エナガ先生の講義メモ

野鳥撮影がきっかけで鳥から教えてもらったこと、興味をもって調べたことをメモしていきます。 

廣田神社の参道⑨越木岩神社(西宮市・甑岩町)

廣田神社の参道⑨越木岩神社(西宮市・甑岩町)に関する記事です。


越木岩神社は阪急甲陽線の甲陽園駅の西1km、
六甲山系の東端中腹、夙川の上流に位置します。

甲陽園駅前からはボーイスカウトと家族の団体たちが登山へ出発するところでした。

甲陽園駅
甲陽園駅(ここから登り)

甲陽園の地名は大正時代に土地開発した甲陽土地(株)に因むもので、
一体は丘の上にまで住宅が広がっています。

六甲山は急斜面の場所に沢山の住宅が広がっており、
大阪平野に暮らす者にとっては、日々の生活で想像しがたい部分があります。

甲陽園の住宅街
甲陽園の住宅街

越木岩神社は夙川の右岸にあり、
銀水橋を渡り南へ下れば越木岩神社の表参道鳥居です。

莵原郡と武庫郡の境界線は古来より夙川とされ
越木岩神社は莵原郡に位置します。


銀水橋から夙川
銀水橋から夙川上流(北山公園)

越木岩神社は摂津国・菟原郡・鍬靫とされる式内小社の大国主西神社の論社です。
地理的には夙川の西側にあり、菟原郡に所属していたものと推定できます。

菟原郡(うばら)は芦屋・灘地区と生田川東を領域とした地区で、
菟原の地名由来は海原が転じたとも、
兎が駆け回っていたからとも言われます。

越木岩神社の鳥居
越木岩神社の鳥居


当社は神代からの磐座祭祀の神社ですが、
正保年間(1645-48)に社殿が再建されました。

明暦2年(1656)には円満寺の教順が西宮神社から蛭子大神を勧請し
蛭子太神宮と称しました。

祭神:蛭子大神

越木岩神社の拝殿
越木岩神社の拝殿

越木岩神社の拝殿2
越木岩神社の拝殿内部


越木岩神社元々は当地にある甑岩(こしき)の磐座を祀った、
自然崇拝の祭祀場でした。

拝殿の傍には古代の斎場である甑岩参道の入口鳥居があり、
室町時代の俳人・山崎宗鑑の句碑が置かれています。

♪照る日かな 蒸すほど暑き 甑岩♪  山崎宗鑑

甑岩参道案内図
甑岩参道案内図

甑岩参道を進むと岩社の祠があり、甑岩を一周できるようになっています。

岩社は甑岩を神体とし、
女性守護・安産・子授けで信仰される市杵島姫を祀る祠です。

甑岩社
甑岩社

甑とは古代の酒米を蒸す為の土器で、
甑岩はその土器に似ている為に付けられた名前です。

当地は、御影石の産地で、甑岩は周囲40m・高さ10mの花崗岩の大岩です。
平安時代には甑岩から白い煙が立ち上るのが
西宮神社の入り江を通過する船から見えたそうです。

白い煙は甑で醸される祭祀の酒だったのかも知れません。


甑岩
甑岩(古代
の斎場)

甑岩には大坂城築城の際に持ち去ろうとした傷跡が多く残っています。

豊臣秀吉の命で石工が甑岩を割ろうとしましたが、
割れ目から鶏鳴が湧き上がり熱気が吹き出し断念と伝わります。

甑岩には徳川氏の大阪城修築の際の、池田長幸の家紋が刻まれています。
秀吉が断念した甑岩を再度持ち去ろうとした趾です。

備中松山藩・池田長幸の家紋
備中松山藩・池田長幸の家紋

甑岩から更に北へ進むと、稚日女尊の磐座があります。

稚日女尊は機織の道具の杼(シャトル)
で女陰を衝いて死んだと記される女神です。
しかしこの場所では甑岩が女神でこちらが稚日女尊が男神で、
磐座にも男根が見えます。


北の磐座
稚日女尊の磐座

甑岩参道には展望台もあり、大阪湾・大阪平野を望みながら、
しばし休憩をとりました。

甑岩参道は良く整備されていて手軽に参拝できる割には
とても印象に残る素晴らしい参道でした。


越木岩神社の展望
甑岩参道から大阪方面

伊佐具神社の参道⑤尼崎戎神社(尼崎市・神田中通)

伊佐具神社の参道⑤尼崎戎神社(尼崎市・神田中通)に関する記事です。

尼崎戎神社は阪神電鉄の尼崎駅の西300mにあり、
阪神電車の車窓から高さ17mもある朱色の大鳥居がよく見えます。


尼崎は平安時代末頃から現れる地名で、
現在の尼崎駅から大物駅あたりの海岸が尼崎浜と呼ばれています。
尼崎は「海士崎」「海人崎」「海崎」などとも標記され
尼は漁民・海民を意味していました。


