エナガ先生の講義メモ

野鳥撮影がきっかけで鳥から教えてもらったこと、興味をもって調べたことをメモしていきます。 

大隅神社の参道③中島惣社(大阪市・東淀川区・東中島)

大隅神社の参道③中島惣社(大阪市・東淀川区・東中島)に関する記事です。

中島惣社は新大阪駅の東300mにある摂津国西成郡にあった神社です。
新幹線の乗降で毎週のように来た新大阪駅ですが、
中島惣社への道は驚くほどの静かな空間でした。

中島惣社は孝徳天皇の652年に豊崎宮に遷都した際に、
五穀豊穣を祈願したとされ、それに伴い神領を賜りました。

祭神:宇賀御魂神、受保大神、大市比賣神

中島惣社の鳥居
中島惣社の鳥居

八十島の一島で、昔は中島郷の中洲に鎮座し、
地区の土地開発の守護神として宇賀御魂を祀ったのが始まりと伝えられています。

中島惣社は当初は、稲荷神社と呼ばれていましたが、
明治29年に中島惣社に改めたもので、中島郷48カ村の総社です。

中島惣社の拝殿
中島惣社の拝殿

中島惣社の本殿
中島惣社の本殿

中島惣社へは柴島駅から柴島浄水場、崇禅寺駅を経て行きましたが、
その道中は大阪空襲の遺跡巡りでもありました。

1945年6月東淀川区は米軍機による3度の空襲にみまわれ、
1トン爆弾や焼夷弾が雨あられと降りそそぎ中島惣社を始め全域は焼失しました。

この柴島浄水場も破壊され、上水道供給機能が停止したそうです。

柴島浄水場1
柴島浄水場1

崇禅寺駅前、柴島浄水場の北側に、
米軍機が低空で機銃掃射を繰り返した弾痕が残されています。

この弾痕は空襲で亡くなった人々の生き証人として後世の人に悲劇を伝えています。


柴島浄水場・空襲被弾跡
柴島浄水場2(弾痕跡)


垂水神社の参道⑥アサヒビール旭神社(吹田市・出口~西の庄町)

垂水神社の参道⑥アサヒビール旭神社(吹田市・出口~西の庄町)に関する記事です。


旭神社はアサヒビール発祥の地・吹田市にある神社です。

JR東海道線と阪急千里線が交差する交点の北側領域に展開している
アサヒビール吹田工場の迎賓館地区にあります。

アサヒビール航空写真
アサヒビール航空写真

アサヒビールの南側は泉殿宮で、
近代までは吹田三名水の一、泉殿冷泉が湧き出る場所でした。

吹田三名水の残る二は、佐井寺の佐井の清水と垂水神社の垂水の滝です。

明治22年(1889)、この清水をドイツのミュンヘンに送り、
ビール醸造に最適との保証を得て、アサヒビール(大阪麦酒)を建設しました。

アサヒビール工場
アサヒビール工場

その工場の向かいにアサヒビールの「先人の碑 迎賓館」があります。
ここの庭園にとてもみごとなしだれ桜が咲いていて、一般に開放されていました。

しだれ桜
迎賓館のしだれ桜

明治の創業以来好調を維持したアサヒビールですが、
戦後の高度成長期で東京一極集中が進む中、長い低迷期に入ります。

昭和62年「アサヒスーパードライ」の発売以降、経営状態を回復し、
現在も発泡酒・第三のビールに取り組み好調を維持しています。

先人の碑は「アサヒスーパードライ」発売の翌年に建てられたもので、
当初の先輩先達を忘れず、発展を続けるとのちかいの碑でした。



先人の碑
先人の碑

迎賓館の庭園の東には明治39年(1906)に創建された旭神社があります。

平成元年に工場の敷地内から庭園に遷座したものです。

旭神社の鳥居
旭神社の鳥居

祭神:天照大御神、伏見大神、松尾大神、少彦名大神、神農大神

伏見大神は産業の神、松尾大神は酒造りの神
少彦名大神と神農大神は医薬の神です。


旭神社の本殿1
旭神社の本殿1

旭神社の本殿2
旭神社の本殿2


保久良神社(神戸市・東灘区・本山町)

保久良神社(神戸市・東灘区・本山町)に関する記事です。

保久良神社(ほくら)は阪急電鉄・岡本駅の北東700m、
六甲山系金鳥山中腹・標高180mの場所にある古代ロマン満載の神社です。

岡本駅からは要玄寺川付近まで東へ行くことが肝要です。
駅を出てすぐに北へ登ると保久良神社へは行けません。
保久良神社の参道に着くと登山道の標識もあり
大勢の人が散策しているのですぐに分かります。


