は生田川公園として整備されており、
生田川沿いから上流の布引滝にかけて三十六歌碑が置かれています。

♪うちはへて 晒す日もなし布引の  滝の白糸さみたれの頃♪  藤原 為忠


布引滝は古くから和歌で詠まれた景勝地で、多くの文学作品の舞台となっている名瀑です。


布引滝歌碑(藤原 為忠)
布引滝歌碑(生田川公園)


布引滝が流れる布引山は砂山(いさご)とも言われます。

その砂山に生田神社が祀られた太古の時代、
砂山の麓の熊内は生田神社の神域である神内(くまうち)でした。
それが熊内(くもち)の地名由来ともされます。


また山の奥まって隠れた場所から隈内(くまうち)とも、
生田神社の供米(くまい)地だったからとも言われます。


熊内八幡神社の鳥居
熊内八幡神社の鳥居


熊内八幡神社は文武天皇の御代(697~707)、
役の行者が砂山(布引山)に創建した滝勝寺の鎮守社です。


役の行者は布引滝で修行した修験道の祖で、
熊内八幡神社の祭神は彦火々出見命とされました。


熊内八幡神社の拝殿
熊内八幡神社の拝殿


役の行者が滝勝寺を創建した時には、砂山には生田神社の元社があったはずです。

生田神社と熊内八幡神社の関係は不明ですが、
滝勝寺が砂山に造られた時、生田神社は一旦麓の熊内へ遷ったとも考えられています。



熊内八幡神社の内陣
熊内八幡神社の内陣


その後、延暦18年(799)に大洪水で砂山の麓が崩潰し、
生田神社は現在の「生田の森」へ遷座したものです。


799年の大洪水の際、松の木が、洪水を防ぐ役割を全く果たさなかったため、
今でも生田の森には1本も松の木は植えられていません。


布引の滝(雄滝)
布引の滝(雄滝)

熊内八幡神社の南400m、雲中小学校の北側に
「旭の鳥居」と呼ばれる不思議な鳥居があります。

「旭の鳥居」は生田神社が砂山から麓の熊内に遷座した頃の鳥居とも、
熊内八幡神社の鳥居とも言われます。

元旦の朝に日がさしても、影ができないとも伝承されています。

生田神社と熊内八幡神社は同一地に共存した神社なのか、
生田神社が洪水で熊内から「生田の森」へ遷った後に、
熊内八幡神社が造営されたのか、どちらかだと思います。


旭の鳥居
旭の鳥居(この先
350mに熊内八幡神社)


熊内八幡神社の境内には熊内村の庄屋に生まれた中西為子の歌碑があります。

中西為子は幕末摂津小町とうたわれた女流歌人で、
祖父や叔母に国学,和歌をまなび勤王思想を歌に詠みました。


♪砂子山 夜霧の晴れて 茅渟の海の 波より出る月を見るかな♪ 中西為子


境内から茅渟海
境内から茅渟海


保久良神社の参道⑦東明八幡宮(神戸市・東灘区・御影塚町)

保久良神社の参道⑦東明八幡宮(神戸市・東灘区・御影塚町)に関する記事です。

東明八幡宮は阪神電鉄・石屋川駅の南西500m
処女塚古墳(おとめ)の東隣にある神社です。


東明八幡宮の鳥居
東明八幡宮の鳥居


昭和二十年の大空襲で社殿は悉く焼失し、
東明村や神社に関する古文書も消えて由緒は不明です。


しかし注連縄柱に残る凄まじい弾痕のあとが、
この神社の悲痛な叫びを伝承しているように感じます。


銃痕の残る石柱
弾痕の注連縄柱


神功皇后が朝鮮半島へ船出の時に、
武内宿禰がその健勝を祈って、此の地に若松を植えました。


後年、此の地を訪れた武内宿禰が大木に育った松の傍に祠を建て
應神天皇の神霊を勧請して正八幡宮と称し
遠目の郷(東明)の鎮守としたのが創建です。


祭神:應神天皇


東明八幡宮の拝殿
東明八幡宮の拝殿


境内社の高良宮は厄除けで信仰される神社で祭神は武内宿禰です。


高良宮
高良宮


当神社の東北約100mの地に、
神功皇后が、弓矢の稽古をした弓弦丘、弓弦尾の遺跡があったと伝承されます。

江戸時代にはそこに当社の摂社として、浅香稲荷社をお祀りしましたが、
明治中期に当社の境内に遷座しました。


浅香稲荷社
浅香稲荷社


武内宿禰が植た松は江戸時代には幹周り5mの巨木となり、武内松と呼ばれました。


♪立ち寄りて いざ言問わむ この里の社に 松の古き昔を♪ (大中臣為村)


