エナガ先生の講義メモ

野鳥撮影がきっかけで鳥から教えてもらったこと、興味をもって調べたことをメモしていきます。 

奧津嶋神社の参道①大嶋奧津嶋神社(近江八幡市・北津田町)

奧津嶋神社の参道①大嶋奧津嶋神社(近江八幡市・北津田町)に関する記事です。

大嶋奧津嶋神社はJR東海道線の近江八幡駅の北7km
長命寺川の右岸500m
奥島山の東麓に鎮座します。

北4kmには琵琶湖最大の島である沖島があります。

大島奧津嶋地図
大嶋奧津嶋神社の位置

GWが始まる4月末の日曜に近江八幡駅から長命寺行きのバスに乗り
渡合(わたらい)で下車しました。

長命寺川は琵琶湖最大の内湖である西の湖と長命寺港を繋ぐ川で、
渡合橋は干拓地排水のための水門を兼ねるものでした。

渡合水門
長命寺川と渡合水門

琵琶湖の地だけに釣りや水郷巡りを楽しむもの
ボート競技の訓練をするものと様々ですが
やはり水にまつわる遊びが多いのは湖ならではです。

5人乗りのボートが渡合橋の下を足早に通り過ぎましたが、
川岸に見えるのは長明寺山と奥島山です。


長命寺山と奥島山 (2)
長命寺山と奥島山


大嶋奧津嶋神社へは渡合橋北詰から静かな農道を北進しますが、
その起点には「大嶋神社・奧津嶋神社」と刻された石碑がありました。

大嶋神社は近江国・蒲生郡鎮座とされる式内小社、
奥津嶋神社は近江国・蒲生郡鎮座とされる名神大社です。
その2社を祀るのがこれから向かう神社です。

大嶋奧津嶋神社の社号碑

大嶋奧津嶋神社の石碑

大嶋奧津嶋神社の背後には標高424mの奥島山が聳えています。
奥島山には「ムベ」と呼ばれるアケビ科の植物が自生し、
古代から不老長寿の果実と伝えられています。


天智天皇が蒲生野で狩りをされたとき、
奥島山で健康な老夫婦に出会い、長寿の秘訣を尋ねました。
この時夫婦が差し出したのが、奥島山で自生する赤く熟した果実でした。
天皇はこれを食べて「むべなるかな(もっとも)」といい、
この果実が不老長寿のムベとなりました。



奧島山
甘南備山の奧島山
アケビ
ムベが属するアケビ科の花実

天智天皇の御幸以来、近江国からムベの実を琵琶湖の魚と一緒に
朝廷へ献上していたという記録が残っています。


♪大君に ささげし むべは 古き代の ためしをしたふ たみのまこころ♪  境内歌碑

「むべ」の歌の歌碑
「むべ」の歌の石碑(大嶋奧津嶋神社境内)


大嶋神社の祭神である大国主神と
奥津嶋神社の祭神である奥津島比売命が祀られています。

社伝では両社とも成務天皇の治世に武内宿禰により勧請されたものとしていますが、
これは日牟禮八幡宮の由緒と同じです。

平安時代以前は別々の神社で奥津嶋神社は琵琶湖沖合いの沖島、
大嶋神社は八幡山の地
に鎮座していたもので、
この両社を合祀して新たに津田の地に設立したものと思います。

祭神:大国主神、奥津島比売命

大嶋奧津嶋神社の鳥居
大嶋奧津嶋神社の鳥居

大嶋神社と奥津嶋神社は元は別の場所に鎮座していましたが、
延文6年(1361)以前に現在の地に鎮座していたことが分かっています。

合祀以前は神の島とされた沖島の里宮として宗像3女神を祀り
琵琶湖の航海の安全を祈願していたものと思います。

<奥津嶋神社の経歴>
天智天皇7年(667)蒲生野に遊猟の時参拝奉幣
貞観元年(859)      従五位上の神階
貞観7年(864)       元興寺僧賢和が神宮寺の阿弥陀寺を開基

大嶋奧津嶋神社の拝殿
大嶋奧津嶋神社の拝殿

宗像大社は沖津宮(田心姫神) 、中津宮(湍津姫神) 、辺津宮(市杵島姫神) 
3社の総称です。

琵琶湖にも奥津嶋神社を始め3女神を祀る島があったのでしょう。


大嶋奧津嶋神社の社殿
大嶋奧津嶋神社の社殿
大嶋奧津嶋神社の神池
大嶋奧津嶋神社の神池

渡合水門の渡合橋を渡ると境外社の百々
神社(もも)があります。
百々神社から日牟禮八幡宮までの1時間弱のハイキングコースがありました。

大嶋奧津嶋神社は日牟礼八幡宮の境内摂社であった大嶋神社を遷したものともあり、
その痕跡を探しに是非歩いて見たいコースです。


百々神社
百々神社


阿遅速雄神社の参道④古堤橋(城東区・今福南)