尼崎戎神社の大鳥居
尼崎戎神社の大鳥居


阪神尼崎駅北口広場は大勢の人が待ち合わせる賑やかな場所です。
嘗ての工業都市・尼崎を象徴する鉄鋼戦士像があり
その先は尼崎商店街入口です。


尼崎戎神社ヘ参拝する前に商店街に引き込まれて、
尼崎戎神社・貴布禰神社を通り越して
西に1km近くも延びる商店街の端まで歩いてしまいました。

鉄鋼戦士像
鉄鋼戦士像
尼崎商店街入口
尼崎商店街入口
阪神優勝祈願
阪神優勝祈願


商店街の周辺は尼崎城の城下町の雰囲気を色濃く残す場所です。

尼崎城は元和3年(1617)に藩主の戸田氏鉄が築城した城で、
その際に周辺にある寺院を一箇所に集め商店街の南にある寺町に残っています。


その為に寺町周辺では七福神巡りが一気にできる場所で、
商店街の屋根に画かれていました。
これから参拝する尼崎戎神社は恵比寿、貴布禰神社は福禄寿でした。


七福神
尼崎七福神の屋根


尼崎戎神社は延喜式を編纂した醍醐天皇(885~930)時代以前の創建で、
八重事代主大神を主祭神とする神社です。


祭神:八重事代主大神 
配祀:大国主之大神、誉田別大神、猿田彦大神


古代の当神社は海辺に近くにあり、
漁業航海を守る海の神様として事代主を主祭神としたものです。


天孫降臨の時、事代主が三保関で釣りをしていたことから
海と関係の深い恵比寿と同一視されました。


「事代主神社」の社号標
「事代主神社」の社号標

尼崎戎神社の拝殿
尼崎戎神社の拝殿

人の願いを神に伝える願掛け馬です。
この神籤の多さはこの馬に願を掛けて、
そのまま阪神競馬場へ行っているのではと思います。

願かけ馬
勝ち馬(神籤が一杯)



大隅神社の参道⑩野里住吉神社(大阪市・西淀川区・野里)

大隅神社の参道⑩野里住吉神社(大阪市・西淀川区・野里)に関する記事です。

野里住吉神社は阪神姫島駅の北東600m
新淀川の右岸500mにあります。


古代は難波八十島と呼ばれた淀川河口のデルタ地帯で、
野里は歌島・姫里ととも呼ばれ、太古から近代に至るまで
様々な歴史伝承が残されています。


淀川区周辺地図
野里周辺地図


明治以前の淀川は毛馬の辺りで大川と中津川に分岐し、
中津川は野里村を通過した後は正蓮寺川、六軒屋川となって大阪湾に注いでいました。


明治18年の淀川大洪水を契機に中津川の幅を広げ直線化する淀川改修が始まり、
中津川を利用して開削された運河・新淀川が生まれました。


淀川大橋
新淀川(中津川が母体の運河)


野里商店街から野里住吉神社へ続く道が埋立てられたかつての中津川です。

野里住吉神社は中津川の右岸沿いにあたり、
境内東のこんもりと盛り上がったところは堤防の名残とされています。


野里商店街
野里本町商店街(中津川だった)


野里住吉神社の鳥居

野里住吉神社の鳥居(右は中津川跡)


境内には「野里の渡し碑」がありますが、中津川は野里川とも呼ばれ、
野里の渡しは大坂から尼崎へぬける八丁街道の要衝でした。


戦国時代の初めには細川家の内紛から戦に発展した野里川の合戦がありました。
野里川の合戦は大物崩れとも呼ばれ、
総くずれになった敗残兵の死骸で野里川(中津川)が埋まったと伝わります。


野里の渡し碑
野里の渡し


野里は南北朝時代の永徳年間に開発が進められた村です。
永徳2年(1382)足利義満が野里村を水害や災害から守る
守護神として野里住吉神社を創建したと伝わります。


祭神:底筒男命、中筒男命、表筒男命、息長帯比売命


野里住吉神社の拝殿
野里住吉神社の拝殿


野里住吉神社には毎年2月に行われる一夜官女祭という人身御供の神事があります。


古来、中津川の氾濫や、風水害に悩まされた野里では、
神の怒りを鎮めるために、白矢の打込まれた家の娘を神に捧げる風習がありました。


野里住吉神社の本殿
野里住吉神社の本殿


野里住吉神社の境内には「瀧の池」の跡地があり、乙女塚が建てられ、
狒々退治知られる武芸者・岩見重太郎の伝説が残されます。

~人身御供の子女は毎年唐櫃に入れられて「瀧の池」に運ばれ放置された。
生贄を求める神のことを不審に思った武芸者・岩見重太郎が
その正体を暴くと大狒々で、これを退治した~