この松は明治の代に枯れましたので、
その一部を祠に保存し二代目を植えています。


武内松と祠
武内松と祠



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廣田神社の参道④傀儡師故跡(西宮市・産所町)

廣田神社の参道④傀儡師故跡(西宮市・産所町)に関する記事です。


阪神西宮駅の北口、西側に傀儡師故跡があります。


この産所町には、「傀儡師」と呼ばれる、人形操りを特技としながら、
西宮神社の蛭子様に奉仕していた人々がいました。


傀儡師故跡1
傀儡師故跡1


平安中期頃、操り人形を遣い諸国を回って生活をしていた傀儡師集団が登場し、
その一団が室町初期頃から産所に根づき、戎信仰を全国に広めました。


傀儡師は、傀儡師は、小さな人形の入った箱を首にかけて
戎人形を躍らせながら戎信仰を分かりやすく説きました。


このことから、西宮神社の傀儡師たちの人形操りは、「えびす廻し」と呼ばれました


傀儡師故跡2
傀儡師故跡2(戎人形を操る)



傀儡師たちには百太夫という祖人がおり、
産所に百太夫神社を設けて祀っていました。


百太夫神社は江戸時代(1839)に西宮神社の境内に移転しました。


百太夫は、諸国の神々を慰める勅命を受け、
胸に箱をかけ人形を舞わしながら全国を巡りました。
百太夫は淡路で亡くなり、淡路座の人形浄瑠璃の起こりともされます。


百太夫
百太夫神社




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伊佐具神社の参道⑬文化財収蔵庫(尼崎市・南城内)

伊佐具神社の参道⑬文化財収蔵庫(尼崎市・南城内)に関する記事です。

文化財収蔵庫は阪神尼崎駅の南東600m、
明治に破壊された尼崎城跡に建てられた女学校の校舎を利用した
昭和時代の郷愁を誘われる歴史資料館です。

文化財収蔵庫は1964年東京オリンピック開催の年を舞台とした
映画『三丁目の夕日64』のロケ現場の一つです。

昭和8年(1933)に建てられた尼崎市立女学校の校舎を収蔵庫としていますが、
しの建物外観が映画の病院としてロケに使用され、
建物内でもバンド演奏シーンが撮影されました。


文化財収蔵庫建屋(凡天堂病院)
文化財収蔵庫

入館してすぐの玄関は菊池医師が勤務する凡天堂病院の玄関で、
撮影の時の小道具が沢山置かれています。

東北から集団就職で上京し鈴木オートに住み込みで働く六子は
誠実な菊池医師にほのかな恋心を抱いて結ばれました。


凡天堂病院の玄関
凡天堂病院の玄関

鈴木オートを継ぐことを嫌がっている鈴木一平率いる4人組バンド、
サンシャインブラザーズのミニライブシーンは、教室で撮影されました。

撮影されたのは一平たちのあまりに下手な演奏に、
一人、また一人と教室を去っていくシーンでした。

サンシャインブラザーズのライブ撮影現場
サンシャインブラザーズのライブ撮影現場

廊下も高度成長の始まる直前の昭和の雰囲気がそのまま残されています。

私が訪問した日は平日でしたが
収蔵庫の職員たちは職員室の中で自分の仕事に熱中し忙しそうでした。
文化財収蔵庫を見学して尼崎市の文化レベルがかなり高いのを実感した次第です。

文化財収蔵庫の廊下
文化財収蔵庫の廊下

校内では各教室を使用して尼崎の歴史が紹介されており、
平清盛関係と尼崎城関係を重点的に勉強させてもらいました。

この記事では弥生時代から江戸時代まで痕跡が残るイイダコ壺を載せておきます。
このように1カ所で沢山の蛸壺が見つかるため、
50個程度の蛸壺を縄に括り付けて漁をしていたとのことです。

イイダコ壺 (200壺/1投げ)
イイダコ漁の蛸壺(弥生時代・東園田遺跡)

イイダコ壺漁図絵
イイダコ壺漁


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