エナガ先生の講義メモ

野鳥撮影がきっかけで鳥から教えてもらったこと、興味をもって調べたことをメモしていきます。 

弥刀神社の参道⑨御厨天神社(東大阪市・御厨)

弥刀神社の参道⑨御厨天神社(東大阪市・御厨)に関する記事です。

御厨天神社は地下鉄中央線長田駅の南西1.2km
第二寝屋川左岸170mに鎮座します。

同じ左岸には、西堤神社、右岸には長田神社、川俣神社などがあり、
いずれも河内湖南岸の楠根川河口付近の湿地に鎮座した神社です。

第二寝屋川
第二寝屋川と智葉池大橋

第二寝屋川は、かつては大和川の本流・楠根川の流域で、
川沿いの楠根川緑地はかつての楠根川を埋め立てて作った公園です。

楠根川緑地
楠根川の名残の楠根川緑地

御厨天神社は河内国・若江郡鎮座とされる式内小社・意支部神社(おきべ)の論社です。

長田地区の長田神社も意支部神社の論社で
どちらが意支部神社か裁判にもなつたこともあるそうです。


祭神:大国主命、少名彦命

意岐部(おきべ)は、東大阪市の旧地域名で、
菱屋東、新家、荒本、御厨、七軒家(一部)に相当するそうで長田は含まれていません。

御厨天神社の鳥居
御厨天神社の鳥居


古くから御厨神社と称していたそうで、意支部神社より、御厨神社のほうがロマンを感じます。

御厨とは朝廷や神社に献納する飲食物を生産・採取する場所で、
当地は草香江(河内湖)の豊富な水産物・鳥獣類の荷揚げ場だったともあります。
食用水草のじゅんさいや菱なども豊富だったようで、万葉歌も残ります。

言い伝えによれば、文武天皇(683~707)が吉野行幸の際、当地に立ち寄り、
当地から供膳したので、御厨の名を賜ったそうです。

また称徳天皇(718~770)の離宮である由義宮の御厨を設置した場所ともあります。


御厨天神社の拝殿
御厨天神社の拝殿

延喜式の内膳司に「造雑魚鮨十石・味鹽魚六斗河内国江厨所進」とある江厨は当地とされます。

また新撰姓氏録に「河内国皇別 江首 彦八井耳命七世孫来目津彦之後也」
とある江首(え・おびと)は当地を開発した氏族の可能性があるとのことです。
江首の祖人は彦八井耳で、茨田堤を築いた茨田連とも繋がるようです。

中世には大江御厨と呼ばれる皇室直轄の庄園になっています。

御厨天神社の本殿
御厨天神社の本殿

境内には市の天然記念物に指定される楠木があり、幹周6m、樹齢900年とされます。
その下には楠神社が祀られています。

楠神社
楠神社(奥は智葉神社)

クロガネモチの大樹もあり、
沢山のツグミが鈴なりの赤い実を盛んに啄んでいました。

クロガネモチ
クロガネモチの大樹

ツグミ
クロガネモチの実を啄むツグミ


澪標住吉神社の参道⑯伝法山西念寺(大阪市・此花区・伝法)

澪標住吉神社の参道⑯伝法山西念寺(大阪市・此花区・伝法)に関する記事です。

伝法山西念寺は阪神電鉄なんば線の伝法駅の西400m
淀川の左岸・河口付近にある古代からの日本の海の窓口です。


伝法とは仏法を師から弟子に伝えることを意味し、
伝法の地は古代から大陸や海外の文化が上陸し、
日本全国に伝わった海外文明の上陸地です。


西念寺地図
西念寺周辺地図


伝法の地名は、欽明天皇13年(552)、
日本に初めて仏法が伝来したことに由来するとの説があります。

552年とは日本書紀に記される年代で、538年とする古書もあります。

いずれにしても欽明天皇の時、百済の聖明王が使者を派遣して
金銅の仏像や経典を献上し、仏教の功徳を称え日本に大きな影響を与えました。


西念寺の山門
西念寺の山門


仏教伝来の100年後の大化元年(645)に、インドから渡来した高僧・法道仙人が
建立した仏法伝導道場が現在の西念寺の起こりとされます。


<西念寺>
大化元年(645) 法道仙人が建立
大同元年(806) 空海上人が中興
延喜元年(901)  菅原道真公が滞


西念寺の本堂
西念寺の本堂


江戸時代には壮大な七堂伽藍が建ち並んでいましたが、
明治の排仏毀釈で小さな堂を残すだけで往時の面影はありません。


嘗ては夏の終わりに水死人の霊を弔うために、川施餓鬼という供養が行われました。
多くの屋形船で伝法川を下り、大阪湾に出て塔婆などを流す盛大なものでした。
♪暑い暑いは天神祭、あついあついも施餓鬼まで♪

