鞆呂岐神社の参道⑦高柳長栄寺と茨田王(寝屋川市・高柳)に関する記事です。


高柳長栄寺は京阪寝屋川市駅から西800m、
交野街道沿いにあります。

高柳マイマップ

高柳マイマップ

長栄寺は昔から古瓦が多く出土し高柳廃寺跡と呼ばれて来ましたが、
寺跡は古代寺院の茨田寺と目されています。

茨田寺は、河内国茨田郡にあった聖徳太子ゆかりの古代寺院で、
聖徳太子建立四十六寺の一つです。
古記には聖徳太子が茨田寺を訪れたと記されています。

長栄寺&高柳廃寺碑
長栄寺&高柳廃寺跡碑

茨田寺は茨田郡の郡寺で、付近に郡衙がある政治交通の要衝と考えられます。

長栄寺境内には聖徳太子の弟である茨田親王塚があり、
付近からは火葬骨を納める古代の蔵骨器が出土しました。

このことから茨田王は茨田寺と大きな関わりをもった人物と目されます。

茨田屯倉マイマップ

茨田屯倉マイマップ

一体は淀川と古川に囲まれた茨田屯倉の中心地で,
現在も長栄寺周辺には用水路網が巡らされています。

茨田王が牛に乗って茨田屯倉の収穫具合を視察したとの伝承があります。
茨田屯倉は聖徳太子にとっても最重要となる経営基盤で、
実の弟を茨田氏の養子として送り込み収穫を確実にしたとも思えます。

長栄寺水路
長栄寺周辺の水路網

太子には三人の同母弟がおり、それぞれ来目皇子は来目氏、
殖栗皇子は殖栗氏、茨田王は茨田氏が資養しました。

茨田王は621年に聖徳太子が亡くなった後も、上宮王家の一員として
太子の長男の山背大兄を推古天皇の次期天皇とする為に尽力しました。

しかし643年に蘇我入鹿の襲撃で山背大兄王らとともに一族皆殺しにされました。

聖徳太子家系図