阿遅速雄神社の参道④古堤橋(城東区・今福南)に関する記事です。

古堤橋は今福の寝屋川沿いにある橋で、とても興味が湧く橋でした。
橋の北からは城北川が、南からは平野川分水路が寝屋川に合流しており、
まさに川の交差点になっています。

鯰江川と古堤街道(今福)
鯰江川と古堤街道

城北川は昭和15年に造られた寝屋川と淀川を繋ぐ全長5.6kmの運河です。
城北川に架かる古堤橋の目前に巨大な寝屋川口水門があり、
寝屋川との水の流れを制御しています。

古堤橋
寝屋川と寝屋川口水門

この水門の特徴は寝屋川の洪水を防ぐだけでなく、
淀川の水を寝屋川に流して汚泥で汚れた寝屋川の水を清浄することにあります。

古堤橋2
城北川と寝屋川口水門

上潮で河川が逆流している時に、大川口水門だけを開いて
城北川を綺麗な淀川の水で満杯にします。

そして引き潮時には寝屋川口水門だけを開いて、
淀川の水を汚濁した寝屋川に流して浄化させます。

城北川の浄化機能
城北川の水質浄化のしくみ

淀川の水は綺麗な飲料水に利用される水ですが、寝屋川の水は汚水です。
古堤橋の東には今福下水処理場があり、
旭区・都島区他の汚水を処理して寝屋川に放流しています。

管轄区域の汚水は地下の下水道管を通って今福下水処理場で、沈殿ろ過します。
ろ過した水は消毒して寝屋川に流し、残った汚泥は送泥ネットワークにて、
最終、平野下水処理場で焼却・溶融処分されます。


寝屋川分流水門
古堤橋周辺水処理施設



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忍陵神社の参道⑫住道住吉神社(大東市・住道)

忍陵神社の参道⑫住道住吉神社(大東市・住道)に関する記事です。

北から南下して来た寝屋川と、南から北上して来た恩智川
は住道駅前で90度向きを変え合流して大阪城を目指します。

住道住吉神社はその寝屋川と恩智川の合流点の内堤に鎮座している神社です。

住吉神社航空写真
寝屋川と恩智川の合流点

この合流点には角道浜と呼ばれる船着場がありました。

江戸時代中期頃(18世紀)から角道浜には貨物船や野崎参りの屋形船が集り、
水運業者や料理屋が軒を並べ、賑いました。

角道浜界隈の水上交通の安全を願って建てられたのが住道住吉神社でした。

住道住吉神社
住道住吉神社

明治23年(1889)に三箇村、御供田村、灰塚村を始めとする村々が集まり住道村となりました。
角道浜を改めた住道の地名はこの時にできたもので、住道の地名由来です。

寝屋川・恩智川合流点
住之井橋から合流点を望む(左:寝屋川、右:恩智川)

住道は大坂と奈良を結ぶ古堤街道の中継点でもあります。
大和川付け替え前までは深野池・新開池という2つの大きな池がありました。

京橋から東へ、新開池の北側の堤を通り、
住道から船で深野池の東岸へ渡り生駒越を目指しました。
現在の阪奈道路の前身となる道です。

古堤街道
古堤街道



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堤根神社の参道⑰諸福天満宮(大東市・諸福)

堤根神社の参道⑰諸福天満宮(大東市・諸福)に関する記事です。

諸福天満宮はJR片町線の鴻池新田駅の北東1kmにあり、
大阪城を目指して西流する寝屋川右岸沿いに鎮座する
江戸時代の面影を残す神社です。

諸福天満宮の前の道は古堤街道と称し、
京橋を起点とし新開池の北を通り住道を経て奈良へ向かう街道です。
途中住道では船で深野池を渡りました。


古堤街道2
古堤街道

鴻池新田駅の北には鴻池橋があり、古堤街道と交差点近くに
勿人渕跡(ないりそのふち)と呼ばれる石碑があります。

勿人渕は古代河内湖で、近世には河内湖の水面が低下して、
2池となり
その西側の新開池のことを言います。
八ヶの湖、内助の渕など多様な呼び方をされていますが、諸福では勿入渕といっています。

