龍田大社の参道⑱藤ノ木古墳(生駒郡・斑鳩町・法隆寺)に関する記事です。

藤ノ木古墳はJR大和路線・法隆寺駅の北北西1.9KM
法隆寺門前の西400Mにある古墳時代後期の円墳です。

竜田マイマップ

竜田マイマップ

豪華な副葬品が沢山発見されたことで知られます。

江戸時代の灯明皿も見つかり、
近世まで、この石室内で被葬者に対する供養が行われていたことが判りました。

藤ノ木古墳の前には法隆寺の塔頭の一つでもある宝積寺があり
藤ノ木古墳を守り続けてきたため盗賊も入れなかったのです。

藤ノ木古墳1
藤ノ木古墳1

聖徳太子は推古天皇9年(601)に斑鳩宮を造営し始めますが、
藤ノ木古墳はその直前に作られた墳墓です。

未盗掘の横穴式石室で、1つの家形石棺に成人男性2人が合葬されていました。
北側に17~25歳の若い男性、南側は、壮年期男性と推測されています。

<藤ノ木古墳>
形状  :円墳
サイズ :径50M、高さ9M
築造時期:576~600年
出土品 :金銅製冠・履・馬具、飾り大刀・剣など
被葬者説1:崇峻天皇&穴穂部皇子
被葬者説2:穴穂部皇子&宅部皇子

藤ノ木古墳2
藤ノ木古墳2

超豪華な副葬品、見事な馬具類、金銅製履、金銅製冠、飾り剣、1万ものガラス玉・・、

そして聖徳太子も知っているはずの二人の謎の男性被葬者、
一時は日本中の話題を席巻しました藤ノ木古墳です。

横穴式石室
横穴式石室

被葬者説は幾つかありますが、
蘇我馬子に殺された穴穂部皇子、宅部皇子、崇峻天皇が絡んでいます。

587年 馬子が穴穂部皇子&宅部皇子を殺害し、崇峻が即位
     (同年に物部守屋滅亡)
592年  馬子が傀儡に不満を持つ崇峻天皇を殺害
    (翌年に推古天皇即位)

崇峻天皇家系図


被葬者説1:穴穂部皇子と宅部皇子
皇位を望む穴穂部皇子とその友人の宅部皇子は神仏戦争(丁未の乱)における守屋派で、
神仏戦争が勃発する1月前に蘇我馬子に殺されます。
この二人が被葬者とする説です。

被葬者説2:崇峻天皇と穴穂部皇子
元々穴穂部皇子の陵墓であった所に5年後に同母弟の崇峻天皇が合葬されたとする説です。
兄弟2人とも馬子に暗殺されたことになります。

横穴式石室と大型石棺
家型石棺

玄室の隅に40個の須恵器がありこの須恵器の制作時期から、
古墳の築造時期は6世紀の第4四半期(576~600)と推定されました。

土器
須恵器

金銅製履は儀式などで椅子にすわった状況で装着していたと考えられています。


金銅製履

金銅製履 

大刀と剣は、いずれも金銅装の豪華な外装を伴うものです。


飾り剣
飾り剣