保久良登山道
保久良神社の登山道(ここを左へ登る)


保久良神社は椎根津彦命の子孫である倭国造が祖人を祀った神社です。


祭神:椎根津彦命(しいねつひこ)
配祀:須佐之男命、大国主命、大歳御祖命


保久良神社は摂津国・菟原郡(うばら)・鍬靫とされる式内小社です。
元禄時代に須佐之男命を主祭神としましたが、椎根津彦命が本来の祭神です。


保久良神社の鳥居
保久良神社の鳥居


保久良神社の鳥居前が展望台で、史跡も色々あります。
1年に1度有るか無いかの澄んだ日で、大阪湾全貌が見通せました。

眼下には青木浜(おうぎ)に架かる東神戸大橋があり、
茅渟の海の遙か先には金剛山の峰々が壁のように連なっています。


青木浜
大阪湾と青木
浜(保久良神社社頭から)


保久良神社の南麓の海岸は青木浜で、
祭神の椎根津彦命は青亀の背にのって青木浜に漂着したとされます。


現在の青木(おうぎ)の地名の由来は、この青亀(おうぎ)に因るものです。

椎根津彦像
椎根津彦像


青木浜の砂丘の土坑からは弥生中期の銅鐸も出土しており、
青木浜伝承の信憑性の重みが増します。

北青木遺跡出土銅鐸
北青木遺跡出土銅鐸

椎根津彦命は神武東征の時に
明石海峡の速吸門に現れて水先案内人となりました。

速吸門では小舟に乗っていた珍彦(うづひこ)を神武天皇が自分の船に乗せ
名を椎根津彦に改めたともあります。


椎根津彦は熊野上陸後も神武に従って戦い、
その功により神武天皇2年に初めて倭国造に任じられました。


保久良神社の拝殿
保久良神社の拝殿

また保久良の名前は矛倉からで、
神功皇后朝鮮出兵の戦利武器を収納したという説があります。


神武天皇も神功皇后も大阪湾・大阪平野を一望できるこの場所は
大和政権樹立の為に必須の地だったと思います。

保久良神社の内陣
保久良神社の内陣


保久良神社の周辺には多数の磐座が見られ、
弥生時代から祭祀が行われていた場所でした。
祭祀用具の壺・甕・皿などの土器や鏃・斧などの石器類も多数出土しています。

保久良神社の磐座
保久良神社の磐座(立岩)


社頭には「灘の一つ火」と呼ばれる常夜灯があります。


日本武尊が熊襲遠征の帰途、暗闇の海で迷う中
保久良神社の灯火が見え無事に難波へ帰りつけたともされます。


以来、毎夜絶えることなく火が灯され、航海者の針路となってきました。
♪沖の舟人 たよりに思う 灘の一つ火 ありがたや♪  灘の里謡


灘の一つ火
灘の一つ火

多くの猪と早朝の散策者が共存している神社でもあり、
猪も鳥居を潜り参拝していました。


猪
鳥居の石段を登る猪

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高宮神社の参道⑪大念寺(寝屋川市・堀溝)

高宮神社の参道⑪大念寺(寝屋川市・堀溝)に関する記事です。


大念寺は京阪萱島駅の南東1.9km,
「鶯の関」と呼ばれる平安時代の頃に栄えた関所に建立されました。

「鶯の関」は任を解かれて京へ戻る伊勢の斎宮の一行が
真手御宿所へ訪れるために通過した関所でもあります。

清滝街道
清滝街道と鶯の関


鎌倉末期の1314年(正和3年)願阿上人の開基と伝承されるそうです。
願阿上人は越中の漁師の出で、殺生の報いを悟り時宗の僧となり、
社会事業に尽くし清水寺を再興しました。