身づくり観音
石像十一面観(身づくり観音)


とげぬき地蔵
とげぬき地蔵


西念寺の門前には水路が主流の此花で唯一の尼崎街道が通り、
伝法川に架かる備前橋が、入船出船を見守ってきました。

山門左の大坂道の道標には 「右てんま 左あまがさき」と刻まれています。


大坂道と備前橋跡碑
大坂道と備前橋跡碑


江戸時代には大陸や日本国中から伝法に集まった物資が、
運河や堀割を通って大阪城下へ運ばれましたた。
また菱垣廻船、樽廻船を始め外国からの船も沢山出入りしました。

大型船がひしめく伝法
大型船がひしめく伝法


大阪湾
現在の大阪湾(安治川・淀川方面)

西念寺は将軍家より十万石の大名寺の格式を賜り、
外国使節団を迎える役目をしていました。


朝鮮通信史は鎖国の江戸時代に釜山から渡来し、伝法の港に10回も寄航しています。
大きな船は川には入れないため伝法で川御座船に乗り換えて淀まで行き、
京都からは徳川の威信を示す為、行列をなして徒歩で江戸まで行進しました。


伝法水門
伝法水門


小野神社の参道⑮那波加神社(大津市・苗鹿)

小野神社の参道⑮那波加神社(大津市・苗鹿)に関する記事です。

那波加神社はJR湖西線おごと温泉駅の南2.1km、
比叡山坂本駅の北東1.7km、
北国街道沿いの苗鹿(のうか)の地に鎮座します。

雄琴地図
雄琴周辺地図

那波加神社の鳥居
那波加神社の鳥居

那波加神社は近江国・滋賀郡鎮座とされる式内小社です。

天智天皇7年(668)に社殿造営、大同2年(807)には
街道向かい側にある荒魂那波加神社が造営されました。

祭神:天太玉命
配祀:落別王

祭神の落別王は於知別命、
祖別命とも表記し、三世孫の武伊賀都別命が初代伊賀国造になり、
猪田神社の記事でも登場しました。
近隣の木の岡古墳群には大友皇子の母・伊賀采女宅子娘の墓もあり、
伊賀と近江との深い関係を想像します。

那波加神社の拝殿
那波加神社の拝殿

祭神の落別王は於知別命、祖別命とも表記し、
垂仁天皇の皇子で、当地を治めた小槻氏の始祖となります。

小槻氏は近江国栗太郡(栗東)を拠点とする豪族ですが、
仁寿元年(851)、小槻今雄が雄琴・苗鹿の地を拝領し所領としました。
小槻今雄が創建した法光寺は那波加神社と雄琴神社の氏寺です。

小槻今雄は京に居を移し官僚として中央に進出しましたが、
死後は法光寺裏山の円墳に葬られ、
子の当平により雄琴神社に今雄宿禰命として祀られています。

那波加神社の本殿
那波加神社の本殿

北国街道を挟んで東に那波加荒魂神社が鎮座し、
那波加荒魂神社は「上の宮」、那波加神社は「下の宮」と称されます。


社名の那波加は苗鹿とも表記されます。
祭神の天太玉命がこの地に降臨し農地を開墾したときに
鹿が現れて苗を運び農作業を手伝ったため
「苗鹿(なはか/のうか)」という社名・地名なったとされます。

周辺には苗鹿古墳群や法光寺古墳群があり、那波加神社との関連が偲ばれます。

那波加荒魂神社の社号標
那波加荒魂神社の社号標

<那波加荒魂神社(上の宮)>
祭神:那波加神社荒魂
創建:大同2年(807年)

斎部宿禰広成が祭神の荒魂社を創建、別宮としたとされます。

那波加荒魂神社の社殿
那波加荒魂神社の社殿

那波加荒魂神社の本殿
那波加荒魂神社の本殿

那波加神社の南100mには、近江路沿い最大の「苗鹿の常夜燈」があります。
弘化4年(1847)のもので、
伊勢講の一つ「苗鹿講」が建立したもので、
当時街道を行き交った旅人の姿が浮かびます。

常夜灯
常夜灯


堤根神社の参道⑨弥治右衛門碑(守口市・藤田町)