乙女塚
乙女塚「瀧の池」の跡地

大和神社の参道⑮東乗鞍古墳(天理市・杣之内町・乗鞍)

大和神社の参道⑮東乗鞍古墳(天理市・杣之内町・乗鞍)に関する記事です。

東乗鞍古墳はJR桜井線の天理駅の南東3.3km、
西乗鞍古墳の東側にある、物部氏の墓と目される杣之内古墳群の一古墳です。

航空写真
東乗鞍古墳と西乗鞍古墳

山の辺の道沿いにあり夜都岐神社の北側に古墳入口があります。
全面が竹に覆われた竹藪の古墳で南面の畑の中央の畦道からアプローチします。

東乗鞍古墳1
東乗鞍古墳と入口の畦道

後期古墳時代に築造された、全長75mの前方後円墳です。

<東乗鞍古墳>
形状      :前方後円墳
サイズ  :全長75m、後円部径30m
築造時
期:6世紀前半
埋葬施設:
横穴式石室&家型石棺
被葬者  :物部氏

東乗鞍古墳2
竹藪の古墳参道1

東乗鞍古墳3
竹藪の古墳参道2

とても狭い石室が口を開けていて、前に石仏が祀られています。
恐ろしいですが、我慢して這いつくばりながら中へ入ってみました。


東乗鞍古墳4
東乗鞍古墳の石室入口

全長15m横穴式石室で羨道を潜れば中の玄室は高さが3m以上あり立つこともできます。


東乗鞍古墳6
東乗鞍古墳の羨道

玄室には阿蘇ピンク石の家型石棺が置かれています。

羨道を潜るとき、土砂に擦れてカメラが土砂まみれで狂ってしまい、
フラッシュもたけませんでしたが、カメラを石室の壁で固定して、
手持ちの懐中電灯で写してみました。


石棺
家型石棺


恐ろしくなってすぐに石室から出ましたが、
土砂まみれでボロボロの姿は古墳の主の祟りにあったようでした。

東乗鞍古墳7
東乗鞍古墳の羨道と出口


岩屋神社の参道⑩旧波門崎燈籠堂(明石市・港町)

岩屋神社の参道⑩旧波門崎燈籠堂(明石市・港町)に関する記事です。

明石川河口から明石浦漁港を東へ進むと明石港波止場があり、
旧波門崎燈籠堂は石造の灯台が見えました。


波門崎とはかつて燈籠堂が置かれた明石港の岬
旧波門崎燈籠堂は明暦3年(1657)に当時の明石藩主・松平忠国が築いたものです。


旧波門崎燈籠堂
旧波門崎燈籠堂


明石港は燈籠堂より36年前(1621)に
明石藩主・小笠原忠真によって城造りの一貫として砂浜に築かれた港です。


明石港は江戸時代に漁業の冨を得るために意図的に造られた城下町とも言えます。


明石港に入る漁船
明石港に入る漁船


明石は古くから漁業が主要な産業の一つで、
他の城下町以上に「魚」に重きを置いた町割が行われました。


江戸時代には東魚町、西魚町があり、
東魚町が現在の「魚の棚」で「魚の町」として全国に知られている場所です。


魚の棚アーケード
魚の棚1


東魚町には鮮魚、西魚町には干鰯屋が軒を連ね、城下の台所の役割を果たしていました。
西魚町 86 軒、魚屋 56 軒、うち問屋 5 軒、干鰯屋 50軒ともあります。

正月にはアカガイ、タラなどを納めたとの記録も残ります。

魚の棚2
魚の棚2(明石蛸)


明石には明治時代に漁業の発展に貢献した中部幾次郎がいます。


明治 4 年(1871)に鮮魚仲買い業の家に生まれた幾次郎は、
鮮魚を素早く運搬できる発動機船を開発し、日本の近代漁業の先駆者になりました。
現代のように冷凍技術が発達していない時代では、魚はスピードが勝負でした。


中部幾次郎(明石公園)
中部幾次郎(明石公園)


幾次郎は遠洋漁業、さらには南氷洋の捕鯨へと進出し、
日本漁業を世界の漁業に育てあげた功労者の一人です。

幾次郎が創った会社は、大洋漁業として、いまも健在です。


明石浦漁港
明石浦漁港

明石浦漁港(宗田造船)
明石浦漁港(宗田造船)


古代の明石湊は現在の明石港の西1kmにある明石川河口にありました。

播磨国風土記には、古代山陽道の 「明石の駅家」 、「林の湊」が記されており、
その位置関係から明石川の河口付近にあったと推測されます。
 
日本書紀には允恭天皇の養老4年の海人男狭磯(あま・おさじ)の記載があり
允恭天皇も明石湊から淡路島へ渡り、狩猟をしております。
五世紀以前には明石川河口に港らしきものがあったものと思われます。


明石川河口
明石川河口(古代の明石湊)


 


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