大念寺の山門
大念寺の山門

大念寺の現在の山号は一心山、宗派は融通念仏宗です。


昔は鶯関院・鶯関寺(おうかん)と呼ばれ
西300mにある鶯関神社の旧跡地にあたります。

大念寺の本堂
大念寺の本堂


大念寺の梵鐘は高さ1.5mのサイズで寝屋川市最大のものです。

寛文10年(1670)に 和泉州日根郡の浄光寺の鐘として、鋳造され、
その後昭和3年(1928年)に大念寺に寄進されました。

大念寺梵鐘
大念寺梵鐘


境内には十三仏が刻まれた板碑2基ありました。
十三仏塔が流行したのは戦国時代で
死後の極楽往生を願い生前に建立・祈願したそうです。


右の大きい方は、慶長16年(1611)の造立で、
「妙善」「妙圓」「妙永」「妙玉」「妙西」他24の法名が刻まれています。

左の小さい方は風化欠損が著しく、慶長14年(1609)の作で
大きい板碑より2年古いことになります。

大念寺の十三仏板碑
大念寺の十三仏板碑


大念寺の門前の道は守口から清滝峠を越えて奈良に入る行基が開いた道です。

大念寺の東に道標があり、ここで守口街道が終わり、
清滝街道が始まることが分かります。

「これより東清瀧、延宝三乙卯年七月五日(1675)」と刻まれています。
この道標は340年以上も旅人を導いていたことになります。 


守口街道道しるべ (ここから東は清滝街道)
守口街道終点の道標


清滝街道起点2  
清滝街道起点の道標  

日前神宮・国懸神宮の参道⑤天妃山(和歌山市・岡山)

日前神宮・国懸神宮の参道⑤天妃山(和歌山市・岡山)に関する記事です。

和歌山城の東南端の岡口門を出ると岡公園があり、
高さ20~30mの天妃山(てんぴ)と呼ばれる低い岩山があります。

天妃山には元々山上に弁財天社がお祀りされていましたが
寛文(1661~1673)以前に、近くの刺田比古神社に遷座しました。

天妃山の石燈籠
天妃山の石燈籠

元々ここは和歌山城築城の際の石切り場で、
天守台や本丸に積まれている石垣は紀州の青石と言われる緑泥片岩は、
ここから切り出されたものです。

その後徳川に入り城の補修などを行う「御作事所」が置かれ、
そしてその仕事にたずさわる者たちが住んでいた長さ236mの「百間長屋」がありました。
岡公園になったのは明治27年とのことです。

天妃山の石切場碑
山頂の石切り場碑

山頂は登るのも躊躇する急峻な崖ですが、子供たちのアスレチックの遊び場になっており
遊具で危険性が問題になる都会から見ると信じがたい風景でした。

その山頂からは和歌山城が遮るものなく、見通せます。

和歌山城遠望
天妃山から和歌山城遠望

天妃山の南麓には石切り跡の窪地に出来た天妃池があり、大きな滝が落ち込んでいます。
その天妃池の淵に城の切石跡をご神体とする「紀州徳川神社」という小さな社がありました。

紀州徳川神社
紀州徳川神社

紀州徳川神社の左隣には、古くからの岩窟があり
雨乞いの神である八大龍王が祀られていました。


八大龍王
八大龍王の岩窟

天妃山の青石で石垣を造った和歌山城も見学してきました

和歌山城は天正13年(1585)に紀州を平定した豊臣秀吉が
弟の秀長に築城させたのが始まりです。
その築城を担当したのが、築城の名人
藤堂高虎でした。

どの城へ行っても藤堂高虎の名前がでてきますが
折りをみてその理由を探って見たいものです。


岡口門
岡口門(頼宣が再建した、当時の櫓門が現存)

大手門
大手門と一つ橋

和歌山城の建つ山が虎の伏した姿に似ていたので虎伏山と呼ばれ、
和歌山城は虎伏城とも言われていました。

伏虎像
伏虎像


元和5年(1619)には家康の10男・頼宣が入場して55万石の城になりました。
以来徳川御三家の1つとなり、幕府中興の英主とされる
8代将軍・徳川吉宗を輩出しました。

和歌山城の天守閣1
和歌山城の天守閣1

和歌山城跡として現存しているのは最盛期の4分の1ほどで、
天守閣を始め大半は太平洋戦争で焼失し、戦後に建立されたものです。

和歌山城の天守閣2
和歌山城の天守閣2

昭和20年(1945)7月9日23時30分に和歌山空襲がありました。
和歌山城は炎上し、市中心部はほぼ壊滅状態になりました。

避難していた市民には、火災による熱風が襲い
市堀川に逃げ込み、溺れて死傷者を拡大しました。

その一ヶ月後の8月6日には広島原爆投下、
8月14日には大阪の京橋空襲があり翌日に終戦を迎えています。

市堀川と寄合橋
熱風で市民が飛び込んだ外堀の市堀川

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