堤根神社の参道⑨弥治右衛門碑(守口市・藤田町)に関する記事です。

弥治右衛門碑は京阪大和田駅の北西900m,
古川の右岸170mにあります。

大和田駅から京阪沿いに大阪方面へ300m程進むと古川橋があり
小阪街道との交差点があります。

小阪街道を南に行けば稗嶋方面で、北へ行けば弥治右衛門公園から淀川方面です。

門真一帯は古代から沼地の多い低湿地で
古川は江戸時代には大坂市中と結ぶ舟便の交通幹線だったそうです。

古川橋
古川橋(昭和7年架橋)


近くには弥治右衛門碑前公園がありますが、
そこでは無く、その先左手に見える弥治右衛門公園に碑があります。

入口左の道標は弥治右衛門の名が小さく刻まれていて、
長い間周囲の目を憚りながら墓碑とされてきたものです。

弥治右衛門公園入口
弥治右衛門公園入口

公園内に入ると右手に義民弥治衛門碑と刻まれた大きな石碑があります。

小泉弥治衛門は江戸初期の茨田郡大庭、大窪庄の庄屋です。
大窪地区一帯は低地で、特に藤田村は、水はけが悪く、
田畑は頻繁に水没し、農作物に大きな被害をもたらしていました。

水害で収穫が減っても年貢は規定どおり取り立てられ、村民は苦しい生活が続きました。
弥治右衛門は、代官所に排水樋建設を願い出ましたが、許可さえ出ませんでした。

義民弥治衛門碑

義民弥治衛門碑

慶安元年(1648)の水害で弥治右衛門は意を決し、
幕府の許可なしに排水樋を造りました。

しかし、上下流地域から苦情が起こり、又幕府の命令を無視したとして、
樋の存続と引き替えに弥治右衛門一家は処刑され、家財・田畑も没収されました。

村民たちは、村のため犠牲になった弥治右衛門を後世に伝えるべく、
俗名を刻んだ道標をつくり、墓碑がわりとし、また昭和7年には、この記念碑をも建立しました。


弥治衛門之墓
弥治衛門之墓1

弥治右衛門が命に替えて残した樋は大蔵樋と呼ばれ、
樋のおかげで豊穣の地となった大蔵新田の由来になったそうです。


弥治衛門の墓
弥治衛門之墓2


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大阪天満宮の参道⑥天満橋(大阪市・中央区・天満橋)

大阪天満宮の参道⑥天満橋(大阪市・中央区・天満橋)に関する記事です。

大川は仁徳天皇が造った難波堀江と呼ばれる運河で、
天満橋周辺は難波津と呼ばれる港がり、大陸との表玄関でした。


難波宮から西国へ通じるルートとして古くから橋が架けられていたと考えられています。

天満橋
大川と天満橋(上部は土佐堀通を跨ぐ2階建て)

天満橋・天神橋・難波橋は最も重要で、浪華の三大橋と呼ばれ
江戸時代には、ともに公儀橋に指定され、幕府の直轄管理になっていました。

天満橋界隈
天満橋界隈史跡

京阪天満橋駅にできた船の駅・八軒家は
江戸時代に京の伏見と大阪を繋ぐ淀川の起点駅でした。

三十石船は45kmを上りで1日、下りで半日で運航したそうです。

八軒家3
江戸時代の八軒家・船着き場と三十石船


伏見船着き場
伏見の船着き場と十石船

そして現在水都大阪・大阪再生の鍵として水上ターミナル・八軒家は復活しました。

八軒家
現代の八軒家船着き場

毎年天満橋の下では天神祭奉納「ドラゴンボート選手権大会」が開催されます。
夏の天満橋の風物詩になりつつあります。

ドラゴンボート
八軒家で行われるドラゴンボート大会

八軒家浜から北に接する土佐堀通りへ行くと熊野街道の起点碑が置かれています。
ここが熊野街道のスタート地点です。


熊野街道起点碑
熊野街道の起点碑(土佐堀通)


起点碑の東側には永田屋昆布店があり、
店前に「八軒家船着場の跡碑」があります。


天満橋から下の八軒家の船着場は、京から熊野への上陸地点でもあり、
江戸時代には、このあたりに8軒の船宿があったことが地名由来とされます。


永田屋昆布(土佐堀通)
八軒家船着場の跡碑(永田屋昆布)


土佐堀通を西に進み、1筋めをすぐ南へ曲がると、坐摩神社行宮があり、
窪津王子があったとされます。

九十九王子の最初の王子、窪津王子で旅の安全を祈願して熊野詣の始まりです。

熊野第一王子之宮
窪津王子(現在は天王寺の堀越神社へ遷座)

上町台地へと石段を上がり2番目の坂口王子旅、3番目の郡戸王と99番目まで辿ります。

上町台地への石段
上町台地の石段


熊野街道min
熊野詣の地図 (九十九王子)



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