開口神社の参道⑥仁徳天皇陵(堺市・大仙町)に関する記事です。

百舌鳥古墳群は、堺市西部の4km平方に築かれた45基からなる古墳群で、
その中に日本第1位の規模の仁徳天皇陵(486m)、第3位の履中天皇陵(365m)があります。

仁徳天皇陵・履中天皇陵・反正天皇陵は主軸を北東に向けていますが、
近くまで海が迫っていた海を通過する船に太陽で光る古墳の威容を見せる為です。
巨大軍艦が一斉に航行しているように見えたのでしょう。

百舌古墳群鳥瞰図2
百舌鳥古墳群


仁徳天皇陵は阪堺電軌・御陵前駅の北東2kmにあります。
阪堺電軌の開業当時(1912)は最寄り駅で、JR百舌鳥駅ができたのはその17年後です。

<仁徳天皇陵>
形状     :前方後円墳
サイズ    :全長486m、後円部径250m、高さ36m
築造時期 :5世紀中期
埋葬施設 :竪穴式石室、長持形石棺
出土品   :埴輪、甲冑

仁徳天皇陵は考古学名を大仙陵古墳と称し、宮内庁からは百舌鳥耳原中陵に治定される
5世紀中旬に築造された、前方後円墳です。


仁徳天皇陵1
仁徳天皇陵(堺市)


仁徳天皇陵出土の埴輪は宮内庁所有の巫女埴輪(430年)が有名ですが、
陵拝所の南東1.3KMの百舌鳥梅町には埴輪窯跡があります。

堺は鉄砲の産地としても知られますが、
その原因は100基以上も築造された百舌鳥古墳群に起因します。
その土木工事には質の良い鋤や鍬が沢山必要で、それを造る鍛冶屋を堺に呼び集めたのです。

その鍛冶屋が代々堺で暮らし、刀鍛冶,船鍛冶,包丁鍛冶,鉄砲鍛冶などに分れました。

<仁徳天皇>
先代:父の応神天皇
次代:子の履中天皇
治世:397-427
別称:大雀命、大鷦鷯


仁徳天皇陵3
仁徳天皇の拝所(堺市大仙町)


アメリカのボストン美術館には、仁徳天皇陵古墳で発見されたと伝えられる
銅鏡(細線文獣帯鏡)、太刀(単鳳環頭太刀)、三環鈴などが所蔵されています。

三環鈴は馬につける飾りで、まるい輪に3つの鈴がついているので三環鈴といいます。

仁徳天皇陵遺物
銅鏡(細線文獣帯鏡)     三環鈴       太刀(単鳳環頭太刀)



応神天皇には異母兄弟の3皇子(大山守、大雀命、稚郎子)がいて皇位争いを起こします。
天皇は一番下の稚郎子を皇太子に選び、大山守には 山川林野の管掌を任せ
大雀命には 皇太子の補佐を命じました。


応神天皇が崩御すると大山守は同母兄の額田大中彦皇子と共謀して
倭の屯田と屯倉を掌握しようとしますが大雀命に阻止されます。

この事態により大山守は皇位を奪う決心をし、兵を挙げ宇治に向かいます。

しかし、大雀命の通報により事前に謀反を知った稚郎子は
渡し守を装い宇治川の渡河中の大山守の船を転覆、水死させます。


しかし大雀命と皇位を譲り合い、3年も皇位空白期間が続き世の中が乱れ、
結局、菟道稚郎子は大雀命に皇位を譲るために自殺することになります。



仁徳天皇家系図
仁徳天皇の家系図

仁徳天皇は難波高津宮で即位したとされ、難波堀江の付近と考えられています。


高津宮神社は平安時代の初めに、
勅命により難波高津宮の地に社殿を築いて仁徳天皇を祀ったのが創始です。

天正11年(1583年)、豊臣秀吉が大坂城を築城する際、
上町台地北端から2km南の現在地(中央区高津)へ遷座を余儀なくされました。

河内湖地図文字
上町台地地図(高津宮と難波堀江)