勿人渕で採れる蓮は優れ物で宮廷にも献上されたことが延喜式に記されています。

勿人渕跡1
勿人渕跡1

清少納言が「枕草子」のなかで記していることでも有名になりました。
淵は かしこ淵、いかなる底の心を見えて、さる名をつけけんと、いとをかし。
ないりその淵、誰にいかなる人の教へしならん。・・・・♪


18世紀の始めには大和川付替えにより、2つの池は新田となり、
碑のある場所は新開池の北側堤防で、古堤街道として賑わうようになりました。


勿人渕跡2
勿人渕跡2


勿入渕から古堤街道を東へ進みます。
クネクネと蛇行する如何にも堤の上の路です。
しばらくすると街道の道端に「天照太神宮」と刻まれた大きな燈籠が現れます。

江戸時代後期の天保2年(1831)のもので、
当時流行した「おかげ参り」を記念して作られた「おかげ燈籠」です。

古堤街道を東進して生駒山を越えて大和に入り伊勢を目指したのでしょう。


おかげ燈籠
おかげ燈籠


「おかげ燈籠」の手前の路地を北に入ると右が諸福天満宮、左が勝福寺です。
諸福天満宮が諸福の地に勧請されたのは寛永20年(1644)のことです。
拝殿と一体化した権現造りの建築で、桃山時代の建造物です。

祭神:菅原道真

諸福中学校美術部が奉納した大きな鶏の絵馬があり、
近隣から大切にされている神社だと分かりました。

諸福天満宮拝殿
諸福天満宮拝殿(諸福中の奉納絵馬)

当社は古堤街道より低い土地にあり、神を見下ろすのは憚れるため
昭和に盛土され社殿が上げられました。

牛社
紅梅と牛社

古堤街道沿いの三箇、灰塚、氷野などは
平安時代の終わりごろまでには成立しています。

しかし諸福は周辺に較べると更なる低地で開発が遅れ、
鎌倉時代になって北新町、御領、などとともに集落が形成されました。

河内湖に沈んでいた土地が水面の低下で徐々に現れ
集落となる様子が垣間見れる史実です。

歯神社
歯神社(歯痛の守護神)


港住吉神社の参道⑩船町工場群(大正区・船町)

港住吉神社の参道⑩船町工場群(大正区・船町)に関する記事です。

船町は大川分流の木津川と尻無川に挟まれた
大阪湾に接する大正区最南端の町です。

船町の北側には木津川運河が東西に走り、
船町は孤立した島の町となっています。

大阪港
大阪港

船町は阪神重工業地帯の一端を担う地域で、
名前のとおり明治時代に造船所や製鉄所が造られた場所です。

大阪湾港全体では工場の遊休地や埋め立て地にUSJやスポーツ施設、
さらにはカジノなどの大型娯楽施設が建設、計画され近代化が進められています。
しかし大正区だけは近代建物とは無縁で、
明治時代さながらの工場地帯の雰囲気を味わえる場所が多くあります。

中山製鋼所1
木津川運河から見た船町(中山製鋼所)

松田優作の遺作ブラックレインのロケ地でもあり、
現在でも中山製鋼所や日立造船所などの巨大工場が立ち並びます。
威圧されるというよりは関東重工業地帯の記憶が甦り、郷愁を誘われました。

中山製鋼酸素工場
中山製鋼所・酸素工場

木津川運河(サンアグロ~テイカ~中山
木津川運河と船町工場群

木津川大橋の3重の登り口の下に木津川飛行場跡碑があります。

木津川大橋 (2)

木津川大橋の登り口

大正12年に初期の民間飛行場である木津川尻飛行場が開設された場所です。

木津川尻飛行場は水上機から陸上機に変わる時代の飛行場で、
昭和4年にはスチュワーデスの元祖であるエアガール1号が誕生しています。
高松行の飛行機でエアガールは着物を着ており、運賃は40円でした。

昭和14年には発着数がキャパを超え大阪伊丹飛行場へ移転され
当飛行場は閉鎖されました。

木津川飛行場跡碑
木津川飛行場跡碑

船町から北の鶴町へ行くのに、渡船「ふなづる」で木津川運河を越えてみました。

船町渡船場は、大正区鶴町1丁目と同区船町1丁目を結ぶ75mの渡しです。
昭和20年には戦災のためその多くの渡船が廃止されましたが、
ここでは対岸まで船を並べ、その上に板を敷いて人や自転車が通行していたそうです。

船町渡船場
船町渡船場から対岸の鶴町

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