仁徳天皇は、難波高津宮の北に難波堀江を開削し、
河内湖の洪水を大阪湾に排水できるようにし河内国の農地を大幅に拡大しました。

瀬戸内海から難波堀江を通過して河内湖に入った船は、
大和川を経由して直接大和へ行くことも可能になりました。

難波堀江
難波堀江(大川)

難波堀江の中間の、砂州と砂州の間にできていた入り江にも
難波津と呼ばれる港湾施設が建設されました。

難波堀江は現在の大川のことで、大阪湾と河内湖を繋ぐ重要な運河として
国内の物流及び大陸からの使節往来の拠点になっていきました。

難波津には高床式倉庫を造り全国の屯倉から運ばれた物資を大量保管しました。

難波高津宮
難波津を造り倉庫を設置

また難波津の東、上町台地の先端からは
5世紀後半頃の16棟もの倉庫群の遺構が発掘され、1棟が法円坂に復元されています。


この高床式倉庫群が難波堀江を開削した、
仁徳天皇の皇居・難波高津宮に繋がるの遺構とも見られています。


高床倉庫
高津宮の高床式倉庫(中央区・法円坂)


更に仁徳天皇は河内湖に流入する淀川の洪水を安定化するため
淀川分流(古川)に20kmに及ぶ茨田堤を築きました。

難波堀江と茨田堤の成果との相乗効果で、
泥地だった湿原は農耕地帯となり、茨田屯倉が置かれるようになります。

「宮北の郊原を堀りて、南の水を引きて以て茨田堤を築く」(日本書紀)
~高津宮の北の野原を掘って、大和川の水を大阪湾に流す。これを難波堀江という。
 また、淀川の泥を防ぐために茨田堤を築造した~


太間茨田堤記念碑 (2)
茨田堤碑(寝屋川市・太間町)

茨田堤の築造には二か所の難所があり、寝屋川市の絶間・太間(たいま)の地名となりました。
南の難所は武蔵国の強頸が人柱にされ、
北の難所は茨田蓮衫子が指命されましたが機知をもって人柱にならずにすみました。

門真市の堤根神社の境内には、堤の跡がわずかに残り
古川に沿った住宅地の中の細い道も茨田堤の跡と言われています。

堤根7
堤根神社に残る茨田堤 (門真市・大和田駅付近)

難波高津宮での仁徳の治世は水との葛藤の歴史でもあったと言えます。
仁徳14年には、猪甘津(いかいづ)の橋を架けたとありますが
最古の橋で小橋、鶴が橋とも呼ばれました。
小橋、鶴橋、東小橋といった地名が大阪市内に今も残ります。


つるのはし2
つるのはし跡碑(生野区・桃谷)


仁徳天皇は戦い、開拓の話だけではなく女性との楽しいエピソードも多く伝えられています。

応神天皇が髪長媛の美懇の噂を聞きつけ,遠く日向国から宮中に呼び出しました。
ところが子の大雀命が髪長媛に一目惚れしてしまい、父に懇願し自分の妃にします。
大草香皇子と草香幡梭姫皇女を授かったとされます。


仁徳天皇は吉備から黒姫を宮中に呼び寄せますが,磐之媛皇后のいじめが酷く、
生れ故郷へ,逃げ帰ってしまいます。
皇后には淡路島に狩りに出かけると嘘をついて,
黒姫に会う為に,吉備の国へ度々出かけたとされます。


仁徳天皇は磐之媛皇后が留守の時、
仁徳天皇は菟道稚郎子の実の妹の八田皇女を難波高津宮に呼び、娶ってしまいます。
これを知った磐之媛は激怒して山背筒城宮に隠れ、天皇とは永遠の別れとなってしまいます。

桑津天神社の拝殿
髪長媛が住んだ桑津八幡宮(桑津天神社)


高台之頒碑(たかきやのしょうひ)2
人家から上がる炊煙を見る仁徳天皇


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